山に登る

大学時代に、教授と仲良くなって山登りをしていた時がある。その時の話。「どこかの登山ツアーの人が、天候が悪くて引き返そうとしたんだけど、ツアー客がどうしても行きたいっていうから行ったら遭難したんだよ」と。「この大学に入りたい」とか「この高校に入りたい」という気持ちで来るのがいいが、受験というものがどういうものか、高校を選ぶ、大学を選ぶということがどういうことか、まず話をするのはいかがだろうか。遭難したら、大変だ。

大変なことばかり目につく世の中だから、落ち着いて、心のまにまに、暮らせることがどれだけ幸せか、私も最近、うすうす感じてきたところでもある。

良問とはなにか。

良問があるとしよう。その問題が良問になるかならないかは問題を解く人によって変わる。「この問題はいい問題だね」といえる受験生がいるだろうか?センター試験の問題で良問はあるだろうか。良問に出会えるのは、ある程度「偏差値」というものが高い学校だと思う。もしくは看護学校とか、特徴ある問題を出す学校。いい人と出会うことと同じように、良問に出会うためには良問に出会えたときに良問だと気がつける生き方、勉強をしたらいい。そのためには基礎のときからちゃんと、良問に出会える勉強をしなくてはとおもう。東大で「三角関数の定義」を問う問題がでてきて世間を騒がせた。ほとんどの受験生が解けなかった問題だと聞いている。行きたい学校によって、解きたい問題に応じて、勉強の仕方を変えなくてはいけない、なんとも不便な世の中になったとおもう。

物理がわからない

そんな人が多い。
と聞く。

フシギなのは、わかる人とわからない人がいること、
わからない人は、真面目な人だと私は思っている。
納得できない、そんな説明じゃなんの説明にもなっていないという納得行かない説明しか受けてこなかったのではないか。「そうしたら問題が解けるから」というのは無邪気でいいにしても(最終的には受験のためにみな物理をするから、間違いではない)。ただ、「遠心力という力が存在する」という教師がいたら「いやちょっと、説明してください」と言ったほうがいい。納得できないまま「そんなものか」と思って、頭の中に作り上げていく体系がたまたま

たまたま

間違っていた人が「わからない」というのだとおもっている。
だから「わからない」といって悩んでいい。わからない説明を受けて悩むのは当たり前だ。ただその悩みをどこかで解消しなくてはいけない。生き方に関する漠然とした悩みはこうした解消などというものはムズカシイと思えるが、受験の世界で解消できない悩みはなかなか少ないのではないかとおもう。

「エネルギーって結局何ですか?」という問に答えてくれる先生が近くにいますか?結局納得できる説明はできないかもしれない(科学者もわかっていないこともある)。ただ、疑問におもったことを聞いてくれて、一緒に悩んだり、調べてくれる人がいるといい。(私は理論化学の不合理さを誰にも打ち明けることができなかった。)歩き方を教わる必要はない。歩けるのだから。ただ、どの道を歩くか、それで辿り着く場所が変わってくる。「わかる人」にはわかる人の道が、「わからない人」にはわからない人の進むべき道がある。

当たり前のように書いてある教科書の内容がわからないのは当然だ。
大切なものは書かれていないのだから。そして先生は先生で忙しく、ひとりひとりに気を回せない。だから、みな、悩んでいる。

たったソレだけのことだ。

ムズカシイ文章とは

現代文ができないという人がいる。
いや、日本語なのになぜ?

ひとつには「大学生として読んでもらわなくちゃこまる」文章の話題、語彙についていけない場合。専門用語ばかり使って、専門家しかわからないようにかかれている場合。
もうひとつは、作者が読者にわかりにくい文章を書いている場合がある。具体例やら論理展開がわかりにくい、誰が読んでもわかりにくい文章になっている場合。

現代文は大学によっても傾向が違う。出題のされ方、問題の出し方でも違う。
記述式も選択式も同じ能力がいるのだが、記述式の方が実力がモロにでる。

おもしろい話がある。
私がどうしても理解できない文章があった。言葉の定義、説明、具体例なしに、次々と話が展開していく文章だ。生徒に「これ、何言ってるかわかる?」ときいたら、答えてくれた。それでも私は何が書かれているのかよくわからない。こういう文章がでてきたら…それこそ「わけのわからないことをいう人とコミュニケーションをとってとにかく問題を解く」という寛大なココロが必要なようだ。現代文は実は、問の良し悪しで「それが解答なの?」という問題もある。とても深い。一筋縄ではいかない。だからこそ自信を持って「大丈夫」だと思えるような現代文の勉強をしてほしい。

世の中には、フィーリング読み(なぜそれが答えかと聞かれても答えられない読み方)でちょう高速で文章を読み、答える生徒がいる。
私などは、本当にじっくり、読みふけってしまう。受験生としては、フィーリング、天性の能力があればありがたいのだが。反面、フィーリングで読めない御蔭で私はわかろうわかろうと努力して生徒たちに現代文の読み方を教えることができると思っている。色んな人がいて、おもしろい。

