「ごっこあそび」概念を普遍化する

絵本の心理学

ごっこあそびが所詮、「ごっこ」であって、目の前の葉っぱがお札ではないことを言われて子供の頃、どう感じたか。『絵本の心理学』の著者が学生に聞いて書いてもらったレポートの内容。

子どもなりに「遊びの世界」と「現実の世界」を理解し、区別できていたようです。ただし、遊んでいるときに葉っぱのお金を「葉っぱ」と呼んだり、土のマメごはんを「土」と呼んだりすることは、禁句であったように記憶しています。それがなぜでありどのようにして決まったことなのかはわからないが、まるで暗黙の了解のように一緒に遊んでいるもの同士では遊んでいる間に、決して真実を口にはしませんでした。外で見ている子が「あいつらアホちゃうん?なにがお金や!」っていう言葉を発すると、少し気分が悪かったように覚えています。今考えれば、真実を口にするとせっかく見立てていた物が、ほんとうに土や葉っぱや木の実にしか見えなくなってしまうということを、気持ちのどこかで感じていたのではないでしょうか。(『絵本の心理学』p.222)

まとまらぬまま、最初に出ていた結論までに考えたことを箇条書き。

1。見ている世界が人によって違う
いつも引き合いに出してしまうが。「それってDVだよね?」といっても「それがDVである」と感じない人がいる。
それって虐待だよね?とおもうことでも、虐待だと感じない人がいる。
生きているってだけでももうけもんだよね!と言われても、全くそう思わない人もいる。
「欲望という名の電車」に出てくるヒロインはいわゆる幻覚・幻想の中で暮らしていた。虚言・虚構の世界。

2。道具の使い方は一つではない
椅子をベッド代わりに使ったり、座布団を枕にしたり、米のとぎ汁を肥料にしたりなど。
一つのモノを別用にして使うことは大人でも当然やっていること。
子どもが大好きな「長い棒」は、どんなボロボロの枝であっても、「伝説の剣」に見えている。
なんでもない風呂敷に包まれただけで、スーパーマンになれる。

3。芸術における「ごっこあそび」
「ごっこあそび」が精神療法に取り入れられた例に、サイコドラマがある。
役割分担をして、自分が相手を演じる、相手が自分を演じる、自分でないものに自分がなる。自分でないものが自分になる。
そういう経験を実際にシミュレーションしてみると、心は揺さぶりをかけられる、という手法だ。
画家や音楽家などは「ひとりごっこあそび」をして作品をつくっている。
落語でも、「小道具」をいろんなモノとして使ってみせる。観客はそれを茶碗だとか、扇子だとか、棒だとか、いろんなものに見立てる。

4。大人社会、あこがれへのシミュレーション
戦争ごっこというものがある。ガキ大将がいろいろ指示して石を投げていた時代がある。お店やさんごっこ、お母さんごっこもある。自分の憧れ、ヒーローになるごっこもある。いってしまえば大人のメイクをする、髪の毛にワックスをつける、洒落た服装をする現代の子供も、こうしてシミュレーションをしていると考えることができる。

5。子どもの特権としての「ごっこ」
「7つ前は神の子」という言葉がある。(この言葉自体、根拠もなにもないので解釈するほかない)
「ごっこ遊び」に精を出す年齢、だと解釈することもできるだろうか。

検索するといろいんな記事に出会う。
医療が発達していない当時、死にやすい、いつ死んでもおかしくない存在だった。というお話。
子ども時代は法律的に7歳までだった奈良時代の刑法のお話。
子どもと本当の意味で話せるのは「たった7年」というお話

8歳以降、女性は思春期が始まる。僕はそういう視点で7歳までの神聖をとらえる。
七五三に意味深な意味を与える陰陽五行思想の影響を考えれば、本当の意味での「子ども」でいられるのは7歳まで。という話でいいとおもう。
かつて「稚児」といって、男でも女でもない、中性の存在が仮定されていた。お祭りでよく曳山の上に座っていたり、稚児舞をすることがある。これは実は中性の女性禁制の寺社会で生まれた習慣なのだが・・・

