序:ヒトとカミ/第二話:振る舞う

Contents

 第二話 振る舞う

現在は振る舞うという言葉はもてなす、行動する態度をさすときに振る舞うなどというように、日常的な動作を振る舞いということもできる。また、振る、舞うの二つに分解すれば、振る舞いとは踊りのことである。そして「振る」ということは、身体の動作以上に、気持ちをふるい起こす、力をふるう、熱弁をふるう、雑念をふりはらう、といった精神的な行為をさす言葉でもある。現在にも受け継がれる振る舞いの動作を観察していこう。

身削ぎ払う

活力を失った人が元気をつけるためには、旬の生き物を食べることであったが、ミソギやハライといった振る舞いによっても暮らしを立てていた。病気をハライのけ、巡ってくる太陽の動きに合わせて命をつなぐ儀式は、アメリカの先住民が行ったサン・ダンスのように実際に身を削ぎ落としさえしたかもわからない。儀式の前にキヨメ、ミソギ、コモルのも、儀式とは心や体を入れ替えるためのものであり、「元気」をもらうための振る舞いであった。北海道に住んでいたアイヌ民族の古い風俗には〈ウエポタラ〉という悪霊払いの振る舞いがある。

普通の病気にかかったときには、アイヌの人々は多くの薬草の中から効き目のある物を選んで用います。(略)しかし極めて重い病気にかかったときには、それが肉体に関する病気であれ精神の関わる病気であれ、年を取った人々はすぐにその病気の原因が性悪な悪霊の仕業であると判断します。このような悪霊を、人々やムラはその他の物品から追い払ったり寄せ付けないようにするためにお祓いが行われます。〈ウエポタラ〉は祈りの言葉を挙げる事と、病人を火で浄めたり〈タクサ〉や川床の石や剣で名で叩いて悪霊を祓い落としたり、川の水で浄めたりする手だてを組み合わせて行う儀式です。どうしても直らないと思われている精神異常の患者は、昔和川の水の中に身体を鎮めて治す療法が取られていた、と実際にこのお浄めにたずさわったことのある何人かの長老から聞いています。川岸における儀式では、川岸から一番遠くに立てられた小屋に火が付けられ、患者はその下をくぐり抜けさせたられます。患者が其処を通り抜けると、堅く縛った〈シンケプ〉(エゾヤマハギ・蝦夷山萩)のような草木の束を持った二人の女性が、それで患者の身体を六度叩きます。この事は、残り五つの小屋を燃やして患者がその下を通り抜けるたびに行われます。奥量を払い落とすために、二人の女性は患者の身体を叩く度に〈フサ!〉または〈フッサ!〉と優しくかけ声をかけてやります。〈パセ カムイ〉(重要な神々)の祭壇の傍で行われる儀式では、悪霊を祓い落とす任にあてられた二人の女性は〈フサ!〉と小声でつぶやいています。どちらの女性も、冠者の身体を常緑の笹竹の束で六度ずつ撫でるようにして叩きます。この後患者の外衣がぬがされると、その着物は揺すって悪霊をはたき落とされて患者のそばに置かれます。(『アイヌの信仰とその儀式』)

個人ではなく、村全体にかかわる異変に対してもハライが行われる。同じくアイヌでは、ウニエンテuniwenteという儀式で悪い神に抗議をするために行進する。例えば大水害のあと、火災のあと、火山の破裂のあと、天災のあったあとなどに、または人が熊に喰われたり、海や河に落ちたり、その他何によらず変わった事で負傷したり、死んだりした場合に行われた。(知里幸恵著『アイヌ神謡集』第二話の註)『アイヌの足跡』によれば、ウニエンテは次の如く描写される。

悪魔の神に対する示威運動にして内地風に言えば『悪魔払ひ』の儀式に相当す。変死、火災、天変地異等は総て悪魔の小網の跋扈によるものと為し之れに対しては必ずウニエンテと称する大げさにして而も厳粛なる儀式を行ふ。多数の村人は相集りて列を作り各自刀を帯ぶ(重立ちたる元老を先頭とし女子は刀を持たず列を突くr男子の列の次に並び式に参加す、此列には被害者及び其家族は参加せず)図の語と基準路に被害者の家の前又は焼跡の前を通り、ヌシャ(祭壇)の前に至りヌシャに面して止まる。此行列が行進する時は男は抜刀し右手に持ち歩調に合わせて刀を前に突き出し『ウヲッ、オホホホ、ホイ』『ウヲッ、オホホホ、ホイ』を連続口にす。女は刀を持たず只手付きだけは刀を持ちたる所作をなし男子の調子に合わせてウォーィ、ウォーィを連呼す。男女共に左手に杖を持つ。祭壇の前に止りたる一隊中の先頭の二三の元老は列を離れて神前に立ち神に祈りを捧ぐ。(略)而して其祈禱の言葉の大意は「神にも見落としがあったと見へて其際に乗じ悪魔の神が斯る禍を与えました今後は御油断なく悪魔の神が活動する余地がない様御注意を願ひます私共もいっそう注意致します、此度の事は神の御力と剣の威力によって遠く悪鬼の神を逐ひ払ひ再び来らざる様、尚ほ被災者の家に将来幸福がある様御加護を祈ります。

この時に発する声は、知里によると「女は細いかん高い声で「ウォーイ!」「ホーイ!」「オーイ!」などと叫ぶ。それは神々を呼ぶための特別の儀礼的な叫ぶである。また男は熊の唸り声にも似た太い重々しい声をのどの奥から絞り出して、「フ・ウォー ホーイ!」と叫ぶ。「フ・ウォー」というのは本来悪魔を威嚇して遠ざけるための「いがみ声」であり、「ホーイ」は先に述べたように神を呼ぶための叫び声である。」(『知里真志保著作集』第二巻八四節)」アイヌの考えによれば、神々はふだん神の国においては、人間の部落に背を向けてあちら向きに坐り、男神ならば彫刻に没頭し、女神ならば刺繍に専念していて、人間世界に何事があっても急にはこちらを振り向かない。そこで人間世界に何か異変の或る再は人間の方から叫び声を発して神を振り向かせ、その助けを求める必要があるという。その際でも、男の叫び声(ホコクセ)は太く重々しい唸り声なので、なかなか神の国までは届かない。そこでよくよく急ぎの場合は、男でも、女のように細い声を出して「ホーイ!」と叫ぶ。すると、アイヌの里諺爾もある通り「女の危急の叫びには如何なる神も振返る」のである。なんとも科学的である。この悪魔ばらいの踏舞行進は、地方に寄って、或は場合によって、さまざまな名称で呼ばれている。「ウニウェンテ」(uniwente)。語源はu-niwen-teで、「おたがいに・いがみ・あう」「皆でいがみあう」の意(胆振ホロベツ:日高サル)。(七九節)だという。以下、『知里真志保著作集』第二巻からの引用となる。

本州でも神事が芸能になる傾向があるのと同様に、アイヌでもこの儀式の足踏みは酒宴の座興としてのタプカル(踏舞)、祭の余興としてのリムセ、ウポポ、ヘチリなどになっていく。どれも一般に踊・踊歌を意味する。「リムセという語は、語源的にはrim-seと分析される。rimはドシンという音、-seは擬声語をつくる語尾で「云々の音を発する」の意味であるから、rim-seは「ドシンという音を立てる」というのが原義で、本来はタプカルと同じくウニウェンテと称する儀礼的な足踏に由来した名前である。リムセのことを、日高の沙流(さる)地方では「ホリッパ」(horippa)という。ホリッパは「ホリピ」(horipi跳び上がる)という語の反復形或は持続系で、「跳び上り跳び上り(続ける)」という意味である。」(一〇六)同様に、歌についても「アイヌの歌謡は、古くさかのぼれば踏舞と一体のものが多く、その調子も唸りや叫びに近づく。その唸りは魔を追うためのものであり、叫びは神の関心を呼ぶためのものであった。しかも、そういう唸りや叫びが、踏舞のかけ声とともに、後には歌謡のはやしとなり、神謡の折返しともなるのである。(七六)

本州では現在でも一般に行われる悪霊払いの儀式がある。これも自然の節目に人間を合わせるために行われ、一般に神楽と呼ばれる。都会風の御神楽もあれば、田舎風に演出された里神楽もあるが、どちらでも反閇と呼ばれる足踏みを行う。足踏みは相撲や舞楽の儀式から始まり、能や歌舞伎の芸能に組み込まれ名残惜しく現代まで残された作法である。ただ現代人の足踏みには悪霊が追い払う力がないのがタマにキズである。神楽は地方により岩手の山伏神楽、秋田の番楽、各地の湯立神楽、出雲の託舞、日光の延年など多様な呼ばれて、やはり古い時代に特に東日本の民間に伝わるものは山伏の手で演出された儀式であり、多様である。例えば地域の名前を冠して早池峰神楽・黒森神楽・備中神楽があり、神楽の中で使われる道具になぞらえて湯立神楽・獅子神楽・採物神楽・花神楽とよぶこともある。「獅子舞」「番楽」「神楽」などと名前が一致しないが、どれも村が元気に暮らせるようにと一年の節目をつくる行事である。その一つの例として奥三河(愛知県北設楽群等)に伝承される霜月神楽、通称花祭がある。どうやらこの地域の湯立て神楽は山伏の拠点である熊野の再生儀式であった湯の清まりと忌籠の呪法が取り入れられて演出されてきた経緯があるらしい。夜通し行なわれる神楽では、水を入れた釜を中心にして行なわれる少年の舞、青年の舞、巨大な鬼面を付けた鬼の舞が舞われる。 釜で湯を煮えたぎらせ、その湯をもちいて神事を執り行い、無病息災や五穀豊穣などを願ったり、その年の吉兆を占ったりもする。奥三河の花祭り、御神楽祭、南信州遠山郷のしもつきまつり、坂部の冬祭り、向方のお潔めまつり、池大社のまつり、北遠州水窪町の霜月祭り、佐久間町の花の舞などが、湯立てを中心にして行なわれる祭事である。

例えば奥三河の神楽では、まず舞処に山見鬼が登場し「釜割り」を行う 。神楽の司会進行を行なう禰宜と、問答を行い山の神の象徴である榊を譲り渡し、反閇を踏む榊鬼などが現れる。茂吉という祭り好きが自ら奉納した面をかぶって待ったという言い伝えを持つ茂吉鬼もいる。一方で山見鬼は湯釜をぐるりと周り、鉞を竈にむかってふりおろす。採物の刃で切ることにより邪霊を払い、祭壇を清める。ここで登場する鬼は「力」の象徴である。榊鬼は舞処で一舞したあと、改め役の禰宜に見咎められ「問答」をする。問答をとおして、祭りの聖性の前に屈服し、守護霊へと転生をとげる。こうして舞うところに迎えられてきた榊鬼が、最初に行う呪術的所作が、反閇なのである。ここでは目に見えぬが威力をもった精霊、命が鬼の姿になって人を助ける物語が舞われ、語られている。山の民、マタギもハライを行う。それは実に、死者に群がる悪霊を払いのける行為である。

 新潟県朝日村薦川集落の狩人、小田甚太郎は熊狩りのヤマオヤカタである。甚太郎は春先の熊が冬眠から醒める伝承を次のように語る。「アオバエが出たら、田仕事が始まってどんなに忙しくても熊狩りに出た」。アオバエは山にいる大きなハエで、熊を獲ると一番最初に寄ってくるという。そして、皮を剥いで熊の魂を送るサカサガケを始めると、大量のアオバエが黒くなって、皮の裏側、肉の付いていた方に卵を産みつける。これを払うために、一人が近くの枝を切ってきて、ハエ追い棒にして振り回したという。剥ぎ身の解体を始めるともっと大量のアオバエが集まり、黒くなったという。もちろん、卵を産みつけられると困るので、ハエ払いが専門に払った。(赤羽正春『熊』)

