学校教育の政治的背景(子たちは政治に巻き込まれている?)

富山県の異常さは本当に、よくわからない。
(石川県も異常らしいが、高校生の顔をみると、富山県の方が、異常に、病的な子どもたちが多い気がする。みんな疲れ切っている)

僕たちの知っている学校ではない。
強制収容所で働いている労働者みたいだ。
(ちゃんとお昼休みと部活動というレクイエーションが与えられている!)

けどそれがなんとなくわかった気がしたので報告。

ことの発端はコレ。
公立学校(小中高)の一人の生徒に使われる人件費・教員数を計算して気が付いたこと2(富山・石川は教育県ではない)

石川、富山の平均所得は他の「大都市」と同じレベルに高いという不思議が、教育に使われる予算も「大都市」と同じくらいに低い不思議と結びついたデータでした。

なぜ富山県の平均所得は、日本海側にあって、閉ざされた地域にあって(地理的には発展しにくいはずが)、高いのか。
これが不思議だった。

路上における犯罪者検挙数の割合も東京並み。

所得格差も大きい。

けど人口は減っている…

人口は減っているのに、新築住宅がバシバシ建っている。

よくわからない富山県。

そしてお金にがめついという曰くつきの、富山県(高岡市は高岡商人でさらに有名)。
歴史的に、奈良の都以前に、歴史に葬られ都があるのではないかと僕はおもっている富山県(というか能登)。

富山には富山の歴史がある。
その歴史とどう関わるか。
それは今生きている人たちが、歴史を相対化して、離れて見て、決めることではないだろうか。

ーーーーーー

ある日、誰かが僕に教えてくれた。
「富山の県庁(だか市長)は東大学閥なんだよ」

ああそうか。

富山中部、富山高校、高岡高校が東大にこだわる理由があるとしたら(東大でなければ、いけないらしい)、政治的な影響力を強めるために、子どもを育てていると考えたら、つじつまがあう!

自分の味方になる議員数を増やす、ということ。
次の世代でも、自分の社会的な地位をまもれるということ。

封建的な考え方だが、まぁ確かにつじつまがあう。

だから、富山中部、富山高校、高岡高校(最近は全然進学校でもなんでもない高校までもが生徒を課題漬けにしているようで意味がわからない)は、子どもに「意図的に」ストレスを与えて、政治家になった後の恐ろしい「政治家世界」を生きるためのストレス対応能力を鍛えているのだと。選抜を行なっていると。課題、テストは、計画された「潜在的カリキュラム」である。

学校は変わらないだろう。
政治が変わらないならば。

政治は変わらないだろう。
人間が変わらないならば。

人間は変わらないだろう。
もし、ひとりひとりがもっている「天の才」を守り育てられないならば。
子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

ーーーーー

この政治的な策略に、子どもをどう関わらせるか、どう守るか。
お父さん、お母さんの知恵が試されるところかもしれない。

学校をやめなくてもいい。
学校をラクラクとサバイバルできるように、小さい時から関わるだけでもいい。
サバイバルしながら、多くの子どもたちが、「才」を失ってしまっているように僕はおもう。
だれかをしあわせにする、大切な「才」だ。

小学校に入る前に塾に通わせたり英語をやらせたりするよりも、大切なことだ。
「子どものしあわせ」ではなく「子どもが関わる多くの人のしあわせ」を考えなくては、その子は犯罪に巻き込まれて死んでしまうかもしれない。
「その子のしあわせ」が、習い事をしたら手に入るのか。英語塾にいかせたら手に入るのか。某有名大手学習塾に入れたら手に入るのか。

ーーーー

有名な話、大手の予備校と行政は繋がっている。
教育委員会が塾の下部組織なのか、その逆かはわからない(お金をたくさん握っているのは塾だろう。とすれば、教育委員会の方が弱いのかもしれない…)
学校は、予備校の宣伝をしているのかもしれない。(テスト!テスト!成績!成績!)

