「みんなで一緒に」を喩えてみる。

僕が高校生の時、駅でぼうっとしていたときの話。
(一度、ブログで書いた気がするがまあいいや)

目の前を通り過ぎる人たち。
それぞれの思いで、それぞれの足取りで。

「もしこの人たちが、一緒に何か一つのことをやろうとしたら、どんでもないチカラになるんじゃないか」

そう、ふと、突然に、思えた。

僕は孤独だったのだ。

ーーーーー

そんなわけで、「みんな一緒」という言葉を説明してみよう。

「みんな一緒」は、パッケージツアーのようなものである。
君の見たい風景を心ゆくまで味わう時間はない。
けどツアーだからいろんなところに(せわしなく)連れて行ってくれるし、「みんな」で行くから、安くなる。

ーーーー

行動レベルでは「みんなで一緒」は可能でも、
感情のレベルで「みんなで一緒」はありえない。
そしてこの感情レベルに焦点が当てられないのが、日本の現代社会であり、近代性(時代遅れ)であろう。

ひとりひとりの成長を見守る保育園ですら、「小学校で椅子に長時間座れるように」という目標で子どもに関わっていることが多いと言う。
小学校でやりきれない課題を保育園に押し付けるのか。(小学校の先生は椅子に座れない子を「発達障害」にしてしまう)

保育園は学校の下部組織ではない。
だが、現実は、「小学生養成所」になっている場合がおおい。

小学校は「みんな一緒」に「授業」を受けられるように、子どもたちに要求する。
そうして机の「中」に引きこもって神経をやられる子どもたちがいる。

「みんな一緒」が悪いとはいわないが、それが「当たり前」になってしまった子どもたちの多くが、中学校、高校で苦しんでいる姿がある。

「みんな一緒」は大人たちが作り出した価値である。
その価値観で、子どもは「3歳から」育てられているらしい(3才の不登校(不登園?)児がいるという)。
「子ども」時代を知らずに「大人」にさせられていく多くの子どもたちが、「いやいや、無理無理」というサインを出している。

そんな子どもたちが「集団旅行パック」から離れ、自分で旅を始められるように、自分の一歩を進めるように、お手伝いをしていくのがおとのねです。学校は、利用する場所であって、「みんなが」「同じように」行かなくてはいけない場所ではありません。

——

「みんなで一緒に」の価値をどこかで感じるために、「みんなで一緒に」の中で潰れないように。
バランスが大切。順序が大切。心が大切。

自分の心を「ちゃんと」大切にできる人間が、誰かの心を「大切に」できない道理はない。

行動レベルでの関わり方に、偏っていないだろうか。
おとのねさんの話し方(人は税金と保険料と教育費と家のローンを稼ぐ動物か)

オトノネひろげるシェアぼたん

おとのねさんの話し方(人は税金と保険料と教育費と家のローンを支払う動物か)

話し方にはいろいろある。

いろんな分類ができる。

感情レベル
認知レベル
行為レベル

例えば、幼児期の子ども

感情レベルでは、「痛かったね」「嫌だったね」「悲しかったね」「楽しいね」といった感情と言葉を結びつけることとか
認知レベルでは、「あ、ほら、あそこに何々がいるよ」とか「待っているからね、ゆっくりでいいよ」とか
行為レベルでは、「おしっこしてくる?」「ほら、カバン入れるの忘れてるよ」とか
行為レベルのほとんどが、実は子どもからの応答になることが多いのだが。。

具体例をみればわかるように、
3つを厳密には区別できないくらい、つながっている。
特に近接する感情と認知、認知と行為の言葉の繋がりは大きい。

例えば、悩める高校生の話

例えば学校ではこういうことを言われるだろう
行為レベル「これをしなさい」「あれをしなさい」「君は補習だ(来なさい)」
認知レベル「この参考書は今頃、◯周目に入っているものだ」「うちの高校は多くの優秀な人材を…」
感情レベル、思いつきません。

人によって、状況によって、どのレベルで話をしらたいいか、どのレベルなら、今、受け取れるかを、伝えられるかを考えて、僕は話のレベルを変える。
今その状況では「感情レベル」や「行為レベル」を伝えない方がいい場合が多い。
小さい子であれば、「認知レベル」での話もできない可能性がある。(話して聞かせることができても、対話ができない場合、話をせずに、非言語で関わりあうことを僕はする)

僕が喋るほとんどが「認知」レベルの話だし、このブログにつらつらと書きとどめているのも「認知」レベルの話がほとんどだ。
(そしてできるだけ「感情」レベルの内言に触れるようにしているつもりだ)

ーーーーーー

その点、純粋な物語(教訓とかそんなものが含まれていない不思議なもの)は、どのレベルにも等距離にあって、聞く人を「誘う」だろう。
「導く」「任せる」「誘う」。ご招待。

読み手に多くのことを「誘う」。
何も感じない人には感じない。
話しての、書き手の話し方、書き方によって感じれないだけかもしれない。

「任せる」という言葉が少し消極的であるとしたら、
「誘う」は積極的な意味を含めている。

話し手は、書き手、は、「任せる」以前に「誘う」ように、話し方を、書き方を強めていったらいい。
そうすることで多くの心が動くから。

ーーーーーーー

大きなスケールで考えてみよう。

行動レベルで、視点を大きくしてみようとしてみよう。
大きな時間の中で、考えてみよう。(例を出すだけで、もちろん別の言葉を考えることもできます)
学校や保育園の先生、お父さんお母さん、いろんな人がいろんな「行動レベル」の言葉を使っていると僕はおもう。