**

払いの儀式は天災、病気、人間の都合の悪いことが起こるたびに行われた。都会では夏になると人を病にする悪い霊がやってくる。桓武天皇の頃より、一千余年の長きにわたり、日本の都は平安京であった廻りを山に囲まれた山城盆地に居た兼好法師が『徒然草』で記している都の熱さは、昔も今も変わりがない。

家の造りやうは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所にも住まる。あつき頃、わろき住居はたへがたき事なり。深き水は涼しげなし。浅くて流れたる、遥かに涼し。

寝殿造りという吹きさらしで風通しのよい高床の住居は悪霊を祓う呪術であり、技術であった。特に夏には、怨霊達の動きが活発になり、恐るべき疫病として猛威を振るう。都市化が進み人口稠密になるにつれ、疫病はいよいよ蔓延する。上流社会は、密教や陰陽道等の宗教的呪術で悪霊を寄せ付けない術を知っていた。自然を作り替えて生み出した都会の中で風・火・水を利用する技術も、経済も持たなかった人々は、怨霊に満ちた熱気をもろに浴びてなす術がなかった。例えば『本朝世紀』正歴五年(九九四)六月十六日の条には「疫神横行すべし。都人士女、出行すべからず」という妖言がおこなわれ、人々「門戸を閉ざし往還の輩なし」とある。「横行」はあばれる意だ。これは鎮西より起こった疫癘が京中にも荒れ狂った年で、同年四月二十四日の条には「死亡する者、路頭に満つ。往還の過客、鼻を掩ひて過ぐ。烏犬食に飽き、骸骨巷を塞ぐ」、五月七日の条には「路上死人の伏せる骸、連々たり」というような記事さえみえる。だから人々は都という人工装置に住み着いて猛威を振るう霊を鎮め、和ませて、祀り鎮める御霊会を行った。御霊会は疫神祭、鎮魂祭などともいう。

記録上最初の御霊会は、『三代実録』によると八六三年五月二十日に神泉苑に於いて行われたという。病の原因とされた悪霊は、崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、按察使、橘逸勢、文室宮田麻呂ら六人の「冤魂」(無罪の罪で死んだものの霊)であるとされた。井上満郎の指摘するように右の六人は、平安期に入って謀反の罪に問われた上、都を離れて異郷で没した人々、つまり殺した人の負い目によって悪霊として祀り上げられた人びとである。だから申し訳ないといって、悪霊を慰め、神と呼んで丁重に振る舞った。負い目が神や鬼をつくり出す。だから御霊会では花果が供えられ、律師慧遠が講師となって、金光明経一部と般若経六巻を講じ、雅楽寮の伶人の人たちが楽を奏し、近侍の児童及び良家の稚児たちを舞人とし、また大唐、高麗の楽舞を奏し、散楽、雑伎も華々と展開されたのだ。もちろんこれは疫病に苦しんだ人びとにとっても、気をハレに導く力となる。それにしても盛大だ。「道饗」も行われた。疫神、厄神は人並みに道を辿ってくるといわれていたらしく、とりわけ都に通じる道の入り口が重視され道祖神が置かれた。時代は外れるが、都の六つの「口」に地蔵が祀られ、これは後に六地蔵信仰を生み、今も京都では六地蔵めぐりがさかんだ。恒例の官祭には道饗の祭があった。都の四隅の路上で邪鬼を供応し、満足した邪気にそこでお引き取り願おうというものである。ちなみにこれを行ったのは陰陽師たちではなく、神祇官に属する卜部で、卜占をこととする部署である。また疫病が発生するたびに、臨時祭として、都の四角、四境で疫神祭がおこなわれた。俗に「四角四境祭」とよぶ。この内容は道饗祭と大差なかったようだが、これを担当したのは中務省に属する陰陽寮であった。

御霊会は現在、祇園祭という名に変わった。貞観十一年(八六九)の夏。六月七日、八坂神社(祇園社)の社司ト部日良麿は、勅を奉じて、長さ二丈の鉾六十六本を立て、同十四日、都の男子を率いて神輿を神泉苑に送り、疫病退散の祭を行なった。乃ち之を祇園御霊会と称したという。この祭では今も昔も神輿を洗う。現在は八坂神社の三基の神輿が四条大橋に臨幸し、神官が榊に清水をつけてそそぐのであるが、本来は神輿を賀茂川の流れに付ける禊の作法であったことは想像に難くない。各地に伝わる祇園祭、天王祭には、今も神輿を川や海につける所が少なくない。より古い形は地方に残り、源流であるべき中央の祭が既にきわめて形式化されているが、すべてみな災害を招く疫神を遠くに送るのがその趣旨である。例えば、能登半島の宇出津では、七月に神輿を担ぎ町内を廻り、最後は暴れ出した神輿を叩き付けたり、産みに落としたり、酒を懸けたり、火に投込む、通称あばれ祭が現在も行われている。この神輿も、八坂神社に属している。

***

御霊会では陰陽師だか仏教僧が祭りを花で飾ったので、地域によっては花祭、鎮花祭、やすらい花ともよばれる。また、国家機関の一つであり、大宝の時代から国家に関わる祭事を催すことを任とする神祇官の仕事について書いた『神祇令』には「季春鎮花祭」として「謂大神狭井二祭也。在春花飛散之時、疫神分散而行癘。為其鎮送、必有此祭、故曰鎮花也。」と書いてある。「やすらい花」という言葉の初見は一一五四年四月『百練抄』の記録である。ここでは傘の上に美しい風流の花をさした所謂風流傘が出た。神社で使われる幣束とおなじく神を揺さぶる道具である。村々の祭りにおける花笠は、疫病神をまねく家、神座であった。虫が神として想定されているかもわからない。兎に角も笛、太鼓、銅鉄子で空気を揺らし、神を寄りつかせた。『年中行事絵巻』によれば、周囲で手拍子を打つ者もをり、小包を打つものもいた。参加者は風流の花笠をかぶり、花傘の下で「やすらい花よ」とはやしながら踊った。おこりはいつか不詳だが、永長第田楽とほぼ同じ頃であろう。あまりに派手になりすぎて、禁止された。その禁令が一一五四年の「やすらい花」である。後に復活され、現行の「やすらい花」では「赤熊」が花傘の下で踊る。中世頃から一般にも広まった念仏踊りの芸能も鎮魂祭の名にふさわしい踊りを提供した。たとえば京都柴野の今宮疫神社では毎年三月十日に「やすらい祭」では、赤熊をつけた踊り手たちが、鉦・太鼓を叩きながら「やすらえ花や・・なまえだ」という歌に乗って、激しく踊り歩く。「なまえだ」は南無阿弥陀仏の略であると解説されている。ただ歌ひ、囃し、神懸かり状態に踊り狂い、悪い神を町外れまでつれていき、或は難波の海まで行き、送った。花が咲き、散るときには太陽の力も強まり、悪霊もかけあしでこちらに向かっているのを追い出したのだろう。

****

現代でも多くの祭り、踊り、芸能が花で飾られているのは「やすらい花」や「念仏踊り」の流れである。しかし、時代とともにモノの価値観が代わり、毎年同じものを使い続ける習慣が始まりまると、花笠や風流傘などの依り代に死霊や怨霊を鎮めて祭の最後には依り代を破り捨てる「笠破」などと称された「鎮送」の儀礼があった忘れられているだろう。青森県のネブタも、海まで送りはするが、神でつくられたねぶたの人形は資本として再利用される。全国津々浦々に今も残る花笠の踊りや獅子舞がこうした悪い神を追い出す儀式である。花笠と同様に、獅子もやはり最後には水によって清められた。雨宮の祭は四月二十八日(元は四月の申の日)が祭日で、当日、天狗面をつけた御行司と呼ぶものを先頭に田楽踊の集団と思われる一団が、神社の庭を降り出しに部落の末社や境界をめぐり、日暮れて、斎場橋のほとりに行き、そこで「化粧落とし」と称して獅子の髪を取り払い、「橋がかり」と称して、獅子が橋から水面へ中ズリになって獅子頭を振り回す。昔は、髪を流し、また獅子頭も水に流したという。獅子が悪霊退散の呪いとして演じられる例は各地に多いが、舞の終わりに、頭のシデや道具を水に流す振る舞いは、獅子舞ならず念仏踊りや、虫送り、疫病神送りなどの悪霊退散儀式と共通する。長野県の南部飯田市周辺では桜の咲く師月初め頃になると、各部落ごとの春祭に際して獅子舞が一斉に行われる。そのうち、桜の名所として知られる飯田市羽場の白山神社では、師月中に、十三の両日に獅子舞が出るが、この日は元来、白山神社の鎮花祭の行われた日であったという。獅子も鬼も姿は違うが役割は同じである。九州佐賀の浮立(風流の当て字)にでる鬼などもこれをかぶり、東北の剣舞の鬼などもやはり、馬や鳥の毛を頭にいただき、また東日本一円の鹿踊り、獅子踊も、馬または山鳥の毛・羽を頭につける。鹿や獅子が赭熊をつけるのは、ケの咒力を象徴する意味があるだろう。農村では、田畑に祟る害虫などを、死者の怨霊の化身だという風に見て、これを追放するために、念仏踊りを行う風習を各地で持っていた。この時は悪霊を蛇やら竜の形を模した藁の縄に寄り付かせる。虫送りという行事であるが、これも各地を歩き回った山伏や聖、法師たちが様々な演出をくわえ、ネブタ流し、精霊送りも総て同じ原理で構成される。神輿やら人形、力をもった「代」に頼って人の身体につく焼く際や流行病などの御霊を送るところにある。

送るといえば、お盆であるが、ここでもやはり境界の外へと先祖を送り出した。先祖と一緒に遊びに来た関係者も向こうの世界へ送り返したようである。「新野の盆踊り」で有名な長野県伊那郡阿南町新野では、盆踊りの最後、十七日の明け方であるが、終わりの踊りをすませると、村境まで行き、「道切り」と呼ばれる儀式を行う。行者が呪文を唱え、刀を抜き、道の真ん中に設けてある柵を切って落とす。切って落とすと、これを合図に火打石を打つか、鉄砲をズドーンと放つ。これをきっかけに堆く積まれた盆灯籠に火が放たれる。ここで新野の人たちは回れ右をして、今来た道を「秋唄」を歌って帰る。「秋唄」を歌うことで、夏との縁切りをし、縁を切ることによって盆に出てきた悪霊たちが村へ藻度つてこないようにするのである。(竹内勉『民謡地図』)

流す、送る風俗は北陸一帯にもみられる。滑川周辺意は黒部市中陣のニブ流し、黒部市尾山のアネサマ人形流し、入善町吉原の七夕船流し、魚津市大海寺新の七夕行事などネブタ系の行事がいくつも在り、報告書ではそれらも調査して載せている。船を流す行事は秋田県の横手や新潟県の粟島などにもある。人形流しは信州松本平や新潟県糸魚川市の同行事につながる。さらに今度の報告書で明らかになった事は、滑川のネブタ流しと共通する要素として大火をたく表示が町の後背部に広く行われていた事である。東の早月川の対岸村では八月七日の蕃に堤防上に大きな円錐形のタイマツを立て、七夕竹といっしょに燃やしている。西方の上市川の沿岸村では八月十三日のオショウライ(精霊迎え)のときに櫓とかヤマといって同じ物を燃やす。小正月の一月十五日と盆の八月十五日は年二回の祖霊を迎える火で、一月七日と七月七日はその事前の行事の日とされる。(略)注目すべきは、この大タイマツの根元を小屋として、あるいは別に小屋を作って子供達が寝泊まりしたという事例がいくつも見られた事である。これは信州から北関東の道祖新祭の泊まり小屋につながる。また、これらの行事の主体は子供組であり、滑川のかつてのネブタも子供組であったから、年齢階梯制の上からも興味が深い。(佐伯安一『富山民俗の位相』内「『滑川のネブタ流しと夏を彩る民俗行事』(滑川市立博物館編)を読んで」五〇七頁)

