違和感と付き合うために

コドモが学ぶのはなんだろう。勉強、勉強以前に、暮らしながら、オトナに囲まれながら、コドモ同士で学ぶこと。
生きるうえで大切なことは、自分に責任をもつことだとおもう。自分のしたこと、考えたこと、思っていること、感じていることに、自分がどう反応するか、他人はそれで何をおもうか。人は誰かに迷惑をかけながら生きている。それでも自分に責任をもって生きるとは、不器用な人にはムズカシイ。私がそうだ。

私達は暮らしの中でいろいろな「違和感」に出くわす。私がよく感じる「違和感」は「それ、ちがうんじゃない?」ということだ。例えば「オトナ都合の保育・教育」といったこと。その気持に、オモイに自分がどう反応したらいいか。保育園に見学に行くたびに、実践を目の当たりにして、私がついついオトナ都合の、自分都合でコドモと関わりがちだ、反応しがちだと気がついて恥ずかしくなる。私はわたし自身に、ちゃんと向き合っているだろうか。私自身を焦らせたり、説き伏せたりしていないだろうか。向き合っているだろうか。

「誰かのために生きる」と言っても、結局は「自分のため」になる言葉のあやふやさ。この世界は人間にとって、合理的な、合意された世界に暮らしている私達にとって常に矛盾を、汚さを、割り切れなさを含んでいる。曖昧だ。だからはっきりと世界で怒っていることを、ちゃんとみることでしか其の曖昧さの中を生きることはムズカシイだろう。不安になってしまう。選択肢にあふれているこの世界で、自分はどう生きたらいい?

かつて韓国で作曲をしているとき、私はたまに俳優の役を振られたのだが、演技が下手だと他の人に役をとられてしまう。とられるというより、私に役は回ってこない。私はいなくてもいい、他の人がいる、ただソレだけのことが悲しかった。劇団は厳しかった。心が落ち着かないとき、よく私は「利用されているんだ」と思ってしまった。自分がその劇団にいて、自分の役を、自分の守るべき私の責任を果たすことに心が向いていなかったのだ。他の誰かが舞台に立って俳優をすることに一生懸命になっているように、私は私の仕事、音楽の役を果たせばよかった。あれやこれやと自分をひろげて、本当に見てほしい私の姿を自分でも見過ごしていた。あれこれと、「分」を超えて暮らしていた。よく私は「分」を超える。他の人の領域、他の人が大切にしているものを行為によって、簡単に傷つけてしまっていた。

作曲、音響という私の役割と真っ当して、守る。私は私に対して、その役を守る責任がある。ここからがムズカシイ。私が私の責任を真っ当するには、他の人とかかわらなくてはいけない。理解不能な、他者との関わり。人に認めてもらうこと。技術はもちろんだが、一人で舞台をつくるのではない。みんなで舞台をつくる。責任を果たすために「違和感」を持ち続ける。「いやそれちがうんじゃない?」とおもうことでも、自分の本意を果たすために、自分の音楽を認めてもらうために、使ってもらうために、話しをしたり、食事を食べたり。相手に合わせて暮らすことも「必要」だ。「この人とは価値観が違う」からといって、遠ざけては目的が果たせないことがほとんどだ。「目的のために手段を選ぶ」という言葉を聞いたのは高校生の時だった。今やっとその感覚がわかったようにおもえる。「わたしはこうだ」ということを曲げる必要はない。隠す必要もない。ただ、他の人も「わたしはこうだ」ということを曲げないし、態度や行動にでるものだ。たくさんの「わたし」の中で立ち振る舞わなくてはいけない。

ソレを葛藤といってもいいのだろうか。葛藤の中で、誰かを説き伏せたり、合理的になったり、誰かを支配しようとする癖を、私は学んできた。私の中の私を説き伏せたり、抑え込んで支配してきた。自分に対する関係が、他人に対する関係になる。
だから私はいつもオトナとケンカをしてきた。大切なものを守れず、責任も果たせなかった。どうしたら私は成長できるだろう?幸いにも私には「あなたは間違っている」と言ってくれた人がいた。幼児教育・保育に私の目を向かせてくれた人だ。私はこの道を信じている。この道のほうが、いいと感じているからだ。

「なにかちがう」「いやだ」「そうじゃない」と感じるときに、はっきりと自分の気持を見てみよう。正しいとか間違っているではなくて、自分の姿が、どんなに幼くても、どんなに見にくくても、揺れ動いている自分の心を感じられる人は、幸せだとおもう。「ちゃんと感じる」「ちゃんと見る」「ちゃんと聞く」ということが実は、私達現代人には不慣れなもので、困っているのだが。コドモのときに学べる一番大切なことだとおもう。目的、責任を自分に対して果たすために、自分の気持ちを守るために、大切な人を守るために、付き合わなくてはならない「違和感」を感じたとき、それを学ぶチャンスだ。

コドモに何かが起きる。なんでそうなったのかなって気になったら、あとで、例えばこう聞いてみよう「どうしたかったの?」きっと応えてくれる。多分、ムズカシイ言葉なんかじゃなくて、短い言葉で気持ちを込めて話してくれるだろう。その気持は「わがまま」かもしれない。文字通り、ありのままという意味ならば。ありのままの姿をみとめてくれる人がいたからこそ、私自身もありのままの他人を見ようとする気持ちが生まれる。私はまだコドモなのだとおもう。

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