高校選びは高校生活3年間、管理される場所を決めることだと考えてもいいかもしれない。

そのくらい、富山、高岡、金沢の高校は、管理するところはものすごく生徒を管理する。

例えばである。
なぜ商業高校の高校生は部活で忙しいのか。

若いエネルギーは、どこかにやらなければいけない。
できるかぎり、学校の中にとどめなくてはいけない。
非行、交遊は学校の評判、メンツに関わる。

たったそれだけの理由で、将来のことを考える暇もなく、考えるきっかけを与えることもなく、朝から晩まで部活をさせられる高校生がいる。

朝早く、大学に向かうスポーツマンな大学生と話をした。

「今3回生なんですけど、みんなで、大学決めるのって大切だったよねって話しています」と喋ってくれた。
高校3年間を、学校の中だけで過ごしたら、その先のことも見えなくなる。

それが高校生活だ。
卒業するまで管理される場所を決めるのが、高校受験だ。
どんな管理のされ方をしたいのか。

それが高校選びの基準であってもいいかもしれない。
もし「そんなの嫌だ」とおもうなら、自分で高校を選べるような学力をつけるしかない。
そういうモチベーションで、高校受験に望んでもいいとおもっている。
進学校に行くことがいいとはかぎらない。進学校にいったら、課題の海に放り出されてサバイバルしなくてはならない。
それでも平気な人もいる。それが好きな人もいる。君は?

大切な自分の心を守るためのチカラが欲しいなら、今、勉強を始めるのもいいかもしれない。

もちろん、どんな高校であっても、子ども達は、笑おう、笑おうと、心を磨いている。
私も見習いたい。

 

泉丘高校、二水高校、錦丘高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク1)

高岡高校、富山中部高校、富山高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク2)

富山県で小さな塾をはじめた東京の先生が高校生の課題の多さに心を痛めている個別指導otonone-オトノネ-(リンク3)

インスタグラムという居場所が中学生、高校生にとって大切である理由

最近、中学生高校生のことを知りたいとおもって、インスタグラムを始めた。

まだ機能がよくわかっていないのだが。
LIVEという機能がある。

ニコニコ動画の生中継みたいなことが、簡単にできる!すごい。
そこでたまたまお邪魔したLIVEで、女の子がこう言っていた。

「いいですね。なんか、話をしながら、自分のこと、いろいろわかった気がします。」

観客がいること、目の前に誰かがいること、それだけでも、意識が変わる。
意識が、無意識とつながる、引き出される。

ナラティブという心理学用語を出す必要もなく、インスタグラムをつかって、こういう現象が起きていることに、私は驚いた。

子供達はインスタグラムに自分の場所を作っている。
秘密の隠れ家がみつからないこの世の中で、子供達がみつけたのは、インスタグラムであった。
大人が何をなげこうが、子どもたちは、自分たちで答えを見つけていく。

だからメッセージを残したり、「いいね!」を送るにも、その、秘密の小部屋にお邪魔するという意識をもちたいと思えた。
コメントした後返事が返ってこないときとか、特に!

だれかにちゃんとみて欲しい
私はがんばっているよ

「いいね」をもらえるだけでも嬉しい。
そのいいねは、学校で勝手に出てくる成績とは違って、誰かが、誰かの気持ちで、押してくれたものだから。

泉丘高校、二水高校、錦丘高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク1)

高岡高校、富山中部高校、富山高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク2)

富山県で小さな塾をはじめた東京の先生が高校生の課題の多さに心を痛めている個別指導otonone-オトノネ-(リンク3)

金沢市版!高校生専門個別指導学習塾otonone-オトノネ-(リンク4)

がんばらなくていい

ひさびさにいい記事をみつけた。

PTSDと解離の11の違い―実は脳科学的には正反対のトラウマ反応だった

真っ当に資格をとれるまっとうなヒト、正常なヒトがたどり着けない場所までいくためのエネルギーを持ったヒトは、社会の中で居場所をみつけにくい。
このブログの著者はどんな暮らしをしているのか、気になる。

