ちゃんと感じるための作法

久しぶりに、小学生以来に、お絵かき教室の先生にあってきた。展覧会をしている公園のカフェにいく。絵は、見る場所で変わる。見方とはそんなものだ。近くでみるよりも、遠くで見た時のほうが、なにかこう、生き生きとしている。力が伝わる。感じるためには、それなりの体の状態、心の状態になることが大切。展示会の挨拶にこんなことが書かれていた。「ほぼ毎日、感動する場所で書く私、感動する自分でありたい」と。フシギだなと思えること、感じること、違和感はよくわからず曖昧なママ忘れられてしまうことが私には多い。夢のように。けど私が感じたことなのだ。頭をぐるぐる回す生活に慣れてしまったオトナには、感じたことをちゃんと感じるための「型」があってもいいのかもしれない。それが音楽であったり、お絵かきであったり、おしゃべりなのだろう。感じていることをちゃんと感じる時間を、私は大切にしてこれただろうか。

忙しい日常の世界、驚きや感動、発見を見て見ぬふりせず、コドモのように、時間をかけて、関わりあおう。と私はおもう。じゃないと自分の心の動きも、姿にも、気がつけなくなってしまう!

体は忘れない。


『The Key Muscles of Yoga: Your Guide to Functional Anatomy in Yoga』

体はしみついた癖をなかなか手放せない。声の研究をしていたとき、「Right to speak」という本を読んだ。その時に「人はほとんどが、神経に染み付いた緊張、こわばりのせいでその人の本当の声を出せずにいる。」と書いてあった。声だけではない。こわばった筋肉は肩こりになる。腹痛、頭痛は「違和感」からあなたへのメッセージだ。声は?人は気が付きにくい。表情、反応、いろいろな心が声の中にでてくる。姿勢の中に現れていると私はおもっている。

肩が凝った、というのでマッサージしてもらおう。けど肩がこる習慣がそのまま残ると、また肩がこる。けどマッサージを受けると、緊張がほぐれた体が一時的に「まだほぐれていたころ」を思い出す。すると心も落ち着く。気持ちが良くなる。こうしたふとした、ときほぐれたときにこそ、「ちゃんと自分の中にあるものを感じる、素直に、感情をだす」話すことをしてみたいとおもえる。夜、オフロに入った後、本当にぼーっうっと、「今、私は何をみて、何を感じてる?私は、なにか、言っている?」と。違和感があれば、感じておいたほうがいい。もしかしたら、ただの違和感が、モンスターになってあなたを病気にしたり、暴力的な人間にしてしまうかもしれない。

歌を歌おう。音楽をやろう。声を自由に使おう。表情を、そのままの姿を出せる場所、時間がある人は、幸せだ。そういう場所、時間は、とても大切なもので、守るに値すると私は感じる。

自閉症

コミュニケーションがとれないの代名詞になっている自閉症。
日本でどれだけ知られているだろうか。
多かれ少なかれ誰もがこういった傾向を持っている。
自閉症と呼ばれている人たちは、誰もが持っているこの傾向が、全体のバランスからはみ出てしまっているわけだ。

本を読んでいて
「徹底的な関わり合い(intensive interaction)」
「関わり合い指導(interactive teaching)」というコトバに出会った。

『自閉症の子どもたち』(p. 206)

探してみるとyoutubeにもでていた。
私はその音楽性、演劇性、人間性に目を向ける。オトナが何をしているのかもわかる。
このブログをみてくれているあなたにもわかるだろう。
サイコドラマ、共感、遊び、どんなコトバをつかっても、説明ができても、これを実践して、試みて、関わり合いをもてる専門家はどこにいる?
と私なら思ってしまう。

「患者がでている!プライバシーは大丈夫なのか??」と驚いた人がいるかもしれない。
日本で自閉症の学術研究が遅れている、治療法の確立が遅れているのは、こうした閉鎖性が影響しているかもしれないと、つねづね思ってしまう。

