Contents
第三話 声を懸ける
赤ん坊は生まれた後、大人に混ざって先祖代々の知恵と技を使わなくてはならなかった。季節を知ること、大地の豊かさと恐ろしさを知ることに、大人の語り、歌、踊りや儀式に混ざることは成人するために役に立った。あるいは首飾り、勾玉、土器の装飾から直接に世界の仕組みを見ていたかもしない。縄文時代の土器に見られる模様や、土器の形態そのものが時代を経るごとに変化する彼等の社会と心を映している。縄文晩期に土器のカタチが変化したことと八甲田山の大噴火をみた縄文人が生み出したものだと推測する人もいる。新しい物語も次々と追加されて行く。こうして知らず知らずに、子ども達は昔話、怖い話を聴かされては世界がどんな仕組みで動いているかを想像していく。寺院ではお坊さんが釈迦の世界の理を語り、季節の節目にやってくる「ほがいびと」は四季の巡りを語り歌った。稲作の儀式、雨乞いの儀式、私は「夜に口笛をふくと蛇に噛まれる」と誰かに言われてなんだソリャと思ったことがある。当たり前のように使われる地名にも由来がある。五箇山の小地名には地象語彙にもとづくものの多い。つまり自然尾地形・地質・地物・植生やその利用の仕方、移住地から見た位置の認識、其の地点に顕著な気象状況や災害などの名前をそのまま地名にするのである。例えば起伏が在っても在る程度の広まりのある平地をハラといい、山の斜面で、なぎ畑(焼き畑)の適地をソウレというなど。水田造成をする前の五箇山では、大豆をたくさん取ったという。(『富山民俗の位相』五五七頁)かつては、モノの名前を覚えるだけでも生活に必要な多くの知識を手に入れていた。土地の利用法を土地の呼び名にする方法から、近世は土地の所有者の名前が地名となる場合が多くなった。断片的な「迷信」やら「タブー」なども、所有権を守るための無文律に代わっていったようだ。
また物語るという行為は聴き手に情報を伝えるのと同時に、語り手にとって自由な世界であり、娯楽でもあった。山本祐弘は『北方自然民族民話集成』のまえがきで次のように書いている。
もとの樺太の幌内湿原を中心としたところは凍れる大地である。ここに古くから、これら諸民族が集い、交流した特異な生活空間であり、北の民族のるつぼであった。ここに流転して来た民族は無常な氷雪、稀薄な風土の中で土人と呼ばれ、近代社会の彼方にとり残されて、自然との「たたかい」と一種の「あきらめ」のうちに今日まで生きのびてきた。この人世の裏街に辛くも生きる彼等の救いは、昔から語り伝えられて来た民話を山で焚火を囲み、炉端で語り明かすことであった。彼等の民話はまさに凍土に咲いたたった一つの花ともいえよう。(略)こうした民話採集には、文字をもたない彼等の記憶が記録という伝承のため、民話をよく伝える古老に巡り会え、親しくし、話の糸口がほぐれるまで幾日も集落地を訪れ、幾月幾年かの時が流れたことやら…。彼等とともに起居したり、吹雪くツンドラに馴鹿橇を駆けさせて、さまよいながら社の天幕へ生命からがら飛びこんだことなどが思い出されてくる。更ける夜長、いつもこわばった長老の顔に、民話を語るにつれて法悦の笑みが浮び、和む。こうした一人一人がなつかしい。
アイヌの口承文化を例にとって説明したい。彼等は昔東北全域で生活していたから、アイヌの文化を東北の文化の代表としてひとまず、紹介しよう。物語が現実の世界で意味を持つとき、人々は感動して、語り継ごうとする。『わたしは瞽女ー杉本キクエ口伝』において、杉本キクエは次のように語っている。
ほらね、「山椒大夫」って語りものあんの知ってるでしょ。安寿姫と厨子丸の物語だよね。そしてさ、話の途中に此の二人と乳母竹がこの辺の海で離ればなれになったでしょ、そして悲しみのあまり乳母竹は海に身を投げるんだよ。ところがさ、それからというもの、その海を通る船はさ、海が荒れてみんな遭難しるんだってさ。そこでね谷浜の先に有間郷ってのがあってさ、そこの茶屋ヶ原って村にね、乳母巌神社ってのを作ってね、死んだ乳母竹の霊を慰めたんだよ。しるとね、海は静かにおさまったんだって。今はね、動物のお乳がたくさん出るから、お乳の出ない人はみんあここへきて、お参りしたんだってさ。こんなこというと、また迷信なんていわれるかもしれんけどね。わたしは本当に出たって聞いたことあるよ。
私はここに、言葉の力、祈りの力、信じる力、人間の創造力が身体に及ぼす力を読み取るのである。
神謡
アイヌ社会では口づてに語られてきた物語があり、ユーカラとよばれる。ユーカラの語原は、模倣・模擬・真似などといい、動詞にも名詞にもなって、『我それを模倣す』はku-e-yukar(単数)、a-e-yukar(複数)となり、『ユーカラをやる』という時は自動詞になって、kuyukar(私がユーカラをやる)yukar-an(我々がユーカラをやる)となる。ユーカラの長さは、普通三千行程、長きものは七千行以上、八段物十段物、十二段物などいうのがある。そういう長い物は、今は大方終わりの方が喪失して終局していない。一夜を語り明かして朝になりて、語る人も、聞く人も労れてしまって止む頃は精々七八千行の所だから、そういう部分で終わって、偶偶そのあとを聞かなかった内に古老が亡くなってしまうというようなことが、しばしば生じたからであると言われる。アイヌの社会も変わって行ったのだ。『金田一京助全集八巻』アイヌ文学Ⅱ「ユーカラ概説」では、「文字以前の生活に於ける此の神聖な伝説を譜んずる記憶は、アイヌのワカルパ一人から私自身の筆録したアイヌ伝説の歌曲は、(追々全部を公にしようとしているが)古事記の分量の数倍に及んで、まだその知識の全部ではなかったのである。アイヌでさえそうなのである。大和朝廷の学者を『為人聡明、度目誦口、払耳勒心』と感嘆さしている稗田阿礼にして、あれほどの暗誦が不可能だとすべき憶測は根抵から崩さなければならないのである。」と語っている。
ユーカラにはいくつか分類がなされている。普通のユーカラは人間のユーカラであり、之に対して神謡(カムイユーカラ)は即ち神々のユーカラで、或は熊の霊、狐の霊、その他狼・梟・蛙・鯨・蛇・虫の霊が人間初代の王アイヌラックルに征服・膺懲されて人間に害をせぬようになったり、人間の祭祀を受けて之を保護するようになったりした由来を歌うのが神謡である。中に最も雄大な、アイヌラックルが巨魔を征服する雄大な神謡は、特にオイナ(聖伝)と呼ばれる。ユーカラは既に文芸的になって来て、娯楽として語られているのに対し、聖伝は、直ちにそのまま信仰されて、まだ文芸とはならずに、寧ろ経典の性質をもっている。自分たちの生まれ、由来、今この土地に住んで村をつくっていることの正当性を語るのである。本州でも昔から「縁起物」というジャンルの説話があり、語り継がれて来た。演出はあったにせよ、稗田阿礼の語った物を書き取ったといわれる『古事記』も、西日本を支配して行く民族によって語られていたかもわからない。物語ることで、混沌としたヒトの心は秩序を与えられて、人間社会で暮らすための楔、手枷となるのだろう。
*
語られるものは、ヒトの口を使ってカミの言葉を喋ることであり、絶対の真実である。金田一京助の『ユーカラ概説』によれば、ユーカラは将にカミの言葉であった。金田の言葉を借りながら、ユカラを説明しよう。