お父さんお母さんの、知恵が、試されている。

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ひとりひとりの天の才

小さい時はまだよくわからないかもしれない。

いつそれを感じられるかはわからないけれど。

その子を助けてくれる、その子のチカラになる、その子の生き方になる。
そういうチカラを子どもは育てている。守護霊、といってもいい。

「私は目標があればがっつりうごける」
「私はものごとを不思議におもうチカラがある」
「私には、超暗記能力がある(何かを不思議に感じるチカラはないが…)」とか。

それがいつわかるかわからない。
ただ受験受験、習い事習い事、勉強勉強、試験試験、課題課題でわからなくなることは多々ある。

だれかが「君にはこんなチカラがあるね」と言われなければわからないこともある。
自分で気がつくこともある。

高校生たちは社会に出ないと「自分の姿」がわかるようなきっかけがなかなかないのではないか。
学校の中で受ける先生たちの目線、お父さんお母さんの目線だけではみえないものもあるだろう。
慌ただしく暮らしていたら、自分の中にある芽に、気がつかないこともあるだろう。

お父さんお母さんが、そのチカラ(天の才)がでてきたときに、守ってあげるような環境をつくってあげてもいい。
それだけで、「自然に」伸びて行く。

youtubeをみて英語のチカラを勝手に伸ばすインドネシアの女の子。
「させる」以前に、開いた芽。
芽が開くように塾に「行かせる」、習い事を「させる」ことで、実際に開く芽もあるかもしれない。
それでストレスを受けて、開かれない世界の扉の前に呆然と立ちつくしている子どもがいるかもしれない。

不思議だ。

多くの人にとって、「大学」というものは「本当に自分と向き合えるような仲間と出会える」場所のようにおもう。
子供らしく、あそべる場所。本気で将来を考えられるばしょだとおもう。
ちゃんと遊べる仲間と出会える。
ちゃんと教えてくれる大人たちと出会える。
自分の種を大切にできる場所だとおもう。(もちろん、働いてもいい。働きながら、いろんな人と出会える)

そんな場所にいくまでの3年間、3年という時間を、どうか、心を守りながら、悠々と過ごしてほしいと僕はおもっている。

子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

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小学生、中学生の心を学校から「守る」という愛で子どもの「命」を守ること。高校になった時に自立すること。自由に生きること。

「自由にさせたい」

ということが一つのキーワードになる。
ひとりひとりが自由に世界をつくっていけば、世の中はもっとおもしろくなるだろう。
では、

子どもに「自由に生きて欲しい」という祈りを届けるための、愛とは何か。

ーーーー

さっき、ドジョウが2匹、死んだ。
正確に言えば蘇生しようとしているのか、死んでいこうとしているのかわからない。
とりあえず、フタをせずに「カルキも抜きたいし、水たっぷりにして泳がせたいし」ということで2匹が今、埃にまみれて瀕死。
奇跡的におとのねさんに食べられることを免れた命。
飼うつもりだった。
生存者は3名

ーーーーー

「自由にさせたい」
けれども、守らなくてはいけない。
何を?命を。

人間なら、僕はもっと別のものを大切にしてほしいと思っている。
心だ。

命、といってもいい。

その人が生まれて来て、燃やせるもの。
他の人にも与えられる炎。

で。

「自由」がうまく働かない場合がある。
自由は条件付きだ。
「みんなで一緒」で小学校・中学校を過ごした子どもたちが、高校になって、「みんなで一緒」になって、本気をだせずにいる。
「個別化」されるべき進路を「課題」に阻まれている。
3年間を学校で「みんなで一緒」のわけのわからない課題に耐え、終わる。
それがお父さんお母さんの望んだ「自由」の結果だろうか。

(学校変えるか、課題や定期テストを拒否するだけでいいのに…それは困難なのだろう)

それで、子どもは、「殺された」と言えないか。
お母さん、お父さんが「自由だ」といって子どもの大切な心を、命を殺していないか。
おとのねさんも「自由だ」といって子どもの心を殺してはいないか。

