子供のポテンシャルエネルギーを感じる

というか子供は姿勢がいい。
あれだけ自然に、ちょんとして凛として座っていられる。
またしゃんとして立っていられる。

何者だ???

大人だったら、崩れていたり、ブレていたり、力なく弱々しかったりすることもあるのだが。
(もちろん逆に歩き方がぎこちなかったり、ぐにゃっとしてしまう子もいる)

立ち方、振る舞い方、そこにいることで生まれるエネルギーが、その人のポテンシャルだ。
ポテンシャルを顕在化させようとして、大人は習い事をさせたり、いろいろとやらせる。

子どもは一流の学習者だからなんでもできるようになる。

あるとき、ある状況のなかで目を見開いて、「え?いつもの君はどこにいった?」という子もいる。
何をしているかというより、ポテンシャルが上がっている状況、そして落ち着いてそのエネルギーをコントロールできる環境を作っていくことを大切にしたい。(蛍光灯バチバチの環境でポテンシャルが下がる子もいる)

エネルギーを何に使うかなどは、二の次に考えようとおもう。
謎の輝き、神秘のチカラ、心のはたらき。可能性。どんな言い方もできる。
ただそのエネルギーの使い方をあまりにも限定されてしまい、気が滅入っている子が多いのではないか。

ということだ。

ーーーー

ポテンシャルエネルギーとは、簡単にいうと隠されたエネルギーで、地面からの鉛直方向の距離が長ければ大きくなる。
姿勢がいい、シャンとしているとは、このエネルギーが高い状況をいう。

アーノルド・ミンデルは量子力学と心理学を結びつけていますよ。
不確定な、挙動不審な、確率的な、決定論とは別の次元で動いている世界に、科学者も目を向けてはじめています。というか、もうバシバシ向けています。

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子供のポテンシャルエネルギーを感じる

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言葉への意欲、それは食欲の如し。

クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々

遠慮はいらない。

かぶりついて

指でつまんで汁をなめなさい

あごにたれないように……

芯も

軸も

内皮も

核も

種も

外皮も

捨てるところはないのだから。

『クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々』の中で紹介されている、イヴ・メリアムが命ずる「詩の食べ方」

言葉が出ない、とか、言葉が遅れている、という話をよく聞く。それで支援センターなどに行く人も大勢いる。支援センターはてんてこ舞いだ。それよりも食べる時間、味わう時間をつくるのはどうだろうか。

「この子、もしかしたら…」といって不安になるお母さんがいる。「診断」をうのみにして「治療」をさせようとしてしまう。クシュラの母親も医者に「知能障害時センター」に通って治療を受けるように申し出た。けれども、母親は施設に預けるのではなく、クシュラの“正常な部分”をみつけ、決意を持って不断の刺激を与え続けた。たった一つ、開かれた扉を見つけ、開き続けた。

18ヶ月の時に、クシュラがかなり進歩をとげつつあり、その進歩は、自分たちがあたえた励ましと刺激が、少なくとも一部には成果をあげていたのだ、とそう信じる根拠を、両親はつかんでいた。そのときに「正常でない」と烙印をおされたのである。両親は、それを的外れだと思った。施設へ、という忠告は、自分たちの努力に対する嘲りだとも思ったのである。

医者は診断はできても、人間を育てる「専門家」ではない。人間を育てるのは人間だ。

ジョアン・タフ著の『意味の焦点ー上手な幼児との対話』は、「教師、親をはじめ、成長期の子どもたちとつきあうすべてんぼ人たちが、乳幼児期に言語が果たす役割をより深く認識する助け」として書かれた。著者は、子供が考えていることをヒュオプ原子、同時に思考を深めようとするようにする言語の発達にとって、もっともよい機会を与える家庭環境を規定している。著者がとりあげたのは、3歳の男の子のマークが育つ家庭環境で、とくに大人との関係に注目している。「マークにとって大人とは、情報を提供する人、思考や議論にさそう人である……マークは、質問をすると情報が得られる、問題を解決する努力はほめ言葉となってかえってくる、そして言葉は過去の経験をよみがえらせるものだ、ということを学んだ。」このような大人と子どものかかわりあい、つまり複雑な言い回しを使って、議論し、予見し、計画し、熟考する両親という手本が、マーク自身の話し方に反映されている。こうしてマークは「考える道具」を獲得していく。(p.185)

