野性のチカラと企業戦士の矛の先と戦闘ゲームと虫取りとあそび

最近、保育園で子どもが「虫取り」をするのを見た。

というか、園内に昆虫が増えた笑

で、この虫取り、、、、、
すごい。

何が凄いかって。

まず目が鍛えられる。
「獲物を見つける」視野。

で、神経も鍛えられる
「獲物を捕まえる」俊敏さ。

で、指先も鍛えられる。
「殺さず、生かす」やわらかさ。

で、頭も鍛えられる。
「逃げられた!次はどうしたらいいか?」

捕まえた虫を観察したり。
飼ってみようとするなら、もっといろんなことを学ぶだろう。

あれだけ生き生きとしていた虫が、死ぬかもしれない。
そんなかんだで、心も鍛えられる。

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サッカーなどは、ゲルマン民族の「戦闘」能力をスポーツ化したものだという記憶が僕にはある。
テニスは「貴族の暇つぶし」。野球の起源はなんだったか。(ネットで調べて見たけど、不明らしい。あんな複雑な、バットを使ってボールをうんたらなんていうものがどうやってできたのか。場外に出す動作、打つ動作。走るどうさ。取る動作。うーん、想像できない。。。)

とにかく、体を使って奪いあったり、捕まえたり、物を放り投げたりする能力は、なかなか爽快だ。
的(獲物)に当たったら、めちゃくちゃ嬉しい笑笑

それこそ自分で「修行」をしたくなる。
そうして、強くなる。

宮本武蔵になれる笑

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スポーツも、ある程度のレベルまでいくと、相手との「心理戦」になる。
どれだけ相手の呼吸を狂わせるか。。。。

そこには野性味があるが、やはり対話がない。
いや、ある意味、対話だ笑

剣を通じて、拳を通じて、語り合う人がいるらしい。
北斗の拳とか??

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現代、この狩猟感覚はゲームの中で体験されている場合がおおい。
オトノネさん、実は生徒に教わって「戦闘ゲーム」を、最近、やってみた。
戦場に降りて、武器を見つけて、相手を狙って撃つ。
相手の足音、打たれた方角、現在地、向かっている先は全て画面に表示される。
けど肝心な情報は、「目視」するしかない。
20分くらい、逃げて、狙って、隠れて、戦い続けた。(結局3位になったが、銃は一回も使わなかった笑ビビりなのね)
オンラインで、世界中の人がやってくる。
時間が来ると、居場所が狭まっていき、敵との遭遇率も高くなる。


身体感覚が伴わない、神経だけが高ぶる感覚、終わった後に、どっと疲れた。

身体感覚が伴っていたら、大変なことになっていただろうが・・・
おとのねさんには、違和感、違和感・・・

ある意味、ゲームは、麻薬物質を出すトリガーだ。
この強度の快感に、爽快さに、はまってしまうのも、無理はない。

脳は野性を、ある意味で求めているかもしれない。「男の子」はなおさらそうかもしれない。

それで高度経済成長期に、「男の子」は、企業戦士になって、戦ってきた。
今、その矛を置いて、さて、どうしたものか。
矛を下ろす先が、わからないのかもしれない。

矛を持ったままでもいいから、その矛で、子どもとあそんだらいいのに。
たったそれだけで、世界はたぶん、変わるから。
(それで少年野球に精を出すお父さんがいるという話もある。スポーツじゃなくて、「させる」んじゃなくて、あそんでほしいんだけどな)

そもそも、狩りは、昔の子どもにとって、純粋に遊びであり、本物の狩りの練習だった。
そうおもうと、昔の「狩り」は今の「宿題・課題・お勉強」なのかもしれない。あそぶように、当たり前のように、「学習習慣」を身につける世の中。


身体感覚が伴わない、神経だけが高ぶる感覚、終わった後に、どっと疲れている子どもが、どれだけいるだろうか

そこには野性味があるが、やはり対話がない。
いや、ある意味、対話だ笑

「テスト、どうだった?」
「赤点じゃなかった!」

テストの答案用紙を通じて、模試の結果を通じて、語り合う人がいるらしい。

ある意味、ゲームは、麻薬物質を出すトリガーだ。
この強度の快感に、爽快さに、はまってしまうのも、無理はない。
「やった!今回も、平均以上だ!」次も頑張ろう!とか。