そこはおとのねさん、実にドライだ。
「もう育ってしまった。もう思春期を超えた。あとは、今あるものでやっていくしかない。もう高校生になったなら、痛みがなければ、変わらない」
発達課題を、思春期の意味を僕はそのように理解している。
入試が終わった後で、希望しない大学に入学した後で、大切なことに気がつけばいい。

ーーーーーーー

「自由」を大切にすることはいいことだとおもう。
ただそれで「自由」を発揮するチカラを育てられているか。
「自由」にすることで「不自由」になっていないか。

「教えてはいけないこと」と「教えるべきこと」をはっきりさせているか。

「みんな一緒」から子どもを守ることがお父さんお母さんの役割ではないのか。
学校で「みんな一緒」の価値観で育った心が「自由」を発揮する、「個性」を生かすチカラを発揮することができるだろうか。
障害にならないか。

学校という環境がつくる心から、子どもの命を守ることが大事ではないのか。
それほど学校の先生は、学校というシステムのなかで生き延びることに精一杯なことが多い。
(一部の先生が生徒の心に大きな負担をかけることも往往にしてある)

ーーーー

もし本当に「自由」を、「その子らしさ」を育てるなら、学校から子どもの心を「守る」ような関わり合いをしなくてはいけないのではないか。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
それは学校から「自立」することも意味するだろうとおもう。

「先生、いろいろ大変だね。まぁ、私は私でやっていくよ」という目線。

心を圧迫してくるあらゆる言葉、振る舞い(時として脅迫や精神的苦痛といういじめに相当するものが公然と教育の名で行われることもある)から自立すること。僕がよくDVをDVだと思わないお母さんの話をするが、それの学校バージョンだ。毒親の支配から逃げられない子どもに例えてもいい。

小学校、中学校の発達の課題には学校からの「自立」がある。
だからこれを意識して就学以前から、低学年から関わりあうこと。
小学校になってからも、「自立」できるように子どもの心を守ること。

ーーーー

テストの点数が悪くてもいいよ!とはいっていない。
学校という環境の中で、「その子」をみつけて、どうしたら「その子」が「その子」として自立できるか、かけがえのない命を燃やせるのか、他の誰かを照らす炎になるのか。見て、守ってあげることが大事だとおもう。(場合によっては、学校がいうことなど気にしなくていいと、言えるだろうか)

ーーーーー

子どもを「守る」ために課題をやらせ、テストの点数をあげさせようとするお父さんお母さんの心はわかる。
ドジョウを2匹、自由にして殺してしまった気持ちだ。

「自由」になるために「檻に入れる」のだ。

ーーーーー

勉強「させる」、習い事を「させる」のは悪いこととは限らない。
ただ発達の過程で刷り込まれた神経は残るということは知恵として知っておいて欲しいとおもう。

小さな子どもの「気を引き締める」「ケジメをつけさせる」のも同じだ。
その一挙手一投足が、子どもの心をつくる。神経を作り上げる。

ーーーーーー

命を守るとはどういうことだろう。
僕は生まれて来た命にかける願いを、祈りを、言葉で、仕草で、振る舞いで子どもにかけたい。
小学生・中学生の発達の課題は、「個別化」ではないのか。
そして高校生になったときに、本当の自分を社会にプロデュースするという課題に、向き合えるように。
そのための基礎が「自立」する心であって、これはつねに自分という物差しで、自分の心で世界をみる行い(自分が自分のことを語るという単純なこと)の繰り返しで強められる。

小学校、中学校で「みんな一緒」の「定期テストに追われる」、「学校の先生が怖くて従う」、「友達の視線が気になる」神経を作り上げる学校の環境から子どもを守ることが、「自由」のために教えなくてはいけないことではないのだろうか。命を、殺さないために。

