小学生の教科書を見て愕然とする。

今日たまたま小学校の教科書をみる機会があった。

そして驚いたことに。

「会話」がない。
ほとんどが「地」の文、つまり状況説明の文章。

会話に慣れ親しんで小学生になって、初めて読むのが、説明文?????

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昔は民話や伝説を囲炉裏のそばでおばあちゃんやお母さんから何度もなんども聴きながら過ごした時代があった。
そういった「話す文化・聞く文化」がなくなった今、子どもがまず「じっとして話を聞く」ことが困難だ。

小学校に入る以前にこの状態になっていないと、辛い。
子どもが辛いのではないかとおもう。

「話し方・聴き方」のモデルになるお母さんや友達とのコミュニケーションができているのだろうか。
テレビのナレーションのような「地」の文章をいきなり読まなくてはいけない。。。

はながさいた。
きれいなはなが。

みたいな。

外国語は会話から入るのに、国語は会話から入らない、というのは謎だ。
国語力がないないと問題になっているようだが、教科書を変えるだけでだいぶ良くなるのではないか。

会話の中にこそ、感情があり、人間らしさがある。と私はおもっている。

あー!びっくりした!

現代文で要約の練習をする。

すると、回路図のような図が現れる。
書き方もいろいろあって、物理で回路図をやったことを思い出して笑う。
「センター試験に回路図の問題でました!先生とやったの思い出して解けました!」
という報告を今更うける。

うれしいものだ。

現代文で回路図をつかう。

さておき。

小論文の試験では要約をして考えを書くような二段構えになっていることが多い。
要約をするには、全体像を知ることが必要だ。
作者一人ひとり違う癖を見抜いて、何が大切か、骨子をつかむこと。

文章によっては、教養、文章以前に作者が想定している読者のレベルの基礎知識をもっていないと厳しいことがある。
文章の中には書かれていない、それは知っているという前提で表現されたものがあると、読めなくなって困る。

そういうときは、その文章はなかったことにする、とか、、、
作者も伝えようとしていろいろな比喩をだすわけだが、その比喩を読み取れないと辛い。

幸い、現代文の練習ではないから小論文を読むための要約の練習として文章を一緒に読んでいった。
鈴木大拙の文章。

読めば読むほど、文章というのは、不思議な織物なのだとおもう。

今日発見したこと。
小論文で、もしくは現代文で出される文章には二つのタイプがあって、「物の見方考え方・観点・認識」を与える文章と、「主張・提案」を述べるタイプの文章。
「主張・提案」タイプの文章でも、主張・提案に行き着くまでにいろんな考えや事実、根拠を出すだろう。

作者もどちらかのタイプを好んで書くような気がする。
ある作者は新しい視点でものを考える仕方を書いたり。
ある作者は、現代のいろんな現象を分析して提案してみたり。

けど2つはやっぱり繋がっていて、結局は読者がその文章を読んで何を学ぶか、何を考えるかが大切なのだろう。
それを主体的、主観的に書き留めるのが小論文だ。

「作者の話題にしていることがわかった。その話題について作者がどう考えているか、視点もわかった。私の視点はこうだ。」
というのが、小論文だ。

10年後の仕事図鑑1

10年後の仕事図鑑
10年後の『仕事図鑑』とあるが、新しい時代の教科書。

いきなりビビッとくる文に出会う。

『それは、恐れとして避けるものではなく、適応すべき「自然」である』

それとは、新しい時代のこと。

私は自然という言葉が好きだ。
失われて行くもののなかに、大切なものがあると思い続けてきた。
時代とともになくなっていく「人間らしさ」が、私には輝いてみえていた。

けどよく見ると、時代とともに輝いて行く人間らしさもある。
私が子どもと関わるのが好きなのは、まさに、どんな輝き方もできる可能性、創造性をもっているからだ。
子供は。

