【学ぶチカラ】情動・感情が現状打破するチカラになる話。また、情動・感情で他人に騙される話。

感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
喜怒哀楽の起源―情動の進化論・文化論
喜怒哀楽の起源―情動の進化論・文化論

情動には文化的な「表現様式」があるという話。
文化の中で、「望まれている」情動があるという話。いわゆる、県民性、国民性というやつだ。

日本人とアメリカ人に対してそれぞれ割礼儀式や吸引分娩、鼻の外科手術のような忌むべき内容を見せるという実験。この時、二つの条件で観察を行った。一つは、実験対象者が一人で見た場合。もう一つは、別の誰か(面接官)がいた場合。一人でいる場合は、日本人もアメリカ人も類似した表情が観察されたが、面接官が同席したときには、日本人はアメリカ人よりも多く微笑み、嫌悪感を表さなかったという。

この実験に関して最も面白いことは、その実験の様子を収めたビデオがスローモーションで再生され、検討されたときに、初めて明確になった。そうした再生においてのみ観察できたことであるが、面接官が同席する場合、日本人の実験協力者は、実際、市最初のうち、刹那、アメリカ人と同様に嫌悪の表情を浮かべるのだが、その後たちまち1秒にも満たないうちにその表情を隠してしまうのであった。(『感情』ディラン・エヴァンズp.13)

同じ「情動」を日本人もアメカジんも感じるものであり、それは不随意で、自動的で、制御が効かないものである。が、その一瞬あとに学習性の表示規則が押し当てられる。

文化によって情動を表す規則があるということ。

もう一つ。

高次認知的情動というものがあるという。
それは大脳辺縁系ではなく、大脳新皮質の影響、つまり意識的で論理的な影響をより多く受け、より計算的に、文化的に処理される情動であるという。その分、大脳辺縁系で処理されるような「基本情動」よりもゆっくりと立ち現れ、ゆっくりと消えて行く。

この高次認知的情動の例として、愛、罪悪感、恥、てれ・決まりの悪さ、誇り、羨み、嫉妬が含まれている。

「ヤバい、逃げろ!」みたいな臨戦体制に入るための情動はもちろんあるが、例えばこんな情動が、馬にもある。

象も子どもが死んだら悲しむとか、動物にだって「情」がある。
人間に特有の大脳新皮質の一つ下にある、より古くからあり、動物と人間が共通して持っている大脳辺縁系にも、同様の「情」が隠されているのかもしれない。そして不安や恐怖ではない、私たちが「あたたかみをかんじる」情の多くは、それが「子育て」に使われているような気がするのだが。

ーーーー

で、この高次認知的情動というものは、社会活動をするときに有効だという。罪悪感、誇り、嫉妬、妬み。例えばそれが「利己的」になりすぎることをいさめる機能を果たしたり、もっと「利己的」になることを促す機能を果たす。という。名詞にしてしまうと本質がつかめなくなってしまうが、情動とは、「心」の百面相に名前をつけていったものである。一人の人間の中には、社会的な生き方をするための様々な「自己」がいるとおもったらいい。

嘘をつくという社会的な行動がある。
それは「良心」からくるものもあれば「利己性」からくるものもあるだろう。

信頼、人と人の繋がりを円滑に、正常に、するための高次認知的情動がある。
一方で、利益を搾取するような、人を騙すような、利己的な情動もある。

利己性というものが、なんであるかはさておき。

例えば「復讐心(怒りの亜型)」というものがある。
もし理性的に考えて「結局、私は負けるのだから、戦うのはやめにしよう」とおもってしまえば、搾取され続ける、いじめられつづけるかもしれない。そこで、情動を解き放ってしかえしをすれば、結局は勝てなかったにしても、「あいつは根性あるやつだ。もっとひ弱なやつを探そう」ということになって困難を避けられるようになるかもしれない。不利益を与えた相手にも、不利益を与えようというのである。(ここのところは行動経済学の有名な「しっぺがえし」作戦と似ている。基本的に「利他的」な行動をしながら、「利己的」になった相手に「しっぺがえし」をすることで、双方よい関係を保つという作戦だ)

情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。
感情が適切に働くことで、人間は上手に社会化してこれたといっていい。

適切に、働くことで!

