「長時間」「みんな一緒」「やらされる」組織からの自立と、組織の選択。

こんな見方ができる。
あくまで、見方。

「させる」世の中。

学校はまだ戦時で、工場に集団就職した子どもたちがいそいそと手を動かし、終わらない宿題・課題、そして矢継ぎ早に繰り返されるテストで休む間もない。そこで「させられる」以外の何かを見つけるとしたら、休憩時間に友達とおしゃべりをすることくらいである。夜、仕事が終わった後に、故郷の「民謡」を歌う女性労働者の物語を、僕は本で読んだことがある。学校帰りに、イヤホンでPOPミュージックを聴いている子どもたちのようだ。

塾業界は満足のために「できる気にさせる」「できている気にさせる」ことで夢を売り、お金をもらう。子どもが「楽しい!」とかお父さんお母さんが「ここにいたら安心!」と思えるような合格実績、その他のデザインを考えている。夢を「見させる」がんばれ!がんばれ!「勉強をさせる」なぜかそういう状況をお父さんお母さんが望んでいる場合がおおい。子どもに、お母さんお父さんも、夢を「みさせ」たいのだろう。数字を見せて「どうですか?この実績!」という姿は、どこかの営業マンのようだ。(実際、ビジネスなのだから仕方があるまい)

「主体性」の場である保育園ですら。お父さんお母さんを喜ばせるための運動会、発表会、保育士の自己満にもならないと僕にはおもえる掲示物(ぐちゃぐちゃに絵の具を塗った紙をカエルの形に切り抜いて、子どもたちになんのプラスがあるだろうか)。「あそばせ」続け、自分で「あそぶ」ことができない子どもたちもいる。(そのうちこの「あそべない」子どもたちの記事を書きます)。子どもの様子をみて、「的確な遊び」を絶え間なく与える保育士が評価される。子どもを楽しませる先生が、いい先生だということになる。らしい。

「させられ」続けながら、心を大事にできる人もたくさんいる一方、心をすり減らしてしまう人がいるのも確か。心と切り離された仕事をしてお金を稼がなくてはいけないお父さん、お母さんがいる(もちろん、心ある仕事をしている人もいる)数をこなすために、1を大切にできない職場もある。心を尽くして人と人が向き合う時間もなくなってきた。これが、発展した時代の、日本の最終形態なのだろうか?働き方改革と呼ばれているものは、どうにも、僕には国が税収入をあげようとしている作戦にしかみえない(余暇を外食産業に!エンターテインメントに!)。

あせらせる、やらせる、不安がらせる。
満足させる、喜ばせる、来させる。

人間が動物であるようだ。
実際、思春期がある動物だけど。
思春期が一つのテーマになっているオトノネさんの気にしていること。

よくよく考えたら、動物の子どもが「思春期」で親に「反抗」したら、一発で死んじゃうよね。
不思議。

ーーーーーーーーー

そんな見方ができる。
あくまで、ものの見方。

ある場所では喜びに欠け。
ある場所では喜びに満ち。
ある場所では真実に欠け。
真実に満ちた場所を僕は歩き回りながら探してきたし、今は、自分で作ろうとしている。
(もちろん、僕にとっての真実)

ーーーーーー

昔々、社会、集団は、イコール、血縁がある組織だった。

血縁のないところに集団が生まれるために、「満足度」は大切であるし、「お金」は大切だろう。
(集団でいることの「満足」を確認するために文化祭とか体育祭といった祭りが利用される場合もあるだろう。青春!)
【高校選び】進学高校の高校生たちのブラックな青春が青になるとき

「祭り」と「お金」だけでは枯れてしまう心があるのも本当のこと。

ーーーーー

ところで、オトノネは、夢を売りません。(オトノネにきたら、夢が叶う!わけがありません)
一体何にお金を払うのでしょうか?

答えを出さずに不満足のままに終わるのがオトノネらしさかもしれません笑
夢を買いたいなら「逆転合格!」とか「偏差値30から!」とか「定期テストで+30点!」「◯◯大学◯人!◯◯高校◯人!」と宣伝している塾を選んだらいいとおもっています。(たまたま、夢が叶う人もいるでしょう。結局、いい先生と出会った人が、自分にとっていい環境を選べた人が、満足のいく受験を経験します)

ーーーーーーー

経済成長を夢見ながら、みんな一緒を続けていく生き方があります。
が、今は、別の生き方を模索しているひとがでてきています。
誰もが、時代から自立して、認められる時代になってきました。

オトノネは、そんな僕の、(僕が生まれ育った)時代からの自立という挑戦だとおもっています。

時代は変わりましたが、組織はあまり変わりません。
自己保存力が働きます。既得利益をなかなか!手放せません。
(それでも、組織を変えようとする人もたくさん出てくる時代です)

組織から自立する人、
時代から自立した組織を選び所属する人が、笑って生きられる世の中になると、僕は思っています。

組織からの自立って何?時代から自立した組織って何?
気になる方は、いろんな本があります。ぜひ、ご一読ください。
「長時間」「みんな一緒」「やらされる」で心が悲鳴をあげている人はもうすでに、この扉の前に立っているように、僕にはおもえます。

強烈なオヤジが高校も塾も通わせずに3人の息子を京都大学に放り込んだ話

たった一度の人生を変える勉強をしよう
学校の「当たり前」をやめた。

学年ビリのギャルが1年で偏差値を40上げて慶應大学に現役合格した話

子どもの「遊び」は魔法の授業

残酷すぎる成功法則 9割まちがえる「その常識」を科学する
売上を、減らそう。たどりついたのは業績至上主義からの解放
ハッタリの流儀 ソーシャル時代の新貨幣である「影響力」と「信用」を集める方法

こういった新しい価値観を生まれながらに持っている人もいます。
が、育っていく中でつくった価値観をだれもがもっているものです。
もしそれが「なんか変だ」と感じたら、その違和感を大切にしながら、進んでみてほしいとおもいます。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない?(坂口安吾の『堕落論』)

堕ちて、堕ちて、堕ち抜いてください。
僕はそれを止めようとはおもいません。(一体、何をしてくれるんだオトノネは!)

