資源としての組織

学校は子どもたちの居場所のひとつだ。学校が全てではない。


繰り返すようで申し訳ないが、、学校は学校で背負ってきた歴史があり、大人の事情があり、おかしいことは確かにおかしいのだが、それを責めたりすることはできない。人にも歴史があるように、学校にも歴史がある。人がなかなか変わらないように、学校もなかなか変わらないのだ。(もちろんそんな学校でも、人によっては楽しい場所になる。友達と会えるから!部活があるから〜!いい先生に出会った幸運な人もいる)人間が変わらないから、学校が変わらないといってもいいのかもしれない。

だから僕はこう考えている。学校は社会の一部で、社会によくある組織の一つでしかないと。子どもの暮らしの一部であり、社会資源の一部であると。学校は利用するものだと。

だから学校以外の資源を豊かにする方が、子どもにとって、そして社会にとっても有益だ。学校の外に出てみよう。学校の外でいろんな大人に出会ってみよう。学校の中が世界の全てではないという当たり前のことに気がついてみよう。

資源とは利用するもので、組み合わせられるもので、学校以外の社会も〈学校と同様の価値〉がある。とおもってみよう。人はパンだけで生きているのではない。そうしたら、別にどこの高校を選ぼうが、高校を生活の一部にして、他の場所で自分らしく、人間らしくなれる。どの高校を選ぼうが。どの大学を選ぼうが。行ってみてわかることがある。行ってみて初めて困難に気がつくかもしれない。そんなとき、助けてくれる人と出会うほうが、自分自身を助ける術を学ぶことのほうが、また困っている人に声をかける方が、高校を選ぶことよりも価値があるように思える節もある。もちろん、「逃げる」という選択肢もありだ。環境は少なからずその人をカタチ作るから。

会社に入って、「なんかへんだなー」とおもいながら、けじめをつけながら、自分を包み隠さずに自分らしく人と関わり、新しい人間関係をつくっていきながら、会社で悩んでいる人を助けながら生きている人を僕は知っている。

何がなんだかわからないから、とりあえず、心を大事にしていきたい。


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小学生(?)とそのお母さんの言葉

今日、出会った子とお母さんの言葉。「なんであんな楽しくないところにみんないくのかなぁっておもう」と子ども。お母さん「あなたがそうしたいから学校に行っていないだけで、他の人は関係ないんだよ」という、ような、話(正確には別の言葉だったとおもう)。その子は小学校に行っていない。

自分がそうしたいから、そうする。学校というのはそういう場所で、自分で選んでいるだけで、学校が悪いとかそんな雰囲気はこれっぽっちもださない、これっぽっちも学校が悪いとか、感じさせない自然さに目が開けるおもいがした。その子もとても立派で、オトナの立ち振る舞いをして、大人のような言葉、考えをもっている子だった。

はっ、とした。自分の世界を生きればいいのかな。僕は学校を攻撃しようとしていないか。もっと自分の世界をつくることに言葉を尽くしたほうがいいんだな、そっちのほうがハッピーだし、キレイだな、とおもえた。僕には、どこか、学校という場所から子どもを救い出したいという意識がある。傷を負ってやってくる子どもたちが安心して「これでもいいんだ」とおもえるようになったらいいなとおもっている。

が、その子の雰囲気を感じて、困っている人を助けるという意識が、傲慢、何かの勘違いにおもえた。もっと暮らしの一部として、人がハッピーになるような関わり合いができるオトノネになりたいと、その子の立ち振る舞いと、お母さんの言葉を感じて、思えた。きた人が、しあわせを感じられるようなオトノネになりたい。うん。そう思うだろ。

オトノネは、オトノネの心に向き合います。

いつも子どもからたくさんのことを気付かされています。

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自我同一性という言葉が誤解されている件

アイデンティティーと呼ばれているこの言葉は曖昧すぎて笑える。

今日こんな文章を目にした。『こどばが誕生するとき』 p.244に書いてあった。

われわれは社会的なイメージと身体の力の結びつきを探求せねばならない。しかもこの課題は…集団同一性と自我同一性の相互補完が、より大きな共通のエネルギーを、自我の総合と社会組織の双方に提供することを意味している。

