言葉が育てるもの。言葉が傷つけるもの。

お母さんにはお母さんの考えがあって、言葉を使う。

例えば「こんなルールがあるのっておかしくない?」
と、子どもが言ったとする。
子どもが「違和感」を感じた瞬間だ。
この「違和感」というものは、とても大切なものだとおもう。
世界に対する不思議。人間世界と関わり合っていくきっかけ。
頭が混乱している。どうしたらいいの?

お母さんはどう答える?

ーーーーーーー

ひとつの「いい」関わりとしては

「なんて言われたの?」
「何があったの?」
「どう答えたの?」といって、その状況にもう一度子どもを立戻らせて、想像させて、再現してもらうことだろう。

それから

「どんな風にかんじた?」
「嫌だった?」
「怒りたくなった?」
「悲しかった?」

そのときの子どもの感情を聞く。
聞く。

そうすることで、「ああ、その時自分は、こうだったんだ。とにかく、そうなっていたんだ。私の心は」と、子どもは「ちゃんと」経験をモノにできる。
何があったか。何を感じたか。

子どもの言葉、仕草の調子をみて、「ここは、その子にとって大事そうなところだな」とおもったら、繰り返して言ってあげたり、「もう少し話、してみて」といったり。

日常的な会話のギアがあるとしたら、この時のギアは限りなくゼロに近い感じがするだろう。
呼吸が落ちて、相手の息遣いを感じられるかもしれない。

ーーーーーー

もしかしたらお母さんは、「そういうときは、こうする」といって指示をだしたり、「それは◯◯だよ!」といって価値観を与えてしまうかもしれない。その時、お母さんが言葉を使う響きが、言葉をつかうときの感情が、子どもにも伝わる。

「ああ、これはダメなんだ」
「ああ、これは間違っているんだ」
「ああ、私が悪いんだ」

もしくは

「ああ、私は間違っていなかった」
「ああ、私はこれでいいんだ」

とおもう。

イイこととワルイことが生まれる。
そのうち、「これはイイ」「これはダメ」で思考が停止するかもしれない。

ーーーーーー

子どもは世界を解釈しようとしている。
子どもの目線で。子ども自身の心で。

大切なことを学ぼうとしている。
「こんなとき、どうしたらいいんだろう?」
頭が混乱している。わからない。けど、「違和感」は感じている。

そんなとき、
「そんなルールなんて、意味ないよ!おかしいよ!自由にやりなよ!」といったり、
「ルールは大切よ。守りなさい。ルールを守るから、好きなことができるのよ」ということもできる。

それは「教えていいこと」なのか。
「教えてはいけないこと」なのか。

一口には言えない。
僕にはわからない。

ただ、子どもが生きている環境は、お母さんが生きていた、お母さんが生きてきた環境とは違うだろう。
時代が違う。地域が違う。周りの仲間も違う。

その子が生きているこの時代、この場所で、子どもはどんなふうに生きたらいいのか。
誰もわからない??

だから、一番、間違いがなくて、危険のない、そして、経験してきた感情と出来事をちゃんと整理するような言葉がけは「いい」ことだとおもう。

その子がこれから出会って行く、お母さんが出会ったことのない出来事に、その子が対処していけるように。
自立できるように。

ーーーーーーー

例えば、「ルールは大切よ。守りなさい。ルールを守るから、好きなことができるのよ」と言ったとき。
お母さんだったら、その「作戦」を取れたかもしれないが、子どもはその「作戦」を実行して、心に負担がかかるかもしれない。
その子はその子の心をもっている。
「ルールを守る」ということを身につけ、「自分を守る」ことができなくなるかもしれない。

例えば、「そんなルールなんて、意味ないよ!おかしいよ!」と言ったとき。
「ルールは破ってもいい」と覚えて、ルール(時として理不尽で意味不明)の中に潜んでいる大切な意味を感じられなくなってしまうかもしれない。

お母さんが生き延びてくるときに使ってきた言葉は、お母さんが生き延びるために必要な価値観(言葉)だった。

今その言葉は、その子に必要か。

今その子がもっている可能性を、自然さを、壊してしまわないだろうか。
子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

そういうことをまだ自然にできないから、オトノネさんはいつもカロリーを消費してしまう。
燃費がワルイ。

ーーーーーー

スクールカウンセラーの話。
子どもが不登校になったとき。
カウンセラーの先生は、「お父さんお母さんの目標地点は、どこですか?(カウンセリングを通じて、どこに向かいたいですか?)」と聞くという。
多くのお母さんは「子どもが学校に行けるように」というらしい。