シャーマニズムの世界、巫女の世界、精神の世界では、巫術者が何かに取り憑かれて「そのものになったり」「向こう側にいって帰ってきたり」する。自分が「そのもの」になるために小道具をつかう。衣装を使う。また呪文を唱える。ごっこあそび、自分でないものに自分をとばしていく、なりきってみることは「共感」とかいろんな言葉で表されるように、奥が深い。

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僕が言っている保育園で、子供と一緒にごっこあそびをしているとき。
僕は「無理な注文」を出すことにしている。

「はい、いちごケーキですよ」
「えーっ、バルメシアチーズケーキがよかったんだけどなー」

引きつ引かれつ、押しつ押されつつ、自分の思いと相手の思いを受け取ったり、受け取ってもらったりする、そういう関わり合い方をするための、人間的な、「じゃれあい」「対話」をしているのだとおもう。ごっこ遊びをしているときに「イヤだ!」といって相手の言葉をはねのけたら。。。遊びから外される。

そんなわけで、とりあえず結論。
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おとなは大人で「ごっこあそび」をしている。
家庭、学校、会社、組織、与えられた役割をこなしながら、暗黙の了解を知りながら、沈黙しながら。
それは集団が変われば、住む場所が変われば、変わってしまうルールに基づいている。

おとなは大人で「ごっこあそび」をしている。
それはいつだってはじめられるし、やめることもできるものだ。だれと遊ぶかも、選べるものだ。

いっしょにあそぼー

オトノネひろげるシェアぼたん

青春は何色だ!

青春の黒い炎が燃えている。
今日も富山はブラックです。

と言いながら大笑いするブラックジョーク満載のおとのね だけれど、高校生活を大いに楽しむ高校生の姿もまたよく話に聞く。
文化祭、体育祭、子どもが子どもらしくなれる、あそべるイベントが学校にはある。

青春を青くする、それが高校生のパワーなのかもしれない。

学校という場所でなくてはイベントができなくなった、みんなで何かを作れなくなったと思えばかなしいか。
インドネシアのジャワ島のある地域では、毎週、毎週!土曜日、午前中だけとある大通りが解放され、あらゆる人たち、市民がおもいおもいのイベントを起こす。もちろん、人がたくさんいるインドネシア。人があつまる集まる!

子どもだけでつくったヒップホップのチーム、伝統的なReogダンスのチーム、はたまだ詩吟する人たちなど。もちろん大人に混ざって。子どもだけで。

子どもがでてこられる場所、しくみを、文化を、インドネシアで見た。

そんなことを、思い出した。

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「メデタシメデタシ」の物語には要注意!?『絵本と童話のユング心理学』より学ぶ

子どもが死についてよくよく考えていることは前にどこかの記事で述べた。
で、最近本を読んで感動したので書き残しておきます。子どもすげー!!!!!

子どもは、大人の都合、不自然さ、不条理、違和感を敏感に感じるのでしょうね。

絵本と童話のユング心理学

『かさじぞう』に関して、私が大変驚いた出来事をひとつ話そう。たしか小学6年生になる女の子であった。この『かさじぞう』を読んで、こんなことをつぶやいていたのである。「おわりの方が気に入らないな、なんだかうそだって気がするもん。私だったら、こんな終わり方にしたいな」

1、2年前でしたか、文部省がこの作品は非常に暗い、日本にはこんな貧乏人がたくさにるのかと、アメリカやソ連に思われたは困る、だからこれを削除せよ、と先生方に指示しました。それが話題になり、新聞記事になったことがあります。

