宇宙一わかりやすい参考書が売れている

「新しく出たイイ参考書」が売れていることを知っている。
「新しく出たイイ参考書」が売れていないことも知っている。

世の中はいいものが出回るわけではない。
社会心理学、経済心理学という分野もあるほどだ。
人はいいわるいだけでは判断しない。

いいもの、の基準が人によって違うし、そもそもいいものが何かわからない。
昔の人はよく「根っこ」を食べようとしたものだと感心してしまう。イイものかどうか、よくよく吟味したのだ。
現代人は、体を使って、感覚を研ぎ澄ませて吟味してイイワルイを判断しているだろうか。新しいものが出て来すぎて、吟味する時間もないのかもしれない。

otononeに生徒が来ません。どうしよう。
イイ先生だけど、塾はワルイというパターンがあるのかと、考え込んでしまう。

泉丘高校、二水高校、錦丘高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク1)

高岡高校、富山中部高校、富山高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク2)

富山県で小さな塾をはじめた東京の先生が高校生の課題の多さに心を痛めている個別指導otonone-オトノネ-(リンク3)

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スーパーで学ぶ競争社会

「他店に対抗!」と書いてあって、卵が激安だった。
ああ、競いあわなくちゃ、生き残れないのか、ふりむいてくれなくなるのか、とおもった。私が一番避けて来たことだ。
競い合っていたら、みえなくなる自分がいる。けどついつい競い合ってしまう。大切なことのために競い合う勇気が、なかったなと気がつく。

世の中にはSEO対策というものがある。昨日、SEO対策を、捨てて、
本当にわかることだけを目指してHPを作り直した。

私は本当に、頭がわるいのだ。

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アウシュビッツは自由・平等・平和の象徴か。

私は自由も平和も平等もこの世界にはないと思っている。
それらの言葉を掲げることが西欧文化と折り合いをつけるために都合が良かっただけで、日本は明治以降にとってつけた漢字でハイカラをしているだけのようにも思える。ハイカラという言葉も、死語になっただろうか。

私たちは自由か。自由とはなんなのか。そんなことを話してもおもしろくなさそうだ。
「自分を自由にしているか、相手を自由にしているか」の方がおもしろい話ができそうだ。
政治経済、現代社会で憲法や法律をならう。なぜ法律が必要か。世の中に出ると、他人は人を酷使してくる、都合のいいようにする、傷つけてくる。そうした攻撃から、自分を守るためだ。

私たちの国は平和ではない。犯罪の報道、事故の報道ばかりする国がどこにあるだろう?人の不安を掻き立て、いろいろな製品を売りたいのだ。不安は人を動かす。

私たちは平等でない。
平等という名の下に、自由を失う。平等という名の下に、平和を失う。そういう状況に出会ったことはないだろうか。
もう日本人は、抽象語、二字熟語をほとんど、使用できていない。

私にとって学校は、不自由であり、不平等であり、平和ではなかった。
そもそも自由・平等・平和ということばが曖昧なのに、どうしてこれ以上話をすることができるだろうか?

私ならとりあえず、平等であるとは言い悪いで評価判断しないこと。自由とは自分に積極的責任をもつこと。平和とは、自分の心と体のバランスに気をつけること、と言い換えておこうか。
どうすれば、オトナが、言葉を教えずに、コドモは言葉を覚えることができるだろう。学校は引きこもりだ。文部科学省というモンスターペアレンツに怯える、ブラック企業だ。その中で笑顔で作業しているコドモたちは、どこかアウシュビッツを生き抜く人々のように、たくましく思える。彼らは、彼女らは、自由であり、平和であり、平等であろうとしているのだから。

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黒船がきた!

