おもちゃも、学校の宿題も、同じ。

だという考え方ができる。

どういうことだ!頭が狂ったか!

いえいえ。おもちゃも学校の宿題も、学びのきっかけをつくるものです。

大人はそれを手助けします。

おもちゃであれば、新しい遊び方をしてみせたり。おもちゃを通じて言葉をかわしたり。学校の宿題であれば、、、、解説してあげたり、計画することについて話したり。人生について語ったり。

で、肝心なのは、おもちゃも、学校の宿題も、子どもとオトナをつなげる環境をつくるということだ。子どもと大人が関わりあう、相互に作用し合う、道具にすぎない。素敵なおもちゃ、高いおもちゃ、高価な教材、魅力的な教材があっても、それを通じて大人との関わり合いができないなら、おもちゃも教材も、「ただの時間つぶし」になってしまう。テレビゲームという道具は、この点、遊び道具としては「積極的に介入できるテレビ番組」ぐらいのものかもしれない。(ただし、ゲームを通じて大人と子どもが仲良くなることは多々ある)

おもちゃも学校の宿題も、大人と子どもの相互作用を補うものだ。そうおもうと、宿題をする時間は、ずっと一人遊び、一緒にいるけど結局バラバラに遊んでいる並行遊びをしているのかもしれない。喜ばしいあそびは心の成長を促す。

遊ぶように、学校の宿題もやってみたらどうだろうか。

4歳の男の子がレゴみたいなもので飛行機みたいな乗り物を作っていた。「どこに行くの?」と聞くと、「わかんない」と答えた。

オトノネひろげるシェアぼたん

自我同一性という言葉が誤解されている件

アイデンティティーと呼ばれているこの言葉は曖昧すぎて笑える。

今日こんな文章を目にした。『こどばが誕生するとき』 p.244に書いてあった。

われわれは社会的なイメージと身体の力の結びつきを探求せねばならない。しかもこの課題は…集団同一性と自我同一性の相互補完が、より大きな共通のエネルギーを、自我の総合と社会組織の双方に提供することを意味している。

かの有名な、自我同一性という言葉を作ったエリクソンの言葉だ。

自我同一性の集団・文化的同一性にもとづく達成は、自我を強くすると同時に、かつ、社会も強くする。どういうことか。僕はこんな風に理解した。

自分であることは、自分が所属する社会組織のメンバーとしての自分をも負うことであり、自分の力は、社会組織の力にもなる。自我が強くなるとは、所属する社会への意識が強まるということだ。その手助けをするのが、オトナという存在だ。オトナは社会の体現者であり、子供が社会の意識、社会の言葉を受け取る存在だ。

人はひとりで何かを成し遂げるには、あまりにもか弱すぎる。自我なんてものは一人ではつくれない。人はそういう生き物だ。アイデンティティーが「自分探し」という言葉で表されるが、実は、「仲間探し」のことであると、エリクソンはいっている。「自分らしさ」とか、「独自性」という意味では、どうやら使われていないようだ。多くの日本人は見事に誤解しているし、保育士試験の本を開いても、自我同一性という言葉は一人歩きしている「日本の西洋化」をアピールするタテマエ言葉になっている。

どんな会社でもいい。お金さえ手に入れば。どんな学校でもいい。遊べるなら。。。

私は、自分を強める、成長させるのと同時に、今いる組織を強めようとしているんだろうか?そこに心はあるんだろうか?所属する場所を選ぶのは、どうだろう。その組織を強めて、社会的な影響力をもたせて、いいんだろうか?私の時間の大部分を費やし、活動する組織は、私が同一化する価値がある場所なんだろうか????(働くことの価値はお金だけなのだろうか?私は「お金」なのだろうか?おとのねさんが独立してみようとおもった理由もここにある)

エリクソンが「身体的なむすびつき」という言葉で表そうとしたのは何だろうか?