堕ち抜くチカラは、あなたの本当のチカラになると、信じているからです。
(そのうち、浮上しているのか、墜落しているのかわからなくなるようになります。言葉って難しいんです笑)

ーーーーーー

その点、学校って、やっぱり、時代を作る原動力になるとおもう。
公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2(富山・石川は教育県ではない?)

オトノネひろげるシェアぼたん

キーワードを手に入れたら、どんどん出てくる新しい世界の人たち!

平川理恵
広島

と検索して、このページをみつけた。
広島県が目指す「主体的な学び」とは

このページの下にある「編集部おすすめの関連記事」がおもしろい。

「組織の中で我慢しなさい」という教育はもういらない
親の言うことばかり聞く子どもには危機感を持ったほうがいい
教育委員会の都合は最後に考えよう
社会に出たら、何もかも指示されるなんてことはない
「話を聞きなさい」なんて指導は本当は間違っている

変わってきている。
それでも変わらない学校もある。

今まで沈黙していた人が動き始めている。
きっかけをくれた人がいる。

お父さん、お母さん、自信を持って、新しい時代に子どもを送ってあげても大丈夫ですよ。
助けてくれる人が、たくさんいますよ。

ホリエモン、藤原和弘、その他(ごめんなさいたくさんいるから…)

新しい世界、新しい時代。
そこで思い出したこの本。
新世界

この本は、西野 亮廣という特殊な人間の目線で書かれているので自分の世界観と摩擦を起こすくらい度肝を抜かれる。
けど今までは想像もできないことが、世の中では起きている。起こりうるということを知るには、役に立つ本だとおもう。

FBやツイッターをみるだけでも、新しい世界観をもった人の記事に出会える時代になりました。
情報はあります!

オトノネひろげるシェアぼたん

子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

託児所で学んだこと。

10ヶ月の子。

離乳食を口の中にスプーンで入れてもらった後に、指を口の中に入れる癖がある。
そこで保育士の先生。

指を口の中に入れる癖はよろしくない、それは癖になる。
ということで、「大丈夫、(食べ物はちゃんと)口の中に入っている(から指をいれなくてもいい)よ」と言って口に入れた指を手でどかす。
けどそれが何回も続くので、口に入れるスプーンをもっていく場所が悪いのか、という仮説を建てたその先生は、場所を変えて食べ物をあげて見た。
それでも、やっぱり指を入れる。ん?となって、また次の時に、どうして指を入れたがるのか、その先生は解明できるだろうか。

ーーーーーー

子どもは小さい時、「泣いて勝とうとする」という。

泣いたら、何かしてもらえる、という癖をそのまま、2歳までもっていくと、いわゆる「魔の2歳」と呼ばれるのではないかと僕はおもっている。
泣くという行為(泣いたらなんとかしてくれる!)が、逃げ回ったり、手を出したりする行動(暴れたらなんとかしてくれる!)になるのではないか。

今度先生に聞いてみよう。。。

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小さい頃から濃い味に慣れてしまった子どもは、薄い味を食べられなくなる。
今時の小学生の給食で好まれるのは「ラーメンと唐揚げ」だという。仕事帰りのお父さんとおなじメニューじゃん。
いやいや、伝家の宝刀、カレーはもちろん。人気だそうです。(最近出会った栄養士さんの話)

どんな食生活をしているのか。
癖はなかなかなおらない。
いや、いつでも直せる。

直すための環境が揃えば。
自我が発達していれば。
自分で「あれ?」とおもうか、環境がそうさせるか。

だから離乳食のときに、食べ物を噛んで味わえるようになった時に、いろんな味を、歯ごたえを経験させることが大切だと、先生は言っていた。
その後、好き嫌いがでてきても、大人になってから、必ず、その味に、食材に、出会えるきっかけがある、とのことだ。

学校でも、いろんな先生に出会うだろう。
嫌いな食材を食べさせられることでまいってしまう子もいる。
今は、その子には、その食べ物は、人間関係は無理なのだ。

そんな人間関係を無理やり続けていたら、「無理な人間関係を続ける」癖ができるかもしれない。
家庭内暴力を受けてもDVだとおもわなくなるかもしれない。
ブラックな企業でも頑張って勤めるかもしれない(命を燃やすに値するブラック企業ならまだしも)

ーーーーー

「泣いて勝つ」というコミュニケーションの作戦を子どもはとろうとする。
乳児期に、離乳食の前までにそれを覚え、使い続けようとする。
けどいつまでもそれじゃダメだと、「教える」ことは大切だろう。

種を蒔こう。

「待たせる」こともあっていい。
ぜひ、待ってもらおう。
待って入ればちゃんと助けてもらえる、眼差しをくれる、暖かさをくれることを「教えて」あげよう。
待つことは、大切なメタスキルだ。発達の課題だ。

種を蒔こう。

待つという経験を、赤ちゃんの時からさせてみよう。
大丈夫だ、待たせても、死なないから。

たぶんそういうことなんじゃないか。

頭だけで考えてみれば、人見知りをするくらいになったら、十分、待たせてもいい気がする。
またはいはいができるようになったら、十分待たせてもいい気がする。

「魔の2歳児」が本当にあるかどうかわからないが(今度先生に聞いてみよう)、関わり方一つで、「教える」ことを意図することで、子どもは順序よく、無理なく発達していく。子どもという一つの宇宙が育っていくための、子どもというひとつの自然がシステムを作り出すための、必要な種を渡していく。そんなイメージだろうか。

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種を蒔いていく、蒔かれた種を育てていくはずの学校で、子どもの大地が、子どもの泉が、子どもの森がまるで「公害」のように汚染され、傷つけられていくことがある。もしくは、全く種がお世話されないか。子どもは泣くだろうか。暴れるだろうか。「学校に行きたくない」というだろうか。お父さんお母さんが子どものメッセージを受け取って、守ってあげたらどうなるだろう。習い事も同じ。「よかれ」とおもってやることが、子どもの自然をどんどん剥ぎ取ってしまっていないか。

とある英語教室を見学したときのこと。
小学3年生くらいだろうか。
お母さんが迎えに来るのを待っていた。
僕と遊んでいた。
お母さんがきた。
お母さんが来ないごっこをはじめた。
帰ったら、宿題を「やらなくちゃ」いけないらしい。

大好きなおかあさん、学校の成績じゃなくて、不確かな未来ではなくて、今目の前にいる子どもの心をみてあげていますか?

