おもちゃも、学校の宿題も、同じ。

だという考え方ができる。

どういうことだ!頭が狂ったか!

いえいえ。おもちゃも学校の宿題も、学びのきっかけをつくるものです。

大人はそれを手助けします。

おもちゃであれば、新しい遊び方をしてみせたり。おもちゃを通じて言葉をかわしたり。学校の宿題であれば、、、、解説してあげたり、計画することについて話したり。人生について語ったり。

で、肝心なのは、おもちゃも、学校の宿題も、子どもとオトナをつなげる環境をつくるということだ。子どもと大人が関わりあう、相互に作用し合う、道具にすぎない。素敵なおもちゃ、高いおもちゃ、高価な教材、魅力的な教材があっても、それを通じて大人との関わり合いができないなら、おもちゃも教材も、「ただの時間つぶし」になってしまう。テレビゲームという道具は、この点、遊び道具としては「積極的に介入できるテレビ番組」ぐらいのものかもしれない。(ただし、ゲームを通じて大人と子どもが仲良くなることは多々ある)

おもちゃも学校の宿題も、大人と子どもの相互作用を補うものだ。そうおもうと、宿題をする時間は、ずっと一人遊び、一緒にいるけど結局バラバラに遊んでいる並行遊びをしているのかもしれない。喜ばしいあそびは心の成長を促す。

遊ぶように、学校の宿題もやってみたらどうだろうか。

4歳の男の子がレゴみたいなもので飛行機みたいな乗り物を作っていた。「どこに行くの?」と聞くと、「わかんない」と答えた。

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フロイトとエリクソンの心のしくみ

ふむふむ。

超自我とイドという言葉がある。超自我は前頭葉や側頭葉を含む大脳新皮質で、イドは本能、欲望の部分、扁桃体や視床、小脳を含む大脳辺縁系だ。喜びたい、幸せになりたい、怖い、イライラする、自慢したい、かっこよくなりたい、また性的欲求。そういう辺縁系の働きをコントロールするために新皮質があるというイメージだ。人の生きるエネルギー、活力は辺縁系にあり、それを社会化する、人間らしくあるために新皮質が辺縁系の働きを抑制するようなイメージ。

その間に、自我というものが想定される。「わたし」だ。極端に言えば、「わたし」は大脳新皮質と大脳辺縁系の信号の流れ、神経そのものであるといえるかもしれない、そういうイメージを僕は感じる。

自我は、イドと超自我の、二人の言い分を聞きながら、言葉により、二つの力を使いこなす、統合する作用である。自我は、対話する力である。

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自我同一性という言葉が誤解されている件

アイデンティティーと呼ばれているこの言葉は曖昧すぎて笑える。

今日こんな文章を目にした。『こどばが誕生するとき』 p.244に書いてあった。

われわれは社会的なイメージと身体の力の結びつきを探求せねばならない。しかもこの課題は…集団同一性と自我同一性の相互補完が、より大きな共通のエネルギーを、自我の総合と社会組織の双方に提供することを意味している。

かの有名な、自我同一性という言葉を作ったエリクソンの言葉だ。

自我同一性の集団・文化的同一性にもとづく達成は、自我を強くすると同時に、かつ、社会も強くする。どういうことか。僕はこんな風に理解した。

自分であることは、自分が所属する社会組織のメンバーとしての自分をも負うことであり、自分の力は、社会組織の力にもなる。自我が強くなるとは、所属する社会への意識が強まるということだ。その手助けをするのが、オトナという存在だ。オトナは社会の体現者であり、子供が社会の意識、社会の言葉を受け取る存在だ。

人はひとりで何かを成し遂げるには、あまりにもか弱すぎる。自我なんてものは一人ではつくれない。人はそういう生き物だ。アイデンティティーが「自分探し」という言葉で表されるが、実は、「仲間探し」のことであると、エリクソンはいっている。「自分らしさ」とか、「独自性」という意味では、どうやら使われていないようだ。多くの日本人は見事に誤解しているし、保育士試験の本を開いても、自我同一性という言葉は一人歩きしている「日本の西洋化」をアピールするタテマエ言葉になっている。

