富山県の英語力は全国2位?情報リテラシーを身につけよう。

北日本新聞2019年4月17日

背景知識がないとなかなか気がつきにくいが。

疑わしくは「教員の判断で認めたケース」という項目だ。

また英検準二級がどの程度の英語力か、疑わしい。準二級をとっているのに英語が全く読めない、できない高校生に出会うことがよくあるからだ(穴埋め問題の解き方を学び、英語の読み方を学んでいない生徒がほとんど)。(石川県の私立高校の特進クラスでは、大学受験の「模試」の過去問を研究し、「模試」で結果を出させているところもある。恐ろしい)英語力ではなく、英語検定試験力である。

国内外を含めたくさんたくさんの英語検定試験のレベルを俯瞰するための尺度に、国際基準「CEFR(セファー)」がある。これによると、英検準二級はA2(基礎の第二段階)であり、

日常の基本的な表現を理解して、簡単な会話のやりとりができるレベル。基本的な個人情報や買い物、地元の地理、仕事など、身近な話題については情報交換が可能。

なレベルだそうだ。本当だろうか?検定試験にもタテマエがある。

また、「公立」が対象であることに注意。つまり、「私立」にデキる生徒が集まる都市部についてはそもそも調査対象外ということだ。

富山県は教育県と言われ続け、みなそうだと信じているのが現状だ。お母さんたちは富山県の「ふつう」になろうとしてがんばる。うちの子を全国二位の英語力をもった富山県のスタンダードに!なんて考えていませんか?「うちの子が心配・・・」という不安な気持ちを高ぶらせるマスメディアの情報にご注意。

お母さんの焦りを、プレッシャーを、子どもは敏感に感じています。


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「蛇」は抽象語か

ヘビという言葉はよく聞く言葉だ。

へびさんへびさんとみんないう。

が、実際に見た人は少ないのではないか。

昔の子供たちは、空き地で遊び、蛇を捕まえ、蛇で遊び、蛇を食べ、蛇と一緒にいた。その時は具体的な、目に見える、生々しい蛇との経験がある。だから蛇という言葉は全然抽象的ではない。

国語が苦手、というのは、自分と関係ない世界の、よくわからない物事の「実体」が不明だから、その「名前」もあやふやなものになって、語彙が増えない、という理由があるのかもしれない。今の子どもたちにとってヘビは抽象語であるような気がする。

つまり言葉が生みだされる世界、言葉が育つ世界との関わり合いの少なさは、一人の人間の中で生み出される言葉の少なさに関係しているかもしれない。

テレビを見れば、蛇は拝める。蛇はわかる。

けど蛇の本当の姿とは?どうして「虫」がくっついているの?古代中国の人たちが「虫」という意味に込めた「ものもの」の意味がヘビにこめられている。ヘビはもともと日本語ではツチとかなんとかいった(ような記憶がある)。神であったし、大きな力をもっていた。時代が映ると蛇は忌まわしいものになって嫌われ出したり、聖書では悪者みたいに書かれている。

さて、蛇とはなんなんだろう。たぶん、ゲームの中で出会う蛇が、彼らにとっての蛇なんではないだろうか。くねくねして、噛みついて攻撃してくる。もっとやさしい蛇もいるんだけどね。(マハーバーラタをよもう)

赤ちゃんがお母さんと一緒に何かを見る、いわゆる共同注視という振る舞いがある。言葉によっても、ここにはない、ファンタジーに浸る共同幻視をしたらいい。おとぎ話には、言葉を鍛える力がある。物語は言葉を育てる。

さて、「自由」は抽象語なのだろうか?

「自由」を具体語として生きられるような暮らしをしてみたら、どうだろう。

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授業においていかれたら

もしくは、授業が簡単すぎてつまらない、でもいい。

さぁ、どうする!???

それこそ、考えよう!というより、ひらめこう!