昔だったら、「おしん」の時代なら、小学生といえば、もう立派に仕事をして、働ける年齢。
大人が水をやり過ぎたり、日光を当て過ぎたりして種をダメにしてしまっていないか。
(そんなこといったら何をしていいかわからなくなってお母さんは不安になってしまうかもしれないが)

けど今の小学生は、、、学校以外に行き場がない子が多い。
学校は、この意味で、牢獄だ。
もっと子どもが子どもらしく、自然でいられる場所がたくさんできたらいいなぁ。

子どものための社会資源が足りない気がする。
子どもの自然を守り、小学校に上がる前に蒔かれた種が育つための環境が、整っていない。
そんな気がする。

ーーーーー

最近、安い納豆についているタレを使わずに、家にある醤油をかけて食べたら。
納豆がすっぱかった。
納豆の味は納豆のタレの味だったわけだ(それからちょっと高い「ちゃんとした」納豆を食べることにした)

安いものはいくらでも出回っている。
オトノネは、やっぱりちょっと高くていいとおもうがいかがだろうか。

ーーーーー

蒔かれ、育った命は燃える。
燃える命は、周りにある命を燃やす。
自然の中にある命は、お互いに照らしあい、燃やしあっている。

一方的に栄養を与え、培養し、育てる工場のような教育はオトノネがすることではない。
自然の中で、お互いに、共に育っていくイメージを、僕はもっている。僕は子どもからたくさん教えてもらっている。

体の大きさは違っていても、子どもには子どもの気持ちがあり、心があり、同じ人間であり、僕らの老後をたのしくしてくれる、頼もしい仲間なのだ。
生まれた時から持っている「天から与えられた才」という種がどんな花を咲かせるのか、どんな「自然」を作っていくのか、僕はたのしみでしようがない。

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朝顔、、いや、なんだっけ、あ、えっと、紫陽花!あじさい!

みんな遺伝子は同じだけど、土によって、環境によって、咲く花の色が違うという情報をいただきました。
そんな感じ。

『残酷すぎる成功法則』という本にも、書いてあることだ。
その子がタンポポか、ユリか。
育てることで、育て方を変えることで、花咲く種もある。
残酷すぎる成功法則

見事に花を咲かせたクシュラの話も読んで見てください。
個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々

教育とは個性化のプロセスのこと(ユリとタンポポとクシュラ)

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小学校もサバイバルな件。

最近、オトノネに面談に来てくれた小学生。
「針時計が読めない」ということ。学校のプリントもできない。
算数自体が弱いという。

本人はあっけらかん!としている(見事!親指ピアノに興味もってくれたし)が、お母さんが心配している。
「スローラーナー」、ゆっくりその子のペースで学習するだけでわかるケースだと僕はおもった。
けど学校ではその子に合わせてくれない。違法です。が、仕方ない。それが現実。

学校でやらされている宿題、課題、プリントを見せてもらった。そして教科書も。
小学生にも毎日のように宿題(課題)が課されている。信じられない。
これだから、高校になってもみんな課題をやらなかったら不安になったり、定期テストに追われるのかな?宿題は「やらせない」方がいい。(勝手にやるならそれはそれで!)
そして「学年×10+10分」の家庭学習を「強くお願い」されているそうだ。
家庭は家庭で教育することがあるんですが。

そしてそのプリントのわかりにくいことといったら。。。
全て噛み砕いて、分析的に、誰にでもわかるように、導くという姿勢がみえるのはわかるが、あまりにも「観念的」すぎるという印象だ。
そして、「演習」が多すぎる。高校で「演習」ばかりさせて教えないのと同じ現象が、小学校でも起きているとわかった。

これ、困っている小学生、たくさんいるんじゃない?

ーーーーー

別のお父さんの話によると「ひらがなをなぞる宿題で、少しでもずれていたら、バツがついて返ってくる!」
意味わからん!

金沢の小学校でも同じことが起きているという。
え?何それ。1時間以上、神経をすり減らして、おもしろくもない、作業、「もし、ずれたら、もう一度やり直しをさせられる」というプレッシャーに耐える子ども。

学校の先生、休んでください。
今、その状態で、子どもに何かしても、いいことが起きる兆しがないようにおもえますよ。
休んでください。

大丈夫です。先生がいなくても、子どもは大丈夫です。
学校がよくないだけでしょう。
子どものことを考えてください。

と、僕ははっきりと言ってしまえるのだが。

子どもの心を守ってあげませんか。
教員生活を続けるのでしょう?
子どもの心を守ってあげませんか。
先生の心を、まずは自分で守ってから。

子どもに、素直に、「ごめんね、今の私は、学校の空気に逆らえなくて、こうすることしかできないの、弱いの、ごめんね。。。」と話すことから初めてもいい。
子どもに聞いてみてもいい。
僕は、実際、公立高校で、働くとき、それをやってから「授業」に入るようにしている。
「僕から何を教わりたい?」「けど学校の仕組みはこうなっててさ、僕も困っているんだ」

ごく一部の生徒をのぞいて「赤点を取らなければなんでもいい」という答えを出すのが、高校の実態です。

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図形、単位、計算でつまずいていても、どんどん先に進む。
遅れを取りもどす、といっても、そもそもスローラーンなので、「ほとんど取り戻すとか期待できない」状況で「もっと頑張りましょう」という先生。

しょうがない。だって教育にお金も人もかけていないのが、富山県・石川県なのだから。
いや、工夫はできるんだけどね。工夫もしないのね。オトノネにきたら、いろんな授業のアイデアだしますよ。けど、そもそもの心が、学ぶ準備ができていない先生が多いような気がする。

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと1

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと3

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実際、子どもたちは時計をみなくても生活できる。
チャイムが鳴る。誰かについていけばいい。