*****

ヒトガタの歴史は洞窟に書かれた壁画から、縄文の時代の板状のドグウ、そして木や石の神というように、古くから受け継がれて来た。クグツは木でつくられた人形を舞わせる芸人である。『日本書紀』巻一に、木の精霊をククノチといったとある。古い文献には、偶人・人形・人像・木人を、ヒトガタ・クサヒトガタと訓ませている。等身大のひとがたは謡曲『鉄輪』にもみられる。「茅の人形を人尺に作り」とあるものがそれである。なお、人形をニンギョウと読んだのは室町の宮廷日誌『御湯殿上記』これは人形戯を演ずるニンギョウであって、呪具としてのヒトガタではない。その人形は人の霊魂(たましい)の容器(いれもの)とされた。本来、人体は空虚、空っぽである。から(骸)、からだ(空骸)、なきがら(亡骸)、むくろ(身胴みくろ)、うつせみ(空蝉)この空っぽの人体に霊魂の来り宿って活体となると考えていた。すなわち人間である。ツミやケガレは、一般には年間・月間の実生活から生じる霊魂の消耗・疲労・老化・疾病を引き起こし、これらの現象が霊魂をして人体から離脱させることを恐れた。完全離脱の状態を死と呼んだ。ヒトガタはいわば骨であって、そこに魂を込めるのが呪術者の役目である。人形は依り代であり、形代である。社は「やしろ」と読む。ヤシロは屋代とも記されるように屋根のシロ(代)である。古代にあってはシロには「太子ましまさず、故に御子代として、小長谷部を定めたまひき」(「武烈記」)や、田んぼに植えて育てる前に種を植えて育てた苗を苗代といい、「たな霧らひ雪もふらぬか梅の花咲かぬが代にそへてだに見む」(『万葉集』一六四二蕃)というように、人や物に霊魂が宿っているという古くからの風土がある。人の霊魂は睡眠中に人体を抜出して遊びにでるが、深夜の丑満時には、最も遠い場所まで赴くとされ、その好む場所は鎮守の森とされた。で、神木にヒトガタを掛け、または根元に埋め、浮遊してきたれいこんを、それに憑依させ、その腰部に釘などを打ち付けて霊魂が再び人体に帰ることのできないような致命傷を与える。一方、自宅によこたわるからっぽの人体は、霊魂が戻ってこないので、依然、空虚。すなわち、死の状態となる。これがかの有名な藁人形と五寸釘である。

『とやまの民俗芸能』で伊藤曙覧が歴について次のようにのべる。「古い歴では、一年十二ヶ月のうち一月と七月が祖霊を祭る尤も重要な月とされ、祖霊を迎えるために、一切のケガレを除く禊祓いをすることになっていた。つまり、古代の人達は、十二月の祓いと正月の祭り、六月の祓いと盆の祭り、というように一年を折半して考えていたようである。」『公事根源』には、七瀬祓の方法として、「陰陽師人形を奉る、主上御いきをかけ、御身をなで返し給へば、殿上の侍臣この所々の川原にむかふ。かへりまゐなれば、主上御撫でものをめしまゐらせる。その外さしたる事なし」と示しており、陰陽師の作った人形が、厄よけの形代として重んじられ、天皇自身は川原で直接禊をしていない。代理の者が川原へおもむき、人形を流す。『源氏物語』巻一二、須磨の巻の一節に、六月祓にふれ、「陰陽師めして、はらへさせ給ふ。舟にことごとしき人がたのせて、ながすを見給ふにもよそへられて」とあるおうに、陰陽師の祓えの具によって、海や河から災厄を流す呪法が、禊ぎにとって代わっていることが推察される。神道観では、災いは身の穢れに由来し、穢れは祓わねばならない。その方法のひとつに、穢れを衣服や人形ひとがたなどの「撫物」に移し、水に流すというのがある。朝廷では病気のはやりやすい夏に「六月晦日」の大祓おおはらえ(夏越なごしの祓え)としてこれをおこなった。それと同様の遺風が各地に残る「人形流し」というわけである。人形を人の形代として使う行事、儀式は雛人形のような風流として残されているのとは別に、まだまだ振る舞いとして残っている霊もある。『とやまの民俗芸能』から引用する。

黒部市三日市町の八心大市比古神社の芽の輪くぐりは六月三十日におこなわれており、やはり神野人形が川に流される。これらと似た祭りに、下新川郡朝日町泊地区の脇子八幡宮で催される鬼遠祭りがある。祭礼日は六月三十日、七月一日の二日間で、神社から事前に紙で作った紅白の人形が氏子に届けられる。氏子たちは、其の人形二自分の名前と年齢を書き、祭礼当日に、それを持って神社へ息、人形二息を吹きかけて罪や穢れを除いてもらうよう祈願して納め、神官が祓いをする。

以って為す

雷、噴火、洪水、台風などは神の力の大きさ故、ヒトにとってははたはた迷惑であり脅威である。そこで人は追い払うだけではなく、カミに伺いを立てて機嫌をとることによって難を逃れられることを信じた。この心は昔からあったようで、甲斐の駒ヶ岳山頂(二九六六メートル)出土の無文土器、日光男体山八合目の滝尾神社近く(二二五〇メートル)・長野県八ヶ岳の編笠山(二四〇〇メートル)・長野県蓼科山頂(二三五〇メートル)から採集の石鏃、相模大山(一二五二メートル)山頂の加曽利B式土器の破片、(原田昌幸「縄文人と山」『季刊考古学』六三)和銅六年(七一三)に編纂を命じられた『風土記』には出雲一〇、播磨八、肥前四、常陸三の霊山があげられている。神は、恐らく家や食べ物がないために、気が立って悪さをしたのだろう。『風土記』逸文では摂津二、伊勢・陸奥・丹後・筑前各一の霊山がある。三輪山登山口の狭井神社奥の杉林内で発見された山の神遺跡の磐座は発掘調査がなされている。それによると、この磐座は一・八メートル×一・二メートルのお湯方形の斑糲岩でその周囲に五箇の石、下に割石を拝している。そして磐座の下から小型の素文鏡三、碧玉製勾玉五、水晶製勾玉一、滑石製模造品(子持勾玉一、勾玉一〇〇余、管玉一〇〇余、数百箇の有孔円板と剣形製品、多数の臼玉)、土製模造品(高坏、坏、盤、臼、杓、勺、匙、箕、案、鏡など)、須恵器、鉄片(剣か)が発見されている。(宮家準『霊山と日本人』)直良信夫の『峠と人生』には、神奈川県から甲斐(山梨県)へ抜けるヤビツ峠にまつわる話がとりあげられている。

或る歳の冬、豪雪におそわれた札掛の村は孤立し、食料が欠乏して来た。そこで元気な若者がヤビツ峠をこえて秦野の町へ助けを求めに行った。彼がようやく峠にさしかかると急に空腹が甚だしくなり、身動きできなくなってしまった。ようやくのことで這うようにし峠をこえたが、不思議にもそれからはすっかり元気をとろ戻し、無事に秦野のつくことができた。実はヤビツ峠は戦国時代、小田原城攻めを中止して甲斐に引き上げようとする武田信玄の軍と、これを追撃する後北条勢との間で合戦が行われ、多くの戦死者が出た古戦場である。以来、峠には其の亡霊が餓鬼となって出没するので、通行者は空腹をおぼえるのだという。そしてこの若者の体験が在って以後、あらためて峠を越える人々は、まず持参した食物を峠の亡霊にそなえることとなったのだ。

他にも「昔、村々を回っていたモレ(ものもらい)がここで行き倒れに鳴ったため、柴をおいて供養するのだと言い伝えられている」(『奄美郷土文化』十八号)といった話や、「伊予の南部では、各村に一二箇所づつ柴神と云うがあって、足の疲れた時通りがけに柴を一本供えると忽ち足の疲労を忘れるというている(『郷土研究』四巻十号)」という話が見受けられる。理由はいろいろあるだろうが、とにかく峠に気をつけろという話である。記紀や諸国の風土記には山の峠路にしばしば坂の神が出現して、人々を苦しめたり命を奪おうとしたりする話がでてくる。峠道を歩く人が急に空腹や疲労を感じるのは、ヒダルガミのせいだという。この神はかつてその地で行き倒れて餓死した人の亡霊という。足柄の坂も品の坂も、ともに「御坂」や「神の御坂」と呼ばれる神聖な難路であったことは『万葉集』の東歌や防人歌が示している。

ちはやぶる神の御坂に幣奉り斎ふ命は母父が為 (巻二、四四〇二番)(大意:恐ろしい神の御坂に幣帛を奉って、わが命の無事を祈るのも母父のためである)
足形の御坂畏み雲夜の吾が下延へを言出つるかも(巻第一四、三三七一番)(大意:足柄の坂野神の畏ろしさに、はっきりと人に言わぬ心のうちを言葉に出してしまった)

平安時代の後期になっても「生駒山 手向はこれか 木下に 石くらうちて榊たてたり(『堀河院百首』)」と歌われるように、時代を超えても山の境に棲むカミはいた。神坂峠や当時の碓氷坂であった入山峠からは、多数の石製もぞう品や土器・瓷器が出土する。石制模造品とは臼玉・勾玉・管玉などの玉や鏡・剣・刀子などをかたどった品々であり、その多くに小さな孔があけられている。其の年代は五世紀代を中心とするが、平安時代後期ごろまで及ぶ遺品もあったという。諏訪盆地から佐久平へぬける道の雨境峠の近くは勾玉原と呼ばれて、依然多くの石製模造品が採集された場所や鳴石と呼ばれる巨岩がある。古代の峠越えの祭祀の場所だったのだろう。山頂付近には物言わぬ神の座す磐座が横たわっている。山に登る度に見られる石の山積みは日本のあちそちに見られるが、同じような山は、ピラミッド型の建造物として世界中のにもある。道ばたの石を積上げる風習は北方民族にもみられる。

シベリアでは山の尾根とかいろいろな険しい場所では、オボーoboという大きな石の堆積に出会う事が有る。それは通りがかりの者が、前に投げてあった石の上に、さらに石を投げて行くというふうにしてできたものである。この習慣は引き続いて行われる。さもなければ、旅人に災難がふりかかると怖れられている。(略)ベルチル人はこのような場所に石か木の枝を置いたり、火酒を注ぐと、マイナガシェフは報告している。ブリヤート人のオボーは一般に、旅人が何か危険に教われそうな場所にあるという。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)

峠を越えるというのは、全く別の場所に入ることになる。日向から日陰へ、里から山へ、自分の内から外へ、秩序のある場所から未知の世界への境界を越えるときの心理が人の心に神の棲み家をつくったのだろう。同様の話は他の峠道にもあり、近畿地方の丹波・但馬・摂津ではヒダルガミといい、大和・紀伊・三河ではダリボトケやダリガミ、北九州地方ではダラシともいう。山と里の境には、よくサイの川原がある。 大和・河内では境目のことをサイメといって、境のことをサイといい、中世には家の敷居をサイという例があった。ちなみに、韓国語の사이には「間」「境」の意味があり、차이には「差」「違い」という意味があって興味深い。村境には石のゴロゴロする陽な所が合って、幼い児などはそこに葬られることがあった。このサイがサエノカミのサエと同じである事は柳田が『石神問答』で述べている。境というのは、経験的に自他を分け隔てる境界であって、一歩踏み出せば予想もつかぬ敵や獣、悪霊に出逢うかもわからなかったのである。祀るという行為はお膳立てをすることでもある。『常陸国風土記 行方郡』夜刀の神の話も、脅威となるモノノケに対して境界を定めることで内側の秩序をつくっていった。