原理は簡単。「どうやったら、目の前で淡々と進んでいく無慈悲なこの世界で権威の支配を受けながら私は成長していくか?」である。「ここで眠っておいて生気を養い次の時間に頑張る」のもありだろう。「先生が言っていることがわからないけどとりあえずでてきた公式全部証明してみよう」とか「なんやこの英文簡単だなじゃぁ要約してみるか」とか「この授業が終わるまでにこの英文は暗記しちゃおう」とか「もはや自習しよう」とか「筆ペンでこの初めて見る二字熟語を今の感情を込めて書いてみよう」とか。「先生の回答よくないな。書き直してみよう」とか。

キレーにノートを書くとか意味のないことはやめよう。

自分にとって最適な課題を正しく設定すること。

点滴受けながら集中治療室でゼーゼーいっているような授業の受け方をしている人!いませんかー!つまらない授業(おいていかれた授業)は、ゲームにしてみてください。ルールは自分でかんがる。隠れて内職するゲームでもいい。なんでもいい。大丈夫だ。先生といくら喧嘩しても、出席日数さえあれば留年はしない。留年の手続きが先生にとってとても面倒臭いからだ。

宿題だったところからランダムに生徒に当てて黒板に書かせるスタイルの先生がいた。私は宿題をしていかない(他にやることがあった)。私は授業中、先生に当てられてから、解き始める。そして他の生徒が説いている途中で黒板の前にゆき、書きはじめ、まぁちょっとイライラしてみている先生を横目に見ながら書き終わり。席に戻る。そういうゲームをしていた。

屍(置いていかれた人)を脇目にもせずつきすすむ戦場の兵士(先生という名の隊長と部下という名の生徒)たちの教室で、屍が蘇るのだから、さぞかしみな驚くだろう。驚かしてやってもいい。だって、学校は戦場なのだから。

さぁ、ルールを考えよう!

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数学は暗記か。

高校受験の数学の問題を解きながら。

いやぁ、やっぱり数学って暗記なの?と思えてしまう部分がある。(実はそれは暗記ではないのだが)どういうことかといえば、問題を解きまくってときまくると、パターンが見えてくるのだ。それを前から、後ろから、繋げようとすると、びびび!っとつながって、答えが出る。

これ、人間関係でも似ているとおもいませんか?

人間関係にもパターンがある。数学の世界でも何が起きるか、無限ではない。幾らかの模様、パターンがあって、その「パターン」をしっているから、(思い出せるから)解ける問題がある(喧嘩をして仲直りするためには何をしたらいいんだろう?パターンがあるはずだ)。このパターンを知るという段階(そのパターンがどんな形で隠されているかはわからないが)、探索、探求の段階が基礎だとしたら、次は規則性、法則性を見つけて、「目当て」をつくってパターンの中に活路を見出そうとする応用の段階がある。

大学受験で言えば、「問題の出題者には意図がある」と思えばいい。そこから何が問われるかというパターンを予測したら、勉強する内容も決まってくる。「基礎」ができたら過去問を解くのが先で、過去問を解いてからその大学に向けた本格的な勉強を始めるのだ。隠されているパターン(問題作成者が見つけて欲しい世界、世界の見方)を知らなかったら、どんな「目」を学びとればいいのかわからない(それはネズミの目か、イーグルの目か)

数学にも模様がある。そのパターンとなれ親しみ、そのパターンの生まれ方を知り、そのパターンと関わって行くこと。(人間づきあいもたくさんの人と出会いながら磨かれて行く)数学の勉強は、この点、英語よりも国語よりも深い。(なぜ今私はこの公式を使っているんだろう?なぜ今こんな式変形をしているんだろう?という逐一を大事にしなくてはいけない

さて、ここで問題です。数学者は人付き合いがうまいでしょうか!?????笑

受験勉強は✖︎だったものを◯にする「作業」かもしれない。できないことをさらけ出して、ひとつずつ、ひとつずつ◯にしていく「作業」かもしれない。当日に、全速力で走るために、競技場に転がっている石をひとつひとつ取り除いていく「作業」かもしれない。

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合理性と感覚以前の、感情と豊かさと、大人と子ども。

このあいだ、数学を一緒にやりながらいろいろと考えた。

三角関数にはいろんな変換がある。よくぞこれだけ見方を変えるな、というほど。それを一つ一つ、「いざ」というときに使えるだろうか?知ってはいる。ただ目の前に「問題」が出た時に、それが使える状態にあるかどうか。

左脳は合理的、言語的で右脳は音楽的、空間的だと言われる。『ことばでつまずく子どもたち』で竹下研三さんは、右脳のことを「空想的」といっていた。なるほど。ぼんやりと脳の中でいろんな変換、いわゆる公式を思い浮かべる、空想する、変形したり、元に戻ったり、いろいろなパターン、模様を作り出す。中学数学で問題になる図形なども右脳だ。ひねったり周り足し動かしたり、そういう働きは全て右脳だ。となると、