ーーーーーー

社会的に身についた、もしくは経験的に「学習性無気力」に陥った人たちは、「恐怖」「不安」によって「無抵抗」による利益を得ているようにおもう。たしかに。そうしてみんな、平和に(そう、平和に!)課題・テスト地獄の中に身を置いている。「闘争」もしくは「逃走」という選択肢がでてこない。平和の形も人それぞれだ。

ある意味で、従順でいることで、身を守っている。

ある種の感情を出さないことが「良い」ことだという刷り込みがなされる場合がある。
「不思議に思う」→「不思議をつきつめていきたい」→「けど誰もおもしろがらないし、大人は宿題をやれという」→「そもそも宿題をするので精一杯だから、不思議なんて感じない方が、心に負担がなくなる」
といったプロセスを辿っていき、「本気」になれるものから遠ざかる子どもたちがいる。

そんな中でも、自立心がある子は、自分で勝手に不思議を探究するかもしれない。
それはほんの一部の人間だ(そういう天の才を与えられた、ほんの、一握りだ)。

小中学校は「普通教育」の場であり、ほんの一握りの人間を育てるためにあるのではない。

ちなみに、「るろうに剣心」というアニメで、幕末、育ての親にいじめぬかれた宗次郎という人物が書かれている。
打たれて、泣いていると、もっと打たれる。打たれても笑っていたら、気味悪がられて殴られないことを発見し、「笑顔」以外の表情ができなくなった人として書かれている。これも「刷り込み」の一種。

ーーーーー

情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。

情動には情動なりの固有の理性がある。
(『感情』ディラン・エヴァンズ)

ディランのいう情動に固有の理性を、EI(Emotional Intelligence)、感情知性と呼ぶこともできるでしょう。
IQとEQ
EQとは、社会の中で自分のパフォーマンスを発揮する(天の才を生かす)ために必要な能力
新しい時代、IQよりもEQを大事にしたい件(感情知性は「知性」のメタスキル )

知性なき感情(闘争心?征服心?)を育てるのが軍隊であり、
知性を持った感情(信頼・共感、そして時として「しっぺ返し」のスキル)を育てるのが学校である、と二つを対比してもいいと、僕はおもう。
人間を社会化・組織化する二つの選択肢だ。

ーーーーーーーーーーーーーーー

情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。
感情という知性が、いわゆる「息詰まった」合理的知性の助けになる。

僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。
情動、というより、無意識のメッセージを体の変化から受け取る。その情動のプロセスを、大きくすることで、現在ぶち当たっているなにかしらの困難、繰り返されめぐりめぐる思考から抜け出すきっかけを得るというものだ。

考えてもしょうがない。
心に従ってみよう。心が、教えてくれる。
というものだ。

恋愛などもそうかもしれない。
夜なべしてラブレターを書く。
いやもう、書くしかない。
けど朝になってハッと読み返したら、というか恋文を書いたことを恥じたり、手紙を出すことを恥じらったりする。けれども情動として、もっと深いところにある心が、オモイが、やはり夜になると深まるのだろう。

そしてその手紙を出さなければ、前に進めないのが、恋愛である。
無用の苦しみに何年も耐えるより、さっぱりと愛を告白してみて、次のステップにいったらどう?と、心はのたまっているのである。

ーーーーーーーー
ーーーーーーーー

だがしかし、情動のそうした働き(切羽詰まっている時の心の助け舟)が、裏目に出てしまうときがある。
結論だけ話すと、「良い気分状態で急かされた」時、人は騙されやすくなる。ということだ。
(『感情』ディラン・エヴァンズ p.123)

塾、教育業界で、種や仕掛けを用意しておいて、体験授業のとき、もしくは通常授業のとき、「これ、東大の問題だよ!」とか「ほら、できるようになったでしょ!」といって、褒めちぎったあとでその場で契約をさせられるとき、疑う方がいいかもしれない。(いや、できる「気」にさせて、モチベーションを高めて、本当に能力をあげてくれるのかもしれないけれど)

高次認知的情動をもった動物として扱われていると思ったらいい。実際、大部分、そうだし。
(保険会社の説明会の会場をたまたま見たことがある。路上パフォーマーを読んで、音楽を流して、楽しませて、契約をさせていた)

「正しい選択」のための合理的な判断など、到底できるものではない。
だからこそ、こうしたビジネスが成り立つ。
サブリミナルな(潜在的な無意識に働きかける)効果とまではいかないが、情動に訴えるこの手法に、みんなやられている。

買わなくてもいいものを、イメージで、「欲望をかりたてられ」買わされていることが、たくさんある。
偏差値、買いたい人、いませんか?進学高校や塾というファンタジーの世界で、たくさん売っていますよ。

ナチスの手法は、日本でもよく使われています。
無償化!教育県!学力一位!には要注意。
お子さんを、心のアウシュビッツに入れてしまっていませんか?