そこから大切な子どもの心を、大事にするプロセスが、生まれてくるだろうか。

本当にその姿勢で、その子の心を守れるか。
「学校にいけない」子どもの心と、向き合えるのか。

どうなんだろう。

ーーーーーー

子どもが自分に起こった出来事を振り返り、そして、感情を言葉によって再体験し、その場に、お母さんは一緒に居合わせる。
不安定だった、落ち着かなかった、心の中で整理ができなかった「違和感」を捕まえる。味わう。

この時の言葉のやりとりは、日常の会話の速度ではないだろう。
味わうのだ。辛かったかもしれない。けれども味わうといい。
(全然、辛くないというかもしれない。学年が上がると、言いにくくなることがあるかもしれない)

そして、「あなたはどうしたいの?」
「で、今、今、あなたはどうおもう?」と聞いてみるといい。

子どもが自分で答えを出す前に、大人が答えを出すということは、僕には恐ろしいものだと思えることがある。

ーーーーーー

たぶん、そうやってきちんと感情を、出来事を味わい、自分なりのこたえを出したあとで、子どもは、笑いながら「じゃぁ、やってみる!」といって、「新しい経験」を積んで行く。同じ状況になっても、全く違った経験ができる。その繰り返しをしながら、子どもは自分で学べるようになる。

自立していく。

これから先の時代、どうなるかわからない。
僕ら大人たちの知っている世界ではなさそうだ。
そもそも、子どもは親とは別の心をもった人間だ。

お父さんお母さんと同じ「型」に入れられたら、死んでしまう心もある。

ーーーーーーー

大丈夫だ。
思春期というものがある。
余り余ったエネルギーが溢れ出す。
その時に感じる「違和感」と、自分で、一人で向き合えるチカラが育っていない時、子どもは世界と自己を調節できず、親の作った道、親の言葉、親の指示で生きて行くしかなくなるかもしれない。自立できないかもしれない。

もし、人間社会と摩擦が起きないような生き方を「させて」いても、それが子どもの心と摩擦を起こしているかどうか。

心が大事。

ーーーーーーーー

もし、価値観を与える言葉を使うとしたら、こんな言葉がいいのかもしれない。
「世の中、おかしいことだらけだよ。全部気にしてたら、疲れちゃうよ?それはあなたにとって、大切なことなの?」

「違和感」はマイナスのイメージがあるが、こういう語りかけを「イイこと」にも使っていきたい。
しあわせをきちんと味わって、感じて、笑い合う。「どうだった?」「そうだね、楽しかったね」「じゃぁ、次はこうしてみよっか!」

子どもはしあわせを作る「天の才」をもっている。
あそびながらどんどん、しあわせをつくる。
少し、分けてもらったらいい。
簡単なことで、仲間に入れてもらうことだ笑

子どもに聞いてみよう。
「いーれて!」

ダメ?笑

しあわせは育つのではなく、やはり育てるもののようにおもえた。
しあわせを育てる知恵と振る舞いを、僕は「愛」と呼んでいる。

子どもは世界を愛している。
大人たちは?いやぁだって、仕事で忙しいからね笑

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何でもかんでも人の心が追いつけない、感じるものも感じられなくなってしまった時代。
大人も子どももブラックな学校や会社で働く時代。

大切なことはなんだろうかと、「ちゃんと」感じてみると、何かが生まれるかもしれない。

欅坂の「アンビバレント」を聴きながら(子どもの「時間」)
「時間」が課題・宿題というバケモノになったら(おとのねさんは、やれ!やれ!と言う人だった)
「名詞」の抽象性

オトノネひろげるシェアぼたん

小学校もサバイバルな件。

最近、オトノネに面談に来てくれた小学生。
「針時計が読めない」ということ。学校のプリントもできない。
算数自体が弱いという。

本人はあっけらかん!としている(見事!親指ピアノに興味もってくれたし)が、お母さんが心配している。
「スローラーナー」、ゆっくりその子のペースで学習するだけでわかるケースだと僕はおもった。
けど学校ではその子に合わせてくれない。違法です。が、仕方ない。それが現実。

学校でやらされている宿題、課題、プリントを見せてもらった。そして教科書も。
小学生にも毎日のように宿題(課題)が課されている。信じられない。
これだから、高校になってもみんな課題をやらなかったら不安になったり、定期テストに追われるのかな?宿題は「やらせない」方がいい。(勝手にやるならそれはそれで!)
そして「学年×10+10分」の家庭学習を「強くお願い」されているそうだ。
家庭は家庭で教育することがあるんですが。

そしてそのプリントのわかりにくいことといったら。。。
全て噛み砕いて、分析的に、誰にでもわかるように、導くという姿勢がみえるのはわかるが、あまりにも「観念的」すぎるという印象だ。
そして、「演習」が多すぎる。高校で「演習」ばかりさせて教えないのと同じ現象が、小学校でも起きているとわかった。

これ、困っている小学生、たくさんいるんじゃない?