語るという行為は日常的な会話とは違った意味がある。もっと積極的に言えば、人間と神の境にあって語られるものが、ユーカラであった。アイヌの謡い物をみれば、一つ残らず皆第一人称叙述つまり「私」が語る「私」の話として物語られる。同時に神謡の伝承者は部落の婦人、殊に巫女だという。アイヌでは、神々へ祈詞を捧げる役は男子であって、女子は、その事には、遠慮な者、憚りなもの、即ちタブーとされているのであるが、その代わりに、神へささげる食物を調理する役と、神が憑いて、その口を借りられる事とは、女子を選ばれるものと考えられている。
リフレインの中に自我を没入させる巫女は術中に気絶し、口から神の詞が歌となって出てくる。もともとアイヌの文化圏であった東北地方の巫女であるイタコによって語られた「お岩木様一代記」では、「ア……アイヤァ……南無神明天照皇大神宮や 岩城の権現 おりいの観音聖観音や うじの観音九十九は百沢 夫婦はくまのぢ羽黒の権現や くまのぢゃ音無川の水増せば、黄金花咲くお岩城サマや おらだにみせで呼び申そうや」と語り出されているのであるが、これは明らかに神寄せ、神降ろしの詞章である。また「国のお岩木サマは加賀の国に生れだる私の身の上。私の母親は加賀の国おさだといふ女であります。」というように、主人公であるあんじゅが姫の一人称で語られている。(酒向伸行『山椒大夫伝説の研究』)
巫女が一人称で語る形式は、神を自分の体に取り憑かせ口寄せする形式がそのまま残ったものだろう。
神々のユーカラにきまって無意味の折返しが句毎についているのも、神おろしをする術であり態である。熊の神の神謡ならば、ウェーノ、ウェーノを折返し、雀の神謡ならハンチキキ、ハンチキキ、啄木鳥のならばエソキソキ、エソキソキ、鶴のならばハントクリワコローロ、等々の折返しで謡われている。これはみな、その動物の啼声の写声である。知里幸恵著「アイヌ神謡集」でも、狐の神の神謡はトワトワトー、トワトワトーを折返し、蛙の神の神謡は、トーロロハンロクハンロクを折返すなど、やはりその鳴き声らし響きがする。これも、神である動物と交わるかけ声であるし、繰り返す事で巫女が神に取り憑かれる状態をつくりだすきっかけになる。現在ではユーカラが儀礼から離れて語られるようになったものを歌といって語りと区別しているが、この演奏が炉端に始まると、聴衆が、演奏者と々程の棒切をてにてに用意して、それを撥にして、炉縁、若しくは座っている床板を、演奏に合わせて、カッタンカッタン揃えて打たたき、歌につれて或は緩く或は急に、或は低く或は高く、それとともに口々に撥に逢わせて発する掛け声、囃し声、それが、歌声と交互して男性の一大交響楽を成し、怒濤のうねりのように進行する有様、実際、誰が演奏者だかちょっと目にはわからないほどであるらしい。吾々の拍子を取る掛声のような、ホーレー、ホーレーというような音群を、時としてはホーレンナーと入れたりなどして変化を作りながら、いつまでも、何遍でも繰返している。
此はアイヌ語にシノッチャshinotcha(即ちshinot-sha)というもので、shinotは遊び、遊戯、また歌舞、shaは、節又は調子という意味らしい。、東日本でもかつては同じような習俗があり、柳田国男『昔話覚書』によれば、昔話には、それに耳を傾けるものの相槌のことばが存した。宮城県では「ゲン」または「ゲイ」、佐渡では「サソ」、岩手県では「ハーリヤ」または「ハート」、飛騨では「ヘント」というような間の手のことばが入ったという。またアイヌ語のユカラの語源は「真似」であるが、どうやら突き詰めれていくと「獲物のさまをなす」ことであり、古い形のイオマンテ(熊送りの儀式)で、男達の猟運を祈って、シャーマン達が熊に成り仮装舞踏を演じた事までさかのぼることができるという。熊の皮を頭からすっぽりと被ったシャーマンが、ときどき「フウェー、フウェー」とか「オウェー、オウェー」とうなりながら、口にした言葉がユカラの原型であったという。元来カムイユカラのこの折返は、人間の歌謡のホーレー、ホーレーの如くに、もともと神々のシノッチャなのである。
神々も亦人間のように、その歌をシノッチャと共に歌い、神々がシノッチャしながら、その心を歌ったのが、カムイユカラである。続けて金田氏の『ユーカラ概説』を参考にしながらアイヌのうたをみていきたい。以下、引用させてもらう。
**
アイヌのうたの中に、ヤイテカラと呼ばれるものがある。ヤイテカラという言葉には、ものに取り憑かれて状態を失う意、ヤイは『自身』、カテカラは『憑く』『異常意識に入る』『気違いにする』という本義がある。例えば人を思って窃かに抑えていた感情が、折に触れて、常は羞じて云えない心緒をも、或は涙を垂れながら、或は物を叩きながら、常軌を逸して、相手も居ぬのに、口に出して表白する(こういう動作をもアイヌ語にはヤイカテカラと云う)、それが即ち『うた』そのものになったのである。その時々の心情をくちずさむ歌、ヤイシャマyaishamaというのは、異説も出得るが私はyai(自身)-shama(真似る)という熟語でアイヌ語では、自動詞はそのままで名詞になるから、「自身を表現すること」則「歌」である。だから、「歌をひとつやれよ」という時に、「ヤイシャマをやれよ」という。「はいやります」と言って大抵、ヤイシャマネナ、ヤイシャマネナ、ヤイシャマネナ、と三口を一つの曲に歌って、そのうち、言葉が思い浮かぶと、その言葉を一口ずつこの曲へ収めて、例えばクコロニシパ(私の旦那さん)トノトエンクレ(おみきを戴いて)イヤイイライキレ(ありがとうございます)と入れるには
クコロニシパ、 ヤイシャマネナ
ヤイシャマネナ
トノトエンクレ、 ヤイシャマネナ
ヤイシャマネナ
イヤイイライキレ、ヤイシャマネナ
ヤイシャマネナ
のように一と口目のヤイシャマネナの所へだけ入れて曲にする。日高のコポアヌ婆さんが、私の質問したイヨハイチシについて、こう言った。若いときはおかしなもので、恥ずかしくて人に言えない事を、山の畑で、ひとちで、働く事もいやになって、木などをたたきながら、ぼろぼろ涙を流して「今頃どうしていなさるか、何を考えていなさるか、ああ鳥になりたい、鳥になったら飛んで行くもの、風に成りたい。風になって、ふわりと吹いてさわって見るものを」、など泣き声出して歌ったものだよ。そのことだイヨハイチシというのは。「婆っこも、若い時にやったのか」と尋ねたら、「やったもんだ」と、それでも恥ずかしそうに言って笑った。古来、事ある毎に、大酋長の命で、巫女がこれを占って歌い出た巫歌が、何百、何千あったことであろうが、その内の重要な意味を持つもの、少なくとも人々の関心をそそるものが、忘れられずに、伝わっていったのが、無数の神々のユーカラ「神謡」となったものであるらしい。歌と、この気違い味と、切っても切れないものになっていること_「恋歌」と「物狂」とを同一語のヤイカテカルyai-kat-ekar「自身・気・狂わす」ということでもわかる。
平取のフユが山小屋で歌っていた歌も金田によって記録されている。フユは平取村のチパの養女、もと和人の娘であるが一二歳の折に貰われて育ち、平取某に嫁してすぐ、沙流川の上流、貫気別の山小屋に、角材を切り下す樵夫へ物資を供給する番人として、夫婦で雇われて暮らす間、平取を恋うて、川はたで、角材の流れて行くのを見ながら歌った歌。角材の筏を流すアイヌたちが筏の上でそれを聞いて、平取村へ来て話したので、平取で歌われているのを採集したもの。フユは今年尚二十四五の女性である。詞章中、ラトルピとあるのは、平取(ピラトル)をわざと倒語に隠したものだという。
Yaishama ne na Toshi Ratur-pi! ヤイシャマネナ にくい平取!