心が大事。

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ちなみに、オトノネでこの野性の要素を出せる環境は限られています。
走り回るスペースは、ありません笑

けど
お手玉とか、折り紙の手裏剣ごっことか、(山田さんの)吹き矢とか。
あ、この前、庭にトカゲが歩いてたな。。。

あれ?そうおもうと、あそびって、結構野性味があるな・・・

オトノネひろげるシェアぼたん

「稽古」と「習い事」の違いと「労働」

かつて、芸能にたづさわる人たちは小さい時から「芸」を学んだ。
それは名実ともに、「稽古」だった。

芸能一家に生まれた運命と、芸能の世界に浸る環境とが揃い、芸能の道をまっすぐに進んだ。
芸能を学ぶことは、暮らしであり、息を吸うように当たり前のことだった。
ひとつのことを、繰り返した。
毎日、毎日。
だからこそ、メタスキル が育っていった。
寝る間を惜しんで稽古をしたこともあるかもしれない。
稽古をうけながらうとうとしていたことがあったかもしれない。

毎日、実戦にさらされ、フィードバックをもらい、鍛えていった。
練習、試行錯誤、知恵の拝借、実戦、フィードバック、実力があればすぐに「仕事」になる。
「だれだ、あの稚児は?」それが世阿弥のパターンだった。

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稽古は、習い事とは違うとおもう。
習い事は、「稽古ごっこ」に近い。
習い事は、そもそもが、戦後に、ブルジョワ階級が始めた「西洋ゴッコ」だ。とおもえばいい。

稽古は、やらないと、死んでしまうものだ。と大げさにいってもいいかもしれない。
今は「習い事」(というか学童保育の代わり)として生き残っているそろばんも、昔は「稽古」に近かった。
商人の子が、習いに来ていた。それは生業に直結する。
生きるために必要な、技術を獲得すること。それが稽古だ。

数多くの習い事を分単位でこなしていくのとはやっぱりなにか違う気がする。
もしいろいろやるなら、習い事は「あそび」と割り切るといい。
大丈夫だ。「あそび」をしながら、子どもはたくさんのことを学ぶから。

「あそばせる」のは遊びだろうか?
「あそび」にどれだけお金を使うか?
ちゃんと「あそんでいる」だろうか?

習い事をたくさんやることが悪いことなのではない。
習慣的に「自然」となるためには、それなりの「環境」が必要だということ。
まずは寝ようぜ!

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蛇足だが。

部活は、「稽古」でもなく、趣味やあそびの「習い事」でもないと僕はおもっている。
部活という「学校」にいっている子もいるし、部活という「ブラック企業」に勤めている子もいる。

いやいや、柔道部とか剣道部なら、趣味とか遊びではない、立派に心身を鍛える「稽古」だろう。
といえるかもしれない。

なるほど、「習い事」というには、真剣さが違うかもしれない。
だけど僕は、それは「本気のあそび」くらいでいいと思っている。

「あそび」という言葉の意味は、それほど、広いのです。

「習い事」は、心を豊かにするものであって、技術や機能を身につけることが目的であってはならない。と、僕はおもうのです。

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そうそう、保育園が、イベント的にお茶の先生とか体操の先生とか英語の先生呼びますね。
あれも、お母さんにとってはかなり「イイ」ようにみえますが。
子供にとっては、はた迷惑な可能性があります。
「今日は、何するの?」と、受け身の姿勢になるんですよね。これが。

月に一回、英語教師を保育所に入れるか、子どもの日常的なあそびのプロセスを守るか、はっきりさせたらいいとおもうんだけどなー
子供も、頭がごちゃごちゃしているかもしれない。

「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金と「非国民!」という声

賢いお母さんの「習い事」作戦。

習い事を「させられ続けた」子どもの心

大人の遊び心その1

大人の遊び心その2

ここまで本気であそべる?これは「習える」ことかどうか。。。

オトノネひろげるシェアぼたん

「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金。まだ誰かが「非国民!」と叫ぶ声がコダマする日本。

えっと確かこの本だったな。
うん、そうそう。
子どもの「遊び」は魔法の授業

どういうことかと言ったら、小さいうちからなんでもやらせすぎると、頭がパンクして整理ができなくて結局何にもならないという考えかた。実際の研究データを見つけることはできなかったが。

