傲慢という言葉よりも

中学以来の友達と話をしていた。その人のパートナーが図書館で絵本を読む研修をしているという。その人の課題図書の一つに「子どもに残酷な物語を読み聞かせていいのか」みたいなお題の本があった。

絵本を読む子どもの読み方を決めつけるこの傲慢さに気がつくオトナは少ない。コドモの感じる世界を、オトナが決めつけるのは、しかしながら、フツウだ。「この子の幸せのために」という言葉を私は聞いて育ってきた。いやいや。私は私の感じ方があるから。

さて、ここまで書いて、ふと、気がついた「違和感」がある。言葉の一つを使った後に、相手に与える影響もあれば、自分に与える影響もあるのだ。私は、私の中に違和感が産まれたことに気がついた。

傲慢という言葉は、他の人に使えば攻撃になる。非難する声になってしまう。ただ、私が今まで生きてきた時間の中で、コノような誰かを攻撃する言葉をたくさん覚えてきてしまったのだ。語彙は大切だ。人を攻撃する言葉を避け、生きるのに役立つ言葉をオトナが使っていくことが、コドモにとって一番大切なことだとおもう。言葉だけでなく、ものの言い方、態度、性格と呼ばれるものも、だれもが生きながら、学んでいく。人を傷つけるやりかたで暮らしていれば、コドモはそれを真似てしまうかもしれない。コドモは、ちゃんとみているのだ!

だからごうまんという言葉を使わずに、二字熟語、漢字に頼らずに、ちゃんと伝えるために、もっと身体的な、日常的な言葉を、ちゃんとした言い方で、話すといい。傲慢さに気がつく=「コドモの感じていることを決めつけていること」に気がつくと言い換えるのだ。抽象的な言葉に振り回されてはいけない。

傲慢という言葉を使うとき、私の心に少なからず怒りが生まれたことに私は気がついた。そしてそのとき、私も傲慢になっている。言葉は、感情を生み出す。ちゃんと選んで、使えるようになろうと、私も気をつけている。言い方、言葉の選び方、これが自然にできる人こそ、私は先生になってほしいとおもう。だから、保育所をつくりたい!

イイコトとワルイコト

イイコトとワルイコトで世の中ができているように思っていた。
「それはワルイことだ」というワルの意味がわからないまま育った人がいる。
こんなにも世の中にはワルがたくさんあるのに、どうしてそれをワタシに押し付けるの?
そのままオトナになって、「イイ」ことも「ワルイ」ことも知らないまま、
そもそもイイワルイってなんだ?
他人の迷惑になることがワルイなら、他人の言いなりになることがイイのか!
といわれたら、オトナはなんて答えるのだろうか。
「あなたはしつけがなっていない!」
「社会人失格だ!」
「おまえをみせしめにしてくれるわ!」
「生徒指導室にきなさい!」

本当のココロをもって接してくれるオトナに出会えるコドモは幸せだ。

ワルは別にワルになりたくてワルになっているのではないんじゃないか。
「ワル」が強調されて「イイ」が見えなくなっているのではないか。
「ワル」いことはどうしてうまれるのか。

ワルにはワルの言い分がある。

「ワル」はどこにでも産まれてくる。
いつだれもが「ワル」になれる。「ワル」は「ワル」同士で「イイ」ことになる。
「ワル」にとっては「イイ」が「ワル」だ。
本当にそうなのか?やっぱりワルイコトもあるんじゃないか?
ワルはこの世界に、自分の中にも、溢れている。よくあるものだ。普通だ。
肝心なのは、ワルイモノにどう反応するか。どう応えるか。

ワルにはワルの言い分がある。

人を殺したらどうしてダメなんですか?
オトナはどう答える?
それは殺しても「イイ」という人にとって、本当に分かち合える答えになっていますか。
排除、回避、罰を与える以外に、「ワルイ」人と関わり合う知恵を、あなたは持っていますか。
それはあなたの中にも、あなたの一部としてアナタの中にあるはず。

もちろん排除も回避も罰も、悪いことでは全然ないのだけれど。
排除、回避、罰を与えた数%のワルが一人の人間の内側で、世界で、どれだけ不調和を起こしているだろう。

ヒトラーは悪い人なんですか?
彼は罰せられるべき人だったのですか?
私たちは、ナニを彼から学んだのですか?
彼を無駄死にさせてはいけない。人が死ぬことの重みを私は問う。
この離別が、私たちにとってちゃんとドラマのひとつになっているだろうか。

彼がどこかで、オトナに出会えていたらよかったのにと思う。
本当のココロをもったオトナが、少なくなった。
みなそれぞれの業務で忙しいのだ。
「どうして勉強しなくちゃいけないの?」
「良い質問だね!」といって、笑ってくれるオトナがこの世界にどれだけいるだろう。