食事も、言葉も、家が基本だ。そう考えた時に、オトノネができることなんて、本当に小さなことで、もう適当にやってもいいんじゃないかと思えてきた。僕は少し力を抜いてもいい気がする。家庭教育をお手伝い、くらいにしておこうか。

多くの「個別指導塾」がアルバイトの若い学生、学校と関わり合いのない先生との「会話の場所」になっているのも、子どもの心の表れなのだろうとおもう。子どもは大人を求めている。

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保育所選び・学校選び・塾選び・学び場選び

もう訳がわからなすぎてどこでもいい!と思えてしまうほど、世の中は選ぶことで溢れている。いろんな選択肢がある。まさに自由という病だ。

富山のねいの里でやっている森のようちえんとか見学にいったり、保育士の先生の話を聞きながら、考えたことがある。

ある保育園には机がない。どろだらけになって遊んで、おやつはスルメとかを食べる。他の保育所で働いている保育士さんがこの保育所にお手伝いにくると、ショックを受けるという。前に書いた記事の〈けじめ〉がなっていない、というような話だった。

森のようちえんにも机はない。時計もない。それで小学校にいったら大丈夫だろうか?保育所よりもガチガチに学校教育をする幼稚園の生徒の方が、小学校での〈素行〉はよい、保育所によっては小学校の先生が「やっぱりこの子はこの保育所か」と思ってしまうほど、保育所の文化、子供の育て方が違う。という。(ちなみに、保育園に机がなくても、家には机がある。家庭にも文化がある

「小学校に行った時に、困らないように」という考え方がある。まぁ間違っているわけではないが。けどそのおかげで「小学生でも自宅学習を◯時間しましょう」という御触れがでるというではないか。高校のための中学、中学のための小学、小学のための保育、そうして子供はケッキョック、〈高等学校(初級)〉に入るかのごとく、小学校に入学するのかもしれない。部活動のように習い事をする小学生が近くにいないだろうか。

一体、〈いい保育所〉ってどこ???

神経質な子、繊細な子なら森のようちえんでも、小学校に入ったら自分をまわりに合わせられるだろうし、もしかしたら、やんちゃ坊主も森のようちえんで、あたたかく大人に見守られる段階を経て小学校に行くのがいいのかもしれない(規模が小さいから質が確保されている。保育所になると、担当する先生によって質が変わる)。保育所に入るまでに「しっかり」育った子なら、もう大人。ふつうの保育所でもうまくやっていけるはずだ。

〈いい大人〉はどこにいる???

保育園は、お母さんが子どもを客観的に観察する、子どもを知るための時間なのかもしれない。この子は今、どんなことを感じているんだろう?この子は今、何を感じているんだろう?この子は集団の中で、どんな振る舞いをするんだろう?この子は何が好きなんだろう?この子の性格はなんなんだろう?この子の癖は?(きちんと子どもをみてくれる、話をしてくれる先生にであえた子どもとお母さんはしあわせだ)

学校は社会だ。社会は学校だ。学校は会社だ。途中で変えてもいいし。無理して続けることがいい、わけでもない。「あれ?」とおもいうことがあったら、環境を変える、関わる大人を変えること、新しい場所をみつけること、人と出会うことを、まずやってみたらいいと僕はおもう。(もちろん、お父さんお母さん自身が変わることも含めて!)

お母さんが子どもをよく理解して保育所や習い事(関わる大人)を選ぶように、高校選びも、塾選びも、会社選びは子ども自身が自分自身を知っていることが大切だとおもう。自分自身を知るとは、社会の中の自分の姿が見える、社会の中で振る舞う自分、他人から見た自分、環境に置かれた時の自分がわかることだ。

少なくとも思春期がきたら、子どもに「生き方」「暮らし方」の話をしてあげては、どうだろうか。

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おもちゃも、学校の宿題も、同じ。

だという考え方ができる。

どういうことだ!頭が狂ったか!