うーん。

いろいろ話をしながら、「お昼休みが始まる時刻」「長休みが始まる時間」がわからないことがわかった。
けど、「もう7時30分だよ!」と家でお母さんから言われているおかげで朝家を出る時刻はわかっていた。
針が読めることよりも、まずは時間を生活の中に取り入れる、意識化する、言語化するプロセスを、家庭で増やすのはどうだろう。とお母さんには話をした。(仕事で忙しく、大変なようだが。。仕事!お母さんの子育てという大切な仕事は!?)学校では「演習」をさせられて気が滅入って嫌いになってしまう。時計が嫌いになってしまう。僕は精神的暴力、学校の法律違反、犯罪だとおもう。はっきり言っておく。だって、子どもの命を守りたいもの。

「じゃぁ、あと60秒数えたら、◯◯しようか」ということでもいい。一緒に数を数えてもいい。
人間には指が10本ある。指をおりながら十進法をおぼえたらいい。
「なんで10分が6個で1時間なの?」さて、おかあさん、なんて答えますか?ドキドキです。
一緒にご飯を作る時に、砂時計を一緒に眺めてもいい。「これが5分だよ」。
そういう家庭教育、家庭での経験がなければ、小学校をサバイバルすることが難しくなる、そういう子もいる。

僕が働いている保育所では針時計の「6」のところにアンパンマンが貼ってあって、子どもも時計を見るようなやりとりを大人としている。保育の中でも「まだあそびたいの?でもこのあと◯◯だから、何時になったら片付けはじめようね」というように。

けど針時計読めなくても行きていけるのも事実だけどね!
小学校が終われば、時計の針を読む「問題」も出てこないのではないか。でてくる?
大丈夫、大丈夫。死なないから。

そんな時に思い出す。
「ウォッシュレットでなかったらうんちができない子」。
大丈夫、ウォッシュレットがない学校で、これから生活するんだから。

大切なのは、時計の針が読めるようになること以上に、時計の針が読めないという困った状況を通じて、「その子」をみてくれない学校の現状(もう無理なんです)を理解し、社会資源(子育てを助けてくれるいろんな人)を探してこれからの長い、長い、学びの環境を整えていくことだとおもう。

できなかった、
わからなかったことがわかるようになってうれしくない子がいるだろうか。
針時計が読めるようになって、暮らしが豊かになるような、そういう世界を大人として見せてあげたい。

うーん。

富山大学図書館にいって検定教科書をみてみよう。
おそらく、時代が新しくなるにつれ、醜くなっているのではないか。

オトノネひろげるシェアぼたん

小学生、中学生の心を学校から「守る」という愛で子どもの「命」を守ること。高校になった時に自立すること。自由に生きること。

「自由にさせたい」

ということが一つのキーワードになる。
ひとりひとりが自由に世界をつくっていけば、世の中はもっとおもしろくなるだろう。
では、

子どもに「自由に生きて欲しい」という祈りを届けるための、愛とは何か。

ーーーー

さっき、ドジョウが2匹、死んだ。
正確に言えば蘇生しようとしているのか、死んでいこうとしているのかわからない。
とりあえず、フタをせずに「カルキも抜きたいし、水たっぷりにして泳がせたいし」ということで2匹が今、埃にまみれて瀕死。
奇跡的におとのねさんに食べられることを免れた命。
飼うつもりだった。
生存者は3名

ーーーーー

「自由にさせたい」
けれども、守らなくてはいけない。
何を?命を。

人間なら、僕はもっと別のものを大切にしてほしいと思っている。
心だ。

命、といってもいい。

その人が生まれて来て、燃やせるもの。
他の人にも与えられる炎。

で。

「自由」がうまく働かない場合がある。
自由は条件付きだ。
「みんなで一緒」で小学校・中学校を過ごした子どもたちが、高校になって、「みんなで一緒」になって、本気をだせずにいる。
「個別化」されるべき進路を「課題」に阻まれている。
3年間を学校で「みんなで一緒」のわけのわからない課題に耐え、終わる。
それがお父さんお母さんの望んだ「自由」の結果だろうか。

(学校変えるか、課題や定期テストを拒否するだけでいいのに…それは困難なのだろう)

それで、子どもは、「殺された」と言えないか。
お母さん、お父さんが「自由だ」といって子どもの大切な心を、命を殺していないか。
おとのねさんも「自由だ」といって子どもの心を殺してはいないか。

そこはおとのねさん、実にドライだ。
「もう育ってしまった。もう思春期を超えた。あとは、今あるものでやっていくしかない。もう高校生になったなら、痛みがなければ、変わらない」
発達課題を、思春期の意味を僕はそのように理解している。
入試が終わった後で、希望しない大学に入学した後で、大切なことに気がつけばいい。

ーーーーーーー

「自由」を大切にすることはいいことだとおもう。
ただそれで「自由」を発揮するチカラを育てられているか。
「自由」にすることで「不自由」になっていないか。

「教えてはいけないこと」と「教えるべきこと」をはっきりさせているか。

「みんな一緒」から子どもを守ることがお父さんお母さんの役割ではないのか。
学校で「みんな一緒」の価値観で育った心が「自由」を発揮する、「個性」を生かすチカラを発揮することができるだろうか。
障害にならないか。

学校という環境がつくる心から、子どもの命を守ることが大事ではないのか。
それほど学校の先生は、学校というシステムのなかで生き延びることに精一杯なことが多い。
(一部の先生が生徒の心に大きな負担をかけることも往往にしてある)

ーーーー

もし本当に「自由」を、「その子らしさ」を育てるなら、学校から子どもの心を「守る」ような関わり合いをしなくてはいけないのではないか。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
それは学校から「自立」することも意味するだろうとおもう。

「先生、いろいろ大変だね。まぁ、私は私でやっていくよ」という目線。

心を圧迫してくるあらゆる言葉、振る舞い(時として脅迫や精神的苦痛といういじめに相当するものが公然と教育の名で行われることもある)から自立すること。僕がよくDVをDVだと思わないお母さんの話をするが、それの学校バージョンだ。毒親の支配から逃げられない子どもに例えてもいい。

小学校、中学校の発達の課題には学校からの「自立」がある。
だからこれを意識して就学以前から、低学年から関わりあうこと。
小学校になってからも、「自立」できるように子どもの心を守ること。