ーーーーー

別のお父さんの話によると「ひらがなをなぞる宿題で、少しでもずれていたら、バツがついて返ってくる!」
意味わからん!

金沢の小学校でも同じことが起きているという。
え?何それ。1時間以上、神経をすり減らして、おもしろくもない、作業、「もし、ずれたら、もう一度やり直しをさせられる」というプレッシャーに耐える子ども。

学校の先生、休んでください。
今、その状態で、子どもに何かしても、いいことが起きる兆しがないようにおもえますよ。
休んでください。

大丈夫です。先生がいなくても、子どもは大丈夫です。
学校がよくないだけでしょう。
子どものことを考えてください。

と、僕ははっきりと言ってしまえるのだが。

子どもの心を守ってあげませんか。
教員生活を続けるのでしょう?
子どもの心を守ってあげませんか。
先生の心を、まずは自分で守ってから。

子どもに、素直に、「ごめんね、今の私は、学校の空気に逆らえなくて、こうすることしかできないの、弱いの、ごめんね。。。」と話すことから初めてもいい。
子どもに聞いてみてもいい。
僕は、実際、公立高校で、働くとき、それをやってから「授業」に入るようにしている。
「僕から何を教わりたい?」「けど学校の仕組みはこうなっててさ、僕も困っているんだ」

ごく一部の生徒をのぞいて「赤点を取らなければなんでもいい」という答えを出すのが、高校の実態です。

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図形、単位、計算でつまずいていても、どんどん先に進む。
遅れを取りもどす、といっても、そもそもスローラーンなので、「ほとんど取り戻すとか期待できない」状況で「もっと頑張りましょう」という先生。

しょうがない。だって教育にお金も人もかけていないのが、富山県・石川県なのだから。
いや、工夫はできるんだけどね。工夫もしないのね。オトノネにきたら、いろんな授業のアイデアだしますよ。けど、そもそもの心が、学ぶ準備ができていない先生が多いような気がする。

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと1

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2

公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと3

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実際、子どもたちは時計をみなくても生活できる。
チャイムが鳴る。誰かについていけばいい。

うーん。

いろいろ話をしながら、「お昼休みが始まる時刻」「長休みが始まる時間」がわからないことがわかった。
けど、「もう7時30分だよ!」と家でお母さんから言われているおかげで朝家を出る時刻はわかっていた。
針が読めることよりも、まずは時間を生活の中に取り入れる、意識化する、言語化するプロセスを、家庭で増やすのはどうだろう。とお母さんには話をした。(仕事で忙しく、大変なようだが。。仕事!お母さんの子育てという大切な仕事は!?)学校では「演習」をさせられて気が滅入って嫌いになってしまう。時計が嫌いになってしまう。僕は精神的暴力、学校の法律違反、犯罪だとおもう。はっきり言っておく。だって、子どもの命を守りたいもの。

「じゃぁ、あと60秒数えたら、◯◯しようか」ということでもいい。一緒に数を数えてもいい。
人間には指が10本ある。指をおりながら十進法をおぼえたらいい。
「なんで10分が6個で1時間なの?」さて、おかあさん、なんて答えますか?ドキドキです。
一緒にご飯を作る時に、砂時計を一緒に眺めてもいい。「これが5分だよ」。
そういう家庭教育、家庭での経験がなければ、小学校をサバイバルすることが難しくなる、そういう子もいる。

僕が働いている保育所では針時計の「6」のところにアンパンマンが貼ってあって、子どもも時計を見るようなやりとりを大人としている。保育の中でも「まだあそびたいの?でもこのあと◯◯だから、何時になったら片付けはじめようね」というように。

けど針時計読めなくても行きていけるのも事実だけどね!
小学校が終われば、時計の針を読む「問題」も出てこないのではないか。でてくる?
大丈夫、大丈夫。死なないから。

そんな時に思い出す。
「ウォッシュレットでなかったらうんちができない子」。
大丈夫、ウォッシュレットがない学校で、これから生活するんだから。

大切なのは、時計の針が読めるようになること以上に、時計の針が読めないという困った状況を通じて、「その子」をみてくれない学校の現状(もう無理なんです)を理解し、社会資源(子育てを助けてくれるいろんな人)を探してこれからの長い、長い、学びの環境を整えていくことだとおもう。

