序:ヒトとカミ/第一話:明けて暮らす

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序:ヒトとカミ

神はどこへいったのだろう。私は神と書けばどこか大げさに見えるからカミと書きたい。私は祈ることをしらない。カミも知らない。ただどうも、人の不安や負い目がカミをつくったように思っている。私が富山県で実際に目にし、きいたところのカミは神輿に担がれるカミであって、神輿を担ぐ父さんによると「本当に、御神体が入ってるときは、神輿が重いんだ」という。祭は大人の遊びなんだと語ってくれた。年寄りがいなくなれば、カミを語る人もいなくなるのだろう。

神社でよく奉納される「舞い」とはカミへの「振る舞い」のことである。「もてなす」とはカミに対して何かを「以って為す」ことであり、カミの機嫌に会わせて「祈って待つ」こともした。けれどももうカミが何者か、言葉はあれど姿はない。「アイドル」は英語で「偶像idol」だ。アイドルをカミとして賽銭をいれることもできる。カミは今、ステージの上に立っている。

 

カミは天然水だ。カミはコンクリートの堤防だ。カミは原子炉だ。人はまだカミを創造し、名前をつけ続ける。暮らしが変わってもカミを必要とする人間の本性は変わらない。科学の言葉でも、宗教の言葉でも、経済の言葉であっても、カミはヒトの畏れや不安、欲望が生み出したヒトの心を映し出す。私たちはカミをもてなすと同時に、私たち自身の魂をもてなし、振る舞い、祈り待つのである。ありがたいご時世をつくり出した現代のカミガミに一礼して、歴代のカミと私たちの先祖の物語をみていこう。記憶の中から消え去ることのない声、肌から離れることのない感触、そういった一つ一つが何故か、私には懐かしく愛おしい。

 

 

 第一話 明けて暮らす

生命の誕生以前に、物質が誕生し、物質の塵は集りながら構造をつくった。構造の作り方が物理そのものであって、構造とは「集るための条件」「互いの欲望を満たす器」である。構造に寄って粒子の距離は変わる。さまざまな構造が生まれていく。それらの一つのスケールに「元素」がある。安定した元素ほど単体で存在し、不安定な元素は他の元素と結びつき、新しい構造を得る。安定した構造をとるというのは、「唯一つ」になりたいという欲望と、空間によって生まれた「他者」との葛藤、抵抗の均衡した状態である。均衡も空間のバラツキの中で生まれるため、結局また新しい欲望と葛藤を生み出す。空間が有る限り、際限がない。そのうち膜をつくる構造体が現れた。ただの澱みであった塊が新しい構造をつくった。風には膜がない。暖かい空気と冷たい空気という違いだけで、幕がなくても構造をつくり、動く。風はエネルギーの動きではなく、構造をもつ存在の移動である。台風の目というものも銀河の中心に似ているかもしれない。類似した構造を創り出すことは物理によって説明される。さて膜という構造をつくって新しい均衡がつくられた。場所は海であったと説明されている。水と名前がつけられた物質の構造が、水素結合による間隙の存在「隙間」が新しい構造を赦した。ここでも空間が使われている。アンバランスによって生じた隙間、岩の影、凸凹によどみたまった自己と他者は、互いの唯一の存在への欲望と自由への葛藤が均衡するように構造をつくった。物理ではこれを「エントロピー」と呼んでいる。よどみという岩穴、野原の中でさまざまな構造体が隣り合い、互いにふれあっていたことだろう。どろどろの塊である。あるものは反発し、ある者は和解し、ある者は交わる。そこでまた新しい構造がうまれる。生殖、自己増殖を行うに至るまでは、例えば水は増えたのではなく、水はそこら中で誕生したわけである。生まれていく構造のなかで、はっきりと自他を区別した膜を持った構造体は恐らく穴の中で生まれただろう。穴の中で溜まりながら、岩と接している部分が岩とどろどろの関係において安定した形を生み出した。同じような構造は物理法則に従って無数の岩場で生じただろう。或る者は岩の隙間を「棲家」にした。引きこもることも自己保存の運動であり、自由であり、自然の理であろう。ストロマトライトという原始的な光合成を行う生物が現在も生きているらしいが、岩のようであるらしい。あるものは岩と同化した。陸に上がっても彼等は地衣類として未だに岩にへばりついている。現在生命と呼ばれる構造体が生まれた。問題は「足」の構造がどのように生まれたかである。岩にしがみつくための「手」は、元々構造を創り出すための法則で、科学的に説明すると電荷と摩擦だけで事足りていた。その間にも波はうねり、太陽によって常に生み出される地球の不均等さに対して「合一」を求める。一方でドロドロが岩の穴に入り込むように「合一」から遠ざかる構造体も存在した。不均一さ不均一な構造の内部に保存される。ただよっていたどろどろは漂い続けるが、岩穴で膜という構造をつくった構造体がたまたま岩から転がり落ちた。この袋に入ったどろどろと袋という構造はウイルスと同じだろうか。ウイルスの核を覆うタンパク質と核の間を満たしている物質は何か知らない。だが兎に角、袋の内部には「空間」があって、海の中に生み出されたどろどろと同じように、袋の中のドロドロの中にも別の構造体が生まれることができた。これは袋のしったことではなく、ふくろの中のドロドロが勝手に構造を作って、また袋とその中のドロドロをつくったのである。地球にも内部にはドロドロがある。ドロドロの中にも構造があるのと同じだ。大きさを変えて、新しく生まれた系に物理法則は構造体をつくる「自由」を与える。「欲望」は自由に抵抗しながらも、お互いに接合していく。此所の物質が動き回る自由、他の物質と距離を置く自由、離れる自由、孤独になる自由と、互いがあつまろうという欲望の二つの作用は、それらの物質が存在する「空間」によって決まる。狭い場所では接合せざるをえない物質が増えるだろう。広い場所ではばらばらでいるために、バラバラのままでいられる。接合する相手と出会い、触れなければならない。個体が「群れる」ことまで合一の欲望は拡張される。動けるという自由が合一を即すが、合一の欲望は構造をつくり、再び動き出すことを許容しない。不可逆的である。動くというのは、空間の本質であって自己と他者を生み出した世界が存在する条件である。合一とは同化であり、構造は個体の自由を奪い、引き止める。構造が大きく、堅固になるほど構造は動かなくなる。つまり、無限に思える空間と構造の葛藤が世界の動きをつくる。空間の発生で生まれた他者が自己となるように構造をつくるか、空間が生まれたときと同じように、移動し続け、離れ続けるかである。「手足」はもともとただの物質と物質の摩擦であって、岩と自己を同一化して一つの系となす構造体の作り上げた「結合手段」であった。構造を安定させる方向で物質は構造化されていくと根のようなものができた。岩穴がすべてこのような根をもった構造体で埋められれば、残りは漂うしかない。「隙間」を満たすように漂う。物質は他者と別れたときから「空間」を移動する自由を運命づけられている。

生命は生じた。野や原には生き物が動きまわっている。そのうちに人の形をしたものが現れる。どろどろのマグマに流される大地の上を動き回りながら生活し、ある者は山岳へ、ある者は野原へ、ある者は海辺へと辿りつく。子どもが親の後を継ぎ、また子を産みながら旅を続けた。種族の血は広がり、流れ続けた。ある日、「わたしはここで暮らす」と言った。砂の大地に住む者も、水だらけの海に住み着く者もいた。氷の世界に棲家を作る人もいれば、森の中に住む者もいる。火山の島に住む者もあった。また誰かが地面に線を引いてこう言った。「ここはわたしの土だ」と。今現在「日本」と呼ばれている土地に暮らす人達が現れた。『獅子舞史考』を書いた鷹田義一は石器時代から日本民族の足取り次のように述べる。
西アジアの遊牧民スキタイの風習が東方のモンゴル民俗に継がれて、それらの一部が沿海州を経て北海道から次第に南下して日本列島の東北、中部にかけて定住した。これらの民族が紀記にあらわれる「国巣」「土蜘蛛」「土雲」などと呼ばれた先住民族である。これを裏付ける証拠として、古事記中巻の神武天皇東征の記事の中に次のような一節がある。

八咫烏の後より幸行ませば、吉野河の河尻に到りましし土岐、筌を作せて魚を取る人有りき。ここに天つ神の御子「汝は誰ぞ」と問いたまへば「僕は国つ神、名は贄持の子と謂う」と答え曰しき。其地より幸出ませば、尾在る人、井より出て来りき。其の井に光有りき。ここに「汝は誰ぞ」と問ひたまへば「僕は国つ神、名は井氷鹿と謂ふ。」と答え曰しき。

勿論、双方言葉は通じなかったはずである。大陸から渡って来た天孫族は各々の土地に暮らしていた人びとを征服して後に「日本」という縄張りを広げていく。古事記中巻神武天皇東征の条に「其地(宇陀)より幸出まして、忍坂の大室に到りたまひし土岐、尾生な土雲八十建その室に在りて伊那流。」常陸風土記の茨城郡の条に「昔国巣在り。(俗語につちくもと曰う。又やつがはぎと曰う。)あまねく掘り土の窟に置り、常に穴に居り。人の来る有れば則ち窟に入りて之を窺う。その人去れば更に郊に出でて以て之に遊ぶ。」また日本書紀神武紀に「高尾張る邑に土蜘蛛あり。其の人と為りや身短く手足長く、侏儒と相類す。」と記された尾を持つ人々は、日本にたどり着いたアジア人であるという。

ここで注目すべきは加藤九作氏の研究で、中央アジアのキルギス共和国のサイマルイタシュの紀元前二戦年から紀元一世紀頃までの岩面画にある人物像である。人物は髪をのばしている。そしてすべて先端に房のある尾を附けているのである。このような「尾生る」習俗をもった「国巣」や「土雲」などの先住民は旧石器時代から紀元前五、六世紀にかけて、ユーラシア大陸から東方へと移動し、シベリアを経て、北海道から本州に定住した北方型蒙古系民族(縄文人)と考えられる。(松本秀雄博士の説)(略)南米のインディオの祖先はもともとアジアのモンゴル高原に居住していたが、紀元前一五〇〇年頃アーリヤ民族の侵入によりモンゴル高原から駆逐され、シベリヤのバイカル湖周辺を経て東進をつづけ、ベーリング海を渡り、アラスカ、北アメリカを経て南アメリカのアンデス山麓に住着き、インカ帝国を形成したアジア民族(モンゴロイド)である。(鷹田義一『獅子舞史考』富山県立図書館所蔵)

竪穴式住居といわれるものも「日本」の「縄文時代」のブランド品のように語られるが、実はシベリア、択捉島、蝦夷、東北に暮らしていた北方民族の住居形式であり、アイヌの家も和人がやってくる以前は板張りではなく竪穴式だった。

