野性のチカラと企業戦士の矛の先と戦闘ゲームと虫取りとあそび

最近、保育園で子どもが「虫取り」をするのを見た。

というか、園内に昆虫が増えた笑

で、この虫取り、、、、、
すごい。

何が凄いかって。

まず目が鍛えられる。
「獲物を見つける」視野。

で、神経も鍛えられる
「獲物を捕まえる」俊敏さ。

で、指先も鍛えられる。
「殺さず、生かす」やわらかさ。

で、頭も鍛えられる。
「逃げられた!次はどうしたらいいか?」

捕まえた虫を観察したり。
飼ってみようとするなら、もっといろんなことを学ぶだろう。

あれだけ生き生きとしていた虫が、死ぬかもしれない。
そんなかんだで、心も鍛えられる。

ーーーーー

サッカーなどは、ゲルマン民族の「戦闘」能力をスポーツ化したものだという記憶が僕にはある。
テニスは「貴族の暇つぶし」。野球の起源はなんだったか。(ネットで調べて見たけど、不明らしい。あんな複雑な、バットを使ってボールをうんたらなんていうものがどうやってできたのか。場外に出す動作、打つ動作。走るどうさ。取る動作。うーん、想像できない。。。)

とにかく、体を使って奪いあったり、捕まえたり、物を放り投げたりする能力は、なかなか爽快だ。
的(獲物)に当たったら、めちゃくちゃ嬉しい笑笑

それこそ自分で「修行」をしたくなる。
そうして、強くなる。

宮本武蔵になれる笑

ーーーーーー

スポーツも、ある程度のレベルまでいくと、相手との「心理戦」になる。
どれだけ相手の呼吸を狂わせるか。。。。

そこには野性味があるが、やはり対話がない。
いや、ある意味、対話だ笑

剣を通じて、拳を通じて、語り合う人がいるらしい。
北斗の拳とか??

ーーーーーーー

現代、この狩猟感覚はゲームの中で体験されている場合がおおい。
オトノネさん、実は生徒に教わって「戦闘ゲーム」を、最近、やってみた。
戦場に降りて、武器を見つけて、相手を狙って撃つ。
相手の足音、打たれた方角、現在地、向かっている先は全て画面に表示される。
けど肝心な情報は、「目視」するしかない。
20分くらい、逃げて、狙って、隠れて、戦い続けた。(結局3位になったが、銃は一回も使わなかった笑ビビりなのね)
オンラインで、世界中の人がやってくる。
時間が来ると、居場所が狭まっていき、敵との遭遇率も高くなる。


身体感覚が伴わない、神経だけが高ぶる感覚、終わった後に、どっと疲れた。

身体感覚が伴っていたら、大変なことになっていただろうが・・・
おとのねさんには、違和感、違和感・・・

ある意味、ゲームは、麻薬物質を出すトリガーだ。
この強度の快感に、爽快さに、はまってしまうのも、無理はない。

脳は野性を、ある意味で求めているかもしれない。「男の子」はなおさらそうかもしれない。

それで高度経済成長期に、「男の子」は、企業戦士になって、戦ってきた。
今、その矛を置いて、さて、どうしたものか。
矛を下ろす先が、わからないのかもしれない。

矛を持ったままでもいいから、その矛で、子どもとあそんだらいいのに。
たったそれだけで、世界はたぶん、変わるから。
(それで少年野球に精を出すお父さんがいるという話もある。スポーツじゃなくて、「させる」んじゃなくて、あそんでほしいんだけどな)

そもそも、狩りは、昔の子どもにとって、純粋に遊びであり、本物の狩りの練習だった。
そうおもうと、昔の「狩り」は今の「宿題・課題・お勉強」なのかもしれない。あそぶように、当たり前のように、「学習習慣」を身につける世の中。


身体感覚が伴わない、神経だけが高ぶる感覚、終わった後に、どっと疲れている子どもが、どれだけいるだろうか

そこには野性味があるが、やはり対話がない。
いや、ある意味、対話だ笑

「テスト、どうだった?」
「赤点じゃなかった!」

テストの答案用紙を通じて、模試の結果を通じて、語り合う人がいるらしい。

ある意味、ゲームは、麻薬物質を出すトリガーだ。
この強度の快感に、爽快さに、はまってしまうのも、無理はない。
「やった!今回も、平均以上だ!」次も頑張ろう!とか。

心が大事。

ーーーーーーー

ちなみに、オトノネでこの野性の要素を出せる環境は限られています。
走り回るスペースは、ありません笑

けど
お手玉とか、折り紙の手裏剣ごっことか、(山田さんの)吹き矢とか。
あ、この前、庭にトカゲが歩いてたな。。。

あれ?そうおもうと、あそびって、結構野性味があるな・・・

オトノネひろげるシェアぼたん

変わらない人、変わらない組織の「自己防衛」のしくみと子どもの「抑圧」

心がつながるのが怖い

感情、の本を探している時に気になったので借りてきた。

こちらはカウンセラー、心理学のための本で、「自己防衛」で関係がつくれない人たちの話を読むことができる。

「自己防衛」とは、どうしようもない状況で情動が引き起こした防衛反応のこと。

それは、理不尽な身体的、精神的暴力を振るわれたのを「自分が悪いんだ」とおもうことも含まれる。

また、関係を避ける、といった振る舞いにもでる。

「自己防衛」は主に、思春期以前の経験が元になっている。
無力感、悲しみを抱いた時に、「若さが故」に心がはじき出した最適解。

その時は、役に立った。
困難を切り抜ける作戦として、有効だった。

しかし、
自己防衛が大人になっても、無意識のうちに繰り返される場合、「うまくいかない」といって苦しむ人がいる。

「何か変だ・・・」

ーーーーー

この本は、子供の頃の自己防衛が大人になってから「人を愛せない」で困っている人たちに焦点をあてている。

心は成長したのに、子どものころにつくりだした作戦が無意識のうちにまだ働いている状態が、苦しいのだ。

「なんか変だ」という違和感を感じたら、きっと、大人になったその人が、その人の中にいる子どものときの自分に語りかける時だ。
カウンセラーは、そのお手伝いをする。

本人が気がつかないような身体のメッセージがある。
少しづつ、忘れていた、無意識に落とされてしまった心、気持ちを拾い上げていく。

自覚して、言葉にして、思い出して、そして、今、その場で子どもの頃の自分と対話をする。
そうしたプロセスが、「大人な私」と「子どもだった私」を出会わせる。

こう語りかける。
「もう大丈夫だよ。子どもの頃の君は、そうするしかなかった。つらかったんだ。心から、君がつくった作戦に感謝する。そのおかげで今の僕がある。けど、もう大丈夫だよ」と、心から、心から語れるようになるまで、向き合う。

「誰も信じない」という作戦をとった子どもがいる。
けどもう今は分別もついたし、心も強くなった。信じてみないかい?
怖くなったら、誰かの力を借りよう。君は一人じゃない。大丈夫だよ。

子どもの頃に受けた精神的、肉体的暴力を大人になってから繰り返す人がいる。
自分の無価値さを無意識のうちに心に刷り込み、おかしくなってしまった心の防衛のために、「他者に暴力を加える」という、自分がされたことを他者にも繰り返す。「暴力を加えた人」を防衛のモデルにするしかない、子ども時代の記憶が、無意識に繰り返される。厳しく育てられた子ども。厳しいのは、親の愛情だと思っていた。そう信じるしかなかった。けど今は、そうは思わない。僕は強くなった。親は私を愛してはいなかった。だから、僕は暴力を繰り返さない。

子ども時代に欠けていたものを、大人になってから誰かに求めることもある。
けど、その子が欲しかったものは、他の人からは手に入れられない。ことが多い。
大人になったから、強くなったはずだ。もう大丈夫だ。欠けているものは欠けている。けど、その悲しみを何かで埋めようとしていた子どものころよりも、「もっと、より」今は強くなっている。大人の私は、子どもの君を、おもいやれる。だから、大丈夫だ。

悲しみを暖かく抱きしめる、大人の私と、かつて悲しみにくれていた子どもの私が、出会うのである。

ーーーー

無意識に触れる時、体のどこかが反応し、心の底で情動がうごめき、頭のなかでその動きを捉えることができる。
感じること、を通じて、子どもの時の自分、無意識に落としてしまった、本当の心を知る。

感情に触れられない、心に触れられないまま、「防衛」「抑圧」を繰り返してしまうと、それからも不幸な人生を送り続けることになるかもしれない。現実不可能な願望を抱き続けるかもしれない。そうして、今目の前にある世の中と、今、大人になった私の折り合いがつかなくなる場面がでてくる。

そうなった時、助けてくれる人が、近くにいるだろうか?
自分に向き合う、自分を感じる時間をつくれるだろうか?
(あくせくと、残業や課題でおわれていないだろうか?)