昔、石村の玉穂の宮に大八洲馭しめしし(大八洲を治めた)天皇(継体天皇)の御世に、箭括氏のまたちといふ人があって、郡家より西の谷の葦原を開墾して、新田を治った。その時、夜刀の神たちが群れをなして現れ出でて、左右に立ちふさがったので、田を耕すことができなかった。(俗に、蛇のことを夜刀の神といふ。身の形は蛇であるが、頭に角がある。災ひを免れようとして逃げるときに、もしふり向いてその神の姿を見ようものなら、家は滅ぼされ、子孫は絶える。普段は郡家の傍らの野に群れかたまって住んでゐる。)それを見かねたまたちは、鎧を着け矛を執り、立ち向かった。そして山の入り口の境の堀に標の杖を立て、「ここより上の山を神の住みかとし、下の里を人の作れる田となすべく、今日から私は神司となって、子孫の代まで神を敬ひ、お祭り申し上げますので、どうか祟ったり恨んだりのなきやう。」と夜刀の神に申し上げて、社を設けて、最初の祭を行った。

野を耕して田んぼに水を引くことは、ヒトとケモノの境をつくることであった。人間の暮らす領域が拡大され、田んぼの向こうから田んぼへと悪いモノが入ってこないように願い、持てなした。今ではただの田んぼであるが、昔の人たちにとっては田んぼがヒトとケモノの境である。そもそも米は縄文時代にもあったが、縄文時代の土器から米粒が発見され、学者たちは「縄文時代」から米を食べていたことを通説にしているが、「水田稲作農耕」の意味に限定して持ちうると、日本における「稲作」の成立は、弥生時代の初期(紀元前三〇〇年頃)あるいはそれに選考する縄文時代の終末期の時期であり、大陸から水田稲作農耕技術が北九州に伝えられたときからだということになる。このとき伝えられた水田稲作農耕技術は、福岡県の板付遺跡(福岡市那珂町)における水田址の状態などから判断しても、かなり整ったものであったことは間違いないらしい。いつどのように始まったにせよ、稲作を始めるときには今まではやったこともなかった土木工事を行い、「田」に水を流す。これほど不慣れで、不安で、また肝を冷やす労働はなかっただろう。また稲作のための水田の準備、水の管理が暮らしの中心になったのではないだろうか。長く続けていた狩猟採集の生活にはない新しい試みであったことは間違いなく、人々がイネを育てることに多くの気を配ったに違いない。現代でいう鳥獣被害にも古代人は悩まされたことが『万葉集』から推測できる。鹿猪田というのは、鹿や猪に荒らされる田のことをいう。

霊合はば 相寝むものを 小山田の 鹿猪田守る如 母し守らすも (『万葉集』三〇〇〇)(訳 心が通えば二人は共寝をするのですが、山にある田の鹿や猪が荒らす田を見張るように、その母親が監視しているよ)

新墾田の鹿猪田の稲を 倉に上げて あなひねひねし 吾が恋ふらくは (『万葉集』三八四八)(訳 新しく開拓した田が鹿や猪の荒らす稲を刈って、倉に積上げて、ひね米になるように、ほんとにひね米のようになってしまったよ。私の恋は。)

『山の神』ではネリー・ナウマンが紹介するところによれば、愛知県北設楽郡では、地元の人たちはイノシシが泥遊びをする場所であるノタバを、山の神のいますところとして神聖視したそうである。そこには注連縄を張り巡らしたりして、不要一近づいたり、大小便をしたりする事の無いようにしたという。山の神の怒りを買うと、イノシシが田を荒らすと信じられているからだ。人は不安と闘う動物である。

**

種を浸すとき、田畑を耕すとき、種を播くとき、田植のとき、刈入れのとき、次の年の豊作を祈るとき、人々は全霊をこめて、実りを期待した。その儀礼の仕方は、田植えが始まる以前から彼らが行っていた狩猟の儀式をそっくり使ったかもしれないし、稲作の技術と一緒にやってきた稲作の儀式だったかもしれない。とにかく土と水に気を使う稲である。エジプトではナイル川が土と水を運び穀物を育てたように、日本では山から水がやってくるから、稲作を始めた後、村人は自分たちが耕し新しく創り出した「田んぼ」という世界へ、山の命の力を招き入れなければならなかった。村人は水が流れ降りてくる山や、稲穂が根を張る大地に呼びかけ、それを祭事にした。例えば、田植えの行事に苗代祭という儀式がある。苗代に種籾を撒き下ろしてから田の水口などでカミを祀る風習である。水口というのは、山から田に水が流れ込む場所のことをいう。同じようにして現在残されている「田植え唄」も神への声かけ、祈る心が原型だろう。水稲の種下ろしは、一般に霜がおりなくなる立春から八十八日目の「八十八夜」が目処にされていた。八十八は米の字に相当するとも言う。ホトトギスやウグイスなどの種蒔鳥とともに「種蒔桜」のことばもあり、躑躅や卯木などの開花が種下ろしの目安であった。第二次世界大戦前までは一般に水口祭、苗代祭、水戸祭などといって、種下ろしの祭壇である苗代の注連、水口の斎串に名残をみることができた。苗代の入り水口の傍らに少々土盛をして祭壇とし、これに斉串を立て、供物をあげて祀っていた。水口とは、田んぼに引き入れる山の水の入り口である。六月は水無月。日照りが続いて飲料水や農業用水が欠乏する反面、長い雨で被害を被る季節でもあるり、人は水の神祀りと雨乞いを行った。大慌てで水汲みをしたり、ムラの用水を統制して順番で水を田に引く「番水」を実施したり、あるいは水の取り入れをめぐって村落同士の大げんかになることもめずらしくなかった。水争いの史料がみえる。能狂言の「水掛聟」では、雨乞いの村寄合で年より衆は踊りを、若衆は角力(相撲)をやるのだと主張した互いに譲らない。そこで庄屋どのが角力の果ては喧嘩になるが、踊りは神をいさめ、祈祷にもかなうであろうと採決、皆々が風流の花笠を作り、われもわれも踊る、ということになったおかしざまを描いている。科学技術を手にする以前は人が全身で自然と向き合い、ぶつかっている。

***

神に声をかけるだけでなく、食べ物も供えた。『古語拾遺』に「田を営る」に当たって神が訪れ来り田人とともに「饗みあえ」を行なったと書かれている。中国地方の山間部では、神迎えの行事を「大田植」といい、選ばれた田において大規模に行なわれる集団田植を行なう。そこでは昼飯を運ぶオナリ(昼飯持)なども出て、飲み食いを挟みつつ、統率者(サゲ)の指揮の元で早乙女を中心に・笛・鼓・腰鼓・ささらなどの鳴り物入りの田植えが賑やかに行なわれる。華やかなその印象から花田植えと言った名でも呼ばれる。そこにはまた、田植えに当たってサンバイを降ろし、植えじまいにはサンバイを送る祭式が準備される。つまり「大田植」は、田の神を勧請して、一日がかりで行う神事である。選ばれた田んぼは、仕事田と区別されて特別に囃子田(花田植)や供養田といわれる。『日本歌謡集成』の巻五に『中世近世歌謡集』から引かれた詞章がある。

〽酒はくる、肴はなにか、苣の葉
ちしやのはを、酢和へに和へては、御肴
酒のさかなに、麻のほとりのちしやのおは
さけのさかなに五条へまいれば、ちさのは(酒来る時之哥)

選ばれた田を豊作の祈願をこめながら植える行事で田植え歌を歌うことはこの地域では一般的だったらしい。田植えの作業をしながらこのような歌を歌ったかというのは怪しいところだが、マツリのような儀式の際には全国どこでも歌った。『田植草紙』では朝歌・昼歌・晩歌・あがり歌に分類された多くの田植えの歌が記されている。「マツリ」という大和言葉の原義について、本居宣長は『古事記伝』(巻十八)のなかで、「神に奉へ仕る」すなわち、お供えするに由来するといっている。 田植の風俗に関わることは竹内勉の民謡地図⑥『田植唄と日本人』に詳しく書いてある。『古語拾遺』の説話に、当時の「供え物」の習俗は次のように描かれている。

昔、神代に、大地主審が田を営むに際して、田人に牛の宍にくを食せしめ、訪れ来った御歳の子神にも「饗みあえ」して還った。ところがこれを聞いた御歳神は大いに怒をおこし、その他にイナゴを放ったため苗葉が忽ちに枯損してしまった。困惑した大地主神がその理由を片巫しととどり・肱巫に命じて「占べ求メ」させると、それは御歳神の祟るところであり、「宜しく白猪白馬白鶏を献じて、以て其の怒を解くべし」というのであった。そこでそのとおりにすると神の怒りが溶け、「鳥扇」をもって扇ぐなどの呪法を指示し、それでもなお防除できぬときは、「牛の宍にくを溝口に置き、男根形を作って以てこれに加え」よと教えを垂れた。すなわちそれに従ったところ、苗葉は忽ちに復活し、年穀の稔りはゆたかであっった。

田の神を起こらせてしまった田主は、牛の肉と男根形を供えて神の怒りを鎮めたところ、穀物は豊かに実ったという。牛の肉は神に祀る食べ物である。男根とは男性の生殖器のことで、人々は石や木を削りこの男根形を大地に突き刺し根を張らせて生殖、穀物の稔の原動力となる力を期待したというのが一般的な見解である。稲が危険に晒されるのは台風、日照り、洪水、はたまた虫の大発生は極最近まで人々を苦しませた。一七三一年の享保の大飢饉はイナゴやウンカが原因の蝗害であった。果たして、日本の風土は稲作に適していたのか、疑わしい。稲と稲作民の涙ぐましい移住と移植の歴史は『播磨国風土記』讚容郡の嬢の地名説話にも書かれている。「生ける鹿を捕り臥せて、其の腹を割きて、其の血に稲播き。仍りて、一夜の間に、苗生ひき」とあり、鹿も供犠獣として用いられた。稲作とは関係のない鹿が生け贄にされるのは、狩猟時代の儀礼が稲作にも用いられたからである。カミは万能だ。

****

牛に比べて馬の方が供犠となった例は少ない。むしろ神馬として生馬を献上する風は古くからあったらしく、たとえば『常陸国風土記』には、鹿嶋大明神に生馬を献上したのは崇神天皇の御世からだとしている。『肥前国風土記』佐嘉郡の条をみると、佐嘉河の川上に「荒ぶる神」がおり、往来の人々を半死半生の目に遭わせるという。そこで県主らが祖神に占ってもらうと、土蜘蛛の巫女である大山田女と狭山田女の二人に神託があり、土で人形と馬形を造り、荒ぶる神に献納するようにとのことで、その通りにすると荒魂が静まったと記している。この記事と遺跡から土馬の出土することが対応する。やがて木製馬形とさらに馬の形で作った板立馬となり、最後が絵馬となる(『神と仏』宮田登)。絵馬の奉納は、すでに奈良時代にも行われていた。はじめ神の乗り物として神馬をいきたまま奉納したらしい。しかし、しだいに板に馬の絵を描いた形が用いられるようになり、中世以後には、個人の心願を表す小絵馬が民間に盛んと成った。今に神社へ絵馬を納める源流は、即ち是に出発しているのである。