ある意味で、新しい時代を生きる力を削いでいく学校教育は、社会的な犯罪ということもできる。(実際、法律を犯しているから、教育に関するいろんな法律がどんどん追加されていっている)
「集団心理」を利用した、(学力テストうんぬんで情報リテラシーのない人たちを騙す)マスコミを巻き込んだ、社会的な犯罪だ。(最近、ようやく「新しい時代」のための教育がマスコミに取り上げられるようになった)

と、強く言ってしまったら、反感を買うかもしれない。
これは「教育とは何か」という哲学の話であるから。
そもそも、主張でもなんでもなく、僕一人のタワゴトだとおもってくれたらいい。

だって、自由経済だもの!言論の自由があるもの!
けど、悪徳商法にはクーリングオフとかあっても、教育業界には、、、、ない!
時間と、お金が、もどってこないんです。

ーーーーーーー
ーーーーーーー

ある種の情動には「脅迫」「暴力」「支配」という行為が伴うかもしれない。
僕には「怒り」「嫉妬」という情動がその根底にあるように思える。
このような心に満ち溢れた場所があれば、戦うか、逃げるのが一番だとおもうのだが。そうだろう。

組織への「しっぺがえし」などなかなかできたものではない。。。

攻撃と報復の果てに、平和をみつけるのは、なかなか大変だろう。(復讐の連鎖が、どこかの国でまだ続いている)
だから、そこに生きる個人は、逃げるという方法も、生きる場所を選ぶという方法も、自分の身を守る、大切なものを守るためには、とびきり上等な選択肢であるとおもうのだが。

ちなみに、最近読んだ本の中では、「怒り」を感じた時点で、バリ人は「眠る」という行動をとるという話があった。

が、インドネシアに滞在していたとき、どうみても、インドネシアの人たちが「怒り」という感情を持たないような気がして聞いて見た。答えはこうだ「僕らはね、怒ったらね、隣の村に戦争をしかけるんだよ」だそうだ。
冗談かもしれないが、そうらしい。

「眠る」か「武器をとるか」。
なるほど。

ーーーーーーーー

イスラム教の人たちは、常にコーランを読みながら、感情をマネージメントしている。
日本人も、ヨガやヒーリング、外食、ゲームなどで、感情をマネージメントしている。
けどどれも「感情と距離をとる」ことはできても、「感情と積極的に関わる」ことはしていない。

ブッダの仏教、瞑想、座禅は前者であり、
カウンセリング、演劇、対話は後者である。

ーーーーーーーー

恐れというものが、とても強い人がいる。
恐れから派生するいろんな感情がある。嫉妬、妬み、不安、、、、
怖くなって、身が竦んでしまっている人がいる。

「今は無理だ。僕の中に恐れがある」ならそれを大切にしたらいい。
けど同時に、恐れとは別の情動がみつかるかもしれない。
どちらも平等に、対等に、感じてあげるといいだろう。


情動は心の百面相だ。
ひとつひとつに、言い分がある。

自分の持っている感情、情動のひとつひとつの言い分を、聞いてみるのもいいだろう。
僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。

ーーーーーーー

こういう先生が学校にはいる。
生徒4人を不登校にした先生が担任になったらどうするか。

「怒り」で生きている人間だ。
些細なことでクラクションを盛大に鳴らすイライラを募らせたドライバーと同じくらい、ストレスを抱えてしまっている先生がいる。
こうした理不尽な「怒り」に気がついて「ああ、私は疲れているのだな」とフィードバックが自分でできない人ほど、哀れな人はいない。もしこういった人に出会ったら、全くの他人でなく、少しでも情が湧いたなら、「疲れているでしょう?休んだらどうですか」と言ってあげてもいい。休めないのが、学校の先生であるのだが。

「良心」が届かない人もいる。
愛せないなら、立ち去るのもいい。

徳のある人間とは、情動を感じない人間ではなく、どの情動にも押し流されず、すべての中庸をいく人であるとおもえた。
情動が出てきた瞬間に、フィードバックをする人間。怒りに対して怒りで返さない。怒りに対して怯えで返さない。怒りに対して、笑いで返すことすらできる人。ある一つの感情だけを増幅させず、一度にあらゆる情動を感じられる人。ある意味で、宇宙的な広さを、心の中に感じている人。なんだか、気持ちがよさそうだ。

ちょうどいいバランスを、さがしていこう。

ーーーーーーーー

ところで、感情の学習、というものが、とても大切だと僕はおもっている。
保育士の先生は「怒り」の感情を伝えることがあるだろうか。「喜び」だけを伝えていないだろうか。
学校の先生は「喜び」を伝えているだろうか。「怒り」だけを伝えていないだろうか。

直接経験しなくてもいい。
ただ、映画とかではなく、現実に、こうした怒りや喜びを学ぶ機会があるともっといい。
それが、実は、芸能、芸術・演劇と呼ばれるものなのだが。

