第 一 夜 :祀・宴・遊

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第 一 夜 :祀・宴・遊

祀るときには神がいるし、宴の時には女がいる。遊ぶときは子どもがいる。私が愛媛の大学に在学中、大阪の繁華街でとある女の子と話をしたことがある。話題が飛んでどうしてか地方銀行の伊予銀行のキャッシュカードをみせた。「あ!私も愛媛から来たんだよー」と彼女は話してくれた。大阪の学校に通い始めて卒業してそのまま居着いてしまい、この仕事を始めたのだという。会ってまた話がしたいというと「体の具合が悪くてね、明日病院に行くんだ」といった。今彼女はどこで何をしているのだろうか。

私は自分が男であることを否定できないが、誠に男らしくないと思う。最近の科学者の報告によると、ネアンデルタール人がホモサピエンスを強姦して生まれたのがヒト科の動物であるといい、ホモサピエンス型の人間は薬指が相対的に短いらしい。

 

  第一話 ドングリ時代

「日本」も「中国」も「韓国」もなかった時代があった。私はその時代を「ドングリ時代」と呼んでいる。今でもどんぐりはドングリである。私が韓国の歴史博物館に行った時のこと。展示室に入ってすぐのところでふと目についたのは「도토리」だった。「도토리」の発音は「どっとり」。展示されていたものは、古代の韓国人の食べ物「どんぐり」であった。日本にも韓国にも海に潜って海産物をとる海女がいる。世界に日本と韓国だけであるらしい。葬式の時に「泣く女」の風習も日本と韓国で共通している。古代、海の向こうの村にもあった時代を、私はドングリの時代と呼んでいる。

 

ヒミコ

火は人の社会を変えたことは既に述べた。そして火を管理していたのは、女性であったことを想像するのは容易い。大の男狩りにもいかず家で火の番をしている時代ではなかったはずだ。日本の神話でも女はヒメと呼ばれている。ヒメとは、火女と書けばまさしく火を使う女である。『古事記』以前、卑弥呼に代表されるように、日本では巫女が宣託によって社会を動かしていた記述はある。それが少なくとも西日本では天孫族によって男性中心の社会に代わっていったと私は考えている。卑弥呼の国の政治のあり方を記したとされるのが、魏志の『倭人伝』である。

その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐けて國を治む。王となりしより以来、見るある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え居処に出入す。宮室・楼観・城柵、厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。(略) 卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者、奴婢百余人。更に男王を立てしも、國中服せず。(略)
更更相誅殺し、当時千余人を殺す。また卑弥呼の宗女壱与年十三なるを立てて王となし、國中遂に定まる。

社会の中心に女性がいる集団は卑弥呼の国だけではなかった。山上伊豆母は『巫女の歴史』で次のように述べる。

邪馬台国の女王卑弥呼、神代巻の天照大神、前出の祟神紀の倭迹々日百襲媛や倭姫、仲哀紀の息長帯日売がいずれも女巫王の典型的な姿を伝えることから、古代神政政治が、こうした呪的カリスマによって指導されてきたことはあきらかであろう。わが国南島において、主として村落社会を基盤にして祭祀に関与してきたのはノロである。もともとノロというのは神人組織と神人個人を指示する用語であるが、琉球王府によって官制化されたことから重要な役割を果たして来たのであった(略)沖縄学の伊波普猷は『古琉球の政治』において、このノロを中心とする民族宗教の衰えた理由を島津氏の琉球入りと儒教の隆盛の荷台要因を挙げて説明している。一六〇九年(慶長一四)の島津氏の琉球入りに依って薩摩半の直接支配を受けるようになり、琉球王府との断絶があった点も考慮すべきであろう。 わが国の古典『日本書紀』『古事記』に記載されているオキナガタラシヒメノミコト(神功天后)の故事、すなわち神がかりして皇嗣の決定と新羅征討喉雨期の神託を述べて国家の大事を決定した事と類似していると言っていい。

『日本書紀』では皇后が吉日を選んで、宗教儀式を行う斎宮に入り、自ら神主となって祭儀を行った。武内宿禰に命じて琴をひかせ、中臣鳥賊津使主を神の言葉を聞く審神者の役にした。琴の頭と尾の部分に幣帛をうず高くおいて、神の教えを聞いた。七日七夜がたって。神がまず名前をあかされたとある。儒教倫理と仏教思想が次第に浸透しようとしていた推古朝においても、女帝である推古天皇と聖徳太子のコンビがあり、大化の改新後の斉明天皇と中大兄皇子の連合継体も、卑弥呼型の政治形態を取った。大和朝廷の歴史の初期に、兄妹姉弟による政治と宗教の分掌体制ヒメヒコ制がかなり普遍的であったことは間違いない。景行天皇が筑紫の熊襲討伐に出かけた時にも、周芳の娑(麻糸)に行かれた時、ここに神夏磯媛という女性が居た。天皇の死者が来ると知り、祭祀に使う榊の上の宇田に八握剣、中の枝には八咫鏡、下の枝には八坂瓊をかけて、天皇に服従する事を誓っている。彼女の同族の者は多く、其の一国の女酋であった。次いで大分の速見叢に行くと、ここにも速津媛を長とする一族がいたという。(景行紀十二・九)