ーーーー

テストの点数が悪くてもいいよ!とはいっていない。
学校という環境の中で、「その子」をみつけて、どうしたら「その子」が「その子」として自立できるか、かけがえのない命を燃やせるのか、他の誰かを照らす炎になるのか。見て、守ってあげることが大事だとおもう。(場合によっては、学校がいうことなど気にしなくていいと、言えるだろうか)

ーーーーー

子どもを「守る」ために課題をやらせ、テストの点数をあげさせようとするお父さんお母さんの心はわかる。
ドジョウを2匹、自由にして殺してしまった気持ちだ。

「自由」になるために「檻に入れる」のだ。

ーーーーー

勉強「させる」、習い事を「させる」のは悪いこととは限らない。
ただ発達の過程で刷り込まれた神経は残るということは知恵として知っておいて欲しいとおもう。

小さな子どもの「気を引き締める」「ケジメをつけさせる」のも同じだ。
その一挙手一投足が、子どもの心をつくる。神経を作り上げる。

ーーーーーー

命を守るとはどういうことだろう。
僕は生まれて来た命にかける願いを、祈りを、言葉で、仕草で、振る舞いで子どもにかけたい。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
そして高校生になったときに、本当の自分を社会にプロデュースするという課題に、向き合えるように。
そのための基礎が「自立」する心であって、これはつねに自分という物差しで、自分の心で世界をみる行い(自分が自分のことを語るという単純なこと)の繰り返しで強められる。

小学校、中学校で「みんな一緒」の「定期テストに追われる」、「学校の先生が怖くて従う」、「友達の視線が気になる」神経を作り上げる学校の環境から子どもを守ることが、「自由」のために教えなくてはいけないことではないのだろうか。命を、殺さないために。

小学校、中学校で「死にに行く」ことを覚えた体は、高校になってから「個別化」を拒むだろう。「自立」することが難しくなるだろう。
身体は記憶する。
気持ちとか、精神論とか、正論は関係ない。
わかっちゃいるけど、、
先生に頭ごなしに否定されると体がすくんで、心の元気がなくなる。
身体は記憶する。
心理学の一般書のコーナーにいけば、すぐにでも手に入る真実だ。

ーーーーーーーー

別に課題をしなくてもいい。
勉強しなくてもいい。
本気になれることさえあるなら。
それが個別化だ。

勉強ができなくても、しあわせを育てている人を、僕はたくさん知っている。
勉強ができても、しあわせそうではない人も、僕はたくさん知っている。

ーーーーー

自由にさせて、小学校・中学校で心をすり減らしていないだろうか。
「みんな一緒」を神経に、体に刷り込まれていないだろうか。
それは僕には、発達障害のようにもおもえる。「え?まだ学校から自立できていないの?」

子どもの命を殺していないだろうか。

知恵をもって、仕草をもって、愛のある言葉をもって、子どもと関わりたい。

(ブログの記事)
愛とはなにか?

そうして僕は、ドジョウを入れたボールにラップをかけた。

ボールの外から飛び出して「死ぬ」のは自由。
けどそれは、言い方を変えれば僕がラップをかけずに「殺した」ことにもなる。

小さな赤ん坊が、歩き始めた時、わけもわからず車道に出ようとするのを引き止めるように、学校から子どもを守ることも、命を守ることになるのではないかと、僕はおもっている。それほど学校は、生徒たちの心をすり減らしている。子どもたちは、笑いながら、「自由」であり続ける。

僕は子どもたちに、どんな祈りの言葉をかけよう。

小学校、中学校の発達の課題は学校からの「自立」と「個別化」だとおもう。
学校は利用するのであって、機会は「与えられている」のであって、「従わなければならない」法はない。

教育基本法 第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

オトノネひろげるシェアぼたん

「ふつう」という色眼鏡。「ふつう」の3つの意味。

かけてる人!

はい!

外してみてください!

外せますか?

なかなか、外せないですよねぇ…

学校で、外し方、教わりませんでしたか?

教わらないですよねぇ…

お子さんはもう、外しているかもしれませんよ。

メガネを外してみて、
お父さんお母さんが、
お子さんと一緒に風景をみてみたら、何かが起きるでしょうか。

ーーーーーーーー

「ふつう」と違うことが怖いらしい富山県。(だからといって誰も「平均点」以上をねらわない親はいない不思議)

「ふつう」って何だろう?

普通という言葉を英語で表すとnormal とかordinaryとかcommonとか。
normalはノルマという言葉があるように、規格に合う、正常なという意味。
けどordinaryはorderつまり秩序の中にあるという意味(これを順番と訳すと話が少しおかしくなる)。
commonはcom、共通しているという意味。

はい、英語の勉強です。

あなたの「ふつう」はどれですか?

「学校の成績」は「ふつう」でなくちゃだめですか?
その子の今のままの「ふつう」ではだめですか?

どんな「ふつう」がいいですか?
「ふつう」を望まれているせいで、お子さんは苦しんでいませんか?

そもそも、学校の成績の出し方によれば、平均点以外の子どもは「ふつう」ではなくなる現実がありますが。

オトノネひろげるシェアぼたん

義務教育学校の本当の意味とエリート社会と堕落と、子育ての2つの考え方。残酷な考え方。

僕自身、大切な考え方が出てきた記事なので、最後まで見てもらえるとうれしいです。

ーーーーーーーー

こんな記事を見つけた。

知ったかぶりでは許されない「学校のリアル」

気持ちがいいくらいはっきり書いてくれているなぁ。

公立学校は壊れている。
もう壊れている。
と認めてから、新しいことをはじめる時期にすでに入っているのではないか。

上のリンクからウェブサイトを見てくれましたか?
学校は、そういう場所です。
そういう大人たちがいる場所です。(悪口ではないですよ。事実です。もちろん、全ての学校がそうであるわけではありませんが)

学校は、基本、困難な場所です。
子どもがサバイバルする場所です。
僕にはそう見えます。(もちろん、そうでない学校もありますが!もちろん!)

