佐藤学の《学びの共同体》をオトノネに導入しよう。「学校」つくったら!

先日、富山大学附属特別支援学校でたまたま佐藤学という有名な先生の話を聞く機会に恵まれた。
いるんだね!こういう人!というか、友達になりたいとおもった。
「学びの共同体」という言葉で、理想の教育の姿を説明してくれた。

むかーしっから、やっているようです。
学びの共同体研究会

石川県金沢市立紫錦台中学校も参加しているらしい。
こちらが金沢市立紫錦台中学校のHPです!
富山県で「学びの共同体」を実施している場所は、みつからなかった…

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メモにとったもの。

学ぶことは、しあわせなことだ。
一人で学ぶことはできない。学びは、社会的なものであって、孤立していたらできない。
人間の大脳新皮質は他者との協同により発達する。

ペア、グループ、コの字型で向かい合うのが基本。

小学3年生にならないと、内言ができない。考えることができない。(経験的な法則)
だから小学1、2年生はペア。それ以降は、3人、4人にする。

学びは既知の世界から未知の世界への旅であり、新しい世界、新しい他者、新しい自己との出会いと対話である。
学びは個人的活動ではなく社会的活動であり、自然的過程(能力や技術の形式)ではなく、文化的過程(意味と関係の構築)である。

人間の学びはコピー(模倣)ではなく、再創造
人間の学びはコミュニケーションによる意味の再構成(社会的文化的実践)

学びを対象世界(テキスト)との対話、他者との対話、自己との対話の三つの対話的実践。
学びは認知的実践(世界づくり)であり、対人的実践(仲間づくり)であり、実存的実践(自分づくり)である。

人間の学びは、ほとんど短期記憶にしかならない。
人間は学び続けないといけない。
動物は生まれてからすぐ、立ち上がる。模倣のプロ。
人間は、模倣する力が動物より弱い。短期記憶にしかならない。

一歳になるまでに、一度シナプスが削ぎ落とされる。軸索を残して、消える。
1歳になったら、シナプスがズバーと出てくる。そうすると、言語が生まれる。

シナプスのつながり、すなわち関係の構築。

1”5”20
意味を、共同で見つける時、それが長期的な記憶、知恵になる。

東京オリンピックのときには、空港が無人化する。
35%が人工知能で賄われるらしいよ。

創造・探究・共同
今のところできないこと。。

もう、今までの教育は役に立たない。
理解中心から探究中心へ

「わからないこと」を恥じるのでなく、「探そうという気がないこと」を恥じ得る時代。

140年前に成立した一斉授業

世界からは30年前に消えている一斉授業
安い単純労働者をつくるシステム。単純労働をする?

エリートはコの字のテーブルで育つ。ハーバード大学の講義室(黒板に全ての机が向かっている教室)は一つだけ。

コピーで済むような授業はいらない。

経済が発達している国はアクティブラーニングをやっている。30年前に

30年前、TOP30のうち21社が日本
今、TOP30のうちで、ゼロ。

この30年間で変わった。

学ぶということが、即幸福である。

人間は7つの領域に分かれている。
Howard Gardner
あらゆる能力を持った人はいない。
なんの能力ももたない人もいない。
孤立して生きてはいけない。
一人で生きようとしてはいけない。

人との関係の中で、多元的に見なくてはいけない。
抜群の能力がある。

デザインはビジョンによって
プランは目標によって生まれるもの。

建築家はビジョンを見る。
デザインは生かそうとする。

目標思考の仕事workと労働labor
創造的な時間。activityはビジョン、デザインの世界。
文化的な意味と、社会的な関係を想像する。

学ぶ権利の実現。

「待つこと」「見守ること」(谷川俊太郎、すきすき、きゅっ、好き好き、ちゅっ)子どもを受け入れられるか。
「させること」ではない。ここもおとのねだ。
おkどもへの信頼、子どもを尊敬する。これもオトノネだ。オトノネはこれを「自立している」と表現している。
学びの共同体は、リスペクトの共同体だ。そして、ケアの共同体

特別支援学校っで主流になっている「行動療法」は研究者が論文を書きやすいから。
「させる」ことで条件付けをする。それは「発達(心)」ではない。
行動レベルの導きだ。

思考、学習、内言。
外言が先。だから内言ができない子がたくさんいる。
対話の相手がいることで、モデルを得ることで、内言できる。
経験的に小学3年生。4人組で(人の話がきける?)
小学1、2年生は「考えることができない」まだ内言が使えない。無理無理!ペア。