さぁ、君ならどうする。

最近市役所や学校といった公の組織と何かができないかとおもって話を聞いている。
話ができない。話にならない場合がほとんどだ。「責任がとれませんから」とか「もう年度の初めにすべて決まっているので」とか「忙しくて」とか。本当に何かを生み出すような対話にならない。丁重に断るために話を聞いてやっている、という気持ちすら伝わってくる。「クレームがあると・・・」という言葉が常套句。忙しい忙しいで大変な学校で暮らす生徒は主体的、個性的な自分自身を忘れていくかもしれない。オトナは生活を管理し、課題を出す看守のようだ。囚人はその作業をこなしていく。これが私の学校観。

思えば組織というものは保守的だ。組織を守るために個人を利用する。個人もその組織があるからこそ守られているから、お互いに助け合っている、といえる。それを「日本を守るために」といっていたあの時代と変わらない、と思った人はするどい。また黒船が来た時、日本が二つに別れた。例えば坂本龍馬はそれで会社をつくった!日本が動いている、別に「まるまる主義」「まるまる派」でなくても、自分ができること、したいことをする。そういう態度が龍馬の魅力なのだろう。

時代遅れのものというのは、時代をみていない、時代をみて、時代が動いているリズム、すでにもう生まれ、鳴り響いている時代のメロディーとどう関わりあうかだ。何も見えず、聞こえず、感じない世界が、これからやってくるかもしれない。「生徒たちは学校が終わったら家に帰ってゲーム」というのもどの学校も同じだ。もう、面白くないのだ。地域振興、地域復興というが、コドモたちが家に引きこもる地域だったらだめだ。私はだめと言い切ってしまう。道を歩いていても人がいない、面白い人がいない、とにかく人がいない、どこにいっていいかもわからない。ゲームをするのが一番合理的だ。賢い選択だ。ゲームはまっていればいくらでも新しいものがでてくる。スマートフォンという時代と共演している。

役所も学校(文部科学省)も、まだ戦時・戦後の「立場主義」を守り抜き、いまだに「国家総戦力」を演じている。戦う相手は決まっている。黒船だ。私たちは、工場で働いたりや兵隊さんになる代わりに、よりよい消費者になり、労働者となることを求められている。まさに学校がそうではないか!学歴社会でなくなった今でも、高学歴社会を演じている。もう高度経済成長期は終わっているのに、当時の文化がまだ残っている。日本は、どうも、そういう国らしい。

さぁ、君ならどうする。
新しいゲーム機を買おう!?

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おじさんが英語を喋る

英語、を喋るおじさんがインドネシアにはたくさんいる。道端で寝転がっているおじさん、おばさんすら英語を喋る。どうしてか。もちろん観光地、での話だ。観光客に話しかけるため、英語を学ぶ。日本はおそらく、行政としては英語をたくさん勉強するように公教育として計画されてはいるものの、実際に英語を使える人は少ない。それもこれも、やはり結局大学受験のための英語であり、なかなか学生の時代に話ができないからだとおもう。私自身、受験英語をとおして英語が喋れるようになったのだが。。。

どうしてインドネシアではおじさんおばさんも英語を喋れるんだろう。今日ふと気が付いた。英語を喋りたい、英語を喋ることで生きようとしている人がたくさんいるのだ。自営業がたくさんいるのだ。例えば道端のタクシーのおじさん。ツアーガイド、民宿ホテルがインドネシアの観光地にはたくさんある。そしてどれもいわゆる自営業だ。日本はどうか。大きな組織、会社でやっていることが多い。そしてツアー客の多くは大手の会社の宣伝をみて、そのまま大きな会社の案内で観光をすることになるだろう。学生たちも「会社に行くものだ」と思っているのだとおもう。私はそうだった。日本はそういう現代文化を継承している。高度経済成長時代からそうだ。広告、宣伝、大量生産がものをいい、資本を持ったものが市場を占める。これを資本主義といっていいのかどうか。インドネシアには広告というものがない。広告の分、人が喋っている。人が道に出ている。人と人が直接関わる。資本主義というのは、資本を持った者、初期投資ができる人間が、人と人が直接話をし、出会い、交渉をする近代以前の市場を解体する現象だと言えるかもしれない。だから行政は、自治体は、この現象に対して、個々人の出会いを守るようなしくみをつくるとよいのだろう。現象をみて、バランスを取る。というのはどうだろう。これは政治に関わらず、ふつうの日常生活でもいえることだ。自分の中で起きて来る現象、性格、気質、暮らしながら作り上げられて来た心の働きをそのままにしていたらバランスが悪くなる、状況が変わっても、変わったことに気がつかないことすらある。バランス。

