傲慢という言葉よりも

中学以来の友達と話をしていた。その人のパートナーが図書館で絵本を読む研修をしているという。その人の課題図書の一つに「子どもに残酷な物語を読み聞かせていいのか」みたいなお題の本があった。

絵本を読む子どもの読み方を決めつけるこの傲慢さに気がつくオトナは少ない。コドモの感じる世界を、オトナが決めつけるのは、しかしながら、フツウだ。「この子の幸せのために」という言葉を私は聞いて育ってきた。いやいや。私は私の感じ方があるから。

さて、ここまで書いて、ふと、気がついた「違和感」がある。言葉の一つを使った後に、相手に与える影響もあれば、自分に与える影響もあるのだ。私は、私の中に違和感が産まれたことに気がついた。

傲慢という言葉は、他の人に使えば攻撃になる。非難する声になってしまう。ただ、私が今まで生きてきた時間の中で、コノような誰かを攻撃する言葉をたくさん覚えてきてしまったのだ。語彙は大切だ。人を攻撃する言葉を避け、生きるのに役立つ言葉をオトナが使っていくことが、コドモにとって一番大切なことだとおもう。言葉だけでなく、ものの言い方、態度、性格と呼ばれるものも、だれもが生きながら、学んでいく。人を傷つけるやりかたで暮らしていれば、コドモはそれを真似てしまうかもしれない。コドモは、ちゃんとみているのだ!

だからごうまんという言葉を使わずに、二字熟語、漢字に頼らずに、ちゃんと伝えるために、もっと身体的な、日常的な言葉を、ちゃんとした言い方で、話すといい。傲慢さに気がつく=「コドモの感じていることを決めつけていること」に気がつくと言い換えるのだ。抽象的な言葉に振り回されてはいけない。

傲慢という言葉を使うとき、私の心に少なからず怒りが生まれたことに私は気がついた。そしてそのとき、私も傲慢になっている。言葉は、感情を生み出す。ちゃんと選んで、使えるようになろうと、私も気をつけている。言い方、言葉の選び方、これが自然にできる人こそ、私は先生になってほしいとおもう。だから、保育所をつくりたい!

池田・ロバートソン会談

日本の教育は2%のエリートをつくることをアメリカと約束しているらしいということを耳にした。今更聞いて驚かないが、残りの98%は不良品ということだろうか?

ちゃんと感じるための作法

久しぶりに、小学生以来に、お絵かき教室の先生にあってきた。展覧会をしている公園のカフェにいく。絵は、見る場所で変わる。見方とはそんなものだ。近くでみるよりも、遠くで見た時のほうが、なにかこう、生き生きとしている。力が伝わる。感じるためには、それなりの体の状態、心の状態になることが大切。展示会の挨拶にこんなことが書かれていた。「ほぼ毎日、感動する場所で書く私、感動する自分でありたい」と。フシギだなと思えること、感じること、違和感はよくわからず曖昧なママ忘れられてしまうことが私には多い。夢のように。けど私が感じたことなのだ。頭をぐるぐる回す生活に慣れてしまったオトナには、感じたことをちゃんと感じるための「型」があってもいいのかもしれない。それが音楽であったり、お絵かきであったり、おしゃべりなのだろう。感じていることをちゃんと感じる時間を、私は大切にしてこれただろうか。

忙しい日常の世界、驚きや感動、発見を見て見ぬふりせず、コドモのように、時間をかけて、関わりあおう。と私はおもう。じゃないと自分の心の動きも、姿にも、気がつけなくなってしまう!