Yaishama ne na shirun Ratur-pi! ヤイシャマネナ 平取め!
Yaishama ne na kukor a kotan ヤイシャマネナ 私の村よ!
Yaishama ne na keshikarun kusu ヤイシャマネナ 恋しい恋しい
Yaishama ne na kuyainu humi ヤイシャマネナ はらんばい
Yaishama ne na ene kuye-hi ヤイシャマネナ 何と言いようも
Yaishama ne na ene kuar-hi ヤイシャマネナ 何としようも
Yaishama ne na isam ruwe-ne. ヤイシャマネナ 無いんだなあ。
Yaishama ne na Wen ma yakun ヤイシャマネナ しょうがないなら
Yaishama ne na kaku ne k’an ヤイシャマネナ 角材になりたい。
Yaishama ne na ki wa ne yakne ヤイシャマネナ そしたなら
Yaishama ne na kumom ma kusan ヤイシャマネナ 私は流れて下ろう。
Yaishama ne na tu kotan kama ヤイシャマネナ 二つの村越え
Yaishama ne na re kotan kama ヤイシャマネナ 三つの村越え
Yaishama ne na kumom ma kusan. ヤイシャマネナ 私は流れて下ろう。
註には「恋しさあまって素樸に憎たらしく罵倒する言い方。toshiは悪口に平生用いられるが、もと東北方言、どし(癩病の謂)のアイヌ訛りである。」と書かれている。
ユキの歌というのもある。沙流から来た二十二になるユキという娘、東京の私の宅にいる間、ひとり置くとすぐ歌を歌い出す。耳を留めて聞いて見ると、着し方を偲び、家を懐い、亡父母をなげき、別れた夫を慕う所謂思慕の歌なのである。筆記をするから、始から歌い直せと命じると、幾らでもあとをつづけて際限がない。一句づつ口を切って、間へ、ホーレー、ホーレーを入れて、その暇に次の句を見いだしつつ、しかも私の筆記する間には十分に、あとをつづける語が頭に成るものだから、即興即吟、いつまででも云えるのである。そこに人を仮想して、その人へ向かって云いかける語句になったり、想いは飛んで空想になって、自分が鳥になって駆けていたり、道すがらの光景を目に浮かべて追想しながら、譬喩を投げて戯れていたり、縦横自在である。
Hore,hore Kani anakne ホーレー、ホーレー 私というものは
Hore,hore utar ka sakpe ホーレー、ホーレー 身うちにも無きもの
Hore,hore apa ka sakpe ホーレー、ホーレー 身寄りも無きもの
Hore,hore kune katuhu, ホーレー、ホーレー その様をたとうれば
Hore,hore Nika wa tuipe ホーレー、ホーレー 梢より散ったわくら葉
Hore,hore mun-ka wa tuipe ホーレー、ホーレー 葉末よりこぼれた露
Hore,hore toi-ka wa tukpe ホーレー、ホーレー 土から顔出したとまどい芽
Hore,hore semkorachi, ホーレー、ホーレー さながらそのように
Hore,hore shinrit oraukip ホーレー、ホーレー 親々から死におくれた
Hore,hore kune ruwe-ne ホーレー、ホーレー 私であります
***
アイヌのユカラは蝦夷浄瑠璃と呼ばれていた。元文二年(一七三七年)の蝦夷随筆、同四年の北海随筆には、殆ど同文で、次の如く見えている。
サケたなはにおよびて歌を歌ひ、上瑠璃をかたる。声音は声明を唱る声のごとし。其後女に命じて踊有、此踊更に風情少なし。胸を手にて打又手を打てくるくる廻るばかりなり。鶴の舞と云有、鶴の羽翼ひらきたる体にて踏るなり。折々鶴の鳴声を真似て拍子を取れり。其興に入、おもしろき体なれども本邦の者見ては更におもしろからず。浄瑠璃は仙台上留りの音にて、ゆるりとかたりたるものなり。尤はやめの所もありと見えて、声音をはりせめてかたる所もあり云々。
文化五年(一八〇八年)『渡島筆記』には「ユウカリといへるものこそ来ること最も古しく、尤も巧にして其国風ともいふべきの如し、其様多く物語りにして、語るに節をつけたり、正しく我が幸若の類なり、之を聞きても聞きわくべきに非ず。是夷語に習はざるもののみにあらず、夷地に往来して大抵通弁なる程の者にても確かに聞きかねる故は、此うたひものに限りて平日に云ふ所と異なる言葉多しとぞ。」と描かれている。
アイヌ人は、北の方は今日尚文字を用いないギリヤーク・オロッコ・サンタ・キーリンの諸族に隣り、南は文字国の日本人と接触しながら、渡島の南端に松前氏が縄張りをつくり、全蝦夷を支配した五百年、邦語・邦字をアイヌが習うことを禁止していたので、アイヌは今に『老少口々相伝え』て、吾々の時代に及んで来ていたようだ。カムイユカラはそのまま日常の祭祀・行事へ直接結びついており、神々の起原即ち縁起の物語、純粋に宗教上の聖語である。アイヌでは、こういう縁起の知識は病魔を退散せしめたり、善神の加護を祈ったりする日常生活に於て、すぐ役に立つ須要の知識である一方で、人間のユーカラの方は愉しむために語られるものと分類される。
『アイヌの信仰とその儀式』N・G・マンローに書かれている葬儀の宴は次のように執り行われる。私はどうにも、死者への語りかけには、ユーカラのような物語、語り継がれた祖先の物語だったのかもしれぬと思われる。共同体の人が独り死に、二人と死んで行く間に、語り続けられ、語り継がれていった物語は、一人一人の「われ」の内に「われわれ」を映しただろうとおもってしまう。今はこれが簡略化され、儀礼の中から離れて芸能になったのだと。もしくは殯が朝廷の手によって縮小、廃止させられたのと同様に、アイヌも和人によって、葬儀の時間を短縮させられたのかもしれない。
宴が始まる前には、ご馳走を食べる許しを〈カムイ フチ〉に願う事になっていますが、この宴が終わった時には、長老(この長老は普通故人の親戚であることがおおいのですが)が、〈カムイ フチ〉に向かって短い祈りの言葉を唱えます。次いで長老は遺体の枕もとに進み、両手を床についたままで故人に向かって涙ながらに言葉をかけます。此のときのしぐさは、〈ピヨ イタク コテ〉(最後の言葉を付け加える)と呼ばれています。この言葉の内容は、故人の年齢、性別やそれぞれの身分、地位等に寄って異なりますが、それでも通常は、老いて亡くなった者に大してはその天寿を全うしたことを祝い、若くして亡くなった者には哀れみの想いを込めた言葉となってます。ひと言かふた言述べるごとに、〈フォッ!〉という叫び声をその合間にはさむ長老も居ます。雄弁であるということは高く評価されており、祈りの言葉や故人への語りかけは通常長々と述べられます。故人に対しての語りかけには、時に寄っては熱烈な感情が込められていて、廻りに居る人々に深い感動を与えます。(略)この語りかけが終わると、埋葬の準備が始まります。