誰もが苦しんでいる。
そう思えば「キモチイイコト」をもっとみんなで探そうという気になれるだろうか。
私はもっとイイワルイにこだわらずに、キモチイイコトをしていけばいイイのになぁと思ってしまう。
ココロというものは、コトバというものは、とても不思議なものだ。

愚痴

かつて私が学校で先生をしていた時、別の先生から「授業をしなくちゃいけないよ」と言われたことがある。
この言葉ひとつで人は変わる。大切なものが見えなくなっていく。本当はそのとき、もっと別のコトバを聞きたかった。
コトバの選び方ひとつで、人はどうにでもなる。私は今、愚痴を言っている。

「どうして学校に行くの?」
と、ある人が聞いた。

「みんな行くからだよ」
「子どもの仕事なんだよ」
「勉強するためだよ」期待したのが悪かった。ムリゲーだ。

ウマイ先生はウマイことをいう。タバコを吸ってはいけないとタバコを吸っている先生が授業で教える時に、ウマイ言い逃れをしていたのだが、忘れた。その先生はとてもイイセンセイだった。
コトバではわかっても、違和感が残る。それは本当に、ちゃんとわかったとは言えないのだと私はおもう。
頭ではなるほど、納得するし分かった気になる。けどぜんぜんよくわからないでまるめこまれたように感じる。
ヘビをよく知っていても、本物のヘビを触ったことも出会ったこともないなら、わかったとはいえないのだと私はおもう。
そう考えると、本当のことを学ぶのは、とてもムズカシイことだと思える。ムリゲーだ。

さて?どうしたものか?

私は今、ぐちを言っている。
感情を装っても、論理を装っても、カッコイイ漢字を使っても、愚痴は愚痴だ。
どうしたものか?といっても別に困っているわけではないのだ。愚痴りたいのだ。
本当に自分をずっと困らせていたら、病んでしまう。
誰かに聞いてもらわないと溜まってしまう。だからこそ話す。ハナスとはよくできたことばで、離す、放す意味もあるようだ。愚かである。結構。愚かではいけないと誰が決めたのだ。

「どうして学校に行くの?」
「学校が君の家にやって来ないからだよ」

これがボクの知る限り、一番ちゃんとした返事だ。「問う」という行為にもいろんな働きがある。「話す」という心の動きは、その人のどんな気持ちを映しているんだろうか。
すぐになんとかしようとする、答えをだそうとするのはオトナの悪い癖かもしれない。私はいつも、反省している。

言葉には、声には、いろいろな力がある。
それをどう使うかは、人次第。

責任

「責任」というコトバがいつも気にかかっている。

世の中では「責任」が降ってかかってくるような使い方がされている。
「この状況の責任は誰ソレにある」とか
「私が責任をもつから」とか

責任をとるとは
償いをすることらしい。
人と人が出会わなければ「責任」なんてコトバは生まれなかっただろうか。
人と人が出会うと産まれてくるものがある。そのひとつが「責任」なのだろうか。
どうもそれは堅苦しく思えてしまう。

「責任」とは使命のことだと考えてみよう。
それを他人から与えられるだけの人間は不幸だ。
責任を負わされる人は不幸だ。
責任を突きつけられる人は不幸だ。
責任を自覚し、行いをもって果たし続ける人はしあわせだ。

本当に自分がしなくてはいけない使命を果たすことが責任だ。責任が降ってかかってくるだけの人は不幸だ。
責任に怯える人は不幸せだ。

責任は生き方だ。責任をとることは償う行動ではない。
責任は死ぬまでずっともって生まれる。

火は、火の責任を果たしている。
風は、風の責任を果たしている。
人は、人の責任を果たしているだろうか。

生まれてしまったものの使命。
これを責任の原義としたい。
どこかそのコトバは、摂理に身を委ねるような響きをもっている。
自分の本性を理解すること。本性を守ること。
自己欺瞞に気をつけること。歪められた社会の中で、歪められた人間のなかで、大切なものを守ること。

自分に対する責任。これが一番大切なはずだ。
多くの人は、自覚なく、この責任を果たしている。
多くの人はまた、自覚なく、この責任を果たしていない。
どちらもただ普通に生きているように見えてしまうから、不思議だ。

中国かどこかの物語で、こんな話があった。
ある日、ギリギリの生活をしていた父と娘がいた。2人は曲芸をして生きていた。
命をかけて、命を繋ぐ毎日。ある日、父は言った。「私たちはお互いにお互いの気を使って生きていかねばならない」
娘は言った。「違うよ。お父さんはお父さんのこと、私は私のことを本当に懸命にやらなくてはいけない」と。
原典を思い出したいものだ。