「待てない」手を出す口を出す。がダメだ。
教師の仕事〈聴く・(子どもと子どもを)つなぐ・もどす(もう一回)〉
「だれだれくんの言ったこと、どうおもう?」

子どもが、学びの主人公だというのが基本。
いい教師は〈目と耳〉で仕事をする。
子どものテンポはゆっくり。教師が先に行かないで、待つこと。

ある意味で、戦国時代、三国志時代の武将のようである。

共有の学び:ほぼ全ての子どもたちが達成できるレベル
挑戦的な学び:三分の一の子どもたちの達成を期待する、つまり三分の2の生徒が「できない」課題を与える。
難しい問題だからこそ、子どもたちは大好き。飛びついてくる。
基礎を丁寧、丁寧に、積み上げるというやり方ではない。積み上げずに、引き上げる。
(そんなん無理無理!というものを出してみると、一生懸命に挑戦する子がいる)

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オトノネではメタスキルと呼ぶ「コミュニケーション能力」
創造的な仕事。
多様な人間が、それぞれの持分を出すことでしあわせがうまれる。
オトノネが求めている「先生像」

まことに同感できる、こういうことをきちんと言ってくれる人がいる。

昔の昔から、活動していて、少しずつ、広がっている。
こうした時代の流れの中に、オトノネはいる。
富山県に、オトノネは、いる笑

オトノネは「学校」をつくるにしたら、どうしたらいいかなと思っていたところで、いいモデルを見つけられた。
少しずつ。少しずつ。時に、大胆に。

オトノネひろげるシェアぼたん

オトノネのしていることを学問的に理解しようとすると大変、難しくなる。

だからもう不思議の国のおとのねということにしてください。

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おとのねは

現代物理学の不確定性
生態学と文化の多様性
建築学と演劇の身体性

哲学の反省性と寛容性
科学の合理性と論理性
芸術の根源性と抽象性

そして心理学の統合性に基づいた関わり合いをしていきます。
それが教育・保育・療育を超えた人間性につながると考えています。
漢字が多くて意味不明ですね。おとのねさんは真面目だということです。

多くのお母さんたちは「塾」に現代物理学の原則に反する「確実性」を求めていると思いますが。
オトノネはそのようなものは出せません。合格実績も残念ながら、出しません。
他人の合格実績よりも大切なこと(オトノネの合格実績ポリシー)

科学的な「合理性(効率性)」ならいくらでも出せますが。

だからまず最初に、当然ながら、効率を求めるなら、まず非効率な課題をやめようぜ!ということができますが、それは心理学の「統合性」に反するケースがとても多いです。
つまるところもうがんじがらめで課題に心が囚われているところで、(学校の先生のプレッシャーが引き起こした心身症・学校恐怖症で「学習性無気力」で)課題をやらない、という選択肢を選べない子が多い。
それで、無理やり「やらせない」ようにして心が崩れてしまっても困るなぁと頭をかかえるのがおとのねさんです。
やってもいいんだけどさぁ、時間は限られているのよ?両方やってみる?やってみてもいいよ?けどルールを決めよ?

という感じ。

課題やテストをうまいとこマネージしないと「本気」が出せないくらい、課題が恐ろしいくらい出るのも事実。
学校が足枷になっている人がたくさんいる。(サーカスの像の話を、聞いたことはないですか?本当は、囚われていないのに、小さい時に、鎖を繋いでおくと、「学習性無気力」によって、大きくなってから、逃げられるはずなのに、「どーせ逃げられないんだろー!」といって、ちっぽけな杭を引き抜けなくなっているという話)

絶対に合格したい大学がある。
けどいくらやっても成績が上がらない。
なんでうまくいかないかわからない。
すでにムリをして心と体が疲れ切ってしまった。
けどしっかり将来を見据えて高校生活を送りたい。
受験勉強はもうしたくない。
小論文、AO入試で大学に行きたい。
けど何をしたらいいかわからない。
世の中がつまらない。
おもしろいことないの?
子どもが勉強しない。
子どもは平気そうだが私(お父さんやお母さん)が心配をしている。
子どもが不登校になった。
なにをどうしていいかわからない。
学校のやり方が変だとおもう。
新しい時代に向けてその子らしく学んでいってほしい。
けどそんな場所、どこにもなさそうだ。

そんな「アンビバレント」な人のためのおとのねです。
欅坂(けやきざか)46の「アンビバレント」を聴きながら(子どもの「時間」)

オトノネひろげるシェアぼたん

おとのねさんの話し方(人は税金と保険料と教育費と家のローンを支払う動物か)

話し方にはいろいろある。

いろんな分類ができる。

感情レベル
認知レベル
行為レベル

例えば、幼児期の子ども

感情レベルでは、「痛かったね」「嫌だったね」「悲しかったね」「楽しいね」といった感情と言葉を結びつけることとか
認知レベルでは、「あ、ほら、あそこに何々がいるよ」とか「待っているからね、ゆっくりでいいよ」とか
行為レベルでは、「おしっこしてくる?」「ほら、カバン入れるの忘れてるよ」とか
行為レベルのほとんどが、実は子どもからの応答になることが多いのだが。。