「悲しみ」を避けていたら、「悲しみ」と一緒になってやってくる(物事は大抵そんなものだ)他の何かを得ることができない。
今、大人になって、「もっといい作戦」を考えられるはずなのに・・・・

ーーーーーーー

自己防衛とは、無意識に繰り返される心の「生き残り作戦」である。
もうそれは、古い。新しいものにしたらいい。

そんな時に必要なことは、思い出し、子どもの時の心に気がつき、対話すること。
これは「学びの共同体」の「学び」そのものだし、ナラティブアプローチともいえるし、無意識に溜め込まれたその人の経験が生み出した「情動の仕組み」を理解することでもある。回避していては、理解はできない。対話をする場がなくては、理解ができない。そもそも、気が付いていないことが多い(だからカウンセラーは、まず、まずはクライアントがクライアント自身の感情に気がつくような働きかけをする)。

「愚痴をいう」という行動で「防衛」するという作戦がある。
「しゃーなしでもやる」という行動で「抑圧」される心がある。

もしかしたら、癖になった「防衛」や「抑圧」の影で、本当に見て欲しいあなたの一部が「僕には気づいてくれないの?」と、声をだしてすすり泣いているかもしれない。

目の前で苦しんでいる保育園児、小学生、中学生、高校生に気がつかない親や保育士、学校の先生と同じだ。
君の中で、泣いている、悲しんでいる君がいるかもしれない。

本当にいるんだろうか?

ーーーーーー

多くの親の「怒り」が子どもに向けられている。
それが習い事の嵐だったり、勉強勉強という言葉だったり。
「怒り」の奥にある色とりどりの感情に気がつかない。
「怒り」に気がつかない。

怒りの底にある、親が経験した悲しい出来事に、向き合えない。
自分が向き合えなかった感情・出来事を、子どもに向き合わせる(意味がわからない)ことをしている親がいる。

満たされなかった願望・欲望と付き合うことができず、折り合いをつけ、前に進むことができず、対話ができず、子どもにそれを再現させようとする親がいる。「私は◯◯だったから、この子には!」というセリフを使ったことがある人が、きっといるでしょう。

親だったら、そう考えてもおかしくはないかもしれない。

けど子どもは子どもで親とは違う人生を歩むものだ。
同じ人生を歩かせようとしてはいないか。

悲しみの経験を思い出して、今でも悲しがっている自分の心のために、今日も、1日の終わりに、祈りをかけよう。
「まだ私はうまくやれていないかもしれないけど、いつも泣いている君の隣に、私はいるよ。ちゃんと気が付いているよ。感じているよ」

そうして悲しみを自分の一部にすること。

ーーーーー

痛みや悲しみを引き受けられるようになると、たくさんの出来事に出会うことができます。
苦しみや悲しみを避けることに使われるエネルギーで、苦しみや悲しみを暖かく抱きしめられるようになったら、いいなぁと、僕もいつもおもっています。

弱い人を助けようとする自分は、弱い自分と向き合う代わりに、その人に関わろうとする。
(これを心理学用語で投影といいます)

嫌いだな、と思う人が、実は自分の中で「まだ統合できていない」自分の姿だったりする。

情動が動いた時、そこには何かしらの「心の作戦」があるとおもったらいい。
心に向き合う時間を大切にしたい。

人を愛したい、とおもうなら、自分を愛するようにしよう。
愛せていない自分を誰かに映し出してしまうとき、宇宙は、離れていくようである。

ーーーーー

古い時代の作戦をそのまま使っているケースは、よくある。
個人だけではない。学校、保育園、組織は体制を変えることができない。
「もう大丈夫だよ。そのとき必要だった仕組みは、もう今はいらないんだ。大丈夫だよ」

という対話を、一体、組織の中で、誰かしているのだろう。

人生を変えるのは、多くの痛みを伴うこともある。
輝いていた自分が、とつぜん、光を出さなくなるような、ギャップを感じるかもしれない。
それを支えられるような段階に達した時、人は、「危機」に見舞われる。

人を成長させるプロセスがしくむ、劇の幕開けのタイミングは、なんとも巧妙だ。
「え?大丈夫だよね?もう乗り越えられるでしょ?」

痛みを感じないわけではない。
痛みと寄り添えるようになること。
痛みを抱きしめられるようになること。

それだけで、プロセスは動き出す。

大切な自分を守れるようになったら、勝手に向こうから、儀式はやってくる。
学ぶべきものを学ぶべく、人は人と出会う。

心が大事。

ーーーーー

自己防衛の仕組みと受験生になんの関係があるかといったら。

だいたいみんな、「やらされ」て過ごす小学校・中学校時代。
多くの受験生にとって、「やってたことをやる」ことへのプライドや習慣がある。

「やらなかったら怒られる」から、「やらない」ことから生まれる不安・恐れを隠してしまったかもしれない。
「当然、できていたことができなくなるなんて許されない」と、「やらない」ことが怖くなっているのかもしれない。

大学受験は、そんな高校生たちが生まれてから今までつくりあげた、「防衛」「抑圧」と向き合う時期だと、僕はおもっている。

それを僕は、高校生の発達課題だとおもっている。
思春期だと、おもっている。

もっと自由になるために、心を大事にしてみたら、不思議なことが起ってくるかもしれないよ。

先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、おとのねさんも、そんな「成長」のプロセスの中にいる。
僕はプロセスの中にいる一人の人間として、学校の先生も、お父さんもお母さんも、子どもも、僕自身をも、大切にしたいとおもっている。

オトノネひろげるシェアぼたん

佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。「学校」つくったら!

先日、富山大学附属特別支援学校でたまたま佐藤学という有名な先生の話を聞く機会に恵まれた。
いるんだね!こういう人!というか、友達になりたいとおもった。
「学びの共同体」という言葉で、理想の教育の姿を説明してくれた。

むかーしっから、やっているようです。
学びの共同体研究会

石川県金沢市立紫錦台中学校も参加しているらしい。
こちらが金沢市立紫錦台中学校のHPです!
富山県で「学びの共同体」を実施している場所は、みつからなかった…

ーーーーーーーーーーー
メモにとったもの。

学ぶことは、しあわせなことだ。
一人で学ぶことはできない。学びは、社会的なものであって、孤立していたらできない。
人間の大脳新皮質は他者との協同により発達する。

ペア、グループ、コの字型で向かい合うのが基本。

小学3年生にならないと、内言ができない。考えることができない。(経験的な法則)
だから小学1、2年生はペア。それ以降は、3人、4人にする。

学びは既知の世界から未知の世界への旅であり、新しい世界、新しい他者、新しい自己との出会いと対話である。
学びは個人的活動ではなく社会的活動であり、自然的過程(能力や技術の形式)ではなく、文化的過程(意味と関係の構築)である。

人間の学びはコピー(模倣)ではなく、再創造
人間の学びはコミュニケーションによる意味の再構成(社会的文化的実践)

学びを対象世界(テキスト)との対話、他者との対話、自己との対話の三つの対話的実践。
学びは認知的実践(世界づくり)であり、対人的実践(仲間づくり)であり、実存的実践(自分づくり)である。

人間の学びは、ほとんど短期記憶にしかならない。
人間は学び続けないといけない。
動物は生まれてからすぐ、立ち上がる。模倣のプロ。
人間は、模倣する力が動物より弱い。短期記憶にしかならない。

一歳になるまでに、一度シナプスが削ぎ落とされる。軸索を残して、消える。
1歳になったら、シナプスがズバーと出てくる。そうすると、言語が生まれる。

シナプスのつながり、すなわち関係の構築。

1”5”20
意味を、共同で見つける時、それが長期的な記憶、知恵になる。

東京オリンピックのときには、空港が無人化する。
35%が人工知能で賄われるらしいよ。

創造・探究・共同
今のところできないこと。。

もう、今までの教育は役に立たない。
理解中心から探究中心へ

「わからないこと」を恥じるのでなく、「探そうという気がないこと」を恥じ得る時代。

140年前に成立した一斉授業

世界からは30年前に消えている一斉授業
安い単純労働者をつくるシステム。単純労働をする?