できること

できることはたくさんある。
ただそれをするべきなのか?自問してしまうことがある。
「してしまって、いいのか?」

「するべきなのか?」と自問している時点で感じている違和感は大切なシグナルだ。
「本当にそうすることは、私にとって誠実なのか?」
「今、本当にそうして、いいのか」

その場で答えが出るわけではない。
「こんなことをしていていいのか?」
時間が過ぎたあとでないと、気がつけないこともある。
今、その時は、精一杯やってみるのがいい。その結果を全て背負うといい。

ただ世の中は、「できること」をたくさんさせるような雰囲気だ。
できなければ、できるようになれと。できるようになったら、認めてやると。

違和感があるとしたら、今、していることが、今、それをしているあなたが、一体誰の声を聞いてそうしているのか、感じるといい。
自分の中にも、いろいろな声を出しているあなたがいるはずだ。
周りの人も、いろんなことをいっているかもしれない。

もしかしたら、今すぐ、それを投げ捨てて、過去の自分と別の生き方をする、いい機会なのかもしれない。

リッチネス

Richnessという言葉がある。豊かさと訳される。インドネシアに行った時に、ふと数人が使うRichという言葉が気になっていた(インドネシア語が話せないので英語で話していた)。ワタシはこの言葉をよく知らないでいた。使わないでいた。

この世界はどれだけリッチなんだろう。
目の前に海がある。この海から魚をとれる人は、リッチだ。
その魚をさばいて、美味しく食べられる人はリッチだ。
目の前にドングリがある。そのドングリをアク抜きして食べられる人はリッチだ。
リッチな人は、目の前にあるものをどう使ったらいいか、目の前にあるものとどう関わったらいいかを知っているような気がする。

砂漠はリッチだろうか。きっとそのリッチさは肥沃な大地とは違うんだろう。
そのリッチさを見つけられるだろうか。砂漠のリッチさを、使えるだろうか。
もしかしたら、それはオアシスに見つかるのかもしれない。いやもっと、別のリッチさがあるかもしれない。
空はリッチだろうか。ある人は、そこに物語を作り出して、語った。

目の前に稲穂が揺らめいていても、それを稲穂だと知らない人は稲穂のリッチさをしらない。
目の前で起こっていることが何かわからず、それとどう関わればいいのかわからない人がいる。

私たちは、今この瞬間にも起きているかもしれない世界のリッチさを感じれているだろうか。
世界と関わってリッチになる関わり方を、どれだけ学んできたのだろうか。一体誰が、そんなことを喋っただろう。

自分がリッチにだってなれる。リッチなものと関わる技術とは、リッチでないものをリッチにする技術だ。

春になった。美味しい野菜が食べられるのは、リッチな大地から生まれたリッチな野菜を仕入れてくれるリッチなおばあちゃんがいるリッチなやおやさんがあるからだ。それをできるだけリッチに食べる工夫をしよう。それだけで、春がリッチになる。少しだけ、ボクは春のリッチさをいただこう。

ボクをリッチにする何か、僕がリッチでいられる何か、そんな何かに、僕も食べてもらおう。そしたらボクは、春になれる。

考え方3

「癖を治す」
どう考えても「ワルイ」癖がある。どうやったら治るんだろう?
けどどうしてそんな「ワル」になったんだろう?ワルにはワルの言い分がある。
それでもイイコでいたい?イイコになってみるのもいいだろう。イイコになってみよう!

一人でイイコになるのは難しい。イイコの真似から始めるのがいい。誰かに診てもらうこと。
あなたがイイコを演じることに馴れるまで、演じつづけるのだ。それをちゃんと見守ってくれる、一緒に経験してくれる人がいる人は、幸せだ。「今の演技は下手くそだね」といって笑うこともあるだろう。舞台裏で「イヤ本当は…」と正直に話してもいい。一人でこれをやるのは大変だ。やっぱり誰かが、いてほしい。

アイデンティティーという言葉がある。
アイデンティティーは便利な言葉だ。毒にもクスリにもなる。人は変わり続けていく成長する力をもっているのに、この言葉でなにか到達地点があるような気がしてしまう。自分が入り込むべき型枠があるような気がしてしまう。完成形があるような気がしてしまう。「本当の自分」がいるとおもってしまう。心は変わるのに。自我なんてないのに。ワタシはワタシの一部でしかないのに。いくつものアイデンティティーを大切にする、という言葉ならいいだろう。「アナタのなかにはこんなアナタがいる」「アナタはこういうアナタだ」といって、自分と親しくなること。イイコにしているアナタも、ワルイコにしているアナタと同じくらい、仲よくなること。きっと、アイデンティティーの確立とは、全体との関係性を保ちながらどんどん変わっていく「今の自分」を信じれるようになることだ。