数学ができないのは、右脳が育っていないから?(いやいや、右脳と左脳のバランス)

外からの情報は大脳の「視床(辺縁系の一部)」「辺縁系」の順(内側から外側)で情報が回って行く。赤ちゃんもこの順序で成長していく。視床には内側膝状体というものがあり、これを経由して辺縁系に伝えられる。この交差点で、音声の信号は扁桃体という場所にも送られる。ここはうれしいとかかなしいという「情動・感情」を生み出す場所らしい。小さな子がお母さんの声を聞いて安心しながら、まずこの場所が育つ。(完全に完成するまで6、7年かかるという)大人になってくると、自分に必要がない音が辺縁系に行く前にカットしてしまう(聞こえないことにする)カクテルパーティー効果は、この部分で情報を取捨選択して生まれるという。辺縁系は他の動物にもみられるように、本能に関わる部分である。脳の中心部(人間の軸)に近いこの部分は「暮らし」「豊かさ」と関わる脳なのかもしれない。(パン屋のいい匂いを嗅ぐと、優しい気持ちになるのは、この部分の働きだ。)

で、情報は辺縁系のあとに「大脳皮質」「大脳新皮質(連合野も含む)」にもいく。この段階で左右が生まれる。そして音が「ことば」として意味を持つようになる。左右を結ぶのは「脳梁(のうりょう)」である。梁!

世の中にはたくさんの理不尽さがあり、残酷さがあり、嫌なことや戸惑いに出会うことが少なからずある。その時に、まず最初に扁桃体が反応する。「なんだ!いやだこんなの!」頭を抱えて泣き叫んでいる。次に前頭葉さんが登場する。「あー、大丈夫大丈夫。こういう時は、こうするんだよー」と笑いながら、落ち着いて、包み込んでくれる。そういう関係が、実は、子どもが大人とコミュニケーションしながら、学んでいってほしい、本当に大切なことなのだが。理不尽さと矛盾にあふれたこの世界を受け止める心を大切にしたい。「嫌なことだけどする」ことも、大切な何かを守るためには必要なのだと、伝えたい。大切でもないことならケラケラ笑いながら、「なかったこと」にしてもいい。大切なものを守りながら暮らしている人は、美しい。

そのために言葉、習慣、振る舞い、暮らしを選んでいくことが、子育ての、人間育ての要点です。

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学校の先生は残酷か。

ひとりひとりの生徒の自立心、意欲を管理と干渉、命令で抑圧することが、残酷かどうか。

でもこれは一部のお父さんお母さんも当然のようにやっていることだ。

会社という組織でも同じ。会社には会社のやりかたがある。

子どもは子どもでじゃぁどうやって世界で生き残るか、工夫していく。「この世はもっとしあわせなことがある、幸せを感じるようにしよう」という心をつくる子もいれば、「戦わなくちゃ!頑張らなくちゃ!」という子もいる。「え?ノープロブレムだけど?」という子もいる。うまくやるひとはうまくやる。羨ましいくらいに!生きていくために、仲間をつくる、仲間と出会う、仲間を集める、それもひとつのうまいやり方だ。

教育基本法、児童の権利条約に定められている「個人の尊重」という文言と実際が違うじゃないか、条約違反、法律違反だと言うこともできる。ただ、それを「罰する」人がいない。(実際、だれかが時間とお金を使って裁判を起こすこともできるのだが。実験して見てみたい。行政が機能していなければ、司法のほうからアプローチするのも手ではないのか。子どもの権利条約は、国連に申し出ればいいんだろうか?今度問い合わせをしてみようか。正直、ハッピーにならない気がする。)

学校で自殺する子どもを殺したのは誰?親?学校?友達?責任は不在で、誰も咎められない(責任についてはたくさん記事を書いてきた)。学校を卒業してしまえば、赤の他人、関係ない。そうだ、自立した人間なのだから。不登校、成績不振も咎められることではなく、学校という営みは保たれる。そして学校の外で塾やら、なんやらができてくる。「助けるシステム」をつくっていく。安心できる場所を外に見つける。これが子どもを(大人をも)とりまく「ルール」だ。