****
アイヌに残されたこうした文化は既に大和化され、交易の民として暮らして来た彼らの歴史を含んでいる。江戸幕府や明治政府が禁止した多くの儀式や風俗があったであろう。アイヌが近代化される以前の様子を伺うためにシベリアのシャマの歌や踊り、身振りや声振りがどんなものだったか。山本祐弘の『北方自然民族民話集成』によってみていこう。
ツス(巫術)の修法を簡単に書き述べる事は難しい。始めは御神火の前に坐して、しばらく太鼓を打ち鳴らしつつ、一種特別の喉の億からしぼり出すような低い、呻くとも唸るともつかぬ声を出す。時時口笛を吹き、また欠伸をまじえているうちにやがて立ち上がって、軽い律動的な半跳躍運動を共に全身をくねらせ、肩の調子をとりつつ、さながらお神楽の舞の如くに舞う、その動作は実にリズミカルで、少しも嫌な感じを与えない。太鼓は法を演じている約一時間ぐらいの間手を休めることがない。
彼等の民話の中に「巫者太鼓をたたき…」「祭文が歌をやって…」「シャマ踊って…」という文句が無数に出て来て、その後、空中を駈けたり、起死回生を行ったりする場面が出てくる。御神楽ー歌舞をつくして、ひたすら祈祷、祈願をコウというのがシャーマンの形式であるらしい。アイヌの方でもそうであるが歌舞の限りを尽くして行う自然神の祈願、あたかもお神楽そのものが中心であるかの如き神事は、ありていに云えば「カミに出来るだけ気に入るよう歌を歌い、踊をおどって、神の満足を得て自分たちの願いを聞き届けてもらう。即ち彼等の捧げる踊や唄がカミの御意に敵えば、神はこれを嘉納してその代わりに海山の幸をさずけてくれる」というのである。以下述べる北土の神楽がこれであり、供え物は使犬族ギリヤークでは犬の生贄、使鹿族オロッコでは馴鹿(トナカイ)の生贄である。
民謡
歌うことは物語ることであり、四季を巡り繰り返された。生き物に命を与える神に対して、本州では語り物としてでなく、祝詞や歌として残されている。みえないものを見せる語りが、歌となり、踊りと結びつく。長崎県南高来郡南有馬町大江ではこの歌詞をうたいながら正月二日の午後二時頃より主人が納屋へ入って、五十尋ほどの繩をなって、これをその年の初仕事としてきた。こうした仕事始めに唄をうたう習俗も季節の祭りと同様に節目を正しく迎えるための呪文であるようだ。そのなかで宮城県桃生郡鳴瀬町の「種おろし祝い唄」を紹介したい。
〽サァサ出ました サンバイ様が
葦毛の駒に
ヨイトそうだよ 手綱よりかけ
今おろす
といったサンバイ(田の神)を招く歌詞を種まきの後にうたう。 サンバイと呼ばれる人は田植えの総指揮をとる。青森県の南部地方で陰暦の正月におこなわれる「えんぶり」という舞は豊作祈願の舞であるが、ここでも手にもつ棒を采(ざい)、ジャハイ、オンドザイ、タロウジ棒、サセ棒などというから、サンバイは日本の稲作行事を象徴しているともいえる。サンバイという言葉の意は、サ(田の神)を導くための依り代としての棒(バイ)ということであり、この棒を、手にする人をサンバイさんと呼んだ。田植えをする乙女は早乙女といい、この「サ」も五月、サツキの「サ」に通じて田の神に使える女たちという意味をもっているらしい。かつては、田植えをする女たちは、卯月の中頃(旧暦の四月中旬)、一日山籠もりをして身を清め、山から下りてくる時はツツジの花をかざしながら戻ってきた。そして其の花を神棚や田の畦へ、直接挿し、田植にとりかかったという。従って此の神聖なる田植に与る早乙女が、月水である場合には田の中へ入ることは絶対に禁じられるのは当然である。これも国々にわたって殆ど数えきれぬほど多く実行されている。
神代紀に雀を碓女とし、祟神朝に定めし貢に「男の弓端の調、女の手末の調」とあり、万葉集に「稲つけばか々る吾が手を今宵もか、殿の和く子がとりてなげかむ」とあるのも、ともに古く女子が農耕者であったことを明白にしている。(中山太郎『タブーの民俗学』)
村々の神楽で役者が喋る詞章にも季節を織り込んだ詞章が唱えられる。長野県下伊那郡天龍村大川内では、旧霜月の「湯立神楽」の神降ろしに、
〽秋過ぎて 冬の季節は 今日かとや
今日ぞ吉日 綾はりて
錦を敷きて 御座と参らす
〽冬来れば だれかや告げし 北国に
時雨ぞつけし 山をはやめす
〽冬来れば は山をしきと 降る雪は
冬咲く花は みるめかぐ花などの唄をうたう。『御田植寄歌』は島根県飯石郡頓原町寺沢に伝来した田植本で、安政二年(一八五五)の奥書がある。第一行を音頭鳥が歌う。これをダシという。それを受けて第二行を早乙女が歌う。次の詞章は日出を讃える時の唄である。
〽鶏が夜の何刻に囀るかよ
夜の九つに囀る
鶏が十二の卵生みそろへ
諸国の宝かき寄せる
六つは打つ今朝明け六つに鶏の声
しば鶏すぎて夜明け
今朝通た鳥は又ようも通た
この苗千石と ようも通た鳥 やれこれが本節でうたわれた後に、本節とはリズムの異なった不定型歌が挿入される。
〽おなり様 迎への駒の足取りは とんとろしゃんといさぎよし
門まで馬で
門から徒歩で
おなり様 やら 来はなされたが
来なされたが 縁に腰掛けて
白銀の よう 黄金の縁に腰掛けて
髪とく暇を待ち給ふ
「おなり」とは現実には田植え作業に当たって食事の準備などをする女性のことを言うが、一方で田の神の妻とみなされる信仰的な対象でもある。見えない神を口に出して歌うことで人々の目の前におろし、祈る。
*
「うた」は、日常を越えた世界、言葉を放す時にもっとも力を発揮したようだ。『日本の民謡3 ふるさとの歌 東北Ⅱ』の中で池田弥三郎が書いた記事によると、歌うことの意味、非日常性が理解できるかもしれない。
東北と行っても、散りの観念がはっきりしてくるまでは、むかしは大ざっぱに「あづま」であったであろうが、さらにその奥に、「みちのく」を考えるようになった。みちとは地方の国々のことで、そのさらに奥の地が、道の奥で、みちのくと言われた。そしてそこに広がって住んでいる人々が、「あづまびと」であった。あずまびとは、歌がうまいと、都の人には思われていた。源義家が、安倍貞任を追いつめて、
衣の館はほころびにけり
と歌いかけると、逃げていく貞任は馬をとどめてふり返り、
年を経し糸の乱れのくるしさに
