言葉と意識と行為

なぜ目の前にあるソレを「いぬ」というのだろう。

誰もがソレを「いぬ」といって、問題がないし、便利だから。

なぜこういうときはああするんだろう。

引っ越してきたとき、隣近所の人に挨拶と、手土産を持っていくのはなぜだろう。(それが大和の紙袋にはいっていたほうがよりよいのはなぜだろう)

規範、道徳、倫理、こういったものは地域によって、文化によって違う。富山県の小学生は集団で投稿するし、石川県の小学生は一人でも道を歩く。富山県の小学生は「知らない人は恐ろしい人、無視しないといけません」と教わるかもしれない。

「いい」とおもうからそうさせるのだし、「わるい」とおもったらそうさせない。

「いい」「わるい」は会社によっても違う。組織が違えば違う。

組織が違えば意識が変わる。その組織で使われている言葉が意識をつくり、行為を作り上げる。言葉は、口から出てくるメッセージではなく、人の意識そのものをつくる。ブラック企業はブラックの価値観を当然のものとして語り、行わせ、それを意識させる。


寺院で、教会で、偉い人が「説教」をするのも同じ。物語を聞かせて、その世界をいしきさせる。それから、寄付やvolunteerなどの行為によって、意識を強める。信じる、というのはそういうことだ。

自分の感じたことを大切にして、慣習的な、与えられた外部のルールと、自分自身の幸せのための積極的に創造的につくるルールを分けて考える癖をつけてみよう。信じたことを、意識を、言葉で、行為で強めてみよう(中村天風の実践はここにある)。

今でも覚えている。青森県のねぶた祭りで出会った人は「私はブラック企業で働いているんですけど、ねぶたの日だけは何があっても休みます。休めないなら会社辞めますっていってあるんです」と話をしてくれた。ねぶたの仲間は、その人にとって本当に大切な、大切な、守って生きたい大事なものなんだと、感じた。

蛇足:ギリシャ時代のポリスでは「自由」とか「平等」とかいう話をしていたようだが、市民たちの生活は奴隷によって支えられていた。という。市民権があるかどうか、それが問題であった。私たちは自分たちが生きる権利をきちんとつかえているだろうか。。。奴隷として生きていないだろうか。黒人迫害時代のアメリカでは、黒人たちがそのエネルギーを音楽に費やした、らしいではないか。それが今は、黒人音楽、ジャズとして、世界の人たちを魅了している。結局何がなんだかわからないから、広い世界のことなど考えずにじぶんのサイズで暮らしてみたらいいんだろう。。

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学校の先生は残酷か。

ひとりひとりの生徒の自立心、意欲を管理と干渉、命令で抑圧することが、残酷かどうか。

でもこれは一部のお父さんお母さんも当然のようにやっていることだ。

会社という組織でも同じ。会社には会社のやりかたがある。

子どもは子どもでじゃぁどうやって世界で生き残るか、工夫していく。「この世はもっとしあわせなことがある、幸せを感じるようにしよう」という心をつくる子もいれば、「戦わなくちゃ!頑張らなくちゃ!」という子もいる。「え?ノープロブレムだけど?」という子もいる。うまくやるひとはうまくやる。羨ましいくらいに!生きていくために、仲間をつくる、仲間と出会う、仲間を集める、それもひとつのうまいやり方だ。

教育基本法、児童の権利条約に定められている「個人の尊重」という文言と実際が違うじゃないか、条約違反、法律違反だと言うこともできる。ただ、それを「罰する」人がいない。(実際、だれかが時間とお金を使って裁判を起こすこともできるのだが。実験して見てみたい。行政が機能していなければ、司法のほうからアプローチするのも手ではないのか。子どもの権利条約は、国連に申し出ればいいんだろうか?今度問い合わせをしてみようか。正直、ハッピーにならない気がする。)