娘の小学校の先生も、やはり賛成はできないが、子供たちの反応を見ようと思って話され、あとでどう思うかと聞かれた。その時、うちの娘が「こんな話はうそだ」と言ったそうです。私はその話をたまたま小耳にはさんだので、娘に、お前だったらどうする、と聞いてみたのです。娘はすでに作文に書いてはっょうしていたのですが、先生はそれに✖️をつけていた。それで娘は、大変怒っていましたが、それにはこう書いてありました。「おおみそかの晩、外はすごいふぶきなのに、じいさまとばあさまは食べるものがないので、つけなかんで、お湯飲んで、寝ました。(つけなってなんだと聞くと、「知らへんの、つけもののことや」)。正月になって、とうとう何もなくなり、二人は静かに息を引きとりました」ええ!とびっくり、これでは先生が✖️をつけてあたりまえだと言うと、娘は黙って聞けと言う。
「さて、次の年のおおみそかのことです。一人のしょうにん(この「しょうにん」というのを、私は親鸞上人とか法然上人の上人と解釈して、えらい話になるなと思ったのですが、これは商人のことでした)がふぶきの中を歩いておりました。すると向こうに、かさをかぶったおじぞうさんが立っています。かさからは、つららがさがっておりました。かぞえると、かさをかぶったおじぞうさんは、全部で8つでした。おかしいな、去年はたしか6つだったはうだが。何回もかぞえなおしましたが、やはり8つにまちがいありません。8つとは珍しいことだわい、と承認はそっと手を合わせましたが、ああ、道くさくっとると日が暮れるわい、早く帰って正月のもちつきのよういさするかと、ふぶきの中に消えて行きましたとさ」

こういう文章です。私はびっくりしました。この八地蔵の話は誰が教えたわけではなく、彼女が自分なりに作ったものです。(『絵本と童話のユング心理学』p.238 山中康裕)

「めでたしめでたし」の物語は、編集されている可能性がある、ということです。
学校の進路指導も同じですね。

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福岡の駄菓子屋「丸五商店」訪問

高岡市福岡に駄菓子屋があります。
最近できました。
いやなんで駄菓子屋?

地域に住むお父さんが「つくろうか」といってつくったんです。
子どもが集まる場所、学校の外の子どもの暮らし方を考えている僕は、ああ、すごいドキドキした。
仕事をしているお父さんたちが、「あそび」で始めた駄菓子屋。

大人が力を抜いて、遊ぶ、自然な姿で暮らすことで子どもの暮らす場所が増えて行くのかとおもう。

オトノネは力が入りすぎかなぁ、と気がついた。

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言葉への意欲、それは食欲の如し。

クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々

遠慮はいらない。

かぶりついて

指でつまんで汁をなめなさい

あごにたれないように……

芯も

軸も

内皮も

核も

種も

外皮も

捨てるところはないのだから。

『クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々』の中で紹介されている、イヴ・メリアムが命ずる「詩の食べ方」

言葉が出ない、とか、言葉が遅れている、という話をよく聞く。それで支援センターなどに行く人も大勢いる。支援センターはてんてこ舞いだ。それよりも食べる時間、味わう時間をつくるのはどうだろうか。

「この子、もしかしたら…」といって不安になるお母さんがいる。「診断」をうのみにして「治療」をさせようとしてしまう。クシュラの母親も医者に「知能障害時センター」に通って治療を受けるように申し出た。けれども、母親は施設に預けるのではなく、クシュラの“正常な部分”をみつけ、決意を持って不断の刺激を与え続けた。たった一つ、開かれた扉を見つけ、開き続けた。

18ヶ月の時に、クシュラがかなり進歩をとげつつあり、その進歩は、自分たちがあたえた励ましと刺激が、少なくとも一部には成果をあげていたのだ、とそう信じる根拠を、両親はつかんでいた。そのときに「正常でない」と烙印をおされたのである。両親は、それを的外れだと思った。施設へ、という忠告は、自分たちの努力に対する嘲りだとも思ったのである。

医者は診断はできても、人間を育てる「専門家」ではない。人間を育てるのは人間だ。

ジョアン・タフ著の『意味の焦点ー上手な幼児との対話』は、「教師、親をはじめ、成長期の子どもたちとつきあうすべてんぼ人たちが、乳幼児期に言語が果たす役割をより深く認識する助け」として書かれた。著者は、子供が考えていることをヒュオプ原子、同時に思考を深めようとするようにする言語の発達にとって、もっともよい機会を与える家庭環境を規定している。著者がとりあげたのは、3歳の男の子のマークが育つ家庭環境で、とくに大人との関係に注目している。「マークにとって大人とは、情報を提供する人、思考や議論にさそう人である……マークは、質問をすると情報が得られる、問題を解決する努力はほめ言葉となってかえってくる、そして言葉は過去の経験をよみがえらせるものだ、ということを学んだ。」このような大人と子どものかかわりあい、つまり複雑な言い回しを使って、議論し、予見し、計画し、熟考する両親という手本が、マーク自身の話し方に反映されている。こうしてマークは「考える道具」を獲得していく。(p.185)