山に登る

大学時代に、教授と仲良くなって山登りをしていた時がある。その時の話。「どこかの登山ツアーの人が、天候が悪くて引き返そうとしたんだけど、ツアー客がどうしても行きたいっていうから行ったら遭難したんだよ」と。「この大学に入りたい」とか「この高校に入りたい」という気持ちで来るのがいいが、受験というものがどういうものか、高校を選ぶ、大学を選ぶということがどういうことか、まず話をするのはいかがだろうか。遭難したら、大変だ。

大変なことばかり目につく世の中だから、落ち着いて、心のまにまに、暮らせることがどれだけ幸せか、私も最近、うすうす感じてきたところでもある。

良問とはなにか。

良問があるとしよう。その問題が良問になるかならないかは問題を解く人によって変わる。「この問題はいい問題だね」といえる受験生がいるだろうか?センター試験の問題で良問はあるだろうか。良問に出会えるのは、ある程度「偏差値」というものが高い学校だと思う。もしくは看護学校とか、特徴ある問題を出す学校。いい人と出会うことと同じように、良問に出会うためには良問に出会えたときに良問だと気がつける生き方、勉強をしたらいい。そのためには基礎のときからちゃんと、良問に出会える勉強をしなくてはとおもう。東大で「三角関数の定義」を問う問題がでてきて世間を騒がせた。ほとんどの受験生が解けなかった問題だと聞いている。行きたい学校によって、解きたい問題に応じて、勉強の仕方を変えなくてはいけない、なんとも不便な世の中になったとおもう。

「君たちはどう生きるか」

電車の広告で、250万部突破と宣伝されていた。「よい本」だから売れるのか。「売れている」から「売れる」のかわからない。「みんなみてるんなら私も見よう、じゃないとみんなの会話についていけないわ」と思う人もいるだろう。私は「違和感」を感じるからこんなことも記事にしてしまう。予備校・塾業界には合格実績というものがある。いや問題は、本の読み手が其の本を読む準備ができているか、と同じように、その塾のやり方にその子があっているかどうかだ。「いやこの塾は合格実績がすごいからわたしも」というのは、見当違いになることがある。本当に目的がしっかりしているなら、手段は選ぶこと。ちゃんとみること。宣伝に頼らないで、自分の反応を、其の場にいって、感じたことに正直になることだろう。とおもう。

体は忘れない。


『The Key Muscles of Yoga: Your Guide to Functional Anatomy in Yoga』

体はしみついた癖をなかなか手放せない。声の研究をしていたとき、「Right to speak」という本を読んだ。その時に「人はほとんどが、神経に染み付いた緊張、こわばりのせいでその人の本当の声を出せずにいる。」と書いてあった。声だけではない。こわばった筋肉は肩こりになる。腹痛、頭痛は「違和感」からあなたへのメッセージだ。声は?人は気が付きにくい。表情、反応、いろいろな心が声の中にでてくる。姿勢の中に現れていると私はおもっている。

肩が凝った、というのでマッサージしてもらおう。けど肩がこる習慣がそのまま残ると、また肩がこる。けどマッサージを受けると、緊張がほぐれた体が一時的に「まだほぐれていたころ」を思い出す。すると心も落ち着く。気持ちが良くなる。こうしたふとした、ときほぐれたときにこそ、「ちゃんと自分の中にあるものを感じる、素直に、感情をだす」話すことをしてみたいとおもえる。夜、オフロに入った後、本当にぼーっうっと、「今、私は何をみて、何を感じてる?私は、なにか、言っている?」と。違和感があれば、感じておいたほうがいい。もしかしたら、ただの違和感が、モンスターになってあなたを病気にしたり、暴力的な人間にしてしまうかもしれない。

歌を歌おう。音楽をやろう。声を自由に使おう。表情を、そのままの姿を出せる場所、時間がある人は、幸せだ。そういう場所、時間は、とても大切なもので、守るに値すると私は感じる。

違和感と付き合うために

コドモが学ぶのはなんだろう。勉強、勉強以前に、暮らしながら、オトナに囲まれながら、コドモ同士で学ぶこと。
生きるうえで大切なことは、自分に責任をもつことだとおもう。自分のしたこと、考えたこと、思っていること、感じていることに、自分がどう反応するか、他人はそれで何をおもうか。人は誰かに迷惑をかけながら生きている。それでも自分に責任をもって生きるとは、不器用な人にはムズカシイ。私がそうだ。