できなかった、
わからなかったことがわかるようになってうれしくない子がいるだろうか。
針時計が読めるようになって、暮らしが豊かになるような、そういう世界を大人として見せてあげたい。

うーん。

富山大学図書館にいって検定教科書をみてみよう。
おそらく、時代が新しくなるにつれ、醜くなっているのではないか。

オトノネひろげるシェアぼたん

ついに解明?物理がわからない、理由。

自称進学校で物理でお悩みのみなさん。

お待たせしました。
なぜみなさんが物理がわからないかわかりました。
「やるべき順序でやるべき学びをしていない」という当たり前のことでした。

理由1:数1A2Bが終わっていないのに物理をやらされている。
数学的な道具を持たずして速度とかベクトルだとか角度とかやるから、頭がこんがらがる。(矢印が出てこない参考書はない)
理由2:学校が使わせる参考書でろくな解説をしてくれていない。
理由3:「問題の解き方」を教わるだけで「物理」を学んでいない。(体系的に学べない)

人によって、理由は違うと思いますが。
最近オトノネに来てくれた自称進学校の生徒が物理に悩んでいる理由は上の通りでした。

自称進学校の生徒が面談に来てくれて、判明したことです。

ちなみに、「中学校の間は、物理が得意だった」そうです。

今度、課程表みて、一年生から物理やっている学校のリストアップをしてみましょう。
理系の人は、その学校を避けるといいとおもいます。
(けど最近ブログにする記事が溜まっていて、しんどいです。誰か調べて教えてください)

進学校に行って意味不明な課題をやるくらいなら、定時制に行って、塾できちんと教わったらいいとおもいます。
学校に足を引っ張られたまま合格できるほど、難関大学に合格することは簡単ではないのですよー。
「みんなと一緒」に慣れてしまっていて、抜け出せそうにないなら。
小学校・中学校で身についてしまった「定期テスト」に反応する敏感な神経を取り除けるかどうか。

と、オトノネは考えています。

いや、定期テストもやる!難関大も合格する!というなら、僕はそれもありだとおもう。
やってみてほしい。ただ、僕はそのパタンで合格した人を一人もみたことがない。ただの一人も・・・
でも可能性はゼロじゃない。
君は君だけのストーリーをもっていていい。
自分の受験であって、僕の受験ではないから。
自分の人生、思い切って、やってみてほしい。
本気をみせてほしい。

誰もが自分の条件のなかで暮らしているから。
自分が決めたルールで受験をしたらいい。
自分でルールを決められるのだから、きっと素晴らしい受験になるだろう。
実りのある受験という経験をしてほしい。

本気で難関大学に合格するなら、引っ張られている足をどうするか、心が大事だと、オトノネは考えています。
定期テストのために生きるか、受験勉強に生きるか。あれか、これかを選ばないといけないのが、難関大学。
難関大学に行く人は、そもそも定期テストのための勉強などしていないと僕はおもうのだが。いかがだろうか。

定期テストの結果と
受験の結果のデータが欲しいんだけど、だれかくれないかな?

オトノネひろげるシェアぼたん

言葉が遅れている?遅れか、障害か。そこでグンデルを使ってみる。

3歳になるが、言葉がでてこない。

ということでHPをみて相談に来てくれた。

児童発達支援の事業所を回りながらいろいろな話を聞いているとのこと。

その子と、お母さんと、お父さんと3人で来てもらった。

様子をみていると。。。
確かに、遅れている。

でもお母さんの話では、お兄ちゃんも同じように言葉が遅かったが、保育園に通い始めてから言葉がでてきたということ。
ではこの子は?保育園に最近行き始めたばかり。療育センターに通うことにもなっているが、利用できるのはまだ先で、今からでも始められるところはないかということだった。

ただの遅れなのか、それとも障害(生まれ持ったもの)なのか。
それをお父さんお母さんは気にしているところでもあった。
養護学校ではなく、普通の学校に入れるのか。。。。

ーーーー

普通の学校に入るために、普通になるためにその子に何かをするのではなく、その子の発達のために何ができるのかを僕は考える。
クシュラの物語を思い出した。(お父さんお母さん、必読です!