小学校、中学校で「死にに行く」ことを覚えた体は、高校になってから「個別化」を拒むだろう。「自立」することが難しくなるだろう。
身体は記憶する。
気持ちとか、精神論とか、正論は関係ない。
わかっちゃいるけど、、
先生に頭ごなしに否定されると体がすくんで、心の元気がなくなる。
身体は記憶する。
心理学の一般書のコーナーにいけば、すぐにでも手に入る真実だ。

ーーーーーーーー

別に課題をしなくてもいい。
勉強しなくてもいい。
本気になれることさえあるなら。
それが個別化だ。

勉強ができなくても、しあわせを育てている人を、僕はたくさん知っている。
勉強ができても、しあわせそうではない人も、僕はたくさん知っている。

ーーーーー

自由にさせて、小学校・中学校で心をすり減らしていないだろうか。
「みんな一緒」を神経に、体に刷り込まれていないだろうか。
それは僕には、発達障害のようにもおもえる。「え?まだ学校から自立できていないの?」

子どもの命を殺していないだろうか。

知恵をもって、仕草をもって、愛のある言葉をもって、子どもと関わりたい。

(ブログの記事)
愛とはなにか?

そうして僕は、ドジョウを入れたボールにラップをかけた。

ボールの外から飛び出して「死ぬ」のは自由。
けどそれは、言い方を変えれば僕がラップをかけずに「殺した」ことにもなる。

小さな赤ん坊が、歩き始めた時、わけもわからず車道に出ようとするのを引き止めるように、学校から子どもを守ることも、命を守ることになるのではないかと、僕はおもっている。それほど学校は、生徒たちの心をすり減らしている。子どもたちは、笑いながら、「自由」であり続ける。

僕は子どもたちに、どんな祈りの言葉をかけよう。

小学校、中学校の発達の課題は学校からの「自立」と「個別化」だとおもう。
学校は利用するのであって、機会は「与えられている」のであって、「従わなければならない」法はない。

教育基本法 第四条 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

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ゲームの効用(個性化の過程はとまらない)

チカラになる

ウノ、大富豪は勝率が上がるパターンを探すゲームだということはどこかの記事で書いた気がする。
ただの運任せではない。試行錯誤をして、パターンを見つけていく、手を考えるゲームだ。
同じ風にゲームをしてても、ゲームとその人との関わり方によって、効用が変わってくる。

ポケモンには英語版があるらしいではないか!これで英語に慣れたり。
ぷよぷよなどは、試行錯誤、実験の連続だという。
ポケモンでカタカナを学ぶ。できるようになったら漢字を選ぶ。
(例えばそのゲームがマリオカートとかスマブラとかなら、また別の神経が鍛えられるだろう)

そういえば僕もブラインドタッチをパソコンのチャットで鍛えた。
もちろん楽しくてやるのだが。

ゲームをやりまくる。量をこなす。たくさん試す、それで見えてくる。
一定量をこなす。カッテがわからない、数をこなしながら、こうしたらどうかな?という工夫ができる。

アニメが好きならアニメをたくさんみて、ふかく考える。
サイコパスやハルヒなどなど、また何気ない日常モノの中にも、学べることはたくさんある。
そうした心が豊かになるアニメと出会うためには、いろんなアニメをみてみることだろう。

ーーー

それは勉強も同じだ。
本気でやっことが、ホントにチカラになる。
オトノネの座右の名。
効率化、自分の勉強法の確立をするためにも、取り組まなくてはいけない。
取り組まずにはいられないような、ファンタジーを与えてくれるのが塾であり学校であり、社会なのかもしれない。
(オトノネはファンタジー破りの方向ですが。やらないならやらないで、今の自分の大切なものを見つめるところから、気持ちを確立するところから、うわついた状態で勉強をしない、勉強そのものでなかったとしても、今の生徒の課題に向き合ってもらうのがオトノネ流です)

あそびは個性化の過程、他の人と同じ動作をしたとしても同じようにならない、自分にあったやり方を自分で見つける。
自分を本気にさせる対象と関わる。深く関わる。本気で関わる。

そのチカラが、他のいろんなところで応用できる。
子ども時代の一見なんでもないあそびは、大人になってから大切になるという結論は、まだ変わりそうにない。

さぁ、勉強をしてあそぼう^^

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「褒めて伸ばす」はいいことか。外発的動機付けのアンダーマイニング効果とは?