どんな会社でもいい。お金さえ手に入れば。どんな学校でもいい。遊べるなら。。。

私は、自分を強める、成長させるのと同時に、今いる組織を強めようとしているんだろうか?そこに心はあるんだろうか?所属する場所を選ぶのは、どうだろう。その組織を強めて、社会的な影響力をもたせて、いいんだろうか?私の時間の大部分を費やし、活動する組織は、私が同一化する価値がある場所なんだろうか????(働くことの価値はお金だけなのだろうか?私は「お金」なのだろうか?おとのねさんが独立してみようとおもった理由もここにある)

エリクソンが「身体的なむすびつき」という言葉で表そうとしたのは何だろうか?

やがて、青年期が到来したとき、性的生産力を発揮し始めた身体と集団・社会との結びつきのなかに自我形成の一段と明確なテーマが現れる。それが「自我同一性」である。このテーマは、それまでの年齢において自我が蓄積してきたセンスをすべて対象にした自我の再構成と再強化である。ここで、身体のむすびつきにおいてテーマをあたえたのが社会と文化であったように、テーマの達成に関しても、社会と文化は一定の方法を用意している。したがって、テーマの達成にともなって、自我は「強い自我」になるが、その強さは社会ない存在または文化ない存在としてのセンスを強くすることでもある。(以下、エリクソンの言葉)「幼児期の主要な危機の一つ一つが解決されるごとに子どもが体験する社会の健全性と文化的連帯感に基づいて、同一性の感覚は徐々に充実していく。そのような同一性の感覚のみが人間生活における周期的なバランス…を約束すると、われわれは結論した。しかし、この同一性の感覚が失われ、自我の統合が絶望と嫌悪に…屈服するところでは、必ずそれに関連した一連の幼児期の恐怖が一斉に動員されがちとなる。なぜなら、文化的同一性という『世襲財産』のなかに、安全に錨を下ろした同一性のみが、運用可能な心理社会的平衡を生み出すことができるからである」

ちなみに、センスとは自我感(これが私よ!という肯定感)であり、テーマとは危機、発達のなかで直面していく課題のことである。エリクソンが提唱した8つあるテーマのうち、一番最初にあるのは「基本的信頼」である。ひとりぼっちにならないこと、社会のなかにいること、ひとと繋がっていること、である。そして、

身体的という表現は、自分が文字通り身を置いている社会、という意味で捉えたらいい。人はとにもかくにも、「そこで生活している」ことに規定される。「強くなる」ことは、共同体との繋がりをもつこと、といえるが、エリクソンの時代と、現代とでは世界は変わってきている。エリクソンのいう「強い自我」のあり方が、この時代には少し合わないような気が、(部分的に修正、追加しなくちゃいけないことがあるような気が)する。

で、本題だが。オトノネは超弱小、人が全然来ない弱小塾です。育英とか大手の塾にみんないく。所属する。それがお金になり、力になる。時代のスタンダード、競争社会(脱落社会)、親の欲望重視、日本という歴史、社会に錨を下ろしているからかもしれない。オトノネはその対岸に錨を下ろしている。オトノネ世界へ、みんなこないかなー!!!!!!!!!!と思いながら、オトノネはどんな世界なのか、きちんと人に伝えられないオトノネの曖昧さを感じる。

価値観が多様化したこの時代に、学者はなにもしてくれない。学者の代わりに、たくさんの人がSNSで情報を発信してくれている。社会が、変わったのだ。社会が変わったのだということを学んでいこう。

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医療が発達して弱い子どもが生まれる


医療が発達して、障害児が増えた。障害児認定されずとも、ふにゃふにゃして、力のない子が増えた。といわれたら、どうおもう?(特別支援学級など昔は、昔々は今ほどなかったといわれたら納得してもらえるだろうか)


では、 なぜ!???