個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

クシュラの場合は絵本だった。
その子の場合は、何だろうか?
それを探そうとして、いくつかあそびをやった。

あれも、これも、うーん。すぐに興味が消える。
あそびが続かない。集中して何かに取り組まない。
初めてのオトノネで混乱しているからだろうか。。。。

そこでグンデルに登場してもらった。
パングルを使って音をだした。
その子も出した。
いろんな音をだす。
その子もその子なりに音をだす。

結構な時間、続いた!
お母さんに背を向けて、お母さんを離れて集中してグンデルを挟んで僕と向き合っていた。

これかも。。。

おしまいには、その子は自分でパングルを置いて、意思表示をした。
(嫌なことは嫌と首を振って言える子だ)

「これをすれば必ず」というものは教育の世界にも療育の世界にもない。(保育の世界は少し例外らしいのだが。。)
オトノネはその子の世界を開く扉を探していく方法をとる。
その扉を叩き続ける。
一人で集中してできることは何か。
しかもそこに人とのコミュニケーションが存在することはなにか。

もし障害だとしても、ただの遅れだとしても、人と非言語であってもコミュニケーションをとる経験はこれからその子の役に立つ。

何がきっかけになるかはわからない。
もってうまれた気質もある。

それを「直そう」として心が歪むこともあるだろう。

あそびに没頭できない。
言葉が出てこない。

人間の不思議を解明しようとしていろんな研究者が研究をしているところで、現場はその研究の成果をなかなか取り入れられていないのではないかと思える今日この頃。まずはワーキングメモリの研究成果を調べてみよう。

自閉症・AD/HD、精神薄弱、いろんな言い方がされてしまうがその診断も、あいまいな乳幼児に対してできることは、祈るように、その子の世界の扉を叩き続けることなのではないかと、今の所僕はおもっている。

勉強を続けたい。

ーーーー

話の流れで、その子はスマホを手にするとホーム画面からyoutubeを自分で開いて、曲を選んで再生することができるという。
実際にやってもらった。

できている。。。
しかも取り上げられるまでずっと飽きずに見ているという。
ある意味でスマホにはその子の世界が開けている。

スマホの世界には開けている。

それにしても3歳児って、スマホ使えるんだ。。。。
ゲームならわかるけど。。。

youtube がどこにあって、どうしたら何が起きてという記号の意味を知っている。
どうやって学んだのか今度聞いてみよう。(出生児体重を聞くのも忘れた)

スマホがその子の世界を開くきっかけになるか。
うまくスマホの世界を使って、現実の世界で生きるチカラを育てられるだろうか。

これはかなり先進的な研究になるのではないかとおもうが、誰かやってくれるでしょうか?
ぜひやってください。

ーーーーー

保育園に行って、今までずっと一緒だったお母さんから離れることで、「やべぇ、喋んないと」とおもって言葉をだすかもしれない。
何がきっかけになるのかはわからない。
人間の神秘的な部分を大切に、僕ができることをしていこうとおもう。

オトノネひろげるシェアぼたん

子どもも大人も月月火水木金金

生徒が教えてくれるいろんなこと。

ーーーー

ついったーをやっていたら、
気付剤であるレッドブルー、モンスターであふれかえったゴミ箱が写っている写真のコメント欄に「自称進学校の闇」と書いてあったのをみた。
そんな今日この頃。

その話を生徒にしてみたら。
「そうですよー休みがないんですよー。月月火水木金金なんですー」と。

え!!????

何それ。。。

話を聞くとそんな歌があるのだという。

さっそくyoutubeさんに聞いてみよう!

とりあえずオトノネさんは笑いながら歌う。最後の
げっつげっつかーすいもくきんきーん!!!

でおとのねさん再び大爆笑。

いやー。笑った。
なんだこれは。
そう。当時は、当時の歌は、言葉に社会を映し出す力があった。
(今は、そういう言葉たちはボカロの世界に移住した)

ーーーー

さて、そこから真面目なお話。

wikipediaの説明
土日がなく、月曜と金曜が二回ある、土日を返上して働く、訓練するという意味なのだが。。。

ふと思った。
「自虐」は日本の精神文化なのだろうか?
どうしようもない現状、どうしようもない自分をアイデンティティーとして受け入れようとする。
その心の表れが自虐なのだろうか。。。

戦時の歌が、進学校の高校生たちに歌い継がれている。

そこでふとおもった。

「一年と経たないうちに、今の若者は会社を辞める」という言葉を聞いたことがある。
今の高校生たちは、中学生のときから、勉強勉強でかれこれ6年間も過酷な労働に晒されていた。
だから仕事は好きなことをしたい。
好きなように仕事をしたい。
楽しみたい。

そう思えても仕方ないのかもしれない。
「一年と経たないうちに、今の若者は会社を辞める」という言葉を使う人たちが経験したことのない高校時代を、学生時代を過ごしている。
働いても働いても給料がでるわけでもないし、三種の神器があるわけでもない。
しあわせのカタチがひとりひとり違う時代。

そんな今、この時代を生きている子どもたちのために、社会は開かれているのだろうか。

新しい歌を、言葉を、人々は語っているだろうか。

自虐の文化は「笑いながら、この現状を笑い飛ばしながら生きようとする」文化なのかもしれない。
江戸時代の「ええじゃないか」の唄のように。

歌が支える心がある。
歌が表す心がある。
歌が、人々の力になる。

ーーー

モンスター飲みすぎるとカフェイン中毒で早死にするってよ!バルザックみたいに!?(当時にしたらまぁ普通?)