就学以前は?子どもが小学生になって、「椅子に座っていられるように」「宿題ができるように」「一人でもできるように(自立)」
小学生は?「先生にいわれたことをするように」「テストで悪い点をとらないように」「友達とたくさん遊べるように」
高校生は?「いい大学にいけるように」「あなたは、◯◯センターに行きなさい」社会に出て、「いい会社に行けるように」「会社を選べるように」

行動レベルで触れる多くは、他者からの言葉がけであるように感じた。

認知レベルでみてみよう。
就学以前は?「」

おとのねさんは今ふとおもった。
行動レベルの言葉をマクロで考えると、どこか「目標」めいたものがでてくる。しかもそれが「子どもの心と離れている」言葉が多いようにおもえる。(僕の頭がそうなっている)

認知レベルの言葉をマクロにするとどうなるか。

再度挑戦。

認知レベルでみてみよう。(言葉を使う人を、本人の内言とする)
就学以前は?「いろんな失敗はあるかもだけど、助けてくれる人がいる」「「やらなきゃいけないこと」をやったら、あそべる!」
小学生は?「世の中おもしろいことはたくさんある」「学校はつまんないことが多いけど、友達と会えるのはここしかない」「お父さんお母さんはこういう人間だから、私はこういう作戦でお父さんお母さんと関わろう」
高校生は?「僕たちの青春は、漆黒のブラックに染まっている」「課題の海で溺れている」「わけがわからない」「しゃーなしや!」

拙い例しかでてこなくて申し訳がない。
認知レベルはどこか「世界観」「世界のルール」、性格に関わってくるように思える。

感情レベルは?(内言として考えました)
「◯◯たのしい!」「◯◯したい!」「◯◯、行きたい!」「◯◯嫌だ!」「◯◯つらい…」

この部分は、未就学児でも高校生でも変わらないような気がする。
心に一番近い部分だからだだろうか。

うーん。

ーーーーーー

抽象化するのも少し気がひけるが、
愛とはなにか?

感情とは、「情(心的エネルギー)を感じる」チカラであって、得体の知れぬ「気持ち」を表すだけではない。
感情豊かに、という言葉がその使用例。
そうすると、感情的に、という言葉は心的エネルギーを感じながら、という意味になる。

多くの心の「症状」はこの心的エネルギーがうまく「まわらない」「だせない」ことで起きてくるようにおもう。
情を感じるチカラで、心を大事にしてほしいと、僕はおもう。

ーーーーーーー

子ども時代は、厳しい現実から離れて、大人から守られている。
(大人ほどに現実の厳しさはない。愛をたくさんもらえる)

だからこそ、大人が作り出した環境が大切になる。そうでしょう?

「子ども時代」が長引くようになったこの世の中で、大人は、きちんと大人としての責任を自覚しているだろうか。

保育園卒業時の目標が「椅子に長時間座れること」だとしたら、認知レベルはどうなっているのか?感情レベルはどうなっているのか?小学校で子どもが突き当たるであろう困難さ、試練に対して、就学以前にどんな知恵を、振る舞いを与えて、自立していってもらうか。

願いであり祈りの言葉がけ。

おとのねさんは、「今目の前の状況に困っている」ことは、「死ぬまでの間にもう何度か出会うであろう困難さ」と向き合うための学びを得られる場所だとおもっています。だからそれは「行為レベル」であるよりも、「認知レベル」であることが多いし、「感情レベル」で感じてもらった方がいいこともある、ということを考えます。

おとのねさんは「こうすればああなる」という世界ではないという認識をしています。
不確定、不安の時代だから、です。日本が。

ーーーーーーーー

AI、AIというが、もしそう言う時代になったら、行為レベルの関わり合いが強まるきがする。認知レベルも強まるだろう(AIの得意分野だ。ただ、データの外にある認知には疎い!)、そして、心の部分が、削がれていくだろう(インターネット上で「心」の現象を再現できても、どれもインターネットという限界を超えることができない。AIが進化するための条件、ビッグデータにどれだけ「心」が含まれているか)。

Siriを引き合いに出して申し訳ないが

「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「深呼吸をして、温かいお茶を飲んでみてください(行為レベル)」
「この前もそんなこと言ってたよね」
「てへへ」

「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「それはこうこうこういうことだからだとおもいます(認知レベル)」
「いやそれはわかっているんだけどさぁ」
「てへへ」

「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「嫌だったのですね(感情レベル)」
「そうそう、僕の愚痴を聞いてくれるかい?」
「聞きますよ」

…そうしていろんなパターンを学びながら、フィードバックを受けながら、人の心と関わる機械が生まれるかもしれない。
かもしれない!かもね。けどそこに限界があると僕には思う。これから、人間が機械に近づいて行かない限りは…