バチェラー氏が言ってゐる「色丹島在住のクリル、アイヌは今も冬は穴居す。即ちコロボックルとも謂ふべく、其居はイセイ、コットに異ならず。彼等言ふ。『吾が祖先はサガレンより来れり』と。サガレンにも穴居アイヌがある。サガレンでは穴居サガレンの人を、今も現にトイ、チセイ、コッチャグル(即ち土の家を持つ人との意義)と呼んでゐる」。また古い文献に依ると、此れ等アイヌの先祖が竪穴を使用してゐた事が記されてゐる。即ち正徳二年択捉島に漂流せる舟子の事を記した蝦夷薮話及び宝暦十三年十勝の西部に漂着せる舟子の書に寄れば、本島蝦夷の穴居したことの事が知れる。……「前略、土手の下などに穴を壕、それに入った居申候、男は仕事もなく安楽に暮し居り候、薪取、水汲等一切女相勤候……」この竪穴からときとして屍人の骸骨が発見されるとの事である。(樺太土人の生活『北の民俗誌』長根助八)

死者を埋めるという風習は元来シベリアのものではない。文化は民族と同様、混ざり合っている。穴を掘って家にすることの利点は北国の寒い冬を越えることにある。『北の民俗誌』で「樺太原始民族の生活」という章をもうけて山本祐弘がシベリアの住民から聞き取った肉声が実感を伴って聞こえる。

ギリヤークも夏の家と冬の家をもと有ってゐた。夏の家をトルフ・タフといひ、冬の家をトーラフ・タフといふ。本来漁を主とするギリヤークは夏の家が本居であって水辺にこれを建てた。校倉造の丸太小屋(ガハス・タフ)である。(略)冬の家は寒気を防ぐために夏の家に程近いところに竪穴を掘って営んだ。ギリヤークの冬の家は穴居である。中敷香にある故ジスカノ翁の夏の家のそばに翁が住んだ冬の家が残っている。これは夏冬のギリヤーク住居形式を知る上に於て貴重な残存物といふべきものである。ジスカノ翁の生前語るところによると冬の家のあたたかさは素晴らしいといふ。

日本人はシベリア、モンゴル、果てはカナダの人びととも血縁関係にある。狩猟を手伝ってきた犬の遺伝子を調べたら簡単に証明できるだろう。えてしてヒトは移動し続けることで生き抜いてきたが、当時の日本は安全な国ではなかった。一万八〇〇〇年前頃には、平均七度も気温が低かった。東京周辺は今の札幌なみの気候で、北海道にはツンドラが広がり、本州中部山岳地帯の高山には氷河が形成されていた。氷河期から温暖期へ移り変わるとともに極地の氷が溶けて海面が上昇し、海の水が陸地の奥まで入り込む。地球の核が燃えると同時に東は八甲田から西は阿蘇まで数々の火山が噴火していった。粉塵をまきちらし日光すら遮られる不安な暮らしも続いただろう。鹿児島県加小野田市の栫ノ原遺跡は約一万一〇〇〇年前に桜島の爆発で噴出したサツマ火山灰によって覆われている。隆帯文土器約一〇〇〇点、石鏃八点、磨製と打製の石斧約二〇点のほか、磨石や石皿などが出てきた。もっと古い時代では、宮城県築館町の上高森遺跡で五〇万年以上前の石器が発見された。(小林達雄『縄文人の世界』)火山灰、火山流が降り積もれば、川はドロドロになり、平地では住めなくなったかもしれない。だから青森の八戸にある縄文の頃の遺跡は、どれも丘の上にあり、谷間や平地に棲むことを嫌ったようだ。山で暮らす、山を中心にして明けては暮らす思想は武将たちにも受け継がれた。『久目村史』〔特別寄稿二 久目地域の中世山城〕には、富山市の高岡徹によって中世の山城の様子が書かれているが、土地意識、食糧生産法など縄文の時代と共通しているだろう。以下引用である。

一般に山城は高く険しい山上に築かれ、銭湯のみが主目的だったようにみられがちだが、実際は当時の交通路や生産地域などと深い関わりをもち、むしろその要となる場所に築かれることが多かった。例えば、池田城の場合、当時能登と氷見を結ぶ主要な道筋だった「臼が峰越え」のそばに立地し、しかも城下の小さい久米には戦国末期、市場も形成されていた。すなわち、単に交通の要衝にあるばかりでなく、地域の経済的な中心地にも位置していたのである。(略)また、仏生寺城は、高岡・能登・氷見からの攻撃に備える交通上の要の位置にあったので、守山城をはじめ飯久保城などとも連携が取れて喜ばれた。こうした状況から当時は赤羽毛には人家がかなりあり、質屋を営むもあった。これに備える治安の意があったのか、赤羽毛と土倉の途中に的場をつくり、侍たちに見張りを兼ねて、弓の技を磨かせた地もある。(『久目村史』三二〇頁)

戦国武将は人の流れが山の中にあることを知っていた。山は生活に必要なものを与えてくれるからだ。「新蔵人職綱にまつわる土地の伝説」では、武将の職綱がしたことを次のように書いている。

一粒でも多く込めを収穫できるようにするために、田の水が引きやすいようにしたり、水源を豊かにしたりすることに努めた。米以外の産物も奨励して、百姓の暮らしが楽になるようにもした。赤羽家には「串柿」をどんどんつくらせ、鉾根にはクズの根っこから取出す「葛粉」の生産を命じた。鞍骨山を中心にこのあたりの山林にはカシの木が多く自生している。これに目を向けた職綱は領内の山男たちに命じて、馬の倉の骨材用にカシの木を切り出させた。その一方で、カシの植栽を奨励し、家来たちにもこれをさせた。(略)桑院には刀や槍を作ったり、農具を作ったりする職人を住まわせた。出水の豊かな地に染物をする職人も置いた。この在所には今もその名残をしのぶ「金山の七つぶれ」の伝説が語られている。(同書三一九頁)

なお、これら三城(岩瀬城・鞍骨山城・池田城)も含め、氷見地方の大半の城郭は、遅くとも天正十三年(一五八五)までにその存続に終止符が打たれる。これは氷見地方の国人・土豪を従えていた佐々成政が同年秀吉に降伏し、それらの国人たちも一掃されたためだ。人は流れてゆき、あとから氷見地方を領有した前田氏も、旧来の山城を使用した形跡がなく、ここに氷見地方の中世は終焉を迎えた。中世の終焉は人の手によったが、縄文の人々は自然に翻弄されながら暮らした。地球全体が暖かくなり気温が上昇する「天災」を彼らは経験したのである。地続きであった北海道と樺太、本州、四国、九州が海によって隔てられるようになる。大きな湖だった大陸と日本の間の水域にも温暖な対馬海流が流れるようになり、冬には山陰地方に豪雪をもたらすようになった。移り変わる地球の上で人は暮らしを変え、人種すら入れ替え、縄文土器から弥生土器へと文化も変えていく。『アジアと土器の世界』から鈴木公雄の文章を引用すると、日本に流れてきていた絶え間ない人の流れ、文化の流れの多様さを推し量れる。

たとえば日本の縄文土器と非常に近い関係を持っているような土器が沿岸州から仮に見つかったとする。それは縄文土器と呼ぶのかどうか。あるいはその逆に沿岸州のほうにあるふるい時が日本の最も古い縄文土器と非常によく似ているという状況に生なた時にそれは縄文土器と呼ぶべきではないと行った問題が当然出てくる。そう考えた場合に、つまり縄文土器の範囲はどうやって区切るのかということが問題になる。実はこの縄文土器の範囲をどう定めるかという問題が縄文時代の研究者の中では、かなりなおざりにされているというか、あいまいなままに残されているという感じがする。(略)事実、縄文土器の中にはとても縄文土器の中には入れられないと思うような土器がいくつか知られている。たとえば九州地方の早期に非常に特殊な土器で、真四角な形を下土器が有るこれはどう考えても前後の時期の縄文土器との間に脈絡をとることが、ちょっとむずかしいのではないいかと思う。それから北海道に早期の中ごろであるが、やはり特殊な石器を伴う土器がある。石刃鏃とわれわれが呼ぶもので、この石器は明らかに沿岸州ないしはシベリアのほうと関連の深い石器で、縄文の石器にはそういうものは一般的に存在していないわけである。(三〇頁)

つまり「日本」に「縄文時代」はなかったわけで、どうも当時を指して「縄文時代」とは呼びたくない。私は代わりに、だからといって新しい言葉を使わず、縄文時代を「縄文の時代」と呼び直して使うことにする。「弥生時代」という名称に関しても、適切だとは思わない。もともと東京大学の弥生キャンパスで発掘された土器がどうもいままでのとは違うということで命名された「弥生土器」であるが、これが南方もしくは西方の民族のつくる土器の技術であるからである。弥生という言葉を使っている間は、縄文と同様に日本は「国」ではなく「村」であろう。言葉には魂がある。弥生や縄文という言葉が生み出した呪縛をとくことが、これから生まれてくる若者たちのためになる。

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弥生式の土器の特徴には「叩き技法」があると、今村啓爾は『アジアと土器の世界』で説明している。「私が訪ねた十二月頃、この地域は乾季で、日差しが強いので、女たちは高床式の住居の脇の日陰のところで土器を作っていた。図七十九は土器作りの道具である。aが叩く時に内側に当てる当て具、bが外を叩く時に使うpaddle、cが最後に文様をつけるときにつかう彫刻された棒である。」土器を通じて日本という島国に流れて来た北東の文化と南西の文化をみることができる。時代を動かすのはヒトではなく、モノであるようだ。まとめとして今村啓爾の文章を読み、日本は中国や韓国だけでなく、東南アジアとも親戚であることを確認したい。

日本では、縄文時代にはみられないが、次の弥生時代に生ると、一部の弥生土器に叩き技法が見られるようになる。弥生時代というのは、大陸との口承が活発になった時代であるから、大陸の叩き技法と関係があるのではないかと思われるけれど、これは十分に関係が証明されている訳ではない。日本で叩き技法が普及するのは、古墳時代に入って、須恵器が作られるようになってからである。これは、それまでの日本の伝統的な土器と違い、窯で焼かれている。この須恵器は日本で発生したのではなくて、韓国の加耶式土器が日本に伝わって来たものである。韓国の加耶式土器のもとは、中国の漢式灰陶というものである。この技術が日本にまで流れてくるのである。したがって、須恵器の叩き技法というのは、大陸からの文化の流れだということになる。一方さきほどのビルマの現在の土器もおなじ技術の流れをいまにまでうけついでいるわけで、時代と場所は、大変隔たっているけれど、技術的にはお互いに一つの流れをくむものであるということが言えるわけである。(アジア民族造形文化研究所『アジアと土器の世界』今村啓爾 一四九頁)

 

たてる

 

