算数ができないのはLDかスローラーンなだけか、それとも経験不足か。

算数ができない、という小学生がたくさんいるらしい。

で、よくよく聞くと、かなりいるらしい!

で、さらに聞くと、高校生ばりに、課題が多いらしい!

小学生に演習などいらない。
その時間を経験に使って欲しいのだが。

とおもえるくらい、小学生は算数の「抽象性」を支える「具体的」な経験が不足している。
理科でもよくあることだ。国語でもよくあることだ。社会だってそうだ。

「蛇」という言葉は知っているし、映像でみているし、変温動物であることもわかっているし、、、、そんな
「蛇」と関わる経験をもった子が少ない。中学生によくあるパターンは、「小問題ができても、文章題ができない」子。

この子は、ただただ練習させられ、「具体性のない」世界だけでなんとか自分なりにルールを作って計算できるようになったが、結局、「現実」という基礎がなっていなかったのだ。
小学生から勉強嫌いが多いという富山県(石川県もそうらしい)。

ーーーーーー

19800と6720のどちらが大きい数字ですか?

この問いすら、子どもにとっては強大で、おもしろいものだ。
お母さんと一緒に買い物をして、レジでお母さんが出すお金を実際に見ているだろうか。
その関係性を子どもは勝手に学ぶ。(クレジットカードで払っていたらわからない!)

単位などは、経験がなければまともに扱えない、かもしれない。
逆に、生活の中で単位と関わっていたら、「え?ふつうだよね」となる。

学校の中では、今の学校が採用する教育方法では、それは望めない。
(お父さんお母さんの時代とは、教え方が違うから、子どもが混乱する(だから学校に任せなさい)という塾や学校の先生がいるらしい。みてみると、確かに、全然、違う。わかりにくくなっている。子どもがムリ!なのもわかる)

富山県の学校教育に話をかぎろう。(石川県は、今、西南部中学校ががんばっているからさておき)
小学校の教育は、中学校の教育は、高校受験に向けて子供達を「振り分ける」場所になっている。
そう考えなければ、理解ができない。学校の先生たち、何をしているの?

だって、ありゃ、できないわ!
あの課題、子どものやくに立たないわ!

上位の生徒のための授業。
それが小学校でも変わらないという事実を最近知った。
もちろんそうではない学校もあるだろう。

マンモスになるほど、その傾向は強まる。

結局、学校から身を守り、学校の外で教育資源をみつけ、利用する家庭教育にシフトすることが大切だと、おとのねさんはおもいました。

僕の知り合いの山田さんのお子さんは、小一ですが。
お父さんと一緒に「遊び道具」をつくりながら、長さの感覚、単位の感覚をバッチリ育てていました。

「みんなで一緒に」学校に行くのではなく。
「私は私の都合で」学校に行くくらいがちょうどいいだろう。

学校は学校の都合で、授業をしているのだから。

それを選ぶ自由が法律的に、日本の「子ども」には認められています。

まだそこまで考えられない子どもを、お父さんお母さんの知恵で助けてあげてみてはいかがでしょうか。
学校には、学校の事情があるのです。

「名詞」の抽象性

オトノネひろげるシェアぼたん

「みんなで一緒に」を喩えてみる。

僕が高校生の時、駅でぼうっとしていたときの話。
(一度、ブログで書いた気がするがまあいいや)

目の前を通り過ぎる人たち。
それぞれの思いで、それぞれの足取りで。

「もしこの人たちが、一緒に何か一つのことをやろうとしたら、どんでもないチカラになるんじゃないか」

そう、ふと、突然に、思えた。

僕は孤独だったのだ。

ーーーーー

そんなわけで、「みんな一緒」という言葉を説明してみよう。

「みんな一緒」は、パッケージツアーのようなものである。
君の見たい風景を心ゆくまで味わう時間はない。
けどツアーだからいろんなところに(せわしなく)連れて行ってくれるし、「みんな」で行くから、安くなる。

ーーーー

行動レベルでは「みんなで一緒」は可能でも、
感情のレベルで「みんなで一緒」はありえない。
そしてこの感情レベルに焦点が当てられないのが、日本の現代社会であり、近代性(時代遅れ)であろう。

ひとりひとりの成長を見守る保育園ですら、「小学校で椅子に長時間座れるように」という目標で子どもに関わっていることが多いと言う。
小学校でやりきれない課題を保育園に押し付けるのか。(小学校の先生は椅子に座れない子を「発達障害」にしてしまう)

保育園は学校の下部組織ではない。
だが、現実は、「小学生養成所」になっている場合がおおい。

小学校は「みんな一緒」に「授業」を受けられるように、子どもたちに要求する。
そうして机の「中」に引きこもって神経をやられる子どもたちがいる。

「みんな一緒」が悪いとはいわないが、それが「当たり前」になってしまった子どもたちの多くが、中学校、高校で苦しんでいる姿がある。

「みんな一緒」は大人たちが作り出した価値である。
その価値観で、子どもは「3歳から」育てられているらしい(3才の不登校(不登園?)児がいるという)。
「子ども」時代を知らずに「大人」にさせられていく多くの子どもたちが、「いやいや、無理無理」というサインを出している。

そんな子どもたちが「集団旅行パック」から離れ、自分で旅を始められるように、自分の一歩を進めるように、お手伝いをしていくのがおとのねです。学校は、利用する場所であって、「みんなが」「同じように」行かなくてはいけない場所ではありません。