気になったところにコメントを。

ーーーーーーー

「3割のエリート」と「7割の非正規」を育てる、それが日本の教育の実態

富山県、石川県の進学校の進学実績とかぶっていて笑えてしまった。
この3割に入ることを目標にしている「学歴社会から抜け出せない親たち」がいる。

「学校で英語が始まったから英語の塾に通わせる」というお父さん、お母さんがいるとしたら、少し考えてみてほしい。
(習い事をさせることでワルイことが起きる可能性も、オトノネのブログを見てくれているなら、ご存知ですね?)

そうでなければ「「子どものため」のようで、経済界に影響されているだけの日本の教育」にふりまわされるだろう。
子どもが困らないように‥という親心を、マスコミ(経済界の一番槍)は刺激する。
子どもをマスコミの情報から守るのが、お父さんお母さん、学校の役目だと僕にはおもうのだが。

お父さんお母さんが振り回されていたのでは、もちろん、子どもも振り回されてしまうだろう。

子どもは可能性に満ち溢れている。
だから経済界はそれを狙う。「うちの子は、エリートに…できる子に…」
そのうち何人が、これから8050問題を作り上げていくことになるか。誰にもわからない。

ただ僕はそれを自分自身に課し、やりすぎて、心が壊れた人間だ。

それから「7割の非正規」の人たちと出会って行き、「うちの子は、エリートに…できる子に…困らない子に…普通の子に‥(普通って何?)」の連鎖から離れてしあわせを育てる人の暮らしを知った。(例えば期間限定で猛烈にアルバイトして、貯まったお金で物価の安い国に行き、暮らすことを続けている人。そしていろんな「いいもの」をネットで発信している人がいる。ある意味3割のエリートよりも、たくさんの人を幸せにしている気がする)もちろん、「3割のエリート」組の知り合いもいる。

「7割の非正規」の道を歩んでいた人が、「3割のエリート」コースに移ることもあった。
不確定だ。不確定の、不確実の、摩訶不思議な時代。
雇用されるという発想に縛られるだけでも、子どもの可能性を狭めてしまう、殺してしまうかもしれない時代。

「うちの子は、エリートになるかもしれないし、非正規になるかもしれないけど、どっちでもいいけどしあわせになってほしい」


というお父さんお母さんが増えてくれたら、僕がおじいちゃんになったときの世の中は今よりもおもしろくなるとおもいう。

あ、これですね。大切な考え方ですね。
自画自賛。

「うちの子は、エリートになるかもしれないし、非正規になるかもしれないけど、どっちでもいいけどしあわせになってほしい」

という考え方。(いつもお金に困っているオトノネだけど、困っているからこそいろんな人に巡り会えている気がする。それはそれで、よし!よし!と言い聞かせよう笑エリートでなくてもお金を持っている人もいるし笑)

大切なのは、幸せになることだから。
大切なことと巡り会うことだから。

だからこそオトノネはメタスキルとか、自立とか、心が大事と言っている。

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ところで小学校と中学校をひとつにする義務教育学校が富山県でも増えてくるようだが。
お金と人がいないからまとめるという消極的な意味でとらえるしかなさそうだ。
だって、子どもがすくない地域でしか義務教育学校がつくられる予定がないからだ。

もう教育に、国はお金をかけてはくれない。
無償化という言葉も、ただのアピールだ。(富山県、石川県、地方ではお金持ちが公立に行く。肝心の支援が必要な私立は無償化されていない)

育ちの場として、小中がひとつになることはいいことではあるとおもう。
けどそれが実りのある、人と人が関わり合える場所になるには、やはり大人が意図を持って、意思を持って作り出すしかない。

どうなるかなぁ。

「ああ、もうむり。やっぱり人だ」と動き出している地域もある。
課題先進地から未来の教育の当たり前をつくる雲南市高校魅力化プロジェクト

そのほか、原発で一度壊れた太平洋の北側の地域でも、再生を通じて新しい学校が生まれている。
“ 災害の悲しみを強さへ ”

堕ちることでしか、浮き上がってこれない。
堕ちているのに、守られることで、ちゃんと堕ちることができなくなるほど、不幸なことはない。
「堕落」しなければ、課題を真面目にやる無意味さに気がつかない。(坂口安吾の『堕落論』)

今は昔、人々の成人の儀式、通過儀礼と呼ばれているものは、精神的にも、肉体的にも、人間として堕ちる経験だったのかもしれない。
そう考えると、高校受験、課題で潰される経験は、悩ましい高校時代は、非人道的な扱いを受けること(進学校の生徒からでた言葉)は、高校生にとって、世界を作り直すきっかけになる大切なイベントだということができる。

それを助ける大人の存在が、大切なのだ。
そんなおとのねです。

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青森県で漁師をしながらアイヌ民族の研究と三味線の練習に明け暮れていたころ。
親方がこういった(津軽弁忘れた!)。「俺は学校で化学式なんかみた途端に眠くなってしょうがなかったけどな!鯛なんか釣っていろんな人に配って笑ってもらうのが好きなんだな!」もちろん、「漁業組合」という仕組みの中でだいぶ搾取される立場だったのだが。大切なものを守ろうとして、一生懸命に海に出ていた。「3割のエリート」とは何だろうか。「搾取する側」になるということだろうか。

「うちの子は、エリートに…できる子に…困らない子に…普通の子に‥(普通って何?)」

「搾取する側」か「搾取される側」かどちらですか?
「普通」なら、「搾取される側」ですよ。
「困らない子」はIQではなくEQが高い子です。勉強は関係ありません。(エリートの中には困っていない人がいないということでしょうか?)
「エリート」なら、「搾取する側」です。
お子さんはすでに、「できる子」ですよ。

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蛇足!

