富山中部高校の情報

生徒としてきてくれた子は高岡高校と富山高校であって、富山中部高校の生徒の情報がなかったが。

(このブログで「富山中部高校」と検索してくれた人がいたのでこの記事をあえて書くことにした)

オトノネにといあわせてくれた富山中部高校に子どもが通っている保護者の方から聞いた話だと、高岡高校、富山高校と変わらないかなぁというイメージだった。課題づくし、一人一人の進路を無視した東大、旧帝大、国立のための指導。予習前提で光のように進む授業。

あえて違いというか、僕の印象を語れば、僕が富山中部高校にチラシを配りにいった時、他の高校と違ってけっこうはっきりと「話」をしてくれる人が多かった気がする。富山県No1の「偏差値」であることの自負か、メタスキル として言葉のチカラをもっている子が集まるからか。

それにしても、富山中部高校でも「私立希望なのに記述問題をやらされる」という不満を述べる子、歩きながら今日の(使わない)数Ⅲの授業の予習をしている子などなど。心のバランスは大丈夫だろうか?自分の進路、自分の道を応援してくれるようなオトナに出会っているんだろうかと心配になった。もちろん!中部高校でも自由に生きている、学校と自分の線引きをしている、うまく立ち振る舞う人がいる。苦しんで潰れた子の話も聞いた。病気になる子もいる。

今の世の中、一流の会社に行ってもそんなに課題をだしたりしない。心のない仕事が求められるのは、二流、三流の組織だ。と、僕はおもうのだが。(僕にとっての一流の組織とは、創造的な組織のことだ。二流三流がが悪いわけではない。)創造的な暮らしをしたいなら、高校生の時から創造的に生きてみるのもいいだろう。もう大人なのだから。


思春期、人間として通過儀礼を受ける時期、高校は試練を与える場所であるとわりきってみてもいい。その試練を乗り越えることを助けてくれる人との出会いが、決定的に、どんな高校に入っても、大人になろうとしている子どもたちを成長させるきっかけになるだろう。子ども(中学校)のときの価値観で高校という困難を乗り越えることは、ちとキビシイ。

高校の選択肢が少ない富山県、高校選びを諦めて、学校の外で大人探しをしたらいいのかもしれない。

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資源としての組織

学校は子どもたちの居場所のひとつだ。学校が全てではない。


繰り返すようで申し訳ないが、、学校は学校で背負ってきた歴史があり、大人の事情があり、おかしいことは確かにおかしいのだが、それを責めたりすることはできない。人にも歴史があるように、学校にも歴史がある。人がなかなか変わらないように、学校もなかなか変わらないのだ。(もちろんそんな学校でも、人によっては楽しい場所になる。友達と会えるから!部活があるから〜!いい先生に出会った幸運な人もいる)人間が変わらないから、学校が変わらないといってもいいのかもしれない。

だから僕はこう考えている。学校は社会の一部で、社会によくある組織の一つでしかないと。子どもの暮らしの一部であり、社会資源の一部であると。学校は利用するものだと。

だから学校以外の資源を豊かにする方が、子どもにとって、そして社会にとっても有益だ。学校の外に出てみよう。学校の外でいろんな大人に出会ってみよう。学校の中が世界の全てではないという当たり前のことに気がついてみよう。

資源とは利用するもので、組み合わせられるもので、学校以外の社会も〈学校と同様の価値〉がある。とおもってみよう。人はパンだけで生きているのではない。そうしたら、別にどこの高校を選ぼうが、高校を生活の一部にして、他の場所で自分らしく、人間らしくなれる。どの高校を選ぼうが。どの大学を選ぼうが。行ってみてわかることがある。行ってみて初めて困難に気がつくかもしれない。そんなとき、助けてくれる人と出会うほうが、自分自身を助ける術を学ぶことのほうが、また困っている人に声をかける方が、高校を選ぶことよりも価値があるように思える節もある。もちろん、「逃げる」という選択肢もありだ。環境は少なからずその人をカタチ作るから。

会社に入って、「なんかへんだなー」とおもいながら、けじめをつけながら、自分を包み隠さずに自分らしく人と関わり、新しい人間関係をつくっていきながら、会社で悩んでいる人を助けながら生きている人を僕は知っている。

何がなんだかわからないから、とりあえず、心を大事にしていきたい。


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高岡高校がサバイバルな件

課題課題と言って来たが、今日、新しい事実が判明。

宿題には二種類ある。「課題」と「予習」である。

課題=宿題だと思っていた僕は大いに驚き、また想像ができなかった。え?予習?

