「ごっこあそび」概念を普遍化する

絵本の心理学

ごっこあそびが所詮、「ごっこ」であって、目の前の葉っぱがお札ではないことを言われて子供の頃、どう感じたか。『絵本の心理学』の著者が学生に聞いて書いてもらったレポートの内容。

子どもなりに「遊びの世界」と「現実の世界」を理解し、区別できていたようです。ただし、遊んでいるときに葉っぱのお金を「葉っぱ」と呼んだり、土のマメごはんを「土」と呼んだりすることは、禁句であったように記憶しています。それがなぜでありどのようにして決まったことなのかはわからないが、まるで暗黙の了解のように一緒に遊んでいるもの同士では遊んでいる間に、決して真実を口にはしませんでした。外で見ている子が「あいつらアホちゃうん?なにがお金や!」っていう言葉を発すると、少し気分が悪かったように覚えています。今考えれば、真実を口にするとせっかく見立てていた物が、ほんとうに土や葉っぱや木の実にしか見えなくなってしまうということを、気持ちのどこかで感じていたのではないでしょうか。(『絵本の心理学』p.222)

まとまらぬまま、最初に出ていた結論までに考えたことを箇条書き。

1。見ている世界が人によって違う
いつも引き合いに出してしまうが。「それってDVだよね?」といっても「それがDVである」と感じない人がいる。
それって虐待だよね?とおもうことでも、虐待だと感じない人がいる。
生きているってだけでももうけもんだよね!と言われても、全くそう思わない人もいる。
「欲望という名の電車」に出てくるヒロインはいわゆる幻覚・幻想の中で暮らしていた。虚言・虚構の世界。

2。道具の使い方は一つではない
椅子をベッド代わりに使ったり、座布団を枕にしたり、米のとぎ汁を肥料にしたりなど。
一つのモノを別用にして使うことは大人でも当然やっていること。
子どもが大好きな「長い棒」は、どんなボロボロの枝であっても、「伝説の剣」に見えている。
なんでもない風呂敷に包まれただけで、スーパーマンになれる。

3。芸術における「ごっこあそび」
「ごっこあそび」が精神療法に取り入れられた例に、サイコドラマがある。
役割分担をして、自分が相手を演じる、相手が自分を演じる、自分でないものに自分がなる。自分でないものが自分になる。
そういう経験を実際にシミュレーションしてみると、心は揺さぶりをかけられる、という手法だ。
画家や音楽家などは「ひとりごっこあそび」をして作品をつくっている。
落語でも、「小道具」をいろんなモノとして使ってみせる。観客はそれを茶碗だとか、扇子だとか、棒だとか、いろんなものに見立てる。

4。大人社会、あこがれへのシミュレーション
戦争ごっこというものがある。ガキ大将がいろいろ指示して石を投げていた時代がある。お店やさんごっこ、お母さんごっこもある。自分の憧れ、ヒーローになるごっこもある。いってしまえば大人のメイクをする、髪の毛にワックスをつける、洒落た服装をする現代の子供も、こうしてシミュレーションをしていると考えることができる。

5。子どもの特権としての「ごっこ」
「7つ前は神の子」という言葉がある。(この言葉自体、根拠もなにもないので解釈するほかない)
「ごっこ遊び」に精を出す年齢、だと解釈することもできるだろうか。

検索するといろいんな記事に出会う。
医療が発達していない当時、死にやすい、いつ死んでもおかしくない存在だった。というお話。
子ども時代は法律的に7歳までだった奈良時代の刑法のお話。
子どもと本当の意味で話せるのは「たった7年」というお話

8歳以降、女性は思春期が始まる。僕はそういう視点で7歳までの神聖をとらえる。
七五三に意味深な意味を与える陰陽五行思想の影響を考えれば、本当の意味での「子ども」でいられるのは7歳まで。という話でいいとおもう。
かつて「稚児」といって、男でも女でもない、中性の存在が仮定されていた。お祭りでよく曳山の上に座っていたり、稚児舞をすることがある。これは実は中性の女性禁制の寺社会で生まれた習慣なのだが・・・

シャーマニズムの世界、巫女の世界、精神の世界では、巫術者が何かに取り憑かれて「そのものになったり」「向こう側にいって帰ってきたり」する。自分が「そのもの」になるために小道具をつかう。衣装を使う。また呪文を唱える。ごっこあそび、自分でないものに自分をとばしていく、なりきってみることは「共感」とかいろんな言葉で表されるように、奥が深い。