エリートはコの字のテーブルで育つ。ハーバード大学の講義室(黒板に全ての机が向かっている教室)は一つだけ。

コピーで済むような授業はいらない。

経済が発達している国はアクティブラーニングをやっている。30年前に

30年前、TOP30のうち21社が日本
今、TOP30のうちで、ゼロ。

この30年間で変わった。

学ぶということが、即幸福である。

人間は7つの領域に分かれている。
Howard Gardner
あらゆる能力を持った人はいない。
なんの能力ももたない人もいない。
孤立して生きてはいけない。
一人で生きようとしてはいけない。

人との関係の中で、多元的に見なくてはいけない。
抜群の能力がある。

デザインはビジョンによって
プランは目標によって生まれるもの。

建築家はビジョンを見る。
デザインは生かそうとする。

目標思考の仕事workと労働labor
創造的な時間。activityはビジョン、デザインの世界。
文化的な意味と、社会的な関係を想像する。

学ぶ権利の実現。

「待つこと」「見守ること」(谷川俊太郎、すきすき、きゅっ、好き好き、ちゅっ)子どもを受け入れられるか。
「させること」ではない。ここもおとのねだ。
おkどもへの信頼、子どもを尊敬する。これもオトノネだ。オトノネはこれを「自立している」と表現している。
学びの共同体は、リスペクトの共同体だ。そして、ケアの共同体

特別支援学校っで主流になっている「行動療法」は研究者が論文を書きやすいから。
「させる」ことで条件付けをする。それは「発達(心)」ではない。
行動レベルの導きだ。

思考、学習、内言。
外言が先。だから内言ができない子がたくさんいる。
対話の相手がいることで、モデルを得ることで、内言できる。
経験的に小学3年生。4人組で(人の話がきける?)
小学1、2年生は「考えることができない」まだ内言が使えない。無理無理!ペア。

「待てない」手を出す口を出す。がダメだ。
教師の仕事〈聴く・(子どもと子どもを)つなぐ・もどす(もう一回)〉
「だれだれくんの言ったこと、どうおもう?」

子どもが、学びの主人公だというのが基本。
いい教師は〈目と耳〉で仕事をする。
子どものテンポはゆっくり。教師が先に行かないで、待つこと。

ある意味で、戦国時代、三国志時代の武将のようである。

共有の学び:ほぼ全ての子どもたちが達成できるレベル
挑戦的な学び:三分の一の子どもたちの達成を期待する、つまり三分の2の生徒が「できない」課題を与える。
難しい問題だからこそ、子どもたちは大好き。飛びついてくる。
基礎を丁寧、丁寧に、積み上げるというやり方ではない。積み上げずに、引き上げる。
(そんなん無理無理!というものを出してみると、一生懸命に挑戦する子がいる)

——-

オトノネではメタスキルと呼ぶ「コミュニケーション能力」
創造的な仕事。
多様な人間が、それぞれの持分を出すことでしあわせがうまれる。
オトノネが求めている「先生像」

まことに同感できる、こういうことをきちんと言ってくれる人がいる。

昔の昔から、活動していて、少しずつ、広がっている。
こうした時代の流れの中に、オトノネはいる。
富山県に、オトノネは、いる笑

オトノネは「学校」をつくるにしたら、どうしたらいいかなと思っていたところで、いいモデルを見つけられた。
少しずつ。少しずつ。時に、大胆に。

オトノネひろげるシェアぼたん

【学ぶチカラ】情動・感情が現状打破するチカラになる話。また、情動・感情で他人に騙される話。

感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
感情 (〈1冊でわかる〉シリーズ)
喜怒哀楽の起源―情動の進化論・文化論
喜怒哀楽の起源―情動の進化論・文化論

情動には文化的な「表現様式」があるという話。
文化の中で、「望まれている」情動があるという話。いわゆる、県民性、国民性というやつだ。

日本人とアメリカ人に対してそれぞれ割礼儀式や吸引分娩、鼻の外科手術のような忌むべき内容を見せるという実験。この時、二つの条件で観察を行った。一つは、実験対象者が一人で見た場合。もう一つは、別の誰か(面接官)がいた場合。一人でいる場合は、日本人もアメリカ人も類似した表情が観察されたが、面接官が同席したときには、日本人はアメリカ人よりも多く微笑み、嫌悪感を表さなかったという。

この実験に関して最も面白いことは、その実験の様子を収めたビデオがスローモーションで再生され、検討されたときに、初めて明確になった。そうした再生においてのみ観察できたことであるが、面接官が同席する場合、日本人の実験協力者は、実際、市最初のうち、刹那、アメリカ人と同様に嫌悪の表情を浮かべるのだが、その後たちまち1秒にも満たないうちにその表情を隠してしまうのであった。(『感情』ディラン・エヴァンズp.13)

同じ「情動」を日本人もアメカジんも感じるものであり、それは不随意で、自動的で、制御が効かないものである。が、その一瞬あとに学習性の表示規則が押し当てられる。

文化によって情動を表す規則があるということ。

もう一つ。

高次認知的情動というものがあるという。
それは大脳辺縁系ではなく、大脳新皮質の影響、つまり意識的で論理的な影響をより多く受け、より計算的に、文化的に処理される情動であるという。その分、大脳辺縁系で処理されるような「基本情動」よりもゆっくりと立ち現れ、ゆっくりと消えて行く。

この高次認知的情動の例として、愛、罪悪感、恥、てれ・決まりの悪さ、誇り、羨み、嫉妬が含まれている。

「ヤバい、逃げろ!」みたいな臨戦体制に入るための情動はもちろんあるが、例えばこんな情動が、馬にもある。

象も子どもが死んだら悲しむとか、動物にだって「情」がある。
人間に特有の大脳新皮質の一つ下にある、より古くからあり、動物と人間が共通して持っている大脳辺縁系にも、同様の「情」が隠されているのかもしれない。そして不安や恐怖ではない、私たちが「あたたかみをかんじる」情の多くは、それが「子育て」に使われているような気がするのだが。

ーーーー

で、この高次認知的情動というものは、社会活動をするときに有効だという。罪悪感、誇り、嫉妬、妬み。例えばそれが「利己的」になりすぎることをいさめる機能を果たしたり、もっと「利己的」になることを促す機能を果たす。という。名詞にしてしまうと本質がつかめなくなってしまうが、情動とは、「心」の百面相に名前をつけていったものである。一人の人間の中には、社会的な生き方をするための様々な「自己」がいるとおもったらいい。

嘘をつくという社会的な行動がある。
それは「良心」からくるものもあれば「利己性」からくるものもあるだろう。

信頼、人と人の繋がりを円滑に、正常に、するための高次認知的情動がある。
一方で、利益を搾取するような、人を騙すような、利己的な情動もある。

利己性というものが、なんであるかはさておき。

例えば「復讐心(怒りの亜型)」というものがある。
もし理性的に考えて「結局、私は負けるのだから、戦うのはやめにしよう」とおもってしまえば、搾取され続ける、いじめられつづけるかもしれない。そこで、情動を解き放ってしかえしをすれば、結局は勝てなかったにしても、「あいつは根性あるやつだ。もっとひ弱なやつを探そう」ということになって困難を避けられるようになるかもしれない。不利益を与えた相手にも、不利益を与えようというのである。(ここのところは行動経済学の有名な「しっぺがえし」作戦と似ている。基本的に「利他的」な行動をしながら、「利己的」になった相手に「しっぺがえし」をすることで、双方よい関係を保つという作戦だ)

情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。
感情が適切に働くことで、人間は上手に社会化してこれたといっていい。

適切に、働くことで!

ーーーーーー

社会的に身についた、もしくは経験的に「学習性無気力」に陥った人たちは、「恐怖」「不安」によって「無抵抗」による利益を得ているようにおもう。たしかに。そうしてみんな、平和に(そう、平和に!)課題・テスト地獄の中に身を置いている。「闘争」もしくは「逃走」という選択肢がでてこない。平和の形も人それぞれだ。

ある意味で、従順でいることで、身を守っている。

ある種の感情を出さないことが「良い」ことだという刷り込みがなされる場合がある。
「不思議に思う」→「不思議をつきつめていきたい」→「けど誰もおもしろがらないし、大人は宿題をやれという」→「そもそも宿題をするので精一杯だから、不思議なんて感じない方が、心に負担がなくなる」
といったプロセスを辿っていき、「本気」になれるものから遠ざかる子どもたちがいる。

そんな中でも、自立心がある子は、自分で勝手に不思議を探究するかもしれない。
それはほんの一部の人間だ(そういう天の才を与えられた、ほんの、一握りだ)。

小中学校は「普通教育」の場であり、ほんの一握りの人間を育てるためにあるのではない。

ちなみに、「るろうに剣心」というアニメで、幕末、育ての親にいじめぬかれた宗次郎という人物が書かれている。
打たれて、泣いていると、もっと打たれる。打たれても笑っていたら、気味悪がられて殴られないことを発見し、「笑顔」以外の表情ができなくなった人として書かれている。これも「刷り込み」の一種。

ーーーーー

情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。

情動には情動なりの固有の理性がある。
(『感情』ディラン・エヴァンズ)

ディランのいう情動に固有の理性を、EI(Emotional Intelligence)、感情知性と呼ぶこともできるでしょう。
IQとEQ
EQとは、社会の中で自分のパフォーマンスを発揮する(天の才を生かす)ために必要な能力
新しい時代、IQよりもEQを大事にしたい件(感情知性は「知性」のメタスキル )

知性なき感情(闘争心?征服心?)を育てるのが軍隊であり、
知性を持った感情(信頼・共感、そして時として「しっぺ返し」のスキル)を育てるのが学校である、と二つを対比してもいいと、僕はおもう。
人間を社会化・組織化する二つの選択肢だ。

ーーーーーーーーーーーーーーー

情動は、ときに、従うことで、閉塞的な状況を打破するチカラになってくれる。
情動は自分の身を守ってくれる。自分のあるべき姿を、支えてくれる。
感情という知性が、いわゆる「息詰まった」合理的知性の助けになる。

僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。
情動、というより、無意識のメッセージを体の変化から受け取る。その情動のプロセスを、大きくすることで、現在ぶち当たっているなにかしらの困難、繰り返されめぐりめぐる思考から抜け出すきっかけを得るというものだ。

