学校教育の「宿題・定期テスト・工場式一斉授業」より家庭教育の「自立・個別化・愛」を大切にしても大丈夫な法的根拠

宿題をやる義務はない。
学校から出された宿題はしなくてもいい。

小学生であっても中学生であっても高校生であっても。

なぜ、学校は課題をやらせるのか?
この人、当たり前のことをちゃんといってくれていることに今気がついた。。。
っていうかこの幻冬社のGOLD ONLINE 本当にGOLDだ!すごい気合の入った連載記事!読んでみてください。
麹町中学校の校長が「宿題全廃」を決めた理由とは?

僕とお友達になれそうだ。

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家では家で、教えることがある。
家を学校から離し、自立した学びの場にするといい。

それができずに、高校生になっても学校の課題をやり続ける子がいる。
それは「労働者」の姿であって、「学習者」の姿には、僕には見えない。

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教育基本法

(学校教育)
第六条 法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。

(家庭教育)
第十条 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。

(社会教育)
第十二条 個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育の振興に努めなければならない。

(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)
第十三条 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

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父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するという言葉がある。
子どもの教育については、お父さんお母さんが、学校よりも、何よりも、誰よりも、責任がある。という文言だ。

お父さん、お母さん、学校に子どもの教育を任せていませんか?
学校に行かせて「子どもの自由だ」と言って責任を丸投げしていませんか。
いやいや、、、子どもは自立した一人の人間、勝手に育っていくものだ、と考えることもできる。もちろんです!
ただその考え方一つが、その子の世界を変えていくという可能性が大いにある、ということは本当だとおもいます。

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ちなみに「社会教育」には個別的な学習、塾も含まれると解釈していいとおもう。

相互の連携及び協力という言葉がある。
相互であって、一方的に家庭教育が学校教育に「従う」とは書いていない。
だから家庭は、家庭でしっかりとした教育方針を立てて、学校から独立した教育機関になることをおすすめしたい。
「宿題はまだ終わってないの!テストはどうだったの!」というだけでは、家庭が学校の下部組織になってしまう。
テストの点数が悪いということは、学校が教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。という文言を守っていないわけで、学校で組織的に行われる体系的な教育が子どもの役に立っていないという意味で、「自立・個別化」する家庭教育にシフトし、学校での評価を気にせずに、父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するという文言を法的根拠として社会教育(学習塾やその他の社会資源)を使うといいかもしれない。

学校が悪いわけではない。
学校はもう人もお金もないし、限界にきているだけだ。そういう状況に学校はある。

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費を概算して気が付いたこと。

続・富山県は教育県ではない。各都道府県の「学校基本調査」からわかること1

続・富山県は教育県ではない。各都道府県の「学校基本調査」からわかること2

学校の限界で子どもの限界を定められていい気落ちがするお父さんお母さんはいないだろう。
だからこそ、まずはお父さんお母さんが学校から自立して考え、教育することで大切にできる子どもの命がある。

お子さんが小学校、中学校のとき、お父さんお母さんが学校から自立して子どもと関わることで、お子さんは高校にいっても、社会に出ても、自立して組織から離れて「自由に」生きることができると考えて自然ではないでしょうか。

学校・家庭・塾の相互連携及び協力は法律で「努めるもの」とされている。
これは「しなくてもいいけど、できればしてね」という意味だ。(「1日に学年×10+10分」の家庭学習を強く要請しているのは、学校教育が家庭教育を下部組織とおもっていると考えてよいのだが、これは法律違反ではない)

だから学校は相互連携をする気がないのだろうか。
学校は宿題・課題によって、課題をやらせる雰囲気によって家庭教育や社会教育を混乱させてはいないか。
お父さんお母さんが子どもの心を学校教育から守ることで、大切にできる命はないだろうか。

学校から自立する、心が大事。

大丈夫ですよ。
法律で守られています。

けど法律だけで生きていないのが人間ですね。

オトノネひろげるシェアぼたん

難関大学を目指すあなたへのメッセージ

一流の学習者になってください。

課題の海で溺れている、課題の森で迷っているうちは、一流にはなれませんよ。
(実は課題の海で溺れながら、第一志望校にはいけなかったが難関大学に合格した子はいます。課題をやっていなかったら、第一志望校に入っていたことでしょう。まぁ今その子は笑っているからいいでしょう。そういう子もいます。いろいろですから)

目の前に現れる矢継ぎ早の定期テスト、やたらうけさせられる意味不明な進研模試、参加任意と言って強制される土曜模試、与えられた課題をこなすことに心を砕くのは一流の「労働者」であっても、一流の「学習者」ではありませんよ。

学校には学校の都合があります。
一流は、一流なりに都合をつけて生きています。

一流の大学は、「労働者」は求めていません。

AO入試を探してみてください。
あなたは大学に「求められいる」人間ですか?