やがて、青年期が到来したとき、性的生産力を発揮し始めた身体と集団・社会との結びつきのなかに自我形成の一段と明確なテーマが現れる。それが「自我同一性」である。このテーマは、それまでの年齢において自我が蓄積してきたセンスをすべて対象にした自我の再構成と再強化である。ここで、身体のむすびつきにおいてテーマをあたえたのが社会と文化であったように、テーマの達成に関しても、社会と文化は一定の方法を用意している。したがって、テーマの達成にともなって、自我は「強い自我」になるが、その強さは社会ない存在または文化ない存在としてのセンスを強くすることでもある。(以下、エリクソンの言葉)「幼児期の主要な危機の一つ一つが解決されるごとに子どもが体験する社会の健全性と文化的連帯感に基づいて、同一性の感覚は徐々に充実していく。そのような同一性の感覚のみが人間生活における周期的なバランス…を約束すると、われわれは結論した。しかし、この同一性の感覚が失われ、自我の統合が絶望と嫌悪に…屈服するところでは、必ずそれに関連した一連の幼児期の恐怖が一斉に動員されがちとなる。なぜなら、文化的同一性という『世襲財産』のなかに、安全に錨を下ろした同一性のみが、運用可能な心理社会的平衡を生み出すことができるからである」

ちなみに、センスとは自我感(これが私よ!という肯定感)であり、テーマとは危機、発達のなかで直面していく課題のことである。エリクソンが提唱した8つあるテーマのうち、一番最初にあるのは「基本的信頼」である。ひとりぼっちにならないこと、社会のなかにいること、ひとと繋がっていること、である。そして、

身体的という表現は、自分が文字通り身を置いている社会、という意味で捉えたらいい。人はとにもかくにも、「そこで生活している」ことに規定される。「強くなる」ことは、共同体との繋がりをもつこと、といえるが、エリクソンの時代と、現代とでは世界は変わってきている。エリクソンのいう「強い自我」のあり方が、この時代には少し合わないような気が、(部分的に修正、追加しなくちゃいけないことがあるような気が)する。

で、本題だが。オトノネは超弱小、人が全然来ない弱小塾です。育英とか大手の塾にみんないく。所属する。それがお金になり、力になる。時代のスタンダード、競争社会(脱落社会)、親の欲望重視、日本という歴史、社会に錨を下ろしているからかもしれない。オトノネはその対岸に錨を下ろしている。オトノネ世界へ、みんなこないかなー!!!!!!!!!!と思いながら、オトノネはどんな世界なのか、きちんと人に伝えられないオトノネの曖昧さを感じる。

価値観が多様化したこの時代に、学者はなにもしてくれない。学者の代わりに、たくさんの人がSNSで情報を発信してくれている。社会が、変わったのだ。社会が変わったのだということを学んでいこう。