考えてもしょうがない。
心に従ってみよう。心が、教えてくれる。
というものだ。

恋愛などもそうかもしれない。
夜なべしてラブレターを書く。
いやもう、書くしかない。
けど朝になってハッと読み返したら、というか恋文を書いたことを恥じたり、手紙を出すことを恥じらったりする。けれども情動として、もっと深いところにある心が、オモイが、やはり夜になると深まるのだろう。

そしてその手紙を出さなければ、前に進めないのが、恋愛である。
無用の苦しみに何年も耐えるより、さっぱりと愛を告白してみて、次のステップにいったらどう?と、心はのたまっているのである。

ーーーーーーーー
ーーーーーーーー

だがしかし、情動のそうした働き(切羽詰まっている時の心の助け舟)が、裏目に出てしまうときがある。
結論だけ話すと、「良い気分状態で急かされた」時、人は騙されやすくなる。ということだ。
(『感情』ディラン・エヴァンズ p.123)

塾、教育業界で、種や仕掛けを用意しておいて、体験授業のとき、もしくは通常授業のとき、「これ、東大の問題だよ!」とか「ほら、できるようになったでしょ!」といって、褒めちぎったあとでその場で契約をさせられるとき、疑う方がいいかもしれない。(いや、できる「気」にさせて、モチベーションを高めて、本当に能力をあげてくれるのかもしれないけれど)

高次認知的情動をもった動物として扱われていると思ったらいい。実際、大部分、そうだし。
(保険会社の説明会の会場をたまたま見たことがある。路上パフォーマーを読んで、音楽を流して、楽しませて、契約をさせていた)

「正しい選択」のための合理的な判断など、到底できるものではない。
だからこそ、こうしたビジネスが成り立つ。
サブリミナルな(潜在的な無意識に働きかける)効果とまではいかないが、情動に訴えるこの手法に、みんなやられている。

買わなくてもいいものを、イメージで、「欲望をかりたてられ」買わされていることが、たくさんある。
偏差値、買いたい人、いませんか?進学高校や塾というファンタジーの世界で、たくさん売っていますよ。

ナチスの手法は、日本でもよく使われています。
無償化!教育県!学力一位!には要注意。
お子さんを、心のアウシュビッツに入れてしまっていませんか?

ある意味で、新しい時代を生きる力を削いでいく学校教育は、社会的な犯罪ということもできる。(実際、法律を犯しているから、教育に関するいろんな法律がどんどん追加されていっている)
「集団心理」を利用した、(学力テストうんぬんで情報リテラシーのない人たちを騙す)マスコミを巻き込んだ、社会的な犯罪だ。(最近、ようやく「新しい時代」のための教育がマスコミに取り上げられるようになった)

と、強く言ってしまったら、反感を買うかもしれない。
これは「教育とは何か」という哲学の話であるから。
そもそも、主張でもなんでもなく、僕一人のタワゴトだとおもってくれたらいい。

だって、自由経済だもの!言論の自由があるもの!
けど、悪徳商法にはクーリングオフとかあっても、教育業界には、、、、ない!
時間と、お金が、もどってこないんです。

ーーーーーーー
ーーーーーーー

ある種の情動には「脅迫」「暴力」「支配」という行為が伴うかもしれない。
僕には「怒り」「嫉妬」という情動がその根底にあるように思える。
このような心に満ち溢れた場所があれば、戦うか、逃げるのが一番だとおもうのだが。そうだろう。

組織への「しっぺがえし」などなかなかできたものではない。。。

攻撃と報復の果てに、平和をみつけるのは、なかなか大変だろう。(復讐の連鎖が、どこかの国でまだ続いている)
だから、そこに生きる個人は、逃げるという方法も、生きる場所を選ぶという方法も、自分の身を守る、大切なものを守るためには、とびきり上等な選択肢であるとおもうのだが。

ちなみに、最近読んだ本の中では、「怒り」を感じた時点で、バリ人は「眠る」という行動をとるという話があった。

が、インドネシアに滞在していたとき、どうみても、インドネシアの人たちが「怒り」という感情を持たないような気がして聞いて見た。答えはこうだ「僕らはね、怒ったらね、隣の村に戦争をしかけるんだよ」だそうだ。
冗談かもしれないが、そうらしい。

「眠る」か「武器をとるか」。
なるほど。

ーーーーーーーー

イスラム教の人たちは、常にコーランを読みながら、感情をマネージメントしている。
日本人も、ヨガやヒーリング、外食、ゲームなどで、感情をマネージメントしている。
けどどれも「感情と距離をとる」ことはできても、「感情と積極的に関わる」ことはしていない。

ブッダの仏教、瞑想、座禅は前者であり、
カウンセリング、演劇、対話は後者である。

ーーーーーーーー

恐れというものが、とても強い人がいる。
恐れから派生するいろんな感情がある。嫉妬、妬み、不安、、、、
怖くなって、身が竦んでしまっている人がいる。

「今は無理だ。僕の中に恐れがある」ならそれを大切にしたらいい。
けど同時に、恐れとは別の情動がみつかるかもしれない。
どちらも平等に、対等に、感じてあげるといいだろう。


情動は心の百面相だ。
ひとつひとつに、言い分がある。

自分の持っている感情、情動のひとつひとつの言い分を、聞いてみるのもいいだろう。
僕が学んだプロセス指向心理学も似たようなことを言っている。

ーーーーーーー

こういう先生が学校にはいる。
生徒4人を不登校にした先生が担任になったらどうするか。

「怒り」で生きている人間だ。
些細なことでクラクションを盛大に鳴らすイライラを募らせたドライバーと同じくらい、ストレスを抱えてしまっている先生がいる。
こうした理不尽な「怒り」に気がついて「ああ、私は疲れているのだな」とフィードバックが自分でできない人ほど、哀れな人はいない。もしこういった人に出会ったら、全くの他人でなく、少しでも情が湧いたなら、「疲れているでしょう?休んだらどうですか」と言ってあげてもいい。休めないのが、学校の先生であるのだが。

「良心」が届かない人もいる。
愛せないなら、立ち去るのもいい。

徳のある人間とは、情動を感じない人間ではなく、どの情動にも押し流されず、すべての中庸をいく人であるとおもえた。
情動が出てきた瞬間に、フィードバックをする人間。怒りに対して怒りで返さない。怒りに対して怯えで返さない。怒りに対して、笑いで返すことすらできる人。ある一つの感情だけを増幅させず、一度にあらゆる情動を感じられる人。ある意味で、宇宙的な広さを、心の中に感じている人。なんだか、気持ちがよさそうだ。

ちょうどいいバランスを、さがしていこう。

ーーーーーーーー

ところで、感情の学習、というものが、とても大切だと僕はおもっている。
保育士の先生は「怒り」の感情を伝えることがあるだろうか。「喜び」だけを伝えていないだろうか。
学校の先生は「喜び」を伝えているだろうか。「怒り」だけを伝えていないだろうか。

直接経験しなくてもいい。
ただ、映画とかではなく、現実に、こうした怒りや喜びを学ぶ機会があるともっといい。
それが、実は、芸能、芸術・演劇と呼ばれるものなのだが。

ーーーーーーー

怒りの感情を加えられた時、怒りや恐れで返すことなく、哀れみの情をもって、笑顔で返す、という神業を使う人に出会ったことがある。怒りを怒りで返したり、怒りを恐れで回避すれば、相手の怒りは回収されない。またいずれ、怒りを加えられることになるだろう。

完全に逃げるか。
そうでなければ、笑いながら、その人の悪霊に飴玉をあげよう。

愛せぬ者からは、立ち去るがいい。
と、ツァラツストラが言っていた気がするのだが。気のせいだろうか。

ーーーーーーー

感情と向き合う経験。
感情がでてきた後で、きちんと大人がフィードバックを返すこと。
「気締め」が必要なこともあるだろう。

そう考えると、子どもが関わる大人たちがみんな均一になってきているのも、末恐ろしいように感じる。
他者が感じている情動を見抜くチカラ、そしてそれに対してどんな情動で返すかという作戦をたてるチカラ。
それが、実は、EQと呼ばれているものである。(IQではない)

ーーーーーーー

コツコツと積み上げれば、、、とか、長時間やれば、、とか、一生懸命やれば、、、
という「美徳」というものもある。

忍耐、耐え忍べばいいことがある、という美徳もある(日本はまだ戦時である)。

これもある種の情動といえるし、文化的な、歴史的な「心の作戦」といえるかもしれない。(心理学用語でスキーマといってもいい)

新しい時代、昔から使われてきた作戦を社会的にプログラミングされてしまった心を、アップデートしてみたら、楽に生きられる時代になるとおもうのだが。

いかがだろうか。

結局、今、誰かが向かい合おうとしている課題は、きっと、日本の歴史、日本という場所からの自立を意味するのではないか。
日本という場所、日本という歴史がつくってきた「感情様式」が、うまくいかなくなって、体がヒーヒーいっているとしたら。

今が、自立の時なのかもしれない。

ーーーーーーー

アニメで「サイコパス」というものがある。youtubeでもみられます。是非是非。
シキソウというものをリモートでいつもチェックされていて、「汚れてくる」と、「クリニック」へ行くように通告される。「犯罪者」を世の中に出さないようにするシステムで成り立っている社会を描いている。ぜひ、学校に取り入れてみてほしい(「サイコパス」映画版か特別版かなにかで、国家的な詐欺をして、「心の汚れた人たち」がそのシステムを悪用するという設定もあった。要するに、どんなシステムも、どんな道具も、人間次第。)

