レゾネーター・ベル

『障害児教育におけるグループ音楽療法』

この本で紹介されている「レゾネーター・ベル」という楽器がある。

はじめて知ったのだが。
共鳴管を使ってグンデルのような倍音豊かな音なのではないかと思う。

グンデル。
私の好奇心は、どうもこの音をもっと知るといい、そしたら何か楽しいことになると言っているのだが。
インドネシアにいって直接、コノ楽器に吹き込まれている人々の精神を学びたいと思っていた。
けどその楽器に、私の精神を吹き込んでもいいのかとも思えてきた。
必要なことはグンデルに聞けばいい。レゾネーターベルをはじめて作った人も、グンデルをはじめて作った人も、そうだったように。

「現地で本当のことを知らなければ。技術だけを学ぶことは嫌だ」と考えていた。
だが一向にインドネシア語の学習が進まない。これがダブルシグナル、矛盾した信号。

この体が発する信号に従うことが、どうも、大切であるようなきがする。
今、ここにいる自分の気持ちをちゃんと感じてみよう。

知的障害者施設訪問

今日、知的障害者施設に行く。インドネシアのノリでカメラを回したかったが、日本は秘め事にすることが徳とされているのはいたしかたない。ちょうど、今日は年末パーティーということで、フラメンコを近くの文化施設に見に行くことになっていた。その前に、施設を少し案内してもらった。色んな人がいる。喋れる人、喋れない人、筋肉がこわばっている人、表情のない人、動き回る人。そのひとりひとりに、案内をしてくれたスタッフの人は声をかけていた。反応が帰ってくることもあれば、返ってこないときもある。階段を降りておせんべいを焼く機械の説明をしてくれた。今までは炭火でやっていたが、機械を導入してから、利用者の人もたくさんこの作業に取り組めるようになったし、炭火よりもカリッとして美味しいのだという。生産方式というものも、いろんな見直しができるというはなしだった。案内してくれた人は、広い目で、業務ではなく、社会全体のなかのこの施設の位置づけを考えられる人だった。僕はそのはなしを聞きながらも、この建物の中の空気に馴染めずにいた。ビリビリする。

フラメンコの会場に行って、フラメンコが始まる。ああ、いいな、とおもえた。靴で音をたてるあの振動が身体に伝わる。手拍子のポリリズムは脳に入ってくる感じ。真っ赤な衣装は日常を離れて、とてもスペシャルだ。刺激的だ。施設の中で繰り返されてきたパターンを、作業を、壊してくれる。布を使った踊りは美しかった。施設の中では制約される、厳しく禁止される振る舞いが、この場所、この時間では許されている。祭りだ。印象的だったのは、盛り上がった後、ダンスが終わる瞬間、その瞬間をとらえて、利用者の人が拍手を、リアクションをしたときだった。ああ、わかるのだ。伝わっているのだ。感情なのだ。肢体不自由で車椅子に座りっぱなしの人もいた。この時間は、この場所では、車椅子から降りたらよかったのに。もっと、音響をしっかりしてギターの音のボリュームを上げたら、何かまたかわったかもしれない。けどあの空気は、なによりも、施設のなかにあった淀んだ、戦場のような空気とは違った。僕は考えた。この世の中にさまよっているアーティストたち、アートの力を知らない人立ち、そうした人たちが出てこられる場所はたくさんある。知的障害者だけではない。社会の中で埋もれている、見捨てられている人たちは他にもいる。私は、私のやることをしようと思えた。ある程度自由に動ける利用者が、舞台に乱入、一緒に躍る。舞台の上で、足踏みをしたりする。この場所が、躍る場所だということをわかっている。スタッフの人はあわてふためいていたが。一緒に踊ればよかったのに!

最後に案内をしてくれたスタッフの人と話をする。あの建物が、どれだけスタッフの、利用者の負担になっているか。すると「よく、気が付きましたね」ということだった。建物を壊して立て直すこともできない、利用者の数を減らすこともできない、そうした制約のなかで、人は生きている。来年のフラメンコの会に向けて、カスタネットを利用者に渡して施設で練習するのはどうかとアドヴァイスをして会場を出た。

公演に行く。目の前で外国の人の家族があるいていた。小さい女の子とお父さんの会話「おとうさんが背負ってるリュックもちたい!」「おもたいよ」「もちたい!」「ほら」といって、おとうさんはゆっくりリュックを娘に背負わせる。女の子は、うれしそうに、お父さんといっしょに、歩いていった。

ワヤンをあじわう

梅田一座のワヤンを体験してきた。

ワヤンー人形影絵芝居
グンデルーワヤンで使う楽器
ダランーワヤンの語り手

あまりにもQueが複雑。どれけだけの死に血合い感覚を動員して声と動作と音を連結しているのか。語りては楽器も聞きながら、いつそのQueを出したらいいのかも計算して語っている。音、声、木槌、人形、その他、いろいろ。どれだけの情報の応酬が一瞬にして行われているのか。

最初に、舞台(幕)に人形を登場させるまえにその舞台(幕)を作り出す前奏、のようなものがある。これはグンデルが演奏する中、ダランが生命の樹というものに、影を映し出す前に呪文を唱える。それから扇のように木を操り、幕に触れる。それから全ての人形が姿を表して、引っ込む。Adifの教えてくれた村の木のはなし、「幽霊のベット」を思い出す。

観客に子どもが一人いた。彼女の目!