水を田んぼに流してくれるのも神であったが、何時の時代からか、民間ではその名前がカワゴとなり、カッパとなり、エンコとかウソとも呼ばれているが、河にすむ妖怪になった。一方で、山の力はシシという名前で山の獣、動物である鹿、熊、猪に溶け込んでいる。山ではシシ、川ではカッパである。長野県南安曇郡地方では、天王を田の神とみる見方もあるが、六月一日を「天王おろし」同十四日を「天王あげ」といい、初成りのキウリを供え、川に流す事をしている。水が成分の大部分であるキウリは、カッパの大好物とみられていた。山城の貴布禰神社は鞍馬山の西方の山の口に拝所があり、木船の河上にあるので河上神とも呼ばれ、賀茂別雷神社の摂社になっている。つまり水源地の川富山と雷に関わる神であった。八一八年に大社に列し、雨乞いが行なわれたが、以後は丹生川上社と同じく、日照りには黒馬、長雨には白馬を献じて祀るのが恒例となった。黒は陰で雨、白は陽で日を表しているというのは、陰陽思想の名残りだろう。雨乞いの方法もさまざまなものがあった和歌山県西牟婁郡兵庫県川辺郡、福島県会津郡地方等でも、牛馬を殺してその生首を河の深淵に投げ込む方法をとっている。河童が馬を河に引き込むというのも、この風習の名残かもわからない。和歌山県西牟婁郡北富田村庄側に牛屋谷という滝がある。昔から干ばつのときには村民が集まって祈雨するが、総ての方法を尽くしてもなお降らぬ際は、牛の首を切って、滝壺の柵に置き藤蔓で堅く結え付け後を水に返ってくる秘法を行うことになっている。福島県南会津郡大戸村の雨乞いは、猿丸太夫の古跡という上の沼へ、牛の頭を投げ込むのであるが、此のことは大正十三年の大旱にも行われた。

*****

神とは先祖の霊とも親しい間柄らしく、先祖の祭と同様に現世の人間も共に宴を催す。長野県諏訪大社の御頭祭天明四年(一七八四)に其の祭りを実地見聞した菅江真澄の記録によれば、七十五頭の鹿の生首、猪、兎、魚介類、猪の皮焼き、鹿の脳味噌和えなど、祭壇にまつられた猛禽類の類いは、眼を見張る物だったらしい。恐らく諏訪一帯に大勢の狩人が住んでいたから、この神社にはいくつもの御狩神事が存在するのだろう。さらに注目すべき事は「諏訪の勘文」に、それらの神餞を神事に参列した物達一同が食する事が「神人相嘗める」と記されていることである。祭りの後に開かれる直会は、席を改め居直ることのように解釈されているが、実は神に供えた者を自分たちもいただくことであり、ナムリアイ(嘗むりあい)からナウリアイ、ナオライに転じたといわれる。(伊藤曙覧『とやまの民俗芸能』)諏訪大社の場合は狩猟風俗と関わりがあり、稲作とは趣が異なるが、供え物をカミや先祖と共に食べることが想定されている。諏訪春雄は自身のHPに登載した「能の誕生」という記事で中国の古代の祭の例を挙げている。

中国の古代祭祀には、尸を立てることが行なわれていた。祭られる神霊の象徴として尸が立てられ、尸を立てない祭りは正祭とはみなされなかった(池田末利『中国古代宗教史研究』東海大学出版会、一九八一年)。尸は天地神の祭りと祖先神の祭りとを問わずに立てられた。尸はその祭りの神霊をかたどるもので、祭主と同姓の直系の孫(『礼記』)、特定の官職身分にある人(『春秋公羊伝』)、祭主と同性の他人(『儀礼』)などがその役をつとめた。尸は屍の原字である。尸は祭りで、神霊にふさわしい衣装を身にまとい、人々の拝礼を受け、ささげられる酒や食物を飲食し、神霊の動作を模倣した。周代の年末に行なわれた臘祭は、人神のほかに動植物の精霊をも祭ったので、この祭りに登場する尸たちは、仮面をつけて猫や虎に扮して、野鼠、猪と一対一で相撲を取った。また、祭りを主宰する祝(祭司)と尸とのあいだに問答の交わされることもあった。『儀礼』によると、祖先を祭る祭りで、祖霊に扮した尸と祭司とのあいだに次のようなことばが交わされた。まず祭司が尸にむかっていう。

「祖先に対して孝心を持つ孫のなにがしは、わざわざ羊や豚、野菜の漬物や塩漬けの肉、きびもちやうるちきびなどを用意し、年に一度のお祭りに祖父のなにがしにお供えします」
これに対して尸が答えた。
「われは祭司に命じてこのうえない幸福を授けさせよう。孫よ、こちらへおいで。おまえに天の恵みを授けよう。田に穀物が実り、寿命が万年もつづき、永遠にうしなわれることがないように」

ここにはすでに素朴な劇の発生がある。中国の古代祭祀に登場する尸は神霊界と人間界の媒介者の役割を果たしていた。この中国の立尸の祭りは、周代にはさかんに行なわれていたが、中心地域では春秋戦国時代以降、しだいにすたれていったとされている。しかし黄強は、『魏書』『理道要訣』『朱子語類』などを引用して、辺境地域および少数民族のあいだに「立尸」の風習がのこされていたことをあきらかにしている(「尸と『神』のパフォーマンス」『日中文化研究創刊号』勉誠社、一九九一年)。

能でも「翁」は特別な曲とされているが、この翁の姿は先祖であり、現在を生きる人達と、カミを仲介する魂であった。金春禅竹『明宿集』で「翁」について「第一、住吉ノ大明神ナリ。或ハ諏訪ノ明神トモ、マタハ塩釜ノ神トモ現ワレマス」と述べている。住吉は大陸との繋がりが強い神様であり、諏訪は原始的な生贄の風習が残る山の神様であり、塩釜はその名の通り塩をつくる釜の神、火の神であり海の神であり水の神である。

***** *

先祖が語り継がれ、先祖があたかも実在するように振る舞われる非日常の時空が祭である。日本各地の風俗にも、訪れる客人が家を祝福するので丁重にもてなす振る舞いが残っている。この時、異様な格好をしてくるカミを折口信夫は「マレビト」と名づけているが、擬人化されたカミ、先祖の霊に他ならない。人の世と同じように、先祖も生殖をする。現代でもホトケサマにごはんをあげる。姿は見えずとも先祖の力でこの世に子供が生まれると考えていたかも分からない。山で獣をとって暮らすマタギも、生殖器を出して山の神を喜ばせれば、山の中で落とし物が見つかるという伝承をもつ。(『山の人生』)生殖の振る舞いはそれを先祖に見せて喜ばせる事でもあったし、振り乱し叫ぶ女の様子に先祖と交信する巫女の姿を見たかもしれない。解釈はともかくとして、実際に生殖には労働力をうみ生産性をあげる機能があった。うむ、はらむ、はえるということから古から人間の営みは婚姻と繁殖を結びつけてきた。結ぶ・生む・産む・むすこ・むすめといった言葉の音の中にしっかりと残されているのではないか。『日本書紀』天智天皇三年の条には、新婦の床に一夜にして稲が生えみのり富貴を得たという説話が書かれている。

十二月甲戌朔乙酉、郭務悰等罷歸。是月、淡海國言「坂田郡人小竹田史身之猪槽水中忽然稻生、身取而收、日々到富。栗太郡人磐城村主殷之新婦床席頭端、一宿之間稻生而穗、其旦垂頴而熟、明日之夜更生一穗。新婦出庭、兩箇鑰匙自天落前、婦取而與殷、殷得始富。

芸能化されてはいるが、今も見ることができる交接の事例として下赤塚(東京都板橋区)の田遊の芸能がある。ここでは呼び出しに応じて翁面の太郎次(田主)と媼おうな面のやすめ(孕み女)が出てついには抱き合います。着飾った早乙女に対し田主と媼おうな(怪しの女)をわざと乱れた格好で登場させるのも趣向のうちで、持ち物のうち一番目立つのが、二人合い連れて登場する傘(破れ傘)です。。さしかける傘は聖なるもの標として遣われています。もちろんかさという小道具の演出は「傘」が発明されてそれが「神聖」なイメージがくっついてきてから付け足されたものではあるのでしょうが。このように性的な物真似をする風俗が田植えの行事と一緒になっておこなわれた記録は、藤原明衡の著した『雲州消息』に描かれている。

有散楽之態、仮成夫婦之態、学衰翁為夫イ莫女宅女(かほよき)為婦、始発艶言、後及交接、都人士女之見物、莫不解顎断腸

ここに描かれた様子は村人の年中行事としてではなく、貴族の娯楽のために行なわれた見せ物だが、ここでも老翁と女とが夫婦になってめんめんと痴話を重ね、挙げ句の果てに交接に及ぶ芸が見られる。想像しただけでもかなりショッキングな場面で、群衆がそれを見てゲラゲラ笑ったという。この生殖の力を信じていたのは原始的な生活では稲作以前から行われていた様子が『世界舞踊史』に書かれているので参照されたい。実りのための振る舞いではなく、もともとは翁、媼に代表される先祖代々の神々が現世の人々に伝える暮らしの知恵の一つである。再現して実際に目の前でしてみせることが、生きている物に取って意味の或ることである。大和磯城郡纏向村と隣り村の織田村とで行う綱掛の神事は更に一段と露コツを極めている。纏向の春日神社は男神でこれを象徴するために一反歩の藁を用いて長さ一丈あまりの輪迦(りんがー)を、織田の市杵姫神社は女神で同じく此れを象徴するために藁で一丈あまりの与仁(よにー)を作り、毎年陰暦一月十日の零細に神官村民層でとなり、春日神社の神木にこの二つを掛け、綱を以て生殖の真似をさせるのである。此の機会なる神事は明治になってから一度中止されたが、その年疫病が流行し農作物が凶損したので、また再興することとなり、対象の今日でも白昼公然と執行されるのである。ここに濁酒をかければ完璧である。陸前遠野地方では毎年二百十日の前日に村中で大きな人形二個を拵(こしら)え、それへ瓜で陰陽の形を作り添えて田の方へ持って往って道の辻で両方を合わせる行事が在る。これを雨風祭と云うて居る(遠野物語)。この祭は今暁寺に依って雨風の和順を神に禱る一種の禁厭的(マジック)であることは言うまでもないが、それが農業の豊作を祈願している事も勿論である。信濃と三河の国境にある島田村の田遊びの神事には、尉と媼に扮した両名の者が神楽殿で(門圭)房の所作をして神いさめをする。琉球八重山島のシヌグは農業再であるが、此のおりに男女に扮した者が生殖の真似をする。なおこれらの派生と思うが、奥州秋田地方では田植の終わった拠るに、雇人の男女に交驩させて田の神を和める。また同じ秋田県の某地方では毎年養蚕時には大勢の男女を雇い入れるが、蚕が上簇する前日に二人の男女が蚕室に入って包容する。それを他の者がみつけて主人の許に往き「お目出度うございます。今年も沢山の繭が出来ます」と祝言をのべつ土俗がある。思うにこれは男女二人を蚕の神にしたててつくる劇である。

生殖の真似事をする一方で神の妻になること。血を混ぜること。これも、 肉体を直接神に捧げる儀式だったのかもしれない。人は、人を生贄として神に捧げて来た歴史がある。その行為が、神の食前に捧げるものであったか、それとも婚姻するための方法だったか。どちらにしても血を混ぜることが眼目であろう。

岩手県稗貫郡宮野目村大字葛の諏訪神社へ、昔は三年毎に十歳、十五歳、二十歳の女子一命を擇み、祭礼の折に生贄として供へたものであるが、その後歳を経て人牲の風変じて鹿に代へ、今にその遺骨を埋めた人塚、及び鹿塚と云ふが存している。然るにその後には鹿をも犠牲とすることが困難となり、北上川のうちなる雲南堀にて捕ふる鮭に代へたが、これも後には捕れぬやうになったので、今では雑魚を供へることになっている。(人類学雑誌巻二の三)(「埴輪の原始型態と民俗」中山太郎)