学校で自殺する子どもを殺したのは誰?親?学校?友達?責任は不在で、誰も咎められない(責任についてはたくさん記事を書いてきた)。学校を卒業してしまえば、赤の他人、関係ない。そうだ、自立した人間なのだから。不登校、成績不振も咎められることではなく、学校という営みは保たれる。そして学校の外で塾やら、なんやらができてくる。「助けるシステム」をつくっていく。安心できる場所を外に見つける。これが子どもを(大人をも)とりまく「ルール」だ。

世の中の「ルール」を知り、その中でどう立ち回るか。教えてくれるひとは少ない。自分の心は自分で守る。あっぷあっぷな保育所のおとな、学校のおとなをどうして罰することができるだろうか。あっぷあっぷなお父さんお母さんをどうして罰することができるだろうか。とびっきりへんてこな歴史をもった日本という行政単位をどうして罰することができるだろうか。みんな、自分を守ることで精一杯だ。だからこそ、思いやりの心は、とびっきりうつくしくみえてしまうのだろう。

怒りにフォーカスしてしまう心よりも、今の時代、喜びにフォーカスができるように、子どもたちと、大人たちと、関わっていきたいとおもえた。

DV防止法というものがある。正確には「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律」だ。見ての通り、暴力を振るった側には「罰」を与えることはできない。ケッキョク、自分の身は自分で守るということなんだ。

人間が暮らしていく過程で、いろんな協力体制を築き上げた。家族は、婚姻は、かつては村の出来事であって、個人の出来事に留まることはなかった。現代における子供と親の関係、子どもとそのまわりの大人の関係も変わってきた。あたらしい「協力体制」が少しでも、利己的な個々人がしあわせな暮らし、リッチな暮らしを実現する助けになればいいとおもう。そんなオトノネになろう。


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教育県という言葉と現代の「引き寄せの法則」とスウェーデン

行政の方針で、教師は子どもたちを星占いの星座でグループ分けをした。すると、その分け方が社会的な意味を帯びるようになったという。ベルビーによると、「私たちおうし座はすぐに連帯感をもつようになった」とか。そしてまもなく、おうし座どうしは似たような行動をとるようになったので、教師の中に星占いを信じるものまで現れた。アジア系の中には、辰年生まれの子供は優秀だと信じる人たちがいる。アメリカ在住のアジア系移民を対象にした研究によれば、1976年(辰年)生まれの子供たちは、他の年に生まれた子どもたちに比べて高学歴だった。もちろん、これは、干支そのものが原因ではない。誕生年の干支の力を人が信じているからだ。(『ジャストベイビー』p130)

引き寄せの法則というものがある。想い続けていれば、叶うというものだ。信じていれば、そうなるというものだ。そう信じ続けて、信じ続けているからたまたまそうなった時に「ああ、本当にそうなった」となるかもしれないし、ある場合には信じ続けてその可能性をできるだけ閉じないようにして働きかけ続けてたまたまそうなった、ということもあるだろう。

で、教育県だとか、スウェーデンとか、そういった言葉で「我ら」の集団性とその優越性を信じさせる環境ができてしまっている反面、叫び声をあげて泣いている人たちもいるのも現実。そう信じることで、そうなるという原理はない。バイアスだ。引き寄せの法則とは、人はバイアスに影響されて物事をみている、暮らしているという事実を述べている。人の心が大切だということを述べているにすぎない。

「我ら」として暮らすことの安全性はある。所属感がある。けどそれで苦しんでいる「あなた」がいたとしたら?「我ら」は何もしてくれないかもしれない。「我ら」は実体がないかもしれない。(社会という言葉はもともと日本になかった。初めて使われた時、それはほとんど会社の意味だった)

ここに、富山の高校生たちが宗教(カルト)の門を叩く動機がある。と、僕はおもっている。

「〈私〉はあなたたち〈我ら〉とどうやって一緒に暮らせるのですか?私は、私でなくなりそうです」

いろいろ言葉にすることが批判、攻撃、非難に聞こえるかもしれない。それが、日本で「研究」の価値、特に人文科学や経済の分野で「知ろうとする営み」の価値が低く見られている原因をつくっている気がしている(そのかわりだろうか、SNSでいろんな情報が自由に発信されている時代になった。)本を出すよりも、今の、まさに今起きていることを即座にSNSで発信できる。動画もつくれる。ライブもできる。