食事も、言葉も、家が基本だ。そう考えた時に、オトノネができることなんて、本当に小さなことで、もう適当にやってもいいんじゃないかと思えてきた。僕は少し力を抜いてもいい気がする。家庭教育をお手伝い、くらいにしておこうか。

多くの「個別指導塾」がアルバイトの若い学生、学校と関わり合いのない先生との「会話の場所」になっているのも、子どもの心の表れなのだろうとおもう。子どもは大人を求めている。

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禁じられたあそび

今日はシャボン玉で遊んだ。1時間くらいシャボン玉で遊んだ。1時間くらい遊べる。おとぎの森で、子どもたちとあそべるな。とおもいながら。で、肝心なのは、目の前が通学路になっている、この道路で起きた出来事である。

まず最初に、下校中の低学年の子が通った。

ものすごい興味津々でシャボン玉を眺める子ども。で、「楽しそう?」と聞くと「うん!」という。遊びたそう!その時!別の子が「早くいくよ!」と言った。叫んだ。え?早くいくの?道草しないで帰りなさい、怪しい人に付いていってはいけませんと言われているからだろう。僕の前を通り過ぎたあとも「早く早く!」と言っていた。結局、低学年のみんなはシャボン玉を見て目をキラキラさせるだけでおわった。

その次に、高学年の子が通った。

向こうから走ってきた。「壊していい?」「いいよ!」「やってみたい!」「いいよ!」ちょっとだけ遊んだ。女の子も、男の子も。うん。ちょっとあそんだ。車がちょくちょく通る道だったから、車に注意しながらだったけど。。。うわー!といいながら。

この反応の違いはなにか?単純に高学年は思春期が近づいて、判断を自分でするようになって、大人に言われたことを鵜呑みにしなくなっているのだろう。これだけ反応が違うとは。。。僕もびっくりした。

すぐそこが交差点だった。そこにはボランティアの下校指導のおじさんが立っていた。僕と一緒にちょっと遊んだ子どもたちに「まっすぐ帰りなさい!」と指導をしていた。子どもに何かがあったら大変だ。「責任問題」になる!子どもを無事に家に届けるのが仕事だからね!

子どもの命を守るために、子どもの魂を大切にできなかったらどうなるだろう。これからの子育ては、本当に、いろいろと、大変だ。お金(税金)を使って子供を保護する学童の存在自体が、どこか、子どもの生きにくさを象徴しているようにも思えた。中学生になったら、放課後は部活という組織で管理されることになる。そのしくみも問題だ。子供はあそぶことをほとんど、禁じられている。

とあるNPO法人は、放課後に、学校で、子どもがちゃんと遊べるようなしくみをつくっている。学校の中に民間の団体が入っていく。


放課後アフタースクール

学校や自治体がそれを望んでいるわけだ。大人が、みんな、真剣に、子どもの暮らしを、リッチな暮らしを考えていけるだろうか。大人同士が仲良くならないと、子どもはしあわせになれないのかな。。。

ところで、シャボン玉で遊びながらいろんなことをしているのだ!ということを書いておく。風の観察力、風に合わせて道具を操るスピードを変える、手をやさしくスナップする微細動作、シャボン液の状態を把握する、大きなシャボン玉を作るとかたくさんシャボン玉をつくるとかいう課題設定をする、試行錯誤する、みんなと喜び合う、シャボン玉が割れるのはなぜか考える。空気についてシャボン玉を通じて感じる。車がこないかどうか気をつける。風に乗って踊る。世界のいろんなところに落っこちているしあわせを拾い集めること。

あそびがどれほど複合的な人間のチカラを引き出すのか、奥が深すぎる。

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個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