機械の限界の中でしか暮らせない人間がいたとしたら、少し、僕にとっては、おもしろくない。

ーーーーーーーーーーーー

人は、税金と保険料と教育費と家のローンを稼ぐ動物か。
大切なものを、大事にしていたら、お金に追われながらも、時間に追われながらお、しあわせになれはしないかと、僕はおもっている。
お金とどう関わるか、どのように死ぬか、そうした一人一人の人生観を、死生観を、子どもに伝えていけないだろうか。
(そのグランドデザインをつくる学校という場所が、病気だから、お父さんお母さんがしっかりしたほうがいい)

けど人はひとりひとり違う(課題がちがう。大抵、お父さんお母さんのやり残した課題に再び取り組む場合が多い)

この時代に生まれ、生きているというオリジナリティーもある。

だから、その子が進もうとしている場所に、一歩踏み出すだけでいい。と僕はおもう。

踏み出した先でまた、その子なりに取り組めるように。
同じところをぐるぐる回っている子(あ、これはあの時の繰り返しだと気づいた子)がいたら、オトノネさんはたぶん役に立つ。

非言語で。
言語で。

「教えるべきこと」と「教えてはいけないこと」を、今でもまだ考え続けている。

オトノネひろげるシェアぼたん

《企業からみた大学》同じ中堅なら、地方国立よりも、都会の私立の方がいい?高校は?

お金があるなら…

いや、お金には変えられない価値があるかもしれない。

私立大学に3人の子どもを送ったお母さんの話。

「私立大学、学費は高いけど、それなりのいいことをしている」という話。

私立の方がおもしろい、フレッシュだ。生き残ろうとしている分、学生のことを考えている。というお話。

施設が整っている。
資格検定のお世話やら、イベントごとの案内。
なにかしら、やはり「時代に合わせて」変わっているのが私立だ、というお話。

本来の「アカデミック」のチカラが強まっているわけではないかもしれない。
ゼミは、国立に比べたら大人数だという(実際のところはわからないが)。

新しい学部をつくったり、外部の講師がきたり。
自立しなくてはならない。(国から補助で運営されている公立大学とはちがう)
だから、私立は、時代にあっている。ということもできる。

——————-

私立、高校のお話。

都会では小学校、中学校、高校といろんな私立学校があり、それぞれの「特色」をもっている。
受験勉強をさせ続ける私立学校もある。(そんな私立に行かせる価値があるのかわからない)

これが、巷で有名な開成中学校校長の言葉。
「入試は通過点にすぎない」開成中高校長が語る

あ、途中から有料ですね。
無料登録で月3本まで記事が観れるそうです。おすすめします。

とにかく開成中学は受験受験ではないよ。というお話。

こんな記事も見つけた。
人事がぶっちゃける「すごい高校」 高校で採用を決める時代がやってきた

はっと思うことがあった。

企業が、会社が、今の組織が求めているもののなかに「地頭」があるらしい。

部活部活で部活ばかりした後に、もしそれで部活をしながら地頭を鍛えていたとしたら、、、、
企業はそれを会社で育ててくれるのだろう。

そういうパターンもあると。
(うーん、すごい時代になってきた)

あ、これ、オトノネですね。

B氏:何かに熱中させてやり切らせることはすごい重要です。面接の時には「お前の狂気を見せてくれ」と投げかけてます。対象はなんでもいいんですよ。なぜかレンガがとにかく好きで、30分ずっと語れる、なんて人もいる。そんなことでも、ハマればすごい人材になるんですよ。

こういう人を、認めてくれる人に出会わないと、この「価値」がでてこない。
育てるということは、そういうことではないかとおもう。
よくある学校は「君はこれをやりきるチカラ(目の前に課題、小テストがある)があるか?」という労働者としての「価値」だけしかみていない気がするが。「そうではない!」という先生、ぜひコメントください!(おとのねさんが出会う人が喋る「学校」は、そんな場所です)

種を守るために、種を下ろす地面を、選んで行くチカラが大切かもしれない。
(マックでは「素早く正確にハンバーガーをつくるチカラ」が表彰される。そうして認めてあげることでアルバイトのやる気をださせているという仕組みがある。人が、人をつくる。)

「みている人」が、「みられている人」をつくる。

 高校って、多くの人にとっては初めて自分で選択できる環境だと思うんですよ。私立なのか公立なのか、地元か寮生活か。その自分が選んだ環境で、自分の世界を広げる経験があるといい。大学でもできるでしょうが、やっぱり早いほうがいい。

富山県、石川県の学校で「うちは、こういう教育をしている」という話を「具体的に」企業に話して、「それはすごい!」と感動してもらえる場所があるだろうか。

オトノネひろげるシェアぼたん

保育も教育も療育もすべて子(個)別性が大事。心が大事。

「そういえば、発達障害をもっている子のための保育案ってあるのかな?いわゆる健常児ならいついつころにはこれこれができるようになるからといって保育案(指導案)が作られるんだけど」という疑問を持ち、とあるFBグループ上で質問をしてみた。

そうしたら、ああ、なるほど、と思えるコメントをたくさんもらえた!
SNSをやっていて、SNSのよさを感じれた。うれしく、ありがたくおもえた。

で。

ーーーー

療育とは何か、発達障害と診断された子に対して大人はどういう気持ちで、心で関わったらいいか。
その心構えを書いている文書を紹介してもらったのでここでも紹介したいです。

