本当は怖い中古ピアノ

実はこの間、物流センターみたいな場所にピアノがあったよ!と知り合いの人が教えてくれて、行ってきました。

結局、「このピアノはどこを騙しているのか」と疑って音を出したり、見たりした。
音を出した時に気がつかなかったことが悔しいのだが、中身を開けて、「ああ、なるほど」と納得した。

高音部のキーを叩いて、その後に指を離しても、音がなり続けていたのだ。
中を見ると、ハンマーが、なかった!

高音部以外の、ハンマーも、なぜか木製でなく、プラスチック製で、接着も雑であった。
20年以上前のピアノだと、プラスチックの加工技術がまだまだで時間が経つと色がアイボリーになってくる。
外見も綺麗で古いような気はしない。なぜKAWAIのピアノがこんな姿になったのか。。。

ヤフーオークションで流れているピアノも事情は変わらないかもしれない。
どんな人がどんなふうに使って、売っているのかわからない。
ピアノを中古で買うなら、ちゃんとしたところがいい、と、私は思った。

それにしても、グランドピアノの音が、よかったなぁと、思い出してしまう。
音がいいと、好きになってしまう。

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中古ピアノを見てきた。

金沢にあるピアノ屋さんに中古ピアノを見に行った。
値段は何でかわるのか?どんな種類のピアノがあるのか?
いろんなことを聞きながら、

弾き比べをはじめてやってみた。

音が全然ちがうんだとおもった。
簡単にいうと、ひとつひとつのピアノは音が違っていて、大きく分けて2種類の音がある。

軽くて飛び跳ねるような音がでるピアノ
ちょっとジメッとして、重たく、落ち着きがある音をだすピアノ

子どもに弾いて欲しいのは、重たい感じの、落ち着いた音がでるピアノだ。
世の中には、神経を騒がせる音がたくさんある。
どうして音楽を習うのか。僕は子どもに音の美しさ、内向性を感じて欲しいとおもっている。
外へ!外へ!向かうような世の中で、立ち止まって自分の出す音に耳を傾けられるような音。
飛び跳ねて外にすぐでていってしまう音よりも、僕はそっちの音のほうが、子どもたちに弾いて欲しいとおもった。

グランドピアノとアップライトも弾き比べてきた。
アップライトだと、高い音がどうしてもキーンとしてしまう。
ピアノの中に余裕がなくて、弦が短いし、ハンマーを打つ場所も制限されているからだ。
グランドは、高い音でも、のびのびとして聞こえる。

電子ピアノもあったから弾いてみた。
やっぱり、子どもには生の楽器の音を聞かせたいとおもった。

使わないピアノがあったら、教えてください!

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ピアノを探している

ピアノが欲しい。
お母さんたちはコドモにピアノを習わせたい、そういう風習が明治時代から日本で続いている。
クラシック業界のコマーシャリズムのせいだろう。

しかしこれが高い!
値段が!

こんな高価な楽器だったのかとおもう。
三味線も高いが三味線など比ではない。
グンデルも高いがグンデルが4台は買える。

アップライトでそれだ。
グランドは。・・・重くて移動できないし、どうしてこんなにも大変な楽器をみんな練習したいんだろう?
とおもったりする。
けど私も中学生時代、学校にあるピアノを弾いていたし、やっぱりどこかにあると便利なのかもしれない。
現行の教科書をみても、やっぱり身近に感じるのはクラシックだから。
いやだからもっと別の音楽を教科書が扱えばいいだけの話なのだが。
学校の先生が、ついていけない。
先生が、クラシックを学んできたのだから。。。。

結局先生次第なのだ。

閑話休題。
みんなで使うピアノが、地域にあってもイイ気がする。

ピアノ弾ける場所、ないのかな?_?
探してみようとおもう。
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体験すること

体験という言葉はもともと修験道の言葉だ。
頭の中で思い描いていたものを、体で、体現すること。

音楽も言葉も、頭の中でおもいめぐらせることはできる。ただそれはやっぱり体験ではない。体が感じれていないことだ。
頭が忙しくなって、体で感じる時間が少なくならないように、ゆっくりと暮らすのもいいだろう。焦りや不安で頭の中がいっぱいになったら、体が感じていることに気がつけ無くなってしまう。楽器の体験会、たくさんの人にきてもらいたい。

友達の俳優が、今週末舞台に立つ。いつも舞台を見に行けないけど、頭の中で想像だけしている。もしかしたら、人生は、想像だけじゃものたりないことを体で体験していくことの連続なのかなとおもう。頭の中で思い描くだけじゃ、そのうち病気になりそうだ。「欲望という名の電車」という戯曲のヒロインのように。