医療が発達して、昔だったら生まれてこなかった人が生まれるようになった。
医療が発達して、昔だったら弱くてすぐに死んでしまっていた子が延命されるようになった。(晩婚化によって母体の生命力が・・・という話もできる)

医療が発達して、人間はシアワセになっただろうか。
人はいつもテクノロジーの使い方で悩まされているようにおもう。
道具をつくり、道具に悩む生物。人間。

ギターという楽器がある。これ一つと人間が一人で、どれだけの無限に近い音楽が生まれるだろうか。
ピッケルという登山道具がある。これ一つと人間が一人で、山登りの困難に立ち向かうことが可能になるのか。

道具を使う人間が豊かにならずして、道具だけが豊かに成長していく。
人間は成長しないもので、仕方がない。
といってしまうこともできる。

私は人を「道具を使う生物」であるとおもう。「道具に仕える生物」だとはおもっていない。
医療をどうつかおう?命とどう向き合おう?お金も一緒だ。
お金に操られていないか?お金をきちんと使えているか?お金に仕えていないか?

医療が発達した。「弱い命」が生まれ育つようになった。「弱き者」のための社会でないとしたら、医療は一体、どのような責任をとってくれるというのだろうか?医療は、無責任なのだろうか?(患者を2時間待たせて2分しかみないという笑い話がある)なぜ医療は発達したのだろうか?(悲しみを増やしているのではないか?と考えることもできる。延命治療も同様)

かつて、どこの国でも「子どもを殺す」風習があった。もしかしたら、その時のお母さんの悲しみを、お母さんは、生まれた後で、子どもを育てながら、感じているのかもしれない(もしくは社会全体にその悲しみは分散されている。もしくはマスメディアにより、分散させられている。教育現場とか、家庭とか、保育所とかに)

悲しみと喜びの保存則!!

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思いやりと心の理論の関係

他人の視点を考慮できないないということは、悪さをするとき、復讐心や悪意を持ってそれをすることはありえないことを意味している。悪意を持って何かをする(一部の大人が得意なこと)ためには、以下のような執行プロセスが必要である「( )するのを邪魔したままに僕は腹を立てている。でも、僕がこりずに( )をすれば、ママはきっと困るに違いない。そうすればママに仕返しできる」。しかし、もし子どもが母親の心を想像できなければ、そんなことなど考えつきようがない。(『子どものあそびは魔法の授業』p.318)

つまるところ、4歳になるまでは子どもには悪気はないということだ。怒りをぶつけて「叱る」ことは子どもを不安にするだけでしかない。(怒りをそのままぶつけたら、子どもでなくとも、誰でも「いや」な気持ちになるしかないだろう。怒りをぶつける人に出会ったらどうするか?これも子供はお母さんから学ぶようにおもう)

ふと考える。心の理論と共感は違う。心の理論は思いやりに応用ができるが、共感に基づく思いやりが先だ。

「心の理論」は4歳以降でないと生まれてこないことが実験でわかっている。しかし、2歳の子でも、悲しそうな友達や母親に毛布をあげる。これは「延滞模倣」だとおもえば説明がつく。悪気も何もない。ただ、真似てみるだけだと思えば、説明がつく。心から、前頭葉を介さずに、ただただ、自然な反応として生まれるこの行為を思いやりと言ってもいいかもしれない。思いやりは道徳の授業では身につかない。信頼できる人が思いやりを持って誰かに接する経験、思いやりを持って振舞われた経験がなければ、心の理論ができても、思いやりを持った行動をすることができない。

4歳にならない子どもが「思いやりある行動」をしてくれたら、それは、もうとんでもなく、お母さんにとってもしあわせな出来事だろう。人間らしく、人間としてよりよく育っているという、証なのだから。