——

「みんなで一緒に」の価値をどこかで感じるために、「みんなで一緒に」の中で潰れないように。
バランスが大切。順序が大切。心が大切。

自分の心を「ちゃんと」大切にできる人間が、誰かの心を「大切に」できない道理はない。

行動レベルでの関わり方に、偏っていないだろうか。
おとのねさんの話し方(人は税金と保険料と教育費と家のローンを稼ぐ動物か)

オトノネひろげるシェアぼたん

「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

おとのねさんの頭は混乱しています。

僕はいくつかの保育園で仕事(勉強)をしているが。

僕は僕なりに勉強をしていた。
(それが実はアンガーマネジメントとよばれるものだったりするのだが)

小さな子どもと関わり、慣れてきた最近。
とある保育士の先生からいろいろと言葉をもらった。

「ぼうっとしてるよ」
「何かしてあげないの?」
「導いてあげないのね」

公園に行ったらタンポポをふーっとしてみせていた。
それからその子は自分でもふーっとやるようになった。
園に帰ってシャボン玉をふーっとしてみせていた。
それから今日、その子は生まれて初めて、自分でシャボン玉を吹いた!
(もちろん、シャボン液につけるところは先生がやった)

1歳8ヶ月の子。

言葉がけや振る舞いのひとつひとつの意味の深さ、繋がりをしる。
できなかったことができるようになったその子は、とても、満足そうだった。

言葉にも、笑顔にもでていないが、真剣な顔、表情、その子が出す雰囲気をみたら、どんなに今彼が自分に驚いて、楽しくて、誇らしく思っているのか、感じることができた。

ーーーーーー

僕は「ぼうっと」しながら、子どもをみていた。
その場で何が起きるのか。子どもは何を見つけ、どのように関わろうとするのか。
僕が気になっていたのはそこだったから。

けどその先生は、何かを起こそうとして、環境を作っていた。関わり合いをし続けていた。
公園にいくときには「公園で何ができるか」考えていっていた。
公園を、その子たちが使い尽くせるような関わり合いをしているという。

日が強い日は日陰が多い公園を選ぶ、とかそういうレベルではない。

なるほど。

シャボン玉を膨らませるなど、教わらなければできないことだ。
そして目の前で、1歳8ヶ月の子がシャボン玉を吹いて満足している。
シャボン玉をこの歳に吹けるように「導く」先生の関わりがあったからだ。

ーーーーー

教育界で最近、話題の坪田信貴さんの指導法も、僕にとっては「導く」ものだ。
定めた目標に向かって、「進ませる」言葉がけ、関わり合いをする。
「導く」という言葉では生ぬるい、「引きずっていく」くらいがちょうどいいかもしれない。
引きずられて、心が擦り切れている子がたくさんいる。

「コレができるように」という目標設定がある。

僕にはそれはできないと思っている。
(まだ、僕にはできない)

(いやいや、目標が決まれば、それに本気で関われる状態になった人に対しては、「道案内」をすることができるし、それが学習塾オトノネの売りだぜ!導くって言葉が、僕にはどこか、合わない)

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「導く」か「任せる」か
それが問題だ。

「導かれる」ことで幸せになる人がいるかもしれない。
(実際、坪田さんの著書のあちこちに、「導かれて」人生が変わった人たちの記事が載ってる)

「導かれる」ことで多くの高校生たちが、大量の課題と学校の先生の呪いの言葉に埋もれて窒息しそうな暗い顔をしているのも現実。

「導く」ことの責任が、僕にはこわいのかもしれない。
(というか僕は五行でいうと「水」らしく、僕自身が「委ねる」感じの人間なのかもしれない。けど逆に解釈すると、悠々と誰かを「導く」チカラももっているかもしれない。言葉って難しい)

ーーーーーー

例えばネイチャーゲームとか、学校の授業もそうか。
「自然に触れる密度を高める」ための「導き」がある。
「自然にまかせていたら、得られない学び」をえるための「導き」がある。

そうおもったら、僕が不得手な「導く」という言葉も悪くない。
「任せる」ことができる環境に「誘う」と言い換えてもいいかもしれない。

喜び合えることが一つでも増えていけるように、という愛情だけではどうにもならない。
愛情にはカタチがない。
「導く」という愛もあっていい。

学校に行きたくないんだけど学校に行かなきゃと思っている子に、
「休んでもいいよ」という言葉は、「誘い」であり、「導き」であり、「任せる」ことの全てを含んでいるようにおもう。

保育士のプロは、愛をもって、知恵をもって、子どもと関わる。
その知恵が、保育園という場所で継承されているという。

僕はその知恵を、どうにかして体系化したいとおもっている。
オトノネをお母さんたちの仕事場にするために。(どうやら僕はここが気になっているらしい)

勉強する時間つくるか。
うーん。フルで働くか。保育園で。

あは

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「導いてもらいたい」という気持ちでお父さんお母さんは塾に子どもを通わせるだろう。
そこでオトノネは「いやここは任せるところですよ」というわけだから、度肝を抜くお父さんお母さんもいるだろう。

「導かれて」しあわせになるとはどういうことか、僕にはよくわかっていなかった。
ただ、目の前でシャボン玉を吹けるようになった(真面目な顔で、なんどもなんども吹いている!)その子の顔をみて、

