大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。

オトノネのHP,ブログの記事を書き続けて、いろんな人に出会うことが増えた。
そこで直接お茶のいっぱいをしながら、いろんな話をして、いろんな言葉に、心に出会う機会が増えた。

ありがたいことだ。

それで最近知りあった方(実は元教員)からこんな記事を紹介してもらった。
その方がネットサーフィンをしながら見つけたブログの記事をコピペ。

学校は歴史的に、刑務所と軍隊を混ぜ合わせているということと合間って、興味深かった。
僕自身が、やましくも、先生として学校で沈黙していた気がする。(いや、もう無理やし。学校の病気を一人でなんとかするなんて、無理やし!という学習性無気力

ありがとうございます!

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 日深夜、NHKドキュメンタリーを見た。

この番組は何度も再放送されていて、
僕自身も2度は見ている。

先の戦争で海軍が行った「特攻」に関するもので、
生き残りの元将校たちが「特攻」を検証している。

その中で、「やましい沈黙」という表現があった。

その時の海軍の空気と時節の流れが、
あきらかに間違っているという意見を封じ込めたというものだ。

これは今の時代でもあることだよね。

会社や仲間や家庭でも
「それは間違っている」
「そんなことはすべきじゃない」
なんてとても言えない場合があるもの。

なんとなく「違うなぁ」と思っていても流される。
流されている自分も、
そのことに加担していることを知らない。

気付いた時にはもう遅い。
すっかり自分の手も汚れていた。

なぁ~~んちゃって。
手が汚れることなんて、君たちがするわけないよ。

ただこの「やましい沈黙」には気をつけたい。
言うべきことが言えないような世の中にはしたくない。

現実に今の時代は「やましい沈黙」が溢れている気がする。

君たちをとりまく世界にもないですか?
「やましい沈黙」が。

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学校で子どもがうまくいっていないとき、お母さんはきちんと話をしてくるといい。
全部。
学校にできることもあるだろう。
できないこともあるだろう。
だって先生は忙しすぎる。
そして学校自体が、統合により大規模になりつつあり、ひとりひとりに対応できなくなる。
(だから学校のしくみそのものを変えるとか、工夫することが大切だとおもうのだが)

僕は心から、学校の先生と話をしてみることができなかった(言ってもなにもかわらないと諦めていた)。
今でも怖い。(雇われている、変なことをいったら次、働けないかもしれないとおもう)

けど昔よりかは、学校の先生の状況や学校のしくみが見えるようになってきたようにおもう。
僕の成長はゆっくりでもいい。

けど子どもは、どんどん成長していく。
無理やり「学校」で頑張らせてしまう以外の道が、もっとたくさんできたらいいなとおもう。
敎育機会確保法

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SNSをみれば、いろんな人の声が聞ける時代になった。
顔を合わせたらできないような話が、インターネットの中では飛び交っている。
喋っている人は喋っている。

これだけみんなが喋っていても、学校の先生は忙しすぎて、耳を傾けられないほど、疲れているのだろう。(もちろん、傾けてくれる先生もいるとは
おもいますが)

心が大事。

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計画的な不登校=デモをして世界の注目を集めさせた子がいる。
表現の自由が、日本にはある。
不自由な自由しか育てられないなら、それはちょつと、何かが足りないと感じはしないだろうか。

グレタ・トゥーンベリさん(スウェーデン)によるCOP24(気候変動枠組条約第24回締約国会議)でのスピーチ(2018年12月12日)

真実を語れない未熟なみなさんが、その負担を子どもに課しているのです

学校も疲れてるしね。疲れてるから語れないんだよ!と考えることもできる。
けどそれで子どもが大人の「未熟さ」の責任を負わなきゃいけない道理はない。

子どもよ賢くあれ。

昔にも、同じようなスピーチがあった。
それでも世界は、またもう一周、回ろうとしている。
少しは違うところを、回っているのかな?