私達は暮らしの中でいろいろな「違和感」に出くわす。私がよく感じる「違和感」は「それ、ちがうんじゃない?」ということだ。例えば「オトナ都合の保育・教育」といったこと。その気持に、オモイに自分がどう反応したらいいか。保育園に見学に行くたびに、実践を目の当たりにして、私がついついオトナ都合の、自分都合でコドモと関わりがちだ、反応しがちだと気がついて恥ずかしくなる。私はわたし自身に、ちゃんと向き合っているだろうか。私自身を焦らせたり、説き伏せたりしていないだろうか。向き合っているだろうか。

「誰かのために生きる」と言っても、結局は「自分のため」になる言葉のあやふやさ。この世界は人間にとって、合理的な、合意された世界に暮らしている私達にとって常に矛盾を、汚さを、割り切れなさを含んでいる。曖昧だ。だからはっきりと世界で怒っていることを、ちゃんとみることでしか其の曖昧さの中を生きることはムズカシイだろう。不安になってしまう。選択肢にあふれているこの世界で、自分はどう生きたらいい?

かつて韓国で作曲をしているとき、私はたまに俳優の役を振られたのだが、演技が下手だと他の人に役をとられてしまう。とられるというより、私に役は回ってこない。私はいなくてもいい、他の人がいる、ただソレだけのことが悲しかった。劇団は厳しかった。心が落ち着かないとき、よく私は「利用されているんだ」と思ってしまった。自分がその劇団にいて、自分の役を、自分の守るべき私の責任を果たすことに心が向いていなかったのだ。他の誰かが舞台に立って俳優をすることに一生懸命になっているように、私は私の仕事、音楽の役を果たせばよかった。あれやこれやと自分をひろげて、本当に見てほしい私の姿を自分でも見過ごしていた。あれこれと、「分」を超えて暮らしていた。よく私は「分」を超える。他の人の領域、他の人が大切にしているものを行為によって、簡単に傷つけてしまっていた。

作曲、音響という私の役割と真っ当して、守る。私は私に対して、その役を守る責任がある。ここからがムズカシイ。私が私の責任を真っ当するには、他の人とかかわらなくてはいけない。理解不能な、他者との関わり。人に認めてもらうこと。技術はもちろんだが、一人で舞台をつくるのではない。みんなで舞台をつくる。責任を果たすために「違和感」を持ち続ける。「いやそれちがうんじゃない?」とおもうことでも、自分の本意を果たすために、自分の音楽を認めてもらうために、使ってもらうために、話しをしたり、食事を食べたり。相手に合わせて暮らすことも「必要」だ。「この人とは価値観が違う」からといって、遠ざけては目的が果たせないことがほとんどだ。「目的のために手段を選ぶ」という言葉を聞いたのは高校生の時だった。今やっとその感覚がわかったようにおもえる。「わたしはこうだ」ということを曲げる必要はない。隠す必要もない。ただ、他の人も「わたしはこうだ」ということを曲げないし、態度や行動にでるものだ。たくさんの「わたし」の中で立ち振る舞わなくてはいけない。

ソレを葛藤といってもいいのだろうか。葛藤の中で、誰かを説き伏せたり、合理的になったり、誰かを支配しようとする癖を、私は学んできた。私の中の私を説き伏せたり、抑え込んで支配してきた。自分に対する関係が、他人に対する関係になる。
だから私はいつもオトナとケンカをしてきた。大切なものを守れず、責任も果たせなかった。どうしたら私は成長できるだろう?幸いにも私には「あなたは間違っている」と言ってくれた人がいた。幼児教育・保育に私の目を向かせてくれた人だ。私はこの道を信じている。この道のほうが、いいと感じているからだ。

「なにかちがう」「いやだ」「そうじゃない」と感じるときに、はっきりと自分の気持を見てみよう。正しいとか間違っているではなくて、自分の姿が、どんなに幼くても、どんなに見にくくても、揺れ動いている自分の心を感じられる人は、幸せだとおもう。「ちゃんと感じる」「ちゃんと見る」「ちゃんと聞く」ということが実は、私達現代人には不慣れなもので、困っているのだが。コドモのときに学べる一番大切なことだとおもう。目的、責任を自分に対して果たすために、自分の気持ちを守るために、大切な人を守るために、付き合わなくてはならない「違和感」を感じたとき、それを学ぶチャンスだ。

