キーワードを手に入れたら、どんどん出てくる新しい世界の人たち!

平川理恵
広島

と検索して、このページをみつけた。
広島県が目指す「主体的な学び」とは

このページの下にある「編集部おすすめの関連記事」がおもしろい。

「組織の中で我慢しなさい」という教育はもういらない
親の言うことばかり聞く子どもには危機感を持ったほうがいい
教育委員会の都合は最後に考えよう
社会に出たら、何もかも指示されるなんてことはない
「話を聞きなさい」なんて指導は本当は間違っている

変わってきている。
それでも変わらない学校もある。

今まで沈黙していた人が動き始めている。
きっかけをくれた人がいる。

お父さん、お母さん、自信を持って、新しい時代に子どもを送ってあげても大丈夫ですよ。
助けてくれる人が、たくさんいますよ。

ホリエモン、藤原和弘、その他(ごめんなさいたくさんいるから…)

新しい世界、新しい時代。
そこで思い出したこの本。
新世界

この本は、西野 亮廣という特殊な人間の目線で書かれているので自分の世界観と摩擦を起こすくらい度肝を抜かれる。
けど今までは想像もできないことが、世の中では起きている。起こりうるということを知るには、役に立つ本だとおもう。

FBやツイッターをみるだけでも、新しい世界観をもった人の記事に出会える時代になりました。
情報はあります!

オトノネひろげるシェアぼたん

高度経済成長期を夢見ながら産業革命(近代)の名残を残す化石のような教育を動かすもの。

公立高校はもう崩壊しているらしい。
元公立高校で働いていた先生の言葉だ。

13年(この数字の意味は何だっけ??)前は教員をやめるという選択肢など考えられなかった。
けど今は、若い人がどんどん、正規採用された後でも、辞めていく。
教員という仕事に魅力がない、つらい、先生が学校で子どもと関わることに喜びを感じられない時代。

この記事は数値として、その先生の「学校観」に一致する現実を僕らに見せているとおもう。

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと1

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと3

今、多くの人は近代的な思考で生きている。
簡単に言えばニュートン的な、絶対的な、運命論てきな、機械論的な、「ああすればこうなる」という世界観。
実際、そんな世界だ。
けれども今は量子力学の時代。不確定性、相対性、何をとっても「ん?」と疑問を投げずにはいられない時代。
トヨタも「終身雇用制は終わった」と宣言する時代。
「不安定」を生きる時代。

変わりゆく時代でなかなか変わろうとしない学校。
管理職は毎日、何かあると心の中でこう呟くそうだ「たのむ、俺が死ぬまで何も起こさないでくれ!」
何も起きずに定年すれば、天下りもできるし、退職金もバッチリ入るからだ。
政治の世界とかわらない人間らしい姿だ。

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教育は政治を変えようとはしていないとおもうのは僕だけだろうか。
政治が変わらないように教育しているかのようにおもう。
こんなページがありました。
18歳選挙権と「政治の生々しさ」を扱えない学校教育の限界

政治や宗教について、学校は何もしない。
「宗教や政治について喋る」ことがタブー視されている。
法律違反をしている。

教育基本法
(政治教育)
第十四条 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。
(宗教教育)
第十五条 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

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そんな化石のような学校で、東京か神奈川かどこかの公立の校長先生がいろいろ変えたというニュースが話題になった。
金沢でも西南部中学校がテストを廃止したとかなんとか。
麹町中学校の校長が「宿題」「担任制」「中間・期末テスト」を廃止した意外な理由

変わろうとしている先生もいる。

学校の外で、早々と新しい教育のカタチを模索する人もいる。

学校に合わない人は、新しい時代をつくっていく人たちだ。
オトノネは、課題や宿題に埋もれてしまった命が子気味よく深呼吸できる場所でありたいとおもう。

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追伸

金沢市(石川県?)では、行政が運営する「師範塾」という教員養成機関があり、退職した校長らが教鞭を振るっているらしい。
名前を聞いたらわかるように、むかーしむかしの「師範学校」時代を懐かしむ会であるという。