ーーーーーーー

怒りの感情を加えられた時、怒りや恐れで返すことなく、哀れみの情をもって、笑顔で返す、という神業を使う人に出会ったことがある。怒りを怒りで返したり、怒りを恐れで回避すれば、相手の怒りは回収されない。またいずれ、怒りを加えられることになるだろう。

完全に逃げるか。
そうでなければ、笑いながら、その人の悪霊に飴玉をあげよう。

愛せぬ者からは、立ち去るがいい。
と、ツァラツストラが言っていた気がするのだが。気のせいだろうか。

ーーーーーーー

感情と向き合う経験。
感情がでてきた後で、きちんと大人がフィードバックを返すこと。
「気締め」が必要なこともあるだろう。

そう考えると、子どもが関わる大人たちがみんな均一になってきているのも、末恐ろしいように感じる。
他者が感じている情動を見抜くチカラ、そしてそれに対してどんな情動で返すかという作戦をたてるチカラ。
それが、実は、EQと呼ばれているものである。(IQではない)

ーーーーーーー

コツコツと積み上げれば、、、とか、長時間やれば、、とか、一生懸命やれば、、、
という「美徳」というものもある。

忍耐、耐え忍べばいいことがある、という美徳もある(日本はまだ戦時である)。

これもある種の情動といえるし、文化的な、歴史的な「心の作戦」といえるかもしれない。(心理学用語でスキーマといってもいい)

新しい時代、昔から使われてきた作戦を社会的にプログラミングされてしまった心を、アップデートしてみたら、楽に生きられる時代になるとおもうのだが。

いかがだろうか。

結局、今、誰かが向かい合おうとしている課題は、きっと、日本の歴史、日本という場所からの自立を意味するのではないか。
日本という場所、日本という歴史がつくってきた「感情様式」が、うまくいかなくなって、体がヒーヒーいっているとしたら。

今が、自立の時なのかもしれない。

ーーーーーーー

アニメで「サイコパス」というものがある。youtubeでもみられます。是非是非。
シキソウというものをリモートでいつもチェックされていて、「汚れてくる」と、「クリニック」へ行くように通告される。「犯罪者」を世の中に出さないようにするシステムで成り立っている社会を描いている。ぜひ、学校に取り入れてみてほしい(「サイコパス」映画版か特別版かなにかで、国家的な詐欺をして、「心の汚れた人たち」がそのシステムを悪用するという設定もあった。要するに、どんなシステムも、どんな道具も、人間次第。)

感情・情動が動く場所には、ドラマがある。

がんばれ!がんばれ!
という言葉に、心がこもっていなければ、ドラマは生まれない。
多くの受験生は、心なき言葉に、亡霊に、呪いに、悩まされているような気がするのは、僕だけでしょうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

他人の合格実績よりも大切なこと(オトノネの合格実績ポリシー)

実はこれを勘違いしていて「失敗」する受験生が多いのではないかと、僕はおもっている。
「受験」とは何か、「受験勉強」とは何をすることなのかがわかっていないと、合格実績で判断することになると、僕はおもっている。

なぜ「合格実績」のある塾に入るのか?
なぜ「合格実績」の影で泣いている子どもたちのことをみれていないのか?
(もはや、泣くこともできないくらい、疲れ切っている子どもたちの姿が眼に浮かぶ)

「合格実績」はお父さんお母さんに、生徒に、物語を与える。
「ここにきて、勉強していたら、合格できるよ!」
「私も!」
「うちの子も!」

その物語が、他人のものであって、その子の物語ではないけれども。
みんな安心したいのだろう。
こんなにも不確実で、不確かな時代を生きるための物語が。

SNSにもよく流れている「◯週間で◯◯!」と同じだ。

ーーーーーーーーー

オトノネはつくったばかり。
そこでよく耳にする「合格実績がないから信用できない」という言葉。

合格実績があるから、信用がないという声だ。
なんの信用か?合格させてくれるという?

実は合格実績自体が信用できない。

1。合格実績がある。
2。合格実績を作るような優秀な生徒がくる。
3。合格実績がでる。

が実態であって、「合格実績をつくるような優秀な生徒」でなければ合格実績にのるような成果は出せない。

1。合格実績がある。
2。うちの子も合格できる。

ではない。

「合格実績をつくるような優秀な生徒」がくるから、「合格実績」がある。

「その塾に行ったら、伸ばしてもらえる」ような伸ばし方をしている塾は、マレだ。
(オトノネの場合、「伸ばす」のではなく「伸びる」ような環境作りに時間をかける。疲れている心、すり減らされている心では、伸びるものも伸びない。レディネスがない状態でする勉強は、非効率的だ。)