ところで、心の理論=間主観性=おもいやりと思われがちだがそういうこともない。


ロバータの息子ジョーディは3歳になろうとしていた頃、夏の美しいたそがれどき、ベビーカーから月を見上げて言った。「僕らは彼らにとって月?」ロバータはびっくりした。ジョーディが尋ねたのは、月の住民の視点についてだったからだ!(『子どもの遊びは魔法の授業』p.321)

3歳になろうとしているとき、すでに月の目線にたっている。心の理論の実験は、実験室の中で生まれた「課題」に対する答えであって、もっと切実な、子どもがうんと真剣に考えたり感じたりするのなら、心の理論はもう3歳になったらできているとおもってもいいのかもしれない。

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言葉のプロになるための1万時間の4段階。

プロになるには1万時間練習しなくちゃいけない法則があるのだという。(科学的な根拠は知らない。嘘かもしれないしまぁどうでもいいけれど発達の目立つ時期が『ことばでつまずく子どもたち』(p.91)に書いてあって少なからず2年のサイクルがあると書いてあるので少しは信じられるとおもう。

簡単なメモ
3−10ヶ月:言葉を理解する
2−4歳:会話力を獲得
6−8歳:文字を読む(促音、濁点などを音読しながら意識して読む。字と音韻の一致)
10−12歳:文字を書く
14−16歳:文章を書く

で、生まれてから言葉が出る、二語文、会話らしい会話ができるようになるのが2歳の終わり、つまり0歳からの3年間だとしよう。1万時間を3年で割ると、1日あたり9時間。まぁ子供が起きている時間、ずっと学び続けているとすればそのくらいになるか。

で、3歳の段階では、言葉のプロ、というよりも、言葉の学習者として一流だとおもえばおもしろい。(興味関心をもって意欲的に他者の会話を聞こうとする、聞ける、安心してこの世にいられる感覚)

と考えると。。。。

で、3歳になってから6歳になるまでの3年間で、言葉のプロ、になれるはずだ。けど話し言葉に限られる

というように、次々と考えていくと・・・!!!

次の3年間でプロになれるとしたら・・・文字を(口に出して、意味を知って)読むことのプロ、になれる。書くことはできないかもしれないが。文字を、気持ちを込めたり、速度を変えたり、いろいろな表現で、書かれた文字を読むプロにはなれそうだ。小学校低学年。

小学校が終わるころには、文字を書くプロになっている。いやでもこれ、どうなんだろ・・・文字、小学生とか中学生の時とかまだ僕はかなり(今以上に)汚くてうーん。。。。まぁいいや。

とりあえず行けるところまで想像の羽を伸ばしていこう!

中学生になったら、話し言葉で表せていた心を紙に写し取る、書き言葉のプロになっている。そのときには本居宣長や小林秀雄の言葉を思い出しながら先生は指導にあたるべきだろう。書くとはなんぞや。心のどういう営みだ。「丸々した。面白かった。」ではないはずだ。

小学校で理科や社会を、高校受験のように「系統的に習う」必要性を私はあまり感じない。理科はただの不思議をおうあそびだし、社会はおもしろそうな人の写真をみて物語を読む時間だ。言葉の時間、音楽の時間、美術の時間、図工の時間、あそびの時間、それだけでどれだけ、人間らしく、人間が成長できることか。もちろん、言葉の時間に算数や第二外国語を入れてもいい。

中学生なら、もう達人の域に達しているはずだ。ただどうしてだろう?大人が想像する中学生、未熟な中学生、まだ高校生になっていない中学生、自立していない、未発達な中学生というイメージが子供を幼くしてしまっているだけだと僕は思っている。

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「蛇」は抽象語か

ヘビという言葉はよく聞く言葉だ。

へびさんへびさんとみんないう。

が、実際に見た人は少ないのではないか。

昔の子供たちは、空き地で遊び、蛇を捕まえ、蛇で遊び、蛇を食べ、蛇と一緒にいた。その時は具体的な、目に見える、生々しい蛇との経験がある。だから蛇という言葉は全然抽象的ではない。