なかなか学校は変わらない。
大人はなかなか動かない。
動かない大人は動かない。
動くか動かないか。
見極めて、賢く、行動してみたら、どうかとおもう。

賢く行動できるように、自分の身を守れるように、いきいきと種を育てられるように、小学校に入るまでを大切にしたい。

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学校教育の「宿題・定期テスト・一斉授業」より家庭教育の「自立・個別化・愛情」を大切にしても大丈夫な法的根拠

宿題をやる義務はない。
学校から出された宿題はしなくてもいい。

小学生であっても中学生であっても高校生であっても。

なぜ、学校は課題をやらせるのか?
この人、当たり前のことをちゃんといってくれていることに今気がついた。。。
っていうかこの幻冬社のGOLD ONLINE 本当にGOLDだ!すごい気合の入った連載記事!読んでみてください。
麹町中学校の校長が「宿題全廃」を決めた理由とは?

僕とお友達になれそうだ。

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家では家で、教えることがある。
家を学校から離し、自立した学びの場にするといい。

それができずに、高校生になっても学校の課題をやり続ける子がいる。
それは「労働者」の姿であって、「学習者」の姿には、僕には見えない。

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教育基本法

(学校教育)
第六条 法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。

(家庭教育)
第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。

(社会教育)
第十二条 個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育の振興に努めなければならない。

(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)
第十三条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

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父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するという言葉がある。
子どもの教育については、お父さんお母さんが、学校よりも、何よりも、誰よりも、責任がある。という文言だ。

お父さん、お母さん、学校に子どもの教育を任せていませんか?
学校に行かせて「子どもの自由だ」と言って責任を丸投げしていませんか。
いやいや、、、子どもは自立した一人の人間、勝手に育っていくものだ、と考えることもできる。もちろんです!
ただその考え方一つが、その子の世界を変えていくという可能性が大いにある、ということは本当だとおもいます。

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ちなみに「社会教育」には個別的な学習、塾も含まれると解釈していいとおもう。

相互の連携及び協力という言葉がある。
相互であって、一方的に家庭教育が学校教育に「従う」とは書いていない。
だから家庭は、家庭でしっかりとした教育方針を立てて、学校から独立した教育機関になることをおすすめしたい。
「宿題はまだ終わってないの!テストはどうだったの!」というだけでは、家庭が学校の下部組織になってしまう。
テストの点数が悪いということは、学校が教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。という文言を守っていないわけで、学校で組織的に行われる体系的な教育が子どもの役に立っていないという意味で、「自立・個別化」する家庭教育にシフトし、学校での評価を気にせずに、父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するという文言を法的根拠として社会教育(学習塾やその他の社会資源)を使うといいかもしれない。

学校が悪いわけではない。
学校はもう人もお金もないし、限界にきているだけだ。そういう状況に学校はある。

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費を概算して気が付いたこと。

続・富山県は教育県ではない。各都道府県の「学校基本調査」からわかること1

続・富山県は教育県ではない。各都道府県の「学校基本調査」からわかること2

学校の限界で子どもの限界を定められていい気落ちがするお父さんお母さんはいないだろう。
だからこそ、まずはお父さんお母さんが学校から自立して考え、教育することで大切にできる子どもの命がある。

お子さんが小学校、中学校のとき、お父さんお母さんが学校から自立して子どもと関わることで、お子さんは高校にいっても、社会に出ても、自立して組織から離れて「自由に」生きることができると考えて自然ではないでしょうか。

学校・家庭・塾の相互連携及び協力は法律で「努めるもの」とされている。
これは「しなくてもいいけど、できればしてね」という意味だ。(「1日に学年×10+10分」の家庭学習を強く要請しているのは、学校教育が家庭教育を下部組織とおもっていると考えてよいのだが、これは法律違反ではない)

だから学校は相互連携をする気がないのだろうか。
学校は宿題・課題によって、課題をやらせる雰囲気によって家庭教育や社会教育を混乱させてはいないか。
お父さんお母さんが子どもの心を学校教育から守ることで、大切にできる命はないだろうか。

学校から自立する、心が大事。

大丈夫ですよ。
法律で守られています。

けど法律だけで生きていないのが人間ですね。

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難関大学を目指すあなたへのメッセージ

一流の学習者になってください。

課題の海で溺れている、課題の森で迷っているうちは、一流にはなれませんよ。
(実は課題の海で溺れながら、第一志望校にはいけなかったが難関大学に合格した子はいます。課題をやっていなかったら、第一志望校に入っていたことでしょう。まぁ今その子は笑っているからいいでしょう。そういう子もいます。いろいろですから)

目の前に現れる矢継ぎ早の定期テスト、やたらうけさせられる意味不明な進研模試、参加任意と言って強制される土曜模試、与えられた課題をこなすことに心を砕くのは一流の「労働者」であっても、一流の「学習者」ではありませんよ。

学校には学校の都合があります。
一流は、一流なりに都合をつけて生きています。

一流の大学は、「労働者」は求めていません。

AO入試を探してみてください。
あなたは大学に「求められいる」人間ですか?