かの有名な、自我同一性という言葉を作ったエリクソンの言葉だ。

自我同一性の集団・文化的同一性にもとづく達成は、自我を強くすると同時に、かつ、社会も強くする。どういうことか。僕はこんな風に理解した。

自分であることは、自分が所属する社会組織のメンバーとしての自分をも負うことであり、自分の力は、社会組織の力にもなる。自我が強くなるとは、所属する社会への意識が強まるということだ。その手助けをするのが、オトナという存在だ。オトナは社会の体現者であり、子供が社会の意識、社会の言葉を受け取る存在だ。

人はひとりで何かを成し遂げるには、あまりにもか弱すぎる。自我なんてものは一人ではつくれない。人はそういう生き物だ。アイデンティティーが「自分探し」という言葉で表されるが、実は、「仲間探し」のことであると、エリクソンはいっている。「自分らしさ」とか、「独自性」という意味では、どうやら使われていないようだ。多くの日本人は見事に誤解しているし、保育士試験の本を開いても、自我同一性という言葉は一人歩きしている「日本の西洋化」をアピールするタテマエ言葉になっている。

どんな会社でもいい。お金さえ手に入れば。どんな学校でもいい。遊べるなら。。。

私は、自分を強める、成長させるのと同時に、今いる組織を強めようとしているんだろうか?そこに心はあるんだろうか?所属する場所を選ぶのは、どうだろう。その組織を強めて、社会的な影響力をもたせて、いいんだろうか?私の時間の大部分を費やし、活動する組織は、私が同一化する価値がある場所なんだろうか????(働くことの価値はお金だけなのだろうか?私は「お金」なのだろうか?おとのねさんが独立してみようとおもった理由もここにある)

エリクソンが「身体的なむすびつき」という言葉で表そうとしたのは何だろうか?

やがて、青年期が到来したとき、性的生産力を発揮し始めた身体と集団・社会との結びつきのなかに自我形成の一段と明確なテーマが現れる。それが「自我同一性」である。このテーマは、それまでの年齢において自我が蓄積してきたセンスをすべて対象にした自我の再構成と再強化である。ここで、身体のむすびつきにおいてテーマをあたえたのが社会と文化であったように、テーマの達成に関しても、社会と文化は一定の方法を用意している。したがって、テーマの達成にともなって、自我は「強い自我」になるが、その強さは社会ない存在または文化ない存在としてのセンスを強くすることでもある。(以下、エリクソンの言葉)「幼児期の主要な危機の一つ一つが解決されるごとに子どもが体験する社会の健全性と文化的連帯感に基づいて、同一性の感覚は徐々に充実していく。そのような同一性の感覚のみが人間生活における周期的なバランス…を約束すると、われわれは結論した。しかし、この同一性の感覚が失われ、自我の統合が絶望と嫌悪に…屈服するところでは、必ずそれに関連した一連の幼児期の恐怖が一斉に動員されがちとなる。なぜなら、文化的同一性という『世襲財産』のなかに、安全に錨を下ろした同一性のみが、運用可能な心理社会的平衡を生み出すことができるからである」

ちなみに、センスとは自我感(これが私よ!という肯定感)であり、テーマとは危機、発達のなかで直面していく課題のことである。エリクソンが提唱した8つあるテーマのうち、一番最初にあるのは「基本的信頼」である。ひとりぼっちにならないこと、社会のなかにいること、ひとと繋がっていること、である。そして、

身体的という表現は、自分が文字通り身を置いている社会、という意味で捉えたらいい。人はとにもかくにも、「そこで生活している」ことに規定される。「強くなる」ことは、共同体との繋がりをもつこと、といえるが、エリクソンの時代と、現代とでは世界は変わってきている。エリクソンのいう「強い自我」のあり方が、この時代には少し合わないような気が、(部分的に修正、追加しなくちゃいけないことがあるような気が)する。

で、本題だが。オトノネは超弱小、人が全然来ない弱小塾です。育英とか大手の塾にみんないく。所属する。それがお金になり、力になる。時代のスタンダード、競争社会(脱落社会)、親の欲望重視、日本という歴史、社会に錨を下ろしているからかもしれない。オトノネはその対岸に錨を下ろしている。オトノネ世界へ、みんなこないかなー!!!!!!!!!!と思いながら、オトノネはどんな世界なのか、きちんと人に伝えられないオトノネの曖昧さを感じる。

