うちの子、大丈夫?「大丈夫です」

お母さんが不安で、塾やら、発達支援サービスを利用するケースが多い。

新しい大人と出会う、環境が変わる、ということは悪いことではないが、子どもの経験の全体性が失われないか。塾に行く分、発達支援サービスを受ける分、子どもは「しゃべりたいこと」が増えるはずだ。小学生くらいなら。

もし塾のこと、習い事のこと、学校のことを話さないとしたら、子どもの「気が滅入っている」サインだとおもったらいいかもしれない。小学生くらいなら。(塾にいって、話したい!と思えるような出来事が、そもそもあるんだろうか?)

子どものサインに、気がつくだけでいいんです。

大丈夫です。

子どもが教えてくれます。

言葉がでないのは、心が閉じているから。

子供の心に一番近づけるのは、お母さん。「お母さんには内緒ね!」といって、イヤなことをさせられているんだーということを話してくれた子がいる。もう、子供でも、小学生になったら、十分、お母さんに気を使う。お母さんに、心を使っている。

心が開く経験。
(人に対してね。テレビのキャラクターに心が向くのは、テレビのキャラクター、ゲームのキャラクターと経験を共にする時間が長いし、おもしろいから!で、テレビアニメをみて、何が育つんだろう?)

勉強は「しつけ」か「あそび」か

勉強は「しつけ」だろうか。

やらせる、という限りにおいて、「しつけ」だろう。

習い事は「しつけ」だろうか。

やらせる、という限りにおいて、これも「しつけ」だろう。

しつけるとは「躾ける」と書く。身体を美しくする意味が、「拘束する」意味になったのが近代であり、現代社会ではないのか。

プログラミングするように、子どもを「しつける」大人がいる。

なにがしかの能力を植え付ける、仕付ける。「子どものために」。まるでコンピューターの性能をあげるかのように。

けど学ぶ気持ちは「躾」では文字通り得られない。

躾は本人の意思とは関係がない。なにせ、「躾」には自動詞がない。誰かが「躾ける」であり、誰かに「しつけられる」ものだ。

「あそび」には「遊ぶ」という自動詞がある。学ぶのも自動詞だ。

本当に子どもたちは学んでいるのだろうか。

「これをやりなさい」と言われて目の前に出された課題をやっている限り、それは学びではなくただのお勉強だ。(もちろん、お勉強をしながら何かを学ぶこともあるだろうが)

勉強が「あそび」になるだろうか。

今の日本では、勉強=「しつけ」だろう。子どもはお勉強をするように躾けられる。成績が悪いと「しつけが悪い」ことになる。(成績が悪い生徒は、いなくならない。だって相対評価だもん)本来それは「躾」ではない。美しさとは、数字で表せないから。

じゃぁ学校でさせられる「お勉強」ってなんなんだ?

「労働」という二文字がよく似合う。


小学生には

指先を使うチカラ、姿勢を支えるチカラを鍛えてほしい。

ゲームしてると目線が動かなくなるよ。

ハサミとか紐結んだりとかいろんな動作しないと指動かなくなるよ。

目が動かなくなると教科書も読めなくなるよ。

鉛筆もちゃんと持てなくなるよ。

何よりも、集中して小さなことに挑戦して、失敗して、できるようになっていく経験。あそびの経験。それから、安心して大人と言葉で気持ちを伝え合う経験。心が動かされる、心が落ち着く経験。助けてもらう経験。思春期になる前、幸せをたくさんもらう経験。

お勉強よりも大切なことを、中学生になるまえに、子どもたちにはたくさんまなんでほしい。

オトノネの先生は研究者タイプだから英語の勉強法を考えている

日本の英語教育、なんか変だ。
大人になってから、大学受験英語をまぁ使える形に直すのに苦労するのはしようがないとして。

英語で困っている子はなんで困るかがわかった気がする。
言葉の発達の順序で学んだらいいんだとおもった。

文法別に学んでしまうとわからなくなる。
今ありがちな「よくある状況」で会話する練習をしていたら不自然になる。

本を探そうかとおもって検索したら、いいHPみつけた!
英語のHP
これもいい
これも使えそう
いやほんといろいろでてきました。
ちなみに「language development」で検索しました。
こんな役立つ情報が!!!!