自然と人間社会を対比する価値観に囚われ続けていた私に、この本は今、ガツンと一撃与えてくれた。
よくよく考えれば、試験問題にこういう新しい文章をみることはできない。
こういう新しい世界の文章は、試験問題にそうそう出てこない。なぜかって、数多くの大学の試験問題をつくる大手の予備校が作り上げてきた世界と、新しい時代は、折り合わない部分があるから。

もう少し読み進めてみよう。。。

良問とは何か(その2)

昔、良問とは何か云々と書いた気がする。

富山高校の生徒とセンターの勉強をしながら、「あ、これは良問だ」と思えるものにあたった。

回答までのプロセスが「マニュアル化」されていない問題のことだ。
当たり前、知っていることをつなげていかなくてはいけない。
けどその繋げ方は、教わったことがない。
考えて、試してみながら、その場で道を作っていくしかない。

そういう問題のことだ。

新しい問題が出るとすぐに受験業界は、教育業界は「マニュアル化」する。

三角関数の何かの定理を証明するような問題を東大が出す。
公式自体は、受験生なら誰でも知っているはずだ!
それを証明しろという問題を東大が出した。

公式つかってるけど、本当に「本当に」わかってるの?本質がわかってるの?
と受験生に問いただした。

その「意図」を汲まずに、受験業界は、問題の解き方を「マニュアル化」する。
新しい「解法」をどんどんつくっていく。
そうして受験生たちは、どんどん「暗記する量」が多くなり、パニックになる。

暗記ではないのに・・・

良問とは、暗記に頼っている受験生には解けない、「君、暗記勉強してるんじゃない?」というメッセージだ。

本質を理解するか、本質を知らずに暗記をするか。
難関大学に受かる生徒とそうでない生徒には、こんな違いがあるんだろう。

くやしいという気持ち。ごめんよバリの生地たちよ。


バリで買ってきた生地の四辺をミシンで縫う作業。

うまくいかない!
何が悪いの?

バリから持ってきた大切な生地、失敗したくない。
インターネットで調べた。どうやら上糸の強さを変えたらいいようだ(人生初、上糸調整)
それでもうまくいかない!

なんでだ?
悔しかった。生地を素敵なスリングにできなくて悔しかった。
ミシンのことについて学びたいとおもった。
何がいけないのか。。。どうしたら、綺麗な、スリングができるか。。。
ごめんよバリの生地・・・

結局、糸が細くて調子がどうしても外れる、ということがわかった。
手持ちの糸では、だめなのだ。

こうやって学んでいく。
悔しくて、もっとよくしようとする。
私はそうやって学んできた気がする。

悔しいとか感じなくて、学べる人もいるだろう。
試行錯誤をしないで、正解にたどり着く人もいるかもしれない。

その人はきっと、昔、おもいっきり試行錯誤をして、いきなりうまくやる方法にたどり着く術を学んだのだとおもう。
挑戦して、失敗してもいい。一生懸命やればいい。受験とはそういうものだとおもう。
悔いのないように、というけれど、悔いが残ることはたくさんある。
悔いが残ったら、やりなおしてもいい。
新しい挑戦をしてもいい。

本気でやれること、大切なことに取り組めないことほど、不幸せなものはないと、私は思っている。
大切なことを見つけられた人は、幸せだとおもっている。

そういえば、「悔しい」という英単語、あったっけ?とおもって調べた。
ない。

あるといえばあるが、日常的ではない。
不思議なものだ。
感情の処理のしかた、処理のされ方が違うのだろうか。
悔しいとき、向こうの人は、感嘆語ではなすのかもしれない。
わからない。今度、外国の人に会ったら聞いてみよう。

うまく縫えなかったけど、バリの生地だし、まぁいいか!
動画はバリではなくインドネシアのスラウェシ島のお母さん。

パズルする物理

http://www.geocities.jp/fried_turnip/hello_passing.gif

センター試験の問題を解いていた。
一緒に解こうとして、いやぁ、何言ってるのかな。となり、回答を見て、いやぁ、何言っているのかなということになった。

回路の図を、問題に合わせて作り変える問題。
回路図を書き直す問題!