発達が気になる子が過ごす地域の支援者様へ(倉敷市社会福祉部障がい福祉課)

この中で、やはりこの一文が響く

発達に特性がある児童が「療育」を利用するだけですべての課題が改善するわけではありません。(略)倉敷市は市内の事業所に対して、「本人の特性や物事の学び方を、家族や地域の支援者が理解し、成人期において、地域で自分らしく自立した暮しができるようになる」ことを療育の目的.....として支援するよう求めていますので、(以下略)

これは療育の目的というより、教育、保育の目的、人間の目的ではないのか。

別の子の経験が他の子に役立つわけでもなく、いつなにをするかも時期もまちまち。
「定型」を超えてその子が今求めているものに、発達しようとしているものに(自閉症、ADHDの子ももちろん発達する)目を向けてみる。

コメントをくれた方へのおとのねさんのコメント返しは次のようでした。

ありがとうございます。長い間、私の声に耳を傾けてくださったことに心から感謝しています。倉敷市の文書を読み、これは僕の考えている保育や教育、療育すべてにいえる指針のように思えました。オーダーメイド、ひとりひとりに焦点を当てたものと考えれば、児童の福祉にとどまらない、大人にとっても大切なことだと思いました。発達支援の勉強を深めながら、教育の畑で関わりきれなかった子どもたちと関わりあう知恵を、集めていきたいと、ああ、溢れるくらい感動しました。僕は勉強します。勉強します。たくさんの勇気をいただきました。ありがとうございました!

自分らしく自立する。
大人になっても、人は育ち続けている。
お互いの分子間力で、価電子を介した結合で、近づき、関わり合いながら。

ーーーー

個別指導塾はかず多くあるが、結局やること喋ることは同じなことが多い気がしませんか?
オトノネは、完全子別です。あ、名刺が世間体気にして「個別」になってたけど、「子別」になおそうとおもった。

保育の現場では、0から1才は「個人案」がある。けどそれ以降も、先生たちの間では「個人案」が作られ続ける。
療育は現場では「個人案」がつくられる。(建前だけの案をつくる事業所もあるが)
教育の現場では「授業案」が作られる。職員室では生徒の悪口と愚痴が飛び交う。(いい先生もいるよ!もちろん!)

そう、学校教育の校舎と校庭のモデルは監獄と軍隊(史実だから、許してね!)。
しくみは工場のベルトコンベアで最後には無理やり卒業させられる(酷い言い方かもだけど、許してね!)。
産業革命以降の大量生産性、均一な品質管理に悲鳴をあげている0から18才のためのオトノネです。

けどそれが日本のスタンダード。
その中で「あなた」はどう生きるか。僕は、どうやって生きようか。。。

心が大事。

教育基本法にあるごちゃごちゃした教育の目的よりか、倉敷市の療育の目的を指針にしたほうがよいかもしれない。
そして学校の現場は、やはり、法律違反(スクール・ヴァイオレーション)をしているけれど、人間だから仕方がない。

自分の身は自分でまもろう。自分の命は、自分で燃やそう。大丈夫。燃やし続けていれば、きっと、君の光をみつけてくれる仲間と出会えるから。DVの加害者を罰する法はない。逃げるしかない。身を守るしかない。

第一章 教育の目的及び理念
(教育の目的)
第一条 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
(教育の目標)
第二条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
三 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
四 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
五 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

ちなみに学校教育法はこちら

第二十一条 義務教育として行われる普通教育は、教育基本法(平成十八年法律第百二十号)第五条第二項に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。

学校の先生は、果たして自主、自立及び協同の精神をもっているのかしらん(現場の先生も、大変なんです。許してあげてください)。

第六章 高等学校
第五十条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達及び進路に応じて、高度な普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。
第五十一条 高等学校における教育は、前条に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一 義務教育として行われる普通教育の成果を更に発展拡充させて、豊かな人間性、創造性及び健やかな身体を養い、国家及び社会の形成者として必要な資質を養うこと。
二 社会において果たさなければならない使命の自覚に基づき、個性に応じて将来の進路を決定させ、一般的な教養を高め、専門的な知識、技術及び技能を習得させること。
三 個性の確立に努めるとともに、社会について、広く深い理解と健全な批判力を養い、社会の発展に寄与する態度を養うこと。

国立大学、東大に進路を限定しようとする先生たちに、個性って何か聞いてみよう。高校で個性を確立することに努めるってどういうことか、聞いてみよう。(大丈夫です。日本は法治国家だから、答えてくれるはず!)