オトノネひろげるシェアぼたん

幼児期と児童期の違い。空想の友達。

『ことばが誕生するとき』
言語のもう一つのあり方が社会的言語である。そこで大切な言語の昨日は、情報を伝達する機能である。「かつて・あそこ」で見聞きしたことを、「いま・ここ」で他者に伝えるという機能を果たすのがスヤ快適言語である。小浜は、子供が言語のエロ素敵な側面だけではなく社会的な側面を我が物にしていく過程において、子どもは〈死〉を自覚し、〈話〉の虚構性をシリそれと同時に「虚構性としての自己」を認識するようになるのではないかと主張している。幼稚園から帰宅した時、母親が「幼稚園でお友達と何をして遊んだの?」と尋ねるとしよう。子どもは、この問いに答えられるようになるとき、「いま・ここ」にいる母親から心を遊離させ母親というエロス的存在が不在であった空間=幼稚園に飛ばし、そこでの先生や友達との関係的な出来事を、「かつて・あそこ」(幼稚園)にも「いま・ここ」(家庭)にもない空虚性に他ならない〈自己〉の視点から語るのである。幼稚園には母親はいなかった(母親の不在)。いま母親のいるここに、幼稚園の友達や先生はいない(かつて経験を共有しあった他者の不在)。「いま・ここ」と「かつて・あそこ」をつないでくれる他者は存在しない。子どもは、このとき、語る人になることの孤独、あるいは語ることの空虚性に直面しているのである。小浜によれば、子どもがエロス的言語を離れた社会的言語を獲得するようになることは、子どもがエロス的な関係性から遊離した空虚な〈自己〉を手に入れ、そこから〈話〉人として〈話〉を構成するようになることを意味しているのである。隠して、幼児期は終わり児童期が始まる。そして、「いま・ここ」の“自己”と「かつて・あそこ」の“自己”とを関係づけようとする記憶とよばれる“自己”の物語が同時に開始されるというわけである。以上の小浜による幼児期と児童期の理論的な区別は、いくつかの観察や実験データからも裏打ちすることができる。ピアジュの初期の研究「自動の世界観」によれば、5〜7歳の子どもたちはよく死を問題にするが、5〜6歳以下の子どもたちはそのような質問は怒っていないという。このようなデータも、幼児期と児童期との違いの一つを死の自覚におく小浜の考え方を支持しているように思われる。ただし、今日の子どもたちはピアジュの調査した半世紀前に比べ、もうすこし早く児童期に足を踏み入れている用ではあるが。たとえば、小浜の娘は4〜5歳頃に夜寝床に入る前に遠くを見る目つきをし、そして目に涙をいっぱい浮かべ「ねえ、ママ、あたしが死んだら川に捨ててね」と語ったり、「ねえ、ママ、あたしが大人になったら、ママはおばあさんになって、それから死んじゃうんでしょう」と語ったという。筆者の二人の息子の観察データもほぼこのような時期に死の自覚が始まることを示している。「死」を自覚し始めることは、小浜によれば、空虚性としての〈話〉を獲得し始めることと密接に関連している。(『ことばが誕生するとき』p.78)
児童期以降の子供は、自分の体験や思考を、母親やちhc位親がすべて共有してくれているわけではないことを知る。エロス的関係性から遊離し空虚性である〈話〉の世界に足を踏み入れることによって、子どもは、他者と分かち合うことのできないもの。・他者には理解してもらうことのできないものがあるのだということに、直面させられる。かつて、子どもと世界を分かち合っていた全能の他者(お母さん(オトノネさん注))は今やいない。「いま・ここ」に不在なのは、幼児期に世界がまだ分かち合われていた時の“自己”でありその相手であった“他者”である。子どもは、そのような“自己”や“他者”を「いま・ここ」に呼び戻そうとする。かくして、“もう一人の私”や“秘密の友達”が子どもの“私的なもの”を共有してくれる“他者”として出現することになる。“私的なもの”とは、人が現実の他者と共有することができないものである。もしそれが誰かと共有されれば、それは“共同的なもの”あるいは“エロス的なもの”になる。(『ことばが誕生するとき』p.82)

いつも近くにいた人がいなくなって、不安になったり嬉しくなったこと、いろんなことを受け止めてもらいながら育ってきた子どもが、多くの時間を一人で過ごすようになる。現在なら首がすわったら保育所で多くの時間を過ごす、といえども、やはりお母さんに身体的にも、感情的にもべったりする時期が幼児期だ。そのべったりを超えて、自立していく段階が、児童期であり、学童期だとおもえる。お母さんから離れるために、「虚構を語る言葉」を使って、ここにない世界と言葉で関わりながら、少しずつ、子どもは自分でなんとかすることを学ぶ。これを手伝うために、社会的言語、〈話〉をすることが大切なのだとおもえる。

オトノネひろげるシェアぼたん

行儀と振舞い。世界の翻訳。言葉の響き。

日本人は行儀が良いとされる。

行儀が良すぎて、振舞いとしては味気がない場合がある。

僕は「それをやったらマズイ!」ことを子どもが学ぶプロセスに関心がある。

例えば身を守ること。公園から脇目も振らずに飛び出すのはまずい!死んじゃう!と自覚して振る舞えるのはいつだろう。(走っていく自分がどの位置にいるのか、車というものがどんなスピードできて運転手は何を考えているか、そもそも、公園は、どこまでか???車に当たったらどうなるか、痛いのか、、、一体、どうやったら公園の外に飛び出たら危ないとわかるのだろう????)