世の中の「ルール」を知り、その中でどう立ち回るか。教えてくれるひとは少ない。自分の心は自分で守る。あっぷあっぷな保育所のおとな、学校のおとなをどうして罰することができるだろうか。あっぷあっぷなお父さんお母さんをどうして罰することができるだろうか。とびっきりへんてこな歴史をもった日本という行政単位をどうして罰することができるだろうか。みんな、自分を守ることで精一杯だ。だからこそ、思いやりの心は、とびっきりうつくしくみえてしまうのだろう。

怒りにフォーカスしてしまう心よりも、今の時代、喜びにフォーカスができるように、子どもたちと、大人たちと、関わっていきたいとおもえた。

DV防止法というものがある。正確には「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律」だ。見ての通り、暴力を振るった側には「罰」を与えることはできない。ケッキョク、自分の身は自分で守るということなんだ。

人間が暮らしていく過程で、いろんな協力体制を築き上げた。家族は、婚姻は、かつては村の出来事であって、個人の出来事に留まることはなかった。現代における子供と親の関係、子どもとそのまわりの大人の関係も変わってきた。あたらしい「協力体制」が少しでも、利己的な個々人がしあわせな暮らし、リッチな暮らしを実現する助けになればいいとおもう。そんなオトノネになろう。


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英語の勉強で英英辞典を使うことを勧めることもある

英語の勉強法というものは本当に、いやぁ、ひとそれぞれ。

ひとそれぞれすぎて笑えてしまう。

とにかく穴埋め、選択に命を燃やす子もいる。

不思議と何も勉強しなくても読めてしまう子もいる。

ある人は(おとのねさんは)洋楽を歌いまくっていたという。

人それぞれすぎる。。。。。

だから自分の方法を見つける、のが実は、一番いい。

とある高校生は、「英語、なんで和訳しなくちゃいけないんですかね。そのまま読んだ方がいいのに」とのたまわれる。少し一緒にやって見ると、なるほど。文法の細かいところにも気が付けているし、何よりも発音がいい!日本語に直すような勉強法が合わない、違和感を感じるのも納得できる。英語としてまるごと、その子は英語を学ぼうとしていた。

で、日本語訳の問題が、その子の志望大学で出されるか調べると・・・・

でない!!!!やった!

ということで、とりあえず辞書は英英辞典をつかってみることをお勧めした。

あと、『ハートで覚える英文法』を読んでもらって、感想を教えてもらうことにした。


「汝自身を知れ」というのが、本当にどれだけ大切か。僕自身、もっと知りたいんだけどな。。。

受験勉強で「これをしたら大丈夫」ということは全然まったくない。「これでいいのかな?大丈夫かな?やってみて、しっくりくるかどうか、とりあえずやってみて、また修正していこう」と思って欲しい。実際、社会に出ても同じだ。何か違うなとおもったら、誰かに聞いてみる、誰かを真似してやってる、自分で精一杯やってみる。そんな真剣さ、本気が何かの成果に結びつく。本気でやるからこそ、きちんと振り返れる。世界で一人だけの、そんな孤独な受験という経験を、おとのねはほんのちょっぴり応援できればとおもっている。


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大学受験に必要な考え方(高校受験とは違う)

みんなに同じ課題を出す学校。

みんなに東大に行くよう指示する学校。

東大を目指すための勉強。

ひとりひとり違う目標に向けての勉強ではないことが多い。

とある大学を目指している高校生。その子が「自由課題」として出された物理の問題集がある。いやぁ、物理ですか・・・物理は「物理」で困っている人と「数学」で困っている人にわかれるが。さて。

一緒にやって見ると、その子は物理の「数学」で困っているようだった。(物理の問題なのに「数学」のチカラを問う大学がある)で、その子の行きたい大学の過去問を一緒にといてみると。。・・。

見事に、「物理」の問題だけであった。

つまり学校で配られた問題集を全部とく必要があるのではない。「あ、これは私には関係ない」と思ったら、とく必要がない問題が学校から出されることがあるということだ。見分けられずに「与えられたものを全部やる」のは、違う気がする。

誰のための進路か。

高校受験は県内同じ問題。だけど大学受験は違う。大学受験は「うちの大学で学びたいの?じゃぁこういう勉強してきてよ」という思いが、入試問題に込められている。まずはこのメッセージを読み取ることからはじめたらいい。(受験まじかの富山中部の子が「私は記述式いらないのに記述式も役に立つからといって記述式の問題を解かされる、まじでいみわからん」というのを聞いたことがある。その後、どうなっただろうか・・・受験生には自分のモチベーション、自立心を大切にしてほしい)