具体例をみればわかるように、
3つを厳密には区別できないくらい、つながっている。
特に近接する感情と認知、認知と行為の言葉の繋がりは大きい。

例えば、悩める高校生の話

例えば学校ではこういうことを言われるだろう
行為レベル「これをしなさい」「あれをしなさい」「君は補習だ(来なさい)」
認知レベル「この参考書は今頃、◯周目に入っているものだ」「うちの高校は多くの優秀な人材を…」
感情レベル、思いつきません。

人によって、状況によって、どのレベルで話をしらたいいか、どのレベルなら、今、受け取れるかを、伝えられるかを考えて、僕は話のレベルを変える。
今その状況では「感情レベル」や「行為レベル」を伝えない方がいい場合が多い。
小さい子であれば、「認知レベル」での話もできない可能性がある。(話して聞かせることができても、対話ができない場合、話をせずに、非言語で関わりあうことを僕はする)

僕が喋るほとんどが「認知」レベルの話だし、このブログにつらつらと書きとどめているのも「認知」レベルの話がほとんどだ。
(そしてできるだけ「感情」レベルの内言に触れるようにしているつもりだ)

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その点、純粋な物語(教訓とかそんなものが含まれていない不思議なもの)は、どのレベルにも等距離にあって、聞く人を「誘う」だろう。
「導く」「任せる」「誘う」。ご招待。

読み手に多くのことを「誘う」。
何も感じない人には感じない。
話しての、書き手の話し方、書き方によって感じれないだけかもしれない。

「任せる」という言葉が少し消極的であるとしたら、
「誘う」は積極的な意味を含めている。

話し手は、書き手、は、「任せる」以前に「誘う」ように、話し方を、書き方を強めていったらいい。
そうすることで多くの心が動くから。

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大きなスケールで考えてみよう。

行動レベルで、視点を大きくしてみようとしてみよう。
大きな時間の中で、考えてみよう。(例を出すだけで、もちろん別の言葉を考えることもできます)
学校や保育園の先生、お父さんお母さん、いろんな人がいろんな「行動レベル」の言葉を使っていると僕はおもう。

就学以前は?子どもが小学生になって、「椅子に座っていられるように」「宿題ができるように」「一人でもできるように(自立)」
小学生は?「先生にいわれたことをするように」「テストで悪い点をとらないように」「友達とたくさん遊べるように」
高校生は?「いい大学にいけるように」「あなたは、◯◯センターに行きなさい」社会に出て、「いい会社に行けるように」「会社を選べるように」

行動レベルで触れる多くは、他者からの言葉がけであるように感じた。

認知レベルでみてみよう。
就学以前は?「」

おとのねさんは今ふとおもった。
行動レベルの言葉をマクロで考えると、どこか「目標」めいたものがでてくる。しかもそれが「子どもの心と離れている」言葉が多いようにおもえる。(僕の頭がそうなっている)

認知レベルの言葉をマクロにするとどうなるか。

再度挑戦。

認知レベルでみてみよう。(言葉を使う人を、本人の内言とする)
就学以前は?「いろんな失敗はあるかもだけど、助けてくれる人がいる」「「やらなきゃいけないこと」をやったら、あそべる!」
小学生は?「世の中おもしろいことはたくさんある」「学校はつまんないことが多いけど、友達と会えるのはここしかない」「お父さんお母さんはこういう人間だから、私はこういう作戦でお父さんお母さんと関わろう」
高校生は?「僕たちの青春は、漆黒のブラックに染まっている」「課題の海で溺れている」「わけがわからない」「しゃーなしや!」

拙い例しかでてこなくて申し訳がない。
認知レベルはどこか「世界観」「世界のルール」、性格に関わってくるように思える。

感情レベルは?(内言として考えました)
「◯◯たのしい!」「◯◯したい!」「◯◯、行きたい!」「◯◯嫌だ!」「◯◯つらい…」

この部分は、未就学児でも高校生でも変わらないような気がする。
心に一番近い部分だからだだろうか。

うーん。

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抽象化するのも少し気がひけるが、
愛とはなにか?

感情とは、「情(心的エネルギー)を感じる」チカラであって、得体の知れぬ「気持ち」を表すだけではない。
感情豊かに、という言葉がその使用例。
そうすると、感情的に、という言葉は心的エネルギーを感じながら、という意味になる。

多くの心の「症状」はこの心的エネルギーがうまく「まわらない」「だせない」ことで起きてくるようにおもう。
情を感じるチカラで、心を大事にしてほしいと、僕はおもう。

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子ども時代は、厳しい現実から離れて、大人から守られている。
(大人ほどに現実の厳しさはない。愛をたくさんもらえる)

だからこそ、大人が作り出した環境が大切になる。そうでしょう?