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僕が言っている保育園で、子供と一緒にごっこあそびをしているとき。
僕は「無理な注文」を出すことにしている。

「はい、いちごケーキですよ」
「えーっ、バルメシアチーズケーキがよかったんだけどなー」

引きつ引かれつ、押しつ押されつつ、自分の思いと相手の思いを受け取ったり、受け取ってもらったりする、そういう関わり合い方をするための、人間的な、「じゃれあい」「対話」をしているのだとおもう。ごっこ遊びをしているときに「イヤだ!」といって相手の言葉をはねのけたら。。。遊びから外される。

そんなわけで、とりあえず結論。
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おとなは大人で「ごっこあそび」をしている。
家庭、学校、会社、組織、与えられた役割をこなしながら、暗黙の了解を知りながら、沈黙しながら。
それは集団が変われば、住む場所が変われば、変わってしまうルールに基づいている。

おとなは大人で「ごっこあそび」をしている。
それはいつだってはじめられるし、やめることもできるものだ。だれと遊ぶかも、選べるものだ。

いっしょにあそぼー

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青春は何色だ!

青春の黒い炎が燃えている。
今日も富山はブラックです。

と言いながら大笑いするブラックジョーク満載のおとのね だけれど、高校生活を大いに楽しむ高校生の姿もまたよく話に聞く。
文化祭、体育祭、子どもが子どもらしくなれる、あそべるイベントが学校にはある。

青春を青くする、それが高校生のパワーなのかもしれない。

学校という場所でなくてはイベントができなくなった、みんなで何かを作れなくなったと思えばかなしいか。
インドネシアのジャワ島のある地域では、毎週、毎週!土曜日、午前中だけとある大通りが解放され、あらゆる人たち、市民がおもいおもいのイベントを起こす。もちろん、人がたくさんいるインドネシア。人があつまる集まる!

子どもだけでつくったヒップホップのチーム、伝統的なReogダンスのチーム、はたまだ詩吟する人たちなど。もちろん大人に混ざって。子どもだけで。

子どもがでてこられる場所、しくみを、文化を、インドネシアで見た。

そんなことを、思い出した。

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「メデタシメデタシ」の物語には要注意!?『絵本と童話のユング心理学』より学ぶ

子どもが死についてよくよく考えていることは前にどこかの記事で述べた。
で、最近本を読んで感動したので書き残しておきます。子どもすげー!!!!!

子どもは、大人の都合、不自然さ、不条理、違和感を敏感に感じるのでしょうね。

絵本と童話のユング心理学

『かさじぞう』に関して、私が大変驚いた出来事をひとつ話そう。たしか小学6年生になる女の子であった。この『かさじぞう』を読んで、こんなことをつぶやいていたのである。「おわりの方が気に入らないな、なんだかうそだって気がするもん。私だったら、こんな終わり方にしたいな」

1、2年前でしたか、文部省がこの作品は非常に暗い、日本にはこんな貧乏人がたくさにるのかと、アメリカやソ連に思われたは困る、だからこれを削除せよ、と先生方に指示しました。それが話題になり、新聞記事になったことがあります。

娘の小学校の先生も、やはり賛成はできないが、子供たちの反応を見ようと思って話され、あとでどう思うかと聞かれた。その時、うちの娘が「こんな話はうそだ」と言ったそうです。私はその話をたまたま小耳にはさんだので、娘に、お前だったらどうする、と聞いてみたのです。娘はすでに作文に書いてはっょうしていたのですが、先生はそれに✖️をつけていた。それで娘は、大変怒っていましたが、それにはこう書いてありました。「おおみそかの晩、外はすごいふぶきなのに、じいさまとばあさまは食べるものがないので、つけなかんで、お湯飲んで、寝ました。(つけなってなんだと聞くと、「知らへんの、つけもののことや」)。正月になって、とうとう何もなくなり、二人は静かに息を引きとりました」ええ!とびっくり、これでは先生が✖️をつけてあたりまえだと言うと、娘は黙って聞けと言う。
「さて、次の年のおおみそかのことです。一人のしょうにん(この「しょうにん」というのを、私は親鸞上人とか法然上人の上人と解釈して、えらい話になるなと思ったのですが、これは商人のことでした)がふぶきの中を歩いておりました。すると向こうに、かさをかぶったおじぞうさんが立っています。かさからは、つららがさがっておりました。かぞえると、かさをかぶったおじぞうさんは、全部で8つでした。おかしいな、去年はたしか6つだったはうだが。何回もかぞえなおしましたが、やはり8つにまちがいありません。8つとは珍しいことだわい、と承認はそっと手を合わせましたが、ああ、道くさくっとると日が暮れるわい、早く帰って正月のもちつきのよういさするかと、ふぶきの中に消えて行きましたとさ」