経験しないとわからない、ということもあるのだろうが、とある野外教育者は「怪我をしない子は、最初っから最後まで怪我をしない」という。怪我をしない子は、頭の中で、体で、「世界のしくみ」のシミュレーションができるのだ!(こうしたら、ああなる、初めは、慎重に、慣れてきたら、少しずつ力を入れてやってみよう・・・とか)

もしかしたら、「マズイ」のはわかっているけど、行きたくて行きたくてしょうがなくて自制(感情のコントロール)ができないのかもしれない。

最近、オトノネにきて皿回しの棒を、目の前に持ってきて、膝でバギッと折って見せた子がいる。文字通り、破壊した!(僕とお母さんが呆然としてチーンとした雰囲気を感じ取ってか、その子はその後、しばらく机の下でしずかーに、反省していた。)

そのモノがどんなものか、というよりも、「みてみて!僕はすごいでしょ!」というのをみせたかったのかもしれない。

「それは誰かのもので、誰かが大切にしているもので」という感覚がわからないのかもしれない。「僕がこういうことをしたら、他の人はどう感じるだろう?」ということを感じるように、大人は子どもに関わっているだろうか。きちんと伝えているだろうか。「この世界のしくみを翻訳して子どもに伝えていくこと」それこそが子どもを育てることであって、お母さんの大切な、大切な仕事なのかもしれないとおもう。お母さん以上の適役は、いない。

「手のつけられない」年齢は、子どもにとっては、「世界を翻訳してもらって、自由になったからだの使い方、心の使い方を学ぶ時期」だとおもえばいい。何が正しいのか、どうやって感じたらいいのか、ハッピーになるには作法があることを、子どもは言葉を通じて、大人の真剣な眼差しを通じて、学ぶしかない。(大人を見て学ぶことができるだろうか?こんなに自由に走ったり飛んだり、掴んだり、壊したりできるようになったのに!嬉しくて嬉しくてしょうがないだろう)

言葉の使い方に気を使ってみよう。「こうしたら、ああなるでしょ?」という理路整然とした言い方だけでなく、「こういうときは、こうするのよ」という言い方もしてあげていい。その場をとにかく離れて、落ち着いて話しかけてあげてもいい。「どうしてあんなことしたの?」と言ってあげていい。もちろん、その言葉がきちんと子どもに悲しみや怒りすら、傷つけずに、受け取れるように、伝えられる響きを持っていなければ、言葉が心から使われてはじめて、言葉は「伝わる」のだと、僕は思っているのだが。

オトノネひろげるシェアぼたん

お稽古事を「させる」ことは全くオススメしない理由

実は放課後に居場所がなくてお稽古事を「させる」お母さんたちが多いらしいのだが、お稽古事を子どもの能力を高めるためにさせているというお母さんにこの記事を役立ててほしい。

お稽古事をすることは悪いことではない。ただ、お稽古事のなかで感情に触れる機会がどれだけあるかだ。そして感情を整理するレッスンを大人が提供できているかだ。「また練習してこなかったの!」とか「次のレッスンまでにこれをやってきなさい」という宿題を出すだけなら、そのレッスンの時間、子どもは「社交性の砂漠」をさまようことになる。水泳教室、体は鍛えられるかもしれない。そこで人間関係にどんなドラマがあるだろう?どんな感情に、子どもは出会うだろう?泳げるようになった喜び、なるほど。級が上がった喜び。なるほど。素晴らしい。では、だれかの心、自分の心と向き合う時間は?人間関係の「未就学児」になりはしないか。時間は限られている。

お稽古事の時に困難さを感じて、それを大人が助けてくれて、できるようになることで子どもは自信をえるかもしれない。けれどもそれが「人間関係のドラマ」を生むか。「個人的なドラマ」との違いを考えた時、「することが決められている、管理されている時間」であるお稽古事でない、何が起きるかわからない暮らしの一部のなかにある「あそび」の時間の価値を、感じられないだろうか。

「何ができるの?」ではない。それが「あそび」の世界である。
「かけっこしたの」かけっこをしながら、ルールを守らない子、新しく入ってきた見知らぬ子との駆け引きがある。
「おにんぎょさんごっこしたの」ごっこあそびをしながら、相手のもっているストーリーを読み、自分も合わせ、相手に自分のストーリーも伝えようとする。