歴史と、積み上げられた時間と、人間のつながり、小さな宇宙があちこちにあって、その中で安心していられる場所、「これでいい」と息を落ち着ける場所がある人は、幸せだ。ひとりでは生きられない。

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金沢のフリースクーる???IRORI訪問

https://www.irori.lyhty.or.jp/

???フリースクールというよりかいろいろやっている場所だった。

はじめてから、3年。で、ああー、こうなるんだー。

不登校の子の居場所もやるし、発達支援もやるし、子どもに関わる大人があつまってわいわいやるキャンプもやる。これからまだまだ広げていく、やりたいことをやるぜ!というスタイル、勢いだった。わっほーい

広がる、広げる、活動するには誰かと一緒にやる、仲間を集める、信頼してもらう、支えてもらう、いろんなヒトとの繋がりが大切なんだなぁと、話を聞きながら思った。石川生まれの石川育ち、石川での教員経験をしながら、たくさんの人から信頼され、たくさんの人に助けられてきたことが、今のIRORIに繋がっている。

ちなみに母体会社の名前はIRORIではなくLYHTY(リュヒト)といいます。

オトノネはオトノネなりにはじまって、これからどうなるんだろう。僕は僕らしく、僕の限界まで。今行けるところまで、いってみよう。

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子どもの声が大きい理由

子どもの声が大きい。

というイメージがある。

溢れ出るエネルギーなのだろうか。

僕はそうはおもわない。

幼稚園、保育所、学校、もしくは家の中で、「聞いてもらう」ための距離、「もっと静かに話してもいいんだよ」という安心感がなくて、大きな声を出すのではないだろうか。普段は「集団」の中で埋もれてしまう声を、伝えたくて、聞いて欲しくて、大きな声を出すんじゃなかろうか。保育者1対子ども20人の保育園、他の子の声に負けないように、声を張り上げているだけではないだろうか。

声のコントロールは心のコントロールだ。

体のコントロールは心のコントロールだ。

私にとって、姿勢や、声は、心の表れ。

いつも体を緊張させている子どももいる。

絵本は一対一で読むものだったのが、いつのまにか集団活動になってしまった。そうじゃないか。絵本はもともと、一人のために読まれるものだったと僕は思っている。

会話の流れ(どのタイミングで話したらいいんだろう)ということも気が付けるようになるまでには、どんな発達段階を踏むんだろう。


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あしがるの家訪問

金沢にある子ども食堂、永井善隣館を訪ねる。
永井善隣館の隣の「あしがるの家」で月に一度、校下の子どもたちが集まってみんなでご飯を食べて、遊ぶ。
子どもが来てから帰るまで1時間くらいだろうか。

これだけいろんなことが1時間の間に起きるのか・・・
と久しぶりに目を丸くしてしまった。

ここのこども食堂はなんとお父さんたちの「ダベリング」の会が運営しているという。
あつまっておしゃべりをする仲間の一人が「東京ではこども食堂っていうのがあるよ。うちでもやってみようか」ということで始まったという。
東京の場合は経済的に食事が食べれない子が対象、という雰囲気があるが、金沢の場合そんな貧困家庭はない、そういう子を見つけるのは難しい、ということで、孤食にならないように、楽しくご飯をみんなで食べるというコンセプトで運営している。

こども食堂に来てくれる子供のお母さんからは「仕事の後に、子供のいない時間にいろんなことを考えられて助かっている」という話も聞くという。
家庭でも学校でもない、社会の中に子どもの居場所があることが、とても素敵だと感じだ。