生き物は海で生まれてから陸に上がった。生きものはプランクトンのようにどこかに浮いていたり、魚のように泳ぎ回っているか、みんなで集まって暮らしている。ホタテを育てる紐を海の中に浮かせるための「浮き」を見ると、ただのプラスチックの玉ではあるが藻がつき、海綿状の生物がつき、海藻が生えたり、エビのようなミミズのようなザリガニのような小さな節足動物が、貝が、また小さな蟹やら魚もくっついてくる。人も陸の上で他の生き物たちと同じように寄り添って暮らしている。生命は付着することにあり、衣を着るのも、家をつくるのも、地球にくっつく方法だ。旧石器時代前後の縄文創世期の集落跡とされる静岡県大鹿窪の窪A遺跡では、環状に並んだ竪穴住居跡が、富士山の見える北東方向にのみ存在しない。代わりに、大小の石を同心円状に三重に並べられた跡が発見されている。山梨県牛石遺跡では大規模なストーンサークルを構築し、その地点からのみ富士山の頂をみることができる。しかも今福利恵の実地検分によれば〈僅かに移動しただけでも富士山は手前の山に隠れて見えなくなってしまう微妙な位置〉にあるという。平安時代の詩人である都良香の『富士山記』に、大噴火中(八六四年)の富士山に、鎮火祈願の使命を帯びて登った記録があるから、彼等も火を吹く富士を毎日観察していたのだろう。長野県阿久遺跡では、倒れて発見された大石を立て直すと、四つずつ向き合った石柱の間から蓼科山が望見できるという。また群馬県中野谷松原遺跡の長楕円形の墓穴は死者の頭を浅間山に向け、細長い石を建てた。古代の人々の発想を、私たちは「祭儀」だとか「信仰」という言葉で上手に理解できているだろうか。これらの遺跡から伺えるのは、縄文の人びとがもつ「ヒトでないもの」への感覚の鋭敏さである。

現代人も「柱」をたてる。その心は何か。例えば火山の様子を常に気を配るために、常に山の見える仕組みをつくったかもしれない。山を監視したのだ。木や石を置くことで変化の大きかった当時の自然現象を把握しようとした、もしくは本当に自分が住んでいる家の一部として、目に見える場所に置きたかったかもわからない。生命は他者の構造を内部に取り入れようとする。青森市の三内丸山遺跡の巨大な木柱列、金沢市のチカモリ遺跡の直径約六メートルの円を描く木柱列、あるいは石川県能登町の真脇遺跡の木柱列などは、人の感受性を刺激する。一本の柱だけでも力強いのに、更に柱が円形に立てられている。円の中心にあるものが円の外側に、また円の外側にあるものが円の中心に作用し感染するという思想は原始的な民族の踊りにもみられることはクルト・ザックスが『世界舞踏史』に書かれている通りだ。柱は「たてる」ことによってただものならぬ意味をつくる。『古事記』や『日本書紀』の神話の中でも、土地はまず矛を立てて作られた。月に旗を立てたり陣地に旗を立てることは「ここは私の場所だ」と言って外側の敵を威嚇したかもしれない。一方で内側の人間に対しては、木や石の柱は家と家、村に住むたくさんの人と人を、無意識につなぎ引き止める力になったとおもえる。動物から離れた人間は、むき出しの生活の不安から逃れ身を寄せる心の拠り所ではなかったか。だから人の目につく場所や、人がよく通る場所には特別に柱をたてたるのではないか。「津軽といえば岩木山」「東京と言えばスカイツリー」である。若しくは、演劇の舞台装置のように仕様されたかもしれない。真脇遺跡の柱は幹を真っ二つに幹竹割りにしたものを、切り口を外側にして立てられている。その外側の平面は、俳優が隠れる場所で、人びとは柱の中心部で、全方位から消えては現れる俳優の姿に目をくらませていたかもわからない。証拠が無ければ成立しないことが学問であるならば、これは学問ではない。『巨木と鳥竿』で諏訪春雄が「縄文時代には巨木信仰がさかんであった。」といって列挙したものは、石川県能都町真脇遺跡(晩期)石川県金沢市米泉遺跡(後・晩期)、石川県金沢市チカモリ遺跡(後・晩期)、富山県朝日町境A遺跡、群馬県月夜野町矢瀬遺跡、青森県青森市三内丸山遺跡である。どこも山国である。西日本では、柱は家になったのか、柱になる木材が無かったか。とにかく東日本と西日本とでは、縄文の時代から文化が異なる。日本は一つの国ではない。

生命が僧であるように、大きな柱やら石、山は集団が繋がる力であった。他方で、個人が身につけてるのは指輪や首輪といった「タマ」である。 和歌では命(イノチ)にかかる枕詞が「たまきはる」であるから、タマは命の言い換えであろう。タマは揺れるように耳や首、手首などにつけられた。ヒスイ・メノウ・水晶などの丸玉や、勾玉、管玉、切子玉といったキラキラ光る石だけではなく、真珠、貝殻、骨、牙、歯、木、土等から造られた多くの珠の類、そして串や簪等の髪飾り、首飾り、耳飾り、腕輪、指輪などがある。女だけでなく男もタマを身につけていたようだ。青森県是川遺跡から発見された漆塗りの櫛をみれば、髪の毛も、人と自然をむすびつける命の紐だったかもしれない。実際、言い伝えによれば、髪の毛の強度は相当なもので、山城である石川県の七尾城の九尺ある岩を山の尾根まで挙げたのもこの髪の毛を編んで作った紐であったという。人の心が髪の毛を語り継いできたのだ。人間が初めて手にした繊維は自分自身の髪の毛だったのかもしれない。髪の毛はヒトの暮らしを助ける「力」をもっていた。繊維が植物性のものに変わった後でも、髪の毛への信仰はかわらない。時代を超えて花飾りとなり、簪となり、現在でもそれは受け継がれた感性である。。『記紀』にスサノオノミコトが髪のモトドリや腕にたくさんの玉の輪を巻いていたことが語られている。スサノオはアマテラスが髪につけていた「八尺の勾玉」をもらって、それを噛んで空中に吹き上げて、その狭霧のなかからアメノオシホミミノミコトを生んでいる。勾玉が命のカタチに見えるのは私だけではないだろう。タマの起源と同様に、屍体の或る部分が呪力を有し、または薬剤として特に効果があると考えた民俗も、かなり大昔から行われたことである。例えば、我国の古代において男女ともに胸間にさげていた曲玉なども、その起源は腎臓を生命の源泉としたところからこれを乾かし固めてさげていると、災厄を払うと信じていたのが、後に玉を代用するに至ったものである(中山太郎『タブーに挑む民俗学』)。現代と同様に縄文の人々の社会も絶えず変化していた。時代を経るにつれ、装飾品は命の強さを表すものであるよりかは、官位十二階のような社会的な地位を表すシンボルとして認識されていく。

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やもすれば、髪の毛一本一本が大切な命であった。日々命を喰らい、命を燃やしていた縄文の人々は、目の前に広がる世界を生き物の集合体としてみていたようである。そのことは、当時、大陸から渡って文字やら稲作技術をもってきた人々も同じであったようだ。下毛野国の防人が次のように歌っている。

松の木の(麻都能気乃) 並みたる見れば 家人の 我を見送ると 立たりしもころ(『万葉集』巻二十・四三七五)(道中、松軒の立ち並んでいるのを見ると、家のものたちがじぶんを見送ろうとたっていた、その姿そっくりだ)

西郷信綱は『日本の古代語を探る』で「木は大地の毛であった」という文で次のように述べている。

「 毛野国の毛はあくまでも「毛(け)」であり、そしてそれは同時に「木(き)」でもあったはずだ。そして周知のように、下毛野国は近代になると、栃木県へと変貌する。駿河国の防人も「真木柱 ほめて作れる 殿のごと」(巻二十・四三四二)の「真木柱」をマケバシラ(麻気婆之良)といっている。」 「『日本霊異記』(下巻序)に「土山の毛(くさ)」と見え、草もまた毛であった。」また別の所で西郷は、の中で、「広瀬大忌祭・竜田風神祭・道饗祭等の祝詞に、甘菜・辛菜などと並べて野に住む「毛(ケ)の和物(ニコモノ)・毛の荒物」(獣)を供えるとある」(「イケニへについて」)と書いている。『日本書紀』にもスサノヲを次のような話がある。韓国渡ったときのことだが、「スサノヲ……乃ち鬚髯を抜きて散つ。即ち杉に成る。又胸の毛を抜き散つ。是、檜に成る。尻の毛は、是柀に成る。眉の毛は是櫲樟に成る。」(神代紀上第八段第五の一書)。

木は毛であった。荒ぶる神スサノヲが退治したことで有名なヤマタノオロチ(八跨遠呂智)は、『古事記』の中で、まるで現実の山の姿のように記されている。

出雲の国(島根県)の肥の川上にある鳥髪の地に天降った須佐之男は、その上流で二人の老夫婦が一人の娘を中にして泣いているのを見るける。わけを聞くと、娘の櫛名田姫を「彼の目は赤加賀智(赤いホオズキ)のごとくして、身一つに八頭八尾有り。叉其の身に蘿と檜椙と生ひ、其の長は谿八谷峡八尾に渡りて、其の腹を見れば、悉に常に血爛れつ

須佐之男は、自分の身分を打ち明けて、櫛名田姫を妻にもらう条件でオロチを退治しに行き、オロチに酒を飲ませて眠り込んだところを斬り殺してしまう。ヤマタノオロチは八つの頭と八つの尾があるうえに、肌には苔がむし、ヒノキ・杉・松・柏の木などが生い茂っていて、腹からはいつも血が滴り落ちていると描写されている。現代でも山を表すのに尾根、鞍、山腹、すそ、ふもと、谷間といった人間の衣服や身体を表す言葉を使うのと同じ感性だ。このヤマタノオロチの神話を解釈する方法はいくつかある。苔や杉の皮を身につけ、生け贄を神に捧げる習俗をもつ民族と会食した須佐之男は酒にほろ酔いした八人の頭と八人の下っ端を殺したとも読める。オロチの支配下にあり、物忌をしていた櫛名田姫を巫女とする支配体制を確立していた一族を殺したのかもしれない。大和朝廷が征服した人たちは隼人、熊襲、土蜘蛛、みな動物の名前をつけているから、ありえる話だ。

兎にも角にも、山の木も谷もすべて一つの生き物の体の一部だとみる感性が神話の書き手にはあったことは間違いない。もしくは、山の力があまりにも巨大なので、力の強さを説明するのに山で喩えたのかもわからない。木々のざわめきは山という生き物の身震いであって、山は冬になると毛がやせ、抜け落ちる動物であった。ケガレとは、毛がおち、木がおち、気が落ちることであって、命が死に近づくことである。ケガレは汚れではなく、気が枯れることであった。『日本民俗文化体系四』の序章で宮田登も同じことを言っている。ケガレの逆の状態はハレルであろう。腫れ物の充ちた状態を指して、悪い言葉ともとれるが、晴れる、張りのある状態を指したのが原義の「ハレ」であり、ケガレはその逆である。晴れ渡る空を飛ぶ鳥も、猪も生きているものは死ねば地面に落ちる。倒れる。縄文人が木を柱にして立てたのも、自分の命のためには惜しめぬ苦労であったはずだ。木ばかりでなく、石もヒトの手で立てられることによって命を帯びた。時代は平安の世になるが、『作庭記』では冒頭に「石を立てん事、まづ大旨をこころふべき也」と書き出し、「石をたつるには、多くの禁忌あり。一つもこれを犯しつれば、あるじ常に病ありて、つひに命を失ひ、所の荒廃して必ず鬼神のすみかとなるべしといへり。」と注意を即している。立てるということは、起すことであった。 だから動物のなかでも、蛇や熊、梟などの身を起こす生き物が力をもつとされ、崇められている気もする。『アイヌの信仰とその儀式』N・G・マンローはアイヌの葬儀に使われる木の柱に関して書いている。

