日本の文化ってなんだろう。
今日、インドネシアのイベントに参加してマカッサルの人と話した。日本のひきこもり現象とカウンセリングによる治療の話した。するとそのはなしは彼女もしっていたようで、「インドネシアだったらみんな友達いるし、喋れるからね。日本でカウンセラーにお金を払ってはなしを聞いてもらうなんていったら、私の(インドネシアの)友達はゲラゲラわらっていたよ」と。日本が紹介できる文化、ひきこもり。
日本の文化ってなんだろう。
お茶?武士道?武芸・芸能と文化は同じだろうか。
日本の文化を紹介して下さいといわれたら、なんといいますか。
アニメ、マンガ、オタク。なるほど、それも文化といえるかどうか。
語源を頼りにものを考えてみると。
cultureは動詞cultivateの名詞だから。育てたもの、育てられたもの、もしくは育てるという行為そのものを表しそうだ。
育てたものは風土だとしてみよう。
育てられたものは何か。
まさしく、日本人そのものだ。
僕はインドネシアにいったとき、Abdiが「インドネシアの人が日本の文化を知りたいというとき、彼らは、日本人がどんな人間かを知りたいんです」と教えてくれたのを思い出した。これを頼りに考えると。
日本の文化=日本人という人間
だとしたら、アニメやマンガ、武士道やらは、文化の産物といえる。文化そのものではない。日本人がそれをつくったわけだ。
例えば、Abdiは勤勉さ、規律正しさを日本の文化だとした。「働きすぎるのは日本の文化の産物だ」というと、どこかおかしい気がする。
日本人がそもそも文化を語るというのが、どこか居心地が悪い。僕自身、文化というものを捉えそこねている。
アニメを作り出した日本人のこころは?
オタクを作り出した日本人のこころは?
お茶は?武士道は?
そう思うと、僕たちは文化という言葉も、cultureの意味ではなく、日本という島国の中だけで通じる新しい言葉として使っていることになる。言葉の響きが、空虚だ。
日本の文化ってなに?寿司?
生ものを食べるその歴史がわからなければ、文化をつまり人を育ててきたなにがしかを知らなければ、寿司を食べるという行いを生み出したそのものをわかったことにはならない。僕は、世界で生肉を食べる文化の分布を調べたら、きっと新しいつながりが、それこそ本当に今までとは違う文化交流ができるのではないかとおもっている。
例えば、日本の食べ物は、西は味が薄く、東は味が濃いという。どうしてか、考えてみたらいい。
それが日本人を育ててきたものを知るというもので、それが日本人を知ることになるかもしれない。
極楽浄土にいければいい、という人が多いのは、いうまでもないが。
この言葉の意味の空虚さが文化産物だとすれば、日本の文化のひとつには、言葉の意味よりも、言葉をつかう状況で理解し、行動を決めてきた日本人の姿が、こころがおもいうかぶ。「この状況ではあの言葉をつかい」「あの状況ではこの言葉をつかい」という言葉の体系。マカッサルの彼女が言っていた。マカッサル人は、ものをはっきり言い合ってコミュニケーションする。なぜかといえば、彼らは航海しながら人と商売をすることがナリワイだったから。全部ちゃんと言葉にするんだと。一方で、ジャワの人は農民が多いから、言葉以外の状況に頼ることも多々あると。農業大国だったから?じゃぁどうして今の、農村部でもない都会部でも人は農村と同じコミュニケーションをするのか。実際どうなのか。誰か、研究者の人、調べてくれませんか?この研究はうまくいかないだろう。自分のことはうまくみえないことがおおい。同じことはキリスト教の文化に浸ってきた西欧の国にもいえる。気がつかない。そとからみれば「いやいやどうかんがえてもちがうでしょう」ということも、外の目線から、外からの言葉がけによって気がつくことがある。これこそ「異文化交流」であり、「自己欺瞞」を改める、困難な仕事であるようにおもう。異文化交流は、つらいことなのだ。
こころがだいじ