と答えた。義家は貞任の風流心を賞でて、つがえた矢をはずして逃がしてやったという話も、あずまびとは歌がうまいという予備知識に役立っての話である。貞任はやがて討たれ、弟の宗任はとらえられて、義家の家来となり、都にのぼった。都の公卿達は、宗任をからかって、梅の花を示し、これは何かと聞いた。宗任は即座に、
わが国の梅の花とは見つれども大宮人は何と言ふらむ
と言った、という。
アイヌには個人間のもめ事を解決する方法として、チャーランケという問答を行う。『アイヌの足跡』で満岡伸一は相手を負かすことのできる節の力を、アイヌのチャーランケにみている。
自己の正統なる権利の侵害されたる為相手に向かってチャーランケを申し込む場合チュウテックル(使の者)又はソンココルクル(意志を伝ふ者)を遣わして自己の主張の退位と場所及び日時を協定せしむ。当日に至れば協定の場所に相会し炉を隔てて対座し互いに自己の主張を高唱し(雄弁に而して大声にするも普通の会話と異り重みを付ける為めか一種の節を付す)互に下らず一方が謝罪せざる限り昼夜の別なく数日に亘り論戦す。『古代蝦夷とアイヌ』金田一京助。先ず大酋長が暫くで相逢った時に述べ合う会釈の詞はUwerankarapitakと云って節を付けて歌い出でるもので、立派な一種の即興詩である。又神を祈る折の祈禱の詩がInonnoitakと云って、散文ではなく詩の形でのべられ、殊に場合に依っては高らかに節付けに歌い出でられる。又、不吉の折の神への言挙げであるUkewehomshuや、又裁判、談判などいう折の掛合の詞のCharankeなど、此等またみな節をつけて歌うように述べられているのである。
畏まった場面、日常の言葉ではどうも役に立たない場面でも声は節をつくって放たれていく。次は金田一京助の文による。
沙流郡シウンコツ村のユキという当時二十三四なる女を置いて、死ぬ語の適す炉とのわからない所を尋ねたり、文法上の問題をあたって見たりした暮らしていた。」そのユキがある日、ユーカラをしに舞台へ上がった所が、「教室へ行って、私が一同への紹介を終えて、いよいよ本人が起って、口を開いて歌い始めたのはいいが、約束したのを歌わないで、なんだか違った文句の歌を歌い出すので、私はちょっとろうばいして、どうしたのだろうと、気をつけて聞いて見て驚いた」
何を知っている私でもないのに
こんな立派なところへ出て
何を歌ったら皆さんが喜ぶでしょう
立派なかたがたばっかりで
ついで逢った事もない方ばかり
いやあの向うの隅の白髪のおじいさま
あのかただけにはお目にかかった……
それは、前日、アイヌ学会へも見えた鳥居龍蔵翁のこととわかって、覚えず私はプッと吹き出してしまった。それは、本題の「歌」に入る前のあいさつの文句だったのである。それをやはり、「ふし」付きで歌っていうのであった。狂言の中でも「タテマツッテ候」「カシコマッテ候」というのが一定の型、メロディーをもち、普段の生活では気がつかないけれども、私たちの言葉も常に節をもっているのだ。歌は日常的な言葉とは別の特別な意味をもたせた声だ。寧ろ人間が力のすべてを出し尽くそうとした時に現れる声の抑揚、強弱が自然に節となり、歌として整えられたのかもしれない。だからうたは呪文であり、朗詠されてきた。神に対して呪文のように詠みあげた例には和泉式部が神泉苑で詠んだものがある。その歌は、「コトワリヤ 日ノ本ナレバテリモシツ アメガ下トハ人モイハズヤ」という呪歌であり、一般に是を唱えれば降雨があるといわれる(『月刈藻集』)『古今著聞集』には、能因入道が、干ばつのとき、「神は和歌にめでさせ給ふもの也、心みによみて、三島に奉るべき由を、国司志きりにすすめければ、「あまの川苗代水にせきくだせ天くだります神ならば神」とよめるをみてぐらにかきて、社司して申上たりければ、炎早の円、俄にくもりわたりて、大なる雨ふりて、かれたる稲葉をしなべて緑にかへりにけり」という故事がある。彼等はいわば漂白の宗教家に属する存在であった。
アイヌのコタンの生活でも、呪法と唱えごとが無数に存在していた。例えば、背戸の小川に水を汲みに行った少女が、濁り水を手でかきながら、「nupki sanにごり水 さがれ。pe(-) san水 さがれ」と歌って水の澄むのを待っている。また、エゾニウの茎を取って来た老婆が、「siw-kina topenにが草 あまくなれ。kina to(-)pen草 あまくなれ」と歌いながら皮を向いている。知里の本には「歌謡以前の姿」として悪魔払いの呪法、日食や地震、風鎮め、また虹に追いかけられの時に使う呪文が書かれている。そのうちの一つ、赤ん坊がくしゃみした時に唱える呪文」にはこのように書かれている。
赤ん坊がくしゃみをするのは、風邪の神が忍びよった証拠である。そこで、赤ん坊がくしゃみしたなら、胆振の幌別では、傍にいた人がすかさず「si-ko-patche糞が赤ん坊に跳ねたsi-konchi-kor赤ん坊が糞帽冠った」と叫ぶ。すると、アイヌの諺にあるとおり、「魔とおいうものは云われた通り信ずるものだ」から、赤ん坊がほんとに頭から糞だらけになったものと思って、きたながって近づかぬのである。
『とやまの民俗芸能』では伊藤曙覧が「台風の時に長い竹竿の先に鎌をつけ、鎌野は先を風の吹いて来る方向に向けて『ホー ホー ホー』といって手をたたくと、風の威力が衰えるという呪術的な習俗も県内に伝承されていた。」という言葉のいうように、祭りを通じるまでもなく、かつては個人が神とかけあう作法をもっていたといえよう。
**
特別な場合に言葉が節をついて出ることが儀式化した例を竹内勉が民謡地図⑤『東京の農民と筏師』に書いている。六十九歳の波多野はつ(明治二十五年《一八九二》生まれ)「年寄りが、昔は『五反田節』でお嫁さんの着物やごちそうを唄で褒めたものだっていうから、其の文句がほしいんです」「そうだよ。元はなんでも唄でやりとりしたもんだ。その奥に腰掛けなよ。お茶入れるから」と。其のとき、手帳に書き記した歌詞は次のようであった。
〽これさまへ 参り申して
お家の掛かり(構造) 見てやれば
表には 明り障子で
裏には港で 船が着く
船縁は 恵比須大黒
中には鹿島の 長(長老)踊り
〽これさまの お台所の
荒神様の お釜〆め
御〆には 黄金飾りで
お恵比寿棚から 米が降る
『民謡地図』の著者である竹内勉は、「私の想像話し」と題して次のように続ける。
〽これさまの 御旦那様は
と、婚礼の宴席に参加している人々に対して、「問い掛け唄」として、あるいは「頭句」として、唄ってみせる。すると歌心のある客の一人が
〽さても香の良い 旦那様
と即興で文句を作り、唄って納める。「座配」のような人は、別の客の唄も求める意味で、再度同じ文句で、
〽これさまの 御旦那様は
と唄うと、崎戸は別の客が、その間に考える時間があるので、悠々と、