(最近出会った人が金沢市で「絶対に志望校に合格させる」で有名な塾があると教えてくれました。その塾の先生はいつも生徒を励まし、合格させるために疲弊していて、一方で生徒は心をすり減らしながら、実際に、合格していくそうです。そして、たぶん、高校にいって、、、どうなっているかはわかりませんが。個人経営の小さな塾だそうです)

昔話になる。
泉丘の生徒だった。
課題、課題、課題。志望校合格のために、全教科を「やらされていた」それを「しなくてはならない」と思っていた。
明らかに、無理だった。

浪人は確実だった。
「本当に心からそこを目指しているなら、来年に向けて意味ある勉強を、今から始めよう」と僕は言った。
その子は、僕の話を聞いて、納得した。
そして、勉強する教科を、2つに絞った。
頑張って、頑張って、自分を攻め抜いて、疲れ切っていたその子は、それから、目標を見定めて、彼女の道をちゃんと歩き始めることができた。

フィードバックのない受け身の一斉授業も、
フィードバックが適切に与えられてない自立型学習も、生徒をただ疲れさえているだけの場合が多い。

勉強以前に、心が弱り切っている子が多い。

ーーーーーーー

大手の塾にいくなど、お金を捨てるようなものだ。
とオトノネさんは考えています。

けど「安心」のために、「物語のなかに子どもを入れる」ために、「ファンタジーの世界に浸る」ために「合格実績」のある塾を選ぶ人が多いのが事実。

何人がその塾に通って、どれだけの人が合格実績に乗らないか、想像がつきませんか?
授業料は生徒を募集するための広告費に使われ、先生たちは安月給で雇い、多くの受講生からお金をとるのが大手の塾です。

合格実績を信じて、合格実績の裏で泣いている生徒たちがたくさんいることを知っていますか?
学校だけでなく、塾も同じです。

もし合格実績が有用な判断材料になるには、合格実績に名を残した人の物語を最初から(もしかしたら生まれた時から、家族の生い立ちから)読まないといけないだろう・・・(ビリギャルの物語はその点、とても説得力があります。ビリギャルはどんな女の子だったか。どんなチカラがあったか。どれだけ努力してきたか。どれだけ、学校から自立していたか。どれだけ、お母さんに支えられてきたか。お父さんにも、助けてもらっていたか。。。)

医学部に入学しました!というが、実はセンター試験だけでいける制度を使っていた、で、たまたまセンターの結果がよかった、とか。
そういうオチがついている合格実績もある。

逆に、どん底の成績だったけど、なんとか、県立高校に入学できた、という「合格実績」の隅に埋もれてしまうような子もいる。
その子なりの目標があり、目指すものがある。
合格実績を「エライ順」に出すとか、僕には考えられない。

ーーーーー

「偏差値30から難関大に入りました!」というSNSビジネスのような宣伝の仕方もある(その手に弱い人が多いのだ。その手に弱い人がたくさんいる)。
フランチャイズ時代にも、その謳い文句をみて来てくれた子がいた。その子は、最初に聞いた。「本当に、偏差値30から合格できるんですか?」

「偏差値30ってなんのもしで偏差値30かわからないよね。逆転合格したその子は、君と全く別の人間だから。君のことはわからないよ」
と僕ははっきりと言った。けどその子は頑張って僕に付いて来てくれた。

私の勤めていたとあるフランチャイズでは全国にあるフランチャイズ、支部の合格実績を集めて「難関大合格者◯◯人!」などと書いていた。
フランチャイズの塾は、特に学生のアルバイトを雇っている場合(ほとんどそうだ)、都市か田舎かによってメソッドが通じないことがある。地方の学生は都会の学生と比べて受験経験が浅い、薄い学生が多いので、仲のいい友達になって授業時間、雑談することがメインで、勉強にはならないケースがほとんどだった(精神的な安定のために塾にいく。勉強はしないケース。受験をサバイバルするために大金を払う価値があるか考えてみてください)。実際に勤めてみてそうだ。(もちろんそれで勉強ができるようになる子もいますよ!ごくまれに!)

「うちの子も偏差値30だから、この塾でいけるはず・・・」
「みんな行っているからうちの子も・・・」
「合格実績があるから、大丈夫。。。」

偏差値30の意味を誤解しているかもしれない。
お子さんと他人の子が別の子だということはごくごく当然なのですが。
受験勉強というものがどういうものか、理解していないのかもしれない。
合格実績が「お子さん」の合格と関係がないことを説明したページはコチラです。塾の選び方。あなたの塾選びは大丈夫?