オトノネひろげるシェアぼたん

好きなことを仕事にする?の意味。『三太郎の日記』

iPS細胞を自前でつくった山中伸弥教授は世の中のために研究をしていたか。

と聞かれたら、いやいや、ただ、楽しかった、やりたかった、つくってみたかった、という純粋な遊びごころで研究していたんだろう。

表向きは、社会貢献とか、いろんな飾りをつけられても。
人の役にたつこと?いやいや、自分が好きだからやったんだよ。

結局は、何かを成し遂げるときは、情熱、ロマン、遊び心、本気になれる純粋な何かに向き合うメタスキルが大切になってくる。

そういう話を、した。

かつて阿部次郎の『三太郎日記』を塾の先生から借りて読んで読みきれなかった。
けどそこにこんなことが書いてあったらしい。

生きるための職業は、魂の生活と一致するものを選ぶことを第一にする。

けど、そこでこう言われた。
「魂の生活ってのが何かわかりませんよ。私自身、魂が震えるような経験をしたことがないですからね!」

そうだ、雪をみたことがなければ、雪がどんなものかわからない。
自分の心を知らなければ、心がどんなものかわからない。

もちろん、ほんとうにわかるなど到底できない心であるが、それが震える経験を、一体私はいつしただろうか?
そう、阿部次郎は魂の生活と、肉体の生活を分けた。世の中で求められている肉体労働(ブラック!)とは別に、魂が喜ぶ生活を目指すのだと、言っている。魂がしあわせになる生活と、一致するように、できるだけ、仕事を選べと。もしそれができないなら、仕事とは別に、魂の世話をしなさいと。

心を大事に。

けど僕も、魂が震える経験、「これが僕の仕事だ」と、実はまだ言い切れていない。
いや、本当はわかっていて、それに向かっているけれども、まだ仕事にはなっていないだけかもしれない。

オトノネひろげるシェアぼたん

学校の「課題」ではない「本当の課題」をお手伝いするオトノネです。

教育の現場の方と最近話す機会があり、こういう話題になった。
Teachers do not teach. Students learn by themselves.

子どもは大人の背中をみて育つ。

という言葉がある。

たとえば今の世の中、「好きなことをしなさい」「やりたいことをやりなさい」という言葉が溢れている。
けど学校の先生は好きで学校にいるわけではないし、やりたいことをやっているわけではない。
(そのなかで生徒をちゃんとみてくれる先生と出会えたなら、しあわせだ)

思春期に教わるべきなにかを学校の先生から学ぶことはできない。いや、そんなもの教わるものでもないのだろうか。
高校卒業までにしておきたい発達の課題、は、大学まで先延ばしか。学校は学校で、自分たちの課題で忙しい。高校生の課題に付き合っている余裕はない。
何しろ、お金がないのだ。「大学進学実績」を出さなければ、予算が入らない、潰される、統合される、先生が職と名誉を失うかもしれない(自己保身)。。。。そういう恐怖と戦っている。もう教師という仕事に魅力がない。公務員試験に合格し教員になった人が、やめていく。そんなことは、かつて、絶対になかった時代は終わったらしい。試験を受けたら入れる、そんな時代になった。人材が入ってこない。人材を選べない。。。。(素晴らしい先生もいますよ、もちろん!)

大学に入ったら、大学に入ったで、みな「就活」をするという。まぁ、そりゃそうか。
生き方、世の中について教えてくれる人はいない。そんなもの教わるものでもないのだろうが。

結局、自分で気づく、自分で学ぶ、自分で道を作っていくというメタスキル をもっていないと、どこかでこの課題をやり直すことになるだろう。自立するということだ。学校からも。親からも。
親が80になってもこの課題に取り組み続ける人もいる。
そしてこういった人たちの福祉のために国は予算を削る。負の連鎖ですね。

僕も含めて、人間はそういう生き物なのだろうけれど。。

もう時代は変わって、やるべき「本当の課題」が変わったと僕には思える。
(今の僕の課題は大企業に勤めてお金を稼いで結婚して家や車を買うことではない。)

お母さんがそれを知っている場合が多い。
なぜか、オトノネにきてくれるお母さんは、それを知っている。。。
けど、「じゃぁ、実際どうしたら?」がわからないことが多い。
それを手伝うのがオトノネだ。

子どもは、だから、自分でこの道を開こうとして、友達関係を広げたり、ネット社会に溶け込んだりする。その他色々。つまるところ、社会化したり、特殊化する。個別化する。わかりやすくいえば、役割を探す。自分が溶け込むべき風景を探す。と僕には思えるのだが。

子どもは子どもで、自分でなんとかしようとしている。彼らの本当の課題に取り組もうとしている。僕は僕なりに一緒になんとかまぁできることというか見守るくらいしかできないかもだけど(やるのは本人だ)、それでも言葉をかけ、想いをかけることはできる。オトノネは、「本当の課題」に取り組もうとしている高校生を応援しています。

発達段階として適切な課題に取り組めず、「課題」に心をすり減らされているだけだとしたら、なんと苦しい高校生活だろう。

教育の現場に長く勤めていた方と最近話す機会があり、そういう話題になった。
Teachers do not teach. Students learn by themselves.

オトノネひろげるシェアぼたん

おとのねのレッスン料を決めるのが難しすぎる件

おとのねさんはいつも考えています。

お金がほしい!
本買いたい!
研究したい!
知りたいこと、やりたいことがたくさんある!
お金はチカラだ!

けどお金がない今だからこそいろんな人に出会えているのも、素敵なこと。

記事を全部書き終わって、大事なことを先に述べると
「人の価値は、お金ではない。お金に換算できない価値が人にはある。オトノネは、オトナもコドモももっている人としてのチカラを出してもらいたいとおもっている。だが、お金は必要だ。。。」です。

眠っているチカラ、使っていないチカラで人をしあわせにできませんか?