クシュラの奇跡
『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

生まれつき障害を持って生まれた子。クシュラ。どんな障害かはさておき、両親の染色体の異常が組み合わさって先天的に障害を持って生まれた子の物語。

本人の個人的な欲求と、それらを満たしてやる立場にある周囲の大人たちがとった手段とが、本に対するクシュラの姿勢を育てた、ということである。クシュラが絵よりも活字に強い関心を持つのは、明るい背景に印刷された輪郭のはっきりした活字は、協調性の弱い目にも鮮明な像を結ぶから、と考えるほかなさそうである。クシュラが平均的な子どもと比べて、幼い頃から記号になみなみならぬい関心をいだいていたことは確かである。(p44)

詳しくは本を読んで欲しい。。。とにかく、目が弱く、体も弱く、「生きてるの?大丈夫なの?いつ死んじゃうの?」という状態の子に、お母さんが文字通り四六時中、つきそった。何をするときも、抱いて過ごした。

クシュラに外界を見せたり体験させたりするためには、大人の腕で支えてやり、助けてやらねばならないようだった。(p27)

母親は一番肝心なことをした。その子にとって大切なことをした。そして一緒に過ごす時間をどうするか?なにせ長い1日だ。起きるかと思えば寝て、寝るかと思えば起きる。首はなかなかすわらない。腕も動かせない。そんなクシュラを安心させ、クシュラが世界に目を向ける機会を奪わないために、お母さんはクシュラを文字通り支え続けた。で、家にあった絵本を読むことにした(クシュラの家では日常的に絵本を読む文化があった)。その時、クシュラがなみなみならぬ関心を抱いたことを母親は感じた。見逃さなかった。クシュラは目がほとんど見えない。焦点を合わせるのにも時間がかかる。そんなクシュラの暮らしの中で、絵本は世界の窓口としてクシュラの前に大きく開けていたのだ。

発達のテストをしてももちろん、点数がでないクシュラであった。17ヶ月の段階でおもちゃを押したり引いたり、上手にあるくこともできなかった。粗大運動はできない。しかし、だ!腕もろくに使えないのに、絵本をめくる動作はできた(微細運動)。また、笛を吹くとかガラガラを振るといった課題をさせたところ、「集中力と努力」をもってしたという。さらに、言語の項目に関しては、17ヶ月の通常の発達段階に位置していると診断された。

このようなわけで、クシュラは絵本を読み始めた8ヶ月のときから、個別化されて育った。とことん本気になれる世界を、たまたまではあったが大人から与えられ、大人はそのことに気がつき、クシュラを世界に繋げ続けた。施設に預けていたとしたら、誰がクシュラをちゃんと〈見つけて〉くれただろうか?

健常児が育ちながら、たとえば子どもの時から「命」に関心があって、生き物係や保健係をしてきた子が医療の道に進むように、生まれてきた段階で、小さい頃の経験で、指向性が決まっているといってもいいかもしれない。大人は子どもをよくみて、その指向性を阻むことなく、肯定して、育てていくこと。(ある本には、規制されてつぶれるようなものは個性ではないと書いてあるが、本当にそうだろうか)クシュラの物語は、大人が子供をちゃんとみることで、子供が育っていく物語だと僕は思った。

僕自身、作曲家としてのチカラ、言葉への、人間へのオモイがある人間だと発見して、育ててくれたのは韓国で出会ったイギリスの作曲家だった。みながみな、自分を一人で発見していけるわけではない。誰かが〈見つけて〉あげなかったら、出会えない自分がいる。僕を見つけてくれた演出家は、僕が作曲したマクベスの劇ができあがった後で、笑顔で、英語でこう言った。「I found him!」僕は彼をみつけた、のだと。彼は、演出家の仕事は、俳優のチカラを見つけてあげることだと言っていた。大人の大切な仕事は、子供をちゃんとみて、見つけてあげることなのかもしれない。(自分で見つけられる子どもももちろんいるだろうが)。少なからず、子供はそれに励まされる。

こうして絵本を通じて言葉と出会い、お母さんに支えてもらい、肉体的な発達は遅れていたクシュラであるが、

おどろいたことに、クシュラはでんぐり返りができた。もっともばねが弱いために、返ったあとすわった姿勢はとれなかった。この特技は、当時プレイセンターで子どもたちの絶賛を浴びた。その子たちの大半が、肉体的にはクシュラより恵まれていたのに、気が弱くて、でんぐり返りに挑戦できなかったのである。(p.81)