レゾネーター・ベル

『障害児教育におけるグループ音楽療法』

この本で紹介されている「レゾネーター・ベル」という楽器がある。

はじめて知ったのだが。
共鳴管を使ってグンデルのような倍音豊かな音なのではないかと思う。

グンデル。
私の好奇心は、どうもこの音をもっと知るといい、そしたら何か楽しいことになると言っているのだが。
インドネシアにいって直接、コノ楽器に吹き込まれている人々の精神を学びたいと思っていた。
けどその楽器に、私の精神を吹き込んでもいいのかとも思えてきた。
必要なことはグンデルに聞けばいい。レゾネーターベルをはじめて作った人も、グンデルをはじめて作った人も、そうだったように。

「現地で本当のことを知らなければ。技術だけを学ぶことは嫌だ」と考えていた。
だが一向にインドネシア語の学習が進まない。これがダブルシグナル、矛盾した信号。

この体が発する信号に従うことが、どうも、大切であるようなきがする。
今、ここにいる自分の気持ちをちゃんと感じてみよう。

自閉症

コミュニケーションがとれないの代名詞になっている自閉症。
日本でどれだけ知られているだろうか。
多かれ少なかれ誰もがこういった傾向を持っている。
自閉症と呼ばれている人たちは、誰もが持っているこの傾向が、全体のバランスからはみ出てしまっているわけだ。

本を読んでいて
「徹底的な関わり合い(intensive interaction)」
「関わり合い指導(interactive teaching)」というコトバに出会った。

『自閉症の子どもたち』(p. 206)

探してみるとyoutubeにもでていた。
私はその音楽性、演劇性、人間性に目を向ける。オトナが何をしているのかもわかる。
このブログをみてくれているあなたにもわかるだろう。
サイコドラマ、共感、遊び、どんなコトバをつかっても、説明ができても、これを実践して、試みて、関わり合いをもてる専門家はどこにいる?
と私なら思ってしまう。

「患者がでている!プライバシーは大丈夫なのか??」と驚いた人がいるかもしれない。
日本で自閉症の学術研究が遅れている、治療法の確立が遅れているのは、こうした閉鎖性が影響しているかもしれないと、つねづね思ってしまう。

今、療育というものが広まっている。しかし療育の専門家はほとんどいない。
「絵を使ってコミュニケーション」「ほめる」といった情報しか、療育の現場には伝わっていないのではないか。
日本で自閉症、発達障害をもつ人との関わり合いを知る人は少ない。
インターネットで「日本語」を使って検索しても、本当のことを話してくれる人は少ない。
話すだけでなく、実際にそれができる人はもっと少ないだろう
海外にいけば、自閉症児のためだけにつくられた学校もあるくらいだ。

TEDでは、いろいろな人達が世界にはいることを日本人にも伝えてくれている。

いつでも道は開かれている。誰にでも開かれた道があると私はおもっている。
芸術だ。私が知っている人で、芸術の力をすべての人に開こうとしているのが川手鷹彦氏。
http://kawatetakahiko.info/works/index.html

私はひとりひとりが自分の意識を持って、ユニークな方法で力をだし、社会にそそいでいくことだけが、ひとりひとりを幸せにするのだと信じている。

「英語勉強してどうなるの?」という人がいる。
あなたはある意味で、正しい。日本の中にある情報で満足するのであれば、英語など、習う必要がないのだと私はおもっている。
モット知りたい、興味がある、好奇心、創造力。本当はこっちのほうが、大切なのだ。

その他
option method

Autism Treatment Center of America™Home of The Son-Rise Program® Since 1983

Gentle teaching
https://www.gentleteaching.nl/gentle/en/wat-is-en/sum

台本のない劇

台本を持っている人がどれだけいるだろう。
いい俳優がどれだけいるだろう。
「いい俳優」を誤解している人がいっぱいだろう。

自分の台本を持っている人がいる。
素晴らしい台本を持っている人もいる。
台本があまり感動的ではない、読み込めないこともあるだろう。
そんな台本でもみんな頑張って演じる。
だけどいい演出がでてこない。
「コレは一体、どんな劇なんだろう?」
ちゃんとした俳優は、自分が演じるために、劇全体を理解しなくてはいけないことを知っている。
劇全体の中で、どのような関係性を作ればいいか、そのためにどんな演じ方をすればいいか、関わり合いをすればいいか知っている。