〽前には俵を 積あげて
と唄って返す。「そうしたものを宴席で披露した者が、同席して居た客達に酔って踏襲され、いつかそっくりで一首というかたちになって、それらの歌詞が一人歩きを始めたのではないかと思われる。」のだという。祭には宴がつきもので、宴には酒がつきものである。山形県最上郡真室川町安楽城では、来客には、女たちが両側に座り、酒をすすめ、歌ったのが「あがらしゃれ」である。
〽ハ アーアア たんと飲んでくりょ
なにゃないたてもヨ (ハーコイチャ)
わしの気持が
酒肴 (アリャ飲め ソリャ飲め)
これも日常的な話し言葉ではなく、酒宴という特別な場所だからこそ効果を発揮する意志の伝達方式だろう。宴会の席では特に興に乗って歌われるようになった口ずさみは「お座敷唄」といわれる。酒の席の雰囲気を作るために芸者がたしなんだ「芸」のひとつであり、ある一人の芸者が始めたものが大流行したという謂れが多い。地域で流行する節回しや文句を三味線に合わせてうたう。商売として用意された座敷ではなく、アイヌの儀式でも酒は女性が次いで回る。縄文遺跡からも「酒の元」が発見されているくらいだから、昔からこういう習俗があったのかもしれない。
踊りに合わせて息をすれば、自ずと声は発露する。こうした歌を持ち歩いて歩き回り、声を披露して生業とした瞽女という盲目の芸人がいる。瞽女も節をつけて語る唄い手、説経者である。『山椒大夫伝説の研究』酒向伸行。歌がありふれ、固定化している現代人は、ゴゼである伊平たけさんの言葉を意味深長に捕らえた方がいいだろう。「歌がさまざまに変わるのはあたりませだ。一回一回が本当の歌だ」『伊平タケ聞き書 越後の瞽女』語るということは常に、創造することであり、生み出すことであった。『説経正本集 第一』にある四つの「山椒大夫」の比べれば、「再現」とか「再生」の意味が現代とは異なる身体作用を伴う事がわかる。「本物の山椒大夫」など存在しない。
祝謡
「ほがう」もしくは「ほぐ」ことは、ある特別な状況下で「ほぐす」振る舞いのことだ。秋田のマタギは、熊の体を沢ナリ(沢の流れの方向)にして頭を川下に向け、川を剥いでこれを体の肉にかぶせる。主催者のスカリが榊をもって唱えごとをするが、これをケボカイという。終わって皮の頭と尻とを持って上げ、手を離さずふり違えて頭と尻の方向を反対にして肉をかぶせる。ケボカイが終わるとくろもじの木から作った持ち串二本に、おのおの肉十二片ずつさし、火であぶってから山の神に供え、のちに各自がわけて食う。神饌献供にはまた行器も用いられた。もともと行器のホカヒはホカフの変化で、のちに祝福の家となり、門口で祝言をのべる門付芸人や乞食の徒も「ほかひ人」と呼ばれるようになるが、本来は神仏に供物を捧げることがホカフであり、その供物がホカヒであった(『曲物』岩井宏)。
ホカヒは神仏の供物を入れる容器であったが、のちに神仏に供える食物を入れるものだけでなく、祝福事のときに送る食物を入れるものにも用いられるようになった。『古事記』中つ巻・六 仲哀天皇の項に、「酒楽の歌曲」というのがある。これは神功皇后が角鹿(敦賀)より還って来られた太子を迎え、「待酒を醸みて献り」し祝宴によんだ歌だ。
この御酒は 吾が御酒ならず
酒の神 常世にいます
石立たす 少名御神の
神祷ぎ 寿ぎ狂ほし
豊寿ぎ 寿ぎ廻し
献り来し 御酒ぞ
乾さずをせ ささ。 (飲み乾してください、どうぞの意)建内宿禰の返歌(御子・応神天皇に代わり歌う)
この御酒を 醸みけむ人は
その鼓 臼に立てて
歌ひつつ 醸みけれかも
舞ひつつ 醸みけれかも
この御酒の 御酒の
あやに 転楽し ささ。
こは酒楽の歌なり
この祝宴の歌を「神功紀」では「以寿(さかほがいしたまふ)干太子」とある。そのほか、さかほがいなる古語を捜すと『万葉集』の中にもあって、巻第六中の湯原王打酒の歌に
焼太刀の稜打放ち丈夫の
寿ぐ豊み酒に吾れ酔ひにけり
とあるのは、「刀の刃を抜き放って、ますらおが祝うよい酒に我は酔った」という意味であり、寿詞には丈夫が勇ましく太刀を抜いて打つ振る舞いをしたために「打酒」をさかほがいとよませたのだろう。祭に酒がつきものだ。その酒を造る際に、アイヌでは酒を入れる大桶の周囲を廻りながら歌舞する歌があり、それを釧路地方ではサケカルウポポ(sake-kar-upopo「酒を・つくる・踊歌」)と称する。釧路のハルトリで歌舞されるウポポに「アマンサケ、ソオロバサケ、シコヌンパ」というのがあり、歌詞を示せば次の通りである。
aman-sake 粟の酒
so-or-o-pa sake 座にある酒を
siko-numpa しっかり絞れ
『アイヌの足跡』満岡伸一はアイヌの飲酒文化を次のように描いた。
近頃の若者等は漸次内地人化して平素酒を飲む場合等この作法を行う者はないが、私が幼少の頃の彼等は自宅で酒を飲む場合は勿論、居酒屋の店頭でコップ酒を飲む場合にも此の固有の礼を乱すことなく、イクパスイの代わりに一本の橋を借受け敬虔な態度を以てその礼を行っていた。それで物馴れた居酒屋ではアイヌ人の客に対しては特に注意されるまでもなく、必ず酒を盛ったコップの上に割り箸を載せて出すのを忘れなかった。パスイは本来、アイヌ語で「箸」を意味しており、このパスイという名称がついているものに、イペパスイ(食用箸)やアペパスイ(火ばさみ)などがある。多くは表面の前後にイトクパと呼ばれる複数の線刻が見られる。また、裏面にはシロシあるいはイトクパと呼ばれる祖印や所有印を表す線刻や先端部にパルンペ(舌)という三角の刻みが入る場合がある。アイヌの信仰感からすると、カムイには人間の言葉が通じないという。このため、カムイノミの際にはパスイが人間の言葉を聞き取り、言葉足らずの部分を補ってカムイへ伝えると考えられていた。
此の時、パスイは鳥の姿になり、「羽ばたきながら天上に飛んで行って小鳥のさえずりのように雄弁に人間の言葉を神に伝える」(『網走強度博物館所蔵 アイヌ土俗品解説』)アイヌにとっては、サケは祖先と飲み分かつものであり、酒を飲む度に先祖と会話をしていたのかもしれない。日本の本土でも、三世紀に成立した『三国志』東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)では倭人のことを「人性嗜酒」と評しており、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があることも述べている。大量生産されるようになり現代では嗜好品となった酒も、古くは特別な儀式でしか飲まれなかったかもしれない。ところで、ウノ・ハルヴァの『シャマニズム』を呼んでいるとアイヌと北方狩猟民族とで共通する風俗がみつかってびっくりする。「ヤクートはクミスや火酒を飲む機会があると、家長は飲む前にまず指をその中につけて、左右にはねとばして家の霊に供えると述べている。」というのが、その一つである。酒に関してもう一つ言えば、アイヌは酒を発酵させる容器にもイナウの削りを結びつけ、守ってもらう。一方でシベリアの北方民族では次の如くである。