日本語で「言葉 発達」もしくは「言語 発達」と検索すると・・・

検索してみてください。

幸せにそだてる情報ではなく、不安を煽るような情報がでてきます。

にっぽん!

子育ては、言葉育て。心育て。体育て。
一番近くにいる大人が積極的に関われないと、「時代」に任せることになる。「地域」に任せることになる。
その結果が、言語発達遅滞、精神発達遅滞、身体機能発達遅滞。

教育は、保育は、時代が変わっても変わらない人間性を、時代から守ることなのではないかとおもえた。

学習障害やら、注意欠損やら、多動やら、言語症やら、精神遅滞やら、社会的コミュニケーション症と呼ばれるものは、私には、多くの場合「世の中の情報を処理しきれなくなった子どもの拒絶反応」「いや、もうこの世界無理だから。どうしていいかわかんないよ」というサインなのではないかとおもっている。もちろん、器質的なものも、あるのだろうけれども。

世界を学ぶ。
心を学び、言葉を学び、体を学ぶこと。
大切!

ひとのま訪問

ひとのま、という場所に行ってきた。
高岡市で誰でも行ける、そのままいける、ありのままでいられる場所。
その場にいる小さい子から大人までの雰囲気を感じて、ああ、こういう場所が、街の中にもあるんだなぁとおもった。

こういう場所がどうしてできるんだろう。
どうやって・・・

オーナーの宮田さんの話を聞くと、「誰かを助けるとか、誰かのためとか、そういう目線ではなくて、目の前にいる人をみていたらこういう場所をつくろうかとおもった」といった話。

大手の教育企業に勤めながら「目の前で悩んでいる、勉強じゃないもので困っている子をみながら、業務として子供達と接するのと、どっちがやりたいのかなっとおおって会社を辞めて塾を始めた。誰でもきていいよというスタンスでやっているからいろんな人が来た」それが大きくなって「ひとのま」ができたという。

原子も同じような気がする。
何事もなく、とにかくそのままの姿で存在しているだけで、場ができて、いろんなひとと反応していく。
「いや、俺は塩素と結合するから」といっていると生まれるものも生まれない。

やわらかく、確率の森の中で、不確定の中で委ねていくことで、生まれるときは生まれ、なくなるときはなくなる。
「今年になって、人に助けてもらうようにお願いしはじめたんです。そしたら、みんな助けてくれることがわかった。きちんと話して、思いを伝えて・・・」それでひとのまは続いている。無理をしてひとのまを支えようとも思わない、もしそれでなくなれば、それはそれ。こういう場所を守る人、という意識もなく、管理するとかも考えずに、ごくごく今はそれがあたりまえのようにひとのまは存在している。

この日は、晩ごはんをみんなで食べる日だった。ひとのまに来ている人の誰かが「仕入れた」とんかつをあたためて、キャベツを切って食べた。いろんなことが起きる。昔、私が無人島キャンプで感じていたような感覚。決められたことよりも、その日突然起きる出来事の新鮮さ。何かが起きるときにそれをちゃんと感じられるゆるさ、余裕、あそびがある。

オトノネはどこか、気を張って「子どもを守る」と言って来たきらいがある。
塾で苦しむ生徒をたくさんみてきたから。けど・・・
実は、高校生のアンケート結果をみながら、みんなしっかりしてるじゃないか。オトノネができることってなんなんだろう。。。
と思っていたところで、ああ、なんだか力が抜けた。