「3割のエリート」と「7割の非正規」を育てる、それが日本の教育の実態

という言葉を聞いて。

「7割の非正規」になる子が大部分だとしたら、
非正規として生きる子どもたちの物語を、大人たちは嫌がらずに、もっと真面目に作ってみるのもいいのかもしれない。
「勉強ができなかったら、この子はこの時代、どうなるのだろう‥」そんな不安が、お父さんお母さんを不安にさせているのかもしれないから。

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あー、おやすみなさい爆

オトノネひろげるシェアぼたん

子どもの魂を食らうお母さんの話と学校の課題の話。

怖い話ではありません。
よくある話です。

こういう記事を書くのも、実際に、子どもを追い詰めるお母さんと某フランチャイズ塾で出会っているからです。
石川県は、この傾向が特に強い。死ぬな高校生!と思ったくらいだった。

結論から言えば成績が伸びないケースには「お母さんに食べられて」いるケースがあるということです。

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バリ島のランダ、日本の山姥、伝説にでてくる鬼母神が、世の中にはある。
ばりのランダ

優しい母、育てる母、生み出す母。
一方で、食らう母、殺す母がいる。
ランダも山姥も母の二つの側面を物語っている。

「悪いおばあさん」の話がでてくるのは、その名残のようだ。
白雪姫だか、なんだか。西洋では、魔女のイメージになっているかもしれない。

魂の殺人

アリス・ミラーのこの本にもそういう大人たち、母親たちの姿が書かれている。
僕が某フランチャイズ塾で出会ったお母さんの中にも、「子どもを殺す母親」がいた。
もちろんお母さん自身は、気が付いていない。
成績は伸びるわけがないし、勉強も進まない。

成績が伸びないケースには「お母さんに食べられて」いるケースがあるということだ。

子どもによかれとおもっていろんなことを「やらせている」お母さん、子どもをちゃんとみてみたら、気がつけるかな・・・
お子さんのこと、ちゃんとみてあげていますか?みつめていますか?

これは学校の課題もそうかもしれないとおもうと、おもしろい。
「山で山姥におわれる」かのごとく課題の森に迷子になり、追いかけられる、職員室で捕まったら、食べられる!笑逃げ切ったと思っても、ついてくる笑

ここは笑えるところ!
イメージの普遍性について考察したいところ!

で、ここからこの記事に関連して来ます。
課題を真面目にやる無意味さに気がつくために、まずは堕落しよう!?

オトノネにはそういうお母さんが来てくれてもいい。
「どうしても、食べてしまうんです!」
オトノネには、そういう子が来てくれてもいい。
「どうしても、食べられちゃうんです!」

オトノネひろげるシェアぼたん

生徒4人を不登校にした先生が担任になったらどうするか。

どうやら進学校に一人は、恐ろしい病気の先生がいるらしい。
なんの恐怖に狩られてか、生徒を恐怖に陥れる先生が、いる、らしい。(すこし誇張しすぎでしょうか。現実でしょうか)

なぜ不登校になるかといったら。
課題をやれとか、補講に来いとか、テストの点がどうこうとか、呼び出しとかされるときに心が擦り切れてボロボロになるからだということは、みなさん想像できるとおもう。進学校の日常風景だ。

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この記事を読んでもらう前に。

人は変えられない。
自分が変わるしかない。

という言葉がある。

世の中に出たら、実際にそういうケースが多々ある。
けど本当は、誰もが皆それぞれの事情や都合、歴史、育ち、物語をもっている。

だから本当は全員の声を聞きたいのだ。
学校の先生はどうしてそうなったのか。
僕自身、どうしてそうなったのか。
学校という組織は、どうしてそうなったのか。

学校は変えられない。

かもしれない。
けど対話はできる。
しかし対話が許される場所があるだろうか?
対話をするような関係が、あるだろうか?

オトノネには、学校の先生にも来てもらいたい。
オトノネは教えることよりも、対話をしながら、気持ちをはっきりさせたり、いつもは隠れている本当の気持ちを、心を大事にする場所だから。

いや、僕が学校に行って話をしたらいいだろうか?
そのうち話をしに行こうとおもう。

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こんな話がある。

あるお母さんの子が不登校になった。
その子の学校の担任は「担任が変わって学校に来てくれるなら担任を変えます」と。
お母さんが返事をする。「世の中に出たら合わない人と当たり前のように出会います。これから世の中にでて必要な大切な勉強をいまうちの子はしているところです。担任を変わってもらったら困ります」と。

そういう考え方もできる。

アウシュビッツに入ってもきっとたくさんのことを学べるだろう。

死ななかったのなら。

アウシュビッツで学んで、それがトラウマになった人の例を、そのお母さんは知らないのだろう。
もちろん、強くなって収容所を出る人もいるだろうが。

子どもは学校で戦争のような経験を学校でしているかもしれない。
いやいや、うまく遊びながら、息抜きしながらテキトーにやりすごす子もいる。
「子どもの発達課題として適当な試練か」どうかだ。

心が病んでしまうリスクのある発達課題など、僕は認めたくないのだが。

誰かが助けてくれて、乗り越えられるような課題がほしいものだ。

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リアルな話になります。

最近、おとのねさんは富山県のとある進学高校にオトノネのチラシを配りに行って、暴力的な先生に「指導」をされた。
大きな声で、威圧的に、やってもないことを「やったでしょ!警察よぶよ!証拠写真あるよ!」とのたまう。証拠写真見せてといったら、見せてくれない。そんな写真はないからね…
いや、本当に、怖い・・・何言っているのかわからない・・・先生、疲れているんじゃない?
学校が先生にとってもストレスな場所だということは知っている。休んでいいよ。先生。じゃないと生徒にしわ寄せがくるからね。
笑ってよ先生!
(今思えば、僕がもっと笑顔で幸せそうな顔をしたらよかった!)