考えたことを本に出そうとおもっても「学術的でも一般的でもない」ということで断られてしまう。けど頭の中ではいろんなアイデアがつながって、こんなビックなブログを書いてくれた。ありがとうございます。

ところで、リンクにあるブログの記事の内容に、「4つの反応」がある。

身を守るための反応は二種類ではなく、最低でも四種類あったのだ。

それぞれ、ちがったタイプの危機的状況に合わせた生理的反応のパッケージである。

まず、危機が遠くにある、少なくとも目の前には迫っていない状況では、身をすくませるというのが本能だ。

危険がこちらへ近づいてくるなら、逃げようという衝動が起きる。

逃走が不可能なときの反応は、反撃。

そして、戦っても勝ち目のないときは、動物は恐怖のあまり動けなくなる。

実際にはそんなスムーズに移行が進むわけではないが、「戦うか逃げるか」よりも正確な言い方を試みるなら、「戦うか、すくむか、逃げるか、死んだふりをするか」(fight,freeze,flight,or fright)、つまり「4F」ということになるだろう。

コドモに対して、勉強のことでいつも「戦え!戦え!」といっていないか。生徒はいろんな反応を体で感じているはずだ。大人がその一部だけをフォーカスしてしまったら、生徒の一部が、見えなくなってしまう。全体性を失ってしまう。その見えなくなった一部は闇となって、病気を引き起こすこともしばしば。今日も、県内有数の有名高校の生徒に道端ですれ違った。暗い顔をして、反応がない。逃げることも、すくむことも、死んだふりをすることも許されない彼ら進学校の学校生活を想像しただけで、私は気持ちがわるくなってしまう。よくがんばっているものだ。コドモはすごい。

人間には心の弱さなんてものはない。
一体、地球のどこに、宇宙のどこに、「弱いもの」があるだろうか。

泉丘高校、二水高校、錦丘高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク1)

高岡高校、富山中部高校、富山高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク2)

富山県で小さな塾をはじめた東京の先生が高校生の課題の多さに心を痛めている個別指導otonone-オトノネ-(リンク3)

金沢市版!高校生専門個別指導学習塾otonone-オトノネ-(リンク4)

イヤダイヤダ

いやだとおもうことがある

自分はこうだ
こんな自分でありたい

そのエネルギーがちゃんと自分の中からでてきているのか、そうじゃないのか。

もしかしたら、本当の、君の中に眠っているきみを、君が否定しているだけかもしれない。
君の中で君がお世話できていない君が、誰かに批判されているのを、君が黙ってみているだけなのかもしれない。

そのエネルギーは君の中の誰かのものかもしれない。
その源を感じられる?

「勉強しなさい」といわれて
「勉強しなくちゃいけないのかなぁ」とか焦っていますか
どのくらい焦っていますか
そのエネルギーはどれくらいの大きさですか

焦りの川の実はすぐ隣で、ゴウゴウと音を立てている大河が草むらの向こうに流れているかもわからない。
君はそれに気がついていないだけかもしれない。

泉丘高校、二水高校、錦丘高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク1)

高岡高校、富山中部高校、富山高校の【偏差値・合格実績の影】で泣いている高校生がいることに、気が付いていますか?(リンク2)

富山県で小さな塾をはじめた東京の先生が高校生の課題の多さに心を痛めている個別指導otonone-オトノネ-(リンク3)

金沢市版!高校生専門個別指導学習塾otonone-オトノネ-(リンク4)