他人の台本を持っている人がいる。
例えばカイシャのミッションがある。
「あなたはこのようにふるまいなさい」
その台本を読み、演じる俳優が本当にそのセリフを理解しているのか。
台本がないのも同然だ。機械に読ませてもいい。
自分の演じている役のセリフだけ言えればいい。他の俳優がどのように演じようとも。

もしかしたら、台本を持っていない人が多いのかもしれない。
「楽しいから俳優をやる」という人が大勢いる。
その台本が一体、観客にとっての何なのか、自分が舞台の上で演じるそれは何なのか。
はっきりしていない状態で演じて、喜ぶ客もいる。
下手な台本よりも即興劇のほうがいいこともある。
台本のない劇でも、悪いことでは全然ない。
舞台の上に立つだけで他の人を喜ばせる才能を持った人もいる。
そういう劇があってもいい。
そういう人がいてもいい。いてほしい。

ただどうしてだろう。
私が感動する演出家が、脚本家が、この世界にはとても少ない。
私を驚かせる演出家が、脚本家が、この世界にはとても少ない。

俳優には俳優の勤めがある。
演出家には演出家の勤めがある。
脚本家には脚本家の勤めがある。

俳優も、演出家も、脚本家も、ばらばらになってはいけない。
バラバラになっていることを自覚しながら、人間を育てること。
これができなくて演劇がどうして人の役にたつだろうか。
どうして演劇がテレビドラマ以上の役に立てるだろうか。

けど、役に立つだなんて、ただのキレイゴトなのかもしれない。
ロマンスなんて、憧れなんて、本当はただのキレイゴトなのかもしれない。

私が運命というものに身を委ねるなら、この3役を同時に引き受けることなのだろう。
自分の傾向を自覚して、自分を守って、自分をつくりあげることが、
周りの人を幸せにするヒントなのだとおもう。
自分が幸せにならずに人を幸せにするなど、長くは続かないものだから。

「飼いならすこと」だと、キツネは言った。王子様は、その意味がわからなかった。

知的障害者施設訪問

今日、知的障害者施設に行く。インドネシアのノリでカメラを回したかったが、日本は秘め事にすることが徳とされているのはいたしかたない。ちょうど、今日は年末パーティーということで、フラメンコを近くの文化施設に見に行くことになっていた。その前に、施設を少し案内してもらった。色んな人がいる。喋れる人、喋れない人、筋肉がこわばっている人、表情のない人、動き回る人。そのひとりひとりに、案内をしてくれたスタッフの人は声をかけていた。反応が帰ってくることもあれば、返ってこないときもある。階段を降りておせんべいを焼く機械の説明をしてくれた。今までは炭火でやっていたが、機械を導入してから、利用者の人もたくさんこの作業に取り組めるようになったし、炭火よりもカリッとして美味しいのだという。生産方式というものも、いろんな見直しができるというはなしだった。案内してくれた人は、広い目で、業務ではなく、社会全体のなかのこの施設の位置づけを考えられる人だった。僕はそのはなしを聞きながらも、この建物の中の空気に馴染めずにいた。ビリビリする。

フラメンコの会場に行って、フラメンコが始まる。ああ、いいな、とおもえた。靴で音をたてるあの振動が身体に伝わる。手拍子のポリリズムは脳に入ってくる感じ。真っ赤な衣装は日常を離れて、とてもスペシャルだ。刺激的だ。施設の中で繰り返されてきたパターンを、作業を、壊してくれる。布を使った踊りは美しかった。施設の中では制約される、厳しく禁止される振る舞いが、この場所、この時間では許されている。祭りだ。印象的だったのは、盛り上がった後、ダンスが終わる瞬間、その瞬間をとらえて、利用者の人が拍手を、リアクションをしたときだった。ああ、わかるのだ。伝わっているのだ。感情なのだ。肢体不自由で車椅子に座りっぱなしの人もいた。この時間は、この場所では、車椅子から降りたらよかったのに。もっと、音響をしっかりしてギターの音のボリュームを上げたら、何かまたかわったかもしれない。けどあの空気は、なによりも、施設のなかにあった淀んだ、戦場のような空気とは違った。僕は考えた。この世の中にさまよっているアーティストたち、アートの力を知らない人立ち、そうした人たちが出てこられる場所はたくさんある。知的障害者だけではない。社会の中で埋もれている、見捨てられている人たちは他にもいる。私は、私のやることをしようと思えた。ある程度自由に動ける利用者が、舞台に乱入、一緒に躍る。舞台の上で、足踏みをしたりする。この場所が、躍る場所だということをわかっている。スタッフの人はあわてふためいていたが。一緒に踊ればよかったのに!

