勉強とは何か

勉強とは何か、何度か記事を書いて来た。

最近、勉強というのは、本当にただのおもしろくもなんともない、学校に行くために根性見せるためのものかもしれないとおもいはじめた。
関所を通るために頑張って山伏の扮装をした義経一行のような準備をするのが受験。
バレないように!

現代の社会のこと、制度、現実、しくみ、どれも受験勉強では学べない。
受験は勉強する能力をみるためにあって、勉強したこと自体は正直、受験が終わったら使わない。(もちろん、技術者たちの多くは使う。英語も使う人は使う)。
「うちはこんな関所だよ。君はどうやって通過して行くかい?」と聞かれているわけだ。

自分の力を「受験勉強」に使う能力をみるのが受験。
力の使い方を学ぶのが、受験勉強。

そうおもったら、肩の力を抜いて、課題課題に終われなくてもいいんだと、おもえないだろうか。

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高岡市のコミュニティハウス、ひとのま訪問

ひとのま、という場所に行ってきた。
高岡市で誰でも行ける、そのままいける、ありのままでいられる場所。
その場にいる小さい子から大人までの雰囲気を感じて、ああ、こういう場所が、街の中にもあるんだなぁとおもった。

こういう場所がどうしてできるんだろう。
どうやって・・・

オーナーの宮田さんの話を聞くと、「誰かを助けるとか、誰かのためとか、そういう目線ではなくて、目の前にいる人をみていたらこういう場所をつくろうかとおもった」といった話。

大手の教育企業に勤めながら「目の前で悩んでいる、勉強じゃないもので困っている子をみながら、業務として子供達と接するのと、どっちがやりたいのかなっとおおって会社を辞めて塾を始めた。誰でもきていいよというスタンスでやっているからいろんな人が来た」それが大きくなって「ひとのま」ができたという。

原子も同じような気がする。
何事もなく、とにかくそのままの姿で存在しているだけで、場ができて、いろんなひとと反応していく。
「いや、俺は塩素と結合するから」といっていると生まれるものも生まれない。

やわらかく、確率の森の中で、不確定の中で委ねていくことで、生まれるときは生まれ、なくなるときはなくなる。
「今年になって、人に助けてもらうようにお願いしはじめたんです。そしたら、みんな助けてくれることがわかった。きちんと話して、思いを伝えて・・・」それでひとのまは続いている。無理をしてひとのまを支えようとも思わない、もしそれでなくなれば、それはそれ。こういう場所を守る人、という意識もなく、管理するとかも考えずに、ごくごく今はそれがあたりまえのようにひとのまは存在している。

この日は、晩ごはんをみんなで食べる日だった。ひとのまに来ている人の誰かが「仕入れた」とんかつをあたためて、キャベツを切って食べた。いろんなことが起きる。昔、私が無人島キャンプで感じていたような感覚。決められたことよりも、その日突然起きる出来事の新鮮さ。何かが起きるときにそれをちゃんと感じられるゆるさ、余裕、あそびがある。

オトノネはどこか、気を張って「子どもを守る」と言って来たきらいがある。
塾で苦しむ生徒をたくさんみてきたから。けど・・・
実は、高校生のアンケート結果をみながら、みんなしっかりしてるじゃないか。オトノネができることってなんなんだろう。。。
と思っていたところで、ああ、なんだか力が抜けた。

力が抜けたところで、ひとのまに行って、宮田さんと話して、また力が抜けた。

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