僕は研究を始めようとおもった。

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オトノネの本棚には、ずらりと高校入試、大学入試の「参考書」が並んでいる。
おとのねさんは、その子の発達段階、学習段階に応じて、そして志望校に応じてカリキュラムを組み立てられる。
そのために、どんなスケジュールで進めて行ったらいいかもいえる。(行為レベルの話ができる)
おとのねさんの話し方

今度は、別の棚に、「おもちゃ」を並べて、同じようなことをしようというのが、オトノネさんの計画だ。

その点、「勉強」も「遊び」も変わらないのかもね。

おもちゃも、学校の宿題も、同じ。

「導く」も「任せる」も、どちらでもいい。
どっちもあっていい。

どっちも必要だろう。

モンテッソーリ教具がその極みかもしれない。
「任せる」と同時に「導く」。

けど僕はもう少し、ぼくなりに、もっと素朴に、おもしろく、「あそびの体系化」をしていきたいなぁとおもった。
例えば、「ひも」というものでどんなあそびが発展していくのか。

乳児期の「ひも」との関わり合い
幼児期の「ひも」との関わり合い
学童期の「ひも」との関わり合い

この流れを体系化していけば、「あそび」がいわゆる「お勉強」にとって大切であると胸を張って言えるようになるかもしれない。

ーーーーーー

保育所でフルに働くかー
どうしよかー
ああーーーーー
残業とかまじで僕無理っすよ?
嫌なんだよなぁ‥保護者を喜ばせるための運動会とか、出し物を「やらせる」とか。(年長になったらやってもいいとおもうが)

その考え方も、改めないといけないかもしれないけど。
(イベント行事を一切(年に一回だけ)やめている保育所を知っている。日々、日常の保育のなかに全てを注ぐというスタンスの園だ。僕としてはそっちの方が好きなんだが。だって、保育士の先生の負担の代わりに得られるものが、小さすぎる(子どものアルバムの写真が増えるだけだ)と、僕はおもうから。子どもはそんな年に一回のイベントがきっかけを学びの時間にするチカラがあるだろうか?年長くらいになったら、できるのかな)

ーーーーーーーーー

有名な倉橋惣三という保育実践者がいる。
この人が掲げた「誘導保育」という考え方は、これなんだろうと、しみじみ、実感した。
「誘う」を英語にすると何か、グーグル先生に聞いてみた。

invite

と出た。

素敵だなぁとおもう。

くるかこないかはわからない。
けど、お誘いしますよ。という姿勢。
その距離感がいい。

この「誘い」を悪用すると、悪徳商法、マインドコントロールになってしまうところが人間臭い。

心が大事。

混乱していた頭が、少し整理できた。

ーーーーーー

あーでも保育園って、やっぱり文化があるから、いろんな保育園で「観察」した方がいいかなー
そうすると、アルバイトができなくなり、金欠になるなぁ困った!

とりあえず笑っとこう!

ーーーーーー

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉が育てるもの。言葉が傷つけるもの。

お母さんにはお母さんの考えがあって、言葉を使う。

例えば「こんなルールがあるのっておかしくない?」
と、子どもが言ったとする。
子どもが「違和感」を感じた瞬間だ。
この「違和感」というものは、とても大切なものだとおもう。
世界に対する不思議。人間世界と関わり合っていくきっかけ。
頭が混乱している。どうしたらいいの?

お母さんはどう答える?

ーーーーーーー

ひとつの「いい」関わりとしては

「なんて言われたの?」
「何があったの?」
「どう答えたの?」といって、その状況にもう一度子どもを立戻らせて、想像させて、再現してもらうことだろう。

それから

「どんな風にかんじた?」
「嫌だった?」
「怒りたくなった?」
「悲しかった?」

そのときの子どもの感情を聞く。
聞く。

そうすることで、「ああ、その時自分は、こうだったんだ。とにかく、そうなっていたんだ。私の心は」と、子どもは「ちゃんと」経験をモノにできる。
何があったか。何を感じたか。

子どもの言葉、仕草の調子をみて、「ここは、その子にとって大事そうなところだな」とおもったら、繰り返して言ってあげたり、「もう少し話、してみて」といったり。

日常的な会話のギアがあるとしたら、この時のギアは限りなくゼロに近い感じがするだろう。
呼吸が落ちて、相手の息遣いを感じられるかもしれない。

ーーーーーー

もしかしたらお母さんは、「そういうときは、こうする」といって指示をだしたり、「それは◯◯だよ!」といって価値観を与えてしまうかもしれない。その時、お母さんが言葉を使う響きが、言葉をつかうときの感情が、子どもにも伝わる。

「ああ、これはダメなんだ」
「ああ、これは間違っているんだ」
「ああ、私が悪いんだ」

もしくは

「ああ、私は間違っていなかった」
「ああ、私はこれでいいんだ」

とおもう。

イイこととワルイことが生まれる。
そのうち、「これはイイ」「これはダメ」で思考が停止するかもしれない。

ーーーーーー

子どもは世界を解釈しようとしている。
子どもの目線で。子ども自身の心で。

大切なことを学ぼうとしている。
「こんなとき、どうしたらいいんだろう?」
頭が混乱している。わからない。けど、「違和感」は感じている。

そんなとき、
「そんなルールなんて、意味ないよ!おかしいよ!自由にやりなよ!」といったり、
「ルールは大切よ。守りなさい。ルールを守るから、好きなことができるのよ」ということもできる。

それは「教えていいこと」なのか。
「教えてはいけないこと」なのか。

一口には言えない。
僕にはわからない。

ただ、子どもが生きている環境は、お母さんが生きていた、お母さんが生きてきた環境とは違うだろう。
時代が違う。地域が違う。周りの仲間も違う。

その子が生きているこの時代、この場所で、子どもはどんなふうに生きたらいいのか。
誰もわからない??