一流の学習者になってください。
日々、自分にフィードバックして、改善を積み重ね、全力を尽くしてみてください。

「あれ?うまくいかない」とおもってもなお、「労働者」であり続けるなら、そのまま試験に挑んでみてください。

もしかしたら、合格するかもしれません。
大学が求めている人材ではないと、僕はおもうのですが。

「あれ?うまくいかない」とおもえないのも、大学受験の難しさ。
(僕も当時、うまくいっていなかったことに気がつきませんでした)
若さゆえか。

だから僕はオトノネをつくったんですけどね。

大学受験というものは、とてつもない、かけがえのない経験になります。
いろんな人と出会って、助けてもらいながら、突き進んで、早いとこ高校を卒業しましょう。
一番近くで見守ってくれている人へ、感謝の気持ちを抱きながら。

進んでいってほしいとおもいます。

世界で奇跡的に生まれたあなたの命を大事にしてほしいとおもいます。
しあわせを育てられるように。誰かの心をあたためられるように。

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小学生、中学生の心を学校から「守る」という愛で子どもの「命」を守ること。高校になった時に自立すること。自由に生きること。

「自由にさせたい」

ということが一つのキーワードになる。
ひとりひとりが自由に世界をつくっていけば、世の中はもっとおもしろくなるだろう。
では、

子どもに「自由に生きて欲しい」という祈りを届けるための、愛とは何か。

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さっき、ドジョウが2匹、死んだ。
正確に言えば蘇生しようとしているのか、死んでいこうとしているのかわからない。
とりあえず、フタをせずに「カルキも抜きたいし、水たっぷりにして泳がせたいし」ということで2匹が今、埃にまみれて瀕死。
奇跡的におとのねさんに食べられることを免れた命。
飼うつもりだった。
生存者は3名

ーーーーー

「自由にさせたい」
けれども、守らなくてはいけない。
何を?命を。

人間なら、僕はもっと別のものを大切にしてほしいと思っている。
心だ。

命、といってもいい。

その人が生まれて来て、燃やせるもの。
他の人にも与えられる炎。

で。

「自由」がうまく働かない場合がある。
自由は条件付きだ。
「みんなで一緒」で小学校・中学校を過ごした子どもたちが、高校になって、「みんなで一緒」になって、本気をだせずにいる。
「個別化」されるべき進路を「課題」に阻まれている。
3年間を学校で「みんなで一緒」のわけのわからない課題に耐え、終わる。
それがお父さんお母さんの望んだ「自由」の結果だろうか。

(学校変えるか、課題や定期テストを拒否するだけでいいのに…それは困難なのだろう)

それで、子どもは、「殺された」と言えないか。
お母さん、お父さんが「自由だ」といって子どもの大切な心を、命を殺していないか。
おとのねさんも「自由だ」といって子どもの心を殺してはいないか。

そこはおとのねさん、実にドライだ。
「もう育ってしまった。もう思春期を超えた。あとは、今あるものでやっていくしかない。もう高校生になったなら、痛みがなければ、変わらない」
発達課題を、思春期の意味を僕はそのように理解している。
入試が終わった後で、希望しない大学に入学した後で、大切なことに気がつけばいい。

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「自由」を大切にすることはいいことだとおもう。
ただそれで「自由」を発揮するチカラを育てられているか。
「自由」にすることで「不自由」になっていないか。

「教えてはいけないこと」と「教えるべきこと」をはっきりさせているか。

「みんな一緒」から子どもを守ることがお父さんお母さんの役割ではないのか。
学校で「みんな一緒」の価値観で育った心が「自由」を発揮する、「個性」を生かすチカラを発揮することができるだろうか。
障害にならないか。

学校という環境がつくる心から、子どもの命を守ることが大事ではないのか。
それほど学校の先生は、学校というシステムのなかで生き延びることに精一杯なことが多い。
(一部の先生が生徒の心に大きな負担をかけることも往往にしてある)

ーーーー

もし本当に「自由」を、「その子らしさ」を育てるなら、学校から子どもの心を「守る」ような関わり合いをしなくてはいけないのではないか。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
それは学校から「自立」することも意味するだろうとおもう。

「先生、いろいろ大変だね。まぁ、私は私でやっていくよ」という目線。

心を圧迫してくるあらゆる言葉、振る舞い(時として脅迫や精神的苦痛といういじめに相当するものが公然と教育の名で行われることもある)から自立すること。僕がよくDVをDVだと思わないお母さんの話をするが、それの学校バージョンだ。毒親の支配から逃げられない子どもに例えてもいい。

小学校、中学校の発達の課題には学校からの「自立」がある。
だからこれを意識して就学以前から、低学年から関わりあうこと。
小学校になってからも、「自立」できるように子どもの心を守ること。

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テストの点数が悪くてもいいよ!とはいっていない。
学校という環境の中で、「その子」をみつけて、どうしたら「その子」が「その子」として自立できるか、かけがえのない命を燃やせるのか、他の誰かを照らす炎になるのか。見て、守ってあげることが大事だとおもう。(場合によっては、学校がいうことなど気にしなくていいと、言えるだろうか)

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子どもを「守る」ために課題をやらせ、テストの点数をあげさせようとするお父さんお母さんの心はわかる。
ドジョウを2匹、自由にして殺してしまった気持ちだ。

「自由」になるために「檻に入れる」のだ。

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勉強「させる」、習い事を「させる」のは悪いこととは限らない。
ただ発達の過程で刷り込まれた神経は残るということは知恵として知っておいて欲しいとおもう。

小さな子どもの「気を引き締める」「ケジメをつけさせる」のも同じだ。
その一挙手一投足が、子どもの心をつくる。神経を作り上げる。

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命を守るとはどういうことだろう。
僕は生まれて来た命にかける願いを、祈りを、言葉で、仕草で、振る舞いで子どもにかけたい。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
そして高校生になったときに、本当の自分を社会にプロデュースするという課題に、向き合えるように。
そのための基礎が「自立」する心であって、これはつねに自分という物差しで、自分の心で世界をみる行い(自分が自分のことを語るという単純なこと)の繰り返しで強められる。

小学校、中学校で「みんな一緒」の「定期テストに追われる」、「学校の先生が怖くて従う」、「友達の視線が気になる」神経を作り上げる学校の環境から子どもを守ることが、「自由」のために教えなくてはいけないことではないのだろうか。命を、殺さないために。