とある全国的な映像授業の予備校を盲目的に信じて疑わない生徒もいた。
「そこの授業はイイから、受けておいて損はない」みたいな考え方をしていた。
頭の裏には「カリスマ講師から教わっている!」という喜びや、全国の合格者を寄せ集めた(ほとんどおそらく都会の高校生の)輝かしい実績で勉強どころではなかったっかもしれない。一流の大学に入るには、一流の学習者になる必要がある。一流の学習者は、きちんと学びの質、量をフィードバックによって調節していく。

が、合格実績をみて、合格ストーリー(ファンタジー)に入っていき、勉強していくことには意味があるだろう。合格者の声などをみることによる、また誇大広告によるプラセボ効果がある。どれだけファンタジーの中にいたら、狂人か。この境目が大切だとおもう。

別の例では、生徒は全く受験どころではなく家庭や学校での問題(かなり無理をしていた)があったのに親が塾に行かせていることがあった。合格実績、メソッドの新しさ、宣伝文句をみて「30台から合格できるの??」っということでやってくるケース。。。他の塾に行くよりは、僕のところで休んだらいい、とおもい、話はした。フランチャイズ時代に出会った生徒の話だ。

ーーーーー

合格実績を誠実に発表している塾は多くない(誇大広告がほとんど)。
合格実績という情報を役立てられるお父さんお母さん、生徒はほとんどいない(情報リテラシー)。
というか、合格実績という情報が役に立たない。
これが僕の実感です。

面白いのが、とある難関国立大学に合格した子。
その塾の合格実績には、もちろんどうどうとその大学名が乗る!すごい!となる。
けど勉強面ではなく、メンタル的に支えられていただけだった。
自習室と、勉強の雰囲気が欲しくてその塾にいただけだった。
できる子がたまたまその塾に行っただけで、その塾の合格実績になる。なんの実績でしょうか?

そういうパターンもある。
その子その子で、何が必要かはわからない。
(ちなみにその子が、私が雇われて射たその塾ではじめての難関大合格者だった。その子は合格実績をみてその塾を選んだのではない。雰囲気で選んだのだ)

ーーーーーーー

合格実績をみるより、先生に質問を一つして、答えてもらって、直接出会って話をして、目を見て、雰囲気を感じて、ちゃんと人を見て判断したらどうですか?そのチカラが、受験の結果にそのまま繋がるとおもうのですが。

一流の学習者なら、きちんと、自分が得られるものがあるか、よく人をみて、自分の状況も分析したうえで、自分に必要な環境の一部として、塾を利用するでしょう。「通わせていたら、大丈夫」などと思っているのは、一流の考え方ではありません。

ーーーーー

お子さんは、世界でたった一人の人間です。
他人の「成功ストーリー」に乗っかるのはいいですが、そのストーリーを歩くのは、お子さん自身です。
エベレストにいく道はすでに作られています。けど全員が頂上にたどり着けるのではないですね。

都会ではよくある「セミナー」も同じ手法をとります。
誰かの成功ストーリーをみせる。聞かせる。
そして「あなたも、できますよ」という。

実際に、その可能性はある。
信じることで、チカラがでてくることもある。

けどその子は将来、自分のチカラを信じることができなくなるかもしれない。
大きくなっても、他人のストーリーに依存してしまうかもしれない。

お子さんが今、どんな気持ちで、どんな状態か。
「今」お子さんが感じていることは大切なことではないのでしょうか。
お父さんお母さんの焦りが子どもに伝わっていないでしょうか。

いろいろと言葉を尽くしても、心がわからなくなって、ちゃんと感じられない人が多い。
何も感じられないくらい、心が疲れてしまっているのだ。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

休んでほしい。
いいよ、休んでも。

ーーーーーー

塾選びは、先生選び。
先生を見る目が、先生を選ぶ能力が、一番大切な、学ぶチカラです。
ブランド、合格実績に目が眩んでいては、見えないかもしれません。
ぜひ、「この先生はどんな先生か」知るために、入塾の前に、いろいろと質問をしてみてください。
きちんと答えてくれる、きちんとした言葉を使ってくれる先生を選んでみてほしいとおもいます。
(実際に教わる先生と面談で話せない塾をどうして信用できるのか僕には理解できません)

オトノネははじめたばかりの、小さな小さな学習塾です。
もし将来的に合格実績を出すなら、学習歴、生徒の合格ストーリーをきちんとお伝えしようとおもいます。
ひとりひとり違った道があって、感性があって、違った言葉が必要で、違ったリズム、速さをもっています。
オトノネは、生徒の違いを大切にしていく、小さな小さな学習塾です。

小さすぎて、笑ってしまいます^^

オトノネは、安心を売っていません。
オトノネは、心を売っています。
安くありませんよ^^

オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

ーーーー

オトノネひろげるシェアぼたん

小・中学生のタブレットを使った勉強について

大学受験も資格試験もタブレットで勉強するのですか?
人や勉強道具、関わり合いの全てがその子の能力をつくります。

もうすこしきちんといえば、
「タブレットで勉強してばかりいないで、本を使った勉強も」

勉強も遊びも同じだ。
「ゲーム機で遊んでばかりいないで、他の遊びも」

子どもや大人たちが、タブレットやゲームに遊ばれているように見えるのは僕だけか。
(ちゃんとゲームであそんでいる子もいますよ、もちろん!結局、道具をつかう人間次第。)

