定期テスト対策をしないと言い張って来たが。

オトノネは定期テスト対策をしたくないとおもっていた。
だって実力とは関係ないもの。
短期対策の癖がついて、高校生になってから苦労するのは子どもたちだ。

だけど定期テスト対策をして点数をとることが内申点につながる。

富山県の人たちの視点で教育を考えなかったら、私は一体何をやっているのだろう?観客のいない一人芝居のように感じてしまう。

定期テスト対策で子どもをあくせくさせたくないという私の気持ちは、おせっかいなのだろうか。
高校生になっても使える学力をつけてもらいという気持ちは、独りよがりだろうか。

高校生になってから勉強で困る子どもをたくさん見てきた。
理由ははっきりしているのではないだろうか。
異常なまでの中学校の定期テスト対策だ。

学校は子どもの人生になんの責任もとらない。
お父さん、お母さんが良識をもって子どもを守ってほしい。
学校を信じず、子どものもっているチカラを信じてほしい。

という私の気持ちは独りよがりなのだろうか。
要望に応えて、定期テスト対策で点数を上げようか。
それで高岡のお母さんたちを安心させるための塾をやろうか。

私の信念はなんだったか、問い直している。

小学生の教科書を見て愕然とする。

今日たまたま小学校の教科書をみる機会があった。

そして驚いたことに。

「会話」がない。
ほとんどが「地」の文、つまり状況説明の文章。

会話に慣れ親しんで小学生になって、初めて読むのが、説明文?????

ーーーー

昔は民話や伝説を囲炉裏のそばでおばあちゃんやお母さんから何度もなんども聴きながら過ごした時代があった。
そういった「話す文化・聞く文化」がなくなった今、子どもがまず「じっとして話を聞く」ことが困難だ。

小学校に入る以前にこの状態になっていないと、辛い。
子どもが辛いのではないかとおもう。

「話し方・聴き方」のモデルになるお母さんや友達とのコミュニケーションができているのだろうか。
テレビのナレーションのような「地」の文章をいきなり読まなくてはいけない。。。

はながさいた。
きれいなはなが。

みたいな。

外国語は会話から入るのに、国語は会話から入らない、というのは謎だ。
国語力がないないと問題になっているようだが、教科書を変えるだけでだいぶ良くなるのではないか。

会話の中にこそ、感情があり、人間らしさがある。と私はおもっている。

あー!びっくりした!

現代文で要約の練習をする。

すると、回路図のような図が現れる。
書き方もいろいろあって、物理で回路図をやったことを思い出して笑う。
「センター試験に回路図の問題でました!先生とやったの思い出して解けました!」
という報告を今更うける。

うれしいものだ。

現代文で回路図をつかう。

さておき。

小論文の試験では要約をして考えを書くような二段構えになっていることが多い。
要約をするには、全体像を知ることが必要だ。
作者一人ひとり違う癖を見抜いて、何が大切か、骨子をつかむこと。

文章によっては、教養、文章以前に作者が想定している読者のレベルの基礎知識をもっていないと厳しいことがある。
文章の中には書かれていない、それは知っているという前提で表現されたものがあると、読めなくなって困る。

そういうときは、その文章はなかったことにする、とか、、、
作者も伝えようとしていろいろな比喩をだすわけだが、その比喩を読み取れないと辛い。

幸い、現代文の練習ではないから小論文を読むための要約の練習として文章を一緒に読んでいった。
鈴木大拙の文章。

読めば読むほど、文章というのは、不思議な織物なのだとおもう。

今日発見したこと。
小論文で、もしくは現代文で出される文章には二つのタイプがあって、「物の見方考え方・観点・認識」を与える文章と、「主張・提案」を述べるタイプの文章。
「主張・提案」タイプの文章でも、主張・提案に行き着くまでにいろんな考えや事実、根拠を出すだろう。

作者もどちらかのタイプを好んで書くような気がする。
ある作者は新しい視点でものを考える仕方を書いたり。
ある作者は、現代のいろんな現象を分析して提案してみたり。

けど2つはやっぱり繋がっていて、結局は読者がその文章を読んで何を学ぶか、何を考えるかが大切なのだろう。
それを主体的、主観的に書き留めるのが小論文だ。

「作者の話題にしていることがわかった。その話題について作者がどう考えているか、視点もわかった。私の視点はこうだ。」
というのが、小論文だ。

新しい時代を生きる子どもたちへ

10年後の仕事図鑑
10年後の『仕事図鑑』とあるが、新しい時代の教科書。

ほりえもんの本を読むたびに、あー、この人は好きなことをしてきたんだな、それを守れる環境を選んできたんだなとおもう。
私などはまだまだ、子どもの頃の課題を引きずっている。
(そのおかげで子どもの発達心理を学んだのだが)

時代はニーズなしにやってくる。(というか新しい市場をつくろうとする人たちが「つくってしまう」のがほとんどだが)
時代に合わせてニーズができる。

「塾」は古い時代のニーズに応える場所だ。
学びのスタイルも変わってくる。

学校の勉強に囚われている、大学、会社に囚われている人にはこういった時代の変化は感じにくいだろう。
私は「違うな」とおもいつつ、まだ抜け出せていない。

「違うな」と思うから、塾を始めた。

塾はビジネスであり、どうやって「利益を出すか」を考える。
私はどちらかというと、塾で実験をしている。

そういう気持ちでオトノネをしたいとおもっている。
その実験を、富山県でやることの意味は?