シベリアのタタールの自然の中には無数の霊的存在が住んでいると想像し、テレウートは死者の霊をウズュトという。ユズュトもまた、招かれざる客として家へ入ってくると、アイナやアザと同じように畏れられる。ユズュトは四十日目の供養綵まで墓に住んだあと、夜のうちにときどき家へやって来て、とんとん叩くと、テレウートは信じている。その場合、家族の者はぞっとして、炉の蓋を叩いたり、小刀や鞭を手に伸して「どうしてやって来た。さあ、出て行け」と叫ぶ。シャマン以外の人間の目にはふつうは見えないが、犬はそれに気がついて吠えうなる。アルタイ地方では、ユズュトは旋風となってあたりを動き回り、通りがかりの者の魂を捕まえてしまうと考えられている。だから人々は竜巻を見ると「行け、行け」と叫ぶ。(略)ユズュトは物質的な損害も引き起すことがある。テレウートの女性達は、火酒(ウォッカ)を造る時にうまく発酵しないと、ユズュトが渇きをとめようとして、その中へ忍び込んでいるのだと考える。この場合、病人と同じように祓いの儀式を行うのが習わしである。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)
*
酒を作る時、酒を飲むときの「ほがい」の他に、「新室ほがい」とて、新築の家屋を祝い、あわせてその家の主人の幸福を祝する「ほがい」もある。度々であるが『アイヌの信仰とその儀式』の記述を引用する。
アイヌでは伝統的な手法に従って家屋が建てられると、新築祝いを催す前にしておかなければならない儀式がさらに二つありました。その一つは、神聖な酒を自分たちで醸すことで、このような場合には欠かすことの出来ないしきたりでした。しかし今ではもう、この酒の醸造も和人たちの施政方針によって禁じられてしまいました。酒を醸す権利の剥奪は、アイヌに取って極めてひどい仕打ちであると人々は慨嘆しています。その主な理由としていつも言われているのは、先祖供養の儀式において、古くから伝わる飲み物を先祖の〈カムイ〉たちに供えることもできず、またその他のどんな儀式の際にもこの酒を供えることが何としても必要であるという事なのです。酒を作るのに、直径一メートル、深さはもう少しある〈ポロ シントコ〉(大きな行器)が通常の醸造用の桶として用いられる。昔は、この桶の上に鹿の毛皮を載せていたようですが、井迄はそれに代わって着物が掛けられるようになっています。〈カムイ フチ〉の加護を願って、アホウドリ(信天翁)やウ(鵜)や性根の善いキツネの頭骨をそこに載せておけば、この桶を更に堅固に悪霊たちから護ることができるとされています。(略)また空中を舞っている悪霊をおどすために、一本の鎌がそこに載せられている場合もあります。〈エ ウクッ イナウ〉(イナウの削り房を縒り合わせて作った帯状の紐)と呼ばれる帯状の紐が桶の周りに巻き付けられていますが、地域によぅては酒を濾す前にこの紐は取り外されます。この帯状の紐には、幾束かの〈イナウ〉の削り房がつり下げられているのが時々見受けられます。
サケにはマツリがつきもので、マツリには先祖や神がつきものだ。家を立てることは儀式であり、人は神や先祖と酒を飲み交わった。文献上の古い物では、天皇が潜龍の折に、播磨国縮見屯倉の新室を寿いだことが『日本書紀』巻十五「顕宗天皇即位前」に書かれている。
夜深け酒酣にして、次第儛ひ訖る。・・・是に、小楯、絃撫きて、秉燭せる者に命せて曰はく、「起ちて儛へ」といふ。・・・億計王、起ちて儛ひたまふこと既に了りぬ。天皇、次に起ちて、自ら衣帯を整ひて、室寿して曰はく、
築き立つる 稚室葛根、築き立つる 柱は、此の家君の 御心の鎮なり。取り挙ぐる 棟梁は、此の家長の 御心の 林なり。取り置ける 椽橑(垂木)は、此の家長の 御心の斉なり。取り置ける 蘆萑(わら屋根の下地)は、此の家長の 御心の平なるなり。取り結へる 縄葛は、此の家長の御寿の堅なり。取り葺ける 草葉は、此の家長の 御富の餘なり。出雲(播磨国葛磨郡出雲田)は 新墾、新墾の 十握稲を、浅甕に 醸める酒、美にを 飲喫ふるかわ。吾が子等。あしひきの 此の傍山に、牡鹿の角 挙げて 吾が儛(まひ)すれば、旨酒 餌香の市(今の大阪府南河内郡美陵町国府)に 直以て買はぬ。手掌も摎亮に 拍ち上げ賜ひつ、吾が常世等。
**
こうした祝言は、吉を好み凶を嫌う人情とともに発達して、後にはこの祝言をいいたててと背する「祝言人」なるものを生む。『万葉集』巻十六に載せてある長歌二首は、これらの徒が謡うたものである。後世の千秋万歳、大黒舞などをはじめ、民間行事の奥州のカワハギ、山陰のホトホトなどは、ことどとくこの信仰を残している。町田佳聲と竹内勉が歩きながら記録した民謡から彼等の声をききとれる。竹内勉の分類による「七種の対神仏唄」の一つである「正月事初め祝い歌」として「繩ない初め唄」がある。長崎県南高来郡南有馬町大江ではこの歌詞をうたいながら正月二日の午後二時頃より、主人が納屋へ入って、五十尋ほどの繩をなって、これをその年の初仕事としてきた。こうした仕事始めにうたをうたう習俗も季節の折々に行われる祭りと同様に節目を正しく迎えるための呪文であるようだ。
〽年の初めに 繩なえば
鶴にもろむき
〽もろむきの 東の小枝に
黄金花咲く
門付きとは、行事に招かれて行くのではなく、自らすすんで勝手に家の門へと出向いて芸を披露することであり、芸のなかでも家の主を祝福する言葉を歌い、代わりに米や銭をもらって歩くことをいう。目出度いことを「目出度い!」といい、福を舞い込ませる言葉を「ほぐ」。言祝ぐ(コトホグ)人をホガイビト、ホギビトといいます。例えば祝福芸人たちに受け継がれた「南部俵つみ唄」では、家の先祖が家の主人に富を約束する様子をほぎ言葉をつかって巧に福を呼んでいる。
〽この家旦那様の
奥のお座敷をば 見てやれば
腰の曲がった お爺さんと
白髪の生えたる お婆様
千両箱に 腰をかけ
万両箱に 肘おろし
金の屏風を 立てまわし
金の表の 御ン畳
金の楊子を くンわえて
金の火鉢に 金茶釜
デンデンコーラの 虎の皮
これにお座れ 旦那様
目出度いな 目出度いな
この家旦那様は 百万長者と申される
このように褒めちぎって人や神様や精霊の気力を回復させるのである。聞いている人間も、本気で褒められたら嫌な気分はしないだろう。ほぐというのは、サケをつくる動作でもあるし、緊張した心をほぐして笑顔にさせることでもあるし、人に力を与える振る舞いである。民謡の中でも神の姿をして褒め言葉を並べて、次々に家を回った芸人がいた。山形県下の村山地方の「山形大黒舞」の場合は、