ーーーー

お金の強さを使っている大手の塾の姿を見ると、「生徒って何なんだろう?」と思える部分がある。
僕にとって生徒は「しあわせをひろげてくれる仲間」であるし、僕が僕らしくいられる、学びあえる大切な「人」である。
金づるではない。

けどお金がほしい。。。
小学1年生から英語で遊べるための調べ物したい(海外の本が必要)、発達障害という名の現代症を理解したい(海外の本が必要)
グランドピアノほしい(子どもたちには本当にいい音と関わってほしいから!)、新しい本を書く気持ちもある(オリジナルな実践がなかったら売れないから出版ムズかしいと言われてお蔵入りしたことがあるけど新しいアイデアが出て来た。実践、まずは実践だけど。。)

ーーーー

子どもたちが子どもらしく、命を燃やすこと、学ぶことは自然なことだ。
そこにお金のやりとりがあっていいのだろうか?とおもうこともある。
だって、空気は無料でしょ?
けれども。

食べることが自然だが、それにもお金が必要なこの時代。
「あなたはあっちで魚釣り。私はこっちで米作り」していた時代もあった。
けどれども。

それが「お金」というルールで動いている今の時代。

お金との付き合い方を僕は今学んでいる。

ーーーーー

無償という考え方がある。
人が、それぞれに持っているものを出し合う。
お互いにない何かを学び合う。
お金でないもので繋がる。
それは素敵なことだと感じる。

(世の中にある多くの「無料」は後でお金をとる布石である。オトノネの無料体験も、無料相談もそうだけど。。)

ーーーーー

オトノネさんのやっていることは他ではほとんどやっていない。
というかオトノネさんという人間を出し切っていることがレアだ。
僕が僕らしく全力で本気で人と関わるためのオトノネだ。
それが僕だけでなく、おとのねに関わる人たちにとってもそうなるようなオトノネになっていってほしい。

もしオトノネいいなとおもってくれたら、、、、
おとのねさんに会いに来てみてくっださい。

ーーーーー

人は皆、全員が、誰もが資本家で、投資家であり、株主だ。
コンビニでモノを買えば、コンビニは儲かる(フランャイズの代名詞のコンビニは「本部」が利益の半分をもっていく超ブラックだ)。
みんながブラック企業を支えている。

みんなのちょっとした行動を積み重ねていくと、社会ができる。

人は皆、全員が、誰もが資本家で、投資家であり、株主だ。
お金を渡された人が、チカラを得る。お金を出した人は、その見返りをもらう(チカラを与えた分、チカラをもらっていなかったら損だ)

例えば、海外旅行に行くとしよう。
儲かるのは旅行会社、航空会社、それから現地の人たち。
関わった人たちはお金というチカラをもらう。
旅行に行った人は、旅行に行ったことで何かしらのチカラをもらう。癒しとか、気分転換とか。

そういうしくみが「お金」にはある。

ーーーーー

高度経済成長時代に蓄えられた「お金」がある。(お金は貯められる!)
僕はそのお金を使いたい。
設備投資、見栄えの良さ、宣伝広告ではない、大切なものに使いたい。

一生懸命働いて稼いだお金、自由に使える!
その自由な気持ちで、オトノネにチカラをくれませんか?

年収の高い仕事をしている人がいる(「お金」の仕組みをしっていて稼いでいる組織のこと。見方を変えれば、誰かからお金をたくさん吸い上げている組織で働いている人。)そう、お金はゲームみたいに増やせる!
僕はお金を稼いでいる人たち(年間所得偏差値100を超えるとんでもない人たち)からもチカラをわけてほしい。

かつて、芸術が謳歌していた時代、芸術家たちにはスポンサーがいた。
教会や王宮のために宗教画を書いたり、曲をつくったり、自画像を描いたり。
世阿弥などは日本で有名だ。

おとのねに関わってくれるひとは、オトノネのスポンサーだ。

ーーーーー

でも「お金」以外が大切だということ、お金でないからこそ素敵な出来事が起きることも知っている。
僕は両方大切にしたい。

だからおとのねさんはいつも困っているのです。
絵本も買いたいね!お金が貯まったらね!

オトノネさんのチカラを使ってみたい人、オトノネさんを育てたい人、オトノネさんに元気になってほしい人、オトノネさんと一緒になにかやりたい人に、出会っていけたらなぁとおもっています。

ーーーー

最近、とあるビジネスマンから「ビジネスは必要性をつくるところからはじめる」というような言葉を聞いた。

「必要とされていないけど必要とされるようなしくみをつくる」
「潜在的に必要とされていることを顕在化させる」という2つの言葉で、

試しに説明してみましょう・・(どちらも同じことを言っているかもしれない)

宗教という言葉は日本では誤解されがちであまり使いたくないが。。。
宗教はまず「潜在的に必要とされていることを顕在化させる」。
人が持つ「ん?どうしたものか」といった心の不安を解決するための方法を提供する。
宗教に出会って心が晴れる人がたくさんいる(仲間が欲しいだけの人もいる)

ダイエット商品も、まず「痩せているモデル」をみせるところからはじまり「痩せたい」とおもっている人たちにこうしたら痩せるよと言葉をかけることで潜在的な欲望を顕在化させる。