小学校、中学校で「死にに行く」ことを覚えた体は、高校になってから「個別化」を拒むだろう。「自立」することが難しくなるだろう。
身体は記憶する。
気持ちとか、精神論とか、正論は関係ない。
わかっちゃいるけど、、
先生に頭ごなしに否定されると体がすくんで、心の元気がなくなる。
身体は記憶する。
心理学の一般書のコーナーにいけば、すぐにでも手に入る真実だ。

ーーーーーーーー

別に課題をしなくてもいい。
勉強しなくてもいい。
本気になれることさえあるなら。
それが個別化だ。

勉強ができなくても、しあわせを育てている人を、僕はたくさん知っている。
勉強ができても、しあわせそうではない人も、僕はたくさん知っている。

ーーーーー

自由にさせて、小学校・中学校で心をすり減らしていないだろうか。
「みんな一緒」を神経に、体に刷り込まれていないだろうか。
それは僕には、発達障害のようにもおもえる。「え?まだ学校から自立できていないの?」

子どもの命を殺していないだろうか。

知恵をもって、仕草をもって、愛のある言葉をもって、子どもと関わりたい。

(ブログの記事)
愛とはなにか?

そうして僕は、ドジョウを入れたボールにラップをかけた。

ボールの外から飛び出して「死ぬ」のは自由。
けどそれは、言い方を変えれば僕がラップをかけずに「殺した」ことにもなる。

小さな赤ん坊が、歩き始めた時、わけもわからず車道に出ようとするのを引き止めるように、学校から子どもを守ることも、命を守ることになるのではないかと、僕はおもっている。それほど学校は、生徒たちの心をすり減らしている。子どもたちは、笑いながら、「自由」であり続ける。

僕は子どもたちに、どんな祈りの言葉をかけよう。

小学校、中学校の発達の課題は学校からの「自立」と「個別化」だとおもう。
学校は利用するのであって、機会は「与えられている」のであって、「従わなければならない」法はない。

教育基本法 第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

オトノネひろげるシェアぼたん

保育も教育も療育もすべて子(個)別性が大事。心が大事。

「そういえば、発達障害をもっている子のための保育案ってあるのかな?いわゆる健常児ならいついつころにはこれこれができるようになるからといって保育案(指導案)が作られるんだけど」という疑問を持ち、とあるFBグループ上で質問をしてみた。

そうしたら、ああ、なるほど、と思えるコメントをたくさんもらえた!
SNSをやっていて、SNSのよさを感じれた。うれしく、ありがたくおもえた。

で。

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療育とは何か、発達障害と診断された子に対して大人はどういう気持ちで、心で関わったらいいか。
その心構えを書いている文書を紹介してもらったのでここでも紹介したいです。

発達が気になる子が過ごす地域の支援者様へ(倉敷市社会福祉部障がい福祉課)

この中で、やはりこの一文が響く

発達に特性がある児童が「療育」を利用するだけですべての課題が改善するわけではありません。(略)倉敷市は市内の事業所に対して、「本人の特性や物事の学び方を、家族や地域の支援者が理解し、成人期において、地域で自分らしく自立した暮しができるようになる」ことを療育の目的.....として支援するよう求めていますので、(以下略)

これは療育の目的というより、教育、保育の目的、人間の目的ではないのか。

別の子の経験が他の子に役立つわけでもなく、いつなにをするかも時期もまちまち。
「定型」を超えてその子が今求めているものに、発達しようとしているものに(自閉症、ADHDの子ももちろん発達する)目を向けてみる。

コメントをくれた方へのおとのねさんのコメント返しは次のようでした。

ありがとうございます。長い間、私の声に耳を傾けてくださったことに心から感謝しています。倉敷市の文書を読み、これは僕の考えている保育や教育、療育すべてにいえる指針のように思えました。オーダーメイド、ひとりひとりに焦点を当てたものと考えれば、児童の福祉にとどまらない、大人にとっても大切なことだと思いました。発達支援の勉強を深めながら、教育の畑で関わりきれなかった子どもたちと関わりあう知恵を、集めていきたいと、ああ、溢れるくらい感動しました。僕は勉強します。勉強します。たくさんの勇気をいただきました。ありがとうございました!

自分らしく自立する。
大人になっても、人は育ち続けている。
お互いの分子間力で、価電子を介した結合で、近づき、関わり合いながら。

ーーーー

個別指導塾はかず多くあるが、結局やること喋ることは同じなことが多い気がしませんか?
オトノネは、完全子別です。あ、名刺が世間体気にして「個別」になってたけど、「子別」になおそうとおもった。

保育の現場では、0から1才は「個人案」がある。けどそれ以降も、先生たちの間では「個人案」が作られ続ける。
療育は現場では「個人案」がつくられる。(建前だけの案をつくる事業所もあるが)
教育の現場では「授業案」が作られる。職員室では生徒の悪口と愚痴が飛び交う。(いい先生もいるよ!もちろん!)