ちゃんと感じるための作法

久しぶりに、小学生以来に、お絵かき教室の先生にあってきた。展覧会をしている公園のカフェにいく。絵は、見る場所で変わる。見方とはそんなものだ。近くでみるよりも、遠くで見た時のほうが、なにかこう、生き生きとしている。力が伝わる。感じるためには、それなりの体の状態、心の状態になることが大切。展示会の挨拶にこんなことが書かれていた。「ほぼ毎日、感動する場所で書く私、感動する自分でありたい」と。フシギだなと思えること、感じること、違和感はよくわからず曖昧なママ忘れられてしまうことが私には多い。夢のように。けど私が感じたことなのだ。頭をぐるぐる回す生活に慣れてしまったオトナには、感じたことをちゃんと感じるための「型」があってもいいのかもしれない。それが音楽であったり、お絵かきであったり、おしゃべりなのだろう。感じていることをちゃんと感じる時間を、私は大切にしてこれただろうか。

忙しい日常の世界、驚きや感動、発見を見て見ぬふりせず、コドモのように、時間をかけて、関わりあおう。と私はおもう。じゃないと自分の心の動きも、姿にも、気がつけなくなってしまう!

体は忘れない。


『The Key Muscles of Yoga: Your Guide to Functional Anatomy in Yoga』

体はしみついた癖をなかなか手放せない。声の研究をしていたとき、「Right to speak」という本を読んだ。その時に「人はほとんどが、神経に染み付いた緊張、こわばりのせいでその人の本当の声を出せずにいる。」と書いてあった。声だけではない。こわばった筋肉は肩こりになる。腹痛、頭痛は「違和感」からあなたへのメッセージだ。声は?人は気が付きにくい。表情、反応、いろいろな心が声の中にでてくる。姿勢の中に現れていると私はおもっている。

肩が凝った、というのでマッサージしてもらおう。けど肩がこる習慣がそのまま残ると、また肩がこる。けどマッサージを受けると、緊張がほぐれた体が一時的に「まだほぐれていたころ」を思い出す。すると心も落ち着く。気持ちが良くなる。こうしたふとした、ときほぐれたときにこそ、「ちゃんと自分の中にあるものを感じる、素直に、感情をだす」話すことをしてみたいとおもえる。夜、オフロに入った後、本当にぼーっうっと、「今、私は何をみて、何を感じてる?私は、なにか、言っている?」と。違和感があれば、感じておいたほうがいい。もしかしたら、ただの違和感が、モンスターになってあなたを病気にしたり、暴力的な人間にしてしまうかもしれない。

歌を歌おう。音楽をやろう。声を自由に使おう。表情を、そのままの姿を出せる場所、時間がある人は、幸せだ。そういう場所、時間は、とても大切なもので、守るに値すると私は感じる。

人間関係

久しく会っていない友だちと話をした。夢の中で彼をみたから電話したのだ。15年ぶりだ。
「おまえは変わっていないな」ということになった。
同じところをぐるぐるしていてあのころのままだ。それでもその行動力は俺にはないから見習いたい、だそうだ。

人間関係のことを話した。
そこで一つ思いついたことがある。
ここに2つのモノがある。なんでもいい。この2つのモノの関係を、位置関係で表したらどのくらいのパターンが生まれるだろうか。
それが3つになったら?そこに「場」が加わったら?
先生と生徒、弟子と師匠、親と子、社員と社長、あなたとわたし、道端で会った人とわたし。
それはもしかしたら、分子や原子が互いにつながったり、遠ざかったりする運動みたいに見えるかもしれない。
強い力のように硬く結びついたものもある。それすら崩壊する。
原子や分子は常に、動きを変えて、形を変えて、つながりをかえていく。
ファンデルワールス力のようにとても小さいけれど、表面が大きくなると働く力もある。
化学の世界で絶対的に「支配的な原子」などない。ただ「ほうそく」に従うだけだ。
お互いの条件が満たされている時、それらは反応する。

何かが上手く行っていなかったり。違和感を感じたら、視覚的に、感覚的に捉えてみるのもいいかもしれない。
目の前に相手の「ココロ」がある。それを例えば布にしよう。例えばボールにしよう。あなたはその「ココロ」とどう関わっているのか。
目の前に自分の「ココロ」がある。それをあなたは今、どうしているのか。