国語が苦手、というのは、自分と関係ない世界の、よくわからない物事の「実体」が不明だから、その「名前」もあやふやなものになって、語彙が増えない、という理由があるのかもしれない。今の子どもたちにとってヘビは抽象語であるような気がする。

つまり言葉が生みだされる世界、言葉が育つ世界との関わり合いの少なさは、一人の人間の中で生み出される言葉の少なさに関係しているかもしれない。

テレビを見れば、蛇は拝める。蛇はわかる。

けど蛇の本当の姿とは?どうして「虫」がくっついているの?古代中国の人たちが「虫」という意味に込めた「ものもの」の意味がヘビにこめられている。ヘビはもともと日本語ではツチとかなんとかいった(ような記憶がある)。神であったし、大きな力をもっていた。時代が映ると蛇は忌まわしいものになって嫌われ出したり、聖書では悪者みたいに書かれている。

さて、蛇とはなんなんだろう。たぶん、ゲームの中で出会う蛇が、彼らにとっての蛇なんではないだろうか。くねくねして、噛みついて攻撃してくる。もっとやさしい蛇もいるんだけどね。(マハーバーラタをよもう)

赤ちゃんがお母さんと一緒に何かを見る、いわゆる共同注視という振る舞いがある。言葉によっても、ここにはない、ファンタジーに浸る共同幻視をしたらいい。おとぎ話には、言葉を鍛える力がある。物語は言葉を育てる。

さて、「自由」は抽象語なのだろうか?

「自由」を具体語として生きられるような暮らしをしてみたら、どうだろう。

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勉強をする意味って何?

生きる意味ってなに?という質問くらい、謎めいた質問であって、大抵の大人たちが困る質問です。答え方も人それぞれ。

意味はどうやってできるのでしょうか。サルトルは「人間とは、存在するために、自らを投企する存在」みたいなことを言いました。

実存が本質に先立つとは、この場合何を意味するのか。それは、人間はまず先に実存し、世界内で出会われ、世界内に不意に姿をあらわし、そのあとで定義されるものだということを意味するのである。(中略)人間はあとになってはじめて人間になるのであり、人間はみずからがつくったところのものになるのである。このように、人間の本性は存在しない。その本性を考える神が存在しないからである。

つまり、自分が作り上げた人間が自分だ、意味(本質)は創造されるものだということです。勉強をする意味も、生きる意味も、自分で作らなくてはいけない。それが人間だといいます。キェルケゴールは関係性によって移り変わる本質の姿を描写しました。

「人間は精神である。しかし、精神とは何であるか?精神とは自己である。しかし、自己とは何であるか?自己とは、ひとつの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。 」

学校での勉強、会社での勉強、人間としての勉強、同じ勉強でも意味が変わるかもしれません。大人になってから「ああ、勉強していたらよかった」ということも、世界と自分との関わり方が変わるからです。

結局、「勉強する意味がわからないからやらない」ではいつまでたっても意味などわからないということです。意味がわからないけど、やってみないと、意味はつくられない。それが人間の姿です。とにかく1分でも30秒でも、1個でもやってみる。

私は、高校生が進路に向けて勉強する意味は、利害関係に満ち溢れた「大人たちの世界」と対等に関係を結ぶための、人間として自立するための練習をすることだと思っています。戦場のような場所で「自分と向き合う」「自分を知る」、孤独な営みかもしれません。だからこそ、誰かに支えられながら、前に進んでいって、たくさんのことを学んで、春になって、新しい世界でうんと体を伸ばして、にこやかに、ごくごく自然に、また次の世界に進んでいってほしいとおもっています。

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「ガマン」の価値・喜びの泉

進学高校の生徒たち。

というか、進学高校でなくとも。

結果も給料もでないのに、どうして言われたことをやりつづける?

どうしてそんなことするの????