価値観が多様化したこの時代に、学者はなにもしてくれない。学者の代わりに、たくさんの人がSNSで情報を発信してくれている。社会が、変わったのだ。社会が変わったのだということを学んでいこう。

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学校の先生は残酷か。

ひとりひとりの生徒の自立心、意欲を管理と干渉、命令で抑圧することが、残酷かどうか。

でもこれは一部のお父さんお母さんも当然のようにやっていることだ。

会社という組織でも同じ。会社には会社のやりかたがある。

子どもは子どもでじゃぁどうやって世界で生き残るか、工夫していく。「この世はもっとしあわせなことがある、幸せを感じるようにしよう」という心をつくる子もいれば、「戦わなくちゃ!頑張らなくちゃ!」という子もいる。「え?ノープロブレムだけど?」という子もいる。うまくやるひとはうまくやる。羨ましいくらいに!生きていくために、仲間をつくる、仲間と出会う、仲間を集める、それもひとつのうまいやり方だ。

教育基本法、児童の権利条約に定められている「個人の尊重」という文言と実際が違うじゃないか、条約違反、法律違反だと言うこともできる。ただ、それを「罰する」人がいない。(実際、だれかが時間とお金を使って裁判を起こすこともできるのだが。実験して見てみたい。行政が機能していなければ、司法のほうからアプローチするのも手ではないのか。子どもの権利条約は、国連に申し出ればいいんだろうか?今度問い合わせをしてみようか。正直、ハッピーにならない気がする。)

学校で自殺する子どもを殺したのは誰?親?学校?友達?責任は不在で、誰も咎められない(責任についてはたくさん記事を書いてきた)。学校を卒業してしまえば、赤の他人、関係ない。そうだ、自立した人間なのだから。不登校、成績不振も咎められることではなく、学校という営みは保たれる。そして学校の外で塾やら、なんやらができてくる。「助けるシステム」をつくっていく。安心できる場所を外に見つける。これが子どもを(大人をも)とりまく「ルール」だ。

世の中の「ルール」を知り、その中でどう立ち回るか。教えてくれるひとは少ない。自分の心は自分で守る。あっぷあっぷな保育所のおとな、学校のおとなをどうして罰することができるだろうか。あっぷあっぷなお父さんお母さんをどうして罰することができるだろうか。とびっきりへんてこな歴史をもった日本という行政単位をどうして罰することができるだろうか。みんな、自分を守ることで精一杯だ。だからこそ、思いやりの心は、とびっきりうつくしくみえてしまうのだろう。

怒りにフォーカスしてしまう心よりも、今の時代、喜びにフォーカスができるように、子どもたちと、大人たちと、関わっていきたいとおもえた。

DV防止法というものがある。正確には「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律」だ。見ての通り、暴力を振るった側には「罰」を与えることはできない。ケッキョク、自分の身は自分で守るということなんだ。

人間が暮らしていく過程で、いろんな協力体制を築き上げた。家族は、婚姻は、かつては村の出来事であって、個人の出来事に留まることはなかった。現代における子供と親の関係、子どもとそのまわりの大人の関係も変わってきた。あたらしい「協力体制」が少しでも、利己的な個々人がしあわせな暮らし、リッチな暮らしを実現する助けになればいいとおもう。そんなオトノネになろう。


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オトノネさんは写実が苦手

おとのねさんは絵が下手です。

最近高校生たちと読んだ「星の王子さま」のサンテクジュペリも絵が下手で・・・といいながらあの挿絵を描いたわけだが。

思えば、絵を描くことも、文字を覚えると同様に、もし社会的にみんながやって当然のこと、コミュニケーションスキルとして必要とされたらどうなるか。

もし音楽をひとりひとりなにかしら奏でることでひととひとがハッピーになれるような社会の仕組みがあったらどうだろう。

人であれば、絵を描ける。人であれば、音楽を奏でられる。

そういう社会があったら???(イスラムの人たちは、声という楽器で誰もが歌う(向こうの人は歌うとはいわずに、話すのだという))言語を使った人間関係に限界がきていると僕は感じる。言葉がもう大事にされなくなってきてしまった。他のものは?それは絵とか、音楽じゃないか。もっと他のものもあるけれど(もう単純な、思いやり)。