オトノネひろげるシェアぼたん

国語が、できない!?子のお母さんからの相談。

「国語が伸びないんです」

というお母さんからの相談。

「すぐに上がりますよー」と言う塾もあるらしいが・・・

国語をちゃんと教えてくれる先生はほとんどいない。のが現状だ。と僕はおもっている。
すぐに上がるよというところはまず怪しい。

問題を解くために国語を学ぶような場所では、「国語力」は伸びない。
学校で学んでも国語力は伸びない。

「国語は全教科の基礎!」といいながら、国語だけできて他の教科ができない子もたくさんいる。
論理を超えたところに、国語はある。言葉はある。

だからポリシーをもって学べばいい。
めぼしい塾にいっていろいろ質問して、「国語力がありそうな回答」をしてくれた先生に教わるのがいいだろう。
ただ、「フィーリングで国語が得意」な先生もいる。
そういう先生に自分はあっている生徒なのか?
自分と先生の相性を判断しないといけない。


国語を教える先生が、フィーリングタイプか、論理ぜめをするかは、大切な先生選びのポイントだ。

ーーーーー

言葉を使うチカラは、自分自身の「考える仕組み」を変えていくこと、育てていくことだとオトノネさんは考えています。
解き方のパターンを教わってできるようになる子もいるだろう。
とにかく人それぞれ。
誰かを信じて、先生を信じて、学んでいくしかない。

オトノネではこうしてますーという話もした。

とにかくいろいろ話して、国語の話までするのは、しんどいだろうとおもってまた困ったら相談してくださいと伝えた。

ーーーーー

県立高校受験は、5教科満遍なく点数をとらなくてはいけない。
苦手が一つでもあったらダメだ。(ダメなの?)
(その子は数学の点数が良いらしいのだが、それ以上成績が伸びないくらい頭打ち。問題は、国語であるらしい)

いや、受験だから、結果がでないとわからない・・・
何が起こるかわからない・・・・定員割れしたりして!

《受験って何だろう》
なんとなく高校を選ぶだけのイベント、ではないと私はおもう。
受験の意味について私なりに考えた記事があるので参考にどうぞ。

とにかく今本気になっているお子さんを応援してあげて欲しい、という私の気持ちは伝えた。
私の気持ち、です。

「もっと早く調べてオトノネに相談しておけばよかったです・・」
そういってもらえてうれしいです。

私もどんどん情報を発信していきたいので、いろんな人から相談を受けたいとおもっています。
困っていたら、なんでも聞いてください^^

オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

ーーーー

オトノネひろげるシェアぼたん

「みんな一緒」の夢から早く覚めた子が、合格する。

よくあるのが、夢に浸って、まるでディズニーランドにきてアドレナリンを放出するために、
「私、勉強してる!志望校に近づいている!」という夢の世界で暮らしている中学生・高校生。

一年間で英数国だけなら中学範囲、高校範囲の基礎は全て終わるはずなのに、それをしない学校、塾。
習い事のつもりでコツコツと教わって成績が伸びるのは「デキる」生徒であって、多くの生徒はちゃんと学んだほうがいい。

1時間?2時間?そんな短時間で学べることはない。
解法を覚えるしかできない。(2時間くらいなら、ちゃんと考える勉強ができるだろうが、それでは2年かかる。)
だからよくあるのが、お話してリラックスして、1時間後に、少し気持ちを楽にするために塾に通う子。
子供は子供なりに塾を活用している。

ある生徒は、自習室があるから塾に行くという。
授業は、役に立たないけど・・・・と言っていた。(砺波高校の生徒)

1年、というのも、勉強習慣が身についている生徒の話。
伸びる生徒も伸ばせない。
時間がない。

定期テストに追われているとしたら、それは高校受験まで通用すること。
大学受験で定期テストに追いこまれているのなら、難関大学を目指すということ自体、おこがましい。
それほど、大学受験は、厳しいものだということを、生徒は知らない。
だからオトノネははっきりという。

「どれだけ本気なの?」

オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

ーーーー

オトノネひろげるシェアぼたん

良問とは何か(その2)

昔、良問とは何か云々と書いた気がする。

富山高校の生徒とセンターの勉強をしながら、「あ、これは良問だ」と思えるものにあたった。

回答までのプロセスが「マニュアル化」されていない問題のことだ。
当たり前、知っていることをつなげていかなくてはいけない。
けどその繋げ方は、教わったことがない。
考えて、試してみながら、その場で道を作っていくしかない。