大人になったら、お給料がでる。

「やりたくないことをするからお金をもらえる」という価値観を口にする人がいる。

私は「大切なものを守るために、自分で折り合いをつけて仕事をする」と考える。(それでオトノネを初めてみたものの生徒が来ないからアルバイトを探す。とにかく探す。目標があるから、それにあったものを探す)折り合いの付け方はひとそれぞれだ。「やりたくないことをする」ことが美徳ではない時代。もう経済成長もとっくのとうに終わっているのに旧態依然で働くのはどうだろうか。充実した成長の経験ができないのに、課題ばかり、自分にとって楽しくもなんともない作業ばかりしているのはどうだろうか。

「ガマン」は大切。目標を達成するためのガマン、大切なものを大事にするためのガマンであるときに限っては。

「社会に望まれていること」をするのは大切なことだ。「自分がしたいこと」を先に考えていたら、もし心が誰かと繋がっていなかったら、実現しないことが世の中にはたくさんある。この問いには、答えがない。答え続けるしかない。これほど難しい問題はない。けど簡単なことでもある。「自分を守る」ことが一番大切だからだ。(もし自分を守るために誰かを傷つけるなら、その時はしっぺ返しがくるからどんどん修正していこう。扁桃体の共感能力、間主観性が育っていたら、そういう失敗にもすぐに適応できる)

仕事は、暮らしだ。学校は、暮らしだ。「やりたくない人生を歩む」孤独がどんなにつらいか。成長する喜び、実現していく喜び、大切な心と一緒にいる喜びが、そんな孤独な旅を支えてくれる。

「ガマン」は大切。他の人と一緒にいるためには、自分とは違うことを認めて、受け入れなくちゃいけない。それが「ガマン」ではなくて、「作法」のように身につけられればいい。ガマンは、ともに喜び合う、笑い合いながら暮らすための、作法だ。しかめつらをすることはないのだ。

喜びの泉を見つけよう。誰かとともに、泉に手を浸し、湧き出る水を染み込ませよう。誰かとともに。笑い合おう。泉を守ろう。泉を作ろう。よろこびを分かち合う人と一緒にいられる時間を作ることこそ、人間の仕事だと思うのだが。先生という仕事は(現代においては)、子どもたちが砂漠の中の井戸で命のエネルギーを汲み出し、そのエネルギーで成長していくよろこびを経験してもらうことなのかもしれない。

本当の文化とは、よろこびあうシステムのことかもしれない。それは慌ただしい暮らしの中で、ただただ人が集まって笑い合う酒場であり、音楽が流れる場所であり、やさしい匂いと時間が流れ込む、つかの間の空白のように、感じられるかもしれない。

毎日毎日、心をあらってみよう。よろこびがなくても。無為に委ねて、洗うこともできる。無為に委ねるとは、心を自分の外に置き(自分が心の外にでて)、心からでてくる森羅万象が森羅万象によって風化して行く、移ろって行く、流れ出て消えて行くのを眺めることだと私はおもっている。と考えれば、あらうのではなく、あらわれるようにする、という自動詞的な感覚。


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田舎と都会のメリット

アンケートで質問されて以来、考えている。

人によってもちろん違うが。

本当に違うのだが。

田舎と都会の違いを人の数だと考えてみる。

都会は人が多い=いろんな人に出会える。としてみよう。すると、都会に行くと多様な価値観がある、と言い換えられる。なるほど。

もし都会のメリットを使いたいなら、情報を集め、整理する能力が役に立つだろう。本当にいろんなものが、都会にはあるはずだからだ。

例外ならいくらでも出てくる。田舎は閉鎖的だというが、都会で孤立化する人もたくさんいる。もちろん、田舎で孤立する人もたくさんいる。田舎には田舎の生き方があり、都会だってそうだ。田舎には田舎の歴史があり、都会にも歴史がある。歴史の中で、特異点になる団体がある。信念を持って新しいことを始めようとする人たちが、田舎にもいる。

情報はいくらでもある。その中で、「あ、ここでやってみよう」という本当に些細なきっかけ、ドキドキ、ワクワクを信じてみたらどうだろう。空が、青かったから。という理由でもいいのだ。

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