この中で西洋風に言えば道化役の人物が現れる。彼らは難しい言葉を観客にやさしく伝え、またダランのアドリブを支える人物だ。これがまた対になって現れて漫才のように話す。面白い。大人も笑う。しかもその会話が知的だ。一人は大きく、相方は小さい。これを大人と子どもとしてみること。子どもは大人にさまざまな質問をぶつける。子どもはソレに応じて、大人の社会に一石を投じようとしている場面もあった。この道化は、物語の主役たちのお供役であるが、もちかしたらこっちが主役じゃないかとおもうほどイキイキしていた。物語の主役の登場人物たちは、道化たちとうってかわって、古バリ語(?)を話す。現地の人も意味がわからないという。道化たちはそれも翻訳して観客に伝える。道化は、ストーリの核、変えられない流れ、物語の中の社会を離れた、ストーリーに縛られない人物だ。彼らは、古くから伝わるストーリー展開に縛られない、今、現在という時代のフィードバックを観客に与える役だ。それももともとは観客の興味を引くため、かもしれない。ただその語りが、十二分に知的だ。

ダランは木槌を使う。これはグンデル奏者への合図、または普通に演出するための音であると同時に、ダランの身体を支えている。セリフはたいていアドリブだ。その精神をノックして、言葉を生み出すよう。

僕はワヤンを幕の裏から見ていた。どうして、観客からは影しかみえないのに、人形に色をつけるんだろう。僕はあれは、ダランのためにあるのだとおもう。人形自身が語れるように、色をつける。それは身体的なメッセージとなって、語り手であるダランを支える。そういう効果もあるとおもう。

そして、グンデルが何をやっていたか。僕はグンデルが日本の湿気に負けないか心配だった。心配無用だった!前奏の時点で体が熱くなってきたので上着を脱いだ。そのうち骨が震えるのを感じる。グンデルが伴奏するのは主に、移動のシーン、戦いのシーン、動きのあるシーン。まるで人形たちの動きを体験するかのように、僕は動かされて、揺らされていた。もちろんダランもそのチカラを感じながら語っている。喜びとか悲しみとか、そういうものではない。

ダランの声をききながら、語りの強さに、語りの広さに、夢を見ていた。

ききとるということ

何度でも思い出す。数年前、僕が教えていた生徒がいた。ある日、彼女がよく聞く音楽を教えてくれた。僕は、聞いてみるよ!といって、聞いた。「どうでしたか?」彼女はそう僕に聞いた。僕はそのとき、彼女のこころに目が向いていなかった。彼女のたてた音に気がつけなかった。彼女がはなしてくれた言葉を、こころを、僕は見殺しにした。何度でも思い出すだろう。どうして今、気がつくのだろう。

こころがだいじ

book

『精神保健および教育分野における音楽療法』より抜粋。44頁。

キャリンの母親はセッションの様子を同時にモニターテレビジョンで見ており、大きな安心感を得ていた。母親はキャリンがセッションに親権に参加していることに感動して、私たちの関係の緊密さについて心のこもった言葉を述べてくれた。「娘の人生において音楽療法は本当に建設的な経験でした。学校や他の活動の際には、フラステレーションからかんしゃくを起こしたり泣いたりすることが頻繁にあるのですが、それが音楽療法ではまったく見られなかったことにおおいに安心しました」と語った。母親の話ではキャリンの自己表現の能力は次第に向上していて、以前より自信を持ち始めたように見えるということだった。もた、こうも述べてくれた。「私はこれらのセッションで起こっていることが大好きです。音楽の中にいるキャリンを見ていると、何もかもがうまくいっている、と心の底から分かるのです!」

音楽というものがある人の、その人の必要とする刺激だった、その人に適した、その人が求めていたものだった。ということはもちろんだが。キャリンと向き合う大人たちがちゃんと彼女がはなすことを受け止めてくれていたか、またそのための時間と場所とを作れていたか、彼女を見る視線を、心に、繊細な振る舞いや表情にむけていたか。音楽の効用はその次だ。誰もが感動を引き起こすことができる。ただそのためには、人を見る目が、感じる肌が、聞き取る耳が、そして向かい合う心とその余裕が、必要だということ。音楽を知らなくても、声一つで、雰囲気一つで人を癒やす。re-spect。向き合うこと。

こころを
ことばをはなすこと

音楽はそれを助けるだけ。
音楽の前に、眼の前にいる人を、感じれたら、それでもいい。

ところで

youtubeで音楽療法と検索すると、よく施設の人が楽しんでいる様子が映し出される。
あの映像を見るたびに[施設]がどれだけひとのこころを閉ざしてきたかと悲しくなるのは僕だけだろうか。
日本で普及しつつある音楽療法、あれは、一体、なんなんだろう。
音楽療法という言葉が、いつもの日本人のやり方で、つくられていくのだろう。
その心だけは、ゆにばーさるであってほしいとおもう。