そう、学校教育の校舎と校庭のモデルは監獄と軍隊(史実だから、許してね!)。
しくみは工場のベルトコンベアで最後には無理やり卒業させられる(酷い言い方かもだけど、許してね!)。
産業革命以降の大量生産性、均一な品質管理に悲鳴をあげている0から18才のためのオトノネです。

けどそれが日本のスタンダード。
その中で「あなた」はどう生きるか。僕は、どうやって生きようか。。。

心が大事。

教育基本法にあるごちゃごちゃした教育の目的よりか、倉敷市の療育の目的を指針にしたほうがよいかもしれない。
そして学校の現場は、やはり、法律違反(スクール・ヴァイオレーション)をしているけれど、人間だから仕方がない。

自分の身は自分でまもろう。自分の命は、自分で燃やそう。大丈夫。燃やし続けていれば、きっと、君の光をみつけてくれる仲間と出会えるから。DVの加害者を罰する法はない。逃げるしかない。身を守るしかない。

第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

ちなみに学校教育法はこちら

第二十一条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

学校の先生は、果たして自主、自立及び協同の精神をもっているのかしらん(現場の先生も、大変なんです。許してあげてください)。

第六章 高等学校
第五十条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。
第五十一条 高等学校における教育は、前条に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展拡充させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。
二 社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること。
三 個性の確立に努めるとともに、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと。

国立大学、東大に進路を限定しようとする先生たちに、個性って何か聞いてみよう。高校で個性を確立することに努めるってどういうことか、聞いてみよう。(大丈夫です。日本は法治国家だから、答えてくれるはず!)

オトノネひろげるシェアぼたん

好きなことを仕事にする?の意味。

iPS細胞を自前でつくった山中伸弥教授は世の中のために研究をしていたか。

と聞かれたら、いやいや、ただ、楽しかった、やりたかった、つくってみたかった、という純粋な遊びごころで研究していたんだろう。

表向きは、社会貢献とか、いろんな飾りをつけられても。
人の役にたつこと?いやいや、自分が好きだからやったんだよ。

結局は、何かを成し遂げるときは、情熱、ロマン、遊び心、本気になれる純粋な何かに向き合うメタスキルが大切になってくる。

そういう話を、した。

かつて阿部次郎の『三太郎日記』を塾の先生から借りて読んで読みきれなかった。
けどそこにこんなことが書いてあったらしい。

生きるための職業は、魂の生活と一致するものを選ぶことを第一にする。

けど、そこでこう言われた。
「魂の生活ってのが何かわかりませんよ。私自身、魂が震えるような経験をしたことがないですからね!」

そうだ、雪をみたことがなければ、雪がどんなものかわからない。
自分の心を知らなければ、心がどんなものかわからない。

もちろん、ほんとうにわかるなど到底できない心であるが、それが震える経験を、一体私はいつしただろうか?
そう、阿部次郎は魂の生活と、肉体の生活を分けた。世の中で求められている肉体労働(ブラック!)とは別に、魂が喜ぶ生活を目指すのだと、言っている。魂がしあわせになる生活と、一致するように、できるだけ、仕事を選べと。もしそれができないなら、仕事とは別に、魂の世話をしなさいと。

心を大事に。

けど僕も、魂が震える経験、「これが僕の仕事だ」と、実はまだ言い切れていない。
いや、本当はわかっていて、それに向かっているけれども、まだ仕事にはなっていないだけかもしれない。

オトノネひろげるシェアぼたん

学校の「課題」ではない「本当の課題」をお手伝いするオトノネです。

教育の現場の方と最近話す機会があり、こういう話題になった。
Teachers do not teach. Students learn by themselves.

子どもは大人の背中をみて育つ。

という言葉がある。

たとえば今の世の中、「好きなことをしなさい」「やりたいことをやりなさい」という言葉が溢れている。
けど学校の先生は好きで学校にいるわけではないし、やりたいことをやっているわけではない。
(そのなかで生徒をちゃんとみてくれる先生と出会えたなら、しあわせだ)

思春期に教わるべきなにかを学校の先生から学ぶことはできない。いや、そんなもの教わるものでもないのだろうか。
高校卒業までにしておきたい発達の課題、は、大学まで先延ばしか。学校は学校で、自分たちの課題で忙しい。高校生の課題に付き合っている余裕はない。
何しろ、お金がないのだ。「大学進学実績」を出さなければ、予算が入らない、潰される、統合される、先生が職と名誉を失うかもしれない(自己保身)。。。。そういう恐怖と戦っている。もう教師という仕事に魅力がない。公務員試験に合格し教員になった人が、やめていく。そんなことは、かつて、絶対になかった時代は終わったらしい。試験を受けたら入れる、そんな時代になった。人材が入ってこない。人材を選べない。。。。(素晴らしい先生もいますよ、もちろん!)

大学に入ったら、大学に入ったで、みな「就活」をするという。まぁ、そりゃそうか。
生き方、世の中について教えてくれる人はいない。そんなもの教わるものでもないのだろうが。

結局、自分で気づく、自分で学ぶ、自分で道を作っていくというメタスキル をもっていないと、どこかでこの課題をやり直すことになるだろう。自立するということだ。学校からも。親からも。
親が80になってもこの課題に取り組み続ける人もいる。
そしてこういった人たちの福祉のために国は予算を削る。負の連鎖ですね。

僕も含めて、人間はそういう生き物なのだろうけれど。。

もう時代は変わって、やるべき「本当の課題」が変わったと僕には思える。
(今の僕の課題は大企業に勤めてお金を稼いで結婚して家や車を買うことではない。)

お母さんがそれを知っている場合が多い。
なぜか、オトノネにきてくれるお母さんは、それを知っている。。。
けど、「じゃぁ、実際どうしたら?」がわからないことが多い。
それを手伝うのがオトノネだ。

子どもは、だから、自分でこの道を開こうとして、友達関係を広げたり、ネット社会に溶け込んだりする。その他色々。つまるところ、社会化したり、特殊化する。個別化する。わかりやすくいえば、役割を探す。自分が溶け込むべき風景を探す。と僕には思えるのだが。

子どもは子どもで、自分でなんとかしようとしている。彼らの本当の課題に取り組もうとしている。僕は僕なりに一緒になんとかまぁできることというか見守るくらいしかできないかもだけど(やるのは本人だ)、それでも言葉をかけ、想いをかけることはできる。オトノネは、「本当の課題」に取り組もうとしている高校生を応援しています。

発達段階として適切な課題に取り組めず、「課題」に心をすり減らされているだけだとしたら、なんと苦しい高校生活だろう。

教育の現場に長く勤めていた方と最近話す機会があり、そういう話題になった。
Teachers do not teach. Students learn by themselves.