だから、一番、間違いがなくて、危険のない、そして、経験してきた感情と出来事をちゃんと整理するような言葉がけは「いい」ことだとおもう。

その子がこれから出会って行く、お母さんが出会ったことのない出来事に、その子が対処していけるように。
自立できるように。

ーーーーーーー

例えば、「ルールは大切よ。守りなさい。ルールを守るから、好きなことができるのよ」と言ったとき。
お母さんだったら、その「作戦」を取れたかもしれないが、子どもはその「作戦」を実行して、心に負担がかかるかもしれない。
その子はその子の心をもっている。
「ルールを守る」ということを身につけ、「自分を守る」ことができなくなるかもしれない。

例えば、「そんなルールなんて、意味ないよ!おかしいよ!」と言ったとき。
「ルールは破ってもいい」と覚えて、ルール(時として理不尽で意味不明)の中に潜んでいる大切な意味を感じられなくなってしまうかもしれない。

お母さんが生き延びてくるときに使ってきた言葉は、お母さんが生き延びるために必要な価値観(言葉)だった。

今その言葉は、その子に必要か。

今その子がもっている可能性を、自然さを、壊してしまわないだろうか。
子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

そういうことをまだ自然にできないから、オトノネさんはいつもカロリーを消費してしまう。
燃費がワルイ。

ーーーーーー

スクールカウンセラーの話。
子どもが不登校になったとき。
カウンセラーの先生は、「お父さんお母さんの目標地点は、どこですか?(カウンセリングを通じて、どこに向かいたいですか?)」と聞くという。
多くのお母さんは「子どもが学校に行けるように」というらしい。

そこから大切な子どもの心を、大事にするプロセスが、生まれてくるだろうか。

本当にその姿勢で、その子の心を守れるか。
「学校にいけない」子どもの心と、向き合えるのか。

どうなんだろう。

ーーーーーー

子どもが自分に起こった出来事を振り返り、そして、感情を言葉によって再体験し、その場に、お母さんは一緒に居合わせる。
不安定だった、落ち着かなかった、心の中で整理ができなかった「違和感」を捕まえる。味わう。

この時の言葉のやりとりは、日常の会話の速度ではないだろう。
味わうのだ。辛かったかもしれない。けれども味わうといい。
(全然、辛くないというかもしれない。学年が上がると、言いにくくなることがあるかもしれない)

そして、「あなたはどうしたいの?」
「で、今、今、あなたはどうおもう?」と聞いてみるといい。

子どもが自分で答えを出す前に、大人が答えを出すということは、僕には恐ろしいものだと思えることがある。

ーーーーーー

たぶん、そうやってきちんと感情を、出来事を味わい、自分なりのこたえを出したあとで、子どもは、笑いながら「じゃぁ、やってみる!」といって、「新しい経験」を積んで行く。同じ状況になっても、全く違った経験ができる。その繰り返しをしながら、子どもは自分で学べるようになる。

自立していく。

これから先の時代、どうなるかわからない。
僕ら大人たちの知っている世界ではなさそうだ。
そもそも、子どもは親とは別の心をもった人間だ。

お父さんお母さんと同じ「型」に入れられたら、死んでしまう心もある。

ーーーーーーー

大丈夫だ。
思春期というものがある。
余り余ったエネルギーが溢れ出す。
その時に感じる「違和感」と、自分で、一人で向き合えるチカラが育っていない時、子どもは世界と自己を調節できず、親の作った道、親の言葉、親の指示で生きて行くしかなくなるかもしれない。自立できないかもしれない。

もし、人間社会と摩擦が起きないような生き方を「させて」いても、それが子どもの心と摩擦を起こしているかどうか。

心が大事。

ーーーーーーーー

もし、価値観を与える言葉を使うとしたら、こんな言葉がいいのかもしれない。
「世の中、おかしいことだらけだよ。全部気にしてたら、疲れちゃうよ?それはあなたにとって、大切なことなの?」

「違和感」はマイナスのイメージがあるが、こういう語りかけを「イイこと」にも使っていきたい。
しあわせをきちんと味わって、感じて、笑い合う。「どうだった?」「そうだね、楽しかったね」「じゃぁ、次はこうしてみよっか!」

子どもはしあわせを作る「天の才」をもっている。
あそびながらどんどん、しあわせをつくる。
少し、分けてもらったらいい。
簡単なことで、仲間に入れてもらうことだ笑

子どもに聞いてみよう。
「いーれて!」

ダメ?笑

しあわせは育つのではなく、やはり育てるもののようにおもえた。
しあわせを育てる知恵と振る舞いを、僕は「愛」と呼んでいる。

子どもは世界を愛している。
大人たちは?いやぁだって、仕事で忙しいからね笑

ーーーーーーー

何でもかんでも人の心が追いつけない、感じるものも感じられなくなってしまった時代。
大人も子どももブラックな学校や会社で働く時代。

大切なことはなんだろうかと、「ちゃんと」感じてみると、何かが生まれるかもしれない。

欅坂の「アンビバレント」を聴きながら(子どもの「時間」)
「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)
「名詞」の抽象性

