スーパーで学ぶ

「他店に対抗!」と書いてあって、卵が激安だった。
ああ、競いあわなくちゃ、生き残れないのか、ふりむいてくれなくなるのか、とおもった。私が一番避けて来たことだ。
競い合っていたら、みえなくなる自分がいる。けどついつい競い合ってしまう。大切なことのために競い合う勇気が、なかったなと気がつく。

世の中にはSEO対策というものがある。昨日、SEO対策を、捨てて、
本当にわかることだけを目指してHPを作り直した。

私は本当に、頭がわるいのだ。

シジョウとイチバ


 

不動産屋さんにいっていろいろはなしを聞きながら、経済の勉強、今まで避けてきたなぁとおもう。ごちゃごちゃしていてよくわからない。生きた心地がしない。だけどふとしたきっかけで持っていた本を読んでみる。

安冨歩センセイの『生きるための経済学』だ。たしか心理学の本を読んでいるとき、参考文献ででてきていた本だ。つい最近考えていることを経済学の分野でまともに扱ってくれているのがうれしかった。彼は経済用語の市場(シジョウ)というものと、築地市場というときの市場(イチバ)は、現実には、違うものだ。イチバはもっと生々しい。シジョウと呼ばれているものも、本質はイチバであって、シジョウの原理など、空論だというのが安冨センセイのいいぶんである。

ここ数年ほど、私は考えが間違いではなかったか、たとえ間違いではないにせよ、「シジョウ」のことばかり考えて「イチバ」のことを考えないのでは、大きな問題を見落とすことになるのではないか、と考えるようになった。そこで手始めに私は、「シジョウ」と呼ぶのをやめることにした。最初は気持ちが悪かったのだが、最近は慣れてしまって、平気で「外国為替イチバ」などといえるようになった。そうしているうちに私は、市場(シジョウ)という抽象的概念に覆われて見えなくなっていることが、じつに多いことに気がついた。そこで本書は、そのベールの正体を明らかにするとともに、それを剥がした後の生々しい世界について意味のある思考を展開するための方法を、読者とともに考えていきたいと思う。(17頁)

行動から始める認識のアプローチ、ユニークだ。生きていくためにはお金が必要だ。生きていくというのは、選択の問題だ。では経済における自由とはなにか?安冨センセイは、なぜか「自己欺瞞」という言葉を使う。この自己欺瞞が、経済というものを考えるのに大切なのだと。心理学でも自己欺瞞、こころを守るために自分を騙すという人間のしくみが観察されて、議論されている。専門用語を使うと、防衛というものだ。

人の心がもし「経済」「仕事」「責任」「自由」「お金」などといった言葉にがんじがらめになっているならば、そのがんじがらめになったこころに向き合うためには、そしてがんじがらめになっている状態からすこしでも具体的な行動を起こすヒントとして、言葉に対する認識を改める、言葉との関係を見直すことも大切だろう。一体、学校で習うであろう「神の手」が本当に存在するならどうして不況不況だというのか、という問に、センセイがちゃんと応えられるかどうか。こうしたわだかまりが、もしかしたら、大人になる彼らのこころの闇、病みになることだって考えておきたい。

社会、経済、どうこうではなくて、飛び込んで、ただ生きればいい。
しかし不器用な人間も、いるのである。

最期に阪上センセイの『音楽療法と精神医学』にあった記事を思い出したので引用しよう。ある音楽医療に関わる施設が、不経済、非効率のために活動をつづけることができなくなった。

クライエントのひとりがこれに反発していった言葉のひとつが、「ぼくらはただ生きていたいだけなのに(なぜ行けなくなるの?)」というものだった。(87頁)

経済という言葉は、効率という言葉は、誰のためにあるのだろう。その非効率な、非経済な人間の生き方をささえる経済学を、若者には学んでほしいとおもう。

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追記
安冨センセイも似たようなこと言っていた。

価値を創出するものとそれを阻害するものとを切り分け、後者を抑制することで前者を活性化することが、ポスト・クリティカルな経済学の目指すところとなるはずである。(p.108)