オトノネひろげるシェアぼたん

3才から心が擦り切れている子どもたち。発達「障害」の意味を捉え直す。

堕ちる、堕ちないという話をした後でこの記事を書く。

NPO法人 富山ダルクリカバリークルーズ

薬物依存症の大人が回復する取り組み。

で、ふとおもった。

人間は、いつ何時でも、その時々の、発達課題をもっている。
お父さんも、お母さんも。
ただただ仕事をこなしてお金を稼ぐ以外で、何か、あるのではないか?
それは人と出会い、人と関わり、お互いにしあわせになるような活動をしてみたり。

最近出会った人に「おとのねは塾なんですけど、心が擦り切れている高校生のためにつくったんですが、お母さんたちの話を聞いていると小学生から心が削れているようなんです」と話したら「いえいえ、3才からですよ!」と返してくれた。実際、そうかもしれない。そういう子は、いる。

到底太刀打ちできない、どだい無理な「課題」を与えられて苦しんでいるのは、高校生だけではない。
小学生も、中学生も。3歳児ですら。

苦しみを紛らわすために、大人は娯楽に走り、子どもは部活に走る。
みんなゲームをしたり、ファンタジーに耽る。(大切な「逃げ」道です)

娯楽や部活に逃げてなんとか日々をやりすごしていても、どこか空虚なものとして、やりきれなかった「課題」として残るかもしれない。
いやいや、それはもちろん、人によりけりだからなんともいえない。
とにかく「課題」に苦しんでいるのは高校生だけではないということを僕は今日、はっきり気がつけた気がする。

あなたの「課題」は、一人では、どだい無理ですか?
それを見極めないといけない。
はいはいができない子が、二本足で歩き出すのは、困難の極みだから。

発達の「障害」になるものがあるなら、なんでも発達障害といえるし、先天的に、誰もが発達障害に出会う可能性をもっているし、発達障害をもっていない人間はいない。そうやって「発達障害」をとらえ直せば、発達障害という言葉を身近に感じることはできるだろうか。

別の「障害」と出会った時に、乗り越えられる、立ち向かえる、なんとか対処できるチカラを育てる。
「障害」が障害でなくなるように助けてくれる、一緒に笑ってくれる人と出会う。
「課題」にとりくむとは、そういうことではないかと僕は思う。

不登校、成績不振は「もう無理」のサインかもしれない。
学校のしくみのなかではやっていけない、という消極的な理由ではなく、「その子の能力、感性や性格」に合わせた積極的な教育をする、育ちを支えるきっかけとして、不登校や成績不振をとらえたらいいと僕は今、おもう。

海岸組のメンバーの人の話を聞いて、いろんなことを考えたのでまた別の記事で。

オトノネひろげるシェアぼたん

「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

僕は昔、某自立学習型フランチャイズで働いていた。
家庭で、学校で、無理をしている子と出会ってきた。
そもそもが勉強以前、心が悲鳴をあげている。

が。

親も、その子の現状に気が付いていない。
(だってもうその子は悲鳴をあげる元気もない)
本人は??気づいていない。
(だってもう電気ショックで無気力になることを学習してしまっている状態だもの)
学習性無力感とは?

もうそれはその子の「正しい生き方」になってしまっていた。

「なんか変だ」
「ちがうんだ」
と思った時、学びが始まる。
学びがはじまらない人とたくさん出会ってきた。
僕自身、まだ始められていない学びもあるだろう。

そこで思い出したのが、坂口安吾の『堕落論』
こちらの青空文庫から無料で見られます!

文章は、人間がある種の理想を掲げたあと、自分の意味を見出したあと、それで?という話。最後の部分を引用します。

人間。戦争がどんなすさまじい破壊と運命をもって向うにしても人間自体をどう為しうるものでもない。戦争は終った。特攻隊の勇士はすでに闇屋となり、未亡人はすでに新たな面影によって胸をふくらませているではないか。人間は変りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。人間は堕落する。義士も聖女も堕落する。それを防ぐことはできないし、防ぐことによって人を救うことはできない。人間は生き、人間は堕ちる。そのこと以外の中に人間を救う便利な近道はない。
 戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱ぜいじゃくであり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなどは上皮だけの愚にもつかない物である。

体が壊れてから、心が壊れてから、痛みに悶えてから、闇の中に心を閉ざしてから。
堕ちることでしか、次へ進めないことがある。

失敗しないように、しないように、、、とおもっていることがそもそも堕落の始まりだったりする。
(毎日部活、課題、親に与えられた夢を背負い「しなくちゃいけないこと」で潰れていく高校生)

正しいことを貫こうとすること自体、堕落である。人間は脆弱で愚かな生き物だ。
(もちろんこの安吾の言葉は人間の堕落性を説明するために使われているのであって、人間の強さは別にあるだろう)