扉の前に立っているとき、その子は笑っているだろう。大人の顔をしているだろう。全身で扉の向こうから流れてくる空気を感じている、そんな子どもの姿をみたら、大人は、その扉を決して閉めてはいけないとおもう。

ある3年生の高校生に今の状況を比喩で例えて見てよと聞いたところ、「出口のない部屋にいるみたい」だと答えてくれたことを、思い出した。

オトノネひろげるシェアぼたん

保育所選び・学校選び・塾選び・学び場選び

もう訳がわからなすぎてどこでもいい!と思えてしまうほど、世の中は選ぶことで溢れている。いろんな選択肢がある。まさに自由という病だ。

富山のねいの里でやっている森のようちえんとか見学にいったり、保育士の先生の話を聞きながら、考えたことがある。

ある保育園には机がない。どろだらけになって遊んで、おやつはスルメとかを食べる。他の保育所で働いている保育士さんがこの保育所にお手伝いにくると、ショックを受けるという。前に書いた記事の〈けじめ〉がなっていない、というような話だった。

森のようちえんにも机はない。時計もない。それで小学校にいったら大丈夫だろうか?保育所よりもガチガチに学校教育をする幼稚園の生徒の方が、小学校での〈素行〉はよい、保育所によっては小学校の先生が「やっぱりこの子はこの保育所か」と思ってしまうほど、保育所の文化、子供の育て方が違う。という。(ちなみに、保育園に机がなくても、家には机がある。家庭にも文化がある

「小学校に行った時に、困らないように」という考え方がある。まぁ間違っているわけではないが。けどそのおかげで「小学生でも自宅学習を◯時間しましょう」という御触れがでるというではないか。高校のための中学、中学のための小学、小学のための保育、そうして子供はケッキョック、〈高等学校(初級)〉に入るかのごとく、小学校に入学するのかもしれない。部活動のように習い事をする小学生が近くにいないだろうか。

一体、〈いい保育所〉ってどこ???

神経質な子、繊細な子なら森のようちえんでも、小学校に入ったら自分をまわりに合わせられるだろうし、もしかしたら、やんちゃ坊主も森のようちえんで、あたたかく大人に見守られる段階を経て小学校に行くのがいいのかもしれない(規模が小さいから質が確保されている。保育所になると、担当する先生によって質が変わる)。保育所に入るまでに「しっかり」育った子なら、もう大人。ふつうの保育所でもうまくやっていけるはずだ。

〈いい大人〉はどこにいる???

保育園は、お母さんが子どもを客観的に観察する、子どもを知るための時間なのかもしれない。この子は今、どんなことを感じているんだろう?この子は今、何を感じているんだろう?この子は集団の中で、どんな振る舞いをするんだろう?この子は何が好きなんだろう?この子の性格はなんなんだろう?この子の癖は?(きちんと子どもをみてくれる、話をしてくれる先生にであえた子どもとお母さんはしあわせだ)

学校は社会だ。社会は学校だ。学校は会社だ。途中で変えてもいいし。無理して続けることがいい、わけでもない。「あれ?」とおもいうことがあったら、環境を変える、関わる大人を変えること、新しい場所をみつけること、人と出会うことを、まずやってみたらいいと僕はおもう。(もちろん、お父さんお母さん自身が変わることも含めて!)

お母さんが子どもをよく理解して保育所や習い事(関わる大人)を選ぶように、高校選びも、塾選びも、会社選びは子ども自身が自分自身を知っていることが大切だとおもう。自分自身を知るとは、社会の中の自分の姿が見える、社会の中で振る舞う自分、他人から見た自分、環境に置かれた時の自分がわかることだ。

少なくとも思春期がきたら、子どもに「生き方」「暮らし方」の話をしてあげては、どうだろうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