感情・情動が動く場所には、ドラマがある。

がんばれ!がんばれ!
という言葉に、心がこもっていなければ、ドラマは生まれない。
多くの受験生は、心なき言葉に、亡霊に、呪いに、悩まされているような気がするのは、僕だけでしょうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)

「ああすればこうなる」という世界に生きていた。
心がなんなのか、ぼんやりとも、わかっていなかった。

「こうなりたいんでしょ?じゃぁこうしよう」といって、無理をさせていた。
「この子の学力をあげよう。そうしたらこの課題をこうやってやらせて…」ハードルを下げるアプローチは今でも間違っていないとおもうが、やっぱり「やらせる」ことをしていた。

そして、「この方法は、正しいのに、できないのは、生徒がいけないんだ!努力が足りない!」とおもっていた。
同時に「もっといい方法はないのか!?」と「やらせる」ことを研究したり。

行為レベルで言葉を使っていた。
行為レベルで人と関わっていた。
自分に対しても、行為レベルで関わっていた。

いろんな出来事があった。
繰り返してきた。
何度も、人の心を壊してきただろう。
「堕落」を繰り返した。

その度に、浮き上がるたびに、新しい旅を始めた。
「自然」という旅だったり。
「演劇」という旅だったり。
「子ども」という旅だったり。

その中で、「物語」「民謡」「踊り」「芸術家」「カウンセリング」「心理学」「ヨガ」「ストレッチ」「歴史」いろんなことを学んだ。

旅をしながら、周り周り、巡りながら(何度も失敗をしながら)今も、繰り返しながら、ようやく、心を大事にすることを、学び始めている。

人の成長とは、発達とは、すぐにどうこうなるものでもない。
「ああして、こうして、こうする」ということを考えていたらみられなくなる、大切な「今」がある。
そしてその「今」に気がつくためには、いつも誰かの言葉があったし、出来事があったし、何よりもそれらを感じる「時間」があった。

「時間」は、大切にしたい。
焦っても、どうにもならないことがある。

こう言う場合、焦ってもダメだ!もがいたら沈んでいくだけだ!ということを、まずは学んでもいい。
(それを学ぶのが、大学の合格発表の日だったりする。それが模試の結果だったりする。突然やってくる。DVをうけてボロボロになって、何度も試みて、やっぱりダメで、「違う生き方をしよう」という日が、やってくる)

ーーーーーーー

「あー、これからどうなるんだろう…」とおもって友達に話すと
「どうすんのお前笑」とかいう適当な返事や
「おもしろそうだからそのまま行けば?」という何か逆に誇らしくなる返事や(いやもっと役に立つ返事くれよと当時はおもっていた笑)
「小説家になったら?」というちょっと気になる返事がでてきたり。

いくらもがいても、足掻いても、焦っても、わからないときはわからない。
わからないなりに、「違和感」を感じたまま、抱えたまま、明日を迎え続けて来た。

高校中退をした時から、不登校になった時から、いまだに僕は同じ「違和感」を抱えている。
それでもまだわからない。

そのくらい長い、ゆっくりした時間を感じられるようになったのも、「ある出来事」を境目にしてだった。
そういう日がくるらしい。

ーーーーーーー

突然やってくる日を、大切にしたい。
それはいつやってくるかわからない。

オトノネは出来事を起こそうとは思わない。
外ででてきた出来事を心できちんと感じ、フィードバックして、いつやってくるかわからない出来事に備える感じ。
(狙ってその出来事を起こす「導く」ことをまずはやってみるケースももちろんある)

ーーーーーーーーーー

「仕組まない」ことで生まれる不思議があり、「仕組まない」ことで出会える心がある。
(芸術家は、生まれたもの感じたものを身体化、具現化する仕事であり、生まれたものを大切にしながら育てることをする)

僕はそれを大切にしたい。
(だからオトノネに来た人は困るらしい。「何をしてくれる場所なのかわからない」と)

人には誰しも、発達の段階、人生の曲がりくねった道の上にあり、僕が関われるのはほんのその一部だ。
到底、最後まで道案内することなどできないし、案内できるほど多くの道を知らない。
「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

だからもし、おとのねさんに会ってみて、話をしてみて、感じてもらって、僕ができる小さなことが、少しでもその人のチカラになると感じてくれたら、お付き合いをしたいとおもう。

例えば。

「◯◯ができない」
「私は◯◯」

という言葉を生み出す心を、僕は感じようとしている。
縛られているものから、少しでも抜け出して、心を自由にして、今置かれている状況の中で、精一杯、チカラを使って先に進んでほしい。
神経は、記憶している。だけど、心は、成長したいとおもっている。
僕自身が、今、そのプロセスの中にいる。

なにしろ、時間がかかるものだ。
定期テスト対策なんて、なんともまぁ、この悠々とした時間に比べたら、小さなことのように僕はおもう。
その小さなことの繰り返しが、人の心をつくるのだろうけれど。(高校生になっても定期テストでピリピリしている。定期テストという呪いだ。)

頭ではわかっていても、やっぱり定期テスト勉強に勤しんでしまわないと心が落ち着かない子もいる。
それでもいい。なにしろ、定期テストは、小さなことだから。

けどそれで大切な「時間」が減ってしまうとしたら、困ってしまうかもしれない。

時間は減るものではないのかもしれない。
ただ悠々として流れているものかもしれない。

もしその「時間」が課題・宿題というバケモノの姿をして牙をむいて、台風のように、終わりのない嵐のように君に襲いかかっているとしたら?
君は呪文を唱えて、「時間」を元の姿に戻してあげるのもいいかもしれない。

本当に大切なことは、本当に大切なものは、内側から、やってくる。
外から与えられるものではない。

もしかしたら、今君の中に生まれた、気持ちが、「大切なこと」を知っているかもしれない。
聞いてみてもいい。その子はきっと悠々とした「時間」の中にいる。

その子の「時間」に入っていけば、きっと、話ができるはずだ。

ーーーーーーーー

Do it! Doit!と英語で書いてみる。
綴りが、Idiot(馬鹿者)と似ているなぁとおもった。

オトノネひろげるシェアぼたん

欅坂(けやきざか)46の「アンビバレント」を聴きながら(子どもの「時間」)

いつも思う。

というか思い出した。

何年か前に「それいけ!アンパンマン!」をテレビでみるという幸運に巡り合った。
そして驚いた。

セリフを喋るスピード、場面転換までの速度が「速い」。
速いなんてもんじゃない。
「ない?」

こういう慌ただしい世界になってきた。
慌ただしい世界が、子どもの世界に入ってきた。
SNSに既読をつけたらすぐに返さなきゃいけないという謎のルールがある世界になってきた。
毎日毎日課題宿題に追われることが「ふつう」の世界になってきた。
時間の隙間に子供達が「あわてて」ゲームをする世界になってきた。
(ひまだなぁ、ゲームでもするかぁ、でなく、ゲームに追われているくらい、ゲームするかんじ笑)

ーーーーー

ちなみに俳優、歌手、芸能人、軽い声しか出せない人が増えている。(ストレスでそうなったかどうかは知らない)
本当の声を使える人を見つける、育てるよりも、もっと「お金」になる方法に、経営者たちは気が付いたのだ。
人間のチカラではなく、技術の力、テクノロジーの力。
そうした軽い声に触れていると、それを子どもも真似するだろう。
それが普通になってしまう。

ーーーーーー

そして最近、生徒に教わった曲が、欅坂(けやきざか)46の曲、その子が好きな曲のひとつに「アンビバレント」というものがあるというのでその場で聞いてみた。

まず僕には歌詞が聞き取れない。
映像が変わりすぎて見えない。

僕はやったことがないが、これは、薬物をやって幻覚をみている感じなのかなぁ、と思えるほど、イメージが曖昧で、しかも、曖昧すぎる強烈さがある。曲を最後まで聞いていたが、僕にとっては、まるで、「夢」のように、ただ強烈な「ああ、なんか、みた」というイメージしか、残さなかった。これが、子どもたちに響くというのだから、この時代はなかなか、不思議だとおもう。

いやまぁ、「ボカロ」ではその傾向があるのは知っていたが、「POP」でも同じ現象が起きているとは…
けどこれが子どもたちの世界だ。

ーーーーーーーーーー

ツイッターでこんなことを書いたのだが、実際、そうらしい。

がんじがらめになってしまい、吹いてくる、肌にやさしく触れるような「風」が感じられなくなっているかもしれない。
そのくらい、感覚が、どこか、今の大人が暮らしてきた子ども時代とは、全く違う世界に今の子どもたちは暮らしている。
つなぎかえようとしても、できない。新しいものが、入ってこない。みえない。こんがらがっている。

頭が、混乱している状態で生きる作戦を、子供達は採用して、子どもたちは生きていくだろう。
上手く生きられなかった子どもが、8050問題を起こしたり、DVをやったり、生活保護の対象になって、日本は教育費にお金をまた出せなくなる。はい。そんな感じ。
8050問題の解釈と学歴、マスコミ、景気の関係

ーーーーーー

子どもとはなんだろうか。

子どもたちが生きているこの時代は、どんな時代なんだろうか。

欅坂のこの歌をプロデュースする人は、それを知っている。
そしてそれを売ることで、時代から認められ、時代を加速させる。
商売とは、芸能とは、そういうものだ。大衆文化とは、そういうものだ。
そして少なからず、その時代を生きる人たちのチカラになる。
けどそれで時代が動くわけではない。(ナウシカも、ハルヒも、世界を変えられなかった)

(ちなみにこうやって組織的なアイドル、交代可能でそれを卒業というイベントにすらしてしまう超ビジネスマインド、見上げたものだが…これも学校と同じスタイルだと僕は思う。花を咲かせる人がいる。が、選ばれなかった人は、地下アイドルとして、一体どうやって暮らしているんだろう?)