「ちがう」ことを認めざるを得ないところまで、人は堕落を続ける。
堕ちるところまで堕ちたところで、気がつく。と安吾はいっている。

僕自身、身体的、精神的な痛みを伴う経験がなければ人は変わらないとおもっている。

堕ちきったあとに、自分を救おうとする人のために、おとのねをつくったのかもしれない。
気が付いていない、というのはおこがましいが。

心をすり減らしながら暮らしている人が、多すぎる。
学校の先生とかね!けど学校の先生は堕ちるところまで堕ちない。堕ちないように、行政が守っているから。

健全に、堕落してみよう。
堕ちるところまで、堕ちてみよう。
そしたら気がつくかもしれない。
「課題、やっても意味ないんだ」と。

進学高校の6割以上の生徒にとっては、真実であることが、すでに科学的に統計的にデータ化されているわけですから。

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今まで依拠していた価値観を捨てることはとても難しいことだ。

「そのように」体も神経を整え、心も「そのように」なるように作られてしまった人たちがいる。
目の前の不幸が見えない。目の前の子どもが、自分の心が見えなくなっている人がいる。
習い事を無理やりさせるお父さんお母さんも、学校で平均点を取らせようとするお父さんお母さんも、同じ。

誰もがそんな状態になりうる。
(オトノネだって、オトノネの価値観の中にいる。捨てることは難しい!だから、日々つくりかえれるように、いろんな人に会い、いろんな勉強を続けている)

学校の先生も一人の弱い人間だ。
ストレスに耐え家庭を守らなければならないしくみ(ブラック)の中にいる犠牲者ということもできる。
馬の耳に念仏、というより、「あの時はわからなかった」経験を思い出すだけでいい。
そしたら学校の先生をかわいそうな人だと思い、許してあげることだってできるかもしれない。
そして、「じゃぁ自分は、どうするか」を考えたらいい。学校から自立したらいい。
もちろん、助け合えることは助け合ったらいい。

だからこそ、心を開く習慣、目の前にいる相手をそのまま見つめ、自分の心を「離し」て関わる瞬間が、大切になるのだとおもう。

堕ちることは悪いことではない。
堕ちきった後で、底を蹴って戻ってこれるだけのメタスキルと、誰かの助けがあるならば。

課題の憂さ晴らしにゲームをしたり、ショッピングセンターに行く、部活頑張る、という「ストラテジー」を確立する高校生もいる。
ブラックな仕事の後に居酒屋にいったりカラオケにいったり旅行したり、ゴルフするサラリーマンの姿が重なる。
今の高校生たちは、輝かしい未来を想像して大学に入り、社会に出て落胆しないだろうか。。。
そしたら8050問題再来!(心配事だらけでごめんなさいね)

けど彼らはそれはそれで、うまくやってるということもできる。
ストレスマネージメント!(けどそれで人生終わっていいの?大丈夫、トリックスターはこの世に存在する!と僕はおもっている)

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蛇足すぎるがこんなことを想像した。

学習性無気力の実験は、檻の中で行われた。
本当なら、本当の犬なら、こんな場所にはいない。
本当の場所にいる犬なら、試行錯誤できるし、実際にそれでなんとかなる。
なんとかならなければ、死ぬ。

学習性無気力というのは、「自然」でない状態から生まれる病かもしれない。

本当なら、本当の人間なら、こんな場所にはいない。
本当の場所にいる人間なら、試行錯誤できるし、実際にそれでなんとかなる。
なんとかならなければ、死ぬ。(いや、死にはしないだろう。人間なら、誰かが助けてくれるものだから!。。。)

学習性無気力というのは、「自然」でない状態から生まれる病かもしれない。
それが「ひきこもり」という症状であるとしたら、人間は檻の中に閉じ込められた「犬」と同じだと揶揄することもできる。

檻の中を出ればいい。
ただそれだけで、救われる命もある。

わんわん!

心が大事。

オトノネひろげるシェアぼたん

おとのねのレッスン料を決めるのが難しすぎる件

おとのねさんはいつも考えています。

お金がほしい!
本買いたい!
研究したい!
知りたいこと、やりたいことがたくさんある!
お金はチカラだ!

けどお金がない今だからこそいろんな人に出会えているのも、素敵なこと。

記事を全部書き終わって、大事なことを先に述べると
「人の価値は、お金ではない。お金に換算できない価値が人にはある。オトノネは、オトナもコドモももっている人としてのチカラを出してもらいたいとおもっている。だが、お金は必要だ。。。」です。

眠っているチカラ、使っていないチカラで人をしあわせにできませんか?

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お金の強さを使っている大手の塾の姿を見ると、「生徒って何なんだろう?」と思える部分がある。
僕にとって生徒は「しあわせをひろげてくれる仲間」であるし、僕が僕らしくいられる、学びあえる大切な「人」である。
金づるではない。

けどお金がほしい。。。
小学1年生から英語で遊べるための調べ物したい(海外の本が必要)、発達障害という名の現代症を理解したい(海外の本が必要)
グランドピアノほしい(子どもたちには本当にいい音と関わってほしいから!)、新しい本を書く気持ちもある(オリジナルな実践がなかったら売れないから出版ムズかしいと言われてお蔵入りしたことがあるけど新しいアイデアが出て来た。実践、まずは実践だけど。。)

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子どもたちが子どもらしく、命を燃やすこと、学ぶことは自然なことだ。
そこにお金のやりとりがあっていいのだろうか?とおもうこともある。
だって、空気は無料でしょ?
けれども。

食べることが自然だが、それにもお金が必要なこの時代。
「あなたはあっちで魚釣り。私はこっちで米作り」していた時代もあった。
けどれども。

それが「お金」というルールで動いている今の時代。

お金との付き合い方を僕は今学んでいる。

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無償という考え方がある。
人が、それぞれに持っているものを出し合う。
お互いにない何かを学び合う。
お金でないもので繋がる。
それは素敵なことだと感じる。

(世の中にある多くの「無料」は後でお金をとる布石である。オトノネの無料体験も、無料相談もそうだけど。。)