「子ども時代」が長引くようになったこの世の中で、大人は、きちんと大人としての責任を自覚しているだろうか。

保育園卒業時の目標が「椅子に長時間座れること」だとしたら、認知レベルはどうなっているのか?感情レベルはどうなっているのか?小学校で子どもが突き当たるであろう困難さ、試練に対して、就学以前にどんな知恵を、振る舞いを与えて、自立していってもらうか。

願いであり祈りの言葉がけ。

おとのねさんは、「今目の前の状況に困っている」ことは、「死ぬまでの間にもう何度か出会うであろう困難さ」と向き合うための学びを得られる場所だとおもっています。だからそれは「行為レベル」であるよりも、「認知レベル」であることが多いし、「感情レベル」で感じてもらった方がいいこともある、ということを考えます。

おとのねさんは「こうすればああなる」という世界ではないという認識をしています。
不確定、不安の時代だから、です。日本が。

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AI、AIというが、もしそう言う時代になったら、行為レベルの関わり合いが強まるきがする。認知レベルも強まるだろう(AIの得意分野だ。ただ、データの外にある認知には疎い!)、そして、心の部分が、削がれていくだろう(インターネット上で「心」の現象を再現できても、どれもインターネットという限界を超えることができない。AIが進化するための条件、ビッグデータにどれだけ「心」が含まれているか)。

Siriを引き合いに出して申し訳ないが

「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「深呼吸をして、温かいお茶を飲んでみてください(行為レベル)」
「この前もそんなこと言ってたよね」
「てへへ」

「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「それはこうこうこういうことだからだとおもいます(認知レベル)」
「いやそれはわかっているんだけどさぁ」
「てへへ」

「ねぇSiri?今日こんなことがあったんだ。」
「嫌だったのですね(感情レベル)」
「そうそう、僕の愚痴を聞いてくれるかい?」
「聞きますよ」

…そうしていろんなパターンを学びながら、フィードバックを受けながら、人の心と関わる機械が生まれるかもしれない。
かもしれない!かもね。けどそこに限界があると僕には思う。これから、人間が機械に近づいて行かない限りは…

機械の限界の中でしか暮らせない人間がいたとしたら、少し、僕にとっては、おもしろくない。

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人は、税金と保険料と教育費と家のローンを稼ぐ動物か。
大切なものを、大事にしていたら、お金に追われながらも、時間に追われながらお、しあわせになれはしないかと、僕はおもっている。
お金とどう関わるか、どのように死ぬか、そうした一人一人の人生観を、死生観を、子どもに伝えていけないだろうか。
(そのグランドデザインをつくる学校という場所が、病気だから、お父さんお母さんがしっかりしたほうがいい)

けど人はひとりひとり違う(課題がちがう。大抵、お父さんお母さんのやり残した課題に再び取り組む場合が多い)

この時代に生まれ、生きているというオリジナリティーもある。

だから、その子が進もうとしている場所に、一歩踏み出すだけでいい。と僕はおもう。

踏み出した先でまた、その子なりに取り組めるように。
同じところをぐるぐる回っている子(あ、これはあの時の繰り返しだと気づいた子)がいたら、オトノネさんはたぶん役に立つ。

非言語で。
言語で。

「教えるべきこと」と「教えてはいけないこと」を、今でもまだ考え続けている。

オトノネひろげるシェアぼたん

すぐ忘れる?そこで役立つ記憶の研究成果とあそび

当たり前だけど・・・
当たり前のことしかいえないけど。

その当たり前を当たり前にいうのがオトノネです。

ひとりひとりのペースが違う。
レディネス(当然、学習者が取り組もうとしていることに対する準備)があるのはもちろんですが。

1:処理水準効果
表面的な浅い処理よりも意味的・概念的な深い処理をした方が記憶に定着しやすい。

2:既知知識の活性
新しい情報を古い情報と結びつけていくと記憶に定着しやすい。(英単語で、古い情報と結びつかない単語はほとんどない)

3:分散効果
何度も反復する。何回か反復する。短期集中で繰り返すより、時間を開けて繰り返すと記憶に定着しやすい。

発達心理学の本に書いてあって、いやぁ、当たり前と思えることだけど、よくよく心に止めておきたいこと。
これは実は子供達があそびのなかで鍛えている、学びのメタスキルだ!

けど。。。記憶したものを「使う」意識がないと解けないのが、難関大。
記憶だけでなんとかいけるのは中堅大学まで。と、いう見方もできる。

その違いもきっちり押さえておきたい。

オトノネひろげるシェアぼたん

学習性無力感とは?