こんな問題でるんだ・・・
と思いながら、いじくりまわしたらできた!

重要なのは、問題文に合わせて、自分が知っている形に、解ける形に直すこと。

歴史から学ぶこと

「前の人が失敗したことを繰り返さない」ことだという人がいる。
そうかもしれない。

正月になると家々を歩いてお祝い事を言い施しをもらっていた人たちがいる。
彼らはもともと能力者であり、芸能以前に儀式に関わっていた人たちであり、時代とともに役割を失っていった人たちでもある。
褒め尽くし、縁起のいいことを言いながら安心と満足とを与えて、小銭をもらう。
塾と同じだなぁと、おもった。

時代は変わる。

「塾」はさかのぼること明治以前、新しい思想、西洋から来た学問を知るための場所であった。
修験者たちが霊性を求めて山に入っていった時代。

次に「塾」は学ぶためではなく、大学に入るために成績を伸ばす場所になった。
修験者たちが寺に入っていろんな祭りをした時代。

これからの「塾」は?
修験者たちが山から追われ、里で人々に娯楽を与える時代。
得体の知れない成績とか勉強と付き合うためのコンサルタント・アドバイザー・カウンセラーみたいなものになっていく。

勉強をちゃんと教えられる先生も少なくなった。
生徒を人間として、大人としてみられる先生も少なくなった。
霊性など必要ない。神秘も必要ない。目の前の人を喜ばせてお金をもらうことに必死だ。

こうした流れを知ることで、

絶対に逆らえない時代の中で、身動きが取れなくなってしまった私の今のこの切迫感を、なんとなく感じられるようになった。

句読点が書けない?お母さん、心配しすぎ!

本屋で参考書を探しているお母さんに出会ったら声をかけるようにしている。

「点が使えないんです」
というお母さん。(句読点のこと)

学年を聞いたら、小2、だという。
ちなみに私が句読点を意識したのは中学生。

うーん、句読点の付けかたを学べる参考書、みたことないな・・
と思いながら、小学1年生の国語の本をみたら、句読点が書かれていない。

そもそも句読点というのは、多くてもいけないし少なすぎてもいけない。
基準は、読み手の読みやすさ。

小2で句読点が使えなくても当たり前。
それよりもちゃんと気持ちを書く、型にはめないで自由に言葉を使うようになることが大切な時期。

発達には段階がある。
今は何が大切か、今、お子さんのなかで伸びようとしているチカラは何か。
ちゃんとみてあげてください。

勉強のプロに任せた方がいいのではないかとおもう。
そんな時はおとのねへ!

ドラゴンフルーツは野菜か果物か。

木の全体の写真を私も初めて見た。

ドラゴンフルーツの美味しさは現地で感動済みだ。

ああ、木なんだ!とおもう。

こういう話から、輸出と輸入の話をしてもいいし、どれだけインドネシアの野菜がフルーツなのかを話してもいい。
どれだけ健康的な食生活をしていて、それでいて医療の面では・・・という話をしてもいい。
日本の食の話をしてもいい。そこから消費社会の話をしてもいい。流通の話をしてもいい。

話が繋がっていくのはたのしいことだとおもう。
意外性はドラマであり、物語になる。
ドラゴンフルーツ物語。

疑問に思ったらとにかく調べる。
そうすると、面白い発見がある。
話がはずむ。

学ぶ場所は話ができる場所であるはずだし、
話すためのルール、相手の話したい気持ちや自分の話したい気持ちを受け取り、伝え合う作法を学んでいく場所だとおもう。

今度は生徒に、もっと喋ってもらおうとおもう。
え?なになに、もっと聞かせてよ!

私の知らないことを、生徒はたくさん知っているのだ。