ーーーーーー

答えのない時代で、一人一人が助けを求める音楽が違う。
寄り添ってほしい音楽が違う。
それがこの時代の動く速さを象徴していたとしても。
今、その音楽に守られなかったら、壊れてしまう心がある。
今、その音楽を強く求める心がある。

今その人が必要としている音楽に助けてもらいながら、守られながら、次の一歩を踏み出してみてほしい。
ゆっくりと。力強く。

そのうち、音楽の趣味も変わるかもしれない笑

ーーーーーーー

ちなみにオトノネさんのブログの記事はどう考えても長いですね。
わかりにくいかもしれませんが。

このブログを最後まで読めるような時間を感じてくれる、時間の深さを感じてくれる人が、オトノネにきてくれたらいいかなとおもっています。
でなければ、せっかく来てくれても、「この塾、何もしてくれない!」と言われて終わってしまう気がする笑

何もしていない、、、、かも笑
正解は「何も《させない》」ですが。
いやいや、してくださいよ、勉強、やりたいだけ。
《したい》気持ちを、本気で、マックスで、応援します。

集中力という言葉がある。
それは、内的な動機付けがないとでてこない。
本気でないと出てこない。

集中力さえあれば、なんでもできる(ちょっと大げさだけど)、そのくらい、オトノネは本気を大切にしています。

「あれやって、次これやって…」
速すぎる速すぎる…

そんな「時間」を少しだけ操作するのがオトノネさんです。

ーーーーーーー

AKBあたりのヒット曲を時代を追って見ていくと、おもしろいかも。
歌詞とかね。

ねぇ、何をしたいの?
どこに行きたいの?

私だったら何もしたくない。

だそうです。

休んだら?
え?課題?宿題?やらなくてもいいから笑
いやもう、後ろで絡まったり積まれたりしているけやき坂の一人が、君なんだよね。

うまいなぁ。

積まれてないで、でておいでよ笑
もう、絡まりすぎてるのかもだけどね。

ーーーーーーー

朝食をつくるに4時間、待つ大人の記事です。
ハプニングを受け入れる

ーーーーーーー
「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)
「名詞」の抽象性
言葉が育てるもの。言葉が傷つけるもの。

オトノネひろげるシェアぼたん

おとのねさんの話し方(人は税金と保険料と教育費と家のローンを支払う動物か)

話し方にはいろいろある。

いろんな分類ができる。

感情レベル
認知レベル
行為レベル

例えば、幼児期の子ども

感情レベルでは、「痛かったね」「嫌だったね」「悲しかったね」「楽しいね」といった感情と言葉を結びつけることとか
認知レベルでは、「あ、ほら、あそこに何々がいるよ」とか「待っているからね、ゆっくりでいいよ」とか
行為レベルでは、「おしっこしてくる?」「ほら、カバン入れるの忘れてるよ」とか
行為レベルのほとんどが、実は子どもからの応答になることが多いのだが。。

具体例をみればわかるように、
3つを厳密には区別できないくらい、つながっている。
特に近接する感情と認知、認知と行為の言葉の繋がりは大きい。

例えば、悩める高校生の話

例えば学校ではこういうことを言われるだろう
行為レベル「これをしなさい」「あれをしなさい」「君は補習だ(来なさい)」
認知レベル「この参考書は今頃、◯周目に入っているものだ」「うちの高校は多くの優秀な人材を…」
感情レベル、思いつきません。

人によって、状況によって、どのレベルで話をしらたいいか、どのレベルなら、今、受け取れるかを、伝えられるかを考えて、僕は話のレベルを変える。
今その状況では「感情レベル」や「行為レベル」を伝えない方がいい場合が多い。
小さい子であれば、「認知レベル」での話もできない可能性がある。(話して聞かせることができても、対話ができない場合、話をせずに、非言語で関わりあうことを僕はする)

僕が喋るほとんどが「認知」レベルの話だし、このブログにつらつらと書きとどめているのも「認知」レベルの話がほとんどだ。
(そしてできるだけ「感情」レベルの内言に触れるようにしているつもりだ)

ーーーーーー

その点、純粋な物語(教訓とかそんなものが含まれていない不思議なもの)は、どのレベルにも等距離にあって、聞く人を「誘う」だろう。
「導く」「任せる」「誘う」。ご招待。

読み手に多くのことを「誘う」。
何も感じない人には感じない。
話しての、書き手の話し方、書き方によって感じれないだけかもしれない。

「任せる」という言葉が少し消極的であるとしたら、
「誘う」は積極的な意味を含めている。

話し手は、書き手、は、「任せる」以前に「誘う」ように、話し方を、書き方を強めていったらいい。
そうすることで多くの心が動くから。

ーーーーーーー

大きなスケールで考えてみよう。

行動レベルで、視点を大きくしてみようとしてみよう。
大きな時間の中で、考えてみよう。(例を出すだけで、もちろん別の言葉を考えることもできます)
学校や保育園の先生、お父さんお母さん、いろんな人がいろんな「行動レベル」の言葉を使っていると僕はおもう。

就学以前は?子どもが小学生になって、「椅子に座っていられるように」「宿題ができるように」「一人でもできるように(自立)」
小学生は?「先生にいわれたことをするように」「テストで悪い点をとらないように」「友達とたくさん遊べるように」
高校生は?「いい大学にいけるように」「あなたは、◯◯センターに行きなさい」社会に出て、「いい会社に行けるように」「会社を選べるように」

行動レベルで触れる多くは、他者からの言葉がけであるように感じた。

認知レベルでみてみよう。
就学以前は?「」

おとのねさんは今ふとおもった。
行動レベルの言葉をマクロで考えると、どこか「目標」めいたものがでてくる。しかもそれが「子どもの心と離れている」言葉が多いようにおもえる。(僕の頭がそうなっている)

認知レベルの言葉をマクロにするとどうなるか。

再度挑戦。

認知レベルでみてみよう。(言葉を使う人を、本人の内言とする)
就学以前は?「いろんな失敗はあるかもだけど、助けてくれる人がいる」「「やらなきゃいけないこと」をやったら、あそべる!」
小学生は?「世の中おもしろいことはたくさんある」「学校はつまんないことが多いけど、友達と会えるのはここしかない」「お父さんお母さんはこういう人間だから、私はこういう作戦でお父さんお母さんと関わろう」
高校生は?「僕たちの青春は、漆黒のブラックに染まっている」「課題の海で溺れている」「わけがわからない」「しゃーなしや!」

拙い例しかでてこなくて申し訳がない。
認知レベルはどこか「世界観」「世界のルール」、性格に関わってくるように思える。

感情レベルは?(内言として考えました)
「◯◯たのしい!」「◯◯したい!」「◯◯、行きたい!」「◯◯嫌だ!」「◯◯つらい…」

この部分は、未就学児でも高校生でも変わらないような気がする。
心に一番近い部分だからだだろうか。

うーん。

ーーーーーー

抽象化するのも少し気がひけるが、
愛とはなにか?

感情とは、「情(心的エネルギー)を感じる」チカラであって、得体の知れぬ「気持ち」を表すだけではない。
感情豊かに、という言葉がその使用例。
そうすると、感情的に、という言葉は心的エネルギーを感じながら、という意味になる。

多くの心の「症状」はこの心的エネルギーがうまく「まわらない」「だせない」ことで起きてくるようにおもう。
情を感じるチカラで、心を大事にしてほしいと、僕はおもう。

ーーーーーーー

子ども時代は、厳しい現実から離れて、大人から守られている。
(大人ほどに現実の厳しさはない。愛をたくさんもらえる)

だからこそ、大人が作り出した環境が大切になる。そうでしょう?