敦賀死曽々木の八幡神社では、供え物を一四、五歳以上で未婚の娘が、晴れ着に旅は出しの姿で、頭上に載せて運ぶ。滋賀県伊香郡の集福寺では、供え物を神社に運ぶのは女性であり、当日一月一〇日は集落を流れる川で早朝にミソギをし、ハレ着に錦帽子をかぶり、赤い襷をかける。この役の娘を、神さまにあげる者だというので、ミアゲと呼んでいる。」かつては供え物は手塩を懸けた料理ではなく、娘自身であったと想像できる。(『神と仏』)

新潟県佐渡志摩の伝説の中に、「おとわ池」に関するものがある。昔、金北山麓に寺があり、寺の下女に「おとわ」という美女が居た。或るとき、金北耶麻へ蕗をとりに登り、山頂近くの池で、月経で汚れてしまった腰巻を洗濯した。すると池の水面から、池の主である竜神が若者に変身して出現し、自分の嫁になれという。おとわは驚いて寺の住職と相談するからと、三日間の猶予をもらった。池の主は、三日後かならず迎えに来るといって姿を消した。おとわは返ると住職に相談した。僧は竜神から彼女を守る事を約束し、護摩壇を築いて、経文を一心不乱に誦しはじめた。やがて三日目に白馬にのった若者が寺へ来て、おとわを連れ去ろうとしたが、住職が祈禱しているので、それに妨げられて、寺中に入ることはできない。若者はその招待を表し、大蛇となり寺を十重、二十重にとり薪、大風を起こし、雨を降らせはじめた。おとわはその有様を見て、とても竜神にはかなわないと住職に次げ、自ら寺の外へ出て、竜神の馬にのると、たちまち大嵐は静まり、いい日和となった。おとわは竜神とともに池の中に姿を消したので、以後「おとわ池」と呼ばれるようになったという。(『神と仏』)

下野国足利郡三重村大字五十部の水仕神社の演戯に、この祭神は土地の富豪の水仕女であったが、父吞自を抱えて方向していた。或る年の田植の折に早乙女の昼飯を持参して田へ往った留守に、主人がその父飲菰を殺してしまったので、水仕女は気狂いのようになり付近の池へ投身して死んだ。爾来、その池の側を通る人の蔭が水へ移ると池の主に取られて死ぬので、その池を影取の池と名付け、水仕女の祟りを恐れて神に祭ったのがこの社である。(略)此の演戯に後人の作為が加わっていることは私が言うまでもないが、とにかくこの水仕女が、(一)田植に昼飯を持参したこと、(二)乳吞児が殺されたこと(三)そして自分も死んだと云うこの三点は、他のオナリ伝説と全く共通なものであって、しかもこの三点がオナリとして穀神の犠牲となったことを語る大切なる眼目である。(『神と仏』)
特に若い女子を供えるという振る舞いは、祖先と共に食べる意味をとることはできない。神に捧げられるに値する、妊娠するのに最適な女性との婚姻関係を結ぶために、神の嫁にやるのか、もしくは生贄となった女子を巫女として霊の世界に住まわせ、現世に生きる人たちの願いを叶えてもらうための方法であったか。どちらにせよ死ぬということは向こうの世界にいくことだ。複雑な神と人の関係を解決する行為として儀礼的に残された振る舞いだと思われる。

もっとも、女性の生贄ばかりではない。男も同様に生贄になる。一つの例は男が神に近い神聖な、社会的な地位、つまり支配者の場合である。殷の始祖である湯は、祝詞を唱えるだけの日本の天皇とは違い、自分自身を神に捧げた。

天大いに旱し、五年収らず。湯乃ち桑林に禱りて曰く、余一人罪あるも、萬夫に及ぼすことなかれ。萬夫に罪あるも、余一人に在り。一人の不敏を以て、上帝鬼神をして民の命を傷らしむことなかれと。ここにおいてその髪を剪り、その手を摩り、身を以て犠牲となし、用て福を上帝に祈る。民乃ち甚だ説び、雨乃ち大いに至る。則ち湯は鬼神の化、人事の伝に達せるものなり。(『呂氏春秋』季秋紀・順民)

また人との接触を避け、文化から離し、中国に渡る時船に乗せ、無事に辿り着ければ褒美を与えるが、途中で船が災難に会えば、殺される男がいた。『三国志』魏書・倭人伝で持衰と呼ばれる男である。蚤も虱もとらず、服も洗わない人間が威力をもっていた文化もあったということだ。彼らはその後日本に流行する「キヨメ」とはかけ離れた乞食の姿をしているが、社会制度の枠組みの中で「穢れの多い」人間が「清目」の役を担うことは現在も変わらない。

其の行来・渡海、中国に詣るには、恒に一人をして頭を梳らず、蝨を去らず、衣服垢汚、肉を食はず、婦人を近づけず、喪人の如くせしむ。之を名づけて持衰と為す。若し行く者吉善なれば、共に其の生口・財物を顧し、若し疾病有り、暴害に遭へば、便ち之を殺さんと欲す。其の持衰謹まずと謂へばなり。

***** **

佐伯安一の『富山民俗の位相』では、シトギという、モチのような食べ物を神様に供える風俗が現在も行われている。古老の語りではこの「モチ」が生贄の代わりなのだという。

夜中献饌と生贄伝説について。下無しの夜中の十二時に宮へ備えるのに代表されるように、夜中に備えることが共通の傾向である。上梨は夜中に備え、上松尾・大島・梨谷は朝早く備えているのもこれに通ずる。この夜中献饌を生贄だからと解釈をするところがある。梨谷と上松尾のところで少し触れたが、上松尾の南正太郎老や下無しの久里久直老も「昔、娘を生贄として神様に上げた代わりにシトギを上げるのだ」と語った。石川県押水町北大会の諏訪神社九月二十七日の例祭に、ヒトミダンゴといって白米の粉を水でこねた鏡餅がたくさん供えられる。村之伝説では毎年一人の人身御供を上げたのを後に生団子をもってこれに代えることを許されたからとしているが、シトギダンゴの訛であろう(『総合日本民俗語彙』第三巻一三一六頁)とある。

シトギは、現在も韓国語でも떡[?tok?]と言われているのがそれであり、かつては[stok?]と読まれていたが、[s]の音が抜け落ちた歴史をもつ。この言葉は恐らくドングリを도토리[dotori]と呼び交した時代にまで遡ることができる。『富山民俗の位相』から引けば、栽培植物学者の中尾佐助は「シトギ考」(朝日新聞昭和四十八年二月三日付)のなかで、「おそらく、東アジアの照葉樹林文化が、ドングリや野生イモ類の水晒しの方法を日常的なものとしたところへ、イネを受けとった際に、従来の方法を適用したものであろう。すなわち米の料理法としては非常に古形のものである。それが日本にも伝えられて、神の食事用として、シトギが今日まで残されたものと解釈してよいだろう」と述べている。恐ろしい時間の流れを、人は流れて来た。

***** ***

祖霊祭とは、先祖の力を現世に呼びまねくことに目的がある。それが元々術者が媒介していたのが、巫女不在の状況で踊りだけが残ったのが現在の態である。だから盆踊りの類いにやたら妖怪めいた仮装をして行進する人がいるのが正統である。祖霊になりきることが盆の行事であり、だから顔を隠す花笠や手ぬぐいは現世に生まれた自分の顔と名前を消し踊る。夜が明ける迄は、男女の交わりは先祖の交わりであり、時間も、自他も交錯するマツリである。この儀式が踊りのまま自由解散する地域もあれば、きちんと祖霊を送る地域もある。長野県阿南町の「新野の盆踊り」では、最後の夜明け前に「能登」という踊りが部落の境に向かって踊られる。この行列にはお盆の飾りとして飾られた家々の切子燈籠がすべて持ちよられ、行列が境に達するとそこで燈籠は燃やされる。こうして祖霊をあの世に送り、みな後ろを振り向くことなく村に戻ってくる。死者と生者の境目である。だがどうして盆の時期に死者が生者と接近するのか。年寄りはホトケサマに朝晩と供え物を施すのはどうしてか。仏間もしらぬ若者には理解できない行為になるだろうが、これはかつて日本を動かしていた信仰であり、社会制度であり、旧習である。『インドネシア芸能への招待』で小谷野哲郎が述べるバリの現状を読めば、かつての日本の仏に祈る心も想像できるだろうか。
そもそも初めからして、バリは儀式と芸能の島なのだ。バリの人々がこんなにも儀礼を、芸能を盛んに行っているのは、我々に想像できるような単なる信仰心というよりも、もっと現実的に、これをやらないと人々はバリの力強い自然の中で生きて行くことができないという実感に基づいてのことなのだ。バリの人々は、朝夕の供物がおろそかになることを嫌う。バリに通い始めて間もない頃。日本語を勉強している友人がたどたどしい日本語で、「昨日の夜は悪霊がやってきました。寝て居たら、扉をドンドンドンと叩きます。よく考えたら夕方にしなければいけないお供えを一つ忘れていました。こわかったけど、『明日は絶対に忘れません!』と言ってあやまったら悪霊は行ってしまいました」という。(略)芸能にしても、儀式の場では当然のこと、観光客向けの公演や海外公演においても、必ず公演前には供物を供え、祈りを捧げ、場を清めてから開始される。

***** ****

生贄という社会制度は時として支配者が民衆を支配する演出になる例がある。日向数夫が『古代文字』で述べるところを引用する。長々敷く引用するが、「神」と「支配」という言葉の意味に気づかされる名文である。

中央グァテマラからユカタン半島にかけて紀元三〇〇年ころから九〇〇年まで、特異な文化が栄えていた。そこには彫りの深い整った顔立ちの民族があり、かれらは自分たちを誇らしげに「太陽の民族」と称し、まったく類例のない”文明”を形成した。かれらの社会は一種の氏族社会で族長にひきいられた氏族が単位であり、知力と財力に富んだ族長中の少数者が神官をかね、アニミズムの分厚いベールが覆うマヤの一般人民を協力に支配していた。かれらは数学のゼロという概念を、世界のどの民族よりも早く理解する知的素質に恵まれていた。また、かれらは天文学にも驚くべき知力を発揮した。(略)これらの驚嘆すべき知識は、一般の人民にとっては人間業では考えられない事であって、かれらは神官たちを畏敬しかつ恐怖した。神官たちは、やつぎばやに神殿の建築工事を拡張し、人民のエネルギーをそこに注ぎ込ませ、高名に、搾取と専制支配を神聖なベールで陰蔽した。(略)はじめに、メキシコ沿岸の古代文明を形成した種族は、オルメカ族といわれる。遺跡から掘り出された遺物の放射性炭素測定値は、それらが紀元前八〇〇年ごろのものであることを明らかにした。オルメカ文化の形象的特徴は、ジャガー(アメリカ豹)の崇拝にみられる。ジャガーは、このあたりではもっとも寧猛な動物で、そのらんらんたる眼光が古代インディオの宗教的思念を支配したものとみられる。ジャガー神は写実的に描かれたもののほかに人間と合成したものもある。ジャガー神は力と威容、または超越者の象徴として崇拝されたのであろう。オルメカ族は、このジャガー神によって宗教的支配体制の強力なパターンをつくった。オルメカの都市ラ・ペンタは海上の面積五平方キロ程度の小島にあって、島全体が一種の祭祀センターを形づくって板。決められた宗教的儀式があるとそれぞれの地域から一般人民が舟にのって集まり、祭祀に参加した。また、かれらは、食糧と労役を徴発され、聖なる場所の維持にあたらされた。(略)また、強大な神官は王となって法制的に光臨した。王はジャガー神であると同時に主権者であった。王は人民を意のままに審判し、労力を収奪し、殺戮した。支配と被支配の極限の論理がこのようであったとしても、その関係の不自然さにおいて、破綻はすみやかに興るべきであったが、それが持続されたのであった。トーモロコシ栽培による一応の生産力が過酷な状況を耐え忍ばせたのであろうが、いま一つ古代のインディオの宗教的マゾヒズムをあげておきたい。住民達が長期簡易渡り自らすすんでトーもろこしを神殿に捧げ、また営々と巨石を運び続けた仔細は、なんらかの充足感なしには考えられないからである。(略)ラ・ペンタは手ぜまとなり、第二ラ・ペンタとして造営されたのがモンテ・アルバンである。壮大な石造りのピラミッドや儀式用建造物の建ち並ぶこの遺跡は三つの谷尾見降ろす山の突端にある。このモンテ・アルバンから発掘された奇妙なレリーフは、より暗示的であった。それぞれ手足を折り曲げた人間がみられるので踊る人と呼ばれているものだが、じつはこれが死体を表しているのであって、その多くは性器を截断され、傷口からむごたらしく血を流しているさまが彫られているのであった。古代メキシコの歴史に現れてくる大量の生贄の最初の例でもある。