簡単なことで、子どもがあれもこれもやりすぎて「課題でパンクしている」のと同じ状態になっていないか!?という話。
子どもの睡眠時間が減っている。
睡眠時間が減ると何が起きるか。
目に見えないところでがんばっている脳みそが疲れる。
無意識に働いている神経細胞くんたちが絡まる、シナプスくんたちが「え?俺どこに何送ったらいいの?」みたいな状況。

かつて雇われていた塾では、小学生が英語をならっていた。たまたまその日僕がその子をみることになって、静かに話をしていたら、その子の目がトロンとしてきた。はじめはただ「僕の話がつまらないだけなのかな」とおもったが、そのうち、寝た。その子の担当の先生は明るい、喋り捲る、楽しませる先生だ。だからその子はその先生のリズムについていっていたわけで。本当は、その子はとても疲れていたのだ。座ったまま眠る子どもって…幼児ならわかるけどさ。そりゃ分刻みでお稽古事をしていく毎日、疲れるに決まっている。小学生からすでに神経をすり減らすほど、全体的にブラックになった(お金のために子供の神経をすりへらすのが塾か?研ぎ澄ますならいいんだけどね。すり減らしちゃ、だめでしょ笑)。

まさにこれ、でしょう。。。

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大人になってから「その道のプロ」になる人がいるように、子ども時代はメタスキルを学ぶことが大切だ。と僕はおもう。
メタスキル さえあれば、大人になってからの可能性が広がる。
逆にただのスキルだけを身につけようとして企業戦士よろしく、「習い事戦士」モードに入った子どもは、大人になったらどうなるのか?
因果関係はわからないが、それが虐待であったり犯罪につながっていると言ってもおかしくはない。
子どもには子どもの発達の課題がある。

笑って!

「できる」ことを誇るまえに。

褒められることに依存している子は、大人になってから、潰れてしまわないだろうか。

潰れてしまった時に、助けてくれる人と出会える子は、しあわせだ。
じっくりと潰れていられる時間がある子は、しあわせだ。

多くの人は、立ち直る時間もないほど、「無理!」を無理だと思えなくなるほど、働く。
貯金ができたら、定期的に、潰れてみるのもいいのかもしれない(バリ島では、文化的に、年に一度、バリ島の全員が、潰れる日がある)。

けど、大人も子供も、休日がない。
休んだら「非国民!」と言われるのが、今でも怖いのだ。

それが日本であって、日本らしい、近代性である。
で、そろそろ次の時代にいこうかなという人のためのオトノネです。

海軍のポスターで取り上げられた「月月火水木金金」
月月火水木金金
子どもも大人も月月火水木金金月月火水木金金

習い事を「させている」お母さん、大丈夫?何か勘違いしていないですか?
「稽古」と「習い事」

賢いお母さんの「習い事」作戦。

習い事を「させられ続けた」子どもの心

オトノネひろげるシェアぼたん

算数ができないのはLDかスローラーンなだけか、それとも経験不足か。

算数ができない、という小学生がたくさんいるらしい。

で、よくよく聞くと、かなりいるらしい!

で、さらに聞くと、高校生ばりに、課題が多いらしい!

小学生に演習などいらない。
その時間を経験に使って欲しいのだが。

とおもえるくらい、小学生は算数の「抽象性」を支える「具体的」な経験が不足している。
理科でもよくあることだ。国語でもよくあることだ。社会だってそうだ。

「蛇」という言葉は知っているし、映像でみているし、変温動物であることもわかっているし、、、、そんな
「蛇」と関わる経験をもった子が少ない。中学生によくあるパターンは、「小問題ができても、文章題ができない」子。

この子は、ただただ練習させられ、「具体性のない」世界だけでなんとか自分なりにルールを作って計算できるようになったが、結局、「現実」という基礎がなっていなかったのだ。
小学生から勉強嫌いが多いという富山県(石川県もそうらしい)。

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19800と6720のどちらが大きい数字ですか?