絵本とともに学ぶ発達と教育の心理学
悪いことではないでしょ!

好きだからやってできるようになるのが内発的動機といい、
「褒められて、煽てられて、煽られて」やるのは外発的動機という。

ーーーーー
蛇足1
伸ばそう、として褒めるのではなく、
がんばったね!やろうとしていたことが、できたね!という喜びの共有くらいがいい。
動機付け、「やらせよう!!!!」と意図して褒めるのは、僕の流儀ではない。

蛇足2
「すごい」とおもったら当然のように、感動は伝えるし、
「この子は、これがある」ということはもちろん伝える。
それは自分には見えない、その子の武器だし、魅力だし、磨いていくといいもの、自分を生かすものだから。
ーーーー

さてその上で、褒める、「君はできる」「俺たちは強い!」「俺は海賊王になる!」とか言い聞かせて、もしくは言われて、思い込むといい結果がでる現象を、ピグマリオン効果という。神話に出てくる、望んで、望んで、欲しいものが得られたピグマリオンという人物の名前からこう言われています。いわゆる、「引き寄せの法則」というやつです。

で、この「褒め」や「賞賛」が逆に、もともとあった、内発的動機を剥ぎ取ってしまうケースもある。
それをアンダーマイニング効果と呼ぶそうです。

富山中部高校の生徒で「勉強は好きだけど、課題は嫌い」という子がいました。
その子は心を大切にしているから、勉強と課題を分けて考えられるのですね。

ーーーーーーーーーー

親や教師(他者)が望むように言葉をかけるのは当然だ。
「自由に選びなよ」という言葉さえ「自由になればいい」という望みを言葉がけしているのだから。
(そうそう、自分で選べることは内発的動機を与える。自律性を高める。それは大切)

僕なら「しあわせになりなよ」というだろう。
「大切なものを大切にしてごらんよ」というだろう。
そのために世界をきちんとみたらいい、というだろう。
助けが必要なら求めてもいい、というだろう。

大人は、子どもに、願いをかけるのだ。
人は、人に、願いをかけながら暮らしている。
言葉は、チカラだ。

それを祈りともいう。

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健康が大事。受験の極意は健康から。学校に引っ張られている足をどうする?

健康第一。安全よりも健康。で、集中できないとか、いろんな相談をオトノネは受けるのだが。体が問題を抱えていたら、勉強どころではない。勉強は遊びだ!おもいっきり遊べるように、体をゆるめてあげなくちゃ!というわけで、今日はストレッチの練習をした。

健康とは、病名がついていないことではない。心を、体が支えられているか、応援できているか、体が、心とつながっているか、ということだ。命が燃えている。魂が喜んでいる状態だ。(健全な肉体に・・・という文句は誤訳であることはご存知だろうか。そもそも、健全な肉体に宿った不健康な精神が世の中にはたくさんある。健全さとはなにかはさておき、私にはそうおもう)

姿勢を保てない、どこかに力がかかってすぐに疲れる・・・そんな体でお勉強できるか!本気で遊べるか!受験という経験は、遊びと同じで、自分の能力を最大限に使う経験だ。本気を出せる状態を作り出した人が、いい受験を経験できる。

日本人はあまり呼吸をしない。韓国にいくとみんな目に見えるくらい息を吸ったり履いている。外国人が話すときはジェスチャーをつかったり、体全体で息を巡らせている。インドネシア人は、笑顔で話している。日本人は、太陽神経叢が弱い。。。日本人は、と言ったら誤解があるかもしれない。現代人は。。ストレスに耐えきれずに、体が陰性になっている人がおおい。塾の宿題ができなかったことを僕に話す時、息が詰まったように話す生徒。「学校でもそうなんじゃない?」と聞くと、「そうなんです」と答えてくれる。神経は記憶している。宿題ができなかった理由はさておき、息が詰まっているのがいかにも辛そうだ。仕方がない。。。試しに体を緩める経験を受験時代にしておいてもいいだろうとおもい、やってもらうことにした。