セグリマンとメイヤーの実験。

まず、犬を「どうにもならない」電気ショックの環境に置く。
すると犬はもうどうにもならないからうずくまったままになる。

次に、犬を「どうにかなる」電気ショックの環境に置く。
すると犬は、敷居を一つまたぐだけで電気ショックを受けなくなるのに、電気ショックを受ける場所にとどまって、動かなくなる。

これを学習性無力感という。

やってもやっても、どうにもならなかった。
だからもう、諦める。

もうやめた!

僕自身が、実は、そうだったりする(もっと頑張ってみる?)。
頑張れば頑張るほどドツボにはまってしまう感じ。

こういう時に、誰かが「いや、あっちいけばいいのに」といって突っついてあげて、犬に敷居をちょっとまたがせたらいい。
そういう人がいる人は、しあわせだ。

ーーーーー

「いや、もう少し、頑張ってみようかな」といって超えられる困難もあるかもしれない。

残酷すぎる成功法則
『残酷すぎる成功法則』のなかで、超過酷な軍隊の訓練(試験)を超えたある人物は他の人と何が違うかを調査した結果、
「大丈夫、大丈夫!」とポジティブな言葉を使っている人が、試練を耐えた、という。

楽観的に物事をみる!!!!

こんな人もいる。
エベレスト登頂中にザイルが切れて墜落して歩くのもやっとのボロボロの状態で、「あの岩までたどり着くまでに何分でいけるか」をゲーム化した。そうしてなんとかベースキャンプにたどり着いた!という話。

はたまた。
アウシュビッツの生存者は他の人と何が違ったか?

“自らの命が自分自身より大きな理由のために存在していることを知る者は生き残り、それ以外の者は、煙草を一服したのち、電気柵に向かって最後の疾走をした。”

他者にとっての自分、自分の命は自分だけのものではないことを自覚している人が生き残った。
待っていてくれる、応援してくれている人がいる人は、しあわせだ。

しあわせを感じながら、暮らしていこう。
幸せを言葉にしながら、言葉にされた幸せを聞きながら、味わいながら、暮らしていこう。

ーーーーー

幸せな言葉をみんなで共有する文化がある。
宗教だ。

しかしその宗教が人をしあわせにしない例も多々ある。

オトノネひろげるシェアぼたん

「褒めて伸ばす」はいいことか。外発的動機付けのアンダーマイニング効果とは?

絵本とともに学ぶ発達と教育の心理学
悪いことではないでしょ!

好きだからやってできるようになるのが内発的動機といい、
「褒められて、煽てられて、煽られて」やるのは外発的動機という。

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蛇足1
伸ばそう、として褒めるのではなく、
がんばったね!やろうとしていたことが、できたね!という喜びの共有くらいがいい。
動機付け、「やらせよう!!!!」と意図して褒めるのは、僕の流儀ではない。

蛇足2
「すごい」とおもったら当然のように、感動は伝えるし、
「この子は、これがある」ということはもちろん伝える。
それは自分には見えない、その子の武器だし、魅力だし、磨いていくといいもの、自分を生かすものだから。
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さてその上で、褒める、「君はできる」「俺たちは強い!」「俺は海賊王になる!」とか言い聞かせて、もしくは言われて、思い込むといい結果がでる現象を、ピグマリオン効果という。神話に出てくる、望んで、望んで、欲しいものが得られたピグマリオンという人物の名前からこう言われています。いわゆる、「引き寄せの法則」というやつです。

で、この「褒め」や「賞賛」が逆に、もともとあった、内発的動機を剥ぎ取ってしまうケースもある。
それをアンダーマイニング効果と呼ぶそうです。

富山中部高校の生徒で「勉強は好きだけど、課題は嫌い」という子がいました。
その子は心を大切にしているから、勉強と課題を分けて考えられるのですね。

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親や教師(他者)が望むように言葉をかけるのは当然だ。
「自由に選びなよ」という言葉さえ「自由になればいい」という望みを言葉がけしているのだから。
(そうそう、自分で選べることは内発的動機を与える。自律性を高める。それは大切)

僕なら「しあわせになりなよ」というだろう。
「大切なものを大切にしてごらんよ」というだろう。
そのために世界をきちんとみたらいい、というだろう。
助けが必要なら求めてもいい、というだろう。

大人は、子どもに、願いをかけるのだ。
人は、人に、願いをかけながら暮らしている。
言葉は、チカラだ。

それを祈りともいう。

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉への意欲、それは食欲の如し。

クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々

遠慮はいらない。

かぶりついて

指でつまんで汁をなめなさい

あごにたれないように……

芯も

軸も

内皮も

核も

種も

外皮も

捨てるところはないのだから。

『クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々』の中で紹介されている、イヴ・メリアムが命ずる「詩の食べ方」