この問いすら、子どもにとっては強大で、おもしろいものだ。
お母さんと一緒に買い物をして、レジでお母さんが出すお金を実際に見ているだろうか。
その関係性を子どもは勝手に学ぶ。(クレジットカードで払っていたらわからない!)

単位などは、経験がなければまともに扱えない、かもしれない。
逆に、生活の中で単位と関わっていたら、「え?ふつうだよね」となる。

学校の中では、今の学校が採用する教育方法では、それは望めない。
(お父さんお母さんの時代とは、教え方が違うから、子どもが混乱する(だから学校に任せなさい)という塾や学校の先生がいるらしい。みてみると、確かに、全然、違う。わかりにくくなっている。子どもがムリ!なのもわかる)

富山県の学校教育に話をかぎろう。(石川県は、今、西南部中学校ががんばっているからさておき)
小学校の教育は、中学校の教育は、高校受験に向けて子供達を「振り分ける」場所になっている。
そう考えなければ、理解ができない。学校の先生たち、何をしているの?

だって、ありゃ、できないわ!
あの課題、子どものやくに立たないわ!

上位の生徒のための授業。
それが小学校でも変わらないという事実を最近知った。
もちろんそうではない学校もあるだろう。

マンモスになるほど、その傾向は強まる。

結局、学校から身を守り、学校の外で教育資源をみつけ、利用する家庭教育にシフトすることが大切だと、おとのねさんはおもいました。

僕の知り合いの山田さんのお子さんは、小一ですが。
お父さんと一緒に「遊び道具」をつくりながら、長さの感覚、単位の感覚をバッチリ育てていました。

「みんなで一緒に」学校に行くのではなく。
「私は私の都合で」学校に行くくらいがちょうどいいだろう。

学校は学校の都合で、授業をしているのだから。

それを選ぶ自由が法律的に、日本の「子ども」には認められています。

まだそこまで考えられない子どもを、お父さんお母さんの知恵で助けてあげてみてはいかがでしょうか。
学校には、学校の事情があるのです。

「名詞」の抽象性

オトノネひろげるシェアぼたん

「導く」「任せる」「誘い」。ご招待。

おとのねさんの頭は混乱しています。

僕はいくつかの保育園で仕事(勉強)をしているが。

僕は僕なりに勉強をしていた。
(それが実はアンガーマネジメントとよばれるものだったりするのだが)

小さな子どもと関わり、慣れてきた最近。
とある保育士の先生からいろいろと言葉をもらった。

「ぼうっとしてるよ」
「何かしてあげないの?」
「導いてあげないのね」

公園に行ったらタンポポをふーっとしてみせていた。
それからその子は自分でもふーっとやるようになった。
園に帰ってシャボン玉をふーっとしてみせていた。
それから今日、その子は生まれて初めて、自分でシャボン玉を吹いた!
(もちろん、シャボン液につけるところは先生がやった)

1歳8ヶ月の子。

言葉がけや振る舞いのひとつひとつの意味の深さ、繋がりをしる。
できなかったことができるようになったその子は、とても、満足そうだった。

言葉にも、笑顔にもでていないが、真剣な顔、表情、その子が出す雰囲気をみたら、どんなに今彼が自分に驚いて、楽しくて、誇らしく思っているのか、感じることができた。

ーーーーーー

僕は「ぼうっと」しながら、子どもをみていた。
その場で何が起きるのか。子どもは何を見つけ、どのように関わろうとするのか。
僕が気になっていたのはそこだったから。

けどその先生は、何かを起こそうとして、環境を作っていた。関わり合いをし続けていた。
公園にいくときには「公園で何ができるか」考えていっていた。
公園を、その子たちが使い尽くせるような関わり合いをしているという。

日が強い日は日陰が多い公園を選ぶ、とかそういうレベルではない。

なるほど。

シャボン玉を膨らませるなど、教わらなければできないことだ。
そして目の前で、1歳8ヶ月の子がシャボン玉を吹いて満足している。
シャボン玉をこの歳に吹けるように「導く」先生の関わりがあったからだ。