姿勢を変えるということは、肩こりをなくすということは、喋り方を変えるということは、生き方が変わるということで、そう簡単には変わらない。だから一時的なマッサージを受けるだけでなんとかしのぐ人がほとんどだ。けど、すぐに、神経が記憶しているルーチンに戻って、すぐに体がもとにもどる。剥がした筋肉がまたくっつく。

できるだけ、体がゆるまっている時間を、体に味わってもらおう。それを寝る前、毎日、体に、神経に、記憶してもらおう。力をぬくことから、新しい学びがはじまる。息を吐きながら、身体中の緊張を、吐き出そう。さぁ、君は捨てられるか。

僕は学校でびくびくして神経をすり減らす時間が君の心をすり減らしているようでいいようにおもえない。

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資源としての組織

学校は子どもたちの居場所のひとつだ。学校が全てではない。

繰り返すようで申し訳ないが、、学校は学校で背負ってきた歴史があり、大人の事情があり、おかしいことは確かにおかしいのだが、それを責めたりすることはできない。人にも歴史があるように、学校にも歴史がある。人がなかなか変わらないように、学校もなかなか変わらないのだ。(もちろんそんな学校でも、人によっては楽しい場所になる。友達と会えるから!部活があるから〜!いい先生に出会った幸運な人もいる)人間が変わらないから、学校が変わらないといってもいいのかもしれない。

だから僕はこう考えている。学校は社会の一部で、社会によくある組織の一つでしかないと。子どもの暮らしの一部であり、社会資源の一部であると。学校は利用するものだと。

だから学校以外の資源を豊かにする方が、子どもにとって、そして社会にとっても有益だ。学校の外に出てみよう。学校の外でいろんな大人に出会ってみよう。学校の中が世界の全てではないという当たり前のことに気がついてみよう。

資源とは利用するもので、組み合わせられるもので、学校以外の社会も〈学校と同様の価値〉がある。とおもってみよう。人はパンだけで生きているのではない。そうしたら、別にどこの高校を選ぼうが、高校を生活の一部にして、他の場所で自分らしく、人間らしくなれる。どの高校を選ぼうが。どの大学を選ぼうが。行ってみてわかることがある。行ってみて初めて困難に気がつくかもしれない。そんなとき、助けてくれる人と出会うほうが、自分自身を助ける術を学ぶことのほうが、また困っている人に声をかける方が、高校を選ぶことよりも価値があるように思える節もある。もちろん、「逃げる」という選択肢もありだ。環境は少なからずその人をカタチ作るから。

会社に入って、「なんかへんだなー」とおもいながら、けじめをつけながら、自分を包み隠さずに自分らしく人と関わり、新しい人間関係をつくっていきながら、会社で悩んでいる人を助けながら生きている人を僕は知っている。

何がなんだかわからないから、とりあえず、心を大事にしていきたい。

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高岡高校がブラックでサバイバルで海軍ばりに休みがない件(実話です。在校生の話)

みなさんからもらった情報、有料記事にしていましたが、無料に戻すことにしました。

受かるとか受からないとかの記事はそのまま有料にしますが。
こちらは重要度が高い、無料で解放したらいいかなと思いました。

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課題課題と言って来たが、今日、新しい事実が判明。

宿題には二種類ある。「課題」と「予習」である。

課題=宿題だと思っていた僕は大いに驚き、また想像ができなかった。え?予習?