大学に行かない子もいる。(高校生の時に税金とか年金とか、手続きの話、子供が生まれたらどうするかなど本当に「生き抜く」ための基礎を教えないのはなぜだろう)

発達の段階からいえば、思春期を過ぎた高校生は、大人そのものだ。大人である。発達を助けるために、大人としての初めての試練として受験という経験で、儀式で、成長をしていくために、大人たちはどんな手伝いができるだろうか。

ひとりひとり違う音色をもって、音を響かせる方が、気持ちがいいし、みんなハッピーになれると僕は信じている。

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数学がニガテな子

中学2年生の子。

数学がニガテ。。。という話でおとのねにやってきた。看護師になりたい!ということでばっちり目標が決まっている!よし!本気だしていこー!

実際に数学をやってみると。。。数学の「言葉」がわかっていなかった。普段使っている言葉と同じように、数学にも言葉がある。数字を追いかけて計算することとは別に、数学の言葉を知らなかったら数字の表す「意味」がわからなくなる。数字と数字の関係がわからなくなる。だから連立方程式だとか簡単な計算はできるけど、特に、図形ができない!という理由もばっちりわかった。文章題が解けないのも、同じ理由だ。

学校では計算方法を教わり、解法を教わる。「こうすれば、とけるよ」。けど、「こうすれば」の中に含まれている言葉、言葉、言葉がわかっていなければ、問題が解けない。

日常生活のなかで赤ちゃんは、子どもたちは、どのように生活したらいいかを生活しながら覚えていく。そのなかで例えば「トイレのしかた」があるだろう。トイレに向かってからトイレを出るまでの数々の動作(電気をつけたり消すことも!)繰り返し覚えていく。これが日常行為のレベル。

数学は?日常的には覚えていけない。約数ってなに?公倍数ってなに?言葉の意味を知り、数字で言葉の意味を確認していく時間が必要だ。日常生活のなかで言葉を理解するまでに子どもたちが費やす時間をおもえば、間違えながら言葉を身につけていく時間の長さをおもえば、またひとりひとり時間のかかり方、理解の仕方が違うことをおもえば、「この単元はこれでおわり。次いくよー」というやり方ではついていけない子がいて当然だとおもえる。

統廃合が進み、勉強に困る子がふえるだろう。

お父さん、お母さんが子どもの学習環境を学校の外でつくってあげることが大切になってくる。

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オトノネの先生は研究者タイプだから英語の勉強法を考えている

日本の英語教育、なんか変だ。
大人になってから、大学受験英語をまぁ使える形に直すのに苦労するのはしようがないとして。

英語で困っている子はなんで困るかがわかった気がする。
言葉の発達の順序で学んだらいいんだとおもった。

文法別に学んでしまうとわからなくなる。
今ありがちな「よくある状況」で会話する練習をしていたら不自然になる。

本を探そうかとおもって検索したら、いいHPみつけた!
英語のHP
これもいい
これも使えそう
いやほんといろいろでてきました。
ちなみに「language development」で検索しました。
こんな役立つ情報が!!!!

日本語で「言葉 発達」もしくは「言語 発達」と検索すると・・・

検索してみてください。

幸せにそだてる情報ではなく、不安を煽るような情報がでてきます。

にっぽん!

子育ては、言葉育て。心育て。体育て。
一番近くにいる大人が積極的に関われないと、「時代」に任せることになる。「地域」に任せることになる。
その結果が、言語発達遅滞、精神発達遅滞、身体機能発達遅滞。

教育は、保育は、時代が変わっても変わらない人間性を、時代から守ることなのではないかとおもえた。

学習障害やら、注意欠損やら、多動やら、言語症やら、精神遅滞やら、社会的コミュニケーション症と呼ばれるものは、私には、多くの場合「世の中の情報を処理しきれなくなった子どもの拒絶反応」「いや、もうこの世界無理だから。どうしていいかわかんないよ」というサインなのではないかとおもっている。もちろん、器質的なものも、あるのだろうけれども。

世界を学ぶ。
心を学び、言葉を学び、体を学ぶこと。
大切!

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