大人の世界、「すること」に満ち溢れた世界と、子どもの世界、「あそぶこと」の価値を感じられないだろうか。

「あそび?将来何の役に立つ?」この問いにはっきりと答えよう。「あなたのいう遊びは、ゲーセンにいったり、カラオケにいったりして気晴らしをする、ストレスを発散することをいうのですか?それなら、その遊びは、息苦しい世界の中で息を抜く、ストレスから身を守る大切な行動です。小さい子どもが夕ご飯の時間になっても帰ってこない遊びは、子どもが自分の心と向き合い、感情の起伏や人間関係を解決していく学びの時間です。子どもの遊びにあなたも参加してください。あなたは、感情の、人間関係の、心のレッスンをする先生です。どうしていいかもわからず、世界でよろこびをみつけようとして泣いている子どもを手助けする人が、あなたでなくて、誰なのですか?あそびは問題解決の能力や持続的な注意力を養います。社交能力を促します。そろばんが上手く弾けるようになって、どうしてその子が誰かと一緒にいて笑いあえる、しあわせな子になるのですか?与えられた課題をやる行為を教わって、本当に目の前にあるものを見る能力、感じる能力が育ちますか?創造力、発想力を鍛える習い事が「あそび」の他にありますか?」

「できる」子を育てようとして、人間の中心にある心を育てることを、忘れないでほしい。子どものあそびを拡大する大人になろう。大人ももっと遊ぼう。心が宿っている振る舞いを「あそび」という。

習い事を見直してみてほしい。例えばサッッカーをやっているとしよう。「サッカー、やめたい?」と聞いてみたらいい。「やめたい」と言ったらやめたほうがいい。もし「いやだ、サッカーやりたい」といったら?もしかしたら好きな友達がいるから、サッカーをしたいのかもしれない。サッカーが好きなわけではないのだ。サッカーで遊んでいるわけではないのだ。その場合、サッカーの練習は決められたことをこなす作業だ。学校と同じだ。友達がいるから、学校に行く。習い事に行く。子ども同士が出会って遊ぶ環境がない世の中になってきた。みんな習い事に行くからだ。お母さんたちも習い事をしなければ、友達づきあいができないようになったのかもしれない。この時代の変化に、私はぐちぐちいわずに、私なりに、子供の居場所をつくっているつもりなのだが。

パズルがある。もともとパズルなんておもちゃはなかった。目隠しをして顔をつくる「ふくならべ」はあった。あれは、どんな結果がでても笑える。上手くやることではなく、楽しむこと、コミュニケーションができる。それに比べたら、パズルは「できたかできないか」の結果に向かうしかない。この点、パズルはおもちゃとしてあまり好ましくないかもしれない。遊び道具としては、二流品といえるかもしれない。(パズルが噛み合う喜びを共有する?)パズルの取り合いをしている時の方がより多くを学べる。知育ゲームをしているときよりも、ゲームの音量が大きすぎてうるさいからちょっと音小さくしてよと言われた時のドラマの方が、多くを学べる。子どもは成長しながら、遊びの質を変えていく。どんどん複雑になったり、奥深くなっていく。子どもには不可能なテレビゲームがあるだろうか?(格闘ゲームの複雑なコマンドを入れることくらいか?いやいや、対戦ゲームで、心理作戦を使うゲームだってある。ゲームは人間の遊びの世界をプログラムしている。そういえば、私は中学生のとき、パソコンのチャットを通じて、キーボードを早く叩くことを覚えた。チャットのおかげで私はパソコンに親しめた。ゲームが人を救うこともあるだろう。要するに、道具は使う人間の心次第。)

遊びは支持のない世界、支配のない世界、人間と人間が人間らしく関わりあうドラマ溢れる世界だ。子どもだからこそ、まだ柔らかい頭で、やわらかい心で、しあわせの経験をたくさんしていってほしい。

イェール大学の教授で、著名な学者であるドロシー・シンガーはこう言う。「子どもたちはごっこ遊びを通して、なりたいものには何にでもなれるし、行きたいところにはどこにでもいける。ままごと遊びをしている子どもたちは、さまざまな感情に対処する方法や、混沌とした大きな世界を、自分にも対応できるこぢんまりした規模に縮小する方法を学んでいるのだ。仲間同士でものを分かち合ったり、順番待ちをしたり、協力しあったりすることは、社会性を身につける学習となる。遊びはまた、新しい言葉を覚えたり、問題解決のコツを学んだり、物事に柔軟に対応する方法を学んだりする良い機会になる。そして何よりも大切なのは、子供が単純に楽しんでいるという事実なのだ」(『子どもの遊びは魔法の授業』p.342)