成長するってことは、自分を広げながら、命を燃やしながら、つながりをつくっていくことだ。なくなっていくつながりもある。魚はまな板の上では生きていけない。その時は、魚を辞めるか、水の中に戻ろうとはねまくってみるかだ!はねまくってみて、厨房の裏口から路地に出たところで「いや、これムリでしょ」とおもったら、魚を辞めたらいい。それが成長するということだ。いやもしかしたら、船の上で、はねたらすぐに、海に戻れるかもしれないけれども。

考え方2

「自分語り」
人は自分の物語をもっている。「ワタシはこういう生き方をして、こう生きている、こう考える」というパターンがある。
昔の自分の行動を繰り返す、その奥底には強烈な演出者がいて、演技者に指示を出している。「次、君はこうしなさい」とか。もしくは俳優のうちの一人が、わがままをいって、他の俳優を振り回している。
次第に、俳優たちは、「ワタシってなんなの?」といってやる気を無くす。誰かが演出家に、支配者にこういった。
「いやどうかな、ここ、こうしたらおもしろいんじゃない?」「ここはホントはこうなんじゃない?」その場で生まれでてくる誰かの声、気持ちに耳を傾け、新しい物語、新しい風景、新しい場面を作り上げていくこと。自分語りとは、無視されてきた自分の俳優たちと一緒に、物語を作り直し、舞台をつくることだ。オンナジ風景じゃ、つまらない。新しい場面に、新しい舞台に、新しい人生に、タイトルをつけよう。何かやってみたら「やってみたら、おもしろいじゃないか」ということになるかもしれない。

物語を変えていくなかで、登場人物に名前がつくかもしれない。今まで見えていなかった風景に出会うかもしれない。新しい感覚・できごとを大切にしよう。初めて気がつけた誰かの気持ち・自分の気持ちを大切にできるように。言葉を使おう。もしかしたら、今までギャーギャーいっていた演出家が、役者が、仮面を外して新しい姿になるかもしれない。何が起きるかわからない。言葉は見えないものを探る力になる。

「自分探し」という言葉がある。
謎めいた言葉だ。まるで迷子になった自分がいるみたいだ。迷子になっているわけではない。見えていないのだ。だから自分探しじゃなくて「メガネ外し」がいい。「自分を誰かにみてもらいたい、評価されたい」という気持ちがある。確かに誰かと一緒に、本当に、ちゃんとみてもらえる人は幸せだ。その「誰か」が「自分」である人も、幸せだ。自分をちゃんと、ワタシの中のいろんなアナタを、一人ひとり世話して、耳を傾けて、一緒に何かやって、暮らせる人は幸せだ。「ああ、楽しくない」というアナタの隣で「ん〜、楽しいかも」といっているアナタがる。そういう一人ひとりをちゃんとみてあげよう。失踪してしまっているアナタもいるかもしれない。それこそ、探しに行かなければ!多分その子は、今まで無視されてきて、どこかに隠れてしまっているのだから。大丈夫。ふとしたときに、顔を出して、その子はいつでもアナタを見守っている。

考え方1

「味わう」
何かが起こった。何かをやった。その後に、どれだけ私たちは「味わって」いるだろうか。
味わうこと。時間をかけて、味わうこと。コトバにできない不思議な味も、味わうこと。
苦い味も、嫌な味も、美味しいものも全部。
味わった後に、どう表現したらいいかわからないかもしれない。
そういう時は誰かがいて、一緒に見つけてくれたら幸せだ。

他の人はどんな味だったんだろう?一人だけで食事をしていたら、ちょっぴりさびしい。
「悲しい」ことは悲しもう。「嬉しい」ことはうれしがろう。頭じゃなくて、体で悲しんで、体で喜ぼう。
その時誰かが隣にいてくれるとしたら、なんて幸せなことなんだろう。なんてありがたいことなんだろう。

「課題ができた」「成績が出た」できごとに追われて、「よかった」「わるかった」という基準だけじゃおもしろくない。
一緒にできごとを味わいなおすことは大切だ。味は、深いものだ。味わったものが、本当の経験になる。
「こんなことをした」「あんなんだった」。ちゃんと味わうことは、常に変わっていく心を知ることにもなる。

本当に大切なことは、本当の気持ちは、もっと深いところにあって、これから起きようとしているかもしれないのだから。
どこから芽がでるかわからない大地の、心の世話をしていくには、現実の世界は、ちょっとあくせくしている気がする。
ゆっくりいこう。

「結果が全て」
未来のことが気になって、ちゃんと味わえないことがたくさんあるかもしれない。ほしいものを手に入れるために躍起になることは、当然、生きていればよくあることだ。けれども、どこでもドアで移動するだけじゃつまらない。道中を楽しもう。いま個々で起きていることも楽しもう。一番欲張りかもしれないけれども、今ここに生きている自分のことも、世話してあげよう。忙しいなぁ!