言葉が出ない、とか、言葉が遅れている、という話をよく聞く。それで支援センターなどに行く人も大勢いる。支援センターはてんてこ舞いだ。それよりも食べる時間、味わう時間をつくるのはどうだろうか。

「この子、もしかしたら…」といって不安になるお母さんがいる。「診断」をうのみにして「治療」をさせようとしてしまう。クシュラの母親も医者に「知能障害時センター」に通って治療を受けるように申し出た。けれども、母親は施設に預けるのではなく、クシュラの“正常な部分”をみつけ、決意を持って不断の刺激を与え続けた。たった一つ、開かれた扉を見つけ、開き続けた。

18ヶ月の時に、クシュラがかなり進歩をとげつつあり、その進歩は、自分たちがあたえた励ましと刺激が、少なくとも一部には成果をあげていたのだ、とそう信じる根拠を、両親はつかんでいた。そのときに「正常でない」と烙印をおされたのである。両親は、それを的外れだと思った。施設へ、という忠告は、自分たちの努力に対する嘲りだとも思ったのである。

医者は診断はできても、人間を育てる「専門家」ではない。人間を育てるのは人間だ。

ジョアン・タフ著の『意味の焦点ー上手な幼児との対話』は、「教師、親をはじめ、成長期の子どもたちとつきあうすべてんぼ人たちが、乳幼児期に言語が果たす役割をより深く認識する助け」として書かれた。著者は、子供が考えていることをヒュオプ原子、同時に思考を深めようとするようにする言語の発達にとって、もっともよい機会を与える家庭環境を規定している。著者がとりあげたのは、3歳の男の子のマークが育つ家庭環境で、とくに大人との関係に注目している。「マークにとって大人とは、情報を提供する人、思考や議論にさそう人である……マークは、質問をすると情報が得られる、問題を解決する努力はほめ言葉となってかえってくる、そして言葉は過去の経験をよみがえらせるものだ、ということを学んだ。」このような大人と子どものかかわりあい、つまり複雑な言い回しを使って、議論し、予見し、計画し、熟考する両親という手本が、マーク自身の話し方に反映されている。こうしてマークは「考える道具」を獲得していく。(p.185)

食事も、言葉も、家が基本だ。そう考えた時に、オトノネができることなんて、本当に小さなことで、もう適当にやってもいいんじゃないかと思えてきた。僕は少し力を抜いてもいい気がする。家庭教育をお手伝い、くらいにしておこうか。

多くの「個別指導塾」がアルバイトの若い学生、学校と関わり合いのない先生との「会話の場所」になっているのも、子どもの心の表れなのだろうとおもう。子どもは大人を求めている。

オトノネひろげるシェアぼたん

おもちゃも、学校の宿題も、同じ。

だという考え方ができる。

どういうことだ!頭が狂ったか!

いえいえ。おもちゃも学校の宿題も、学びのきっかけをつくるものです。

大人はそれを手助けします。

おもちゃであれば、新しい遊び方をしてみせたり。おもちゃを通じて言葉をかわしたり。学校の宿題であれば、、、、解説してあげたり、計画することについて話したり。人生について語ったり。

で、肝心なのは、おもちゃも、学校の宿題も、子どもとオトナをつなげる環境をつくるということだ。子どもと大人が関わりあう、相互に作用し合う、道具にすぎない。素敵なおもちゃ、高いおもちゃ、高価な教材、魅力的な教材があっても、それを通じて大人との関わり合いができないなら、おもちゃも教材も、「ただの時間つぶし」になってしまう。テレビゲームという道具は、この点、遊び道具としては「積極的に介入できるテレビ番組」ぐらいのものかもしれない。(ただし、ゲームを通じて大人と子どもが仲良くなることは多々ある)

おもちゃも学校の宿題も、大人と子どもの相互作用を補うものだ。そうおもうと、宿題をする時間は、ずっと一人遊び、一緒にいるけど結局バラバラに遊んでいる並行遊びをしているのかもしれない。喜ばしいあそびは心の成長を促す。

遊ぶように、学校の宿題もやってみたらどうだろうか。

4歳の男の子がレゴみたいなもので飛行機みたいな乗り物を作っていた。「どこに行くの?」と聞くと、「わかんない」と答えた。

オトノネひろげるシェアぼたん

自我同一性という言葉が誤解されている件

アイデンティティーと呼ばれているこの言葉は曖昧すぎて笑える。

今日こんな文章を目にした。『こどばが誕生するとき』 p.244に書いてあった。

われわれは社会的なイメージと身体の力の結びつきを探求せねばならない。しかもこの課題は…集団同一性と自我同一性の相互補完が、より大きな共通のエネルギーを、自我の総合と社会組織の双方に提供することを意味している。