「混み合い」理論とあそびと月月火水木金金。まだ誰かが「非国民!」と叫ぶ声がコダマする日本。

海軍のポスターで取り上げられた「月月火水木金金」
海軍のポスターで取り上げられた「月月火水木金金」

「稽古」と「習い事」

賢いお母さんの「習い事」作戦。

習い事を「させられ続けた」子どもの心

オトノネひろげるシェアぼたん

東京医科歯科大学を目指していた砺波高校の生徒との思い出

といっても、チラシを配りに砺波高校に行った時、門の前で話をしただけの子だが。

ーーー

おとのねに問い合わせがあった。
砺波高校、今年はあまりにも進学実績が悪かった。心配です。
というお子さんが砺波高校に在学している子のお母さん。

砺波高校はそもそも進学校ではないし・・・
情報は伝えた。
砺波高校は、そもそも(僕の定義によると)進学校ではない。かなり特殊な学校だ。
(保護者の方から聞いた話では、「安全」な進路選択をさせたい家庭の生徒が通う傾向があるそうだ。浪人する人の数が極端に低いのもそのせいだろう)

ーーーー

今日、ふと思い出して砺波高校の進学実績(平成31年)を見て見た。

「東京医科歯科大学を目指していた、あの子は受かったのかな…」
東京医科歯科大学といえば、医学部は難関大の定義におさまるが、看護は難関大の定義にはおさまらない。

富山県で出会うのはなかなか珍しい、はっきりと言葉を使って、はっきりと正面を向いて、明るく、前向きに言葉を使う子だった。
この子は、言葉の力をもっている。そう直感できる子だった。看護を目指していたのだろうか。おとのねとしては応援したい子だった。

門の前で立ち止まって、僕と話をしてくれた。東京からきたんだよーと話すと、「私、今年受験なんです。東京医科歯科大学って難しいですか?」とか、本当に短い時間だったけれども。少しだけ話をして、いやぁちょっと話長くなるからおとのね遊びにきて!といって、最後はおじぎをして校舎に入っていった。チラシを配りにいって喋っておじぎをしてくれたのはその子が初めてでそのあと一回もない。印象的な子だった。

合格実績の一覧に、東京医科歯科大学の名前はなかった。なかったよね?
ないよね?

ひとりの生徒の思いを、どれだけ大人は真剣に受け止めて、感じて、気がついていただろうか。
その子は最後まで全力で、受験という経験をやりおえられたのだろうか。
最後は本人だ。
けど、

だけれども。
初めての大学受験で、大人がどれだけ知恵を与え、どれだけ「正しい道」を指し示したかで、結果が変わってしまうと思えば、悲しい。
(僕自身が、高校生のとき、努力を実らせる方向に勉強ができていなかった。開成とか上位校の生徒が通う塾に「ついていくだけ」でよかったはずがないのだった・・・演習の仕方を、間違っていた)その子は、課題をこなして、自信があったのだろうか。進研模試を受けて、間違った判定で志望校を決めていたのだろうか。本当に必要な勉強をできていなかったのではないだろうか。二次試験が英語だけなのに、センター試験を超えた他教科の課題をこなしていたか。小論文の対策ができていなかったからか。恐ろしいセンター試験の魔の手にかかってしまったか・・・

それでも

あの子は、今どこか別の場所で、笑っているだろう。
そう思えるような子だった。

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富山市の民間学童保育で毎日英語

オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

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オトノネひろげるシェアぼたん

教育とは個性化のプロセスのこと(ユリとタンポポとクシュラ)

小学生のお母さんからの問い合わせ。

教えても教えてもできない、学校でも、困っているというお話。
そういう子は、他にもたくさんいるというお話。。。

小学3年生で、「できない」というのは、つまり学校の授業においていかれている、ということ。
学校という場所、教室という場所、特定の環境において学び得ることができない子どものケースは多々ある。

場所を選ぶだけで、学び方を選ぶだけで、学ぶ人を選ぶだけで、それは変わりうる。
学び方を学ぶ、それが学びのメタスキルだし、自分を知ることにもなる。
大切なことだ。

「クシュラ」と絵本の物語にあるように、教育とはある一定の「人間らしさ」に至るための個別的なプロセスのことだとおもう。
そのプロセスを集団の中で「回す」ことができる子と、そうでない子がいる。
クシュラの話も読んで見てください。
個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