ところで、金沢には「善隣館」がたくさんある。
戦後の福祉施設の名前なのだが、、こういうところに歴史を感じる。

地域の人が、新しいことを始められる雰囲気、意識を足軽の家でびしびしと感じた。
カレー美味しかったです!ありがとうございました。

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今日の面談

今日じゃないけど。。

「あのページ」をみて来てくれたお父さんとお母さん。
このページ
https://otonone.com/toyama/index.html

「勉強しなさい」がくちぐせになって、けどそれ子どもが勉強をするわけでもない。
「勉強しなさい」と言ったとたんに表情が変わる。。。

親と子、の関わり合いだけではこのまま何も変わらないとおもって、相談に来た、という話だった。

その子はスポーツに夢中だという。

学校という閉じた世界で楽しめるものは少ない。部活か、お喋りだ。
勉強を楽しめる人はめったにいない。

学校は卒業したらそれで終わり。なんの責任もない。
そんなシステムだからこそ、家庭で世の中のこと、生き方のこと、価値観を伝えなくちゃならない。

お父さん、お母さんが、生き方でそれらを示さなくてはいけない。
とおもっている。

と同時に、時代が変わって、子供は時代に敏感に反応するけれど、大人は昔の世界、限られた情報の中で子どもに「べんきょうしなさい」と言葉をかけるしかないという社会がある。だからこそ専門家、価値観をもって子どもと関われる人に、子どもを教育してもらう、関わってもらう、学んでもらうことが大切だとおもっている。

家庭は、ストレス社会に生きる子どもが安心できる場所であってほしいとおもう。
子どもが大人にたくさんのことを教えてくれる。
大人は子どもからいろんなことを教わっていったらいいとおもう。

私もいつも、子どもからたくさん教わっている。

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世界が変わるらしい。

近々、アメリカから世界が変わるらしい、という話を耳にした。
どうやら数多くの「支配者たち」が逮捕され、新しい法律がつくられるらしい。

アメリカの日本支配も終わるのだろうか。
そうしたら日本に何が起きるだろう?
鎖国でも始めるのだろうか。

引きこもり世界No1ですから。

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道端で困っているおじいちゃん

がいた。

え?こんな夜に?
この通りはそういう場所ではない。。。。

雨降ってきたし。
声をかけてみる。
「靴履けますか?」そう、片足が脱げていた。
足を上げたくても上げられなくて困っていたのだ。

靴を履いた。うん。帰れるかな。
一度お別れをして、またすぐに戻ってみた。
いやぁ心配になりますよそりゃ。

昔図書館で本を読んでいるとき、突然、ガタリと物音がした。
よくわからなかったのでよくわからないままに時間が過ぎて、あとでおじいちゃんが倒れた、ということを知った。
その時、とても情けなくなった経験がある。

おじいちゃん、大丈夫かな。。。

おじいちゃんは同じ場所にいた。
結局、名前を聞いて警察に電話をして、家族とも連絡がついたということでめでたしめでたし。
おじいちゃん、家に帰れたよね。

最近高齢者関係の人と会うことがあって、話を聞いていたところ。
いろいろと考えてしまった。

おじいちゃんの手冷たくなってたな。。。今はぬくぬくしていることだろう。よかったよかった。

いわゆる「徘徊」というもの。
感情が関係しているのか、無意識なのか、私は勉強がしたことがないのだが。

あとで警察から連絡があった。
「無事に、家族が迎えにきて家に戻りました!」
そして私の個人情報は伏せた、という。

こういうところでできるつながりも大切にしたいのだが、警察は警察の事情があるんだろう。
あとでごたごたあると面倒なんだろう。。。
昔だったら、「どこそこのだれだれさんがねぇ」とかそういう話になっていただろうとおもっている。
人と人が遠くなった。。。
いろいろ話をきけたらよかったんだけど。

おじいちゃんおばあちゃん向けの何かはじめてみようかな???

今度会ったら、オトノネに遊びに来てグンデルの音を聞いて欲しいなぁ。

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やりたいことはたくさんある

少子化も高齢化社会も
農林水産業の衰退も
人口減少も
芸術家が生きていけない日本文化も

一度に全部解消するアイデアをもっている。
そのために必要なのは、人が互いに学び合い、成長できる場所だ。

otonone-オトノネ-はその中心。

みなさん、otonone-オトノネ-のシンボルマーク知っていますか?

やりたいことが多すぎて、小学校からの友達にこう言われたことある。
「来世でやれ!」

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