円満退職していく学校の先生をさらに雇用する制度をつくる意味がわかりません。

年金も、終身雇用もなくなる時代。
わけわからないからみんな「わかりやすく」昔ながらの受験勉強をするのかもしれません。

わけがわからない世界と「ちゃんと」向かい合うことは、遊びを通じて、子どものときに学んでいるとおもうのだが。

オトノネひろげるシェアぼたん

子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

託児所で学んだこと。

10ヶ月の子。

離乳食を口の中にスプーンで入れてもらった後に、指を口の中に入れる癖がある。
そこで保育士の先生。

指を口の中に入れる癖はよろしくない、それは癖になる。
ということで、「大丈夫、(食べ物はちゃんと)口の中に入っている(から指をいれなくてもいい)よ」と言って口に入れた指を手でどかす。
けどそれが何回も続くので、口に入れるスプーンをもっていく場所が悪いのか、という仮説を建てたその先生は、場所を変えて食べ物をあげて見た。
それでも、やっぱり指を入れる。ん?となって、また次の時に、どうして指を入れたがるのか、その先生は解明できるだろうか。

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子どもは小さい時、「泣いて勝とうとする」という。

泣いたら、何かしてもらえる、という癖をそのまま、2歳までもっていくと、いわゆる「魔の2歳」と呼ばれるのではないかと僕はおもっている。
泣くという行為(泣いたらなんとかしてくれる!)が、逃げ回ったり、手を出したりする行動(暴れたらなんとかしてくれる!)になるのではないか。

今度先生に聞いてみよう。。。

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小さい頃から濃い味に慣れてしまった子どもは、薄い味を食べられなくなる。
今時の小学生の給食で好まれるのは「ラーメンと唐揚げ」だという。仕事帰りのお父さんとおなじメニューじゃん。
いやいや、伝家の宝刀、カレーはもちろん。人気だそうです。(最近出会った栄養士さんの話)

どんな食生活をしているのか。
癖はなかなかなおらない。
いや、いつでも直せる。

直すための環境が揃えば。
自我が発達していれば。
自分で「あれ?」とおもうか、環境がそうさせるか。

だから離乳食のときに、食べ物を噛んで味わえるようになった時に、いろんな味を、歯ごたえを経験させることが大切だと、先生は言っていた。
その後、好き嫌いがでてきても、大人になってから、必ず、その味に、食材に、出会えるきっかけがある、とのことだ。

学校でも、いろんな先生に出会うだろう。
嫌いな食材を食べさせられることでまいってしまう子もいる。
今は、その子には、その食べ物は、人間関係は無理なのだ。

そんな人間関係を無理やり続けていたら、「無理な人間関係を続ける」癖ができるかもしれない。
家庭内暴力を受けてもDVだとおもわなくなるかもしれない。
ブラックな企業でも頑張って勤めるかもしれない(命を燃やすに値するブラック企業ならまだしも)

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「泣いて勝つ」というコミュニケーションの作戦を子どもはとろうとする。
乳児期に、離乳食の前までにそれを覚え、使い続けようとする。
けどいつまでもそれじゃダメだと、「教える」ことは大切だろう。

種を蒔こう。

「待たせる」こともあっていい。
ぜひ、待ってもらおう。
待って入ればちゃんと助けてもらえる、眼差しをくれる、暖かさをくれることを「教えて」あげよう。
待つことは、大切なメタスキルだ。発達の課題だ。

種を蒔こう。

待つという経験を、赤ちゃんの時からさせてみよう。
大丈夫だ、待たせても、死なないから。

たぶんそういうことなんじゃないか。

頭だけで考えてみれば、人見知りをするくらいになったら、十分、待たせてもいい気がする。
またはいはいができるようになったら、十分待たせてもいい気がする。

「魔の2歳児」が本当にあるかどうかわからないが(今度先生に聞いてみよう)、関わり方一つで、「教える」ことを意図することで、子どもは順序よく、無理なく発達していく。子どもという一つの宇宙が育っていくための、子どもというひとつの自然がシステムを作り出すための、必要な種を渡していく。そんなイメージだろうか。

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種を蒔いていく、蒔かれた種を育てていくはずの学校で、子どもの大地が、子どもの泉が、子どもの森がまるで「公害」のように汚染され、傷つけられていくことがある。もしくは、全く種がお世話されないか。子どもは泣くだろうか。暴れるだろうか。「学校に行きたくない」というだろうか。お父さんお母さんが子どものメッセージを受け取って、守ってあげたらどうなるだろう。習い事も同じ。「よかれ」とおもってやることが、子どもの自然をどんどん剥ぎ取ってしまっていないか。

とある英語教室を見学したときのこと。
小学3年生くらいだろうか。
お母さんが迎えに来るのを待っていた。
僕と遊んでいた。
お母さんがきた。
お母さんが来ないごっこをはじめた。
帰ったら、宿題を「やらなくちゃ」いけないらしい。

大好きなおかあさん、学校の成績じゃなくて、不確かな未来ではなくて、今目の前にいる子どもの心をみてあげていますか?