一流の学習者になってください。
日々、自分にフィードバックして、改善を積み重ね、全力を尽くしてみてください。

「あれ?うまくいかない」とおもってもなお、「労働者」であり続けるなら、そのまま試験に挑んでみてください。

もしかしたら、合格するかもしれません。
大学が求めている人材ではないと、僕はおもうのですが。

「あれ?うまくいかない」とおもえないのも、大学受験の難しさ。
(僕も当時、うまくいっていなかったことに気がつきませんでした)
若さゆえか。

だから僕はオトノネをつくったんですけどね。

大学受験というものは、とてつもない、かけがえのない経験になります。
いろんな人と出会って、助けてもらいながら、突き進んで、早いとこ高校を卒業しましょう。
一番近くで見守ってくれている人へ、感謝の気持ちを抱きながら。

進んでいってほしいとおもいます。

世界で奇跡的に生まれたあなたの命を大事にしてほしいとおもいます。
しあわせを育てられるように。誰かの心をあたためられるように。

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小学生、中学生の心を学校から「守る」という愛で子どもの「命」を守ること。高校になった時に自立すること。自由に生きること。

「自由にさせたい」

ということが一つのキーワードになる。
ひとりひとりが自由に世界をつくっていけば、世の中はもっとおもしろくなるだろう。
では、

子どもに「自由に生きて欲しい」という祈りを届けるための、愛とは何か。

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さっき、ドジョウが2匹、死んだ。
正確に言えば蘇生しようとしているのか、死んでいこうとしているのかわからない。
とりあえず、フタをせずに「カルキも抜きたいし、水たっぷりにして泳がせたいし」ということで2匹が今、埃にまみれて瀕死。
奇跡的におとのねさんに食べられることを免れた命。
飼うつもりだった。
生存者は3名

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「自由にさせたい」
けれども、守らなくてはいけない。
何を?命を。

人間なら、僕はもっと別のものを大切にしてほしいと思っている。
心だ。

命、といってもいい。

その人が生まれて来て、燃やせるもの。
他の人にも与えられる炎。

で。

「自由」がうまく働かない場合がある。
自由は条件付きだ。
「みんなで一緒」で小学校・中学校を過ごした子どもたちが、高校になって、「みんなで一緒」になって、本気をだせずにいる。
「個別化」されるべき進路を「課題」に阻まれている。
3年間を学校で「みんなで一緒」のわけのわからない課題に耐え、終わる。
それがお父さんお母さんの望んだ「自由」の結果だろうか。

(学校変えるか、課題や定期テストを拒否するだけでいいのに…それは困難なのだろう)

それで、子どもは、「殺された」と言えないか。
お母さん、お父さんが「自由だ」といって子どもの大切な心を、命を殺していないか。
おとのねさんも「自由だ」といって子どもの心を殺してはいないか。

そこはおとのねさん、実にドライだ。
「もう育ってしまった。もう思春期を超えた。あとは、今あるものでやっていくしかない。もう高校生になったなら、痛みがなければ、変わらない」
発達課題を、思春期の意味を僕はそのように理解している。
入試が終わった後で、希望しない大学に入学した後で、大切なことに気がつけばいい。

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「自由」を大切にすることはいいことだとおもう。
ただそれで「自由」を発揮するチカラを育てられているか。
「自由」にすることで「不自由」になっていないか。

「教えてはいけないこと」と「教えるべきこと」をはっきりさせているか。

「みんな一緒」から子どもを守ることがお父さんお母さんの役割ではないのか。
学校で「みんな一緒」の価値観で育った心が「自由」を発揮する、「個性」を生かすチカラを発揮することができるだろうか。
障害にならないか。

学校という環境がつくる心から、子どもの命を守ることが大事ではないのか。
それほど学校の先生は、学校というシステムのなかで生き延びることに精一杯なことが多い。
(一部の先生が生徒の心に大きな負担をかけることも往往にしてある)

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もし本当に「自由」を、「その子らしさ」を育てるなら、学校から子どもの心を「守る」ような関わり合いをしなくてはいけないのではないか。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
それは学校から「自立」することも意味するだろうとおもう。