富山高校も富山中部高校も同じなのかな?自称進学高校も同じかな?

高岡高校の生徒が「もう課題やらないからな!!!」と先生に、職員室前(?)で叫んだところ、そのまま生徒指導(教科指導?)行きになったという話などなど、「課題」というモンスターの存在は知っていたが、まさか、予習という名の亡霊までいるとは。。。

予習という名の亡霊は課題よりもタチが悪いかもしれない。授業中に予習の範囲を板書することになっているので、集団心理が働く(これも人によりけりだが)「みんなの前で忘れたというのは恥ずかしい!」とか「俺できる!できるんだから見栄を見せないとね!」とかいう人間の心理をくすぐるようだ。。。

もうすでに置いていかれた生徒にとって、予習も、課題も、やっても受験には役に立たない。はっきりしている。多く見積もって8割の生徒にとって、予習も、課題も、息を切らすものでしかない。ほとんどの生徒がセンター試験止まりの中堅大学に行き、その他の生徒が消息を立つしくみだと僕はおもう。育英予備校よりも辛い。予備校には自由がある。高岡高校にも自由があるはずだが、自由を使うことができる生徒は少ない。体が、神経が覚えてしまっている。抑圧されている。処理しきれないと、病気になる。体のどこかが不調になる。

予習のテキストをみれば、それがどういう生徒を対象にしているのかが僕にはわかる。授業の進め方がどんなのか話してもらえば、それが誰に対する授業なのか僕にはわかる。2割の生徒のための教材だ。

学校でついていけないのは、たいていの場合、お子さんが怠惰だからではありません。勉強が足りないから成績が伸びないのではなく、勉強を一生懸命している(予習や課題をしている)からついていけない生徒が8割いる学校が、実際に存在しています。

宿題が二種類であり、復習、が入らないのは妥当だろう。学校は復習したかどうかをチェックしないからだ。管理されない復習をする気力が生徒にはない。が、しかし、復習しなくて予習の意味があるわけないとおもうのだが。

「勉強して体壊して無理して大学にいくよりも、健康で大学に行って長生きしたいんです」と話してくれた高校生。健康が大事。心が大事。命が大事。受験という経験を通じて、自分の心も体もを大切にすることを学んでほしいとおもう。

勉強することそのものに意味はないかもしれない。受験という経験を通じて学べるもの、気がついたこと、本気を出した記憶を、振り返ったあとで、春、桜の咲く道を笑いながら一歩未来へ踏み出す一瞬の充足感のために、今、「勉強」が目の前にいるのかもしれない。


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子どもとお花見に行ってきたらドラマがあった。

いろいろあったー。

うさちゃんとお花畑

オトノネはなにをするところかよくわからない。間違いない表現をするなら、「おとのねさんがいるところ」がおとのねだ。で、川べりにいって、前回僕が話した「ヒメオドリコソウ」の話題を発展させてくれて「教科書に書いてあった!」といいながら、「オオイヌノフグリもかわいいよ!」といって見つけて、教えてくれた。かわいいやんか。白い謎の花が近くにあったから、「これ知ってる?」と聞くと知らないというので、教科書でみたら教えてねーと言った。で、ご飯を食べて、今日買った絵の具で絵描く?と聞くと描くというから書いてみる。最初は人を書いていたのが、お母さんに「せっかくだから桜かいたら?」といわれて桜をかいてみるその素直さが子どもらしく、のびのびとなんでもやってみようという気持ちを感じた。

この絵を描く前、この子の弟くんがやってきて、「僕もやる!」といった(そのとき僕は桜を描いていた)。で、僕が目を話した隙に・・・僕の絵に黒い絵の具でぶっとい線をぶっとく描いた!「だー!あー!」と僕は転げて泣き叫んだ!(その子は前にも壊したら人が悲しむものを壊した子だ)僕がめそめそしていると、体操座りになって反省会をはじめた(僕の悲しみを感じているんじゃないか。すごい)それをみて、僕も絵一枚で大人気ない、もっと子どもらしく執着しないでなんとか・・・と思ったその矢先、お姉さんが「枝にしたらいいじゃん」と。

天才じゃないか。それでその子に「この絵、僕が描いたんだけど、この線を枝にしたらおもしろそうだから、続き、描いてよ」と言った。気を取り直した彼は、書き始めた。うん、おもしろい絵になった。こういうこともあるんだなぁ。