力が抜けたところで、ひとのまに行って、宮田さんと話して、また力が抜けた。

あそびと犯罪。ナウシカとキツネリス。

ふとした会話のなかで、「大人が子どもと遊んでいると、大人がイタズラを考えつくことがある。それで結構子どもも喜んだりする」
という話が出た。

イタズラは相手との関係がなければ、相手がどう受け取るかをイメージできていなければ、それがずれなければ、おもしろいあそびになる。
ドッキリさせる!というやつだ。

イタズラが試し行動だったり、いじめだったり、スカートめくりだったり、落とし穴になったりもするのだが。。。
こうしたイタズラ、ギリギリの実験「どうなるかな??」の中でたぶん子どもは相手の反応を見る。

それは日常的なやりとりとは違った「相手がどう反応するか」をよく観察できる瞬間なのかもしれない。
そういう生々しいイタズラをしてほしい。
最後まで、きちんと相手の反応を受け取るまでイタズラしてみたらどうか。
それから「ああこれはやっちゃ相手は困るんだな。悲しむんだな。やったらだめだな。ここまでだな」と気がついていく。
自分から気がつかずに、「これはダメアレはダメ」といわれたのでは、大人になってから、誰も何も言ってくれなくなったときに、大変になってしまう。

「大丈夫だよ。怖くないよ。そんなに噛んだら、血が出てしまうよ。ほら。」
ナウシカはキツネリスにそう言っていたのかもしれない。血を見せても、子どもは大人に伝えたいことがあるか。

というわけで犯罪統計を調べて見た。

平成30年1~12月犯罪統計【確定値】

富山県は・・・石川県の倍か・・・人口はそんな変わらなかったとおもう。
人口で割ってみると、富山県は東京都と同じくらいか・・・

データは現実の一部しか切り取らないが、その切り口から何かべつの見方が、発見があるからうれしい。

テディーベア

クマのぬいぐるみが流行った時期がある。

今でもぬいぐるみはいつの時代でも必需品だ。
昔から「おにんぎょさん」がある。
おにんぎょさんじゃなくて実際に赤ちゃんだった時代もある。

イギリスかどこかでホテルの忘れ物のぬいぐるみの持ち主を調査したところ、過半数が大人の持ち物だったという結果がある。
人生とは、こういった落ち着くアイテムを手に入れながら、この世の中を生き抜く(息抜く)ゲームなのかとおもってしまう。

人生は有能になり、勝ち残る、他の人より秀でるために何かするとかいうことを考えてもいいだろう。
けどそのなかで息抜きアイテムをゲットしていかなくてはいけないのも現実だろう。

これ基本!

ご飯を味わうこと、食べることの喜びなんていうのも、いつの間にか味わえなくなったなぁ。昔は本当に毎回美味しく食べていたような気がする。

子どもは自然と、このアイテムを手に入れていくものだろうか。

悪とは何か

世の中にはいろいろな悪がある。

「責任」という言葉についていろいろ考えてきたが、最近は「悪」について考えるようになった。
考えるというか、きにするようになった。

悪大名などという言葉がある。
うんうん。

悪臭という言葉もある。
うんうん。

私の考えはこうだ。
「悪」を教えるべきか。
教えるべきとすれば「悪」とは何か。

大切なのは「悪はどのようにして生まれてくるか」だろうか。
もし悪が生まれたら?
それは自分の中に生まれるかもしれないし、外に生まれるかもしれない。

痛みという「悪」の言い分を聞いてみる。
不正という「悪」の言い分を聞いてみる。
暴力という「悪」の言い分を聞いてみる。
うんうん。

同じ体験をしても「悪」だと感じない人もいる。
「善」だとおもっていたことが「悪」だったりする。

「悪」だとおもっていたことが「善」だったりする。

平和か戦争か。
「怒り」という感情は「悪」だろうか。

そうおもえば、悪は本当に、どこにでもある、大切なことで、ほとんど教わる機会がないものだ。
自己肯定感とは、「悪」に対するお守りを手に入れることなのかもしれない。

「悪」をどれだけ理解しようとしているだろうか。
(ちなみにバリ島では「怒り」=「戦争」だそうだ。冗談でそういっていた人がいる)

プールの中にはピラニアはいない。
ピラニアだと思っていたものは、実はみじんこだったと、よくよくみてみるだけでいい。
それだけで安心して泳げるというものだ。

プールの中にはピラニアがいるかもしれない(一匹、空から降って落ちてきたかもしれない)。
だから、全身鎧を着てプールにはいろう!

