アウシュビッツは自由・平等・平和の象徴か。

私は自由も平和も平等もこの世界にはないと思っている。
それらの言葉を掲げることが西欧文化と折り合いをつけるために都合が良かっただけで、日本は明治以降にとってつけた漢字でハイカラをしているだけのようにも思える。ハイカラという言葉も、死語になっただろうか。

私たちは自由か。自由とはなんなのか。そんなことを話してもおもしろくなさそうだ。
「自分を自由にしているか、相手を自由にしているか」の方がおもしろい話ができそうだ。
政治経済、現代社会で憲法や法律をならう。なぜ法律が必要か。世の中に出ると、他人は人を酷使してくる、都合のいいようにする、傷つけてくる。そうした攻撃から、自分を守るためだ。

私たちの国は平和ではない。犯罪の報道、事故の報道ばかりする国がどこにあるだろう?人の不安を掻き立て、いろいろな製品を売りたいのだ。不安は人を動かす。

私たちは平等でない。
平等という名の下に、自由を失う。平等という名の下に、平和を失う。そういう状況に出会ったことはないだろうか。
もう日本人は、抽象語、二字熟語をほとんど、使用できていない。

私にとって学校は、不自由であり、不平等であり、平和ではなかった。
そもそも自由・平等・平和ということばが曖昧なのに、どうしてこれ以上話をすることができるだろうか?

私ならとりあえず、平等であるとは言い悪いで評価判断しないこと。自由とは自分に積極的責任をもつこと。平和とは、自分の心と体のバランスに気をつけること、と言い換えておこうか。
どうすれば、オトナが、言葉を教えずに、コドモは言葉を覚えることができるだろう。学校は引きこもりだ。文部科学省というモンスターペアレンツに怯える、ブラック企業だ。その中で笑顔で作業しているコドモたちは、どこかアウシュビッツを生き抜く人々のように、たくましく思える。彼らは、彼女らは、自由であり、平和であり、平等であろうとしているのだから。

黒船がきた!

さぁ、君ならどうする。

最近市役所や学校といった公の組織と何かができないかとおもって話を聞いている。
話ができない。話にならない場合がほとんどだ。「責任がとれませんから」とか「もう年度の初めにすべて決まっているので」とか「忙しくて」とか。本当に何かを生み出すような対話にならない。丁重に断るために話を聞いてやっている、という気持ちすら伝わってくる。「クレームがあると・・・」という言葉が常套句。忙しい忙しいで大変な学校で暮らす生徒は主体的、個性的な自分自身を忘れていくかもしれない。オトナは生活を管理し、課題を出す看守のようだ。囚人はその作業をこなしていく。これが私の学校観。

思えば組織というものは保守的だ。組織を守るために個人を利用する。個人もその組織があるからこそ守られているから、お互いに助け合っている、といえる。それを「日本を守るために」といっていたあの時代と変わらない、と思った人はするどい。また黒船が来た時、日本が二つに別れた。例えば坂本龍馬はそれで会社をつくった!日本が動いている、別に「まるまる主義」「まるまる派」でなくても、自分ができること、したいことをする。そういう態度が龍馬の魅力なのだろう。

時代遅れのものというのは、時代をみていない、時代をみて、時代が動いているリズム、すでにもう生まれ、鳴り響いている時代のメロディーとどう関わりあうかだ。何も見えず、聞こえず、感じない世界が、これからやってくるかもしれない。「生徒たちは学校が終わったら家に帰ってゲーム」というのもどの学校も同じだ。もう、面白くないのだ。地域振興、地域復興というが、コドモたちが家に引きこもる地域だったらだめだ。私はだめと言い切ってしまう。道を歩いていても人がいない、面白い人がいない、とにかく人がいない、どこにいっていいかもわからない。ゲームをするのが一番合理的だ。賢い選択だ。ゲームはまっていればいくらでも新しいものがでてくる。スマートフォンという時代と共演している。

役所も学校(文部科学省)も、まだ戦時・戦後の「立場主義」を守り抜き、いまだに「国家総戦力」を演じている。戦う相手は決まっている。黒船だ。私たちは、工場で働いたりや兵隊さんになる代わりに、よりよい消費者になり、労働者となることを求められている。まさに学校がそうではないか!学歴社会でなくなった今でも、高学歴社会を演じている。もう高度経済成長期は終わっているのに、当時の文化がまだ残っている。日本は、どうも、そういう国らしい。

さぁ、君ならどうする。
新しいゲーム機を買おう!?