「先生、いろいろ大変だね。まぁ、私は私でやっていくよ」という目線。

心を圧迫してくるあらゆる言葉、振る舞い(時として脅迫や精神的苦痛といういじめに相当するものが公然と教育の名で行われることもある)から自立すること。僕がよくDVをDVだと思わないお母さんの話をするが、それの学校バージョンだ。毒親の支配から逃げられない子どもに例えてもいい。

小学校、中学校の発達の課題には学校からの「自立」がある。
だからこれを意識して就学以前から、低学年から関わりあうこと。
小学校になってからも、「自立」できるように子どもの心を守ること。

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テストの点数が悪くてもいいよ!とはいっていない。
学校という環境の中で、「その子」をみつけて、どうしたら「その子」が「その子」として自立できるか、かけがえのない命を燃やせるのか、他の誰かを照らす炎になるのか。見て、守ってあげることが大事だとおもう。(場合によっては、学校がいうことなど気にしなくていいと、言えるだろうか)

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子どもを「守る」ために課題をやらせ、テストの点数をあげさせようとするお父さんお母さんの心はわかる。
ドジョウを2匹、自由にして殺してしまった気持ちだ。

「自由」になるために「檻に入れる」のだ。

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勉強「させる」、習い事を「させる」のは悪いこととは限らない。
ただ発達の過程で刷り込まれた神経は残るということは知恵として知っておいて欲しいとおもう。

小さな子どもの「気を引き締める」「ケジメをつけさせる」のも同じだ。
その一挙手一投足が、子どもの心をつくる。神経を作り上げる。

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命を守るとはどういうことだろう。
僕は生まれて来た命にかける願いを、祈りを、言葉で、仕草で、振る舞いで子どもにかけたい。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
そして高校生になったときに、本当の自分を社会にプロデュースするという課題に、向き合えるように。
そのための基礎が「自立」する心であって、これはつねに自分という物差しで、自分の心で世界をみる行い(自分が自分のことを語るという単純なこと)の繰り返しで強められる。

小学校、中学校で「みんな一緒」の「定期テストに追われる」、「学校の先生が怖くて従う」、「友達の視線が気になる」神経を作り上げる学校の環境から子どもを守ることが、「自由」のために教えなくてはいけないことではないのだろうか。命を、殺さないために。

小学校、中学校で「死にに行く」ことを覚えた体は、高校になってから「個別化」を拒むだろう。「自立」することが難しくなるだろう。
身体は記憶する。
気持ちとか、精神論とか、正論は関係ない。
わかっちゃいるけど、、
先生に頭ごなしに否定されると体がすくんで、心の元気がなくなる。
身体は記憶する。
心理学の一般書のコーナーにいけば、すぐにでも手に入る真実だ。

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別に課題をしなくてもいい。
勉強しなくてもいい。
本気になれることさえあるなら。
それが個別化だ。

勉強ができなくても、しあわせを育てている人を、僕はたくさん知っている。
勉強ができても、しあわせそうではない人も、僕はたくさん知っている。

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自由にさせて、小学校・中学校で心をすり減らしていないだろうか。
「みんな一緒」を神経に、体に刷り込まれていないだろうか。
それは僕には、発達障害のようにもおもえる。「え?まだ学校から自立できていないの?」

子どもの命を殺していないだろうか。

知恵をもって、仕草をもって、愛のある言葉をもって、子どもと関わりたい。

(ブログの記事)
愛とはなにか?

そうして僕は、ドジョウを入れたボールにラップをかけた。

ボールの外から飛び出して「死ぬ」のは自由。
けどそれは、言い方を変えれば僕がラップをかけずに「殺した」ことにもなる。

小さな赤ん坊が、歩き始めた時、わけもわからず車道に出ようとするのを引き止めるように、学校から子どもを守ることも、命を守ることになるのではないかと、僕はおもっている。それほど学校は、生徒たちの心をすり減らしている。子どもたちは、笑いながら、「自由」であり続ける。

僕は子どもたちに、どんな祈りの言葉をかけよう。

小学校、中学校の発達の課題は学校からの「自立」と「個別化」だとおもう。
学校は利用するのであって、機会は「与えられている」のであって、「従わなければならない」法はない。

教育基本法 第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

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