〽明けの方から 福大黒が舞い込んだ
こなたの旦那様 お心良しで
商売上手で 儲け出した
なにがそのように 儲け出した
前には米倉 黄金倉
万の宝を 儲け出した
ダイトショオ
代々伝わる お家こそ
ササお目出度う
といった具合で、祝福芸人の「大黒舞」を演じる人自身が、大黒天の神になりきっている。青森県かの遊芸人の場合は、「ホイド」、すなわち「祝ぎ人」と呼ばれて家々の幸せを神に祈って、コトホイデいた。祝い言葉を述べてひぎあるく人々を表していた「ホイド」という言葉は、今日で欲のある人の意味、乞食の意味で使われている。この人たちの生活も、余興として歌を歌い米や銭をもらっていただけではなく、かつては祝福芸人として人々に受け入れられていた名残である。津軽のホイドが語り歩いたじょんがら節などの口説きは元々、鈴木主水という人の恋愛沙汰の物語で、お江戸のゴシップネタである。時代を経るごとに、人々の関心がことほぎから娯楽へと移っていく。
ホガイビトの芸のうち、有名なのが千秋万歳と松囃子である。千秋万歳という言葉は文献中には藤原明衡の『新猿楽記』ではじめて記述される。「千秋万歳之酒祷」収穫の秋、それに千代の千が加わり、めでたい雰囲気のなかで、おそらくは神と取り交わす盃の酒であったのだろうか。古くには正月に門付芸人が民家を巡り歩き、祝言ほがいごとを述べて銭を乞うた人々を「ほがいびと」といっただけでなく、「乞食法師」「唱聞師」などとよばれていました。鎌倉時代の語源辞典『名語記』に次のような説明がある。
千秋万歳とて、このごろ正月には、散所の乞食法師が仙人の装束をまなびて、小松を手にささげて推参して、様々の祝言をいひつづけて、録物にあづかるも、このはつ日のいはひなり
ホガイ歩く人々は声聞師という小集団に属する者である。ト占、禁呪、予祝、雑芸能をおこなう。禁中での行事を司る。何より肝心なことは、千秋万歳を行ったのは乞食法師、つまり非人だったということである。たしかに江戸時代にはそれらしい紋付芸人が巷を徘徊しているのが、絵巻を見てよくわかります。千秋万歳は、太夫と才蔵の二人が一組となり、家門の繁栄、長寿をことほいだ。千秋万歳の趣旨が延命長寿であったことは、名称によって自明だし、小松を手にしていたこともその証拠となる。常緑樹の松は長寿のシンボルで、初子の日に小松を根びきすれば寿命が伸びるという迷信が古くからあり、この日にのにいでて小松を引くことは「子の日の遊び」として、平安貴族の年中行事になっていた。単に「万歳」ともいうが、もとは「千秋万歳」といい、踏歌という行事の中にも同じような詞章をつかっていた。室町時代中期の伊勢離宮院における踏歌神事の言立ては
〽万秋楽 千秋楽
平安に、すこしつづ富をして
さ代を経るまで 新年改まんて
賽の御賽殿に参り来りて 忝く拝み奉れは
鉄くろがねの柱をよりたて
銀しろがね椽えんを懸け
黄金をもてここへ葦奉ったる御賽殿と
拝み奉つるかなや ワウワウ
などという。唱門師たちはこうした祝い言葉を真似てもいたのだろう。民謡のなかにみられる祝詞のありかたを書いた竹内勉氏の『民謡』にも万歳の歌詞があります。正月を祝う「万歳」のうち、奈良県北葛城群広陵町広瀬の宮本政一が伝える「大和万歳」の「柱立て」は、『大衆芸能資料集成』によると、次のようである。
〽徳若に 御萬歳
御世も栄ゆる まわします
ありいきよがえ 新玉の声
年立ち始まる 明日にや
木の芽もつばわる 枝も咲き
栄えけるには まことに目出度う候いける
謳っていることは天皇の室ホギ、酒ホギと変わらない。
***
こうして家々をまわってくる神様であるが、日本では芝居のように約束事として行われているけれども、本来であれば来訪する神を迎える共同体が、全力で「迎えるか」「迎えないか」を判断しなければいけなかった。『訪れる神々』で次のように述べられている。
見知らぬ旅人がやってきたとき、この来訪神信仰に沿った解読がなされて、その旅人を「富」をもたらす神と解釈したり、「災厄」をもたらす神と解釈されたりすることになるわけです。しかも、この解読・解釈装置の発動は固定的なものではなく、共同体の置かれている状況によって変化するのです。
この後に書かれている例によれば、アメリカの文化人類学者マーシャル・サーリンズの考察によると「キャプテンクックの来訪を、原住民は最初は海上彼方の神の来訪と理解して歓迎しました。しかし、やがて彼らの期待を満たしてくれる神ではないということに気がついて、島を退去しようとしたクックを殺害してしまった(『歴史の島々』)」とのことである。
逆に、人類の歴史には招かれるべき神もあらわれる。
いいものだけでなく悪いものも常世あるいはニライカナイからきます。悪いものの中で一番怖いのは疫病です。疫病の中で一番怖いのは天然痘です。天然痘にかかりますと、抵抗力がないので簡単に死んだり、二目と見られない顔になってしまいます。それが、常世もしくはニライカナイからやってくる、という考え方があります。そこで沖縄の人たちはどうしたかともうしますと、疱疹の神様をもてなすわけです。床の間を背にした上座に据えて、ごちそうを出して三味線を鳴らして疱疹神をもてなします。沖縄の硫化の中でも一つのジャンルを形成するぐらいに、いくつもの疱疹神の歌があります。その一例を紹介します。疱疹のことをチユラガサと言います。チユラというのはキヨラ、チユラガサには神の国からやってきたカサという意味があり、チユラガサお願い、チユラガサお迎え、と言います。歌や三味線に踊り跳ねして、チユラガサの御伽遊ぶうれしや、と。つまり疱疹神を相手に遊ぶことは大変嬉しいことだ、というのです。疱疹に軽く罹ったことへのお礼の歌です。疱疹には軽くかかった方がいいので、幕末には沖縄の人は福建省に行き、疱疹にはかかっているがかるくかかっている頑健な人のカサをもらってきて、それを乾かして粉にして竹筒にいれ、子供の花の穴にぷーっと吹き込むわけです。二、三日すると疱疹になりますが、それが頑健な男子がですから、その疱疹にかかった子供も軽くすむわけです。(『訪れる神々』)
韓国の仮面劇では崩れてでこぼこした顔、湿疹がでているような顔がみられる。日本の民間芸能で使われる仮面、癲癇発作を起こした表情のひょっとこも、疱疹で腫れたおたふくも奇形がデフォルメされていると思えば、こうした病に対する人々の願いの強さが感じられるのである。もしかしたら、本当に癲癇や疱疹をもった乞食が物乞いにきたのを追い払う変わりに、「早く帰ってくれ」という気持ちで迎えたのかもわからない。