かの有名な、自我同一性という言葉を作ったエリクソンの言葉だ。

自我同一性の集団・文化的同一性にもとづく達成は、自我を強くすると同時に、かつ、社会も強くする。どういうことか。僕はこんな風に理解した。

自分であることは、自分が所属する社会組織のメンバーとしての自分をも負うことであり、自分の力は、社会組織の力にもなる。自我が強くなるとは、所属する社会への意識が強まるということだ。その手助けをするのが、オトナという存在だ。オトナは社会の体現者であり、子供が社会の意識、社会の言葉を受け取る存在だ。

人はひとりで何かを成し遂げるには、あまりにもか弱すぎる。自我なんてものは一人ではつくれない。人はそういう生き物だ。アイデンティティーが「自分探し」という言葉で表されるが、実は、「仲間探し」のことであると、エリクソンはいっている。「自分らしさ」とか、「独自性」という意味では、どうやら使われていないようだ。多くの日本人は見事に誤解しているし、保育士試験の本を開いても、自我同一性という言葉は一人歩きしている「日本の西洋化」をアピールするタテマエ言葉になっている。

どんな会社でもいい。お金さえ手に入れば。どんな学校でもいい。遊べるなら。。。

私は、自分を強める、成長させるのと同時に、今いる組織を強めようとしているんだろうか?そこに心はあるんだろうか?所属する場所を選ぶのは、どうだろう。その組織を強めて、社会的な影響力をもたせて、いいんだろうか?私の時間の大部分を費やし、活動する組織は、私が同一化する価値がある場所なんだろうか????(働くことの価値はお金だけなのだろうか?私は「お金」なのだろうか?おとのねさんが独立してみようとおもった理由もここにある)

エリクソンが「身体的なむすびつき」という言葉で表そうとしたのは何だろうか?

やがて、青年期が到来したとき、性的生産力を発揮し始めた身体と集団・社会との結びつきのなかに自我形成の一段と明確なテーマが現れる。それが「自我同一性」である。このテーマは、それまでの年齢において自我が蓄積してきたセンスをすべて対象にした自我の再構成と再強化である。ここで、身体のむすびつきにおいてテーマをあたえたのが社会と文化であったように、テーマの達成に関しても、社会と文化は一定の方法を用意している。したがって、テーマの達成にともなって、自我は「強い自我」になるが、その強さは社会ない存在または文化ない存在としてのセンスを強くすることでもある。(以下、エリクソンの言葉)「幼児期の主要な危機の一つ一つが解決されるごとに子どもが体験する社会の健全性と文化的連帯感に基づいて、同一性の感覚は徐々に充実していく。そのような同一性の感覚のみが人間生活における周期的なバランス…を約束すると、われわれは結論した。しかし、この同一性の感覚が失われ、自我の統合が絶望と嫌悪に…屈服するところでは、必ずそれに関連した一連の幼児期の恐怖が一斉に動員されがちとなる。なぜなら、文化的同一性という『世襲財産』のなかに、安全に錨を下ろした同一性のみが、運用可能な心理社会的平衡を生み出すことができるからである」

ちなみに、センスとは自我感(これが私よ!という肯定感)であり、テーマとは危機、発達のなかで直面していく課題のことである。エリクソンが提唱した8つあるテーマのうち、一番最初にあるのは「基本的信頼」である。ひとりぼっちにならないこと、社会のなかにいること、ひとと繋がっていること、である。そして、

身体的という表現は、自分が文字通り身を置いている社会、という意味で捉えたらいい。人はとにもかくにも、「そこで生活している」ことに規定される。「強くなる」ことは、共同体との繋がりをもつこと、といえるが、エリクソンの時代と、現代とでは世界は変わってきている。エリクソンのいう「強い自我」のあり方が、この時代には少し合わないような気が、(部分的に修正、追加しなくちゃいけないことがあるような気が)する。

で、本題だが。オトノネは超弱小、人が全然来ない弱小塾です。育英とか大手の塾にみんないく。所属する。それがお金になり、力になる。時代のスタンダード、競争社会(脱落社会)、親の欲望重視、日本という歴史、社会に錨を下ろしているからかもしれない。オトノネはその対岸に錨を下ろしている。オトノネ世界へ、みんなこないかなー!!!!!!!!!!と思いながら、オトノネはどんな世界なのか、きちんと人に伝えられないオトノネの曖昧さを感じる。

価値観が多様化したこの時代に、学者はなにもしてくれない。学者の代わりに、たくさんの人がSNSで情報を発信してくれている。社会が、変わったのだ。社会が変わったのだということを学んでいこう。