コドモに何かが起きる。なんでそうなったのかなって気になったら、あとで、例えばこう聞いてみよう「どうしたかったの?」きっと応えてくれる。多分、ムズカシイ言葉なんかじゃなくて、短い言葉で気持ちを込めて話してくれるだろう。その気持は「わがまま」かもしれない。文字通り、ありのままという意味ならば。ありのままの姿をみとめてくれる人がいたからこそ、私自身もありのままの他人を見ようとする気持ちが生まれる。私はまだコドモなのだとおもう。

コドモはもっとオトナに怒ってもいい。

HPをつくりながら、いろいろな塾の「文句」を見た。

どこそこ高校合格!
何日で学校の成績がアップ!
苦手だった英語が得意科目に!

世間体、親の心に訴える文句かもしれないが、その文句に引っかかる心は虚栄心に近い。
親のプライドに近い。そしてコドモがそれを感じているとしたら、その子は変なプライドをもって育てられてきた子だ。
それがワルイわけではないが、そのプライドのせいで、他の人との関係性をつくれなくなる、調節ができなくなるコドモやオトナがいる。

言葉は時として人に呪いをかける。
オトナは塾に来てほしいから「文句」にしているだけなのだが、成績が上がることはいいことだというメッセージをコドモは受け取ってしまうかもしれない。
そしてどの塾もそうなのだから、成績がワルイコトはワルイコトなのだと思ってしまう。

大切なことはそんなことじゃないでしょう。
学校の先生もコドモを焦らせる。「最近成績が悪くて」などという学校の先生がいたら、気をつけたほうがいい。成績というものは相対評価で、必ず誰かは成績がワルイのだ。そしてその評価方法を作っているのは学校だ。だから正確には「私たちはあなたは学業不振であるというレッテルをつけました」という意味になる。

こういった当たり前のことに気がついて、違和感を感じている人は、私はフツウだとおもう。
コドモはもっとオトナに怒ってもいい。どうして、ホントウのことを言ってくれないのかと。
コドモはオトナに、呆れているのではないだろうかと、私はひそかにおもっている。

無邪気なオトナ


『魂の殺人―親は子どもに何をしたか』A.ミラー

言葉は、言葉を発するココロは一言で人を生かしもするし、殺しもする。
殺す例が多い。塾の先生がただ「君には無理だ」ということ。その一言の言い方によってはもちろん、人を生かすことおもあるが、この一言でその子が死ぬか、生きるか、どちらにも行く可能性があるという言葉の重さを知っているオトナが教育の現場にはいない。学校の先生は筋を通せとか、詭弁を用いて雄弁に語るから言葉を教わることはない。

面白い話は、精神病の患者に「死のうと思います」と言われて「死ねば?」と言って、結局その患者は生きた。ただ医者の一言の言い方、それこそ重みがあったのだろう。その患者が感じているコト、その場で起きているココロの動きに合わせたのかもしれない。言葉の技術はプログラム不可能だ。ペーパーテストなどで測れるものでもない。どれだけ言葉が疎かにされてきたか。

本のタイトルには親とあるが、親が生きている時代そのものが、コドモの魂を殺している。コドモの魂の発達を阻害する。育てつつ、バランスをとるような、絶対に切り離せない自分の一部を無視して、抑圧させて、つながりをないものにして、ココロの一部、魂の一部だけが育てられたアンバランスさが、問題を引き起こす。勿論完璧な人はいない。お互いが部分を担いながら、ただ自分自身が苦手な部分をどう生きるか、そういった工夫、本人にとっていちばん大切な課題に気が付かずに入試問題を解くなどナンセンスだ。

親が育てなくてもいい。親は親で役割がある。全部やらなくてもいい。
ちゃんと向き合ってくれて、真剣で、感情を、言葉を、ココロを打ち合えるオトナと出会えたコドモは幸せだ。