小さな子どもにとっては、歩くことも遊びになる。あたりを見回しながら、昨日にはない発見をしていく喜び。それを友達に話して、次のドラマが生まれる。(「俺、次のステージいったんだよ」「マジで?どんな敵がいた?」「あのアイテムとらないといけなかったんだけどねー」「どこにあるか教えてよ!」みたいな会話をドラマというなら、ゲームも立派な遊び空間だ。ゲームはごっこあそびだ。協力して敵を倒すこともできる。だからこどもはゲームにハマるのだろう。喜びが感じられない実世界よりかは、かなり楽しいはずだ。)テレビゲームをするんだったら、お金稼ぎゲームをしたほうがいいとおもうのだが??

習い事を「させる」、大人自身の心を知ることを、まずはしたらいい。不安で不安で仕方なくて、どうやって暮らしたらいいかわからず、マスメディアの情報を頼りにして、「シアワセ」になってほしいと願っているのかもしれない。マスメディアを信用しなくてはならないほど、心が締め付けられて苦しんでいるのかもしれない。

人に恵まれること以上に、世界を美しく彩る心以外に、しあわせになることってあるんだろうか?
ここで、とある子の書いた「私の家族」という作文を思い出す。(しあわせとは、感じる者だということが、よくわかる、小学生の書いた作文だった)

オトノネひろげるシェアぼたん

いじめのない社会(学校)は存在しないか。


いじめっ子もいじめられっ子も、ある典型的な特徴を持っている傾向があることを研究者たちは発見してきた。たとえば、いじめられる子の大部分は、やりかえせずにいじめっ子の要求に屈し、泣いたり、防御の姿勢をとったりすることで、いじめを助長している。また、いじめられる子供は、過干渉や過保護な親に育てられた経歴を持っている可能性が強い。こうした育児行動は不安、自尊心の欠如、依存心などを助長し、いかにも傷つきやすい印象を周囲に与える子供を生み出す。いじめっ子は犠牲者の依存心や傷つきやすさをあてにしていることが多い。相手がやり返さないことを知っているのだ。だから、いじめっ子が自分のパワーを感じるのにもってこいなのだ。もちろん、いじめっ子も社交性に問題を持っている。彼らは愛情や温かさがほとんどない家庭の出である場合が多い。家族の者たちも、気持ちを分かち合うことができないと報告する。いじめっ子の親はときに質っ気が厳しく、子どもをよく罰する。最後に、いじめっ子は痛みや苦しみを引き起こすことを想像したときに、普通の子ほど不快感を覚えないことをしてきしておいたほうがいいだろう。(『子どもの遊びは魔法の授業』p.325)

養育者は子供の感情に気がつき、問いかけ、言葉をうながし、感情を整理するレッスンをしていくことで子供の社交性を育てることができる。言葉はなんのためにあるのか?テストでいい点をとるためではない。子どもが残酷な世の中を生きる「心の強さ」を育てるためにある。僕はそう信じている。否定的感情を言葉にせず、抑圧したり暴力に向かわせるようになったら、自分や他人を傷つけることになる。それはしあわせな、リッチな暮らしとはいえない。

いじめのない世界はつくれるかもしれない。多くの大人がよりリッチでありさえすれば。(リッチネスについては別の記事でたくさん書いています。検索してみてください^^)

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉の質。

『子供は言語をどう獲得するか』

分析的方法とゲシュタルト的方法の違い。p.174

難しく聞こえるかもしれないけど、「パズル」のように言葉を組み合わせるか、「写真」のように言葉を見せるかの違い。例えばこういう状況ではこういうといった言葉の使い方はゲシュタルト的に覚える(文章をまるまる覚えて使う)方法が有効だろう。

例えば「本日はお忙しい中・・・」みたいなものだ。

分析的方法とは、言葉の使い方を知っていて、自分で新しい語と組み合わせる方法。(中学生から習う英語の文法の学習のよう・・・)「●●ってどういう意味?」の●●にいろんな単語を入れて文をつくる方法だ。もちろん、この分析的方法で文を作り出す以前に、ゲシュタルト的に、まとまって、一つの塊として、区切らずに、言葉を真似て使っていい。