墓標を飾る紐は、墓標を縦にして巻いて縛り付けられています。墓標を横に倒しておく事は非礼な事とされているからです。私の住んでいる地域では、墓標は先祖を祀るための〈シュトゥ イナウ〉(棒状のイナウ)に代わるものと見なされています。この墓標の果たす機能は、故人を追悼するためのしるしであるというよりは、むしろこれは故人の霊を悪神から守るためのものであると考えられます。

立てるということは、あらゆる「もの」に命を吹き込む方法である。立つといえば、男の生殖器がある。これは立てた時にしか役目を果たさない。『女房と山の神』によると、男の性器はサッタテ、サイタチボウ、サキンタマという名称だといい、菅江真澄も秋田の大湯付近のマタギがこの名を用いている事を書き留めている。『塩尻』には熊野道者の用語として男をサオ、女をイタと呼ぶ事が述べられている。立てるという行為と、この勃起を連想すべきだろうか。狩猟民族のブッシュマンが、男性は一日中ほとんど男根を勃起させた状態にしているという報告や、古代の洞窟にある壁画の絵を男根が勃起を描いたものだとすれば、勃起によってヒトがケモノと同等の状態に、生命力を拡張できるのかもしれない。倒れていてはこの能力を発揮できない。いきりたつ、いらだつ、はらたつ、たつというのは、力がみなぎっている様子をあらわす。横たわっているものよりも、立ててあるものの方が、ピンと張っている方が、ヒトやモノエネルギーは高くなる。山崎省三は立ちはだかる石柱の印象を描く。

両側に断崖が険しく聳えている、出羽の国の温海の街道沿いでは、いくカ所にも、岩から海へシメナワが十字に張られていた。。このシメナワの下には、芸術的に掘られた木の男根が置かれており、道を飾っていた。それらは非常に高く、七、八フィート(二メートル余)のながさがあり、直径はおそらく三、四フィート(一メートル前後)あったろう。これは私には非常に不愉快に思われた。そこで私は、住民になぜこういうものを祀るのか、と尋ねた。彼らは、これは太古の風習です、と答えた。人々はこれをサイノカミとよび、それを毎年、月の十五日に手入れする。と述べている。(『道祖神は招く』)

木を立てて並べれば柵や門になる。柱は人間にとってはごく自然に、内と外を意識して自分の身を護る方法である。海中で生物が膜をつくり出したときから内と外の戦いが始まり、今も続いている。縄文時代に作られたとされる環濠集落は、外部の人間から身を守るためでなく、むしろ熊、狼、猪などのケモノの縄張りをもらい、生存場所をいただくことから暮らしをたてた。ケモノの跋扈する世界に檻を造り自分から入って行ったのが人間である。ヒトとケモノの境は厳密に決められており、犯せば殺される。山と里の境界があいまいになれば、三毛別羆事件のように人は動物の力に圧倒されてしまう。人間と動物の境界ははっきりときめなければならない。根深誠の『山の人生』ではマタギが山に入る時に行う儀式を次のように述べる。

福島県奥只見では集落から山に入るどの沢筋にも三本に枝が分かれた股木がある。この巨木(多くはブナ)を山の神の木として境界にした。狩人が熊狩りに出かける際は、この木の前で駒形を奉納する。参加した人数だけの駒形を束にし、駒の首筋に短刀を突き立てて山の神の巨木に打ち付ける。山形県小国町徳網では、狩りに行く際、山入りの場所に比高差六メートルの巨大な一枚岩があり、この中央部に山の神の祠が作られている。御神体は粘板岩で太刀の形をした岩である。ここで狩人がお神酒を飲み、山の神様に祈りを捧げた。ここから里と山を区別する山言葉となる。山形県小国町の石滝集落は山に入る場所(境)が杉のこんもりとした森となっている。もりの中に小祠があり、太刀形の石を御神体とした山の神が祀られている。

素性の知れぬ他者の存在は、不安を産み、不安は神をつくり出す。命を落としかねない危険な山は、毛であり、木であり、髪であると同時に神であり動物あった。財産を守るための家ではなく、他者との絶え間ない接触を避けて身を守ることが家の本来の機能である。野山の立木に枝やら草を葺き、洞窟のような窪みを作ることから始まり、平野に山の代わりに柱を立てることから、屋根をつくった。人は柱を立てていなければ、支えがなければ天を覆う事はできない。「屋」は「室」であり、「根」が「柱」と理解すれば、家を立てること、屋根をつくることで人は動物と身も心も決別することになる。毛のない人間は木をつかうしかなかった。竪穴式住居の典型は一本の太い柱に細い木を立てかけて円錐型に並べてつくる。これが後に二本の太い柱の間に木を掛けて梁とし、そこに木を立てかける形もでてくる。この構造が現在の鳥居、門の原初形態である。もしくは門が先につくられたかもわからない。家は、現代に暮らす私たちの想像を越えた機能を担っている。七戸の遺跡発掘現場にたまたま居合わせた時、キレイに割られている土器片だらけの家があったので発掘中の人に聞いたところ、「家を造るために掘り下げられた場所を、捨て場として使っているんです。この家は人が住んだ後に、使われなくなったのでしょうね」と云っていた。家は柱の役割を兼ね備えていた。それは今でも人身御供、棟上の儀礼に残されている。 立てるからには祀らなくてはいけない。柱を生かし、役割を果たしてもらうために、供犠、人柱が行われた歴史がある。南方熊楠の研究がこれに詳しい。

(一)家光将軍のとき、日本に在った蘭人フランシス・カロンの記に、諸侯が城壁を築くとき多少の臣民が礎として壁下に敷かれんと願い出ることあり。みずから好んで敷殺された人の上に立てた壁は損ぜぬと信ずるからで、其の人許可を得て礎の下に堀った穴に自ら横たわるを、重い石を下して砕き潰さる。ただしかかる志願者は平素苦役にあきはてた奴隷だから、望みのない世に長らえるより、死ぬがましてふ料簡でするのかも知れぬと(一八一一年版ビンカートンの『水陸旅行全集』七巻、六二三頁)

(二)「清水兵三君説(高木敏雄の『日本伝説集』に載す)には、雲州松江城を堀尾氏が築くとき性交せず、毎晩そのへんの美声で唄い通る娘を人柱にした。」「井林広政氏からかつて、伊予大洲の城は立てるおき、御亀てふ女を人柱にしたのでお亀城と名づくと聞いた。この人は大洲生まれの氏族なれば虚伝でもなかろう。」「横田伝松師よりの来示に大頭上を亀の城と呼んだのは後世で、古くは比地の城と唱えた。最初築いたとき下手の高石垣が幾度も崩れて成らず、領内の美女一人を抽選で人柱に立てるに決し、オヒジと名づくる娘が中って生埋され、それより崩るることなし。東宇和郡多田村関地の行けもオセキてふ女を人柱に入れた伝説ありと。氏は郡誌を編んだ人ときくから特に書付けておく。(南方熊楠「人柱の話」)

(三)埼玉県北葛飾郡栗橋停車場の近くに、静御前の墓がある。墓の近くに、一言の宮と云って、小さい社がある。昔、此停車場のあたりは、利根川の堤に成っていた。今でも堤の一部は残っているが、或年のこと、洪水で此堤が破れて、水がどうしても止らず、畳を何十枚入れても、少しも役に立たないので、所の者が困っていると、子を負って通りかかった一人の女があった。それを見て、「ひとばしらに立てて仕舞へ」と一人が云出すと、早速皆の者が、「さうだ、それがよい」、と云って、其女を捕へて、無理に破れた場所へ投込んで了った。其時に女が、「頼む」、とか、「助けてくれ」、とか一言云ったさうだ。人柱の御蔭で、不思議にも水が止った。後で、村の者が女を不憫に思って、宮を立てて祀ったのが、一言の宮である。(埼玉県北埼玉郡東村平城生君)(『日本伝説集』高木敏雄)

長野県の諏訪大社で行われる御頭祭では鹿の頭などの生々しい贄が供えられるが、話によればかつては人も神の前に捧げられていた。

御頭祭で本宮から前宮にかつがれて、十間廊に安置される神輿の前には、今も五色の幡で飾られた御杖柱という檜の柱が立てられるのだが、古くは其の柱に御神とよばれる紅の衣を着せられた子供が縛りつけられ、その場で撃ち殺されたという伝承が存在することである。(『芸術新潮』第三号)

古き時代に子供を餌として獲物をおびき寄せた経験が儀式の中で再現されているかもしれないし、 生命力を維持するためには誰かが死に、喰らわなければいけないという自然の理を縄文人が知っていたから行われた儀式かもしれない。命のためには、命を喰らわねばならない。命のためには、命を差し出さねばならない。理解不能な世界で暮らす不安を晴らすための、代価なのだろうか。ヒトの棲家は柱で支えられている。柱のためにも何かを捧げねば不安である。柱も生き物であるのだ。日本原住民の生き残りである北方狩猟民族のヤクートは「昔、天幕の柱を立てる時、クミスと馬の血を塗りつけた」(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』三五二頁)」という。大工が行う神事の中でもモノを供える例がある。昭和五十三年に埼玉県桶川市川田谷の町田四平氏宅の母屋が改築のため解体された際、屋根裏より発見された古い藁人形。 東北地方の一部で今も建築儀式として大工が棟上げの折に祀る雛のことである。「棟上雛」とか、それをいれるお雛箱などの名で知られているが、山形県・福島県・宮城県の三件から比較的多くの例が報告されている。棟上げの時の飾り物の中に人形がある例をはじめに報告したのは、昭和十六年の『民間伝承』四巻二号の能田多代子氏の報文だろう。これによると青森県三戸郡五戸町近在では、棟上げに「弓矢、白扇、神酒、潮、五穀(籾、大豆、小豆、蕎麦、稗の五種)、櫛、かもじ、人形または女の衣装と帯。(竹成)、鏡、針竹、萱三把、ハリナワ、ゴンボナワ各三把づつ」などが供えられるという。また片倉信光、昭和四十八年の『民間伝承』三七巻二号に明治三十三、四年頃に立てた家から出てきた箱の中に男女の紙雛・角形の鏡・かもじ(毛髪)・櫛・かみそり・鋏などがはいっているという。この人形は「ちょんびな様」といわれているらしい。山形県の棟梁にこの「ちょんびな様」の由来を聞いたところ、次のような説明であったという。

「昔、大工が柱を短く切ってしまった。どうしたものかと迷って居たら、女房が「枡形」を組んだらよいと教えた。それでうまくいったが、女から教わったのは恥だと女房の首を落とした。そしたら首が来たの方へ飛んで行った。それで棟上げにはヤバネを来たの方に向けてつがえ、チョンビナ様を飾り、女の物を供えるようになったのだと。」(『怪異の民俗学3 河童』)