いえいえ。おもちゃも学校の宿題も、学びのきっかけをつくるものです。

大人はそれを手助けします。

おもちゃであれば、新しい遊び方をしてみせたり。おもちゃを通じて言葉をかわしたり。学校の宿題であれば、、、、解説してあげたり、計画することについて話したり。人生について語ったり。

で、肝心なのは、おもちゃも、学校の宿題も、子どもとオトナをつなげる環境をつくるということだ。子どもと大人が関わりあう、相互に作用し合う、道具にすぎない。素敵なおもちゃ、高いおもちゃ、高価な教材、魅力的な教材があっても、それを通じて大人との関わり合いができないなら、おもちゃも教材も、「ただの時間つぶし」になってしまう。テレビゲームという道具は、この点、遊び道具としては「積極的に介入できるテレビ番組」ぐらいのものかもしれない。(ただし、ゲームを通じて大人と子どもが仲良くなることは多々ある)

おもちゃも学校の宿題も、大人と子どもの相互作用を補うものだ。そうおもうと、宿題をする時間は、ずっと一人遊び、一緒にいるけど結局バラバラに遊んでいる並行遊びをしているのかもしれない。喜ばしいあそびは心の成長を促す。

遊ぶように、学校の宿題もやってみたらどうだろうか。

4歳の男の子がレゴみたいなもので飛行機みたいな乗り物を作っていた。「どこに行くの?」と聞くと、「わかんない」と答えた。

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物語の世界がそだてる心

ふと思い出す物語がある。

赤ちゃんを身ごもっている時に、何かをお母さんがして、それでモノノケが赤ちゃんに入り込むという話。

何かの拍子で、物の怪に取り憑かれる話。

そういう話が、昔、たくさんあった。

物の怪の世界があった。

今の世の中、物の怪の物語が語られることは少ない。

ヒーローものの物語は「強くなっていく」「強い心をみせる」「仲間と出会っていく」ような流れ、「こんなんに立ち向かい、克服する」「執念を曲げない」みたいなこと。

いろいろな漫画が溢れている。

アニメは、SFのような、特別な能力をもった登場人物たちがどんちゃかやるかんじ。もしくは、青春のドラマを甘酸っぱくみせるかんじ。

憧れを抱いたり、「すげー」とかおもうような内容。

そんなアニメの中で多くのことを学べる。僕も「殺せんせー」から学ぶことがたくさんあった。日常生活では出会えない言葉たちとの出会いがアニメの中にはある。

哲学的なアニメもたくさんある。「涼宮ハルヒの憂鬱」とか「PSYCHO-PASS」とか。世界とは何か。法とは何か。正義とはなにか。漫画でも「思考・認識」を意識させるものがたくさんある。「バカボンド」とか。誰かに感情移入しながら、俯瞰的に眺められる、耳を傾けられる物語は、心の成長のために大切なことだとおもう。

一番肝心なのは、自分自身が今、置かれている、演じている物語だ。自分劇場。自分の心をみつめ、言葉を発する劇場。

話がそれた。物の怪の話。

世の中には物の怪が集まっている。物の怪には力がある。物の怪の世界がある。物の怪の世界はすぐ近くにあるが、たいてい、みんな蛍光灯の下で働きすぎで気がつけずに取り憑かれてそのままになる。みんなが物の怪に気がつかない方が、得をする人たちがいるのだ。気がついても、どうしたらいいかわからないことがしばしば。

世の中にはお化けが、物の怪が、怨霊が、妖怪が、モンスターが、たくさんいると思っておくだけで、気が楽になれないだろうか。その人は、取り憑かれているだけなのだ。

親から子どもへと、受け継がれる類の怨霊も、いる。

よし!絵本!

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理解できない行為への問い「なんでそんなことするの?」への答え方

人は人を理解できない。

他人はとなりの銀河のごとく、まったく離れていて、計り知ることができない。

と私はおもっている。

けどもその銀河にも、別の宇宙にも、きっと僕のいる宇宙と同じ法則が働いているのではないかという期待もしている。それは人間らしさであり、人間性であり、「相手には自分の知らない意図や意識がある」という世界の捉え方だ。理解不能な行為がなされたとき、だれでも素直にこう心で呟くだろう。

「なんでそんなことするの??」

この問いへの答え方は、2つあると僕は思う。

一つはタテマエの空間。問いへの典型的な答えは「そうすることになっているから」だろう。組織によくある空間。新しいこと、心の動きではなく、過去を引きずって今と向かい合えない空間だ。後ろ向きで喋っているようなものだ。タテマエ空間では、人間が意図していない。過去が、心なき組織が作り上げた過去の亡霊の口ずさむ呪文のような響きが帰ってくるだけである。(組織を守るためには仕方がない!?)

