おじさんが英語を喋る

英語、を喋るおじさんがインドネシアにはたくさんいる。道端で寝転がっているおじさん、おばさんすら英語を喋る。どうしてか。もちろん観光地、での話だ。観光客に話しかけるため、英語を学ぶ。日本はおそらく、行政としては英語をたくさん勉強するように公教育として計画されてはいるものの、実際に英語を使える人は少ない。それもこれも、やはり結局大学受験のための英語であり、なかなか学生の時代に話ができないからだとおもう。私自身、受験英語をとおして英語が喋れるようになったのだが。。。

どうしてインドネシアではおじさんおばさんも英語を喋れるんだろう。今日ふと気が付いた。英語を喋りたい、英語を喋ることで生きようとしている人がたくさんいるのだ。自営業がたくさんいるのだ。例えば道端のタクシーのおじさん。ツアーガイド、民宿ホテルがインドネシアの観光地にはたくさんある。そしてどれもいわゆる自営業だ。日本はどうか。大きな組織、会社でやっていることが多い。そしてツアー客の多くは大手の会社の宣伝をみて、そのまま大きな会社の案内で観光をすることになるだろう。学生たちも「会社に行くものだ」と思っているのだとおもう。私はそうだった。日本はそういう現代文化を継承している。高度経済成長時代からそうだ。広告、宣伝、大量生産がものをいい、資本を持ったものが市場を占める。これを資本主義といっていいのかどうか。インドネシアには広告というものがない。広告の分、人が喋っている。人が道に出ている。人と人が直接関わる。資本主義というのは、資本を持った者、初期投資ができる人間が、人と人が直接話をし、出会い、交渉をする近代以前の市場を解体する現象だと言えるかもしれない。だから行政は、自治体は、この現象に対して、個々人の出会いを守るようなしくみをつくるとよいのだろう。現象をみて、バランスを取る。というのはどうだろう。これは政治に関わらず、ふつうの日常生活でもいえることだ。自分の中で起きて来る現象、性格、気質、暮らしながら作り上げられて来た心の働きをそのままにしていたらバランスが悪くなる、状況が変わっても、変わったことに気がつかないことすらある。バランス。

コピー機会社のお兄さん

otononeに複合機がやってきました。製本もできる優れもの。
ところでこの複合機を設置して、コンピューターから信号を送ったり受けたりする設定をしてくれたお兄さんと話をしていたらおもしろかった。
ゲームを作る学校にいて、ゲーム会社にいたけど、それから営業というか、人と関わる方に向いていると思って、いまに至るという。やさしい感じのお兄さんだ。今でも、どこぞのゲームショウの会場では、お兄さんが卒業した学校はお兄さんのつくった卒業制作のゲームを展示しているという。

パソコンの設定がうまくいかなかったのだが、いろんな人に聞いてもらったり、自分で調べたりして、どこまでできるか、何ができないか、もしそうしたら、どうなるか、などなど詳しく話をしてくれた。自分に合っている仕事を選べば、自分がじぶんらしく振る舞える仕事を選べば、いいんだろう。そう思えた。いろいろな人生がある。「先生にもなれるんじゃない?」と僕がいうと、お兄さんは「相手の持っている知識とか、知っていることに合わせて話すのが、それから何よりも、待つのが苦手なんです笑」と。

小学生のころ「ゲームを作る会社に入る」といっていた、ゲーム好きの友達は今、何をしているんだろうか。

山に登る

大学時代に、教授と仲良くなって山登りをしていた時がある。その時の話。「どこかの登山ツアーの人が、天候が悪くて引き返そうとしたんだけど、ツアー客がどうしても行きたいっていうから行ったら遭難したんだよ」と。「この大学に入りたい」とか「この高校に入りたい」という気持ちで来るのがいいが、受験というものがどういうものか、高校を選ぶ、大学を選ぶということがどういうことか、まず話をするのはいかがだろうか。遭難したら、大変だ。

大変なことばかり目につく世の中だから、落ち着いて、心のまにまに、暮らせることがどれだけ幸せか、私も最近、うすうす感じてきたところでもある。

たいようのおなら

塾っぽいことを書いてみようとするが、ムズカシイので諦める。

最近、引っ越しの準備をしながら、よくもまぁこんなに買ったものだと、本を整理しながらおもった。美術関係の本、整体、身体に関する本、数学、歴史に関する本、文庫本、詩集、音楽の本、いったいこれからどうするつもりなんだろう?建築家になるといっていた時期もあった。ランドスケープ、庭園、持続可能社会にこだわった時期もあった。多分僕は、自分が進まなかったその道を進む力を生徒たちに感じるのだとおもう。ある理系の生徒から「動物行動学おもしろいんですよ〜」「え?もしかして日高さん知ってる?」という話になって楽しかった思い出がある。別の生徒は、ストレッチにこだわっているというから、ヨガのおすすめの本(英語)をプレゼントした。最近、翻訳されたらしいが、分野によっては翻訳が追いついていないものもたくさんあるのだ。。。。

生徒は、コドモは、少なからず僕の人生の一部をどこかしらにもっている。遠いつながりかもしれない。あのとき僕がああだったら、ああなっていたかもしれない。その一部を、子どもたちが僕にみせてくれているように思える。幼稚園、小学生なんて、僕にとっては大先生なのだ。

早く生徒と出会いたいとおもう。
来てくれるかな?


『たいようのおなら』

子どもたちの詩をオトナが選んで一言添えている詩集。
詩ってそもそもなんだ?

世界のみかたが、どうも固くなって、本当の世界をみられなくなりがちになったなぁというかいつもそうだと自分のことをおもう。もっと直感的に、そのまま、ありのままの世界を、ありのままのココロでつかんで、ことばにする。なんてすてきなことなんだろうとおもう。

僕がある日、本当に奇跡のような日に、こんな文句が浮かんできた。
「おならがでたよ ぷん 生きてるっていいなぁ」そのコトバが産まれたときに、そのコトバを抱きおろしてくれる人がいたからこそ、このコトバは本当に産まれてこれたし、僕のこころのなかにも残っているのだとおもう。孤独の中で生み出される詩は、たいてい、私の場合は、固くなって出てくるようにおもう。そんな気がする。