ーーーーー

教育界で最近、話題の坪田信貴さんの指導法も、僕にとっては「導く」ものだ。
定めた目標に向かって、「進ませる」言葉がけ、関わり合いをする。
「導く」という言葉では生ぬるい、「引きずっていく」くらいがちょうどいいかもしれない。
引きずられて、心が擦り切れている子がたくさんいる。

「コレができるように」という目標設定がある。

僕にはそれはできないと思っている。
(まだ、僕にはできない)

(いやいや、目標が決まれば、それに本気で関われる状態になった人に対しては、「道案内」をすることができるし、それが学習塾オトノネの売りだぜ!導くって言葉が、僕にはどこか、合わない)

ーーーーーーー

「導く」か「任せる」か
それが問題だ。

「導かれる」ことで幸せになる人がいるかもしれない。
(実際、坪田さんの著書のあちこちに、「導かれて」人生が変わった人たちの記事が載ってる)

「導かれる」ことで多くの高校生たちが、大量の課題と学校の先生の呪いの言葉に埋もれて窒息しそうな暗い顔をしているのも現実。

「導く」ことの責任が、僕にはこわいのかもしれない。
(というか僕は五行でいうと「水」らしく、僕自身が「委ねる」感じの人間なのかもしれない。けど逆に解釈すると、悠々と誰かを「導く」チカラももっているかもしれない。言葉って難しい)

ーーーーーー

例えばネイチャーゲームとか、学校の授業もそうか。
「自然に触れる密度を高める」ための「導き」がある。
「自然にまかせていたら、得られない学び」をえるための「導き」がある。

そうおもったら、僕が不得手な「導く」という言葉も悪くない。
「任せる」ことができる環境に「誘う」と言い換えてもいいかもしれない。

喜び合えることが一つでも増えていけるように、という愛情だけではどうにもならない。
愛情にはカタチがない。
「導く」という愛もあっていい。

学校に行きたくないんだけど学校に行かなきゃと思っている子に、
「休んでもいいよ」という言葉は、「誘い」であり、「導き」であり、「任せる」ことの全てを含んでいるようにおもう。

保育士のプロは、愛をもって、知恵をもって、子どもと関わる。
その知恵が、保育園という場所で継承されているという。

僕はその知恵を、どうにかして体系化したいとおもっている。
オトノネをお母さんたちの仕事場にするために。(どうやら僕はここが気になっているらしい)

勉強する時間つくるか。
うーん。フルで働くか。保育園で。

あは

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「導いてもらいたい」という気持ちでお父さんお母さんは塾に子どもを通わせるだろう。
そこでオトノネは「いやここは任せるところですよ」というわけだから、度肝を抜くお父さんお母さんもいるだろう。

「導かれて」しあわせになるとはどういうことか、僕にはよくわかっていなかった。
ただ、目の前でシャボン玉を吹けるようになった(真面目な顔で、なんどもなんども吹いている!)その子の顔をみて、

僕は研究を始めようとおもった。

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オトノネの本棚には、ずらりと高校入試、大学入試の「参考書」が並んでいる。
おとのねさんは、その子の発達段階、学習段階に応じて、そして志望校に応じてカリキュラムを組み立てられる。
そのために、どんなスケジュールで進めて行ったらいいかもいえる。(行為レベルの話ができる)
おとのねさんの話し方

今度は、別の棚に、「おもちゃ」を並べて、同じようなことをしようというのが、オトノネさんの計画だ。

その点、「勉強」も「遊び」も変わらないのかもね。

おもちゃも、学校の宿題も、同じ。

「導く」も「任せる」も、どちらでもいい。
どっちもあっていい。

どっちも必要だろう。

モンテッソーリ教具がその極みかもしれない。
「任せる」と同時に「導く」。

けど僕はもう少し、ぼくなりに、もっと素朴に、おもしろく、「あそびの体系化」をしていきたいなぁとおもった。
例えば、「ひも」というものでどんなあそびが発展していくのか。