ひとつの絵を描きながらドラマが起きる。(もっとたくさんのドラマがあったが割愛)それが個性であったり、発達の段階であったり、心の憂鬱として気持ちだったり、よろこびであったり。絵が上手くなることが大切なのではない。絵を描きながら、人間が人間と一緒にいる時間が大切なのだとおもえる。心から。そんな、昼下がりでした。

ちなみに、弟くんが気を取り直して絵を描き始めて、パレットの絵の具を使おうとしたとき、「これ、使っていい?」とちゃんと聞いてくれました。「僕はこの色しか使わないから、他の色は大丈夫だよ」と答えた。聞いてくれたね。お気遣いありがとう。お心遣い、ありがとう。「世界はいろんな意図で、意味で、計り知れない他人の心であふれている」ということを、体験して、学んでくれたのかもしれない。僕も、お姉ちゃんの一言から「創造的になること」を学びました。弟くんからも、人の成長する姿を、学びました。

ありがとう。楽しかったね!

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おもちゃも、学校の宿題も、同じ。

だという考え方ができる。

どういうことだ!頭が狂ったか!

いえいえ。おもちゃも学校の宿題も、学びのきっかけをつくるものです。

大人はそれを手助けします。

おもちゃであれば、新しい遊び方をしてみせたり。おもちゃを通じて言葉をかわしたり。学校の宿題であれば、、、、解説してあげたり、計画することについて話したり。人生について語ったり。

で、肝心なのは、おもちゃも、学校の宿題も、子どもとオトナをつなげる環境をつくるということだ。子どもと大人が関わりあう、相互に作用し合う、道具にすぎない。素敵なおもちゃ、高いおもちゃ、高価な教材、魅力的な教材があっても、それを通じて大人との関わり合いができないなら、おもちゃも教材も、「ただの時間つぶし」になってしまう。テレビゲームという道具は、この点、遊び道具としては「積極的に介入できるテレビ番組」ぐらいのものかもしれない。(ただし、ゲームを通じて大人と子どもが仲良くなることは多々ある)

おもちゃも学校の宿題も、大人と子どもの相互作用を補うものだ。そうおもうと、宿題をする時間は、ずっと一人遊び、一緒にいるけど結局バラバラに遊んでいる並行遊びをしているのかもしれない。喜ばしいあそびは心の成長を促す。

遊ぶように、学校の宿題もやってみたらどうだろうか。

4歳の男の子がレゴみたいなもので飛行機みたいな乗り物を作っていた。「どこに行くの?」と聞くと、「わかんない」と答えた。

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小学生(?)とそのお母さんの言葉

今日、出会った子とお母さんの言葉。「なんであんな楽しくないところにみんないくのかなぁっておもう」と子ども。お母さん「あなたがそうしたいから学校に行っていないだけで、他の人は関係ないんだよ」という、ような、話(正確には別の言葉だったとおもう)。その子は小学校に行っていない。

自分がそうしたいから、そうする。学校というのはそういう場所で、自分で選んでいるだけで、学校が悪いとかそんな雰囲気はこれっぽっちもださない、これっぽっちも学校が悪いとか、感じさせない自然さに目が開けるおもいがした。その子もとても立派で、オトナの立ち振る舞いをして、大人のような言葉、考えをもっている子だった。

はっ、とした。自分の世界を生きればいいのかな。僕は学校を攻撃しようとしていないか。もっと自分の世界をつくることに言葉を尽くしたほうがいいんだな、そっちのほうがハッピーだし、キレイだな、とおもえた。僕には、どこか、学校という場所から子どもを救い出したいという意識がある。傷を負ってやってくる子どもたちが安心して「これでもいいんだ」とおもえるようになったらいいなとおもっている。

が、その子の雰囲気を感じて、困っている人を助けるという意識が、傲慢、何かの勘違いにおもえた。もっと暮らしの一部として、人がハッピーになるような関わり合いができるオトノネになりたいと、その子の立ち振る舞いと、お母さんの言葉を感じて、思えた。きた人が、しあわせを感じられるようなオトノネになりたい。うん。そう思うだろ。

オトノネは、オトノネの心に向き合います。

いつも子どもからたくさんのことを気付かされています。

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自我同一性という言葉が誤解されている件

アイデンティティーと呼ばれているこの言葉は曖昧すぎて笑える。

今日こんな文章を目にした。『こどばが誕生するとき』 p.244に書いてあった。

われわれは社会的なイメージと身体の力の結びつきを探求せねばならない。しかもこの課題は…集団同一性と自我同一性の相互補完が、より大きな共通のエネルギーを、自我の総合と社会組織の双方に提供することを意味している。