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オトノネさんのやっていることは他ではほとんどやっていない。
というかオトノネさんという人間を出し切っていることがレアだ。
僕が僕らしく全力で本気で人と関わるためのオトノネだ。
それが僕だけでなく、おとのねに関わる人たちにとってもそうなるようなオトノネになっていってほしい。

もしオトノネいいなとおもってくれたら、、、、
おとのねさんに会いに来てみてくっださい。

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人は皆、全員が、誰もが資本家で、投資家であり、株主だ。
コンビニでモノを買えば、コンビニは儲かる(フランャイズの代名詞のコンビニは「本部」が利益の半分をもっていく超ブラックだ)。
みんながブラック企業を支えている。

みんなのちょっとした行動を積み重ねていくと、社会ができる。

人は皆、全員が、誰もが資本家で、投資家であり、株主だ。
お金を渡された人が、チカラを得る。お金を出した人は、その見返りをもらう(チカラを与えた分、チカラをもらっていなかったら損だ)

例えば、海外旅行に行くとしよう。
儲かるのは旅行会社、航空会社、それから現地の人たち。
関わった人たちはお金というチカラをもらう。
旅行に行った人は、旅行に行ったことで何かしらのチカラをもらう。癒しとか、気分転換とか。

そういうしくみが「お金」にはある。

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高度経済成長時代に蓄えられた「お金」がある。(お金は貯められる!)
僕はそのお金を使いたい。
設備投資、見栄えの良さ、宣伝広告ではない、大切なものに使いたい。

一生懸命働いて稼いだお金、自由に使える!
その自由な気持ちで、オトノネにチカラをくれませんか?

年収の高い仕事をしている人がいる(「お金」の仕組みをしっていて稼いでいる組織のこと。見方を変えれば、誰かからお金をたくさん吸い上げている組織で働いている人。)そう、お金はゲームみたいに増やせる!
僕はお金を稼いでいる人たち(年間所得偏差値100を超えるとんでもない人たち)からもチカラをわけてほしい。

かつて、芸術が謳歌していた時代、芸術家たちにはスポンサーがいた。
教会や王宮のために宗教画を書いたり、曲をつくったり、自画像を描いたり。
世阿弥などは日本で有名だ。

おとのねに関わってくれるひとは、オトノネのスポンサーだ。

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でも「お金」以外が大切だということ、お金でないからこそ素敵な出来事が起きることも知っている。
僕は両方大切にしたい。

だからおとのねさんはいつも困っているのです。
絵本も買いたいね!お金が貯まったらね!

オトノネさんのチカラを使ってみたい人、オトノネさんを育てたい人、オトノネさんに元気になってほしい人、オトノネさんと一緒になにかやりたい人に、出会っていけたらなぁとおもっています。

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最近、とあるビジネスマンから「ビジネスは必要性をつくるところからはじめる」というような言葉を聞いた。

「必要とされていないけど必要とされるようなしくみをつくる」
「潜在的に必要とされていることを顕在化させる」という2つの言葉で、

試しに説明してみましょう・・(どちらも同じことを言っているかもしれない)

宗教という言葉は日本では誤解されがちであまり使いたくないが。。。
宗教はまず「潜在的に必要とされていることを顕在化させる」。
人が持つ「ん?どうしたものか」といった心の不安を解決するための方法を提供する。
宗教に出会って心が晴れる人がたくさんいる(仲間が欲しいだけの人もいる)

ダイエット商品も、まず「痩せているモデル」をみせるところからはじまり「痩せたい」とおもっている人たちにこうしたら痩せるよと言葉をかけることで潜在的な欲望を顕在化させる。

「今は必要とされていないけど必要とされるようなしくみをつくる」とは、
例えば文科省が小学英語を導入したことで英語産業が盛り上がる(ビジネスが始まる)ケース。
潜在意識(不安や欲望)をつくり、ビジネスをつくる。
文科省はビジネスマンだ。(政治というもの自体、ビジネスだと考えることもできる)リクルートがネット社会をいち早く雇用社会に取り入れて大学から「求人票」をなくしてしまったというやり方もある。お金が入ってくる「しくみ」をつくるタイプ。
フランチャイズの代表格、コンビニもうまく仕組みをつくりましたね。

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ビジネスのまとめ

1。潜在的な必要性を作る段階
塾業界であれば、まず「難関大学に合格していい会社に入ってお金をかせいで。。。」という価値観が、根底にある(潜在的)。社会全体の雰囲気だ(保育園のときから英語やらなきゃ!とか)。なければ作る。(経済の雑誌で「難関大ベスト10!」とか特集すればいい。)

2。必要性を顕在化させる段階
それから「うちに入ったら、合格できますよ!」という言葉で「あ、そうか、難関大に合格させるために塾にいれなくちゃ!」ということになる。

3。あわよくばそれを「しくみ」化してゆるぎない地位を築く段階(そしてその地位を守るために、1に戻る。)
塾の雰囲気を出すためにお金を使ったり、宣伝に金を使ったり。。。肝心のことには使わない?(技術系の企業であれば新しいテクノロジーをつくるための研究費にしたり。競争に勝つために。コンビニも新商品を出し続ける。あたらしい便利さ、エンターテインメントを考える)

不安を募らせるか、欲望を刺激するのが、ビジネスの基本だ。

おとのねは??

「不安にさせられている」心(1の状態)
「必要性に迫られて逼迫している」心(2の状態)
「仕組み化されてがんじがらめになっている」心(3の状態)

に大きく深呼吸をしたもらう場所だ。
刺激で疲れた心が回復する場所だ。
不安に押しつぶされそうな心を大切にする場所だ。

メタビジネス!