本当に、その場で心が壊れそうなほど、暴力的な声だった。
(今思えば、僕がもっと笑顔で幸せそうな顔をしたらよかった!)
本当は優しい先生なのかな?その先生にどんな歴史があるのかはわからない。部活をやるためだけに学校に来ている先生もいる(先生も学校は好きではないケースが多い)。

あの声は、日常的にどこかで使って居なかったら出せない声だ。
使い慣れている声。
ああ・・・

そんな声に毎日怯えながら、先生の機嫌をとりながら1年間を過ごす高校生を尊敬してしまう。

心を大事に。

ああ、話には聞いて居たが、生徒4人(5人だったか)を不登校にさせる先生は本当に実在するのだと、身をもって感じた。
そのうち一人は、心を壊した。病気になってしまった。学校は、心が壊れたその子を登校させようとしている。いろいろ壊れている。
先生が生徒の心を壊しても、先生の責任は問われない。学校は、そういう場所だ。すべて「生徒自身や家庭の自己責任」になる。

自分の身は自分で守ろう。
学校は君を守ってはくれない。

心を大事に。

某有名な予備校でも心が壊れる子がいますね。
どうして学びの場所で、心が壊れるんでしょうか。その子が弱かっただけ?その子の責任?
それは学びの場所なのでしょうか。できなければ別のところで学べばいい。機会均等!なのでしょうか。
そう、その子の責任ではある。

が、「学校がそんな場所とは思わなかった」とわかった後で、どうするか。
そこから、その子が自分自身で、積極的に責任を負って行動していくことに僕は意味があると思う。
負わされる責任ではなく、自分で自ら選択し、進んで、未来に対して責任を負う。日本人が大好きな過去の過失に対する責任ではない。未来に対する肯定的な責任だ。

もし我慢して、1年間を過ごす間に、体がビクビクして緊張するような神経回路をつくあげる(防衛機構ができる)なら、一生、その子はその神経と付き合わなくてはいけないかもしれない。それも、生徒自身が選ぶこと。(実際、高校での恐怖体験、先生による脅迫で、「恐怖」で、ある話題になると、ある場面において、喋るときに声が細くなり震えてしまう子がいる)

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あの話を思い出すたびに、僕は少し怒ったようになってしまう。
けど、完璧な人間もいなくて、完璧な組織もないのも事実。
冷静に、まずは、離れよう。と僕は思う。君は?大丈夫?

本当に、怖かった。毎日ビクビクして教室でHRを受けるとしたら、気が狂う。僕ならね。

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オトノネは、自尊心や自立心を守りたい人が来てくれたらいいと思っている。
そんな旗を、立てよう。みんなにみえているかな?

オトノネひろげるシェアぼたん

ゲームは子どもの発達によいのか悪いのか(知育ゲームってどうなの)

ゲームは、悪いのか。
悪くないのか。買って与えるべきか。
買わざるべきか。

それが問題だ。

電車の中にいれば過半数がゲームをしているこの世の中。
ゲームは生活の中に溶け込んでいる。

人生これすなわちRPGとある業界(自己啓発・セミナー・企業などなど)では言われているほどだ。

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ゲームは悪いものではない。
と僕は思う。

ものすごい哲学が隠されているゲームもある。

疲れた心を現実から逃避させる、ゆとりをつくる効果もあるだろう。

昔と違って、今はゲームを通して世界中、日本中のプレイヤーとコミュニケーションが取れるようになった。
(有線でケーブル繋がないと対戦できなかったあの時代は、どこにいった?)

ゲームの良いと思われる側面をとらえるとそうなる。

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ゲームは、ゲームの世界がある。
この世界とどう関わるかだ。

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あるゲームづくしの毎日を過ごしている子はこう言った。
「ゲームして一生を終えますよ。親のお金使い切って、それで終わりです。」

ゲームの世界「だけ」で生きるという暮らしを確立している!

中学生、高校生、思春期を超える頃にはある程度ゲーム世界との関わり方も固定されるかもしれない。

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ゲームを通じて活かされている人もいる。
ゲームを通じて、生きる希望を持っている人もいる。(世界一の大会にでるなんて、すごいことじゃないか??)

ゲームには、ゲームの世界がある。
この世界とどう関わるかだ。

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例えばパズルゲーム。
これは頭を使う!
そのゲームの「ルール」を理解して、それで試行錯誤を繰り返して、繰り返して、強くなって行く。
(ゲームはゲームが好きになるように、モチベーションが上がるように映像だとか効果音だとかボーナスだとかレベルアップとか新しい技とかアイテムという快楽回路が刺激される仕組み満載だ。)

ゲームは、やればやるほど、はまるようにできている。
(もし「ルール」を理解して試行錯誤しても強くならないのなら、自分にあったゲームを探せばいい。あなたが快楽を感じるゲームはいくらでも探せる)

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けど、やってもやってもうまくいかないことがあるのが人生だ。
ゲームから何を学ぶか。
ゲーム世界とどう関わるか。

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ゲームを悪く言うこともできる。
主に身体的な意味からだ。

まずゲームのやりすぎで眼球運動が苦手になる。
黒板が見られない。
目でものを終えない。

指先の操作はうまくなるかもしれないが腕や肩との協調運動ができなくなる(肩も使うタイプのゲーム機があるらしいが除外しておく)
ゲームの話しかできなくなる(青春はゲームの中)

とにかく時間を取られて他のことができない。
言葉が拙くなる。

(そしてこれらの話の例外も、そこらへんにゴロゴロ転がっている。めちゃくちゃ喋るのがうまいゲーム界の住人もいる。運動が超絶的なゲーマーもいる。さてさて、どうしたものか…)

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子どもにゲーム機を持たせるのはいいことか?
スマホを持たせるべきか?持たせぬべきか?
親はある意味で、神だ。

はい、ここからが本題です。

ゲームの世界の外でも楽しみを見つけられる子になればいいと僕は思う。

そのためには、大事な大事な思春期まで、中学校頃までは、ゲームを与えないという選択肢が、賢明かもしれないと僕は思う。
子供がゲームをするかどうか、ということよりも、その子が日常の中で、一生懸命になる場面が、現実の世界で、笑顔になる場面があるかどうかを省みてみてほしい。

ゲームは悪いわけではない。
ただ、ゲームは「はまる」ようにデザインされている。
他の遊びだって同じだ。ゲームは悪いわけではない。

児童発達支援をしていたとき、未就学児の子がお母さんからゲームを与えられていたのを見ている。(知育ゲームである)
企業は、知育ゲームを開発してやらせてそのあとどうなるか、きちんと研究をしてくれないものだろうか。

公害は企業の責任が囚われた。心の問題は、企業に責任はないのだろうか?
「私たちには責任はありません。だって、選んで買っているんでしょ?」

子どもたちは、イヤホンをしている間、鳥の声を、虫の声を、聞いているだろうか。
画面を見ている間、目の前にいる人の表情を、人間を、感じているだろうか。

ゲームをしない時間も、大切にしてほしいとおもう。

オトノネひろげるシェアぼたん