人が国家をつくり出す時、人と動物とが合わさることで神が生まれた。人が「物真似」を始めてから、誰かが「神」を演じるようになったとき、「神」に変わって人々を恐怖させることが舞台の上で許された。捧げる者と、捧げられる者の間にあって、観客は陶酔する。「歴」の理解によって気象現象は「神」のみぞ知る秘密であり、民は生贄の死が新しい太陽の復活を意味することを本当に信じたのである。その時期を知る王は、平和を与える神として人々を恐怖させ、跪かせたのであった。カミは動物の姿をして表れ、人はカミを畏れ恨んだ。多くの人々がカミによって殺された。カミは脅威であり、力であった。生贄とは、神を演じる人間が民に要求した、劇的な演出であった。

祈って待つ

神は人に都合のいい力を与えてくれるが、都合の悪いこともある。〈カムイ〉も〈ピリカ カムイ〉(善い・美しいカムイ)と〈ウエン カムイ〉(悪い・敵意のあるカムイ)、もしくは〈コシネ カムイ〉(軽い・位の低いカムイ)などに分別される。 それぞれの樹木に善悪無数の鬼神が住んでいると信じている。人が木から落ちて死んだり、倒れた木にうちつけられたりすると、それは樹木霊のせいだとされる。そんな木はできるだけ小片に切り刻んで四方八方に撒く。これと本居信長の神は共通する。カミには「貴きもあり、賎しきもあり、強きもあり、弱きもあり、善きもあり、悪きもありて、心も行も其のさまざまに随ひて」(『古事記伝』三之巻)人は古来、あらゆる現象を神のシワザとして理解し、或るときは神と対峙したが、或るときは願いを込めて祈った。

石も神であると人々は直感した。現代に道祖神といわれる神は、男女をあしらった姿をしていることが多い。村に入ってくる流行病や貧乏神を防ぎ、おまけに豊かな稔りや安産、多産をも授けると昔から信じられていた。旅する道中の安全をも祈ったらしく、村の入り口や出口といった境、道の辻に立てられている。南大塩の集落でも、尖石考古館のすぐ先の他村に通じる辻にも、人家が途絶えたところにもあるといわれる。青森県の七戸祭りを見に行ったときにたまたまこの「かみさま」を道ばたにみつけた。側で祭りの行列を見物していたおばあさんに話を聞くと、ここでは「あみださま」と呼んでいるという。服を着せられて、食べ物が供えられて、昔は別の場所に置かれていたが、集落が移動して人目につかなくなったためにこの場所に移されたのだという。毎日拝みにきて皆の健康やら無事を祈っているのだと話してくれた。現代では黄色い旗を持った人が道ばたで子どもの安全を見守る時代になったが、子どもたちは「あみださま」に挨拶をしていくらしい。何百年も時代を越えて神は石に宿るのだろう。人はいつからか、石の神に子どもへの祈りを託すようになった。民俗学の業界で道祖神と呼ばれているヒトガタの石はこどもとの縁が強い神である。神か妖精かわからぬが、天児・這子・ほうこ、七夕人形、雛人形、てるてる坊主にみられるように、人形はよく子どもの風俗に馴染んでいる。私は子どものための人形を辿っていけば、最後には板状の土偶にまでたどれると思うのだが、真偽は計り知れない。『本朝世紀』天慶元年(九三八)九月二日に次のような記事がある。

東西両国の辻々に木を刻んで男形・女形の神を作って安置、それぞれ臍の下に陰陽の姿を刻み描いてあり、机上には杯をのせ、童児らが猥らに騒ぎ幣帛を捧げたり香花を供えたりし、これを「岐神」とか「御霊」とか称している云々と。

史料をみていくと昔からこうした石の神はいたらしく、名前もまちまちである。『古事記』には道反大神、塞坐黄泉戸大神、衝立船戸神と書かれている。『日本書紀』では最後にその妹のイザナミ命自らが追いかけてきたのでイザナギが大きな千引の石をその黄泉比良坂に塞ぎました。この石は黄泉津大神という。また言うには、男神に追いついたことから、道敷大神と名付けたという。
その黄泉の坂を塞いでいる大岩を、道反(チガヘシ)の大神と名付け、また、その入口を塞いでいる黄泉戸の大神ともいう。そして『延喜式』では道饗祭祝詞に「大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、八衢比古・八衢比売・と御名前は申して辞竟へ奉らくは、云々」とある。源順の著で日本最小の漢和辞書といわれる『和名抄』では道祖は「さへのかみ」岐神は「ふなどのかみ」、道神は「たむけのかみ」とよませている。日本語の「境」は、坂、崎、底、沢、などと語源を同じにする。柵、割く、避ける、マタは、根底に境目の意味を持つ。

西南角で行なわれた道饗祭の跡地あたりにあったのが五条の「道祖神」がある。今、京都駅西、八条に道祖神社がある。『都名所図会』に「古は五条新町の西にあり、道途神と称す」とあり、その旧舎は今でもあるが、民家に挟まれて全く目立たない。八条の社は九世紀、宇多天応の勅願所として建てられ、サルタノヒコを祀る。神社の利益のために、神話以前から存在した道の神に、神道流の新しい名前がくっつけられたのである。京都では「地蔵盆」という子どもの祭りが、今でも毎年行われている。地蔵様は人の心が自然の中に浮き出た道祖神に阿弥陀仏の観念を背負わせ賽の河原の物語にすり替えてつくられたものだ。寺院が人の布施をもらうために人々の心を利用したのであって、顔と名前が改められたサエノカミである。サエノカミという名前も、それ以前につけられていた「カミの名前」を大和流に改めたものである。『今昔物語』巻十三之物語は不甲斐ない道祖神が法華経の力で菩薩に生まれ変わる、というのが物語の格子で、法華経を宣伝するための説話であるから、道祖神はだらしない姿に書き上げられてしまった。時は仏教の全盛期で、土俗の神々は本地垂迹説のもとに外来の仏教神の配下におかれたことを物語る。極めつけには、地蔵菩薩は子供を守ると説明され、地蔵盆では子供達が主役となった。 中世から近世へ、地蔵信仰は道祖神や塞の神といよいよ濃密に混淆して見分けがつかなくなる。今では人と同じ姿をして、交差点で車という悪霊が子どもたちに悪さをしないように監視している。

道祖神は木の神でもあった。木の棒の姿をした道祖神として、神話では「杖に成りませる神」とよばれている。イザナギが無くなったイザナミが禁を犯して黄泉の国に訪れ、黄泉軍に追われて逃げ帰る時に、手にした杖を投げて難を逃れたが、此の杖に化成した神を書紀は「岐神と謂ふ。此の本の名をば来名戸祖神と曰ふ」と述べている。ちなみに此の神話によって、道祖神には防壁という能力があるといわれる。というよりも、境に不意に置かれた石や木が、人や動物、神が不用意に入り込まぬような標になっていた。柵の棒がそのまま象徴的に神の姿をとった。韓国にも門のようにそびえ立つ木の柱に、顔を刻み込み村の入り口、道ばたに立てている。この神の体に刻み込まれた文字は「天下大将軍」「地下女将軍」であり、韓国語では장승チャンスンという。男女をあしらった日本の石像と同様に、人々はこの神の姿に万物の生成原理である陰陽の力を象徴させている。

**

木の棒を神にみたてる風俗はアイヌにも持っていた。アイヌの場合は神を祀るために木の棒からヒトガタをつくる。ヒトガタといっても、服のような房をつけた木の棒である。マンローは『アイヌの信仰とその儀式』の中で木に宿る魂の話を次のように書いている。

樹木には、〈シランパ カムイ〉の優れて大きな魂から得た〈ラマッ〉が宿っているとされています。アイヌにとって、悪神たちから身を守り、自分たちの日常生活を豊かにするためには、この生きている樹木程役に立つものは他にありません。従って、生木を削って美しく縮らせた〈イナウ〉がいかに大切なものであるかは言うまでもないことです。人々が手慣れた小刀さばきで〈イナウ〉の形を作り上げたとき、その〈イナウには生命がみなぎっているように見えます。言葉で表現する事はできなくても、間違いなく〈イナウ〉の中に存在している超自然的な力は、〈イナウ キケ〉(〈イナウ〉から削り取った縮れた房)にまで内在しています。この〈イナウ キケ〉は、実際にはどうであるかはわからないまでも、それが〈イナウ〉の髪の毛や衣服を表現した者であると考えられる場合がよくあります。この〈イナウ キケ〉は、人々の守護神として広い範囲で用いられています。「この世には〈ラマッ〉を持っていないものなんか何も存在しないよ」「〈ラマッ〉は至る所にいて、これはなくなることのない不滅の物である」それぞれの〈ラマッ〉には、その量の程度や集団化の状態には極めて大きな差がある様です。植物の種子の〈ラマッ〉と人間の〈ラマッ〉とは異なっているとのことです。万物にこの〈ラマッ〉が宿っているという考え方を押し進めて行けば、人々が何故「お守り」に信頼を抱いているかという訳も理解する事が出来るでしょう〈イナウ キケ〉(木の枝から削り取った縮れた、神聖な削り房)にくるまれたある種の獣の頭骨は、〈ラマッ〉がぎっしりと詰められた「お守り」の役目を果たしています。〈イナウ〉はまた、〈ションコ コロ クル〉(使者)として、つまり人間と神々との間の仲介者として、さらには(おそらく)神と神との間の仲介者と見なされているのです。この〈イナウ〉の削り房は、囲炉裏の上に水平に吊るされている〈トゥナ〉(木枠の火棚)に、〈シュワッ〉(炉鉤・自在鉤)に、その他ほとんどの大切な家具・建具類に結びつけられています。(略)北部の地域で行われている熊夫栗の儀式では、仔熊の身体をこの〈イナウ〉の削り房でつくられた衣装と耳飾りで飾ります。この削り房を縒り合わせて作った女性用の腕輪は、それが病気の悪霊を自分の身体から追い落としてくれるという宗教的な習慣から生まれたものです。