考えながら、じっくりと読んでいこうとおもう。

アップルは、時代を変えた。
スマホ時代を作った。
アップルを作った人は、きっと、友達がほしかったんだとおもう。
自分が作ったものを、認めて欲しかった。

「作る人」の心を感じると、私もその流れに乗りたくなってくる。

夢から早く覚めた子が、合格する。

よくあるのが、夢に浸って、まるでディズニーランドにきてアドレナリンを放出するために、
「私、勉強してる!志望校に近づいている!」という夢の世界で暮らしている中学生・高校生。

一年間で英数国だけなら中学範囲、高校範囲の基礎は全て終わるはずなのに、それをしない学校、塾。
習い事のつもりでコツコツと教わって成績が伸びるのは「デキる」生徒であって、多くの生徒はちゃんと学んだほうがいい。

1時間?2時間?そんな短時間で学べることはない。
解法を覚えるしかできない。(2時間くらいなら、ちゃんと考える勉強ができるだろうが、それでは2年かかる。)
だからよくあるのが、お話してリラックスして、1時間後に、少し気持ちを楽にするために塾に通う子。
子供は子供なりに塾を活用している。

ある生徒は、自習室があるから塾に行くという。
授業は、役に立たないけど・・・・と言っていた。(砺波高校の生徒)

1年、というのも、勉強習慣が身についている生徒の話。
伸びる生徒も伸ばせない。
時間がない。

プログラミング型勉強法

プログラミングが必須になるとか、ならないとか。
その良し悪しの話ではなく・・・

プログラミングとはなんだろう。

機械に、「こういうときはああするんだよ」という知識を与える。
知識というより、反応パターンを与える。
情報を処理し、与えられた情報から答えを出す。

それって今の学校や塾でやっている受験勉強と同じ。
「答えを出す」マニュアルを見ながら、マニュアルなしで答えがでるように訓練するのが今の受験勉強。
人間を「受験マシン」としてプログラミングすることが受験勉強だ。

それが暗記型、マニュアル経営型、プログラミング型勉強法であり、学校やほとんどの塾が採用している勉強法だ。
なぜかって、安価で、「いい先生」は必要ないから。
上手に知識を与えてくれる先生はたくさんいる。
(というか動画授業をみればいい。塾に行く必要はない。)

与えられるばかりで考えることができない。
そういう人は、仕事がなくなる。

AIに人間が負ける。
今、人がやっている仕事の多くがAIで代行されるという時代がくる。

オトノネは考えて、考えて、答えを導く人間らしさの体験ができる場所にしたい。

「考えること」がどういうことか、
「クリエイティブ」とはどういうことか、
「自分らしく」がどういうことかわからなくなる時代。

「考えること」ができない人、
「クリエイティブ」でない人、
「自分らしく」ない人が多くなった世界で、意欲を失った人は、機械に負ける。
そして、外国人労働者にも負ける!

人間らしく、学んで欲しい。

「立たせること」と「立つこと」

勉強をやらせる
「丸々しなさい」というと受け身の心が育つ。

立つことは自発的で、
立たせるとは受動的だ。

受け身の中で暮らしているとどうなるか?

アウシュビッツで生き残った人たちは、家族に会うこと、生きてそこを出る希望で命を燃やしていた。
学校で受け身の姿勢を取らされ続ける子どもたちが生き残って学校をでるたの家庭であってほしいとおもう。

4時間で何ができるか。

今日も4時間の授業。

1時間とか1時間半の授業が「ふつう」になってしまったこの時代に4時間なんて!とおもうだろうか。
考える時間を作る、考えるための問いをつくる、答える時間をつくる、プロセスをその場でまとめてみる。

そういったひとつひとつの出来事を、一問一問から学べるすべてを大切にしていくと、4時間はあっという間に終わる。
こういった学ぶ時間が学校でも、塾でも確保されていない。

解法を説明して暗記させるような学び方をするのは「それはダメ。これが正しい。こうしなさい」という子育てと同じで、子どもは成長しない。

ナラティブアプローチ

カウンセリングの手法に「ナラティブ」というものがある。

「喋る」という意味だ。
ナレーションのことだ。

自分のことを喋る、話す、ということで心が整理できてくる。
そうすると新しいものが入って来る。
心が落ち着いて来る。

頭の中で考えているだけでは、本当にわからない。
自分自身を語って、自分の物語をつくって、そこにはいっていく。
本当に自分が感じているものを、「話す」ことによって体験する。

そういう手法だ。
手法といっても、昔からやっていたもので、新しいことはない。

困っている人にカウンセラーは耳を傾ける。
営利型の塾ではその子の成長を願うよりも「やさしく」するための耳を傾ける。
マニュアルの一部だ。

カウンセリングの経験がなくても、一対一で話を聞いてくれるアルバイトがいるだけでも、子供は嬉しいものだ。
これからの教育業界は「やさしさ」が流行る。
誰もが持っていて、誰もが必要としているものだから。

句読点が書けない?お母さん、心配しすぎ!

本屋で参考書を探しているお母さんに出会ったら声をかけるようにしている。

「点が使えないんです」
というお母さん。(句読点のこと)

学年を聞いたら、小2、だという。
ちなみに私が句読点を意識したのは中学生。

うーん、句読点の付けかたを学べる参考書、みたことないな・・
と思いながら、小学1年生の国語の本をみたら、句読点が書かれていない。

そもそも句読点というのは、多くてもいけないし少なすぎてもいけない。
基準は、読み手の読みやすさ。

小2で句読点が使えなくても当たり前。
それよりもちゃんと気持ちを書く、型にはめないで自由に言葉を使うようになることが大切な時期。

発達には段階がある。
今は何が大切か、今、お子さんのなかで伸びようとしているチカラは何か。
ちゃんとみてあげてください。

勉強のプロに任せた方がいいのではないかとおもう。
そんな時はおとのねへ!