「子ども時代」が長引くようになったこの世の中で、大人は、きちんと大人としての責任を自覚しているだろうか。

保育園卒業時の目標が「椅子に長時間座れること」だとしたら、認知レベルはどうなっているのか?感情レベルはどうなっているのか?小学校で子どもが突き当たるであろう困難さ、試練に対して、就学以前にどんな知恵を、振る舞いを与えて、自立していってもらうか。

願いであり祈りの言葉がけ。

おとのねさんは、「今目の前の状況に困っている」ことは、「死ぬまでの間にもう何度か出会うであろう困難さ」と向き合うための学びを得られる場所だとおもっています。だからそれは「行為レベル」であるよりも、「認知レベル」であることが多いし、「感情レベル」で感じてもらった方がいいこともある、ということを考えます。

おとのねさんは「こうすればああなる」という世界ではないという認識をしています。
不確定、不安の時代だから、です。日本が。

ーーーーーーーー

AI、AIというが、もしそう言う時代になったら、行為レベルの関わり合いが強まるきがする。認知レベルも強まるだろう(AIの得意分野だ。ただ、データの外にある認知には疎い!)、そして、心の部分が、削がれていくだろう(インターネット上で「心」の現象を再現できても、どれもインターネットという限界を超えることができない。AIが進化するための条件、ビッグデータにどれだけ「心」が含まれているか)。

Siriを引き合いに出して申し訳ないが

「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「深呼吸をして、温かいお茶を飲んでみてください(行為レベル)」
「この前もそんなこと言ってたよね」
「てへへ」

「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「それはこうこうこういうことだからだとおもいます(認知レベル)」
「いやそれはわかっているんだけどさぁ」
「てへへ」

「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「嫌だったのですね(感情レベル)」
「そうそう、僕の愚痴を聞いてくれるかい?」
「聞きますよ」

…そうしていろんなパターンを学びながら、フィードバックを受けながら、人の心と関わる機械が生まれるかもしれない。
かもしれない!かもね。けどそこに限界があると僕には思う。これから、人間が機械に近づいて行かない限りは…

機械の限界の中でしか暮らせない人間がいたとしたら、少し、僕にとっては、おもしろくない。

ーーーーーーーーーーーー

人は、税金と保険料と教育費と家のローンを稼ぐ動物か。
大切なものを、大事にしていたら、お金に追われながらも、時間に追われながらお、しあわせになれはしないかと、僕はおもっている。
お金とどう関わるか、どのように死ぬか、そうした一人一人の人生観を、死生観を、子どもに伝えていけないだろうか。
(そのグランドデザインをつくる学校という場所が、病気だから、お父さんお母さんがしっかりしたほうがいい)

けど人はひとりひとり違う(課題がちがう。大抵、お父さんお母さんのやり残した課題に再び取り組む場合が多い)

この時代に生まれ、生きているというオリジナリティーもある。

だから、その子が進もうとしている場所に、一歩踏み出すだけでいい。と僕はおもう。

踏み出した先でまた、その子なりに取り組めるように。
同じところをぐるぐる回っている子(あ、これはあの時の繰り返しだと気づいた子)がいたら、オトノネさんはたぶん役に立つ。

非言語で。
言語で。

「教えるべきこと」と「教えてはいけないこと」を、今でもまだ考え続けている。

オトノネひろげるシェアぼたん

「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

おとのねさんの頭は混乱しています。

僕はいくつかの保育園で仕事(勉強)をしているが。

僕は僕なりに勉強をしていた。
(それが実はアンガーマネジメントとよばれるものだったりするのだが)

小さな子どもと関わり、慣れてきた最近。
とある保育士の先生からいろいろと言葉をもらった。

「ぼうっとしてるよ」
「何かしてあげないの?」
「導いてあげないのね」

公園に行ったらタンポポをふーっとしてみせていた。
それからその子は自分でもふーっとやるようになった。
園に帰ってシャボン玉をふーっとしてみせていた。
それから今日、その子は生まれて初めて、自分でシャボン玉を吹いた!
(もちろん、シャボン液につけるところは先生がやった)

1歳8ヶ月の子。

言葉がけや振る舞いのひとつひとつの意味の深さ、繋がりをしる。
できなかったことができるようになったその子は、とても、満足そうだった。

言葉にも、笑顔にもでていないが、真剣な顔、表情、その子が出す雰囲気をみたら、どんなに今彼が自分に驚いて、楽しくて、誇らしく思っているのか、感じることができた。

ーーーーーー

僕は「ぼうっと」しながら、子どもをみていた。
その場で何が起きるのか。子どもは何を見つけ、どのように関わろうとするのか。
僕が気になっていたのはそこだったから。

けどその先生は、何かを起こそうとして、環境を作っていた。関わり合いをし続けていた。
公園にいくときには「公園で何ができるか」考えていっていた。
公園を、その子たちが使い尽くせるような関わり合いをしているという。

日が強い日は日陰が多い公園を選ぶ、とかそういうレベルではない。

なるほど。

シャボン玉を膨らませるなど、教わらなければできないことだ。
そして目の前で、1歳8ヶ月の子がシャボン玉を吹いて満足している。
シャボン玉をこの歳に吹けるように「導く」先生の関わりがあったからだ。

ーーーーー

教育界で最近、話題の坪田信貴さんの指導法も、僕にとっては「導く」ものだ。
定めた目標に向かって、「進ませる」言葉がけ、関わり合いをする。
「導く」という言葉では生ぬるい、「引きずっていく」くらいがちょうどいいかもしれない。
引きずられて、心が擦り切れている子がたくさんいる。

「コレができるように」という目標設定がある。

僕にはそれはできないと思っている。
(まだ、僕にはできない)

(いやいや、目標が決まれば、それに本気で関われる状態になった人に対しては、「道案内」をすることができるし、それが学習塾オトノネの売りだぜ!導くって言葉が、僕にはどこか、合わない)

ーーーーーーー

「導く」か「任せる」か
それが問題だ。

「導かれる」ことで幸せになる人がいるかもしれない。
(実際、坪田さんの著書のあちこちに、「導かれて」人生が変わった人たちの記事が載ってる)

「導かれる」ことで多くの高校生たちが、大量の課題と学校の先生の呪いの言葉に埋もれて窒息しそうな暗い顔をしているのも現実。

「導く」ことの責任が、僕にはこわいのかもしれない。
(というか僕は五行でいうと「水」らしく、僕自身が「委ねる」感じの人間なのかもしれない。けど逆に解釈すると、悠々と誰かを「導く」チカラももっているかもしれない。言葉って難しい)

ーーーーーー

例えばネイチャーゲームとか、学校の授業もそうか。
「自然に触れる密度を高める」ための「導き」がある。
「自然にまかせていたら、得られない学び」をえるための「導き」がある。

そうおもったら、僕が不得手な「導く」という言葉も悪くない。
「任せる」ことができる環境に「誘う」と言い換えてもいいかもしれない。

喜び合えることが一つでも増えていけるように、という愛情だけではどうにもならない。
愛情にはカタチがない。
「導く」という愛もあっていい。

学校に行きたくないんだけど学校に行かなきゃと思っている子に、
「休んでもいいよ」という言葉は、「誘い」であり、「導き」であり、「任せる」ことの全てを含んでいるようにおもう。

保育士のプロは、愛をもって、知恵をもって、子どもと関わる。
その知恵が、保育園という場所で継承されているという。

僕はその知恵を、どうにかして体系化したいとおもっている。
オトノネをお母さんたちの仕事場にするために。(どうやら僕はここが気になっているらしい)

勉強する時間つくるか。
うーん。フルで働くか。保育園で。

あは

ーーーーーーーーーーー

「導いてもらいたい」という気持ちでお父さんお母さんは塾に子どもを通わせるだろう。
そこでオトノネは「いやここは任せるところですよ」というわけだから、度肝を抜くお父さんお母さんもいるだろう。

「導かれて」しあわせになるとはどういうことか、僕にはよくわかっていなかった。
ただ、目の前でシャボン玉を吹けるようになった(真面目な顔で、なんどもなんども吹いている!)その子の顔をみて、

僕は研究を始めようとおもった。

ーーーーーーーー

オトノネの本棚には、ずらりと高校入試、大学入試の「参考書」が並んでいる。
おとのねさんは、その子の発達段階、学習段階に応じて、そして志望校に応じてカリキュラムを組み立てられる。
そのために、どんなスケジュールで進めて行ったらいいかもいえる。(行為レベルの話ができる)
おとのねさんの話し方

今度は、別の棚に、「おもちゃ」を並べて、同じようなことをしようというのが、オトノネさんの計画だ。

その点、「勉強」も「遊び」も変わらないのかもね。

おもちゃも、学校の宿題も、同じ。

「導く」も「任せる」も、どちらでもいい。
どっちもあっていい。

どっちも必要だろう。

モンテッソーリ教具がその極みかもしれない。
「任せる」と同時に「導く」。

けど僕はもう少し、ぼくなりに、もっと素朴に、おもしろく、「あそびの体系化」をしていきたいなぁとおもった。
例えば、「ひも」というものでどんなあそびが発展していくのか。

乳児期の「ひも」との関わり合い
幼児期の「ひも」との関わり合い
学童期の「ひも」との関わり合い

この流れを体系化していけば、「あそび」がいわゆる「お勉強」にとって大切であると胸を張って言えるようになるかもしれない。

ーーーーーー

保育所でフルに働くかー
どうしよかー
ああーーーーー
残業とかまじで僕無理っすよ?
嫌なんだよなぁ‥保護者を喜ばせるための運動会とか、出し物を「やらせる」とか。(年長になったらやってもいいとおもうが)

その考え方も、改めないといけないかもしれないけど。
(イベント行事を一切(年に一回だけ)やめている保育所を知っている。日々、日常の保育のなかに全てを注ぐというスタンスの園だ。僕としてはそっちの方が好きなんだが。だって、保育士の先生の負担の代わりに得られるものが、小さすぎる(子どものアルバムの写真が増えるだけだ)と、僕はおもうから。子どもはそんな年に一回のイベントがきっかけを学びの時間にするチカラがあるだろうか?年長くらいになったら、できるのかな)

ーーーーーーーーー

有名な倉橋惣三という保育実践者がいる。
この人が掲げた「誘導保育」という考え方は、これなんだろうと、しみじみ、実感した。
「誘う」を英語にすると何か、グーグル先生に聞いてみた。

invite

と出た。

素敵だなぁとおもう。

くるかこないかはわからない。
けど、お誘いしますよ。という姿勢。
その距離感がいい。

この「誘い」を悪用すると、悪徳商法、マインドコントロールになってしまうところが人間臭い。

心が大事。

混乱していた頭が、少し整理できた。

ーーーーーー

あーでも保育園って、やっぱり文化があるから、いろんな保育園で「観察」した方がいいかなー
そうすると、アルバイトができなくなり、金欠になるなぁ困った!