続けて祈る時には、イナウとカミに酒を捧げる。

アイヌにとって、イナウは霊力をもっており、人が積極的に利用できるお守りでもある。イナウの〈ラマッ〉を使って、アイヌは神にお願いごとをする。本当に力のある、大きな神、カムイにお願い事をする時には、イナウを通じて祈らなければならない。 通常の祈りの作法は、まず左手に酒の入ったトゥキ(酒盃)をもち、右手のイクパスィで酒を少しすくい、それで軽くイナウに触れながら、祈りの言葉を唱える。そうすることによって、イナウが鳥の姿になって、拙い人間の言葉をカムイに伝えてくれると信じられている。これは神々への願い事を伝える箇所を示すものであり、大抵の長老たちはこれが〈パルンペ〉(舌)であることを知っています。従って長老達が神々に祈る言葉の中に、自分の話し方は拙いものであるが、「捧酒箸」は自分が言おうとしていることを正確に伝えてくれるので、という文言が聞かれます。チセ(家)の中央にある炉端がこの儀式の祭壇である。

二〇一二年、岩手県大船渡市赤崎町の尾崎神社で、秘宝として保管されていたイナウが開帳され、震災復興を祈る儀式が行われた。このイナウが保存されていた木の箱には、「御寶物 稲穂壱振 社務所」と表書きされており、どうやら当時の和人はイナウを稲穂と理解したようだ。旧赤崎村の村史には「宝物 稲穂一本、往古より鄭重に保存しあり」と記述され、「理久古田の神にささげし稲穂にも/えぞの手振のむかしおもほゆ」という和歌がそえてあったという。HPに記載された記事を引用すると次のようになる。この神社も地域も、元はアイヌの居住地であったようだ。

民俗学者の谷川健一さんは二十七年前にこの神社を訪れている。谷川さんによれば、尾崎神社の古名は「理訓許段神社」。この名前はアイヌ語による読解が可能で、「rik・un・kotan」(高い所・にある・集落)の意味だとしたうえで、次のように述べている、云々。

***

東北地方一帯に、特に秋田県には有名な藁で出来た道祖神の祭が現在も村落で行われている。詳しくは『人形道祖神ー境界神の原像』で神野善治が多くの事例を挙げているので見られたい。一方で北海道のアイヌでは、家のカムイ〈チセイ コロ カムイ〉といったり、翼の付いたイナウ〈シュトゥ イナウ カムイ〉という、やはり縮れて削られた〈イナウ〉の削り房を衣服のように肩から下げているイナウを用いていた。〈チクペ ニ カムイ〉〈キナシュッ カムイ〉〈コタン キキカラ カムイ〉〈ペヌプ カムイ〉など様々な形と名前がある。どのカムイも村からあまり遠くない、村に入る上手と下手の道ばたに取り付けられていて、流行り病の悪霊が村の中に入ってくるのを防ぐ役割を期待されている。期待されていることは道祖神とよく似ている。アイヌの村を守る〈カムイ〉は大抵は男性とされ、普通はヨモギ(蓬)で作った槍または剣を身につけています。高位の神から授けられた〈ラマッ〉(魂・霊魂)を身につけ、武器を纏う事で、これらの〈カムイ〉はただの〈イナウ〉に増して強い力を持つようになるという。同じように武器を持つ道祖神が東北地方で未だ継承されているのは、東北日本がかつてアイヌ文化圏にあったことを示している。イナウは人間がカミを利用するための道具であり、人間はカミとして木を利用した。例えば、木は病気をなおすにも、道具をつくるのにも、家を造るのにも、食べ物を食べるのにも、季節の変わり目を知るのにも、人間の役に立って来た。人間は言葉を介することなく誰かが木のお告げをきいて、その利用法を伝えて来ただろう。こうなれば木の万能性は神秘的になり、人間の創造力によって神になる。切る事は殺すことだった。それを新たに立てたり、顔をつけたりすることで命、魂を吹き込み人間の役に立てた。この段階で、神はもはや人間に使用され意味のある道具である。だがら逆に、人の悪さをする神は徹底的に排除された。

アイヌは北部で日本の直接の隣人であり、其の山の神は熊に等しい。彼等は、それぞれの樹木に善悪無数の鬼神が住んでいると信じている。人が木から落ちて死んだり、倒れた木にうちつけられたりすると、それは樹木霊のせいだとされる。そんな木はできるだけ小片に切り刻んで四方八方に撒く。(ネリー・ナウマン『山の神』)

創り出した人間ですら制御がままならないカミもいる。村を守るカムイの中でも、〈イモシ カムイ〉の力は強すぎて、接近してくる悪性の流行り病が実際に目の前までやって来て、どうにも仕様が亡くなった時に最後の手段としてこの〈カムイ〉の力を借りるという。このカムイに頼りすぎると、力が溢れすぎて死者を呼び覚ますことにもなるらしい。N・G・マンローは一目見ようとカムイをつくってもらったところ、写真を撮った後、直ちに解体されて「送られた」という。

ヨモギは薬草としてアイヌが日々利用している薬草であり、村を護るカムイにも、同じ役割を期待した訳である。同じような風俗が中国にもあり、日本にも伝わっている。桃太郎伝説よろしく、桃が鬼を払う言い伝えである。「桃は鬼のおそれるものだ。」(『周礼』「戎右」)とあり、植物が神、鬼、霊と結びつけられる。春秋時代の衛の霊公のむすめは、夫が死んだときに「桃湯」で死者の体をあらった。((『喪服要記』)また喪のときに、巫祝にさきがけさせて「桃列」で悪鬼をはきはらわせた。「とうれつ」は桃の木の柄と葦の穂でつくったほうきのことである。 平安時代初期の延喜十八年(九一八)の『本草和名』では和名を「毛々」と記している。李時珍の『本草綱目』は、次のように様々な古書を引いて桃と邪鬼との関連性を記している。『典術』には「桃なるものは西方の木、子木の精なる仙木であって、味辛く気悪し。故によく邪鬼を厭伏し百鬼を制す。今一般に門上に桃符を用いるのはこれに因ったものだ」とあり、許慎は「鬼は桃を畏るので、今一般に桃梗を杭(畜類をつなぐ杭のこと)につくって鬼を辟けるのだ」『礼記』「王弔すれば巫祈り、桃の枝で作った帚を以て前引きして以て不祥を辟る」。『礼記』は、中国の五経の一つで、周末から秦・漢時代の儒者の古い礼に関する説を集めた書である。

帚が霊力をもって用いられる例は日本の民俗にも数が多いようだ。カカシも木で作られ、箕笠を着せられて、立たせられる。吉野裕子は「蛇」の古語が「カカ」であり、山の神であるたんぼの守り神もカカシと呼ばれるのではないかと述べている。アイヌの〈キナシュッ カムイ〉の模型も草を束ねてつくった蛇の形をしている。この模型は病気の治療や予防のために家屋の中に置かれていたが、これはまた、出産の際に母体を護るためのお守りともされていたらしい。食料貯蔵庫の中で鼠を捕らえてくれる守護者として、蛇は〈プ エプンキネ カムイ〉(倉を護る神)という名でも呼ばれていた。稲を刈り取る前も、刈り取った後にも、カカにお願いをして稲を護ってもらったいたわけである。ただしカカシは、何時代から使われている言葉かしらないが、蓑や笠をかぶる姿は鳥追いをしていた非人、乞食を真似したものであろう。門番も非人の仕事の一つだったならば、彼等の役割は殆ど神に近かった。彼らの役目は魂を守ることである。正月になると家の門に置かれる門松も、元は正月になるとやってくる非人であり芸人の松囃子の代役を務めるようになった神である。後に神はシシの姿をして目の前に現れる。「あっちの世界」にいる山の神すらも木彫りにされ、「魂を入れる」儀式によって人に手なずけられる時代がやってくる。

****

「願をかける」などという言葉があるが、もともと「かける」というのは木に掛けることであった。ここには立木に生命の力を信じる人々の思想が残っているような気がしてならない。神野善治の『人形道祖神』で紹介されている東北地方のカミがなぜ木にもたれかかっているのか、関東の「虫送り」も最後に何故「虫」を木に掛けるのか不思議に思ったものだが、どうも北方民族共通の風習であるらしい。

アルタイ諸民族の過去をあらうと、北方の森林文化、南方の草原文化という二重の文化につき当たる。草原文化は遊牧を特徴づけるものであって、各地の発掘物に最も古い諸特徴をとどめている。白樺樹皮で覆った円錐形天幕をその本来の住居とする、森林分かもしくは狩猟文化の担い手たちは、起源的にはもっぱら狩猟によって暮らして来たと思われ、後になって新しい副業としてトナカイ牧養もくわわった。いくつかのテュルク系民族がトナカイを常用に利用した時、明らかに草原地帯の馬が手本となっている。すでに青銅器時代の墳墓から、主人の傍らに鞍をつけて葬った馬が発見されている。さらに狩猟文化の特徴は、すでにかなり早くから死者を地下に埋葬した草原地帯の諸民族とは異なり、死者は樹上あるいは木の切り株の上に固定した台の上に葬ったことである。(『シャマニズム』ウノ・ハルヴァ)

ラマ教の影響を受けたソヨートもまた、多くの場合、死者を野ざらしにしておく。火葬は最も厳粛な方法と考えられていて、ラマや貴族だけに行われる。(略)ソヨートは死者を野に放置しておく場合、ところによっては以外の下にフェルトの敷物を延べ、鞍を死者の枕としてあてがってやる。そのほかに、死者には衣服を、特に冬には毛皮を、いろんな道具と一緒に持たせてやる。古代においては、死者の枕辺にその馬をつないでやった事がある(略)黒イルティシ河の岸では、ソヨートは木の枝で机のような台を作って、その上に遺骸を載せて、その傍らに死者が生前用いていた身のまわりの道具、太鼓、装束その他シャマン用の品々は、樹上に懸けておく。さらにブリヤート人のかなりの部分も、ラマ教文化圏に属しているが、場所によっては、昔ながらの固有の習慣を頑強に守っているものもある。特にバラガンスクと殷ディンスク両地方では、著名なシャマンの以外を保存するために、森林の柱の上に棺を載せる習慣が残っている所もある。(『シャマニズム』ウノ・ハルヴァ)

日本の神社には鳥居の原型が「墓」であり「鳥」であったことが想像できる。「マークは旅の途中、二本の杭に載せてあるこどもの棺を見ている。棺には、丸太を割って、くりぬいてから合わせたものが用いてあった。こどもの遺骸は牛の毛布にくるんで、そのまわりには多数の人形が置いてあった」とか、「北方のヤクート地帯では、死んだシャマンの休息所に建てた柱の上に、鳥の像を一つとりつけた。プリクロンスキーは、シャマンが死ぬと、ヤクート人は杭の上に載せた棺の枕元に木製のあお鷹を、足下には郭公の像をとりつけると書いている。」(どちらも『シャマニズム』ウノ・ハルヴァ)という記述は、私たちを育てた北方文化が中国、韓国だけでなく、シベリアまで続いているのだと思わせてくれる。更にクルト・ザックスの『世界舞踊史』には、葬式舞踊と称してこの台を巡って行われた祭の様子を概説する。

非象徴的な《葬式舞踊funeral dance》は、中心点を持つ輪舞とほとんど同じである。ただ、しばしばこの中心に置かれているものが、祝祭の場合とははるかにかけ離れていることが多いというだけである。呪術師、太鼓を叩く者、動物のかたちをしたもの、あるいは食物を載せたテーブルを囲んで、踊り手は踊ることもあるし、あるいは直接に高い台の上に載せた屍体とか火葬に使う積み薪、あるいは死者の骨を取り巻いて踊ることもある。北ヨーロッパでは風習が現在に至るまで残されてきている。デンマークでは棺をまぐって踊る。そしてボルネオのダヤク族は独特のモティーフを作り出している。棺を作るために木が決められると、これが切り倒される前にそれを巡って八回、精神衰弱の年老いた女奴隷が踊る。女家長制度文化にあっては多くの場合、八という数字は完全を表す数なのである。