乳児期の「ひも」との関わり合い
幼児期の「ひも」との関わり合い
学童期の「ひも」との関わり合い

この流れを体系化していけば、「あそび」がいわゆる「お勉強」にとって大切であると胸を張って言えるようになるかもしれない。

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保育所でフルに働くかー
どうしよかー
ああーーーーー
残業とかまじで僕無理っすよ?
嫌なんだよなぁ‥保護者を喜ばせるための運動会とか、出し物を「やらせる」とか。(年長になったらやってもいいとおもうが)

その考え方も、改めないといけないかもしれないけど。
(イベント行事を一切(年に一回だけ)やめている保育所を知っている。日々、日常の保育のなかに全てを注ぐというスタンスの園だ。僕としてはそっちの方が好きなんだが。だって、保育士の先生の負担の代わりに得られるものが、小さすぎる(子どものアルバムの写真が増えるだけだ)と、僕はおもうから。子どもはそんな年に一回のイベントがきっかけを学びの時間にするチカラがあるだろうか?年長くらいになったら、できるのかな)

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有名な倉橋惣三という保育実践者がいる。
この人が掲げた「誘導保育」という考え方は、これなんだろうと、しみじみ、実感した。
「誘う」を英語にすると何か、グーグル先生に聞いてみた。

invite

と出た。

素敵だなぁとおもう。

くるかこないかはわからない。
けど、お誘いしますよ。という姿勢。
その距離感がいい。

この「誘い」を悪用すると、悪徳商法、マインドコントロールになってしまうところが人間臭い。

心が大事。

混乱していた頭が、少し整理できた。

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あーでも保育園って、やっぱり文化があるから、いろんな保育園で「観察」した方がいいかなー
そうすると、アルバイトができなくなり、金欠になるなぁ困った!

とりあえず笑っとこう!

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オトノネひろげるシェアぼたん

一緒にやってみるだけで大人だって子どもだって、ドキドキできる。

託児所での話。

お兄ちゃんと弟。

最近弟は、結構言葉でいろいろ答えてくれたり「これしたいあれしたい」を喋るようになった。
(昨日何があったとか、「自分から」喋ることはまだない)

その子がお兄ちゃんについて行って滑り台で遊ぼうとするが、「こわい」といって滑れない。
「じゃ、先生と一緒にすべりなよ」と保育士の先生。
「んー、僕大きすぎて滑り台に入れないなあ」と僕。
「じゃぁ僕と一緒に滑る?」とお兄ちゃん。
「うん!」と弟。

お兄ちゃんに後ろからしがみつくようにして、滑った!
むっちゃ笑顔^^

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はじめてのこと、ちょっと怖いこと、
不安なこと。一緒にやってくれる人がいるだけで、挑戦して、できるようになることがある。
大きくなるごとに学校で閉ざされてしまった心(隠れてしまったその子のなかに住んでいる子の家)の扉を叩くことと違って、小さい時の純粋な挑戦はとても単純に、素直に、受け入れられる。楽しめる。

だから子供は天才でなんでもできるといわれている。
挑戦する時間を与えられているからだ。

大人だって同じだ。

子どもと一緒にやるだけで、大人だって挑戦ができるし、新しいことを始められるし、不安なことも一緒にやってみることができる。
子どもに大人が教わる。

世の中にはいろんな大人の組織があるが、子どもっぽい、創造的な、自由な、そしてあそびのルールがしっかりしている組織(たとえばグーグル?)には活力があるし、人が集まる(そんな仕組みをつくってくれている気がする)。子どもっぽい、子どもらしさをもっている大人は、大人のあそびのリーダーになって、社会を作って行く。変えて行く。

「ブラック」企業でお金以外に通勤する価値を見出せないお父さん、お母さん。お金が不安。
「ブラック」学校で卒業資格(と部活と体育祭文化祭と友達とのおしゃべり)以外に通学する価値を見出せない子ども。卒業資格がないと不安。

大人も子どもも同じ場所にいる。
一緒にあそんでみたら、どうなるだろう。

一緒にあそべる人と出会えた人は、しあわせだ。
大切な仲間だ。

習い事ばかり、課題ばかり、残業ばかりで、挑戦できなくなっていないだろうか?

学ぶ価値は、働く価値は、そこにあるんだろうか?