こういう文章です。私はびっくりしました。この八地蔵の話は誰が教えたわけではなく、彼女が自分なりに作ったものです。(『絵本と童話のユング心理学』p.238 山中康裕)

「めでたしめでたし」の物語は、編集されている可能性がある、ということです。
学校の進路指導も同じですね。

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イオンとコンビニとフランチャイズとオトノネの豊かさ

自営業を始めてから経済について考え始めた。
いやいや、本当に、興味がなかったお金の大切さというか、お金の価値観にだいぶ囚われている自分自身に気がつく

イオンの周りに住む人はイオンに資本を吸収されている。
(イオンでなくとも全国展開しているスーパー)
コンビニを使う人はコンビニに資本を吸収されている。
イオンやコンビニの利益はどこに行くのだろうか?
都市に吸収され、さらにイオンやコンビニが強くなる。

強くなるとはどういうことか。
競争力が強くなるということ。
影響力が強くなるということ。
お金を吸収する力が強くなるということ。

塾業界も同じだ。
家庭教師業や個別指導塾業界。

地元のお店がつぶれる。(オトノネつぶれる?)
それはどうしてか?
なぜフランチャイズ(例えばコンビニ)は増えるのか?

なぜ地元の人々は協力して、コンビニに勝とうとしないのか?
(なぜオトノネはフランチャイズより儲かっていないのか?)

で、それを経済の言葉で語ることもできるけれど。
もっと自分ごととして語るとこうなる↓

ーーー
より多くの人が共感する物語をみせている。
と、言葉にしてしまえば、僕はとてつもない敗北感に襲われる。
オトノネという物語を必要としている人は?
きちんと物語れているんだろうか・・・・
伝えられているんだろうか?

みなさんの目線で、僕がオトノネを見られていないのかもなぁと最近おもっています。
オトノネはどんなふうに、みなさんの目に映っていますか?

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大人が、子育てを通じて価値観を個別化(アップデート)する

ある特定の組織(集団)にいる人は、価値観を普遍化する傾向がある。

その組織の中ではそれがタダシイとされていることが、その外の世界では通用しないケースがある。
一般的にタダシイと言われていることでも、「私はそうはおもわない」ということもある。

学校には行くものだ。
大学には行くものだ。
課題はするものだ。
宿題はするものだ。
「イイ会社」に行くものだ。
お金は貯めるものだ。
◯◯高校に行くものだ。

などなど。。。。。

誰かの価値観と自分の価値観が衝突したとき(そんなことはよくある。頻繁に)、どうするか。
スキーマという言葉で表すこともできる「自動思考」がその人の心の表れになる。

衝突、違和感、摩擦と出会うこと。
出会うたびに、自分と世界の“関係を築き上げる”こと。
大切にしたいドラマチックな瞬間だ。

子どもは新しい時代、新しい価値観、新しい身体、それは全てお父さんお母さんとは違う。
全く別の人間として育って行く。
お父さんお母さんも、子どもも、育っていく。
一方的な関係ではない。

ーーーー

世界の一部でしかないものが、世界の全てになりうる。
それに疑問を抱いた人は旅にでるかもしれない。
帰ってくる人もいえれば、帰ってこない人もいる。
疑問を持たずに、受け入れ、暮らして行く人もいる。

それはすべて個別化の過程であると僕は思っている。

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教育とは個性化のプロセスのこと

小学生のお母さんからの問い合わせ。

教えても教えてもできない、学校でも、困っているというお話。
そういう子は、他にもたくさんいるというお話。。。

小学3年生で、「できない」というのは、つまり学校の授業においていかれている、ということ。
学校という場所、教室という場所、特定の環境において学び得ることができない子どものケースは多々ある。