かの有名な、自我同一性という言葉を作ったエリクソンの言葉だ。

自我同一性の集団・文化的同一性にもとづく達成は、自我を強くすると同時に、かつ、社会も強くする。どういうことか。僕はこんな風に理解した。

自分であることは、自分が所属する社会組織のメンバーとしての自分をも負うことであり、自分の力は、社会組織の力にもなる。自我が強くなるとは、所属する社会への意識が強まるということだ。その手助けをするのが、オトナという存在だ。オトナは社会の体現者であり、子供が社会の意識、社会の言葉を受け取る存在だ。

人はひとりで何かを成し遂げるには、あまりにもか弱すぎる。自我なんてものは一人ではつくれない。人はそういう生き物だ。アイデンティティーが「自分探し」という言葉で表されるが、実は、「仲間探し」のことであると、エリクソンはいっている。「自分らしさ」とか、「独自性」という意味では、どうやら使われていないようだ。多くの日本人は見事に誤解しているし、保育士試験の本を開いても、自我同一性という言葉は一人歩きしている「日本の西洋化」をアピールするタテマエ言葉になっている。

どんな会社でもいい。お金さえ手に入れば。どんな学校でもいい。遊べるなら。。。

私は、自分を強める、成長させるのと同時に、今いる組織を強めようとしているんだろうか?そこに心はあるんだろうか?所属する場所を選ぶのは、どうだろう。その組織を強めて、社会的な影響力をもたせて、いいんだろうか?私の時間の大部分を費やし、活動する組織は、私が同一化する価値がある場所なんだろうか????(働くことの価値はお金だけなのだろうか?私は「お金」なのだろうか?おとのねさんが独立してみようとおもった理由もここにある)

エリクソンが「身体的なむすびつき」という言葉で表そうとしたのは何だろうか?

やがて、青年期が到来したとき、性的生産力を発揮し始めた身体と集団・社会との結びつきのなかに自我形成の一段と明確なテーマが現れる。それが「自我同一性」である。このテーマは、それまでの年齢において自我が蓄積してきたセンスをすべて対象にした自我の再構成と再強化である。ここで、身体のむすびつきにおいてテーマをあたえたのが社会と文化であったように、テーマの達成に関しても、社会と文化は一定の方法を用意している。したがって、テーマの達成にともなって、自我は「強い自我」になるが、その強さは社会ない存在または文化ない存在としてのセンスを強くすることでもある。(以下、エリクソンの言葉)「幼児期の主要な危機の一つ一つが解決されるごとに子どもが体験する社会の健全性と文化的連帯感に基づいて、同一性の感覚は徐々に充実していく。そのような同一性の感覚のみが人間生活における周期的なバランス…を約束すると、われわれは結論した。しかし、この同一性の感覚が失われ、自我の統合が絶望と嫌悪に…屈服するところでは、必ずそれに関連した一連の幼児期の恐怖が一斉に動員されがちとなる。なぜなら、文化的同一性という『世襲財産』のなかに、安全に錨を下ろした同一性のみが、運用可能な心理社会的平衡を生み出すことができるからである」

ちなみに、センスとは自我感(これが私よ!という肯定感)であり、テーマとは危機、発達のなかで直面していく課題のことである。エリクソンが提唱した8つあるテーマのうち、一番最初にあるのは「基本的信頼」である。ひとりぼっちにならないこと、社会のなかにいること、ひとと繋がっていること、である。そして、

身体的という表現は、自分が文字通り身を置いている社会、という意味で捉えたらいい。人はとにもかくにも、「そこで生活している」ことに規定される。「強くなる」ことは、共同体との繋がりをもつこと、といえるが、エリクソンの時代と、現代とでは世界は変わってきている。エリクソンのいう「強い自我」のあり方が、この時代には少し合わないような気が、(部分的に修正、追加しなくちゃいけないことがあるような気が)する。

で、本題だが。オトノネは超弱小、人が全然来ない弱小塾です。育英とか大手の塾にみんないく。所属する。それがお金になり、力になる。時代のスタンダード、競争社会(脱落社会)、親の欲望重視、日本という歴史、社会に錨を下ろしているからかもしれない。オトノネはその対岸に錨を下ろしている。オトノネ世界へ、みんなこないかなー!!!!!!!!!!と思いながら、オトノネはどんな世界なのか、きちんと人に伝えられないオトノネの曖昧さを感じる。

価値観が多様化したこの時代に、学者はなにもしてくれない。学者の代わりに、たくさんの人がSNSで情報を発信してくれている。社会が、変わったのだ。社会が変わったのだということを学んでいこう。

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富山高校がサバイバルすぎる件

怒りなのか、悲しみなのか、わからない。身の危険を感じたら逃げろ。戦えないなら、諦めて、逃げろ。どうか、大切な命を守ってくれ。心が大事!