『富山民俗の位相』ではチョンビナ様の語源かと思われるチョンナを説明する。

材料が揃うと大工を呼んでチョンナハジメをする。大工仕事がだいぶ進んで、立ち舞いの目安がついたころ、ジガチ(地搗)とイシカチ(石搗)をする。ジガチは地面を搗き固め、イシカチは基礎石を据えて搗くもので、それぞれ一日ずつかかる。村中の人や親類の物が大勢集り、音頭とりの歌にあわせてはやしながら賑やかに搗く。普通はサルコガチであるが、大きい普請では櫓を組んで撞木で搗く。(略)金沢では「手斧始め」とかいてちょんのはじめと読ませている。『平村たいらむら)史』にはチョウナ(チョンナ)の説名がされており次の如くである。「チョウナとは手斧のことで、曲がった木で柄を造った鍬のような刃物。丸太を削る時に使う。台鉋が無かった頃はチョウナで丸柱を削り出し、槍鉋で仕上げた。以前は「チョウナが使えるようになると大工も一人前になった」と言われたものである」という。(宮本眞晴『加賀・能登の建築儀礼と民族に関する考察』)

現在神社の神主さんが主となって行う地鎮祭も、もとは方相氏が行っていたものが陰陽師の手に渡り、陰陽師なき時代は大工の頭領が行い、現在では神主が行うに至るのである。家を建てた後に「礎石」と刻まれた石を置く事も在る。これは「地鎮」のための石であろう。アイヌや本州の大工が新しく家を立てた時に行う祀りのときにも供え物が用意され、天井に向かって矢が放たれる。今は儀礼として残された振る舞いであるが、人為的に立て、つくり出した木の魂が災をひきおこすかもしれないという心がかつてあったのだろう。

 

たべる

柱は穴をほって立てたが、食べ物は穴から生まれてくる。
土を掘り進んで、実を結ぶ。縄文の人々はクルミやらクリの木の実を食べていた。現代でも日本は国土の三分の二が山といわれるほどであるから、当時から森の国だった。戦後にスギやヒノキなどの建材ばかりが植樹された人工林が多くなったが、かつて実の生る木いわゆる広葉樹はあそこの山そこの山にあった。

『日本史大辞典』の「縄文文化」の項では、クリ、クルミ、トチ、各種ドングリ類など六〇種以上発見されていると書いている。東日本のナラ林帯では、前期にはクリ・クルミ、前期後半・中期にはクリ・クルミ・ドングリ、後・晩期にはクリ・クルミ・ドングリ・トチの実の組み合わせが確認されている。この変化はアク抜き技術の確立過程と対応していると書いてある。クリの木はタンニンを含んでいるために保存がよく、鉄道の枕木にも使われるほど耐久性、耐水性が高い。三内丸山は、直径一メートルのクリの柱だし、真脇遺跡の環状に立てられた柱もクリである。また同じ青森県の八戸市にある是川遺跡は縄文時代前期から晩期にかけての遺跡で、晩期初め頃に作られた水さらじ場遺構からクリ材が確認されている。この水さらし場を使って堰き止めた沢水の上澄みを導き入れ、トチのアクを抜いた。近年では佐藤洋一郎が『縄文農耕の世界』ではクリのDNA分析からクリが管理栽培されていたことを述べている。『日本書紀』持統天皇七年(六九三)三月丙牛条には、「詔して、天下をして、桑・芋・梨・栗・蕪とう等の草木を勧め殖えしむ。以ちて五穀を助くなり」と書かれる以前から縄文人は食べていたのである。(今井敬潤『栗』)

青森県で遺跡を巡っている途中、民家に御世話になった時に、家で作っているという葡萄を食べさせてもらったことがある。生まれたときから葡萄の木があったというが、もっと昔からあったのではないかと思えて不思議だった。栗は米を食べる以前から主食であった。『常磐国風土記』の筑波郡の冒頭には、古老の伝承として、尊い神が諸神たちのところを巡幸して、駿河国の福慈丘に至った時に、日が暮れて宿をするとことを請うたが、福慈の神が
「わせ(新栗)の新嘗して、家内物忌せり、今日の間はねがはくは許し堪へじ(お宿をいたしかねます)」と断ったので「汝のすめる山は、生涯のきはみ、冬も夏も雪ふり霜おり冷寒しきり、人民登らず、飲食な奠りそ」(山神に飲食物を供えるものがないぞよ)とつげたとしるす。今度はつくばのの山に登り宿を乞うと、筑波の神は「新嘗の夜だけれどお受けしましょう」

といってもてなした、それでミオヤ神は喜んで、次の歌を詠んだ。

愛しきかも我が胤 巍きかも神宮 天地の竝斉しく 日月と共同に 人民集ひ賀ぎ 飲食富豊く 代代に絶ゆること無く 日に日に弥栄え 千秋万歳に 遊楽窮らじ

新嘗祭の起源はさておき、新嘗祭が民間で行われていた例が竹内勉の『民謡 その発生と変遷』に書かれている。岩手県盛岡市周辺の農家で十一月二十三日の新嘗祭りに、その年収穫した農作物を床の間や神棚へ供え、「新穀」と呼ばれる祝い唄を、その家の主人が歌う風習である。歌詞は、

〽新穀いちの お田の神は
なにやら枡を 捧げた
〽古や米を 計るとて
黄金の枡を 捧げた
〽枡の桁は 尽きるとて
ふるや米は 尽きまい

といったものである。古老の記憶によると、かつては、この新嘗祭りには、神楽を演じ、その折この唄を歌っていたが、後には次第に略式となり、神楽抜きで唄だけになったという。

木の実と言えば、桃も発掘されている。桃は、縄文時代の、今から約六〇〇〇年前ごろの長崎県の諫早半島の付け根にある伊木力遺跡から出土している。その後弥生時代には急速に西日本からその栽培範囲を拡大していき、弥生時代後期には、長野県、東京都、群馬県、新潟県にまで達している。桃には薬用がある。蕾も花も、葉っぱも、若い枝も、種子(仁)も、根っこも、樹幹から分泌される樹脂も、みなクスリとなるのである。蕾は乾燥させて利尿剤に、花はごま油につけて洗顔に使えば肌が美しくなる。種子の仁は桃仁とよばれ、浄血剤であみなクスリとなるのである。蕾は乾燥させて利尿剤に、花はごま油につけて洗顔に使えば肌が美しくなる。種子の仁は桃仁とよばれ、浄血剤である。この樹木のもつ寒冷地でも果実をたくさん実らせる豊産性から、穀物類の凶作時の食糧として重用しされていたと考えられる。(有岡利幸『桃』)奈良県の三輪山に西側にある纏向遺跡は、まだ全体の約十五パーセントしか発掘調査されていないが。祭りと関連があると思われる木製の仮面や水の祭祀遺構のほか、二七〇〇個ばかりの「桃」の種がみつかっている。寺沢薫は『畑作物』で「弥生時代前期から古墳時代前期初頭にかけての遺跡から出土した畑の果樹は、桃、李、梅、柿、梨の五種で、最も多数の遺跡から出土している果樹は桃である。また柿以外の果樹四種はすべてが中国原産のものばかりであり、大陸からの渡来人が戸呪の種子と栽培技術、さらには果樹に関わる分野をも伝えていたのである」と書いている。『古事記』上巻に、イザナギノミコトが、黄泉国を訪問してイザナミノミコトの肢体に蛆が集っているのをみて逃げ帰る神話がのこっている。八柱の雷神に黄泉軍(黄泉国の軍勢)を加えて逃亡するイザナギを追わせたおりに「桃三箇」をもって撃退したというのも、邪気払いの聖なる果実とみなされていた事を物語っている。桃に秘められた呪力は、大陸から伝えられたのだろう。道教でも桃は仙人の食べ物といわれていることもあり、日本でも特別な呪具として度々登場する。

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日本には、女性の穴から食べ物が生えてくるという神話がある。作物の起源を語るこの神話をつくった大和の人達が、どうも神の名前にこだわっているのが気になる。神話ではなく、説話と呼ぶべきであろう。

八百万の神は共に論議し、 速須佐之男の命に、千位置戸[物品供出の刑]を科し、 また鬚を切り、手足の爪を抜き取り、 神の世界から追放しました。
また、食物を大気津比売の神に乞いました。 
すると、大気津比売の、鼻・口と尻から種々のおいしい物を取り出し、 様々に調理して具え、献上する時、 速須佐之男命は、それを窺うと、その様子は汚く、そのまま献上しようとしていました。 そこで、その大気津比売の神を殺しました。すると、殺された神の身から生った物があり、頭には蚕が生り、二つの目には稲が生り、 二つの耳には粟が生り、 鼻には小豆が生り、 陰部には麦が生り、 尻には大豆が生りました。 
そこで、これらを神産巣日御祖命に取らせ、ここに作物の種としました。(『古事記』)

オオゲツヒメという名前も漢字で「大毛」とも「大木」ともとれる。木も毛も「気」になる。ハラが減っては戦はできぬ。食べ物を取って来ては食べ、殺しては食べる事で我が身を養う。ハラとは、動物、植物、岩石、湧泉や川が混じり合っている「草木みなものを言う」世界である。ハラから食べ物を取り出し、自分のハラに入れる。獣の肉や魚の肉だけでなく、栗、ドングリ、クルミなどの木の実を集めて食べる。火で焼いて食べる、火と土から土器ができるようになると、水を加えて煮て食べれるようになる。姫とは火女であろうか。食べ物は、人の手で摘まれて後、もう一度穴に戻る。人は穴を通って生まれ、穴を通して生き、穴を通じて帰る。暮らしとは姿を変えても穴を出入りすることの繰り返しである。女性の体の中から穴を通って生まれて来た命を、自分の穴の中に入れる。命は腹の中に満ちていく。

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縄文の時代に生きる人々にとって、土器は命を新しく生み出す場所であった。ハナから息をし、ハラからとってきた食べ物を食べる穴。そこから人間は世界と繋がっている。顔に見立てればそこはヒトのハラである。女性のハラは新たなヒトを生み出す大地だ。とすれば口は陰部にもつながる。この土でつくられた「器」が貯蔵のために日陰におかれたり、火にかけられて食物の調理に使われたり、いざいただくときには穴の中から人々は死んだもの、これから生まれてくるものの命の力をもらうようにみえる。食べるという行いの中に、命の深さと広さを感じる。火を使い、煮ている間の「待つ」というのも、こうすると神聖な行いのようにおもえてしまう。閉ざされていたアサリやハマグリ、シジミ貝も殻もあけることが出来る、木の実のアクを抜くことも出来る。土器は食の文化革命を起こした。日の陰る冬に命をつなぐのも、木の実を蓄えた土器であったろう。地面に穴を堀り、フラスコ状にした壁に粘土をぬり火を焚き、穴全体を貯蔵用の土器として使った。私が実見したのは青森であったが、西日本にも同様の保存法があるかもしれない。これにより人の数も増え、ヒトの寿命も延びたに違いない。社会が大いに変わった。知識が蓄えられ、物語を語る余暇も生まれただろう。