好きなことを仕事にする?の意味。『三太郎の日記』

大人は、大人としての課題にちゃんと取り組めているだろうか?
学校と同じで、ただやらされているだけなのだろうか?
「ちゃんと」生きることは難しい。心を大事にすることは難しい。
そんな世の中になっている。

子どもは子どもでしっかりしていて、しあわせになるチカラをもっている。
お母さんはお母さんで、子どもからしあわせを分けてもらいながら、子どもから自立して、しあわせになれるだろうか。
だって、子どもは大きくなるんだもの。

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そのあと、「こんどはお兄ちゃんが後ろで滑ってみたら?」ということになり、弟が前にいく。
お兄ちゃんが後ろにきて、逆に弟を抱きかかえようとしたら、

先に、弟が一人で滑っちゃった!

むっちゃ笑顔^^

オトノネひろげるシェアぼたん

バイリンガルとは、英語を学ぶあそび環境のこと。

たまたま本屋にあって読んでみたら、いいこと書いてあった。
「そもそもバイリンガルとは、学び方であって、喋れるようになった状態ではない」と僕は解釈した。

ちなみに5歳までというのはちょっとうーんという感じで。
(もちろん早くてもいいのだが。お母さんたちがバイリンガルバイリンガル!英語英語!で5歳までの人間として大切な発達課題に目が向かなくなるのは違うとおもうから5歳までとはいいたくない)

あそびの資源として、英語を使う、というのが、オトノネのスタイルです。

バイリンガルは5歳までにつくられる

「英会話教室に週一回通えば…」
「ネイティブじゃないと…」

お金と時間を別のことに使うことをおすすめします。
もし、小さい頃から英語を「習わせる」のであれば、家庭教育の一つとして、家の中で始めることが、一番効果がありますよ。
材料は、この時代、たくさん転がっています。

インドネシアで出会った女の子。
お父さんいわく。「この子はyoutubeで英語を学んでるんだ!」実際、6歳くらいのその子は、英語できた。
あそびが、子どものチカラになる。

オトノネひろげるシェアぼたん

好きなことを仕事にする?の意味。『三太郎の日記』

iPS細胞を自前でつくった山中伸弥教授は世の中のために研究をしていたか。

と聞かれたら、いやいや、ただ、楽しかった、やりたかった、つくってみたかった、という純粋な遊びごころで研究していたんだろう。

表向きは、社会貢献とか、いろんな飾りをつけられても。
人の役にたつこと?いやいや、自分が好きだからやったんだよ。

結局は、何かを成し遂げるときは、情熱、ロマン、遊び心、本気になれる純粋な何かに向き合うメタスキルが大切になってくる。

そういう話を、した。

かつて阿部次郎の『三太郎日記』を塾の先生から借りて読んで読みきれなかった。
けどそこにこんなことが書いてあったらしい。

生きるための職業は、魂の生活と一致するものを選ぶことを第一にする。

けど、そこでこう言われた。
「魂の生活ってのが何かわかりませんよ。私自身、魂が震えるような経験をしたことがないですからね!」

そうだ、雪をみたことがなければ、雪がどんなものかわからない。
自分の心を知らなければ、心がどんなものかわからない。

もちろん、ほんとうにわかるなど到底できない心であるが、それが震える経験を、一体私はいつしただろうか?
そう、阿部次郎は魂の生活と、肉体の生活を分けた。世の中で求められている肉体労働(ブラック!)とは別に、魂が喜ぶ生活を目指すのだと、言っている。魂がしあわせになる生活と、一致するように、できるだけ、仕事を選べと。もしそれができないなら、仕事とは別に、魂の世話をしなさいと。

心を大事に。

けど僕も、魂が震える経験、「これが僕の仕事だ」と、実はまだ言い切れていない。
いや、本当はわかっていて、それに向かっているけれども、まだ仕事にはなっていないだけかもしれない。

オトノネひろげるシェアぼたん

小学1年生から「ちゃんと」英語を始めるといいとおもう理由。

世の中にはこういう塾もある。
英語学習者に「洋書で英語学習をするべき」タイミングを知らせる13のサイン

実は、保育園でこんなことがあったことと相まって、
言葉を喋るまでのケジメが大事すぎる件。

英語教育について考えた。

ーーーー

英語を英語で学ぶ
英語を英語らしく、英語に触れまくって学ぶ。

というスタイルの学習方法に疑問を持ち続けて来た。
生活の中でも英語にふれるくらい英語環境にあるならまだしも、やはり日本語での文法理解も必要なのではないかと。。。
だって日本じゃ英語使わないし!