もう一つはホンネの空間。これはまさに、今、目の前の他者に感じる“不自然さ”を、〈かつて・あそこ〉ではなく〈いま・ここ〉でおこっていることとして理解しようとする切実な要求である。

もちろんこのタテマエの空間とホンネの空間は混ざり合うことができる。混ぜ方によっては人を騙すこともできるし、人を救うこともできる。(心の仕組みを知っている人が人の心を積極的に操作することで、人を救うこともできるし、殺すこともできる)

「なんで学校に行かなくちゃいけないの?」この問いに、この問いを発した心に、面と向かって答えることができるだろうか。答えられることはないかもしれない。それでも向き合うことができるか。本気で、心からふり絞られた言葉を、意識を、タテマエ空間に分離して切り離される経験を重ねてしまえば、心はきっとバラバラになってしまうだろう。切り取られる苦痛に耐えられなくなってしまうだろう。

理解できぬ他者との切実な出来事が、心を他人に開く、ホンネの関係をつくりだす心を生み出す。この“切実な出来事”が生まれる場所は、いったいどこにあるだろう?

共感する心を、向き合う心を働かせたとき、人は自分の宇宙を超えて他人の宇宙へと飛び立つような、もしくはお互いの宇宙を離れてその真ん中で出会うような感覚になるかもしれない。(シャーマンなどは完全に向こうの世界にまで行ってきて、また戻ってこれるからすごい)人はいつでも、宇宙旅行にいける。

世の中は多くのタテマエ空間がある。この空間で心をすり減らしているのは子どもだけではない。大人もだいぶこの空間にやられている。タテマエ空間は、社会的な空間と言えるかもしれない(心あるタテマエ空間といえる場所もあるだろう)。このタテマエ空間でいかに生き残るか、と言う課題が、多くの子どもにとっては、重すぎる。学習環境として、タテマエ空間が適しているのか。会社と同じでいいのか。その子が判断できなければ、親が判断して、心を守ってあげるのも、いいかもしれない。

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言葉が受け入れられるということ。

それは言葉が伝達される以前に、子どもの感情や身体、心が受け入れられている時だ。「かけがえのない場」にあって育つ言葉がある。言葉を信じる、言葉を、心の中に取り入れるしくみである。

おとなの指し示しを真(信)として受け入れること、誤解を恐れずに言えば、他社の言明を己の言明として需要するそうした態度決定(広義にいえば、反応態性)を示すこと、それがおとなの眼から見た、つまり、日常的常識的な意味での言葉を理解することに他ならない。さらにいえば、他者の変名を“真=信”として受け入れるこつした反応態勢は、身体がすでにそうした反応態勢を取るべき場に置かれていることによって、原初的には成立可能になっている。先に見たように、子どもは生まれ落ちた時点から「応答し得る者」としての存在の場を与えられている。子どもを「応答し得る者」として在立させる場は、同時に、自らの生命の維持さえも保証する場であるからこそー言い換えると「あなた(赤ん坊)と私(母親)にとってかけがえのない場」であるからこそー子どもがおとなの言葉を“真=信”として受け入れざるを得ない態勢がいち早く形成されていると言わねばならない。(『こどばが誕生するとき』p.153)

学校の先生は上手にこれを使っている。学級担任になった人は、ゴールデンウィーク前に、生徒に自分の言葉を信じてもらえるように「しつける(とある先生が使っていた言葉だ)」、ゴールデンウィークまでが勝負なのだ。ゴールデンウィーク後に学校に来ない生徒がいるのだろう。

大人は少なからず大人の価値観、学校の価値観、社会の価値観に応じて言葉(価値観)を信じてもらうようにする。言葉を信じてもらえるような振る舞いをする。これは宗教団体でも同じだ。言葉を信じてもらえる出来事(きっかけ)、環境を作り出すことが、子どもの言葉をそだてることになる。

韓国の劇団員の一人がこう言っていた。「舞台に上がってから、俳優は自分の言葉が観客に信じてもらえるように、受け入れてもらえるように、一生懸命になる。“自分の発する言葉”が信じてもらえるように努力をする。そんな俳優の姿をみて、観客は、少しずつ俳優の言葉に力を感じ、受け止めるようになる」のだと。言葉を学ぶことの大前提は、関係性をつくるということ。

受験生なら、どうしても進路に反対する親がいたとする。お父さんお母さんに言葉が伝わるにはどうしたらいいだろうか?言葉を信じてもらえるような振る舞いを、努力をするといいのかもしれない。(大人も人間だ。いろんな大人がいる)