そう、メタビジネス!!!!!!
おとのねはお金でない価値をつくろうとしている。
人がもっているチカラが、「お金以外」にもあることを知っているから。
人が人を幸せにするのが「お金」だけではないことを知っているから。

おとのねでは、僕が大切だとおもえることを大切にしたい。

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オトノネは、ビジネスの世界との距離を学んでいるところです。
レッスン料決めないとなぁ。。。

計算式

レッスン料=h(レッスン時間,f(所得),g(お金以外の価値))
こんな感じだろうか。
年間所得の偏差値が40の人もいれば、50の人もいる。100の人もいる・・・

あなたはお金以外の価値を、もっていますか?
お金以外の価値を、オトノネで育てていきませんか?
あなたがお金以外に、人に与えられるものはなんですか?

きっとたくさん、もっているはずです。
お金以外の関わり合いだからこそ大切にできる何かを、僕は大切にしたいとおもっています。
けどお金ください!!(笑)

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行政の補助金について

補助金をもらえば利用者の負担は安くなる。
たしかにそうかもしれません。
が。

オトノネは現在、補助金をもらえるためのお金すらありません。
審査が、厳しい。。。。
条件が、厳しい。。。。

それに、補助金からも自立できるような(行政にたよらない)状況を、オトノネは目指しています。
そんなオトノネでありたいと思っています(補助がでて「安い」というだけでお金だけの価値でくる人もいるから)。

なので、補助金なしでやっていく方針です。いまのところ!いまのところ!

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉が遅れている?遅れか、障害か。そこでグンデルを使ってみる。

3歳になるが、言葉がでてこない。

ということでHPをみて相談に来てくれた。

児童発達支援の事業所を回りながらいろいろな話を聞いているとのこと。

その子と、お母さんと、お父さんと3人で来てもらった。

様子をみていると。。。
確かに、遅れている。

でもお母さんの話では、お兄ちゃんも同じように言葉が遅かったが、保育園に通い始めてから言葉がでてきたということ。
ではこの子は?保育園に最近行き始めたばかり。療育センターに通うことにもなっているが、利用できるのはまだ先で、今からでも始められるところはないかということだった。

ただの遅れなのか、それとも障害(生まれ持ったもの)なのか。
それをお父さんお母さんは気にしているところでもあった。
養護学校ではなく、普通の学校に入れるのか。。。。

ーーーー

普通の学校に入るために、普通になるためにその子に何かをするのではなく、その子の発達のために何ができるのかを僕は考える。
クシュラの物語を思い出した。(お父さんお母さん、必読です!

個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

クシュラの場合は絵本だった。
その子の場合は、何だろうか?
それを探そうとして、いくつかあそびをやった。

あれも、これも、うーん。すぐに興味が消える。
あそびが続かない。集中して何かに取り組まない。
初めてのオトノネで混乱しているからだろうか。。。。

そこでグンデルに登場してもらった。
パングルを使って音をだした。
その子も出した。
いろんな音をだす。
その子もその子なりに音をだす。

結構な時間、続いた!
お母さんに背を向けて、お母さんを離れて集中してグンデルを挟んで僕と向き合っていた。

これかも。。。

おしまいには、その子は自分でパングルを置いて、意思表示をした。
(嫌なことは嫌と首を振って言える子だ)

「これをすれば必ず」というものは教育の世界にも療育の世界にもない。(保育の世界は少し例外らしいのだが。。)
オトノネはその子の世界を開く扉を探していく方法をとる。
その扉を叩き続ける。
一人で集中してできることは何か。
しかもそこに人とのコミュニケーションが存在することはなにか。

もし障害だとしても、ただの遅れだとしても、人と非言語であってもコミュニケーションをとる経験はこれからその子の役に立つ。

何がきっかけになるかはわからない。
もってうまれた気質もある。

それを「直そう」として心が歪むこともあるだろう。

あそびに没頭できない。
言葉が出てこない。

人間の不思議を解明しようとしていろんな研究者が研究をしているところで、現場はその研究の成果をなかなか取り入れられていないのではないかと思える今日この頃。まずはワーキングメモリの研究成果を調べてみよう。

自閉症・AD/HD、精神薄弱、いろんな言い方がされてしまうがその診断も、あいまいな乳幼児に対してできることは、祈るように、その子の世界の扉を叩き続けることなのではないかと、今の所僕はおもっている。

勉強を続けたい。

ーーーー

話の流れで、その子はスマホを手にするとホーム画面からyoutubeを自分で開いて、曲を選んで再生することができるという。
実際にやってもらった。

できている。。。
しかも取り上げられるまでずっと飽きずに見ているという。
ある意味でスマホにはその子の世界が開けている。

スマホの世界には開けている。

それにしても3歳児って、スマホ使えるんだ。。。。
ゲームならわかるけど。。。

youtube がどこにあって、どうしたら何が起きてという記号の意味を知っている。
どうやって学んだのか今度聞いてみよう。(出生児体重を聞くのも忘れた)

スマホがその子の世界を開くきっかけになるか。
うまくスマホの世界を使って、現実の世界で生きるチカラを育てられるだろうか。

これはかなり先進的な研究になるのではないかとおもうが、誰かやってくれるでしょうか?
ぜひやってください。

ーーーーー

保育園に行って、今までずっと一緒だったお母さんから離れることで、「やべぇ、喋んないと」とおもって言葉をだすかもしれない。
何がきっかけになるのかはわからない。
人間の神秘的な部分を大切に、僕ができることをしていこうとおもう。

オトノネひろげるシェアぼたん