おじさんが英語を喋る

英語、を喋るおじさんがインドネシアにはたくさんいる。道端で寝転がっているおじさん、おばさんすら英語を喋る。どうしてか。もちろん観光地、での話だ。観光客に話しかけるため、英語を学ぶ。日本はおそらく、行政としては英語をたくさん勉強するように公教育として計画されてはいるものの、実際に英語を使える人は少ない。それもこれも、やはり結局大学受験のための英語であり、なかなか学生の時代に話ができないからだとおもう。私自身、受験英語をとおして英語が喋れるようになったのだが。。。

どうしてインドネシアではおじさんおばさんも英語を喋れるんだろう。今日ふと気が付いた。英語を喋りたい、英語を喋ることで生きようとしている人がたくさんいるのだ。自営業がたくさんいるのだ。例えば道端のタクシーのおじさん。ツアーガイド、民宿ホテルがインドネシアの観光地にはたくさんある。そしてどれもいわゆる自営業だ。日本はどうか。大きな組織、会社でやっていることが多い。そしてツアー客の多くは大手の会社の宣伝をみて、そのまま大きな会社の案内で観光をすることになるだろう。学生たちも「会社に行くものだ」と思っているのだとおもう。私はそうだった。日本はそういう現代文化を継承している。高度経済成長時代からそうだ。広告、宣伝、大量生産がものをいい、資本を持ったものが市場を占める。これを資本主義といっていいのかどうか。インドネシアには広告というものがない。広告の分、人が喋っている。人が道に出ている。人と人が直接関わる。資本主義というのは、資本を持った者、初期投資ができる人間が、人と人が直接話をし、出会い、交渉をする近代以前の市場を解体する現象だと言えるかもしれない。だから行政は、自治体は、この現象に対して、個々人の出会いを守るようなしくみをつくるとよいのだろう。現象をみて、バランスを取る。というのはどうだろう。これは政治に関わらず、ふつうの日常生活でもいえることだ。自分の中で起きて来る現象、性格、気質、暮らしながら作り上げられて来た心の働きをそのままにしていたらバランスが悪くなる、状況が変わっても、変わったことに気がつかないことすらある。バランス。

スーパーマーケットで学ぶ

今日、最近オープンしたスーパーマーケットに入ってびっくりした。この間はレタスが68円だったのが、今日はキャベツが98円だ!あまりにも驚きすぎて、近くにいる店員さんに話しかけてしまった。「こんなやすくて大丈夫なんですか」「いやぁ、この店は呉西地区にはまだ少なくて、オープンしたばっかりだし、やっぱりいろんな人に来て欲しいから、やってるんです!」「いやぁ、まいりました!」という会話をした。

印象を与える、店を入って目の前の野菜のコーナー。まさか、他の店では298円で売っているキャベルまるまる一つがこの値段!そうした驚きが、お店を印象付ける。なるほど、otononeも学ばなくちゃなぁ、ということでさっそくホームページを変えた。印象をもってもらう、スーパーで買い物に来る人には値段で。otononeは?と考えて、「あなたの参考書はあなたのよき友ですか」みたいな見出しをつけることにした。

気がつこうとおもったら、日常生活のなかにいろんなきっかけがある。受験生は試験の時、そんなドラマチックなことを考えてはいられないだろう。だから受験勉強をしているときは、とびっきりドラマチックに、ドキドキしたらいいとおもう。そういう参考書を、otononeでは使っています。

コピー機会社のお兄さん

otononeに複合機がやってきました。製本もできる優れもの。
ところでこの複合機を設置して、コンピューターから信号を送ったり受けたりする設定をしてくれたお兄さんと話をしていたらおもしろかった。
ゲームを作る学校にいて、ゲーム会社にいたけど、それから営業というか、人と関わる方に向いていると思って、いまに至るという。やさしい感じのお兄さんだ。今でも、どこぞのゲームショウの会場では、お兄さんが卒業した学校はお兄さんのつくった卒業制作のゲームを展示しているという。