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文化って何だろう

日本の文化ってなんだろう。

今日、インドネシアのイベントに参加してマカッサルの人と話した。日本のひきこもり現象とカウンセリングによる治療の話した。するとそのはなしは彼女もしっていたようで、「インドネシアだったらみんな友達いるし、喋れるからね。日本でカウンセラーにお金を払ってはなしを聞いてもらうなんていったら、私の(インドネシアの)友達はゲラゲラわらっていたよ」と。日本が紹介できる文化、ひきこもり。

日本の文化ってなんだろう。

お茶?武士道?武芸・芸能と文化は同じだろうか。

日本の文化を紹介して下さいといわれたら、なんといいますか。
アニメ、マンガ、オタク。なるほど、それも文化といえるかどうか。

語源を頼りにものを考えてみると。

cultureは動詞cultivateの名詞だから。育てたもの、育てられたもの、もしくは育てるという行為そのものを表しそうだ。

育てたものは風土だとしてみよう。
育てられたものは何か。

まさしく、日本人そのものだ。

僕はインドネシアにいったとき、Abdiが「インドネシアの人が日本の文化を知りたいというとき、彼らは、日本人がどんな人間かを知りたいんです」と教えてくれたのを思い出した。これを頼りに考えると。

日本の文化=日本人という人間

だとしたら、アニメやマンガ、武士道やらは、文化の産物といえる。文化そのものではない。日本人がそれをつくったわけだ。
例えば、Abdiは勤勉さ、規律正しさを日本の文化だとした。「働きすぎるのは日本の文化の産物だ」というと、どこかおかしい気がする。
日本人がそもそも文化を語るというのが、どこか居心地が悪い。僕自身、文化というものを捉えそこねている。

アニメを作り出した日本人のこころは?
オタクを作り出した日本人のこころは?
お茶は?武士道は?

そう思うと、僕たちは文化という言葉も、cultureの意味ではなく、日本という島国の中だけで通じる新しい言葉として使っていることになる。言葉の響きが、空虚だ。

日本の文化ってなに?寿司?

生ものを食べるその歴史がわからなければ、文化をつまり人を育ててきたなにがしかを知らなければ、寿司を食べるという行いを生み出したそのものをわかったことにはならない。僕は、世界で生肉を食べる文化の分布を調べたら、きっと新しいつながりが、それこそ本当に今までとは違う文化交流ができるのではないかとおもっている。

例えば、日本の食べ物は、西は味が薄く、東は味が濃いという。どうしてか、考えてみたらいい。
それが日本人を育ててきたものを知るというもので、それが日本人を知ることになるかもしれない。

極楽浄土にいければいい、という人が多いのは、いうまでもないが。

この言葉の意味の空虚さが文化産物だとすれば、日本の文化のひとつには、言葉の意味よりも、言葉をつかう状況で理解し、行動を決めてきた日本人の姿が、こころがおもいうかぶ。「この状況ではあの言葉をつかい」「あの状況ではこの言葉をつかい」という言葉の体系。マカッサルの彼女が言っていた。マカッサル人は、ものをはっきり言い合ってコミュニケーションする。なぜかといえば、彼らは航海しながら人と商売をすることがナリワイだったから。全部ちゃんと言葉にするんだと。一方で、ジャワの人は農民が多いから、言葉以外の状況に頼ることも多々あると。農業大国だったから?じゃぁどうして今の、農村部でもない都会部でも人は農村と同じコミュニケーションをするのか。実際どうなのか。誰か、研究者の人、調べてくれませんか?この研究はうまくいかないだろう。自分のことはうまくみえないことがおおい。同じことはキリスト教の文化に浸ってきた西欧の国にもいえる。気がつかない。そとからみれば「いやいやどうかんがえてもちがうでしょう」ということも、外の目線から、外からの言葉がけによって気がつくことがある。これこそ「異文化交流」であり、「自己欺瞞」を改める、困難な仕事であるようにおもう。異文化交流は、つらいことなのだ。

こころがだいじ