で、この話が何につながるかといえば・・・

言葉には指示的な、記述的な言葉が(指示的用法)ある一方で、感情的な表現(感情表出用法)もある。

「これはおおきな犬だ」「お母さんが帰ってきた」などは指示的用法であり、「ありがとう」とか「やめてよ」というのは感情表出用法である。感情表出用法はゲシュタルト的である。指示的用法は分析的である。

で、子供はなぜか(親からの影響か、何らかの原因があるかわからないが)どちらかの「戦略」を優先的に使って言葉を覚えて行くのだそうだ。ある子は分析的に言葉を使う。覚える語彙が多い。ある子は感情表出的に使う。多彩な、質的に豊富な彩どりある言葉をたくさん覚える。

学校で評価されるのは指示的・分析的方法である。けど実際に人間同士が感情を伝え合う時にはゲシュタルト的な、まとまった、感情表出用法が大切になってくると僕は思っている。

こんな生徒がいた。

僕が採点したテストを返却して、僕の採点が、計算が間違っていないかチェックする時間。ある子がひとり、前に来て、ゆっくりと、ごくごくいつもどおりの口調で、(やややさしめに)こう言った。「私の回答用紙、もう一度計算してもらえませんか??」。。。僕は感動した。そんな言い方があったなんて!なんて素敵すぎる表現なんだ!「ここが違うんですけど」とか「ここおかしくないですか?」とか「ここ丸です」という生徒はいたけど・・・

心が開けることば、心が、思いやりが感じられる言葉が育つように、私自身が言葉を選んでいかないとなぁとおもう。もう大人だけど。もう一度!

たぶん、心は言葉、言葉の響きがつくる人の気持ちのことなのだ。人に言葉をかけるとは、誰かに対して喋るとは、人の心の音楽に自分の音楽を重ねることだ。もし他人の心を、音楽を乱すような言葉を使えば、他人は怒るに違いない。言葉は響く。自分にも返ってくる。

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉のプロになるための1万時間の4段階。

プロになるには1万時間練習しなくちゃいけない法則があるのだという。(科学的な根拠は知らない。嘘かもしれないしまぁどうでもいいけれど発達の目立つ時期が『ことばでつまずく子どもたち』(p.91)に書いてあって少なからず2年のサイクルがあると書いてあるので少しは信じられるとおもう。

簡単なメモ
3−10ヶ月:言葉を理解する
2−4歳:会話力を獲得
6−8歳:文字を読む(促音、濁点などを音読しながら意識して読む。字と音韻の一致)
10−12歳:文字を書く
14−16歳:文章を書く

で、生まれてから言葉が出る、二語文、会話らしい会話ができるようになるのが2歳の終わり、つまり0歳からの3年間だとしよう。1万時間を3年で割ると、1日あたり9時間。まぁ子供が起きている時間、ずっと学び続けているとすればそのくらいになるか。

で、3歳の段階では、言葉のプロ、というよりも、言葉の学習者として一流だとおもえばおもしろい。(興味関心をもって意欲的に他者の会話を聞こうとする、聞ける、安心してこの世にいられる感覚)

と考えると。。。。

で、3歳になってから6歳になるまでの3年間で、言葉のプロ、になれるはずだ。けど話し言葉に限られる

というように、次々と考えていくと・・・!!!

次の3年間でプロになれるとしたら・・・文字を(口に出して、意味を知って)読むことのプロ、になれる。書くことはできないかもしれないが。文字を、気持ちを込めたり、速度を変えたり、いろいろな表現で、書かれた文字を読むプロにはなれそうだ。小学校低学年。

小学校が終わるころには、文字を書くプロになっている。いやでもこれ、どうなんだろ・・・文字、小学生とか中学生の時とかまだ僕はかなり(今以上に)汚くてうーん。。。。まぁいいや。

とりあえず行けるところまで想像の羽を伸ばしていこう!