とにかく疲れ切った言葉たちを休ませ、心を元気にするのに絵を描いたり、音楽をしたりできるような「場所」がどこにあるだろうか。(オトノネさんはどうしていつもお金にこまっているんだろう?)もしくは、気をかけてくれる、一緒にいてくれるだれかが、そばにいてくれるだろうか。

疲れた言葉たちを休ませることは、心を休ませることだ。

オトノネがもしかしたら一番オトノネらしくなれるのは、お勉強じゃなくて、やっぱり音楽なのかな、とおもったりする(バイトしなきゃね)。

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なやんでばかりのおとのね さん

最良の学びの場は、豊かな暮らしそのものだ。豊かさとは何か、そのこたえは?richness

児童期は自分の力を発見して行く場。系統立てられたレッスン、一斉授業、「やらされることをやる」習慣は自然な学習意欲を損なう。

子どもの「遊び」は魔法の授業という本を読みながら。知ることと行うことのバランスの悪さにほとほと困ってしまう。これでも行動しているつもりだけど、全然、達成感が、まるでない。

この時代の中で、僕自身が育ってきた中で、これから僕自身がこう暮らしていきたい、子どもにもこういうふうに暮らしていって欲しい、育っていって欲しいという気持ちがある。僕の中で「うまく育たなかったこと」を本を読んで気がついて、いろんな人に出会いながら、「うまく育たなかったからできるようになったこと」をどう生かすか。その答えが今の所otonone-オトノネ-だ。

本屋に行くといろんな本が並んでいる。情報が多すぎる。最近は新しい流れがでてきたが、お父さんお母さんが見る子育てや勉強の本は「知育」とか「参考書」とか。テレビをつけているとコマーシャルが流れる。まわりのお母さんたちが早期教育を始める。その一つ一つが子どもからチカラを奪う。実に、奪う。そういった大人たちに“抵抗”するチカラが子供にあるだろうか。文化的な、地域的な圧力、「そのようにすべきだと取り決められたもの」が本当にいいことなのか、立ち止まって“判断”するチカラが子どもにあるだろうか。

お母さん・お父さん、身近な人が“抵抗”も“判断”もしていなかったら、子供は“従順”と”無念”の中で暮らすことになってしまう。心が壊れてしまう。(そういった話の研究は日本ではなされないし、情報にもなかなかのらない。)もちろん、DVを受けているのにそれを幸せだと思っている人もいる。ただ、それは僕が目指している精神ではない。逃げたいときは逃げる。休むときは休む。やりたいときはやる。社会の中で自己調整をしていくチカラ、抵抗できることとできないことを知ること、つくろうとおもえばつくれること。

あそびを知る大人になって、大人同士、子供どうしが遊べる社会をつくっていくこと。それがどんなやり方でもいい。そのチカラを家族だけでなく、周りの人、地域まで広げられる人もいればそうでもない人もいる。(僕は広げるのが苦手だし、遊んでくれるひとをいつも探している)

人間は便利な機械ではない。テスト(作業効率を計測する試験)で高得点を得られることで出荷(大学に行く、企業に行く)されるイメージなら、機械として壊れ、人間として苦しむかもしれない。実にそうだとおもっている。(もちろんその狂気から立ち直ってよりよく生き直す人もいる)

大人が、自分の暮らしを「豊か」だと思える環境の中で育てば、子供は「豊か」に育つ。オトナが「ストレス」に対処する行動を真似て、子供も「ストレス」に対処する。ストレスを子供にぶつける(お母さん。お父さんの不安を子供におしつける!子どもの将来を案じて!おせっかい!)オトナと暮らした子どもは将来、生まれてくる子どもに同じようにする(虐待の連鎖)。「勉強」をしている状態が「豊か」な人と学べば、子供は「勉強の豊かさ」を学ぶかもしれない。それが受験勉強という将来役に立ちそうにない(多くの場合実際、たたない)経験を有意義なものにしたいotonone-オトノネ-のオモイだ。

多くの情報はマスコミによってもたらされ、多くの資本を持っている「市場主義経済の権化」によって操作されている。私は正しいこと、美しいこと、善いことをしたい。良心をもった学者、芸術家として、リッチに生きたい、と、おとのねさんはおもいはじめた。学校という世界も、情報が統括され管理された、文化的な圧力をもった場所だ。「学校」に利用されず、利用できる人になってもらおう。オトノネが求める生徒は、そういう生徒だ。

お金!

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