世界は円環だという。
おもうにそれはフラクタルだろう。
どんな入り方もできる。
ただその中で自分の場所を見つけて、回ること。
他のワと触れながら、回り、回し合うこと。

回らないとしたら、何か、違和感を感じるはずだ。
もしかしたら、油を塗ればいいかもしれない。
もしかしたら、モウヒトツかフタツ、歯車を付け足さないと行けないかもしれない。
歯車の場所が違っているのかもしれない。

求め、受け取る
捧げ、与える。

自分に何かを捧げ、与えるワタシ
誰かに何かを捧げ、与えるワタシ
自分に何かを求め、受け取るワタシ
誰かに何かを求め、受け取るワタシ

きくこととはなすこと
どれかひとつが円環から外れても、具合がわるいのかもわからない。

上手く回っていない歯車を、取り外してみること。
上手く回っていない歯車を、磨き直してみること。
回りすぎている歯車を、取り外してみること。
大きく回そうとせず、小さく回してみること。
私はそのようにして「変わっていきたい」「成長したい」とおもっている。
固定されたアイデンティティーというものではなく、変わり続ける世界に、関係に、やわらかく合わせていく。

「変えるって、大変なことだよ。苦しいよ」と最後に彼は言った。
苦しみが、尊いものに聞こえてしまう。

彼の視線が、声が、私を助けた。幸せ者だし、夢をみた自分に素直に従ってみた自分を、褒めてあげたい。
ありがたい。ありがたい。

ビートルズの古いLPのジャケットに惚れ込んで買う心

今僕の目の前には、韓国で買ってきた、掛け軸、水墨画の複製がある。
もちろんお土産屋でみつけた安物だ。
この年になって、やっと、ちゃんと、眺められるようになった。見られるようになった。
若い頃は、ただなんとなく、いいなとおもって、買ったものだ。

今になって、その絵を眺めながら、絵というのは、別の世界の扉のように思えてくる。
好きなアーティストの写真や音楽のジャケットなんかも、今ココにある日常の世界とは違う世界への入り口のようなものだ。
見ながらたくさんのことを「感じられる」。不思議と魅了される、心が出ていくような感覚。
同じ絵を一緒に眺めながら、ただ眺めながら、感じる時間を大切にしよう。ただその時間を過ごすことが、大切なのだ。

現実の、皆が承認している、確定している、どこかわかりきった世界とは別の、
不思議で、日常から離れた、何かが起きそうな、そういう世界。
絵を眺めるというのは、創造的な赤ちゃんの心になろうとする心の動きなのかもしれない。

だから人は絵を買う。ビートルズの古いLPのジャケットに惚れて買う。
ドキドキの入り口を買う。
ちゃんと「絵を見る」「見入る」のは、絵を買うこととは別の行為であり、心の動きだ。
絵の「リッチネス」を引き出すのは、人の心だ。絵を見てどきどきできる人は幸せだ。

曼荼羅、ドリームキャッチャー、五芒星、いろいろな入り口がある。
そっちの世界にいくための、リッチネスをつかむための心持ちというものがありそうだ。
昔の人は、神社にお参りにいくこと、祈ることがそうした非日常の世界につながる入り口だったろう。あの鳥居がまさしく。
昔の人が鳥居の前に立つときのような気持ちを、いまの僕らはいつどこで感じるのだろうか。
絵の前で。ビートルズの古いLPのジャケットの前で。

裏山で見つけた石を拾うこと、道を歩きながらみつけた風景を写真にとるのと同じように、絵を買おう。それがこの固くなった日常の時間を止める役に立つはずだ。
昔、多分、10年前、東京のギャラリーで「絵を買う人」について考えてから、長い時間がたった。
答えというものは、知らず知らずにやってくる。求めていても、追いかけても、得られないものだ。