中学生になったら、話し言葉で表せていた心を紙に写し取る、書き言葉のプロになっている。そのときには本居宣長や小林秀雄の言葉を思い出しながら先生は指導にあたるべきだろう。書くとはなんぞや。心のどういう営みだ。「丸々した。面白かった。」ではないはずだ。

小学校で理科や社会を、高校受験のように「系統的に習う」必要性を私はあまり感じない。理科はただの不思議をおうあそびだし、社会はおもしろそうな人の写真をみて物語を読む時間だ。言葉の時間、音楽の時間、美術の時間、図工の時間、あそびの時間、それだけでどれだけ、人間らしく、人間が成長できることか。もちろん、言葉の時間に算数や第二外国語を入れてもいい。

中学生なら、もう達人の域に達しているはずだ。ただどうしてだろう?大人が想像する中学生、未熟な中学生、まだ高校生になっていない中学生、自立していない、未発達な中学生というイメージが子供を幼くしてしまっているだけだと僕は思っている。

オトノネひろげるシェアぼたん

筆ペンは、遊び道具である。

小さい子と一緒にこられるへんてこな塾、オトノネ。

塾かどうかも怪しい。

そこで小さい子の言葉のこと、学校生活のことが話題になって、ふとおもって、筆ペンを渡した。すると・・・机の下でゲームをしてばかりいた子が、筆ペンを使っていろいろと何やら書き始めたではないか!

筆ペンに興味を持てる、それは一体何なのか?はじめてだったのかもしれない。新しい感覚で、遊ぶ。新しい感覚を味わうこと、それが遊びなのか。言われるわけでもなく、自由に。こころのままに。

筆ペンという新しい世界への窓口がなかったら、新しい発見ができる手立てがなかったら、世界は本当に退屈だっただろう。子供は本来、そういうものを見つけて勝手に遊んでいた。今は「あれしたらだめこれしたらだめこうしなさいああしなさい」で学校や家庭で言われ続けて神経質になっている子が多い。だったらゲームでいいよ!みたいな。

感覚を新しくしながら、経験を味わうこと。これが遊びかもしれない。遊びができない子は、経験を味わえない、ひとつのことから多くを学べない子のことかもしれない。

遊ぼう!

オトノネひろげるシェアぼたん

数学は暗記か。

高校受験の数学の問題を解きながら。

いやぁ、やっぱり数学って暗記なの?と思えてしまう部分がある。(実はそれは暗記ではないのだが)どういうことかといえば、問題を解きまくってときまくると、パターンが見えてくるのだ。それを前から、後ろから、繋げようとすると、びびび!っとつながって、答えが出る。

これ、人間関係でも似ているとおもいませんか?

人間関係にもパターンがある。数学の世界でも何が起きるか、無限ではない。幾らかの模様、パターンがあって、その「パターン」をしっているから、(思い出せるから)解ける問題がある(喧嘩をして仲直りするためには何をしたらいいんだろう?パターンがあるはずだ)。このパターンを知るという段階(そのパターンがどんな形で隠されているかはわからないが)、探索、探求の段階が基礎だとしたら、次は規則性、法則性を見つけて、「目当て」をつくってパターンの中に活路を見出そうとする応用の段階がある。

大学受験で言えば、「問題の出題者には意図がある」と思えばいい。そこから何が問われるかというパターンを予測したら、勉強する内容も決まってくる。「基礎」ができたら過去問を解くのが先で、過去問を解いてからその大学に向けた本格的な勉強を始めるのだ。隠されているパターン(問題作成者が見つけて欲しい世界、世界の見方)を知らなかったら、どんな「目」を学びとればいいのかわからない(それはネズミの目か、イーグルの目か)

数学にも模様がある。そのパターンとなれ親しみ、そのパターンの生まれ方を知り、そのパターンと関わって行くこと。(人間づきあいもたくさんの人と出会いながら磨かれて行く)数学の勉強は、この点、英語よりも国語よりも深い。(なぜ今私はこの公式を使っているんだろう?なぜ今こんな式変形をしているんだろう?という逐一を大事にしなくてはいけない

さて、ここで問題です。数学者は人付き合いがうまいでしょうか!?????笑

受験勉強は✖︎だったものを◯にする「作業」かもしれない。できないことをさらけ出して、ひとつずつ、ひとつずつ◯にしていく「作業」かもしれない。当日に、全速力で走るために、競技場に転がっている石をひとつひとつ取り除いていく「作業」かもしれない。

オトノネひろげるシェアぼたん