けれども「言葉」に対する脳の枠組みが決まる前であるなら、「英語でも自然」になるような、少なくとも「英語が不自然」にならない言語環境を脳内に作れるのではないか。という希望を抱いた。
(三単現のsとか以前に、英語を一つの言葉のあり方として、心を開いて学んでいける環境をつくるということ!

そのためには、英語が嫌になる前に、小学校の1年生からはじめたらいい。
小学英語が始まってどうなったか。

出典をメモし忘れたが、「10歳で聴覚のニューロンネットワークの成長はほぼ終わる。(バイリンガル環境で学べる限界??)」というメモが残っている。それからこんな記事も書いた。脳は断捨離する。

発達させるべき場所とそうでない場所をはっきりさせていくだけで、3歳児までに全てをやらなくてはいけないとかいう話ではない。

フッテンロッハー教授は、「第二言語の習得や音楽のトレーニングは、まだ頭が柔軟な早い時期(5歳から10歳までの就学初期の時期をふくむ)にはじめれば、一層効果的になる可能性が高い」と書いている。(『こどもの「遊び」は魔法の授業』p.57)

たまたま見つけたこのページにも、5歳〜7歳という数字がでてきています。
バイリンガルへ向けての語学教育については、世の中的に意見が食い違っています。

バイリンガル環境で育った人たちの初語の出方、言葉の発達の仕方が母国語一つに限られた人とどう違うのか、勉強してみます。

ーーーーーー

これも出典を書き忘れているが、一歳で初語がでるとき、すでに「母語と母語以外の言葉が別れる。(喃語までは「全ての音」を含んでいたが、この時から出す音が使う言語に規定される)」と書いてあるメモがある。また
「生後二日で母国語と外国語を聞かせると、母国語の時は吸啜反応が激しくなる。」というメモもある。

母語と外国語の区別は小さい時から判断している子どもである。

が、「日本を出たこともない、昭和の人(誰か忘れましたごめんなさい)」でも英語をペラペラになった事実があるように、小さい頃でなければならないわけではない。僕も韓国語を20を過ぎてから現地で覚えて、まぁ喋れている(ネイティブの人には変な発音だと言われるが。。。)

ーーーーーー

ただ言葉に敏感な、言葉を吸収していく力が伸びる時期に、そして好奇心を持っていろんなあそびをしていく時期に英語を混ぜることで、あそびながら「自然な」ことばとして英語を脳の中に刻むことは意味があるだろう。

言語習得にもいろいろな理論があり、有名なチョムスキーの「生成文法」を

体験を伴った学習環境をつくる。
当たり前のように、英語という料理が目の前に置いて食べてもらう。
英語を使っても恥ずかしくない環境を作る(聞いた話によると、英語を喋っていた子が、周りの子に変な目で見られて英語を喋らなくなったということである)

オトノネは、放課後児童クラブをセカンドスクールとして、子供達に英語環境で暮らしてもらうという実験を試みようと今思いました。
わからなくても、なんでも。英語で問い、英語で語り、わからなくても笑ってごまかす。英語に心を開けているのなら、そのなかでたくさんのことを学べるはずだ。英語に心を閉ざしていない小一なら、できるのではないか。

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英単語を覚えるのが苦手な人は、ゲームで?

【継続が命】ゲームで楽しく英語学習できるアプリをまとめた【17選】

こういう世の中になっている。

別に英単語を覚えられるなら、使えるようになるなら、なんでもいいのだが。
英単語だけを覚えて、その単語の使い方がわからなくなるケースは多々ある。

ゲームをどう使うか。
道具はつかいよう。

ゲームじゃないと単語と向かい合えないなら、こういうものから始めてもいいのかもしれない。
ただし、そのゲーム世界が、受験の成果に直結するかは、また別の考察が必要!

ゲームやタブレットだけでは得られない、英語のチカラがある。

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