オトノネひろげるシェアぼたん

8050問題の解釈と学歴、マスコミ、景気の関係

はい。

最近知りました。
家にテレビがないおとのねさんです。

事件があったようですね。

現実ですね。
「うちの子は関係ない!」と思っているお父さんお母さんがいるかもしれません。
けどお子さんが暮らしていく世の中だと思ったら、気持ちも変わるでしょうか。
お子さんに、お子さんが生きていく時代のために、今、時代を生きる知恵をお父さんお母さん自身がつけておくのもいいのではないかとおもいます。

ちなみに今は8050問題と言っていますが、昔はこれが「オウム真理教」だったり「サカキバラ」だったり、名前が変わっているだけで、実態は変わりません。またそのうち忘れられるとおもいますが、あれから何も変わってないなぁとおもうおとのねさんでした。

ーーーー

簡単に言えば、日本で暮らす人たちは概してみんなひきこもっている。と僕はおもっています。
小学校から高校まではもちろん、高校卒業後、高学歴の人でさえひきこもる(オウム真理教の幹部は超高学歴でしたね)。
それが孤食という言葉に置き換えることもできる。
よくよく思い起こせば、高齢者が自宅で一人で孤独死するということも、ひきこもりだといえる。(みんなひきこもりたくて引きこもっているのではない)

さて、解釈(物語)をはじめましょう・・・・

−ーーーーーーーー

今、50才でひきこもり(人間関係がつくれない)をしている人がいるということは、どういうことだろうか?
今50歳の人が20才の時、どんな時代だったか。30年前。

1990年をバブル崩壊としよう。今、2020年だとしよう。ぴったり30年前だ。
20歳まで、バブル時代に育てた価値観をもつ親の影響を受けて育って来た世代だ。

1945年、終戦した年に生まれた人が今、75才。
1956年の経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれた時代、三種の神器と呼ばれる家電製品、テレビ・冷蔵庫・洗濯機を夢見て働いていた時代を経て、ボンボンの子が学生時代に車を親の金で買ってもらい乗り回す時代を経てきた。

バブル時代の価値観を「働け。儲けろ。地位を築け。そうしたら幸福が手に入る。」と安直に考えてもいけない気がするが、それでいいとも思えてしまう。

20歳のとき、20年間をバブル時代の価値観で育った人たちが投げ出された世界は、どんな世界だっただろう。
異世界?「8050」の「50」の人がどんな暮らしをしてきたのかわからないが。想像はできる。

親の価値観から自立ができていないのだ。
自分の価値観で自分の生きている世界を見られない。
親から自立していない。

思い描いていた人生が崩れていった時、自分で立て直すことができなかったのだろうか。
親のつくった道を歩くことしかできなかった(そしてその道は失われた)のだろうか。

バブル崩壊から、いろんな社会現象が起きた。
その中で「発達課題」を超えられなかった人がいるということだろうか。

大学時代か、仕事をしている間か、どこかでなにかがおかしくなった。
うん。それでDVとかも増えるのね。

ーーーーーー

ここからは学歴の話。

学歴社会の始まりを申すと、明治時代に西洋を習って作られた大学から始まる。
大学で育てられた人がいく道は「官僚」もしくは「先生」、「役人」だ。
技術者ももちろんいただろう。いわゆる公務員。

学歴は「国に雇われる」ために必要だった時代。

そしてバブル時代といえば。逆に民間にいた方が儲かった時代。「なんで公務員になるの?」という時代。

それからバブル崩壊。「公務員っていいよね」となる。

で、いつからかわからないが、おそらく、ここが、ごちゃ混ぜになっている。
おそらくマスコミ、教育産業が台頭しはじめてから?

1955年河合塾、1957年代々木ゼミナール設立。
1956年の経済白書に「もはや戦後ではない」と書かれた時代の幕開けと共に、大手予備校は始まった。

おそらく、新しいテクノロジー、メディアに乗っかって「学歴最高だぜ!」という価値観を広げていたのかもしれないとおもって、河合塾の当時のCMを探して見た。7分11秒あたりからみてみてください。(いつのCMかは、わかりませんでした)

どうですか!
輝いてみえますか!

もう部分的には完全に学歴社会終わっているんだけどねー(実際に今も学歴が大切な採用基準であることは別の記事でも書いた。合理的にね。)
幻想はいつまでも抱き続けられる。

現在、高学歴”だからといって”いい会社に入れるわけでもないし、入れたとしても仕事ができない、人間関係ができなくてやめることになるかもしれない。不確定な時代だということしか、確かなことがない。ようこそ、量子力学の世界へ

富山中部高校にいっても、少なくとも3割の生徒は富山南高校と同じレベルの大学へ行く。学歴社会が高校時代から始まっているとしたら、その結果は、すでに大学受験でみえている。学歴社会ではないことが証明されているといってもいい。

一体「学歴社会」って何なの?
はっきりと説明できるひとがどれだけいるだろうか。

ーーーーー

日本はメディアがよく「幻想」を作り出す。8050問題も「幻想」かもしれない。
景気も「幻想」かもしれない。何しろ、不確定な時代だ。

ーーーーー

マスコミの影響を受け「景気がよい・わるい」で一喜一憂している世代と違い、もう今を生きる子供たちは、景気など知らん顔で暮らしているようにおもうし、実際もう(バブル時代がよかったというなら)好転しようがないほど日本はもう、戦後を離れた。経済の仕組みも変わった。

しかし町ぐるみで、いまだにそれを夢見ている人たちがいる。
同じ夢をみれない、みたくない人も「みんな一緒に!」するのはどうかとおもう。

ーーーーー

1975年から出生数は継続して下がっている。
日本をアメリカに売るためのプログラミング教育と小学英語教育じゃないの????