言葉の持つチカラは言葉に内在しているわけではない。言葉をとりまく振る舞いや表情、使われる場が言葉にチカラを与える。

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幼児期と児童期の違い。空想の友達。

『ことばが誕生するとき』

言語のもう一つのあり方が社会的言語である。そこで大切な言語の昨日は、情報を伝達する機能である。「かつて・あそこ」で見聞きしたことを、「いま・ここ」で他者に伝えるという機能を果たすのがスヤ快適言語である。小浜は、子供が言語のエロ素敵な側面だけではなく社会的な側面を我が物にしていく過程において、子どもは〈死〉を自覚し、〈話〉の虚構性をシリそれと同時に「虚構性としての自己」を認識するようになるのではないかと主張している。幼稚園から帰宅した時、母親が「幼稚園でお友達と何をして遊んだの?」と尋ねるとしよう。子どもは、この問いに答えられるようになるとき、「いま・ここ」にいる母親から心を遊離させ母親というエロス的存在が不在であった空間=幼稚園に飛ばし、そこでの先生や友達との関係的な出来事を、「かつて・あそこ」(幼稚園)にも「いま・ここ」(家庭)にもない空虚性に他ならない〈自己〉の視点から語るのである。幼稚園には母親はいなかった(母親の不在)。いま母親のいるここに、幼稚園の友達や先生はいない(かつて経験を共有しあった他者の不在)。「いま・ここ」と「かつて・あそこ」をつないでくれる他者は存在しない。子どもは、このとき、語る人になることの孤独、あるいは語ることの空虚性に直面しているのである。小浜によれば、子どもがエロス的言語を離れた社会的言語を獲得するようになることは、子どもがエロス的な関係性から遊離した空虚な〈自己〉を手に入れ、そこから〈話〉人として〈話〉を構成するようになることを意味しているのである。隠して、幼児期は終わり児童期が始まる。そして、「いま・ここ」の“自己”と「かつて・あそこ」の“自己”とを関係づけようとする記憶とよばれる“自己”の物語が同時に開始されるというわけである。以上の小浜による幼児期と児童期の理論的な区別は、いくつかの観察や実験データからも裏打ちすることができる。ピアジュの初期の研究「自動の世界観」によれば、5〜7歳の子どもたちはよく死を問題にするが、5〜6歳以下の子どもたちはそのような質問は怒っていないという。このようなデータも、幼児期と児童期との違いの一つを死の自覚におく小浜の考え方を支持しているように思われる。ただし、今日の子どもたちはピアジュの調査した半世紀前に比べ、もうすこし早く児童期に足を踏み入れている用ではあるが。たとえば、小浜の娘は4〜5歳頃に夜寝床に入る前に遠くを見る目つきをし、そして目に涙をいっぱい浮かべ「ねえ、ママ、あたしが死んだら川に捨ててね」と語ったり、「ねえ、ママ、あたしが大人になったら、ママはおばあさんになって、それから死んじゃうんでしょう」と語ったという。筆者の二人の息子の観察データもほぼこのような時期に死の自覚が始まることを示している。「死」を自覚し始めることは、小浜によれば、空虚性としての〈話〉を獲得し始めることと密接に関連している。(『ことばが誕生するとき』p.78)

児童期以降の子供は、自分の体験や思考を、母親やちhc位親がすべて共有してくれているわけではないことを知る。エロス的関係性から遊離し空虚性である〈話〉の世界に足を踏み入れることによって、子どもは、他者と分かち合うことのできないもの。・他者には理解してもらうことのできないものがあるのだということに、直面させられる。かつて、子どもと世界を分かち合っていた全能の他者(お母さん(オトノネさん注))は今やいない。「いま・ここ」に不在なのは、幼児期に世界がまだ分かち合われていた時の“自己”でありその相手であった“他者”である。子どもは、そのような“自己”や“他者”を「いま・ここ」に呼び戻そうとする。かくして、“もう一人の私”や“秘密の友達”が子どもの“私的なもの”を共有してくれる“他者”として出現することになる。“私的なもの”とは、人が現実の他者と共有することができないものである。もしそれが誰かと共有されれば、それは“共同的なもの”あるいは“エロス的なもの”になる。(『ことばが誕生するとき』p.82)