パソコンの設定がうまくいかなかったのだが、いろんな人に聞いてもらったり、自分で調べたりして、どこまでできるか、何ができないか、もしそうしたら、どうなるか、などなど詳しく話をしてくれた。自分に合っている仕事を選べば、自分がじぶんらしく振る舞える仕事を選べば、いいんだろう。そう思えた。いろいろな人生がある。「先生にもなれるんじゃない?」と僕がいうと、お兄さんは「相手の持っている知識とか、知っていることに合わせて話すのが、それから何よりも、待つのが苦手なんです笑」と。

小学生のころ「ゲームを作る会社に入る」といっていた、ゲーム好きの友達は今、何をしているんだろうか。

受験物理は実用的か

物理の問題集に「良問の風」というものがある。
本当に良問で、頭がよろこぶ問題集だ。ところで。

ヘリウム入りの風船をつくろうと思ったところ、ふと、「そういえば夏だし膨張したら破けるんじゃないか」とおもって膨張率など調べてみた。どうやら熱伝導率が空気よりも大きいらしい。肝心の膨張率だが、果たして計算できるだろうか。よくわからない。風船売りの人は経験則でヘリウムを入れているだろう。風船にLEDを入れたらさぞおもしろいだろうとおもって調べたら、ボタン電池二つで光るそうだ。LEDが光るのに必要な電圧っていくつ?調べてみた。

電気回路も同じだ。どんなに計算ができても、実際に回路がどう動くかは、「予測できない」が電子回路に携わる人の常識だ。いや、単純なものは予測できるよ。ところで風船。夜になったらLEDで光らせようとおもって、調べると・・・赤色のLEDは必要な電圧が低くつくってあるから、白色LEDと同じ電源・電池は使えないということ。もし赤色を使いたいなら、抵抗をはさむしかない。抵抗の値は?あの有名なオームの法則で計算できる。

家の中にマルチタップがある。マルチタップが耐えられる電流の値があるということを、大学卒業後に知った。つまりタップにコンセントをつないでいろんな電気製品を使うと、マルチタップが耐えられる電流を超えてしまうかもしれない。すると、タップが壊れる。もしくは発火するか。。。。どんなに受験勉強をしていても、日常のなかにある物理現象の輪郭しかつかめない。受験物理は実用的ではない。実践のなかで学んでいくことの方が、たくさんあると、私はおもう。だから、もう簡単にあっさりと受験は終わらせて、はやいところ実用の世界、本当に感動する、おもしろい世界に入っていくといい、と、私はおもう。電気の世界も、分子の世界も、本当に繊細で、一人の人間のような微妙な暮らし方をしている。

ところで「良問の風」は、問題に書かれた現象をみて、何の法則がその現象に働いているかを問われている。いくつかの法則が一つの現象に含まれることもある。現象を見て、法則に気がつく、法則をひとつひとつあつかっていく、現象を、時間を追って、ひとつづつみていく。物理の学習の第二段階だ。

山に登る

大学時代に、教授と仲良くなって山登りをしていた時がある。その時の話。「どこかの登山ツアーの人が、天候が悪くて引き返そうとしたんだけど、ツアー客がどうしても行きたいっていうから行ったら遭難したんだよ」と。「この大学に入りたい」とか「この高校に入りたい」という気持ちで来るのがいいが、受験というものがどういうものか、高校を選ぶ、大学を選ぶということがどういうことか、まず話をするのはいかがだろうか。遭難したら、大変だ。