富山高校も富山中部高校も同じなのかな?自称進学高校も同じかな?(同じだという情報をいただきました)

高岡高校の生徒が「もう課題やらないからな!!!」と先生に、職員室前(?)で叫んだところ、そのまま生徒指導(教科指導?)行きになったという話などなど、「課題」というモンスターの存在は知っていたが、まさか、予習という名の亡霊までいるとは。。。
AO入試に挑戦しようとした子が、「君には無理だよ」と言われた話。(学習性無気力になるだろう)生徒は日々、否定的な言葉、支配的な言葉を受けているため、心がもう

「悪い言葉」の「悪いエネルギー」に対応することで頭がいっぱいで、疲れてしまっている。という感じ。

そもそもAO入試は、学校が判断するのではなく、大学が生徒を判断するものであって、推薦入試ではない。
生徒の挑戦を、生徒の本気を、生徒の心を先生が「無理」の一言で否定するのははっきりと、間違っている。と僕はいう。言える。
疲れ果てて、心が擦り切れて、言い返せない、もう疲れ切っている生徒の姿が、高岡高校にはある。

高岡高校に使われている生徒がたくさんいる。
高岡高校を使う生徒が少ない。
使えない。
理不尽が日常化してしまい「心」がわからなくなってしまう。
そんな生徒がいる。

先生に宣言しようがしまいが、課題をやるやらないは本人の気持ちしだいなのだけれど・・・
学校というしくみ、先生との関係から自立的になれる生徒は少ないように思える。

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予習という名の亡霊は課題よりもタチが悪いかもしれない。授業中に予習の範囲を板書することになっているので、集団心理が働く(これも人によりけりだが)「みんなの前で忘れたというのは恥ずかしい!」とか「俺できる!できるんだから見栄を見せないとね!」とかいう人間の心理をくすぐるようだ。。。(もちろん、予習のやり方が悪くて時間の無駄をしているという前提で僕は喋っている。)

もうすでに置いていかれた生徒にとって、予習も、課題も、手に余るものだろう。「なんでやるの?」かわからない。ちょっと多く見積もって8割の生徒にとって、予習も、課題も、息を切らすものでしかない。ほとんどの生徒がセンター試験止まりの中堅大学に行き、その他の生徒が消息を立つしくみだと僕はおもう。予備校には自由があるからまだいいかもしれない。高校にも自由があるはずだが、自由を使うことができる生徒は少ない。体が、神経が覚えてしまっている。抑圧されている。処理しきれないと、病気になる。体のどこかが不調になる。(自己責任の記事を参照ください)

予習のテキストをみれば、それがどういう生徒を対象にしているのかが僕にはわかる。授業の進め方がどんなのか話してもらえば、それが誰に対する授業なのか僕にはわかる。2割の生徒のための教材だ。

学校でついていけないのは、たいていの場合、お子さんが怠惰だからではありません。勉強が足りないから成績が伸びないのではなく、勉強を一生懸命している(予習や課題をしている)からついていけないのではないかとおもう。

宿題が二種類であり、復習、が入らないのは妥当だろう。学校は復習したかどうかをチェックしないからだ。管理されない復習をする気力が生徒にはない。が、しかし、復習しなくて予習の意味があるわけないとおもうのだが。

「勉強して体壊して無理して大学にいくよりも、健康で大学に行って長生きしたいんです」と話してくれた高校生。健康が大事。心が大事。命が大事。受験という経験を通じて、自分の心も体もを大切にすることを学んでほしいとおもう。< 勉強することそのものに意味はないかもしれない。受験という経験を通じて学べるもの、気がついたこと、本気を出した記憶を、振り返ったあとで、春、桜の咲く道を笑いながら一歩未来へ踏み出す一瞬の充足感のために、今、「勉強」が目の前にいるのかもしれない。 進学校にいくくらいなら、将来を見据えて、定時制高校に通いながら、通信制高校に通いながら、いろんな人と出会いながら、大学に行くという選択肢も、ありますよ。 心を大事に。 いい先生でも、組織の中に入ると埋もれるのはなぜか。

ちなみに、富山高校と富山中部高校の生徒の話も記事にしています。
富山中部高校サバイバル(追記:なぜ中部高校の生徒はコミュニケーション能力が高いのか)
富山高校がサバイバルすぎる件

オトノネを応援していただき、ありがとうございます。

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富山市の民間学童保育で毎日英語

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オトノネひろげるシェアぼたん

おもちゃも、学校の宿題も、同じ。

だという考え方ができる。

どういうことだ!頭が狂ったか!

