子どもの心に種を蒔く。蒔かれた種を守り、育てながら、僕らも子どもと一緒に育つ。

託児所で学んだこと。

10ヶ月の子。

離乳食を口の中にスプーンで入れてもらった後に、指を口の中に入れる癖がある。
そこで保育士の先生。

指を口の中に入れる癖はよろしくない、それは癖になる。
ということで、「大丈夫、(食べ物はちゃんと)口の中に入っている(から指をいれなくてもいい)よ」と言って口に入れた指を手でどかす。
けどそれが何回も続くので、口に入れるスプーンをもっていく場所が悪いのか、という仮説を建てたその先生は、場所を変えて食べ物をあげて見た。
それでも、やっぱり指を入れる。ん?となって、また次の時に、どうして指を入れたがるのか、その先生は解明できるだろうか。

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子どもは小さい時、「泣いて勝とうとする」という。

泣いたら、何かしてもらえる、という癖をそのまま、2歳までもっていくと、いわゆる「魔の2歳」と呼ばれるのではないかと僕はおもっている。
泣くという行為(泣いたらなんとかしてくれる!)が、逃げ回ったり、手を出したりする行動(暴れたらなんとかしてくれる!)になるのではないか。

今度先生に聞いてみよう。。。

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小さい頃から濃い味に慣れてしまった子どもは、薄い味を食べられなくなる。
今時の小学生の給食で好まれるのは「ラーメンと唐揚げ」だという。仕事帰りのお父さんとおなじメニューじゃん。
いやいや、伝家の宝刀、カレーはもちろん。人気だそうです。(最近出会った栄養士さんの話)

どんな食生活をしているのか。
癖はなかなかなおらない。
いや、いつでも直せる。

直すための環境が揃えば。
自我が発達していれば。
自分で「あれ?」とおもうか、環境がそうさせるか。

だから離乳食のときに、食べ物を噛んで味わえるようになった時に、いろんな味を、歯ごたえを経験させることが大切だと、先生は言っていた。
その後、好き嫌いがでてきても、大人になってから、必ず、その味に、食材に、出会えるきっかけがある、とのことだ。

学校でも、いろんな先生に出会うだろう。
嫌いな食材を食べさせられることでまいってしまう子もいる。
今は、その子には、その食べ物は、人間関係は無理なのだ。

そんな人間関係を無理やり続けていたら、「無理な人間関係を続ける」癖ができるかもしれない。
家庭内暴力を受けてもDVだとおもわなくなるかもしれない。
ブラックな企業でも頑張って勤めるかもしれない(命を燃やすに値するブラック企業ならまだしも)

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「泣いて勝つ」というコミュニケーションの作戦を子どもはとろうとする。
乳児期に、離乳食の前までにそれを覚え、使い続けようとする。
けどいつまでもそれじゃダメだと、「教える」ことは大切だろう。

種を蒔こう。

「待たせる」こともあっていい。
ぜひ、待ってもらおう。
待って入ればちゃんと助けてもらえる、眼差しをくれる、暖かさをくれることを「教えて」あげよう。
待つことは、大切なメタスキルだ。発達の課題だ。

種を蒔こう。

待つという経験を、赤ちゃんの時からさせてみよう。
大丈夫だ、待たせても、死なないから。

たぶんそういうことなんじゃないか。

頭だけで考えてみれば、人見知りをするくらいになったら、十分、待たせてもいい気がする。
またはいはいができるようになったら、十分待たせてもいい気がする。

「魔の2歳児」が本当にあるかどうかわからないが(今度先生に聞いてみよう)、関わり方一つで、「教える」ことを意図することで、子どもは順序よく、無理なく発達していく。子どもという一つの宇宙が育っていくための、子どもというひとつの自然がシステムを作り出すための、必要な種を渡していく。そんなイメージだろうか。

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種を蒔いていく、蒔かれた種を育てていくはずの学校で、子どもの大地が、子どもの泉が、子どもの森がまるで「公害」のように汚染され、傷つけられていくことがある。もしくは、全く種がお世話されないか。子どもは泣くだろうか。暴れるだろうか。「学校に行きたくない」というだろうか。お父さんお母さんが子どものメッセージを受け取って、守ってあげたらどうなるだろう。習い事も同じ。「よかれ」とおもってやることが、子どもの自然をどんどん剥ぎ取ってしまっていないか。

とある英語教室を見学したときのこと。
小学3年生くらいだろうか。
お母さんが迎えに来るのを待っていた。
僕と遊んでいた。
お母さんがきた。
お母さんが来ないごっこをはじめた。
帰ったら、宿題を「やらなくちゃ」いけないらしい。

大好きなおかあさん、学校の成績じゃなくて、不確かな未来ではなくて、今目の前にいる子どもの心をみてあげていますか?

昔だったら、「おしん」の時代なら、小学生といえば、もう立派に仕事をして、働ける年齢。
大人が水をやり過ぎたり、日光を当て過ぎたりして種をダメにしてしまっていないか。
(そんなこといったら何をしていいかわからなくなってお母さんは不安になってしまうかもしれないが)

けど今の小学生は、、、学校以外に行き場がない子が多い。
学校は、この意味で、牢獄だ。
もっと子どもが子どもらしく、自然でいられる場所がたくさんできたらいいなぁ。

子どものための社会資源が足りない気がする。
子どもの自然を守り、小学校に上がる前に蒔かれた種が育つための環境が、整っていない。
そんな気がする。

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最近、安い納豆についているタレを使わずに、家にある醤油をかけて食べたら。
納豆がすっぱかった。
納豆の味は納豆のタレの味だったわけだ(それからちょっと高い「ちゃんとした」納豆を食べることにした)

安いものはいくらでも出回っている。
オトノネは、やっぱりちょっと高くていいとおもうがいかがだろうか。

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蒔かれ、育った命は燃える。
燃える命は、周りにある命を燃やす。
自然の中にある命は、お互いに照らしあい、燃やしあっている。

一方的に栄養を与え、培養し、育てる工場のような教育はオトノネがすることではない。
自然の中で、お互いに、共に育っていくイメージを、僕はもっている。僕は子どもからたくさん教えてもらっている。

体の大きさは違っていても、子どもには子どもの気持ちがあり、心があり、同じ人間であり、僕らの老後をたのしくしてくれる、頼もしい仲間なのだ。
生まれた時から持っている「天から与えられた才」という種がどんな花を咲かせるのか、どんな「自然」を作っていくのか、僕はたのしみでしようがない。

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朝顔、、いや、なんだっけ、あ、えっと、紫陽花!あじさい!

みんな遺伝子は同じだけど、土によって、環境によって、咲く花の色が違うという情報をいただきました。
そんな感じ。

『残酷すぎる成功法則』という本にも、書いてあることだ。
その子がタンポポか、ユリか。
育てることで、育て方を変えることで、花咲く種もある。
残酷すぎる成功法則

見事に花を咲かせたクシュラの話も読んで見てください。
個別化とは何か『クシュラの奇跡ー140冊の絵本との日々』

クシュラの奇跡―140冊の絵本との日々

教育とは個性化のプロセスのこと(ユリとタンポポとクシュラ)

オトノネひろげるシェアぼたん

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