子どもとお花見に行ってきたらドラマがあった。

いろいろあったー。

うさちゃんとお花畑

オトノネはなにをするところかよくわからない。間違いない表現をするなら、「おとのねさんがいるところ」がおとのねだ。で、川べりにいって、前回僕が話した「ヒメオドリコソウ」の話題を発展させてくれて「教科書に書いてあった!」といいながら、「オオイヌノフグリもかわいいよ!」といって見つけて、教えてくれた。かわいいやんか。白い謎の花が近くにあったから、「これ知ってる?」と聞くと知らないというので、教科書でみたら教えてねーと言った。で、ご飯を食べて、今日買った絵の具で絵描く?と聞くと描くというから書いてみる。最初は人を書いていたのが、お母さんに「せっかくだから桜かいたら?」といわれて桜をかいてみるその素直さが子どもらしく、のびのびとなんでもやってみようという気持ちを感じた。

この絵を描く前、この子の弟くんがやってきて、「僕もやる!」といった(そのとき僕は桜を描いていた)。で、僕が目を話した隙に・・・僕の絵に黒い絵の具でぶっとい線をぶっとく描いた!「だー!あー!」と僕は転げて泣き叫んだ!(その子は前にも壊したら人が悲しむものを壊した子だ)僕がめそめそしていると、体操座りになって反省会をはじめた(僕の悲しみを感じているんじゃないか。すごい)それをみて、僕も絵一枚で大人気ない、もっと子どもらしく執着しないでなんとか・・・と思ったその矢先、お姉さんが「枝にしたらいいじゃん」と。

天才じゃないか。それでその子に「この絵、僕が描いたんだけど、この線を枝にしたらおもしろそうだから、続き、描いてよ」と言った。気を取り直した彼は、書き始めた。うん、おもしろい絵になった。こういうこともあるんだなぁ。

ひとつの絵を描きながらドラマが起きる。(もっとたくさんのドラマがあったが割愛)それが個性であったり、発達の段階であったり、心の憂鬱として気持ちだったり、よろこびであったり。絵が上手くなることが大切なのではない。絵を描きながら、人間が人間と一緒にいる時間が大切なのだとおもえる。心から。そんな、昼下がりでした。

ちなみに、弟くんが気を取り直して絵を描き始めて、パレットの絵の具を使おうとしたとき、「これ、使っていい?」とちゃんと聞いてくれました。「僕はこの色しか使わないから、他の色は大丈夫だよ」と答えた。聞いてくれたね。お気遣いありがとう。お心遣い、ありがとう。「世界はいろんな意図で、意味で、計り知れない他人の心であふれている」ということを、体験して、学んでくれたのかもしれない。僕も、お姉ちゃんの一言から「創造的になること」を学びました。弟くんからも、人の成長する姿を、学びました。

ありがとう。楽しかったね!

オトノネひろげるシェアぼたん

おもちゃも、学校の宿題も、同じ。

だという考え方ができる。

どういうことだ!頭が狂ったか!

いえいえ。おもちゃも学校の宿題も、学びのきっかけをつくるものです。

大人はそれを手助けします。

おもちゃであれば、新しい遊び方をしてみせたり。おもちゃを通じて言葉をかわしたり。学校の宿題であれば、、、、解説してあげたり、計画することについて話したり。人生について語ったり。

で、肝心なのは、おもちゃも、学校の宿題も、子どもとオトナをつなげる環境をつくるということだ。子どもと大人が関わりあう、相互に作用し合う、道具にすぎない。素敵なおもちゃ、高いおもちゃ、高価な教材、魅力的な教材があっても、それを通じて大人との関わり合いができないなら、おもちゃも教材も、「ただの時間つぶし」になってしまう。テレビゲームという道具は、この点、遊び道具としては「積極的に介入できるテレビ番組」ぐらいのものかもしれない。(ただし、ゲームを通じて大人と子どもが仲良くなることは多々ある)

おもちゃも学校の宿題も、大人と子どもの相互作用を補うものだ。そうおもうと、宿題をする時間は、ずっと一人遊び、一緒にいるけど結局バラバラに遊んでいる並行遊びをしているのかもしれない。喜ばしいあそびは心の成長を促す。

遊ぶように、学校の宿題もやってみたらどうだろうか。

4歳の男の子がレゴみたいなもので飛行機みたいな乗り物を作っていた。「どこに行くの?」と聞くと、「わかんない」と答えた。

オトノネひろげるシェアぼたん