いえいえ。おもちゃも学校の宿題も、学びのきっかけをつくるものです。

大人はそれを手助けします。

おもちゃであれば、新しい遊び方をしてみせたり。おもちゃを通じて言葉をかわしたり。学校の宿題であれば、、、、解説してあげたり、計画することについて話したり。人生について語ったり。

で、肝心なのは、おもちゃも、学校の宿題も、子どもとオトナをつなげる環境をつくるということだ。子どもと大人が関わりあう、相互に作用し合う、道具にすぎない。素敵なおもちゃ、高いおもちゃ、高価な教材、魅力的な教材があっても、それを通じて大人との関わり合いができないなら、おもちゃも教材も、「ただの時間つぶし」になってしまう。テレビゲームという道具は、この点、遊び道具としては「積極的に介入できるテレビ番組」ぐらいのものかもしれない。(ただし、ゲームを通じて大人と子どもが仲良くなることは多々ある)

おもちゃも学校の宿題も、大人と子どもの相互作用を補うものだ。そうおもうと、宿題をする時間は、ずっと一人遊び、一緒にいるけど結局バラバラに遊んでいる並行遊びをしているのかもしれない。喜ばしいあそびは心の成長を促す。

遊ぶように、学校の宿題もやってみたらどうだろうか。

4歳の男の子がレゴみたいなもので飛行機みたいな乗り物を作っていた。「どこに行くの?」と聞くと、「わかんない」と答えた。

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成長の場

PDCAサイクルという言葉がある。

嫌な言葉だなぁと思いながら。。(だってPDCAと言ったらそれだけで賢こそうに聞こえてしまって人を騙せそうだから)Plan, Do, Check, Actionのことだ。

大事なのは、Action。これを改善と訳す場合が多い。

改善するためには?よくよく、やっていることを見る必要がある。これがCheck!評価だ。評価するためには数値化したり、視覚化ができるといい。はっきりできるといい。

何を評価するかといえば、行動がうまくいっているか、という評価をしなくてはいけないから、行動しないといけない。Doだ。Doだ!で、行動する前に、計画を立てる。

つまるところ行動を評価し、改善をし新しい計画をたて、実行することの繰り返しが成長するということ。

子供が遊びに熱中していたり、独楽回しをしたり、いろいろとごちゃごちゃやっている時、このサイクルを自然にやっている。「ん?うまくいかん。だめや。失敗や。こうしたらええんか?あかん。作戦変更や。こうしたろか。ん?ええんちゃうん?ええんちゃうん?できた!」みたいな光景を見たことはないだろうか。とにかく量をこなしている。その中でうまく行くパターンを見つけていく。PDCAのサイクルを回して行くこと、回しながら、上昇して行くこと。これが成長だ。どこかにたどり着くのではない。回り続けることだ。作業、退屈は人を人として成長させない。

前回はこうだった。今回はもっとこういう風にしたい。次回は・・・そういう風に、次の一歩を踏み出した先の風景が、より美しく、おもしろく、そして違って見えることを喜べるのが、成長することの醍醐味であると私は思っている。

「よりよい自分」へのまなざしが、あなたを加速させる。

「考えて勉強する」というコトバがある。もしかすると、問題を解くために考える、という以上に、PDCAサイクル(学習サイクル)の見直しをして「もっとよくなるためには?」と自問自答する意味が含まれているのではないかとおもえる。心が大事、ということだ。偏差値が上がる、55を超えるというのは、他の人が努力だけをしてなし得なかったことをする意味がある。心を育てた人が、55を超えるのかもしれない。

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