謎なことがたくさんありすぎて、不安定すぎて、もう頭が混乱する。
日本は、基本、不安な国だ。
そして不安に対する対処法が、引きこもりかもしれない。日本人のあるべき姿なのかもしれない。(だからこそアニメや漫画が発達した?)
そう考えれば、ひきこもりなど、8050問題など、新しいビジネスをつくろうとする人たちの目論見の一つなのだろう。
くらいに軽い気持ちでとらえられないだろうか。「お子さんの登下校、専属の警備員が守ります!」とか

そう考えることもできる。

ーーーーーー

そうそう。今日たまたま県議会に行くことがあって、パンフレットの中に謎の表現があることを発見。
「県議会の仕組み」→「常任委員会」→「教育警務委員会」→「教育委員会、公安委員会の書簡に関する事項を調査・審議します」

いやいや、なんでその2つが一緒になってるのよ。
ああそうか。学校のモデルがもともと刑務所と軍隊だからか。軍隊も警察も繋がっているからね。学校ってそういう場所です。歴史的に。

これから通学路に警官が配置される時代になるかもしれないね。
あ、国にはお金がないね。無理だね。やっぱりお金を出して護衛してもらうんですね。
「お子さんの登下校、専属の警備員が守ります!」

歴史、大切。

みんな、歴史を背負っている。
学校の先生は悪くないよ!しょうがないんだよ!

だから助けてくれる別の人が、学校の外にいたらいい。
と、オトノネは考えています。

オトノネひろげるシェアぼたん

学校の「課題」ではない「本当の課題」をお手伝いするオトノネです。

教育の現場の方と最近話す機会があり、こういう話題になった。
Teachers do not teach. Students learn by themselves.

子どもは大人の背中をみて育つ。

という言葉がある。

たとえば今の世の中、「好きなことをしなさい」「やりたいことをやりなさい」という言葉が溢れている。
けど学校の先生は好きで学校にいるわけではないし、やりたいことをやっているわけではない。
(そのなかで生徒をちゃんとみてくれる先生と出会えたなら、しあわせだ)

思春期に教わるべきなにかを学校の先生から学ぶことはできない。いや、そんなもの教わるものでもないのだろうか。
高校卒業までにしておきたい発達の課題、は、大学まで先延ばしか。学校は学校で、自分たちの課題で忙しい。高校生の課題に付き合っている余裕はない。
何しろ、お金がないのだ。「大学進学実績」を出さなければ、予算が入らない、潰される、統合される、先生が職と名誉を失うかもしれない(自己保身)。。。。そういう恐怖と戦っている。もう教師という仕事に魅力がない。公務員試験に合格し教員になった人が、やめていく。そんなことは、かつて、絶対になかった時代は終わったらしい。試験を受けたら入れる、そんな時代になった。人材が入ってこない。人材を選べない。。。。(素晴らしい先生もいますよ、もちろん!)

大学に入ったら、大学に入ったで、みな「就活」をするという。まぁ、そりゃそうか。
生き方、世の中について教えてくれる人はいない。そんなもの教わるものでもないのだろうが。

結局、自分で気づく、自分で学ぶ、自分で道を作っていくというメタスキル をもっていないと、どこかでこの課題をやり直すことになるだろう。自立するということだ。学校からも。親からも。
親が80になってもこの課題に取り組み続ける人もいる。
そしてこういった人たちの福祉のために国は予算を削る。負の連鎖ですね。

僕も含めて、人間はそういう生き物なのだろうけれど。。

もう時代は変わって、やるべき「本当の課題」が変わったと僕には思える。
(今の僕の課題は大企業に勤めてお金を稼いで結婚して家や車を買うことではない。)

お母さんがそれを知っている場合が多い。
なぜか、オトノネにきてくれるお母さんは、それを知っている。。。
けど、「じゃぁ、実際どうしたら?」がわからないことが多い。
それを手伝うのがオトノネだ。

子どもは、だから、自分でこの道を開こうとして、友達関係を広げたり、ネット社会に溶け込んだりする。その他色々。つまるところ、社会化したり、特殊化する。個別化する。わかりやすくいえば、役割を探す。自分が溶け込むべき風景を探す。と僕には思えるのだが。

子どもは子どもで、自分でなんとかしようとしている。彼らの本当の課題に取り組もうとしている。僕は僕なりに一緒になんとかまぁできることというか見守るくらいしかできないかもだけど(やるのは本人だ)、それでも言葉をかけ、想いをかけることはできる。オトノネは、「本当の課題」に取り組もうとしている高校生を応援しています。

発達段階として適切な課題に取り組めず、「課題」に心をすり減らされているだけだとしたら、なんと苦しい高校生活だろう。

教育の現場に長く勤めていた方と最近話す機会があり、そういう話題になった。
Teachers do not teach. Students learn by themselves.