単語帳

単語が覚えられないという人がいる。
単語を覚えているのに長文が全然読めない人がいる。

言葉を使えるようにするということは並の努力ではない。
一体何がいけないの?一生懸命やっているのに・・・と悩む人がいる。

数学と英語は集中して、一気に勉強するのがいい。
そしてネイティブではないのだから、日本人らしく、系統立ててやるといい。
英語で一番大切な単語はなにか。動詞と前置詞だ。
動詞の使い方がわかれば英文は読める、と自信がつく。だから単語帳で動詞を覚える前に、文法で動詞の使い方をちゃんとわかっていないとただの「単語テスト」に合格するだけの英語力になってしまう。

学校のテスト、学校の成績を目標にするのではなく、自分の将来にとっていい番いい選択を、責任を持ってしてほしい。

単語帳ひとつでもいろんなものがある。単語のひとつひとつを丁寧に体に染み込ませてほしい。

算数

思い出シリーズ。ちゃんとした塾だということをアピールしよう!

小学生のころ、面積10平方cmの四角形の高さが0.5cmだと体積が5平方cmになるという計算を知ったとき、私は納得しなかった。「どうして、面が立体的になって、ヴォリュームが増えているのに、数字が10から5に減っているのか」その問いに対する先生の答えは「そういうものだから。計算ができればいいんだよ」だった。今なら私なりにちゃんと答えられるし、当時の数字感覚、量が増えるという直感と数字との違和感を覚えた自分を褒めてあげたい。こういう素朴な悩みはたくさんある。マイナスとマイナスを書けるとどうしてプラスになるのか。ひとりひとり、気がつくことは違う。気になること、違和感を持つところは違う。けどそのひとりひとり違う違和感が、大切だ。かつて中学生で、「ここと同じ角度はどこだ?」みたな問題をやっていた。よくみると、その問題集は、考え方をすっとばして説明している。「当然でしょ?」といわんばかりに、問題の解き方だけ説明する。

けどしかたない。ひとりひとり見方が違うのだから。完璧な本も、完璧な先生もいない。算数、数学とは、人間の誰かがつくりだしたとても便利な道具を使いこなすために実際に使ってみる教科だ。細かいことを説明しなくても使い始めてなれていく子もいれば、最初はその道具を持つことも恐ろしいという子もいる。使い方がわからずに、観察する子もいる。オトナのマネをする子もいる。その時、その場で、その子を手伝うしかない。

マイナスとマイナスがどうしてプラスになるのか、違和感が残ったまま、高校生になって突然、その問へのひとつの答えがやってくる。お楽しみに。

たいようのおなら

塾っぽいことを書いてみようとするが、ムズカシイので諦める。

最近、引っ越しの準備をしながら、よくもまぁこんなに買ったものだと、本を整理しながらおもった。美術関係の本、整体、身体に関する本、数学、歴史に関する本、文庫本、詩集、音楽の本、いったいこれからどうするつもりなんだろう?建築家になるといっていた時期もあった。ランドスケープ、庭園、持続可能社会にこだわった時期もあった。多分僕は、自分が進まなかったその道を進む力を生徒たちに感じるのだとおもう。ある理系の生徒から「動物行動学おもしろいんですよ〜」「え?もしかして日高さん知ってる?」という話になって楽しかった思い出がある。別の生徒は、ストレッチにこだわっているというから、ヨガのおすすめの本(英語)をプレゼントした。最近、翻訳されたらしいが、分野によっては翻訳が追いついていないものもたくさんあるのだ。。。。

生徒は、コドモは、少なからず僕の人生の一部をどこかしらにもっている。遠いつながりかもしれない。あのとき僕がああだったら、ああなっていたかもしれない。その一部を、子どもたちが僕にみせてくれているように思える。幼稚園、小学生なんて、僕にとっては大先生なのだ。

早く生徒と出会いたいとおもう。
来てくれるかな?


『たいようのおなら』

子どもたちの詩をオトナが選んで一言添えている詩集。
詩ってそもそもなんだ?

世界のみかたが、どうも固くなって、本当の世界をみられなくなりがちになったなぁというかいつもそうだと自分のことをおもう。もっと直感的に、そのまま、ありのままの世界を、ありのままのココロでつかんで、ことばにする。なんてすてきなことなんだろうとおもう。

僕がある日、本当に奇跡のような日に、こんな文句が浮かんできた。
「おならがでたよ ぷん 生きてるっていいなぁ」そのコトバが産まれたときに、そのコトバを抱きおろしてくれる人がいたからこそ、このコトバは本当に産まれてこれたし、僕のこころのなかにも残っているのだとおもう。孤独の中で生み出される詩は、たいてい、私の場合は、固くなって出てくるようにおもう。そんな気がする。