土器は現代人の考えるような加工、貯蔵の用をたせればよいものではなかった。時代を経るごとに複雑になっていく土器の模様が、「土の器」をつくり出した縄文の社会、縄文の人々の心の変化を見せてくれる。紐の縒り方も変わり、掘り方も変わり、ぼこぼこと突起が付けられる。そこには流行もあり、糸魚川のヒスイを日本全国大陸にまで運んだ縄文人によっても各地の土器が往来し、かたちを変えていったのだろう。「この土器、最近交換した酒が入ってたんだけどさ、超イカしてね?」という会話が聞こえてくるようだ。浮世絵をみつけた西洋人のように、山を一つ越えたムラからやってきた土器の模様に驚ろき、真似る。言葉も、血も、習慣も、食べ物も、あらゆる者が伝播し交流して混ざり合っていった。コテコテした飾りは何かの文字なのか。記号なのか。鈴木公雄は『アジアと土器の世界』で次のように述べている。

どうしてこんな不思議な形をした土器を使うのだろうか。それぞれのご家庭の食器棚を頭の中に浮かべていただきたい。こういう波をうった口をもっている器というのが、われわれの使う食器の中のどういう部分にあるのか。たとえば鍋には絶対こんな形はない。(略)特に図11の土器などは、四つの飾りがあり、そこにかなりごてごてした装飾が有る。この土器の底部はかなり小さいので、置いておくと不安定になる。これは一説に寄ると地面を彫りくぼめてそこに土器を備え付けたのだという考え方もある。そういうふうに使えば別に不安定ではなくなるのだが、すべての土器がそのように使われたとすると、これは動かさないので供えつけて使う土器だということになる。すべての縄文土器がそういう形をしているかというと、実はそうではない。というのは、こういう波形の口縁をもった土器が煮炊きに使われている。なぜそれがわかるかというと、吹きこぼれがいっぱいついていたり、火が当たってススがいっぱいついている。あるいは土器の下の部分が火力で焼けただれている。そういう土器がたくさんある。だから波形の口縁を持った土器も実際に煮炊きに使われているのである。(略)これがなぜかがわかると非常に面白いことになるのではないかと思うが、現在、適当な説明が出来ない。ただし縄文人たちは非常にこの器形を愛好しており、縄文土器のごく始めから終わりに至るまで一貫して存在する。つまり一万年近い間ずうっと続いていた。こういう一定の土器の形を長い間持続させる例というのは、ほとんど世界の他地域の土器には例がない。これは縄文土器を世界の他の土器と比べた時に、一番大きな特徴の一つであるというふうにいえるかと思う。(三九頁)

人間の暮らしは火にかけられてゴトゴトと煮込まれているようだ。時代を遥かに超えて現代の私たちにも驚きを与え、様々な物語を教えてくれる。例えば土器に巻き付けられた模様は「蛇」のシンボルだと言い切る人がいる。蛇は実際、土の中から出てきたり、水や土に関係がある。日本では蛇の名前も「おろち・みずち・いかずち・かぐつち」など様々で、この生き物に多くの関心があったのだろう。蛇は川添登氏の言葉によると、「地に住み抜け殻を遺して新しく生まれ変わる蛇の生態は、不断に甦る地母神の映像にふさわしかったのでしょうか。蛇は春山から現れて田の神となり、秋には再び山に帰って山の神となる」とのことだ。日本人の心に蛇が潜んでいることを吉野裕子は『蛇』で詳しく述べている。だが蘇るのは蛇だけではない。私たちは土器の模様に、人の心の影の深さを見なければならない。そもそも、土器に模様を描く心以前に、身体に刺青を刻み込む習慣があったと私は考える。

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縄文の時代の人々が、果たして日本の原住民であった。そして彼らはどこからどうしてか、暮らしに土器を役立てるようになった。土器をつくる心には「模倣」があったとされるが果たしてどうだろう。「縄文土器のモデル」と題した章の中で、鈴木公雄は次のように述べている。

そうすると一つの考え方として、土器をつくる以前に、あるいは土器をつくっている時でも、何かほかの容器から形をかりてきてつくることがあったのではないか。土器については全くどき独創の形だけであるのか、それとも一緒に使っていた他の器物の形を真似たのかどうかというのが、器として土器をみる時の興味になるわけである。(略)つまり前から使い慣れていたものの形や特徴を新しい者をつくる時にもひきずり込んでしまう。こういうことが人間が道具を使う時によくやることである。竹のザルの代わりにプラスチックのザルをつくっても、やはり竹の節目をつくってしまう。節目などなくてもいいわけである。けれどもプラスチックのザルにわざわざ竹の節をつくるということをやる。(略)当時あったであろう他の器物を考えてみると、考えられるものとしては、皮袋、これは完全にあっただろうと思う。そのほかにはおそらくザルがあったろう。(略)それからこわいのは、自然のもので陽気になるものがある。例えば外国の例ではダチョウの器を陽気にしている例がある。これは大きくてわりあい丈夫である。どうもそういう地域の土器に似ているものがあるのではないかという議論がある。ほかにヒョウタンのような植物を利用した容器が有る。ただヒョウタンといった場合に、千成ヒョウタンのようなものは品種改良に夜新しい形で、むしろ本来はトウガンに近いものである。へたのところを切り中をだすと、容器になる。当時にあった自然なり、人工の器ものを真似てつくるということが、一つの土器のモデルとして考えられる。こういうものを植物模倣土器とか、器物模倣土器という言い方をする。それが土器の起源なのではないかという説が、かつてあった。その点で注目されるのは、縄文土器の古い所の土器に比較的とんがり底の土器が多いということである。つまり平底の土器がない。砲弾形をして底がそのままでは立たない土器が非常に多い時期がある。(アジア民族造形文化研究所『アジアと土器の世界』鈴木公雄 三五頁)

その中にあっても最も大量に生産され消費されたのは、深鉢の器形であった。極端な言い方をすると、深鉢一種でも縄文土器の用は足りたのだというふうに私は考えている。あとからいろいろな器形が加えられたけれども、それらは縄文土器の形の本質的なものではない。文化発達に連れて付け加えられた要素であると考えられる。そういういみからすれば弥生土器と縄文土器とは明確に違うと言える。弥生土器は深鉢形の他にもう一つ型の集約して口の開いた壷という形態の土器が当初から必ず伴う。壷という明確な器形がでてくるのは、縄文時代の終わりごろ近くである。それまでは壷という器形は縄文土器のレパートリーの中には全く入っていなかったといえる。(略)そういう土器の器形(深鉢一種類で押し通した)構成をもった文化というのは、極東、シベリアいわゆる北アジアの土器の中にある。この点で縄文土器というのはシベリアから北アジアにつながる狩猟採集民の土器の流れの末端にある土器だということは疑いないわけである。農耕民の土器になると壷と鉢を併用するという形になる。(アジア民族造形文化研究所『アジアと土器の世界』鈴木公雄 三八頁)

時代は流れ人々も流れてくる。「縄文土器」をつくる人々の大地に、稲作の技術とともに「弥生土器」を持ち込んだ人たちがやってきた。それは西日本から東日本へとやってきた。弥生土器をつくる技術が入って来たのではなく、明治時代の文明開化のように、社会全体が変わっただろう。その時縄文土器は「野蛮」といわれて弥生の人々の手で禁止されたのか、それとも「スマホ」のように人々が「弥生土器」に乗り換えたのか。八岐大蛇を倒したヤマトタケルは、蛇を信仰する人たちも一緒に殺したのか。西日本の稲作文化、弥生土器が東日本に流入したことと、大和の手による東日本の民族支配つまり蝦夷征伐は、同時進行したのだろう。北海道では弥生土器がなく、擦文土器という別種の土器が使われるようになるのも、大和が北海道までいかなかったことを物語っているかもしれない。「縄文」が「弥生」に移り変わる様子を、縄文によってではなく文字によって物語ったのが稗田阿礼という名の女性であり、太安万呂がそれを書き取り、日本の土壌に新しい柱をたてた。土器と運命を共にしてつくられてきたドグウも、姿を消した。

めぐる

太陽は四季をつくり、昼と夜をつくる、生命にリズムをつくり出す。生長しては衰え、死んではまた生まれる。縄文の人々が太陽と共に暮らしたことは当然である。夏至の頃の筑波山の日の出を拝したと推測される栃木県寺野東遺跡の環状盛土遺構、妙義山の春分の日の入りを意識した群馬県野村遺跡、群馬県富岡市の大桁山の夏至の日の入りと群馬県中野谷砂押遺跡がある。 三内丸山遺跡では、北東から南西にかけて並ぶこれらの六本の柱の中央から、夏至には太陽が昇り、冬至には太陽が沈む。しかも、柱の北東方向に高森山、南西方向に岩木山がそびえ、そのそれぞれから太陽の浮き沈みが見える構造になっている。縄文人でなくとも、人は一年を太陽という生き物に合わせて太陽と共に生きている。太陽が強くなる夏、人も動物も植物も生い茂って満ち満ちとする。かつてアルタイ諸族には太陽が8つあったという伝説があるというが、本当に「あった」のかもわからない。当時は月日の動きに気を配りながら宇宙のリズムを体の中に組み込むように暮らしを立てていた。カレンダーの日付ができる前、人は自然を観察して季節を知った。草木が新緑を出す時、青森県五戸付近では「田打桜が一杯咲けば世の中よい」といわれている。田打桜は白木蓮のことで、ちょうど新暦四月末頃の田打ちと来に咲き始める。「うつぎの花が一杯咲けば世の中よい」ともいわれている。長野県北安曇地方でも「こぶしの花がよく咋と豆が豊年だ」などといい、秋田県角館地方ではコブシを種蒔桜とよび「上向に咋とその年は天気、横向は風邪、下向は雨」などといっている。真脇遺跡のある富山湾で大正まで行われていたイルカの猟を始めるのも「藤の花の咲く頃」であった(『真脇遺跡』)。今でも九州の唐津地方にのこっている「ユリの花とウニ」という言葉を渡辺誠は採集している。この意味は、ユリの花が咲く頃になると、ウニが卵をもっているというのである。こうした言い伝えは、縄文人の社会にも数多くあったと思われる。ということは、土器作りにも季節があったと思われてならない。一番火の力が強まる夏だっただろうか、新しい太陽が巡ってくる春だったのだろうか。夏祭りに火を燃やし川に流す、もしくは火を担いで流し歩く東北の風習も縄文時代から続いているのかもわからない。ケモノもサカナも、木の実も山菜にも旬がある。なによりもよく季節を知り、生き物を知り、その利用法を知っていたから、旬のものしか食べて気を養い、暮らしていけたのであろう。つまり命に溢れている生き物しか口にしなかった。猪の牙に見られる成長線からも死亡時の年齢や季節推定が可能で、これによるとマタギの熊やカモシカ猟などと同じく、縄文人の狩猟活動も、とくに冬季が中心であったことが判明している。今現在、私が富山で見聞きした人達も、夏のケモノは美味しくないという。逆に冬であれば、秋に出来る実や木の根を食べるケモノ達は太っているし、木は落葉していくから獲物が追いやすいわけだ。もしくは冬は、人の命のために、同類であるケモノをやむなく殺して食べねばならぬ季節だったかもしれない。