「今は必要とされていないけど必要とされるようなしくみをつくる」とは、
例えば文科省が小学英語を導入したことで英語産業が盛り上がる(ビジネスが始まる)ケース。
潜在意識(不安や欲望)をつくり、ビジネスをつくる。
文科省はビジネスマンだ。(政治というもの自体、ビジネスだと考えることもできる)リクルートがネット社会をいち早く雇用社会に取り入れて大学から「求人票」をなくしてしまったというやり方もある。お金が入ってくる「しくみ」をつくるタイプ。
フランチャイズの代表格、コンビニもうまく仕組みをつくりましたね。

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ビジネスのまとめ

1。潜在的な必要性を作る段階
塾業界であれば、まず「難関大学に合格していい会社に入ってお金をかせいで。。。」という価値観が、根底にある(潜在的)。社会全体の雰囲気だ(保育園のときから英語やらなきゃ!とか)。なければ作る。(経済の雑誌で「難関大ベスト10!」とか特集すればいい。)

2。必要性を顕在化させる段階
それから「うちに入ったら、合格できますよ!」という言葉で「あ、そうか、難関大に合格させるために塾にいれなくちゃ!」ということになる。

3。あわよくばそれを「しくみ」化してゆるぎない地位を築く段階(そしてその地位を守るために、1に戻る。)
塾の雰囲気を出すためにお金を使ったり、宣伝に金を使ったり。。。肝心のことには使わない?(技術系の企業であれば新しいテクノロジーをつくるための研究費にしたり。競争に勝つために。コンビニも新商品を出し続ける。あたらしい便利さ、エンターテインメントを考える)

不安を募らせるか、欲望を刺激するのが、ビジネスの基本だ。

おとのねは??

「不安にさせられている」心(1の状態)
「必要性に迫られて逼迫している」心(2の状態)
「仕組み化されてがんじがらめになっている」心(3の状態)

に大きく深呼吸をしたもらう場所だ。
刺激で疲れた心が回復する場所だ。
不安に押しつぶされそうな心を大切にする場所だ。

メタビジネス!

そう、メタビジネス!!!!!!
おとのねはお金でない価値をつくろうとしている。
人がもっているチカラが、「お金以外」にもあることを知っているから。
人が人を幸せにするのが「お金」だけではないことを知っているから。

おとのねでは、僕が大切だとおもえることを大切にしたい。

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オトノネは、ビジネスの世界との距離を学んでいるところです。
レッスン料決めないとなぁ。。。

計算式

レッスン料=h(レッスン時間,f(所得),g(お金以外の価値))
こんな感じだろうか。
年間所得の偏差値が40の人もいれば、50の人もいる。100の人もいる・・・

あなたはお金以外の価値を、もっていますか?
お金以外の価値を、オトノネで育てていきませんか?
あなたがお金以外に、人に与えられるものはなんですか?

きっとたくさん、もっているはずです。
お金以外の関わり合いだからこそ大切にできる何かを、僕は大切にしたいとおもっています。
けどお金ください!!(笑)

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行政の補助金について

補助金をもらえば利用者の負担は安くなる。
たしかにそうかもしれません。
が。

オトノネは現在、補助金をもらえるためのお金すらありません。
審査が、厳しい。。。。
条件が、厳しい。。。。

それに、補助金からも自立できるような(行政にたよらない)状況を、オトノネは目指しています。
そんなオトノネでありたいと思っています(補助がでて「安い」というだけでお金だけの価値でくる人もいるから)。

なので、補助金なしでやっていく方針です。いまのところ!いまのところ!

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言葉が遅れている?遅れか、障害か。そこでグンデルを使ってみる。

3歳になるが、言葉がでてこない。

ということでHPをみて相談に来てくれた。

児童発達支援の事業所を回りながらいろいろな話を聞いているとのこと。

その子と、お母さんと、お父さんと3人で来てもらった。

様子をみていると。。。
確かに、遅れている。

でもお母さんの話では、お兄ちゃんも同じように言葉が遅かったが、保育園に通い始めてから言葉がでてきたということ。
ではこの子は?保育園に最近行き始めたばかり。療育センターに通うことにもなっているが、利用できるのはまだ先で、今からでも始められるところはないかということだった。

ただの遅れなのか、それとも障害(生まれ持ったもの)なのか。
それをお父さんお母さんは気にしているところでもあった。
養護学校ではなく、普通の学校に入れるのか。。。。

ーーーー

普通の学校に入るために、普通になるためにその子に何かをするのではなく、その子の発達のために何ができるのかを僕は考える。
クシュラの物語を思い出した。(お父さんお母さん、必読です!

個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

クシュラの場合は絵本だった。
その子の場合は、何だろうか?
それを探そうとして、いくつかあそびをやった。

あれも、これも、うーん。すぐに興味が消える。
あそびが続かない。集中して何かに取り組まない。
初めてのオトノネで混乱しているからだろうか。。。。

そこでグンデルに登場してもらった。
パングルを使って音をだした。
その子も出した。
いろんな音をだす。
その子もその子なりに音をだす。

結構な時間、続いた!
お母さんに背を向けて、お母さんを離れて集中してグンデルを挟んで僕と向き合っていた。

これかも。。。

おしまいには、その子は自分でパングルを置いて、意思表示をした。
(嫌なことは嫌と首を振って言える子だ)