いつも近くにいた人がいなくなって、不安になったり嬉しくなったこと、いろんなことを受け止めてもらいながら育ってきた子どもが、多くの時間を一人で過ごすようになる。現在なら首がすわったら保育所で多くの時間を過ごす、といえども、やはりお母さんに身体的にも、感情的にもべったりする時期が幼児期だ。そのべったりを超えて、自立していく段階が、児童期であり、学童期だとおもえる。お母さんから離れるために、「虚構を語る言葉」を使って、ここにない世界と言葉で関わりながら、少しずつ、子どもは自分でなんとかすることを学ぶ。これを手伝うために、社会的言語、〈話〉をすることが大切なのだとおもえる。

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助けてくれる人

ことばが誕生するとき

最初、子どもの”他者”は、現前する他者によって生み出される緊張や情動に他ならない。生後6ヶ月から、子どもの他者は他者が現前しないときでも欠如感や予期心像としてしだいに存在しうるようになる。しかし、そのような”他者”は断片にすぎない。現前する他者とコミュニケートしているときでないと、子どもの”他者”は十全に成立しえないのである。当然、”事故”も現前する他者とコミュニケートしているときでないと十全に成立しえない。”自己”と”他者”とは裏表のものである。このように、”他者”が現前する他者によってかろうじて成立しているようなレベルにある限り、その他者がいなければ子どもの”自己”は希薄なものになってしまう。子どもの”自己”はそれとついになる。”他者”をよりしっかり内面化することによって、またそれらをよりたくさん手に入れることによって、初めて自分と交流してくれる具体的他者のいない状況でも存続しうるようになるのである。すなわち、2歳前後から子どもの内部に子どもの”自己”と交流し役割を交換しうるような”他者”が住み始めるのである。これ以来、子どもの心は「空想の友達」をもちうるような基本的な構造を備えるようになると言える。事実、スベンセンの調査によれば、「空想の友達」が初出した時期の中央値は2歳5ヶ月である(『ことばが誕生するとき』p.70)

空想の友達は、言葉が変われど心理学の世界でいろいろと出てくる。他者の内在化とかいうやつだ。実際に目の前にいないけど、いろいろと助けてくれる、自分の中にいる”他者”である。ヘルプレスな状況で、自分を救う存在だ。それが神という名前になることもある。とにかくコミュニケートしてくれる存在を、子どもも大人もつくろうとする。

つらい時、目の前に誰かがいないと自分が保てなくなることもあるかもしれない。その時は本当に助けてもらったらいい。けどそれが依存を意味するような心のあり方では、迷惑になる。他人は他人だ。たとえば、小さい頃のお気に入りのぬいぐるみ。スヌーピーの登場人物がいつも抱っこしているアレであったり、自分が不安になった時、傷ついた時、さみしい時、助けてくれる”他者”である。

シャーマニズムの世界では「守護霊」と呼ばれるかもしれない。自分の中にある力であり、助けてくれることもあれば、逆に強すぎると操られてしまうこともある。自分の中にあって、自分を助けてくれるもの。言葉。響き。そういった、リッチな言葉を心の中に、リッチな感覚を心の中にたくさん取り込んでいけるような、リッチな暮らしをしていきたい。

言葉を使う時間を、大切に、大切に、見つめる時間を、言葉と言葉の間に生まれる大切な気持ちを、心を、大切にしていこう。

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言葉の広がりと世界(意味)の広がり

さっき、皿回しの棒を折った子の記事を書いた。

頭の中は何処か不思議と、相似形をしている気がする。

たとえば動物は昔、bow-wowだったのが、つぎにmooとbow-wowがいるとわかり、gee-geeも動物だとわかり、baaという動物もいるとわかるようになる。こうやって分類は細分化されていく。(mamaがご飯の意味で使われるのも同じだ)

それと同じで、「棒」ときたら「折る」という動作以外に「大切なもの」という選択肢がなかった、といったらいいのだろうか。「それは折ってはいけない棒」だということを条件(たとえば、人の家にあるもの。その棒がなかったら皿が回せなくなるということ)から推理できなかったといおうか。野山にある棒なら、いくらでも折っていいのだが。

棒を折って、こっちをみてほしい(お母さんと喋っていたが、一緒に遊びたかったんだろう。いやぁ、ときには一人で遊んでくれ、子供よ!)気持ちを出したのは、自分一人の目線。自分一人の目線だけで「棒」と関わってしまえば、棒に関わる他の人たちがどうなるか、予想していなかった事態になる。

失敗したら、そこで成長したらいいんだぞ!子どもよ!大人もよ!ハッピーになろう!

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