大変なことばかり目につく世の中だから、落ち着いて、心のまにまに、暮らせることがどれだけ幸せか、私も最近、うすうす感じてきたところでもある。

良問とはなにか。

良問があるとしよう。その問題が良問になるかならないかは問題を解く人によって変わる。「この問題はいい問題だね」といえる受験生がいるだろうか?センター試験の問題で良問はあるだろうか。良問に出会えるのは、ある程度「偏差値」というものが高い学校だと思う。もしくは看護学校とか、特徴ある問題を出す学校。いい人と出会うことと同じように、良問に出会うためには良問に出会えたときに良問だと気がつける生き方、勉強をしたらいい。そのためには基礎のときからちゃんと、良問に出会える勉強をしなくてはとおもう。東大で「三角関数の定義」を問う問題がでてきて世間を騒がせた。ほとんどの受験生が解けなかった問題だと聞いている。行きたい学校によって、解きたい問題に応じて、勉強の仕方を変えなくてはいけない、なんとも不便な世の中になったとおもう。

物理がわからない

そんな人が多い。
と聞く。

フシギなのは、わかる人とわからない人がいること、
わからない人は、真面目な人だと私は思っている。
納得できない、そんな説明じゃなんの説明にもなっていないという納得行かない説明しか受けてこなかったのではないか。「そうしたら問題が解けるから」というのは無邪気でいいにしても(最終的には受験のためにみな物理をするから、間違いではない)。ただ、「遠心力という力が存在する」という教師がいたら「いやちょっと、説明してください」と言ったほうがいい。納得できないまま「そんなものか」と思って、頭の中に作り上げていく体系がたまたま

たまたま

間違っていた人が「わからない」というのだとおもっている。
だから「わからない」といって悩んでいい。わからない説明を受けて悩むのは当たり前だ。ただその悩みをどこかで解消しなくてはいけない。生き方に関する漠然とした悩みはこうした解消などというものはムズカシイと思えるが、受験の世界で解消できない悩みはなかなか少ないのではないかとおもう。

「エネルギーって結局何ですか?」という問に答えてくれる先生が近くにいますか?結局納得できる説明はできないかもしれない(科学者もわかっていないこともある)。ただ、疑問におもったことを聞いてくれて、一緒に悩んだり、調べてくれる人がいるといい。(私は理論化学の不合理さを誰にも打ち明けることができなかった。)歩き方を教わる必要はない。歩けるのだから。ただ、どの道を歩くか、それで辿り着く場所が変わってくる。「わかる人」にはわかる人の道が、「わからない人」にはわからない人の進むべき道がある。

当たり前のように書いてある教科書の内容がわからないのは当然だ。
大切なものは書かれていないのだから。そして先生は先生で忙しく、ひとりひとりに気を回せない。だから、みな、悩んでいる。

たったソレだけのことだ。

ムズカシイ文章とは

現代文ができないという人がいる。
いや、日本語なのになぜ?

ひとつには「大学生として読んでもらわなくちゃこまる」文章の話題、語彙についていけない場合。専門用語ばかり使って、専門家しかわからないようにかかれている場合。
もうひとつは、作者が読者にわかりにくい文章を書いている場合がある。具体例やら論理展開がわかりにくい、誰が読んでもわかりにくい文章になっている場合。

現代文は大学によっても傾向が違う。出題のされ方、問題の出し方でも違う。
記述式も選択式も同じ能力がいるのだが、記述式の方が実力がモロにでる。

おもしろい話がある。
私がどうしても理解できない文章があった。言葉の定義、説明、具体例なしに、次々と話が展開していく文章だ。生徒に「これ、何言ってるかわかる?」ときいたら、答えてくれた。それでも私は何が書かれているのかよくわからない。こういう文章がでてきたら…それこそ「わけのわからないことをいう人とコミュニケーションをとってとにかく問題を解く」という寛大なココロが必要なようだ。現代文は実は、問の良し悪しで「それが解答なの?」という問題もある。とても深い。一筋縄ではいかない。だからこそ自信を持って「大丈夫」だと思えるような現代文の勉強をしてほしい。

世の中には、フィーリング読み(なぜそれが答えかと聞かれても答えられない読み方)でちょう高速で文章を読み、答える生徒がいる。
私などは、本当にじっくり、読みふけってしまう。受験生としては、フィーリング、天性の能力があればありがたいのだが。反面、フィーリングで読めない御蔭で私はわかろうわかろうと努力して生徒たちに現代文の読み方を教えることができると思っている。色んな人がいて、おもしろい。