「これをすれば必ず」というものは教育の世界にも療育の世界にもない。(保育の世界は少し例外らしいのだが。。)
オトノネはその子の世界を開く扉を探していく方法をとる。
その扉を叩き続ける。
一人で集中してできることは何か。
しかもそこに人とのコミュニケーションが存在することはなにか。

もし障害だとしても、ただの遅れだとしても、人と非言語であってもコミュニケーションをとる経験はこれからその子の役に立つ。

何がきっかけになるかはわからない。
もってうまれた気質もある。

それを「直そう」として心が歪むこともあるだろう。

あそびに没頭できない。
言葉が出てこない。

人間の不思議を解明しようとしていろんな研究者が研究をしているところで、現場はその研究の成果をなかなか取り入れられていないのではないかと思える今日この頃。まずはワーキングメモリの研究成果を調べてみよう。

自閉症・AD/HD、精神薄弱、いろんな言い方がされてしまうがその診断も、あいまいな乳幼児に対してできることは、祈るように、その子の世界の扉を叩き続けることなのではないかと、今の所僕はおもっている。

勉強を続けたい。

ーーーー

話の流れで、その子はスマホを手にするとホーム画面からyoutubeを自分で開いて、曲を選んで再生することができるという。
実際にやってもらった。

できている。。。
しかも取り上げられるまでずっと飽きずに見ているという。
ある意味でスマホにはその子の世界が開けている。

スマホの世界には開けている。

それにしても3歳児って、スマホ使えるんだ。。。。
ゲームならわかるけど。。。

youtube がどこにあって、どうしたら何が起きてという記号の意味を知っている。
どうやって学んだのか今度聞いてみよう。(出生児体重を聞くのも忘れた)

スマホがその子の世界を開くきっかけになるか。
うまくスマホの世界を使って、現実の世界で生きるチカラを育てられるだろうか。

これはかなり先進的な研究になるのではないかとおもうが、誰かやってくれるでしょうか?
ぜひやってください。

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保育園に行って、今までずっと一緒だったお母さんから離れることで、「やべぇ、喋んないと」とおもって言葉をだすかもしれない。
何がきっかけになるのかはわからない。
人間の神秘的な部分を大切に、僕ができることをしていこうとおもう。

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思春期と中学校と高校の違いと子どもの可能性と個別化と。

人はどこまで遺伝子に左右されるか

この記事にコメントをいただき、考えが深まった。
僕なりに。(コメントを書いてくれた人のオモイとは違うかもしれないけれど)

教育の領分。

というより、中等教育までと高等教育の違いがはっきりした気がします。

僕はいま僕を寝かせてあげたいのだけれど書きます。

ーーーーー

可能性という言葉がある。
「その子の可能性を伸ばしてあげたい」という言葉がある。
その子の可能性をどこまで大人が知っているのか。

本当に、わかっているのか。

可能性がわからない神秘が人間にはある。
人との出会いで変わる人生がある。

中等教育、中学校、もっと正確にいえば思春期の前まではこの神秘の世界の中に子どもはいる。
大人ですら神秘をもっている。(物語は動き続ける)

「こう生きるべきだ」
「こんな人生がすばらしい」

という大人(親や学校?)の価値観があって、子どもは影響を受け(人間と出会い)成長する。
というか背中をみながら影響を受ける。自分をそっち(どこ?)のほうこうへ伸ばしていく。

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例えば、今の日本の現状をみて「いやもう安心安全な日本ではない。海外に行ったほうがいい」
と考えて、その考えに賛同する「子どもたち」がそっちに向けて学ぶのが高校、高等教育、もっと正確にいえば思春期を超えた後の学びなのではないか。

テストが「できる」「できない」で高校を選ぶ、「できる」「できいない」でしか高校を選んだら、中学校の延長か。
中学校と高校は全く違う段階になるのではないか。子どもの心は、思春期を超えて、発達していく。分化していく。そのなかでギャンググループ、チャム、ピアといった集団をつくるのも、その心の現れだ。

学ぶ場所を、学ぶことを、学ぶ大人を、学ぶ環境を自分で選択するのが
テストで“決められる”以前に、自分で“決められる”ような段階になるのが、中等教育の目標なのではないか。

ーーーー

中学校で部活をするのもいいが、部活のおかげでいろんな人との出会いがなくなるのもまた事実。
習い事で「能力を高める」のもいいが、それが子どもの可能性を、神秘と向き合う過程を無視することになっているかもしれない。

社会人になってから、いろいろな人との巡り合わせのなかで僕の人生は変わって行った。
そんな巡り合わせの中で、オトノネに縁のある人たちと、僕は出会っていくのだろうとおもう。

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自分の神秘をどう使っていくか。
おちこぼれなどない。
中学校・小学校で、学校の成績で、きみの価値が低くなることなどこれっぽっちもない。

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「内向的な人が秘めている力」

Facebookを徘徊しながらこんな記事を見つける。

ふむ。

TEDって、価値の多様性、言葉のチカラを教えてくれる。

オトノネがやろうとしている児童発達支援、放課後学童保育も、「埋もれている内向性」、学校の中で、社会の中で興奮してしまった心を落ち着ける場所になるのではないかとおもっている。

人との出会いで、結びつきで、意味が生まれる。
まるで、真空中を飛び回るとある原子が、何かの原子と出会うように。

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