場所を選ぶだけで、学び方を選ぶだけで、学ぶ人を選ぶだけで、それは変わりうる。
学び方を学ぶ、それが学びのメタスキルだし、自分を知ることにもなる。
大切なことだ。

「クシュラ」と絵本の物語にあるように、教育とはある一定の「人間らしさ」に至るための個別的なプロセスのことだとおもう。
そのプロセスを集団の中で「回す」ことができる子と、そうでない子がいる。

タンポポのようにどこでも育つ花もあれば、ユリのように環境を整えて綺麗に咲く花もある。
『残酷すぎる成功法則』にも書かれている、当たり前すぎる事実だ。
そうした個性化の過程を必要としている子どもがいる。

あなただけの道を、歩んだらいい。
きっとその風景を楽しめるようになるから。

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小学英語が始まってどうなったか。

小学英語が導入。
で、何が起きたか。

いいことが起きたか。
教育産業がビジネスを始められた。
それは、子供にとっていいこととは限らない。

とりあえず悪いことは起きた。
「小学校で英語が嫌いになる生徒が増えた」

英語が好きになるかどうか、英語が得意になるかどうかは、中学一年生のときにならう先生で決まる、という話を聞いたことがある。
一度置いて行かれたら追いつくことが難しい。

英語が嫌いになる学年が、中学生から小学生に下がった。
そういう話を聞く。
教育とは、やっぱり、教わる先生で決まるものなのだ。
とおもう。

評価の仕方はどうなっているんだろう。
今度聞いてみよう。
テストとか、学習態度とか、いままでと変わらないんじゃないか。
どうなっているんだろう。

それにしても、こういう記事を見ると、教育もビジネスになったとおもう。
オトノネはオトノネなりにやっていけばいいか!

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「学校の課題だけで合格できます」は本当か。塾の合格実績を全て調査して検証。

富山県と石川県の塾の合格実績を総調べ!

入学時から「学校の課題だけをやってください。塾に通わなくても合格できます」という話を先生がするという話、
自称を含む進学高校ではよく聞きますが。

実際は?

数値でできるところまで実証しました。全部、調べちゃいました。

記事をこちらに移動しました!
「学校の課題だけで合格できます」は本当か。塾の合格実績を全て調査して検証。
この情報は肝心のコンテンツを有料にしました。(noteという仕組みを利用しています)。
オトノネを応援してくれる方、どうぞよろしくお願いいたします。

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福岡の駄菓子屋「丸五商店」訪問

高岡市福岡に駄菓子屋があります。
最近できました。
いやなんで駄菓子屋?

地域に住むお父さんが「つくろうか」といってつくったんです。
子どもが集まる場所、学校の外の子どもの暮らし方を考えている僕は、ああ、すごいドキドキした。
仕事をしているお父さんたちが、「あそび」で始めた駄菓子屋。

大人が力を抜いて、遊ぶ、自然な姿で暮らすことで子どもの暮らす場所が増えて行くのかとおもう。

オトノネは力が入りすぎかなぁ、と気がついた。

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森のシンガーソングライター山田証さんと出会う。

どうしてか忘れてしまったけれどたまたまFBで知り合って「今度日曜日どこにいますか?」「あ、近くですね」「じゃぁ」ということでお会いしてきました。もう一ヶ月くらい前のこと、思い倦ねて投稿できずにいましたが。

山田証さんのFacebookはこちら

最初にメッセージを送った時に「音楽家として副業せずに、暮らしているのか」と聞いてみた。
話を聞くと、音楽家、というより、表現者として、ギターを選んだ、ということ。

いろんな話を聞きながら、証さんは小さい時から自分に素直に、素直に、生きて来たんだなぁとおもう。
つきつめて、つきつめて、ただ自分らしい自分を応援して、考えて、勉強して、学んで、気づいて、行動して。

その繰り返しで、全国で「森のうた」の輪が広がっている。

ーーー

劇場の中で自分の仕事をすればよかった韓国時代と比べて、日本ではプロデュースから自分でやらないといけない。人にどう見せるか。「それは、自分がお金を払ってもみたいとおもえる、行きたいと思える舞台か」をよくよく吟味する。

そして自分が求めている報酬をはっきり明示する。旗を立ててみて、その結果をみて、また修正していく。
とにかく今、フラグを立てよう。というお話でした。

「コレ」というものをもっている人は、やっている人は、どこか不思議な魅力をもっている。
おとのねさん、そろそろ始めないと、そのうち、死んじゃうからね!

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