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幼児期と児童期の違い。空想の友達。

『ことばが誕生するとき』

言語のもう一つのあり方が社会的言語である。そこで大切な言語の昨日は、情報を伝達する機能である。「かつて・あそこ」で見聞きしたことを、「いま・ここ」で他者に伝えるという機能を果たすのがスヤ快適言語である。小浜は、子供が言語のエロ素敵な側面だけではなく社会的な側面を我が物にしていく過程において、子どもは〈死〉を自覚し、〈話〉の虚構性をシリそれと同時に「虚構性としての自己」を認識するようになるのではないかと主張している。幼稚園から帰宅した時、母親が「幼稚園でお友達と何をして遊んだの?」と尋ねるとしよう。子どもは、この問いに答えられるようになるとき、「いま・ここ」にいる母親から心を遊離させ母親というエロス的存在が不在であった空間=幼稚園に飛ばし、そこでの先生や友達との関係的な出来事を、「かつて・あそこ」(幼稚園)にも「いま・ここ」(家庭)にもない空虚性に他ならない〈自己〉の視点から語るのである。幼稚園には母親はいなかった(母親の不在)。いま母親のいるここに、幼稚園の友達や先生はいない(かつて経験を共有しあった他者の不在)。「いま・ここ」と「かつて・あそこ」をつないでくれる他者は存在しない。子どもは、このとき、語る人になることの孤独、あるいは語ることの空虚性に直面しているのである。小浜によれば、子どもがエロス的言語を離れた社会的言語を獲得するようになることは、子どもがエロス的な関係性から遊離した空虚な〈自己〉を手に入れ、そこから〈話〉人として〈話〉を構成するようになることを意味しているのである。隠して、幼児期は終わり児童期が始まる。そして、「いま・ここ」の“自己”と「かつて・あそこ」の“自己”とを関係づけようとする記憶とよばれる“自己”の物語が同時に開始されるというわけである。以上の小浜による幼児期と児童期の理論的な区別は、いくつかの観察や実験データからも裏打ちすることができる。ピアジュの初期の研究「自動の世界観」によれば、5〜7歳の子どもたちはよく死を問題にするが、5〜6歳以下の子どもたちはそのような質問は怒っていないという。このようなデータも、幼児期と児童期との違いの一つを死の自覚におく小浜の考え方を支持しているように思われる。ただし、今日の子どもたちはピアジュの調査した半世紀前に比べ、もうすこし早く児童期に足を踏み入れている用ではあるが。たとえば、小浜の娘は4〜5歳頃に夜寝床に入る前に遠くを見る目つきをし、そして目に涙をいっぱい浮かべ「ねえ、ママ、あたしが死んだら川に捨ててね」と語ったり、「ねえ、ママ、あたしが大人になったら、ママはおばあさんになって、それから死んじゃうんでしょう」と語ったという。筆者の二人の息子の観察データもほぼこのような時期に死の自覚が始まることを示している。「死」を自覚し始めることは、小浜によれば、空虚性としての〈話〉を獲得し始めることと密接に関連している。(『ことばが誕生するとき』p.78)

児童期以降の子供は、自分の体験や思考を、母親やちhc位親がすべて共有してくれているわけではないことを知る。エロス的関係性から遊離し空虚性である〈話〉の世界に足を踏み入れることによって、子どもは、他者と分かち合うことのできないもの。・他者には理解してもらうことのできないものがあるのだということに、直面させられる。かつて、子どもと世界を分かち合っていた全能の他者(お母さん(オトノネさん注))は今やいない。「いま・ここ」に不在なのは、幼児期に世界がまだ分かち合われていた時の“自己”でありその相手であった“他者”である。子どもは、そのような“自己”や“他者”を「いま・ここ」に呼び戻そうとする。かくして、“もう一人の私”や“秘密の友達”が子どもの“私的なもの”を共有してくれる“他者”として出現することになる。“私的なもの”とは、人が現実の他者と共有することができないものである。もしそれが誰かと共有されれば、それは“共同的なもの”あるいは“エロス的なもの”になる。(『ことばが誕生するとき』p.82)

いつも近くにいた人がいなくなって、不安になったり嬉しくなったこと、いろんなことを受け止めてもらいながら育ってきた子どもが、多くの時間を一人で過ごすようになる。現在なら首がすわったら保育所で多くの時間を過ごす、といえども、やはりお母さんに身体的にも、感情的にもべったりする時期が幼児期だ。そのべったりを超えて、自立していく段階が、児童期であり、学童期だとおもえる。お母さんから離れるために、「虚構を語る言葉」を使って、ここにない世界と言葉で関わりながら、少しずつ、子どもは自分でなんとかすることを学ぶ。これを手伝うために、社会的言語、〈話〉をすることが大切なのだとおもえる。

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