オトノネひろげるシェアぼたん

3才から心が擦り切れている子どもたち。発達「障害」の意味を捉え直す。

堕ちる、堕ちないという話をした後でこの記事を書く。

NPO法人 富山ダルクリカバリークルーズ

薬物依存症の大人が回復する取り組み。

で、ふとおもった。

人間は、いつ何時でも、その時々の、発達課題をもっている。
お父さんも、お母さんも。
ただただ仕事をこなしてお金を稼ぐ以外で、何か、あるのではないか?
それは人と出会い、人と関わり、お互いにしあわせになるような活動をしてみたり。

最近出会った人に「おとのねは塾なんですけど、心が擦り切れている高校生のためにつくったんですが、お母さんたちの話を聞いていると小学生から心が削れているようなんです」と話したら「いえいえ、3才からですよ!」と返してくれた。実際、そうかもしれない。そういう子は、いる。

到底太刀打ちできない、どだい無理な「課題」を与えられて苦しんでいるのは、高校生だけではない。
小学生も、中学生も。3歳児ですら。

苦しみを紛らわすために、大人は娯楽に走り、子どもは部活に走る。
みんなゲームをしたり、ファンタジーに耽る。(大切な「逃げ」道です)

娯楽や部活に逃げてなんとか日々をやりすごしていても、どこか空虚なものとして、やりきれなかった「課題」として残るかもしれない。
いやいや、それはもちろん、人によりけりだからなんともいえない。
とにかく「課題」に苦しんでいるのは高校生だけではないということを僕は今日、はっきり気がつけた気がする。

あなたの「課題」は、一人では、どだい無理ですか?
それを見極めないといけない。
はいはいができない子が、二本足で歩き出すのは、困難の極みだから。

発達の「障害」になるものがあるなら、なんでも発達障害といえるし、先天的に、誰もが発達障害に出会う可能性をもっているし、発達障害をもっていない人間はいない。そうやって「発達障害」をとらえ直せば、発達障害という言葉を身近に感じることはできるだろうか。

別の「障害」と出会った時に、乗り越えられる、立ち向かえる、なんとか対処できるチカラを育てる。
「障害」が障害でなくなるように助けてくれる、一緒に笑ってくれる人と出会う。
「課題」にとりくむとは、そういうことではないかと僕は思う。

不登校、成績不振は「もう無理」のサインかもしれない。
学校のしくみのなかではやっていけない、という消極的な理由ではなく、「その子の能力、感性や性格」に合わせた積極的な教育をする、育ちを支えるきっかけとして、不登校や成績不振をとらえたらいいと僕は今、おもう。

海岸組のメンバーの人の話を聞いて、いろんなことを考えたのでまた別の記事で。

オトノネひろげるシェアぼたん

「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

僕は昔、某自立学習型フランチャイズで働いていた。
家庭で、学校で、無理をしている子と出会ってきた。
そもそもが勉強以前、心が悲鳴をあげている。

が。

お父さんお母さんも、その子の現状に気が付いていない。
(だってもうその子は悲鳴をあげる元気もない)
本人は??気づいていない。
擦り切れている心が、普通の状態になってしまった。
(だってもう電気ショックで無気力になることを学習してしまっている状態だもの)
学習性無力感とは?

もうそれはその子の「正しい生き方」になってしまっていた。
「無意味だ」「これは違う」と頭ではわかっていても、続けてしまう。
頭と心が離れてしまうほど、「させられ続けてしまった」人がいる。
あまりにも理不尽な、ただただ唖然とさせられる状況に陥って、混乱している人もいるだろう。

ーーーーーー

「なんか変だ」
「なにかがちがう」と思った時、
「違和感」を感じた時から、本当の学びが始まる。

この「違和感」を感じられるような言葉にも、時間にも、人にもなかなか出会えない不幸な世の中になってしまったようであるが。

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学びがはじめられる段階にない、ただただ状況に流されている人とたくさん出会ってきた。
僕自身、まだ始められていない学びもあるだろう。

そこで思い出したのが、坂口安吾の『堕落論』。
こちらの青空文庫から無料で見られます!

文章は、人間がある種の理想を掲げたあと、「自分はこうあるべき」という観念を守り抜こうとする努力の末、それで?という話。最後の部分を引用します。

戦時中に誰もが思い描いた大国「日本」、
明治維新によって失われた武士の世界を蘇らせるための「武士道」
純潔、貞操を守ろうとする未亡人の「処女性」

これらは全て「こうあるべき」と掲げられた観念であり、ファンタジーである。
捨てられない、という点で、子どものファンタジーとは別物のように僕は思う。

安吾はのたまう。
人間を人間として救うためには(自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには)、「堕ちる道を堕ちきること」をしなくてはならないと。

その根拠は「特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。」という箇所であろう。

人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

体が壊れてから、心が壊れてから、痛みに悶えてから、闇の中に心を閉ざしてから。
堕ちることでしか、次へ進めないことがある。(体を壊してからリクルートをやめて今に至る藤原和博さんとかが有名)

失敗しないように、しないように、、、とおもっていることがそもそも堕落の始まりだったりする。
(毎日部活、課題、親に与えられた夢を背負い「しなくちゃいけないこと」で潰れていく高校生)

正しいことを貫こうとすること自体、堕落である。人間は脆弱で愚かな生き物だ。
(もちろんこの安吾の言葉は人間の堕落性を説明するために使われているのであって、人間の強さは別にあるだろう)