タンポポのようにどこでも育つ花もあれば、ユリのように環境を整えて綺麗に咲く花もある。
『残酷すぎる成功法則』にも書かれている、当たり前すぎる事実だ。
そうした個性化の過程を、当たり前に、必要としている子どもがいる。

そんな「ふつう」が「特別」なのが、学校だ。
もっと、いろんな学校があっていい。

残酷すぎる成功法則
あなただけの道を、歩んだらいい。
きっとその風景を楽しめるようになるから。

子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

オトノネひろげるシェアぼたん

定時制高校をススメルケース

「勉強する環境」へのお母さんの思い

お母さんの話だ。
中学生時代に体育の先生にちょっと反抗しただけで満点だったものが半分になった。それだけで学力にふさわしくない高校を「ススメられ」入学するが、周りは勉強する雰囲気ではない。何も勉強しなくてもいつもトップ。で、理系を目指していたが英語も学びたいとおもい3年次に文系にする。すると、理系大学に推薦してくれない。文系大学に行きたかったのに、理系大学にいかされたという。学年主任がそのお母さんのお母さんに電話をして、褒める、讃える、おだてるでお母さんのお母さんをその気にさせて、学校と家庭で板挟みをうけた。センターの結果がよかったから地方(理系)国立大学まで「受けろ」と誘導されるがそれはさすがに断った。自分の嫌いな学部を受けさせられ、入学し、あまりにも嫌いすぎて退学した。その後、大学を辞めたことを(お母さんにいわれて?)高校に報告しにいったら、「嫌いな大学」をススメてきて(生徒ではなく)親を説得した教師は「やっぱりやめたか。ははは」といって笑っていたという。

あまりにも自然に、ふつうに、当たり前のように「学校の成績」を上げようとして生徒の未来に手を出していく学校のやりかたは、高岡高校、富山高校、富山中部高校の様子を聞いても昔と変わらない気がする。

お母さんは今、子どもがいて、高校選びを慎重にしている。その子は全く、勉強ができない。できない、というか、僕はその子が学校という場所を学びの場所にできなかっただけの子だとおもっているから問題のだが。内申点がほとんど望めない状態で、お母さんの希望としては「勉強する(遊び呆けない、将来、しっかりした暮らしができる?)」環境の高校に入って欲しいという。

定時制高校をおすすめした。

全日制私立高校を進めない理由。
特進クラスも勉強する雰囲気ではない場合が多い(ほとんど)。
特進クラスでなければ基本、さわがしい。
ほとんどが推薦で大学にいくので学びに覇気がない。
勉強ができない子に対して倫理的にどうかという先生が一定数いる。
お金がかかる。

富山県立(進学)高校をススメない理由
この子の場合、内申点が悪すぎていくら直前で伸びても入学できる可能性がほとんどない。

富山県立(進学校以外の)高校をススメない理由
私立に同じ。

定時制高校をススメル理由。
学力はあまり関係ない。
いろんな事情がある生徒が集まるので先生が寛容である可能性が高い。
無駄な勉強をしなくていい(課題が少ない。卒業に必要な単位数だけ取れる)。
全日制高校と同様、3年で卒業できる。

大検という選択肢
大検対策のための塾に通うと、私立くらいお金がかかる。(果たしてその価値が大検にあるか)

富山県の定時制高校もいいが、石川県の定時制高校もおすすめしておいた。

選択肢を広げ続ける人生でもいいが、自分の歩く道を見つけて、腹を据えるのもいいだろう。
高校を卒業するころに、「この仕事がしたい」とおもえてもいい。「こんな人とこんな場所で出会いたい」と思えるなら、そこに行ってみるといい。

オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

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オトノネひろげるシェアぼたん

健康が大事。受験の極意は健康から。学校に引っ張られている足をどうする?

健康第一。安全よりも健康。で、集中できないとか、いろんな相談をオトノネは受けるのだが。体が問題を抱えていたら、勉強どころではない。勉強は遊びだ!おもいっきり遊べるように、体をゆるめてあげなくちゃ!というわけで、今日はストレッチの練習をした。

健康とは、病名がついていないことではない。心を、体が支えられているか、応援できているか、体が、心とつながっているか、ということだ。命が燃えている。魂が喜んでいる状態だ。(健全な肉体に・・・という文句は誤訳であることはご存知だろうか。そもそも、健全な肉体に宿った不健康な精神が世の中にはたくさんある。健全さとはなにかはさておき、私にはそうおもう)