昔だったら、「おしん」の時代なら、小学生といえば、もう立派に仕事をして、働ける年齢。
大人が水をやり過ぎたり、日光を当て過ぎたりして種をダメにしてしまっていないか。
(そんなこといったら何をしていいかわからなくなってお母さんは不安になってしまうかもしれないが)

けど今の小学生は、、、学校以外に行き場がない子が多い。
学校は、この意味で、牢獄だ。
もっと子どもが子どもらしく、自然でいられる場所がたくさんできたらいいなぁ。

子どものための社会資源が足りない気がする。
子どもの自然を守り、小学校に上がる前に蒔かれた種が育つための環境が、整っていない。
そんな気がする。

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最近、安い納豆についているタレを使わずに、家にある醤油をかけて食べたら。
納豆がすっぱかった。
納豆の味は納豆のタレの味だったわけだ(それからちょっと高い「ちゃんとした」納豆を食べることにした)

安いものはいくらでも出回っている。
オトノネは、やっぱりちょっと高くていいとおもうがいかがだろうか。

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蒔かれ、育った命は燃える。
燃える命は、周りにある命を燃やす。
自然の中にある命は、お互いに照らしあい、燃やしあっている。

一方的に栄養を与え、培養し、育てる工場のような教育はオトノネがすることではない。
自然の中で、お互いに、共に育っていくイメージを、僕はもっている。僕は子どもからたくさん教えてもらっている。

体の大きさは違っていても、子どもには子どもの気持ちがあり、心があり、同じ人間であり、僕らの老後をたのしくしてくれる、頼もしい仲間なのだ。
生まれた時から持っている「天から与えられた才」という種がどんな花を咲かせるのか、どんな「自然」を作っていくのか、僕はたのしみでしようがない。

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朝顔、、いや、なんだっけ、あ、えっと、紫陽花!あじさい!

みんな遺伝子は同じだけど、土によって、環境によって、咲く花の色が違うという情報をいただきました。
そんな感じ。

『残酷すぎる成功法則』という本にも、書いてあることだ。
その子がタンポポか、ユリか。
育てることで、育て方を変えることで、花咲く種もある。
残酷すぎる成功法則

見事に花を咲かせたクシュラの話も読んで見てください。
個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々

教育とは個性化のプロセスのこと(ユリとタンポポとクシュラ)

オトノネひろげるシェアぼたん

小学校もサバイバルな件。

最近、オトノネに面談に来てくれた小学生。
「針時計が読めない」ということ。学校のプリントもできない。
算数自体が弱いという。

本人はあっけらかん!としている(見事!親指ピアノに興味もってくれたし)が、お母さんが心配している。
「スローラーナー」、ゆっくりその子のペースで学習するだけでわかるケースだと僕はおもった。
けど学校ではその子に合わせてくれない。違法です。が、仕方ない。それが現実。

学校でやらされている宿題、課題、プリントを見せてもらった。そして教科書も。
小学生にも毎日のように宿題(課題)が課されている。信じられない。
これだから、高校になってもみんな課題をやらなかったら不安になったり、定期テストに追われるのかな?宿題は「やらせない」方がいい。(勝手にやるならそれはそれで!)
そして「学年×10+10分」の家庭学習を「強くお願い」されているそうだ。
家庭は家庭で教育することがあるんですが。

そしてそのプリントのわかりにくいことといったら。。。
全て噛み砕いて、分析的に、誰にでもわかるように、導くという姿勢がみえるのはわかるが、あまりにも「観念的」すぎるという印象だ。
そして、「演習」が多すぎる。高校で「演習」ばかりさせて教えないのと同じ現象が、小学校でも起きているとわかった。

これ、困っている小学生、たくさんいるんじゃない?

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別のお父さんの話によると「ひらがなをなぞる宿題で、少しでもずれていたら、バツがついて返ってくる!」
意味わからん!