よくよくみないと、楽しいプールの時間が「悪」で満ち満ちてしまう!
外にあるものの観察と同じくらい、中にあるものを観察すること。
言葉のレッスンの大切さを、私はつくづく、感じている。

味わう

「あのねきょうねこうでねああでねそれでこうなってああなってこうだったんだよ!」
その中身が、誰が何をしたという話なら、こう付け加えて聞いてみるといい。

「その時どんな気持ちだった?」

一つの出来事、話して聞いて欲しい、数ある経験のうちからそれを無意識に選び話始めたその経験はその子にとってとても大きいことで、
きっとそれをもう一度ちゃんと味わいたくて、消化不良で、話をするんだろう。

ちゃんと味わうために、目の前の風景をキャンバスに描く人もいる。
心のあり方を言葉に止める人もいる。

ご飯も、味わって食べよ・・・

ーーー

長い長い話に耳を傾けて、受け止めて、一緒に体験し直す経験を子どもとしていくやり方は、実はカウンセリング、認知療法のやり方だ。
大人になって、大切な出来事を、大切な気持ちを閉じ込めてしまう癖をつけて調子が悪くなる人がたくさんいる。

味わうための、時間と、味わうために安心して過ごせる場所と、願わくば、一緒に味わってくれる人が近くにいる人はしあわせだ。
味わう時間と、場所と、仲間を守るために、人はいろいろ苦労するのかもしれない。

大切なものは何?
幸せも、苦しいことも、味わって、そのまま次の瞬間、空気と一緒に吐き出すこと。
子どもはいつからか、どこかで、大人になってこれを忘れる気がする。
「あそぶ」というのは、次の瞬間に泣いて、次の瞬間に笑うようなことなんだろう。

思い出すこと。

乳児院で実習をした時、夜、赤ちゃんの顔を見ていた。
暗い部屋の中にしみてくるような鈍い光の中で、その子が怒っているし、泣いているし、笑っているし、眠っているし、一体なんなんだと思ったことがある。
「いい顔で死ぬ」という言葉がある。きっとこういう表情なのかもしれない。
死ぬ時くらい、清濁併せ呑んで喜ぶことも悲しむこともどれということもなく、あそんでいたいとおもう。

ーーーーー

コップに注がれる一杯の水すらも、味わってのめば、どれだけの時間がかかるだろう。
そういう〈大切な時間〉の経験が、きっと大人にも子供にも必要なのではないかと思う。

あしがるの家訪問

金沢にある子ども食堂、永井善隣館を訪ねる。
永井善隣館の隣の「あしがるの家」で月に一度、校下の子どもたちが集まってみんなでご飯を食べて、遊ぶ。
子どもが来てから帰るまで1時間くらいだろうか。

これだけいろんなことが1時間の間に起きるのか・・・
と久しぶりに目を丸くしてしまった。

ここのこども食堂はなんとお父さんたちの「ダベリング」の会が運営しているという。
あつまっておしゃべりをする仲間の一人が「東京ではこども食堂っていうのがあるよ。うちでもやってみようか」ということで始まったという。
東京の場合は経済的に食事が食べれない子が対象、という雰囲気があるが、金沢の場合そんな貧困家庭はない、そういう子を見つけるのは難しい、ということで、孤食にならないように、楽しくご飯をみんなで食べるというコンセプトで運営している。

こども食堂に来てくれる子供のお母さんからは「仕事の後に、子供のいない時間にいろんなことを考えられて助かっている」という話も聞くという。
家庭でも学校でもない、社会の中に子どもの居場所があることが、とても素敵だと感じだ。

ところで、金沢には「善隣館」がたくさんある。
戦後の福祉施設の名前なのだが、、こういうところに歴史を感じる。

地域の人が、新しいことを始められる雰囲気、意識を足軽の家でびしびしと感じた。
カレー美味しかったです!ありがとうございました。