『インドネシア芸能への招待』で小谷野哲郎は季節が巡るたびに行われる祭の様子を記す。祭も人が季節を正しく巡るために必要なのである。

バリ島中部バトゥアン村は、其の昔バリ島南東海岸沖に浮かぶプニダ島との戦争に勝利したが、その報復として毎年雨期になるとプニダ島からランダがやってきて呪術的攻撃を受けるとされている。放っておくと村に疫病が流行、災害の危険もあるため、雨期の期間中は毎晩、村に八つあるバンジャール共同体の女性達が十五日間交代で「ルジャン」と呼ばれる儀式舞踊を延々と踊ることに依って、この脅威から村を守っているのだそうだ。自然科学的に考えても、雨期は生命活動が活発になると同時に熱帯病の感染も増え、大雨に依る被害も起こるダルオ。それを人々は象徴的に「ランダ」に置き換え、芸能によって其の力を受け入れようとしている。それは闇に退治した時、そこに光を当ててしまうのではなく、闇そのものを自分たちのものとして抱え込もうとする営みなのだろう。女性達は、踊ることによって雨期に増大した自然のエネルギーをやわらかく受け止めている。

バリ島のこうした行事を支えているものは「歴」である。松本亮が『インドネシア芸能への招待』で述べる所によると、バリ島の生活では三種類の暦を平行して使用している。一つは所謂グレゴリオ暦で、日本と同様、官公庁、教育機関で採用される。民間の商業活動もこれに酔っている。一方、宗教活動は次に述べるウク暦とサカ歴の二種類の暦に依っているとのことである。サカ歴とは太陰暦である。

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人は子を産むにも具合のいい頃合いを見ていたかもしれない。妊娠してから出産までの期間を「十月十日」というように、縄文のヒトたちもいつ性交したらいつ生まれるかわかっていたに違いない。性交の時期によってはこの期間が自然の理に叶うことになりそうだ。新暦で見ると、盆踊りや夏祭の八月に性交すれば、五月か六月に生まれる。この時期は春から夏に向かいながら太陽が力を強めて行く時期である。稲作文化では苗代から苗を取り、田植をする時期である。田植の五月に性交すると、二月から三月にうまれる。丁度、冬を乗り越える時期である。人は月日と共にあった。季節と一緒に命もまた巡ってくる。死んでいき、また生まれてくる。草木は太陽の生まれ変わりでもあり、土器は土からできる。そしてどちらにも巡り回ってくる火が関わる。生まれてくるものは、死んで、また生まれるのだ。日とは、命が生まれて死んでまた生まれ巡るための道具である。

アイヌは流産や死産で、あるいは生後まもなく、子供を亡くした場合、わざわざ葬儀をすることもなく、そのまま家の中に埋葬した。その子は遠くのポクナモシリまでいかずに、神の国であるカムイモシリに直接行き、再びアイヌモシリに、より丈夫な体をもって早く戻って来てほしいという願望があるためである。(『火の神(アペフチカムイ)の懐にて・ある古老が語ったアイヌのコスモロジー』松居友、小田イト語り)

列島社会の場合、縄文文化の伝統をひく社会は「穢」に対してさほど神経質でないのに対し、弥生文化の流れを汲む社会は穢を強く忌避傾向がるというのは、木下忠の指摘である。『埋甕―古代の出産風俗』によると、出産の際の後産、「胞衣」(胎盤)の処理の仕方に、家の戸口や辻など、人之葦で踏まれやすい所に埋め、踏まれれば踏まれる程新生児が元気に育つとする習俗と、主屋とは別に建てた産屋の床下、縁の下に犬等に掘り返されぬように深い穴を掘って埋め、日の光に当てないようにする習俗と、二つの方式がある事をあきらかにした。その上で木下氏は、縄文時代の竪穴の遺跡で人之出入りの激しいはずの戸口に「埋甕」がしばしば見いだされ、それが「胞衣」を入れた甕と推定している。現代の日本のように古代の中国ではやはり衛生観念、もしくは科学的な志向がなされたためか、西日本と東日本は命のあり方が違ってくいる。西日本はさておき、関東や東北では、間引く事を「オケエシモウス」という。七つ前は神の子で、赤子はあの世とこの世の境にいて、まだはっきりとはこの世の存在とは考えないようにしていた。時期の悪い時に生まれた子供はまた時期をみて巡ってくるようにと願ったかもしれない。もう一度やってくることを願う気持ち、もしくは必ずまたやってくるという確信が生んだ習俗があった。ちなみにアイヌでは「子のない女は、知己のお産に行って、胞衣を借りてその上に坐らして貰ったり、臍の緒の一片をもらいうけて平素身につけているとかするのである。反対に多産で困るものは自分の胞衣を密かに人の往来繁き所に埋めて、踏ませる。」(樺太アイヌの民族『北の民俗誌』葛西猛千代)という。

命は巡ってくる。

昔は妊娠した女性が亡くなると、埋葬のために遺体に土がかけられる前に、一人の長老か老女が〈ウコ ニ チャラパ〉(共に開いて出る)と呼ばれる儀礼的慣習が行われていたようです。つまり、遺体の腹部を鎌で傷つけて胎内の赤ん坊の魂をそこから出してやっていたのです。これは確かな筋から聞いたことですが、北部の地域ではこのような場合には遺体の腹部に針を通して赤ん坊の魂を出してやっていたということです。(N・G・マンロー『アイヌの信仰とその儀式』)
アイヌ文化圏である東北地方にもかつては同様の風俗が残されていた。福島県平町付近の村々では、妊婦が難産のために死亡すると、その妊婦の腹を割き胎児を引き出して妊婦に抱かせて埋葬する民俗が、五六十年前まで行われていた。さらに愛媛県ではこうした場合には、胎児を妊婦と背中合わせにして埋葬したということである。妊婦の腹を割くことは産道が活力を失い、ここから引き出すことが出来ぬらしい。

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埋める時に割く、割ることは縄文の時代から行われていた。ドグウがバラバラになって出てくるのと同じように、土器もバラバラになって出てくるのが通例である。青森県上北町の発掘現場で見させてもらった捨て場のなかおおくの土器があったけれどもそれらは投げ捨てられて割れたというよりか、横たえられて、ある特別な作法を以て壊されたように割れている。投げ捨てる習慣は無かった。アイヌの文化でも、先祖供養でお供え物の餅やら鮭やらを折るなり砕くなりして供えなければ向こうに持っていけないという考えがある。これと似た世界観からきているだのだろう。もしくは衰えた小さな魂でも、子供でも食べれるようにと小さく砕いたのかもしれない。アイヌでは亡くなった人々の霊を供養する際、食べ物だけではなく大事な品物をわざわざ壊し、そこに内在している〈ラマッ〉(魂・霊魂)を品物から離して送っていたという。現代人には理解し難いのが縄文の人達が残したドグウであろう。内部が空洞であり、目が細い遮光土器なども縄文の晩期に作られるが、初期のドグウは板上の土の破片である。これは何かと考えさせられた。私はふと後産ででてくる胎盤のように思えてきた。生きた赤ん坊が生まれた後に生まれる肉の塊を見て、縄文の人々は呆気にとられたのではないかとおもう。そして自分たちの手でちゃんと「送る」ために、こうしてカタチを作り直したのかもしれない。想像するより他はない。もちろんこのような儀式も、明治時代の同化政策で禁止されてしまった。私には縄文から弥生に入ってこのドグウが姿を消したのもこれと同じ事情があったとおもうが、真実は掘り起こされることなく繰り返されていくのだろう。

いのる

春を迎える前に火を祀る振る舞いは、日本ではとんど焼きという名で現在も各地に残っている。埼玉県秩父地方では、毎月十七日が山の神を祀る火であるが、とくに正月十七日は「初山祭り」とよばれる盛大な祭りである。岩手県南部や宮城県名取郡では山の神をサッピコといい、どんど焼きは「サッピコ焼き」と呼ばれる。藁などで小屋を作り、燃やす。子供達が主役となったり、小屋のなかで遊んで過ごしたり、餅を食べたりと多様である。小正月は、旧暦なら望月である。 正月をあらわす枕詞の「あらたま」は、旧暦の正月(新暦ならば二月)の時期に当たり、この時期に行う行事の効果はすぐに春となって訪れる。「今年もハルがやってくるぞ」という兆しの下で、火を燃やす。アイヌの儀礼においては祈ることすなわち火の神へ願いを述べることだ。その例として、家を新しくたてる時に行う儀式がある。

アイヌの風俗ではマツリゴトの度に火を使いますが、家屋を立てようとする予定の敷地の東側には祭壇用の神聖な柵が設けられ、そこには四本の「翼の付いたイナウ」と一本の「逆に削ったイナウ」が立てられ、〈シランパ カムイ〉(大地を護る樹木の神)に向かって祈りの言葉が唱えられます。次いで、立ち木から生気に満ちた緑の太い枝を切り取って来て、やがては囲炉裏になる場所にこの三本の生木を打ち込み、ここがほぼ三脚の形になるようにそれぞれの棒の先を束ねて縛り合わせます。この〈ケンル イノカ〉または〈チセイ イノカ〉(家屋を象ったもの)と呼ばれる三脚の錐体は、これが表す意味は理解しがたいとはいえ、特色の或る重要な役割を果たす物であって、家屋を建てるときには絶対にこの手順を省く事は出来ません。

縄文の遺跡には炉のない家もある。しかし家は最初、火を護るためにもしくは火を燃やすために考え出されたのだとも思えてしまう。否、人が人という構造の中に火を取り込んだのである。考え方によっては、とんど焼きは、「家焼き」であって、火の力を使い模擬的に命を生んでみせる儀式であったのかもしれない。
「村の子供たちは、家々から待つやしめなわをもらってきて、村はずれの道祖神のところに集め、丸太や竹を訓で、その外側を松などでふいて小屋を造る。子供達はその中に集まってモチを焼いて食べたり、正月のごちそうを持ってきてたべたりする。そして作物を害する鳥を追う唱えごとをして村じゅうをあるくところも多く、そういう土地ではこの小屋を鳥小屋とも鳥追い小屋ともいった。小屋をつくってこもるのは、神をまつるための物忌みからであったと思われる。秋田県横手の雪でつくるカマクラも同じ性質のもので、ここは雪が多いので、小屋を雪でつくったのだろう。春を待たずに歴に合わせて正月を行う風習はもちろん、歴が民間に影響力をもつようになってからだ。さて一四日か一五日の、多くは夜間、土地に寄っては朝早く、此の小屋に火をかけて役。この火の煙とともに、元日に迎えた神は返ってゆくと考えたのである。(宮本常一『民間歴』)

近世に入ってから鳥追いを生業の一つとした下層民が民衆を先導して行った儀式の名残なのだろう。とんど焼きをみると、どこか古い時代の香りがする。新潟県の魚沼地方一四日の夜は一軒一軒をあるきながら、
はんにゃほうほう
はやりまつの鳥奴が
おら早稲たかった
追っておくりゃれ塞の神
やーい、ほい
と唱えてモチをもらい、これで雑煮など作ってユキムロで食べてたのしむという。神奈川県中郡大磯では、一月十四日の夕方、燃え上がるサイトを中に、漁民と山の民が綱引きをして、その年の豊漁と豊作を占う石神の祭りがある。その次第のうち一月十一日の松祝いをのべる。「サイト払い」という行事の概略が伊藤堅吉と遠藤秀男『道祖神のふるさと』には次のように書かれている。