とりあえず笑っとこう!

ーーーーーー

オトノネひろげるシェアぼたん

言いたいことが言えない。

大人のやましい沈黙。子どもの計画的不登校。

小さい頃は、「さかな」が「たかな」になったりする。
言いたいことがあるけど、まだ、「口」がついて行っていない。
もう少し、時間がたったら、食べ物をちゃんと食べて、いろんな音を出してみながら、遊びながら、「さかな」といえるようになる。

言いたいことが言えない。

と、一言いっても。
世の中には「もう、いわなくていいや」ということもたくさんある。
言葉が出るのが遅い子は、そんな気持ちではないのかとおもうこともある。

お母さんが全部守ってくれるし!
遊ばせてくれないし!楽しくないし!
なんかもう無理無理!なんでこんな世の中生きにくいのかな?

場面緘黙という言葉もある。

言葉のチカラを僕自身が、どこかですり減らされていないか。
まずは、僕はご飯をたべよう。
昨日、食べられず、寝てしまったのです。

ほとばしるエネルギー!

別にしゃべらなくても。
エネルギーが溜まっているのを、出すところが大切だと、おとのねさんは考えています。

ーーーーー

別のパターンもある。
「NO!」といえない人がいる。

「私、課題、やりません」と言う必要はないのだが、やらなくてもいいのに、やらなきゃいけない(内言レベルでNO!と言えない)人がいる。
「NO!」という練習、「NO!」という経験が少ないと、大人になって、こうなるのかどうかわからない。

本当に自分にとって大切なことを忘れてしまうほど、「させられてしまう」人がいる。
これもある意味、「さかな」が「たかな」になったりする、
言いたいことがあるけど、まだ、「口」がついて行っていない子どもと同じ。

といってしまえば、少し残酷だろうか。

大人は大人で、お母さんはお母さんで、子育てをしながら、お母さんではなく、人として、学び直すきっかけがでてくるという話を聞く。
本当にそうだとおもう。

ーーーーー

学校では、もしくは場所によっては保育園のときから、子供達は大人から「はたらきかけられる」ことが多くなる。
言葉を喋る価値がなくなる。言葉を喋っても、どうにもならない、受け取ってくれないことが増えてくる。(進学校にいったらさらに、それは激化する)

お母さんにも同じことがいえる。
「よくしよう」「この子のために」言葉を尽くして、子どもの心が沈黙してしまわないか。

子どもからのはたらきかけに答えることが大切。
それが言葉の基本であるし、心の大切な働きであるから。

だれも「応えてくれなくて」この世の中に埋もれている声に、おとのねさんは耳を傾けています。

オトノネひろげるシェアぼたん

診断名とは何か。Human Disaster

例えばADHD。
Attention-deficit hyperactivity disorder

「不注意だね。衝動性があるね。多動だね。うん、じゃぁADHDだね」ということになる。
周りの環境があって、その振る舞いがでてくる。

社会的な困難(学校側の不都合)を表す言葉が診断名であって、その子が特別な病気を先天的にもっているわけではない。その子は、「ふつう」だ。
学校が、「その子は学校ではやっていけませんね、だって、◯◯ですから」という意味のわからない論理を使うため、使用される言葉になってしまっている気がする。。
そうではないのだが。

「この子が学校でやっていけないなんておかしい!何がいけないの?」という答えをお父さんお母さんが診断名に求めてしまうことがある。
けどそれもちがう。
その子はその子の「自然」をもって生まれる。
学校という場所で壊されてしまっている「自然」がある、というサインにつけれらた名前が、「診断名」です。

ーーーーー

誰もが持っている衝動性、多動性、不注意がある。
それに診断名をつける意味はなにか。

ADHDは先天的なものだという。(クスリが処方でき、結構効くらしい。もちろん副作用抜群だが)
なるほど。

けど「診断方法」をみると、「育ち」でなんとかなるもののようにも思えるのだが?
「もってうまれている」のか「育ち」なのか、わからないのが、人間らしいところだ。

同じ「ADHD」という診断名でも、程度には、天と地ほどの差がある。

ーーーーーーーー

「あの子はADHDだから」という理由で。
「教室」という場所があまりにも居心地がわるい子がいるのをどうしようかということで生まれてきたのがADHDという言葉だ。と僕は思っている。
日本では学級崩壊が起きた後に、ADHD研究が始まったような気が、気が、僕はするのだがどうだろう。(そのうち調べよう)

ADHD Europe で検索
ADHD Europe | Attention deficit hyperactivity disorder
すごい、このサイトみてたら、ADHDの歴史で、最初に書かれているのが「シェイクスピアのヘンリー8世」!

日本語版で僕が頼りにしているサイト
注意欠如・多動症(ADD,ADHD)

ADHD Japanで検索
ADHD(注意欠陥/多動性障害)を十分に理解し、正しく対処していただける情報をお届けいたします。
ここの「日常生活チェックリスト」をみると。ただただ「発達の課題」に取り組めなかった「ADHD」でない子にもあてはまる気がするのだが。
だからその「治療法」も、ただただ普通のことを丁寧にやって行く、という内容になっていr。

つまりどういうことか。
「ADHD」が先天的なものだからといって学校が「この子は障害をもっているから特別学校にいったらいい」とかお父さんお母さんが「この子は障害を持ってるから私たちの育て方が悪かったわけではない」とかいう言い訳として使われているケースがないかどうか。

社会性集団性のスローラーナーと考えることもできるからだ。
子育て環境が、家庭環境が、その子のもっている《ADHD性》を育てた可能性がある。
環境が違えば、もっと《別の神経》が作られていたかもしれない。

適切な関わりができなかった、学べないうちに育った可能性はないか。僕は、あると思う。
僕らが暮らしている世の中の「自然」のチカラはだいぶ弱まってしまったのだろう。自然に、任せて育てることが不安になる時代かもしれない。

遊ぶと多動でなくなる。
多動?

多動かな?と思ったら、あそびの環境を変えてみてもいい。

人間は不思議だ。
そんな不思議の中で、みんな生きている。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

同じ診断名でも、まったく違うしくみなものに、

心身症というものがある。
例えば起立生障害、チックもそうだったか?過食、不眠。

不眠症は「不眠である」ことで不眠症と診断される。(睡眠障害の一部だっけ?)
それがただの「夜更かし」ではなく、なにか「心的ストレス」が原因となっていることが明らかにされれば、不眠症となる。
それで朝が起きられないと、「起立生障害」と呼ばれる可能性もある。

そうすると。
「思春期の女の子にはよくある症状ですよ」ということになり。
ストレスになっているもの(学校)から目を逸らさせるような言葉が現れてくる。

診断名に、真実が隠されてしまう。
言葉から真実を読み取るのは、人間だ。

そして読み取りが下手くそなのも、人間だ。

ーーーーーーーー

disorder, disability, disease, 病気にもいろいろある。

一番怖いのは、human disasterであろう。

学習障害LDか、スローラーンなだけか。

そうおもうと、いわゆる偏差値の高い高校、進学校に入るということは、卒業するというのは「君は◯◯ではないね?◯◯でもないね?◯◯でもないよね???よし、合格!」と検品されにいくことを意味するのではないか。と思えてしまう。

そんな気がしてしまった自分の心が、たいそう貧相ではないかと思えてしまった。

As a result, places like school and the workplace can require skills that people with ADHD often do not have (e.g., organisation, time-management, and sustaining attention) which may lead to problems in education and employment, such as underachievement and risk of exclusion and dismissal.
結局、仕事や学校でうまく行かない人たちに目を向けるための、合言葉が、最近になって増えたということ。
その言葉をどう使うかは、人間次第。人次第。

ーーーーーー

その子に「障害」があるのではなく、学校がその子の「障害」になっているのだ。
「障害」とどう付き合うか。その経験は、大人になっても大切な、その子の本当のチカラになる。

オトノネひろげるシェアぼたん