今、療育というものが広まっている。しかし療育の専門家はほとんどいない。
「絵を使ってコミュニケーション」「ほめる」といった情報しか、療育の現場には伝わっていないのではないか。
日本で自閉症、発達障害をもつ人との関わり合いを知る人は少ない。
インターネットで「日本語」を使って検索しても、本当のことを話してくれる人は少ない。
話すだけでなく、実際にそれができる人はもっと少ないだろう
海外にいけば、自閉症児のためだけにつくられた学校もあるくらいだ。

TEDでは、いろいろな人達が世界にはいることを日本人にも伝えてくれている。

いつでも道は開かれている。誰にでも開かれた道があると私はおもっている。
芸術だ。私が知っている人で、芸術の力をすべての人に開こうとしているのが川手鷹彦氏。
http://kawatetakahiko.info/works/index.html

私はひとりひとりが自分の意識を持って、ユニークな方法で力をだし、社会にそそいでいくことだけが、ひとりひとりを幸せにするのだと信じている。

「英語勉強してどうなるの?」という人がいる。
あなたはある意味で、正しい。日本の中にある情報で満足するのであれば、英語など、習う必要がないのだと私はおもっている。
モット知りたい、興味がある、好奇心、創造力。本当はこっちのほうが、大切なのだ。

その他
option method

Autism Treatment Center of America™Home of The Son-Rise Program® Since 1983

Gentle teaching
https://www.gentleteaching.nl/gentle/en/wat-is-en/sum

ビートルズの古いLPのジャケットに惚れ込んで買う心

今僕の目の前には、韓国で買ってきた、掛け軸、水墨画の複製がある。
もちろんお土産屋でみつけた安物だ。
この年になって、やっと、ちゃんと、眺められるようになった。見られるようになった。
若い頃は、ただなんとなく、いいなとおもって、買ったものだ。

今になって、その絵を眺めながら、絵というのは、別の世界の扉のように思えてくる。
好きなアーティストの写真や音楽のジャケットなんかも、今ココにある日常の世界とは違う世界への入り口のようなものだ。
見ながらたくさんのことを「感じられる」。不思議と魅了される、心が出ていくような感覚。
同じ絵を一緒に眺めながら、ただ眺めながら、感じる時間を大切にしよう。ただその時間を過ごすことが、大切なのだ。

現実の、皆が承認している、確定している、どこかわかりきった世界とは別の、
不思議で、日常から離れた、何かが起きそうな、そういう世界。
絵を眺めるというのは、創造的な赤ちゃんの心になろうとする心の動きなのかもしれない。

だから人は絵を買う。ビートルズの古いLPのジャケットに惚れて買う。
ドキドキの入り口を買う。
ちゃんと「絵を見る」「見入る」のは、絵を買うこととは別の行為であり、心の動きだ。
絵の「リッチネス」を引き出すのは、人の心だ。絵を見てどきどきできる人は幸せだ。

曼荼羅、ドリームキャッチャー、五芒星、いろいろな入り口がある。
そっちの世界にいくための、リッチネスをつかむための心持ちというものがありそうだ。
昔の人は、神社にお参りにいくこと、祈ることがそうした非日常の世界につながる入り口だったろう。あの鳥居がまさしく。
昔の人が鳥居の前に立つときのような気持ちを、いまの僕らはいつどこで感じるのだろうか。
絵の前で。ビートルズの古いLPのジャケットの前で。

裏山で見つけた石を拾うこと、道を歩きながらみつけた風景を写真にとるのと同じように、絵を買おう。それがこの固くなった日常の時間を止める役に立つはずだ。
昔、多分、10年前、東京のギャラリーで「絵を買う人」について考えてから、長い時間がたった。
答えというものは、知らず知らずにやってくる。求めていても、追いかけても、得られないものだ。

インドネシアに行った時、ジョグジャでバチックを買わなかったことを後悔している。あれは、とても、心が惹かれる絵だったのだ。
帰りの飛行機代が心配で、買えなかったのだ。