金沢の小学校でも同じことが起きているという。
え?何それ。1時間以上、神経をすり減らして、おもしろくもない、作業、「もし、ずれたら、もう一度やり直しをさせられる」というプレッシャーに耐える子ども。

学校の先生、休んでください。
今、その状態で、子どもに何かしても、いいことが起きる兆しがないようにおもえますよ。
休んでください。

大丈夫です。先生がいなくても、子どもは大丈夫です。
学校がよくないだけでしょう。
子どものことを考えてください。

と、僕ははっきりと言ってしまえるのだが。

子どもの心を守ってあげませんか。
教員生活を続けるのでしょう?
子どもの心を守ってあげませんか。
先生の心を、まずは自分で守ってから。

子どもに、素直に、「ごめんね、今の私は、学校の空気に逆らえなくて、こうすることしかできないの、弱いの、ごめんね。。。」と話すことから初めてもいい。
子どもに聞いてみてもいい。
僕は、実際、公立高校で、働くとき、それをやってから「授業」に入るようにしている。
「僕から何を教わりたい?」「けど学校の仕組みはこうなっててさ、僕も困っているんだ」

ごく一部の生徒をのぞいて「赤点を取らなければなんでもいい」という答えを出すのが、高校の実態です。

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図形、単位、計算でつまずいていても、どんどん先に進む。
遅れを取りもどす、といっても、そもそもスローラーンなので、「ほとんど取り戻すとか期待できない」状況で「もっと頑張りましょう」という先生。

しょうがない。だって教育にお金も人もかけていないのが、富山県・石川県なのだから。
いや、工夫はできるんだけどね。工夫もしないのね。オトノネにきたら、いろんな授業のアイデアだしますよ。けど、そもそもの心が、学ぶ準備ができていない先生が多いような気がする。

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと1

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと3

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実際、子どもたちは時計をみなくても生活できる。
チャイムが鳴る。誰かについていけばいい。

うーん。

いろいろ話をしながら、「お昼休みが始まる時刻」「長休みが始まる時間」がわからないことがわかった。
けど、「もう7時30分だよ!」と家でお母さんから言われているおかげで朝家を出る時刻はわかっていた。
針が読めることよりも、まずは時間を生活の中に取り入れる、意識化する、言語化するプロセスを、家庭で増やすのはどうだろう。とお母さんには話をした。(仕事で忙しく、大変なようだが。。仕事!お母さんの子育てという大切な仕事は!?)学校では「演習」をさせられて気が滅入って嫌いになってしまう。時計が嫌いになってしまう。僕は精神的暴力、学校の法律違反、犯罪だとおもう。はっきり言っておく。だって、子どもの命を守りたいもの。

「じゃぁ、あと60秒数えたら、◯◯しようか」ということでもいい。一緒に数を数えてもいい。
人間には指が10本ある。指をおりながら十進法をおぼえたらいい。
「なんで10分が6個で1時間なの?」さて、おかあさん、なんて答えますか?ドキドキです。
一緒にご飯を作る時に、砂時計を一緒に眺めてもいい。「これが5分だよ」。
そういう家庭教育、家庭での経験がなければ、小学校をサバイバルすることが難しくなる、そういう子もいる。

僕が働いている保育所では針時計の「6」のところにアンパンマンが貼ってあって、子どもも時計を見るようなやりとりを大人としている。保育の中でも「まだあそびたいの?でもこのあと◯◯だから、何時になったら片付けはじめようね」というように。

けど針時計読めなくても行きていけるのも事実だけどね!
小学校が終われば、時計の針を読む「問題」も出てこないのではないか。でてくる?
大丈夫、大丈夫。死なないから。

そんな時に思い出す。
「ウォッシュレットでなかったらうんちができない子」。
大丈夫、ウォッシュレットがない学校で、これから生活するんだから。

大切なのは、時計の針が読めるようになること以上に、時計の針が読めないという困った状況を通じて、「その子」をみてくれない学校の現状(もう無理なんです)を理解し、社会資源(子育てを助けてくれるいろんな人)を探してこれからの長い、長い、学びの環境を整えていくことだとおもう。

できなかった、
わからなかったことがわかるようになってうれしくない子がいるだろうか。
針時計が読めるようになって、暮らしが豊かになるような、そういう世界を大人として見せてあげたい。

うーん。

富山大学図書館にいって検定教科書をみてみよう。
おそらく、時代が新しくなるにつれ、醜くなっているのではないか。

オトノネひろげるシェアぼたん