最後に案内をしてくれたスタッフの人と話をする。あの建物が、どれだけスタッフの、利用者の負担になっているか。すると「よく、気が付きましたね」ということだった。建物を壊して立て直すこともできない、利用者の数を減らすこともできない、そうした制約のなかで、人は生きている。来年のフラメンコの会に向けて、カスタネットを利用者に渡して施設で練習するのはどうかとアドヴァイスをして会場を出た。

公演に行く。目の前で外国の人の家族があるいていた。小さい女の子とお父さんの会話「おとうさんが背負ってるリュックもちたい!」「おもたいよ」「もちたい!」「ほら」といって、おとうさんはゆっくりリュックを娘に背負わせる。女の子は、うれしそうに、お父さんといっしょに、歩いていった。

ワヤンをあじわう

梅田一座のワヤンを体験してきた。

ワヤンー人形影絵芝居
グンデルーワヤンで使う楽器
ダランーワヤンの語り手

あまりにもQueが複雑。どれけだけの死に血合い感覚を動員して声と動作と音を連結しているのか。語りては楽器も聞きながら、いつそのQueを出したらいいのかも計算して語っている。音、声、木槌、人形、その他、いろいろ。どれだけの情報の応酬が一瞬にして行われているのか。

最初に、舞台(幕)に人形を登場させるまえにその舞台(幕)を作り出す前奏、のようなものがある。これはグンデルが演奏する中、ダランが生命の樹というものに、影を映し出す前に呪文を唱える。それから扇のように木を操り、幕に触れる。それから全ての人形が姿を表して、引っ込む。Adifの教えてくれた村の木のはなし、「幽霊のベット」を思い出す。

観客に子どもが一人いた。彼女の目!

この中で西洋風に言えば道化役の人物が現れる。彼らは難しい言葉を観客にやさしく伝え、またダランのアドリブを支える人物だ。これがまた対になって現れて漫才のように話す。面白い。大人も笑う。しかもその会話が知的だ。一人は大きく、相方は小さい。これを大人と子どもとしてみること。子どもは大人にさまざまな質問をぶつける。子どもはソレに応じて、大人の社会に一石を投じようとしている場面もあった。この道化は、物語の主役たちのお供役であるが、もちかしたらこっちが主役じゃないかとおもうほどイキイキしていた。物語の主役の登場人物たちは、道化たちとうってかわって、古バリ語(?)を話す。現地の人も意味がわからないという。道化たちはそれも翻訳して観客に伝える。道化は、ストーリの核、変えられない流れ、物語の中の社会を離れた、ストーリーに縛られない人物だ。彼らは、古くから伝わるストーリー展開に縛られない、今、現在という時代のフィードバックを観客に与える役だ。それももともとは観客の興味を引くため、かもしれない。ただその語りが、十二分に知的だ。

ダランは木槌を使う。これはグンデル奏者への合図、または普通に演出するための音であると同時に、ダランの身体を支えている。セリフはたいていアドリブだ。その精神をノックして、言葉を生み出すよう。

僕はワヤンを幕の裏から見ていた。どうして、観客からは影しかみえないのに、人形に色をつけるんだろう。僕はあれは、ダランのためにあるのだとおもう。人形自身が語れるように、色をつける。それは身体的なメッセージとなって、語り手であるダランを支える。そういう効果もあるとおもう。

そして、グンデルが何をやっていたか。僕はグンデルが日本の湿気に負けないか心配だった。心配無用だった!前奏の時点で体が熱くなってきたので上着を脱いだ。そのうち骨が震えるのを感じる。グンデルが伴奏するのは主に、移動のシーン、戦いのシーン、動きのあるシーン。まるで人形たちの動きを体験するかのように、僕は動かされて、揺らされていた。もちろんダランもそのチカラを感じながら語っている。喜びとか悲しみとか、そういうものではない。

ダランの声をききながら、語りの強さに、語りの広さに、夢を見ていた。

ききとるということ

何度でも思い出す。数年前、僕が教えていた生徒がいた。ある日、彼女がよく聞く音楽を教えてくれた。僕は、聞いてみるよ!といって、聞いた。「どうでしたか?」彼女はそう僕に聞いた。僕はそのとき、彼女のこころに目が向いていなかった。彼女のたてた音に気がつけなかった。彼女がはなしてくれた言葉を、こころを、僕は見殺しにした。何度でも思い出すだろう。どうして今、気がつくのだろう。