「ちがう」ことを認めざるを得ないところまで、人は堕落を続ける。
堕ちるところまで堕ちたところで、気がつく。と安吾はいっている。

僕自身、身体的、精神的な痛みを伴う経験がなければ人は変わらないとおもっている。

堕ちきったあとに、自分を救おうとする人のために、おとのねをつくったのかもしれない。
自分を救おうとして、堕落ができない人たちと対極にいる人を、ニーチェは「超人」と呼んだと僕はおもうのだが。
不登校の子どもたちは、超人になる可能性を秘めている。
ひきこもりの子どもたちは、超人になる可能性を秘めている。
そういうこともできるだろう。

心をすり減らしながら暮らしている人が、多すぎる。
学校の先生とかね!けど学校の先生は堕ちるところまで堕ちない。堕ちないように、行政が守っているから(この言い方は正確ではないだろうが)。

健全に、堕落してみよう。
堕ちるところまで、堕ちてみよう。
そしたら気がつくかもしれない。
「課題、やっても意味ないんだ」と。

進学高校の6割以上の生徒にとっては、真実であることが、すでに科学的に統計的にデータ化されているわけですから。

まだ観ていない方はこちらもどうぞ。
富山中部高校、高岡高校、富山高校の偏差値・進学実績の影で泣いている高校生がいます。

金沢泉丘高校、二水高校、錦丘高校の偏差値・進学実績の影で泣いている高校生がいます。

学校の定期テストの成績と高校受験・大学受験の結果が関係ない話。

それから最近の発見ですが。
こちらも。

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2
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今まで頼りにしていた価値観を捨てることはとても難しいことだ。
本当に、難しいことだ。めったにあることではない。

「そのように」体も神経を整え、心も「そのように」なるように作られてしまった人たちがいる。
目の前の不幸が見えない。目の前の子どもが、自分の心が見えなくなっている人がいる。
習い事を無理やりさせるお父さんお母さんも、学校で平均点を取らせようとするお父さんお母さんも、同じ。

誰もがそんな状態になりうる。
(オトノネだって、オトノネの価値観の中にいる。捨てることは難しい!だから、日々つくりかえれるように、いろんな人に会い、いろんな勉強を続けている)

学校の先生も一人の弱い人間だ。
ストレスに耐え家庭を守らなければならないしくみ(ブラック)の中にいる犠牲者ということもできる。
馬の耳に念仏、というより、「あの時はわからなかった」経験を思い出すだけでいい。
そしたら学校の先生をかわいそうな人だと思い、許してあげることだってできるかもしれない。
そして、「じゃぁ自分は、どうするか」を考えたらいい。学校から自立したらいい。
もちろん、助け合えることは助け合ったらいい。

だからこそ、心を開く習慣、目の前にいる相手をそのまま見つめ、自分の心を「離し」て関わる瞬間が、大切になるのだとおもう。

堕ちることは悪いことではない。
堕ちきった後で、底を蹴って戻ってこれるだけのメタスキルと、誰かの助けがあるならば。

課題の憂さ晴らしにゲームをしたり、ショッピングセンターに行く、部活頑張る、という「ストラテジー」を確立する高校生もいる。
ブラックな仕事の後に居酒屋にいったりカラオケにいったり旅行したり、ゴルフするサラリーマンの姿が重なる。
今の高校生たちは、輝かしい未来を想像して大学に入り、社会に出て落胆しないだろうか。。。
そしたら8050問題再来!(心配事だらけでごめんなさいね)

けど彼らはそれはそれで、うまくやってるということもできる。
ストレスマネージメント!(けどそれで人生終わっていいの?大丈夫、トリックスターはこの世に存在する!と僕はおもっている)

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蛇足すぎるがこんなことを想像した。

学習性無気力の実験は、檻の中で行われた。
本当なら、本当の犬なら、こんな場所にはいない。
本当の場所にいる犬なら、試行錯誤できるし、実際にそれでなんとかなる。
なんとかならなければ、死ぬ。

学習性無気力というのは、「自然」でない状態から生まれる病かもしれない。

本当なら、本当の人間なら、こんな場所にはいない。
本当の場所にいる人間なら、試行錯誤できるし、実際にそれでなんとかなる。
なんとかならなければ、死ぬ。(いや、死にはしないだろう。人間なら、誰かが助けてくれるものだから!。。。)

学習性無気力というのは、「自然」でない状態から生まれる病かもしれない。
それが「ひきこもり」という症状であるとしたら、人間は檻の中に閉じ込められた「犬」と同じだと揶揄することもできる。

檻の中を出ればいい。
ただそれだけで、救われる命もある。

守ることによって、救われない心がある。
守るとはなんでしょうか。愛とは、なんでしょうか。

愛とはなにか?

人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。

落ち抜けず、守られ続けた人間が起こした事件が、コレでしょう。
堕ち抜くことを妨げられ、救われず、自分自身の処女を刺殺したり、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだしたりできなかった、誰か別の人間の生き方、観念の世界に宙づりにされてしまった人がいる。
8050問題の解釈と学歴、マスコミ、景気の関係

言葉って、難しいですね。
だけど大事じゃないですか。

わんわん!

心が大事。

この記事も見てほしいのですが。いかがでしょう。
生まれた時から、小学校のときから、中学校のときから、ずっと、その子はその子です。
塾や学校を選ぼうとするまえに、お子さんは、お父さんお母さんを選んで生まれてきたんです。

そう考えたら、、、、
お子さんを塾や学校に任せるなんて、ちょっと残酷に思えませんか?
塾に行かせる前に、学校に行かせる前に、大切なこと、ありませんか?
個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

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