もちろん、高校生活を楽しんでいる子もいる。高校は「よくある社会のしくみ」だから、そのまま大人になっても必要な抵抗力、身を守る力を試すことができる。けど、高校という場所で管理・支配・干渉する人たちへの対応(そして学校の中でのいい先生との出会い)を学びに変えるために、学校の外の大人の助けを必要としている人がいるのも間違いないようにおもう。

課題に追われて、人のことを気にしている余裕もない。

今時の男子生徒には「反抗期」がないらしい(お母さんがべったり)。これから児童発達研究は歴史を塗り替えることになるだろう(反抗期がないと、子供にどんな影響がでるか?実践家はすでにいくつか経験的に予言をしている。20歳になっても、30歳になっても、子供が親から自立できなくなるという)

外部模試で私立大学を希望すると職員室に呼ばれて「どうして国立ではないんだ?」という進路指導(進路誘導)。職業選択の自由があるのに大学選択の自由はないのだろうか?

40人のクラスで4人が不登校。

今年は4割が浪人。(それでも全体で2割しか難関大学に行けないだろう。一体何人が、浪人して、そのまま擦り切れて終わっていることか)だから課題やっても無駄だってば(2割をのぞく)!データも出してるから、あとは自分で判断してね。

高岡高校の話も聞くが、今日は富山高校の生々しい状況を聞いた。話には聞いていたが、話す人が違えば話すことも変わる。もはやここまで、という感じになった。子どもが死んでいく学校。心が殺されていく学校。そんなイメージだ。(もちろん、うきうき楽しく学校生活を送る子もいる)誰かに助けをもとめよう。一人で生きるには、この世の中は残酷すぎる。

富山高校の悪口を書いている?そう見えるだろう。(言葉とは、そういうものだ。だからみんな書かない)だけどこの文章は「もうだめだ」という人たちの心を休ませるきっかけになればいいとおもって書いている。命が大切だから。死なないでほしい。心が大事だから。無理しなくていい。無理する価値があるのか。無理をしてまで、守ろうとしているものは、なんですか?それは、あなたが命を賭して、守る価値が、あるものですか?

全部書き終わった後で、これは怒りの感情だということが、わかった。私もまだまだコントロールができていない。

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富山県の高校は偏差値で選ぶと危ない件

現在、高岡高校でサバイバル中の子。

この間、性格診断をして、「楽天家・芸術家」タイプと出た。

「全然、高岡高校じゃないですね!」と二人で爆笑した。

数値で何が表されているのか。

会社を選ぶ基準に「社会福祉がしっかりしている」というものがあるらしい。組織にはいろんなステータスがある。高校だったら大学進学実績とか、会社だったら、売り上げとか、社員数とか、名声、だとか。

で。自分が育てたい自分がそこで育つかどうか、を考えて、自分の育つ場所を自分で決めるというのが、自然なのではないかとおもう。偏差値で決めるのではない。(といっても、もう高岡南高校も福岡高校も進学高校を目指して大量の課題を出しているという事実がある。もう逃げられない。小杉高校と星槎高校おすすめだよ!

高岡高校の話を聞くと、いわゆるガリ勉の人(朝起きて勉強してご飯を食べて勉強して学校に行って勉強をしているらしい)のためのテスト、テスト、テスト、課題、課題、課題、課題!であって、ガリ勉でないその他の8割の生徒のためにはなっていない。(もちろん、いい先生は、いる、というお話です。もちろん!)