インドネシアに行った時、ジョグジャでバチックを買わなかったことを後悔している。あれは、とても、心が惹かれる絵だったのだ。
帰りの飛行機代が心配で、買えなかったのだ。

おやとこ

公園。中国語が聞こえるとおもったら、縄遊びを、おとなとこどもがやっていた。おとなが3人、子どもが7人くらい。幼稚園から小学生くらいの子があそぶ。走りながら、声を上げながら、笑いながら、きゃー!うわぁー!芝生の上で、太陽の光にあたりながら。とびまわっている。おとなもこどもも、大声を上げて、きらきらとびまわっている。

僕はベンチに座ってみていた。日本人の子どもが目の前を走ってくる。ころんだ。片手だけついて。すぐ後ろをみると、お母さんがやってくる。大丈夫だ。心配ないと僕はおもう。男の子はお母さんがやってくるまでには一人で立ち上がった。お母さんは歩くスピードをまったく変えずに、男の子を通り過ぎていく。2mくらい男の子の先をいってから弱々しい声でこういった。「あと30分しかないよ。遅れちゃうよ」しゃべる間も、歩く速度は落とさずに。男の子は、うっ、うっといって、泣きかけた。泣かなかった。そして走ってまた、歩く速度を変えないお母さんの後ろを追いかけていった。お母さんは一度も、振り向かなかったのだ。

わんぴーす

日本はマンガ大国だ。アニメ大国だ。語り物の歴史はどの国にもあろうが、どうしてかそれがマンガという媒体になって広まった。

ワンピースというマンガがある。
いろんなひとがいうとおり、この漫画には人の生き方、関わり方のエッセンスが盛り込まれている。バトルシーンがドキドキするだけではない。それは過去に縛られていた、過去に生きていた仲間が、今を生きる感覚を取り戻していく物語。主人公の味方の過去も、敵の過去までも物語る。主人公のルフィーは、自分の生き方にゆるぎがない。仲間の大切さもしっている。幼いころにそのすべての経験をしている。

ルフィーは「一緒に行こう」とか「ぶったおす」とかいう。自分の気持ち、道をひたむきに進む。そして、そんな自分が出会った人にできること。それを表す言葉の一つが「仲間になろう」だ。今、この時を、この瞬間を大切にしようぜ。一緒に冒険しようぜ。生きようよ。彼の言葉の力は、彼の拳は、強い。泣きながら、心の堰を外して叫ぶ。「いきたい」

今、ここ、それが本当の自分、成長したい自分、打ち破りたい自分と繋がった時、人は命をまっとうしているのだと思う。
ただその時、誰かが呼びかけてくれることが、どれほどの助けになるだろう。過去に、感情に囚われているこころに、触れてくれる人。
進むだけではない。その場で、戦いながら、過去の苦しみを味わい尽くして、嘗め尽くすからこそ今の、自分の、気持ちがわかるんだろう。苦しんで、苦しんで、その苦しみも抱いて、世界に飛び出す時に、仲間がいてくれることは、どれだけ心強いのだろう。

兄、エースを失った時、悲しみにくれていたとき、真っ暗になったとき、喪失に耐えかねていたとき、ジンベエがいてくれなったら、ジンベエの声がなかったら、ルフィーはどうなっていたのだろう。その一声が、もしかしたら、今の僕の周りにも、あるのかもしれない。その声に気がつくまでが、そしてその声に応えることが、ひとつのドラマなのだ。泣いていいのだ。泣いたらいいのだ。

外からの呼びかけを感じ取ろう。
戦いながらでも、へたれこみながらでも。
それは人かもしれないし、空や、草木や、太陽や、風かもしれない。もしかしたら、自分の内にいる、自分の一部かもしれない。自分の一部に、耳を傾ける。

誰もが旗を持っているのだ。旗を掲げる人生。
人とのかかわり合い、忘れられているものが、マンガの中には、まだ残っている。現実は?僕達の生きている現実は?