十一日に各町内の青年たちが、ご神木の松を買いに近隣のムラへでかけ、酒を祝ってかつぎ出す。この大松を道祖神の両側に立て飾り、神霊を天下らせる依り代にする。それから石神を仮小屋で囲むと準備は完了で、子供等がここを拠点として、町内へ祝儀ねだりに出かける。浜ノ町の子供らは「オカリメデトウ、お船は大漁」と善い囃子、商家で行くと「オカリメデトウ、お店はご繁昌」という。道祖神のお仮屋が建ってめでたい、これを祝いなさいくらいの意味だといわれるが、さて。一方で青年達も趣向を凝らして町へでる。まず人参と大根で男女両性期をかたどって盆にのせ、婚礼衣裳を着込んだ二人を中心に、各戸をめぐる。その収入で遊郭へくりこんで「ハチハライ」と称した事等、古老の語りぐさになっているが、この陰陽物を祝品にする民族は県下の秦野や足柄でもみられる。(略)そこでさきの仮屋に火がつけられ、綱引きが始まる。やがてサイトは天に焔をふきあげて、ドドウと五体を崩し、火の粉が星のように夜空を彩る。その頃から綱引きの一群は町内に繰り出して行く。後に残されたサイトは、宝石のように赤い残り火を砂浜にちらし、その日で子供等の団子焼きが行なわれるのである。祭りの主催者である若者や子供等は、道祖神祭りの立役者として、「三九郎」という好色者を設定し、これをさんざんに罵倒したり、猥歌をわめきちらすのである。

三九郎、三九郎、
嬶さのべっちょなんちょうな
周り周りに毛が生えて
中あちょっとょぼくんで
ホンガラホイ、ホンガラホイ

昭和三十六年、宮原での古老西沢忠雄氏からの聞き書きによると、「昔、と言っても六十年程前には、火祭りに用いる「三九郎」をいくつも村道に作り上げ、三晩にわたってもやした。三九郎は、一本の心木のまわりにシメ飾りや松、ワラなどを縛り付けた者で、もっぱら焼く為の祭屋である。これとはべつに「大小屋おおごや」というものが造られて、子供等の宿泊所となる。その材料は、近く野山からかり出されて、心木を立ててから別の木を何本も立てかけて上部で縛り、周囲をワラや麦カラでかこった。(略)大小屋には十三日の晩から入り込み、夜を徹して遊び抜き、翌晩三九郎に火をつける。十五日も同様であるが、此の麻少年が作った大ワラジと大根のサイコロを持って、村境まで「鳥追い」をして行った。カネや拍子木などを勢い良く叩きながら、「ナンマイダンボで夜が明けた」と唱えつつ、村境に飾りたてて帰ってくる。こうして十五日の三九郎も終わると、翌日が最後で、大小屋を火だるまにさせる。

トンドの小屋をそのまま着ると箕笠になる。立てられた棹は神の依り代に見立てられ、小屋は衣である。そのなかで子どもは神とままごとをして遊んでいることだろう。神を寄せ付ける強力な機能を持った祭壇は、日常に持ち込んではならない。あくまでもカミとヒトとの境はヒトとケモノがそうであったように、モノで仕切られているようである。だから燃やして送らなければならない。何故燃やすのか。意味を問うことは人々の願いをきくことになる。この祭りが子どもの祭りになった物語を私は想像する。とんどの小屋は、産小屋であった。私はここで三毬杖の形をシベリアの天幕の形になぞらえたいのである。「土人が産をするには、決して居宅で産むことはしない。妊婦が産気づけば、家のうしろの横に、小さな天幕を急造して、ここに移すのである。(略)我々の祖先も昔、産屋母屋と分けたそうだが、土人は現在も産屋はかたく別にする。(先住民族オロッコ・ギリヤークの生活と風俗『北の民俗誌』川村秀弥)」というくだりが、サイト焼きをする人々の心を描写している。

子どもが生まれるとは、ケモノの魂ではなくヒトの魂が肉の塊につくことである。出産という神秘の現象を終えれば、日常に耐えられず小屋は焼かれる。その時にドグウをつくったのかもわからない。焼いて生む小屋は焼いて送る小屋にもなる。こうした行い事のなかにヒトの心を読もうとすると、きりがない。きりがないけれどももうひとつトンドの例をあげよう。文化三年(一八〇六)春いに刻成された速水春暁斎の著である『諸国図会 年中行事大成』には「サンクロウ」の例が書かれている。爆竹井 吉書揚の説明として次のように書かれている。

大坂にては昨日より家々の注連飾を取て河辺にこれを焼く。皆児童の戯とす。田舎にては高さ二三間の爆竹を作り爆す。摂州兵庫近郷には昨夜土産神の社壇に一村の者及び往還の旅人を引止め、灯火を消し男女闇中に入乱れて一夜を明す事大原の雑喉寝に等しく、今朝大きなる爆竹を建て両方へ引合ひ、引勝たる方は猟よしとて大に悦ぶ事綱引と等し。三笈杖又三毬打、左義長とも或は三元張とも書。三元張より起るか。

昔から人は生きるということの意味を行事の中に埋め込んできた。火の祭りは命の力を増殖される行事ではないだろうか。太陽とともにめぐってくる季節の折々に、マツリゴトが行われる。凡て、芸能や風俗は生産活動と結びついている気がしてならない。巡ってくる命に火を灯すことは、人類共通の発想である。ヒを巡り、ヒは巡る。ネリー・ナウマンが『山の神』のなかで次のような祭りを紹介している。

むかし中国では一月十五日の上元、いわゆる「燈籠祭」のときに屋外で火を焚いたばかりでなく、四季ごとに「火を更新した」ようだ。(略)デ・フィッサーによれば、日之更新は漢代以後になると春だけに限られ、ちょうどこの時期に上元や中元、下元といった道教の三元の祭りが産まれたという。(略)廈門の上元祭の詳しい既述はJ・J・M・デ・フロートDe Grootに負っている。それによると、十五日の晩は燈籠と松明の行列とならんで、広場で―寺の前が多い―火を焚いた。たき木は前日家々を回って集めておき、そのとき小さな虎の像を籠にいれてもち廻った。これは春の星辰をあらわす神白虎を示している。岳と神で作って爆竹を詰めた大きな虎の像を祭日にも通りを引いて廻る。夜になってたき木に火がつけられ、半裸の道士が裸足でゆっくりと燃え落ちる火の上を飛んでいき、大勢があとに従った。耳をつんざくような騒ぎと叫び声のなかで、火が燃え尽きる迄繰り返される。それから女たちが急ぎきて灰をかき集め、家に持って帰って家畜が繁殖するようにと竃の上に撒く。

エバーハルトは南中国の異民族であった仲家族に関する報告を引き合いに出している。「最近、残酷でありながら特異で、かつ深い意味をもった習俗が中国人によって禁止された。それは、仲家族が二月十五日に祝っていた春祭りである。この日、日の出前の早いうちに、近隣二つの村の成人男子がもっぱらそのために定められた耕地に集まって恐ろしい石合戦をはじめる。石合戦は一人が撃ち殺されるに及んでようやく止む。女子供はそのあいだ小屋を離れてはならず、合戦につづく祭りになってようやく参加が認められる。石合戦で殺された者は日の出とともに外でおこした野火で焼き、その灰は耕地の所有者に等分される。そして厳かな儀式を持って耕したばかりの畑にこれを撒く……かつてこの日に他所者が村にやってくると、人びとはなにもいわずに遇した。他者者がもてなしを受けた家を出るやいなや、背後から石で殴り殺してしまう。しかし、その死体は焼かなかった……。」
江戸時代に生きた菅江真澄は「くめじの橋」において、河原で提灯を灯して輪になって踊る盆踊りと精霊流しの場面を描いている。そこに次のような解説文をしたためた。

門ごとに、まつ火たいて、又、市中をいとはやうながるる小河あるに、わらを束につかねて火をかけて、これを、ながし火とて、ながすやあり。こは、水におぼれて身まかる人の、むかしにても、いまにてもあれば、そのたままつるとて、としごとにすといふ。ねよとのかねもうちすぐるころより、男は女にすがたをまねび、女は男のふりによそひたちすが笠を着、あるは於古層(お高祖)ていふものに顔おしつつみて、おどりせりけるそのさうか(唱歌)こそしらね、声うちどよみて夜はあけた。

ここでは、盆踊りについて、男女が互いを装って菅笠を被り、お高祖頭巾で顔を隠して明け方まで踊る様子が示されている。火と先祖と祈りは踊り狂う人間、男女にとっては将にイノチの満ちて行くハレの日につきものである。北方シベリアの人々も祭を行い死者を送る。盛大な祭を行うのは、南方のインドネシアでも北方民族でも同じだ。

ブリヤート地方のシャマンの遺骸を焼く時は、普通のときよりも盛大に行われる。そこではシャマンの弟子や助手ら、いわゆる九人の《シャマンの息子たち》は、シャマンの生涯とその業績を並べたてて賞賛する葬送の歌をひっきりなしに歌う。」それからシャマンを火葬する場所に到着し、「遺族の者達はしばらくの間御馳走を食べ、もちろん死者もそれにあずかった後、会葬者たちは、死者が愛用していた馬の頭と背に刻み目を入れる。それから馬を殺して焼くか、いきたままその場に放置する。出発直前に、遺骸を載せたたきぎの山に火を放ち、一同ふり返ることなく立ち去る。帰り路で、村の方へ向かって放った矢を捜して、それを死者の天幕に保存しておく。シャマンの住居の中では、すでに述べたように《息子たち》が三日三晩歌い続け、シャマンのすべての友人、近親者、隣人が再び集ってくる。付き合いの深かった友人達は、やってくる時に羊、火酒、タラスン、それに若い白樺を持って来て、それに小動物の毛皮を懸ける。羊の肉が煮えると、再び死者のバリサのところで停まってから、過装置へやってくる。そこで人々は死者を回想し、死者をもてなし、同時に参集者ももって来た御馳走を食べる。」(『シャマニズム』ウノ・ハルヴァ)

どうも、所謂「魏志倭人伝」の記述を思い出してしまうが、現代でも思い当たる節があるので興味深い。

ラドロフの報告に寄れば、キルギスの女は天幕の中にとどまって七日間泣いて、死んだ夫の衣服の前で長い挽歌をうたう。喪があけてはじめて縁が切れる死者の服は、チュワシやその他多くの民族、特にカフカス所属の追善供養儀式では重要な役割を担っている。たとえばチェルケス人は死者の喪服をクッションの上に置いて、さらにその上に武器も付けさせるが、「生きている者がつけるのとは順序を逆にしてつける。」(『シャマニズム』ウノ・ハルヴァ)