そういう問題のことだ。

新しい問題が出るとすぐに受験業界は、教育業界は「マニュアル化」する。

三角関数の何かの定理を証明するような問題を東大が出す。
公式自体は、受験生なら誰でも知っているはずだ!
それを証明しろという問題を東大が出した。

公式つかってるけど、本当に「本当に」わかってるの?本質がわかってるの?
と受験生に問いただした。

その「意図」を汲まずに、受験業界は、問題の解き方を「マニュアル化」する。
新しい「解法」をどんどんつくっていく。
そうして受験生たちは、どんどん「暗記する量」が多くなり、パニックになる。

暗記ではないのに・・・

良問とは、暗記に頼っている受験生には解けない、「君、暗記勉強してるんじゃない?」というメッセージだ。

本質を理解するか、本質を知らずに暗記をするか。
難関大学に受かる生徒とそうでない生徒には、こんな違いがあるんだろう。

オトノネひろげるシェアぼたん

塾選びのポイント

お母さんがお子さんを思いやる気持ちがある。
お母さんが勉強を教えられたらそれが一番いい。

けどそれができないから先生を探す。

とても簡単に考えたらいい。
合格実績でも、勉強法でもない。


お母さんがお子さんを思いやるように、
お子さんをおもいやってくれる先生を探せばいい。

合格実績で塾を選んで、知名度で塾を選んでも、中身がボロボロの塾がほとんどだ。
進学高校でも、6割の生徒は伸びないのだから。

お子さんの成績は、お母さんの先生選びの成績だと考えてもいい。
お母さんが先生を選ぶチカラが、その子の学ぶチカラそのものだといっていい。

塾で選ばず、先生で選ぶこと。
塾選びは先生選びだ。

オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

ーーーー

オトノネひろげるシェアぼたん

プログラミング型勉強法

プログラミングが必須になるとか、ならないとか。
その良し悪しの話ではなく・・・

プログラミングとはなんだろう。

機械に、「こういうときはああするんだよ」という知識を与える。
知識というより、反応パターンを与える。
情報を処理し、与えられた情報から答えを出す。

それって今の学校や塾でやっている受験勉強と同じ。
「答えを出す」マニュアルを見ながら、マニュアルなしで答えがでるように訓練するのが今の受験勉強。
人間を「受験マシン」としてプログラミングすることが受験勉強だ。

それが暗記型、マニュアル経営型、プログラミング型勉強法であり、学校やほとんどの塾が採用している勉強法だ。
なぜかって、安価で、「いい先生」は必要ないから。
上手に知識を与えてくれる先生はたくさんいる。
(というか動画授業をみればいい。塾に行く必要はない。)

与えられるばかりで考えることができない。
そういう人は、仕事がなくなる。

AIに人間が負ける。
今、人がやっている仕事の多くがAIで代行されるという時代がくる。

オトノネは考えて、考えて、答えを導く人間らしさの体験ができる場所にしたい。

「考えること」がどういうことか、
「クリエイティブ」とはどういうことか、
「自分らしく」がどういうことかわからなくなる時代。

「考えること」ができない人、
「クリエイティブ」でない人、
「自分らしく」ない人が多くなった世界で、意欲を失った人は、機械に負ける。
そして、外国人労働者にも負ける!

人間らしく、学んで欲しい。

オトノネひろげるシェアぼたん

公文式が流行る理由

前にこんな記事を書いたかどうかも忘れてしまった。

公文式は、情報処理能力、解法を暗記して何度も練習して反応速度を上げていくスタイル。

公文式は「楽しい塾」だという情報を得た。
なぜ楽しいのかは決まっていて、どんどん先に進めるからだ。
学校ではみんないっしょでつまらない。わかる子は先に進む。わからない子はとまりっぱなし。
わからない子でも、「問題を解く」訓練をするからそのうち少しずつ進む。

進むことがわかると楽しい。
ゲームと同じ感覚だ。
「快感」を与えるサービスが公文式。
もちろん定期テストの成績は上がるし、富山県の県立高校入試は暗記型だから、通ってしまうだろう。

それで考える力がついていないことに誰も気が付かず、子どもも親も満足する。
その結果が、悲惨な高校の成績だ。

考えないから、仕方がない。
短期的な結果を求めていると、苦しむのは子ども。

長い目で見て、伸びる力をつけてほしい。
自立して学べるような、考える力をつけてほしい。
そういう学び方で指導できる先生はもうほとんどいないから、誰もそのことを知らないから、

公文式が楽しいのだ!

オトノネひろげるシェアぼたん