富山高校に入った子も、自分で言っていた。「大学はきちんと自分で選びたい」と。

思春期は遅くとも中学生のときにやってくる。高校を選ぶというのは、そのグラグラの、移り変わりやすい、敏感に成長しようとしている状態の心を育てる場所だ。高校で参って再起不能になってしまう人もいれば、高校で壊れた後に、回復しながら、強くなる人もいる。(残酷な世の中でしあわせをみつけるチカラ、しあわせを守るチカラは大切だ)どの高校を選んでも、結局は、心のあり方次第であり、心を助けてくれる人との出会いであり、成長しようとする命のチカラを大切にすることで、高校という試練を学びの糧にできるのだとおもう。

最新の情報では、富山高校のこのあいだの始業式の日(?)、課題をやって来なかった生徒が、人クラス40人中35人。廊下に立たされて(並ばされて)「指導」を受けたという。40人中35人。8割を超えている子が、課題を拒否している(先生に置いてきぼりにされたまま放置されている)。進学高校、御三家というタテマエを貫かなくてはいけない学校の先生も大変だ。

絶賛、サバイバル中!君はすてきな人なんだよ。笑って生きているんだもの。

追伸:ある組織をみれば、2割は上位で6割は中間で2割は下位、だという法則があるという。そんな法則を知らなくとも、わかりきっている。ギリギリその学校に入れるか!?で入った子は、下位になる(勉強についていけなくなる)とおもったらいい。課題に心がやられはしないか心配だ。進学高校は、上位の生徒を伸ばすためのプログラムを採用しているからだ。論理的に導かれた合格基準(上位に入れる基準)は下のリンクからどうぞ。この基準を満たせていない子は、入学前から「課題(学校の支配・管理・干渉、学校用語でいえば教科指導・生活指導)とどう付き合うか?」を考えておいたほうがいいかもしれない。それでも進学校にいきたいの?

石川県立高校合格ラインを論理的に計算!泉丘高校は?二水は?金大附属は?小松は??私は桜丘をおしますが
富山県立高校入試合格点・ボーダーの目安を論理的に計算。
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言葉が受け入れられるということ。

それは言葉が伝達される以前に、子どもの感情や身体、心が受け入れられている時だ。「かけがえのない場」にあって育つ言葉がある。言葉を信じる、言葉を、心の中に取り入れるしくみである。

おとなの指し示しを真(信)として受け入れること、誤解を恐れずに言えば、他社の言明を己の言明として需要するそうした態度決定(広義にいえば、反応態性)を示すこと、それがおとなの眼から見た、つまり、日常的常識的な意味での言葉を理解することに他ならない。さらにいえば、他者の変名を“真=信”として受け入れるこつした反応態勢は、身体がすでにそうした反応態勢を取るべき場に置かれていることによって、原初的には成立可能になっている。先に見たように、子どもは生まれ落ちた時点から「応答し得る者」としての存在の場を与えられている。子どもを「応答し得る者」として在立させる場は、同時に、自らの生命の維持さえも保証する場であるからこそー言い換えると「あなた(赤ん坊)と私(母親)にとってかけがえのない場」であるからこそー子どもがおとなの言葉を“真=信”として受け入れざるを得ない態勢がいち早く形成されていると言わねばならない。(『こどばが誕生するとき』p.153)

学校の先生は上手にこれを使っている。学級担任になった人は、ゴールデンウィーク前に、生徒に自分の言葉を信じてもらえるように「しつける(とある先生が使っていた言葉だ)」、ゴールデンウィークまでが勝負なのだ。ゴールデンウィーク後に学校に来ない生徒がいるのだろう。

大人は少なからず大人の価値観、学校の価値観、社会の価値観に応じて言葉(価値観)を信じてもらうようにする。言葉を信じてもらえるような振る舞いをする。これは宗教団体でも同じだ。言葉を信じてもらえる出来事(きっかけ)、環境を作り出すことが、子どもの言葉をそだてることになる。

韓国の劇団員の一人がこう言っていた。「舞台に上がってから、俳優は自分の言葉が観客に信じてもらえるように、受け入れてもらえるように、一生懸命になる。“自分の発する言葉”が信じてもらえるように努力をする。そんな俳優の姿をみて、観客は、少しずつ俳優の言葉に力を感じ、受け止めるようになる」のだと。言葉を学ぶことの大前提は、関係性をつくるということ。

受験生なら、どうしても進路に反対する親がいたとする。お父さんお母さんに言葉が伝わるにはどうしたらいいだろうか?言葉を信じてもらえるような振る舞いを、努力をするといいのかもしれない。(大人も人間だ。いろんな大人がいる)

言葉の持つチカラは言葉に内在しているわけではない。言葉をとりまく振る舞いや表情、使われる場が言葉にチカラを与える。

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