姿勢を保てない、どこかに力がかかってすぐに疲れる・・・そんな体でお勉強できるか!本気で遊べるか!受験という経験は、遊びと同じで、自分の能力を最大限に使う経験だ。本気を出せる状態を作り出した人が、いい受験を経験できる。

日本人はあまり呼吸をしない。韓国にいくとみんな目に見えるくらい息を吸ったり履いている。外国人が話すときはジェスチャーをつかったり、体全体で息を巡らせている。インドネシア人は、笑顔で話している。日本人は、太陽神経叢が弱い。。。日本人は、と言ったら誤解があるかもしれない。現代人は。。ストレスに耐えきれずに、体が陰性になっている人がおおい。塾の宿題ができなかったことを僕に話す時、息が詰まったように話す生徒。「学校でもそうなんじゃない?」と聞くと、「そうなんです」と答えてくれる。神経は記憶している。宿題ができなかった理由はさておき、息が詰まっているのがいかにも辛そうだ。仕方がない。。。試しに体を緩める経験を受験時代にしておいてもいいだろうとおもい、やってもらうことにした。

姿勢を変えるということは、肩こりをなくすということは、喋り方を変えるということは、生き方が変わるということで、そう簡単には変わらない。だから一時的なマッサージを受けるだけでなんとかしのぐ人がほとんどだ。けど、すぐに、神経が記憶しているルーチンに戻って、すぐに体がもとにもどる。剥がした筋肉がまたくっつく。

できるだけ、体がゆるまっている時間を、体に味わってもらおう。それを寝る前、毎日、体に、神経に、記憶してもらおう。力をぬくことから、新しい学びがはじまる。息を吐きながら、身体中の緊張を、吐き出そう。さぁ、君は捨てられるか。

僕は学校でびくびくして神経をすり減らす時間が君の心をすり減らしているようでいいようにおもえない。

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子どもとお花見に行ってきたらドラマがあった。

いろいろあったー。

うさちゃんとお花畑

オトノネはなにをするところかよくわからない。間違いない表現をするなら、「おとのねさんがいるところ」がおとのねだ。で、川べりにいって、前回僕が話した「ヒメオドリコソウ」の話題を発展させてくれて「教科書に書いてあった!」といいながら、「オオイヌノフグリもかわいいよ!」といって見つけて、教えてくれた。かわいいやんか。白い謎の花が近くにあったから、「これ知ってる?」と聞くと知らないというので、教科書でみたら教えてねーと言った。で、ご飯を食べて、今日買った絵の具で絵描く?と聞くと描くというから書いてみる。最初は人を書いていたのが、お母さんに「せっかくだから桜かいたら?」といわれて桜をかいてみるその素直さが子どもらしく、のびのびとなんでもやってみようという気持ちを感じた。

この絵を描く前、この子の弟くんがやってきて、「僕もやる!」といった(そのとき僕は桜を描いていた)。で、僕が目を話した隙に・・・僕の絵に黒い絵の具でぶっとい線をぶっとく描いた!「だー!あー!」と僕は転げて泣き叫んだ!(その子は前にも壊したら人が悲しむものを壊した子だ)僕がめそめそしていると、体操座りになって反省会をはじめた(僕の悲しみを感じているんじゃないか。すごい)それをみて、僕も絵一枚で大人気ない、もっと子どもらしく執着しないでなんとか・・・と思ったその矢先、お姉さんが「枝にしたらいいじゃん」と。

天才じゃないか。それでその子に「この絵、僕が描いたんだけど、この線を枝にしたらおもしろそうだから、続き、描いてよ」と言った。気を取り直した彼は、書き始めた。うん、おもしろい絵になった。こういうこともあるんだなぁ。

ひとつの絵を描きながらドラマが起きる。(もっとたくさんのドラマがあったが割愛)それが個性であったり、発達の段階であったり、心の憂鬱として気持ちだったり、よろこびであったり。絵が上手くなることが大切なのではない。絵を描きながら、人間が人間と一緒にいる時間が大切なのだとおもえる。心から。そんな、昼下がりでした。

ちなみに、弟くんが気を取り直して絵を描き始めて、パレットの絵の具を使おうとしたとき、「これ、使っていい?」とちゃんと聞いてくれました。「僕はこの色しか使わないから、他の色は大丈夫だよ」と答えた。聞いてくれたね。お気遣いありがとう。お心遣い、ありがとう。「世界はいろんな意図で、意味で、計り知れない他人の心であふれている」ということを、体験して、学んでくれたのかもしれない。僕も、お姉ちゃんの一言から「創造的になること」を学びました。弟くんからも、人の成長する姿を、学びました。

ありがとう。楽しかったね!

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