審神者という言葉は説明しなくればなるまい。巫女に神が取り憑いてうわごとを口にした時にそれを聞き取り、神の言葉を人の言葉に翻訳し占いの結果を人々に伝える役割をもつ者である。審神者は時代をくだると禰宜と呼ばれるようになる。ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』四一二頁では、シベリアのシャマンの文化でも神がかったシャマンの言葉を翻訳する役割の人がいると書く。

すでに述べたように、忘我状態はうわ言を伴っていて、それはシャマンの無意識の肉体に霊が入り込むからだと信じられている。そのときシャマンが口にする言葉は彼自身のものではなく、その体内に入った霊のものである。シャマンは意識がもどった後、霊が自分を介して何をしゃべったかはふつうは知らないので、シャマンの近くに、自体に精通した老練な人物が射て、シャマンの挙動を注意深く追って、見たり聞いたりしたことをしっかり記憶しておくことが大切である。同時にこの人物は霊に対して、おまえは何者か、なぜやって来たのか、望みは何かなどと尋ねる。シャマンを行う時に重要な意味を持つこのような人物はシャマンの助手と呼ばれる。フィン人がラップ人のシャマンの助手を《謎解き人》と読んでいるのは、忘我状態で発せられた言葉は、しばしば極めてぼんやりしているので、解説者に謎解きの能力を前提しているからである。

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女性が司祭者であり、巫女として共同体の中心に位置していたのは、彼女が「火」をコントロールする社会的な役目をもっていたことが一つの理由。魏志『倭人伝』  では卑弥呼が「その俗挙事行来に、云為する所あれば、輒ち骨を灼きて卜し、以て吉凶を占い、先ず卜する所を告ぐ。その辞は令亀の法の如く、火タクを観て兆を占う。」と書いている。アイヌの風俗でも火は日常的には女性が管理したようである。

囲炉裏は〈カムイ フチ〉の〈ラマッ〉(魂・霊魂)が住まう場所であり、その〈ホカ ノスケ〉(囲炉裏の中央)も〈ラマッ〉が集まっています。(略)毎晩寝床に就く前に、燠(おき)の上に丁寧には井をかぶせておき、その後は滅多に火を燃やすことはありません。こうして灰をかぶせると、〈カムイ フチ〉も眠りにつくと言われていますし、この間に女神に祈りがなされることもありません。火が朝迄消えないように灰をかぶせておくには、経験と注意力が必要です。囲炉裏の火を絶やすことがあったりすると、その家の主婦には禍が降り掛かるとされていました。囲炉裏の中から人々みんなを育ててくれている〈カムイ フチ〉に燃料の薪をくべることを怠ることは、他の何よりも重い罪とされていたからです。そのような怠慢な振る舞いは、妻が不倫の行為をおかしたと見なされるほどに重大な過失とされ、それが離婚の理由にまでされていました。(『アイヌの信仰とその儀式』)

アイヌの社会は元々男性中心だったか、女性中心だったかしれないが、男性が村の外で仕事をしている間、女性が食べ物をつくっていたことは想像できる。アメリカの人類学者のマードックという人が書いた労働の種目を弾性、女性どっちが担当しているかということを、世界中の民族二二〇例以上にわたって調べた結果がある。それによると、土器作りは女性が占める割合が八十二%ぐらい、火おこしと火の管理は七〇%くらいが女性の役割であるという。(アジア民族造形文化研究所『アジアと土器の世界』鈴木公雄 四五頁)火は食べられなかった木の実、貝の類いなども食べられるようにし、土器もつくれる不思議な術であった。『古事記』でも女性であるイザナミは火の神カグツチを産んだがために陰部に火傷を受けて病むが、そのおかげで食物の神や土器の神など人間の生活に役立つ神々が次々と産まれる。当時は、土器を作る仕事が女性に任されていたかもしれないと思えば、縄文土器の装飾をつくる女性の精神世界に頭が上がらない。世界中でも、刺繍などの模様を作るのは女性の仕事であったことは間違いないと思う。

仁徳紀に次のような話がみえる。仁徳の死後太子(履中)の同母弟住仲皇子が某反を企てるが失敗し、仲皇子は殺された。この時仲皇子に加担した倭直吾子籠は罪に問われて処刑されそうになるが、妹日之媛を貢ることで罪を免れた。倭直は大和神社を祀る大和国造で、これは同氏の采女貢上の起原譚である。娘を貢ぐことはただの機嫌取りだとは思えない。天皇に仕えたかつての巫女が行った事は、食事運びであって、特別な人間が担う役であった。大化の改新の詔で「凡そ采女は郡の少領より以上の姉妹及び形容端正しき者を貢れ」といわれて地方より集められた女性は巫女であった。彼女達は六月と十二月の十一日に、伊勢の天照大神を勧請して、天皇が自ら神饌を供える神今食という儀式でも食事を持ち運ぶ役目を担った。この祭儀の構成は、新嘗祭や大嘗祭と同じように、古風である。まず一日の未明に、忌火の御飯が供えられることからはじまる。『儀式』によると、膳伴造が燧を鑽り、御飯を炊ぐ。安曇宿禰が火を吹き、内膳司が諸氏の伴部と采女を率いておのおのその職に仕え、御膳の雑物を料理する。忌火とは、このように古来から祭儀に奉仕してきた氏族によって、日常生活とは異なる聖なる人作り、これによって料理をする事にその由来がある。 田植が早乙女と呼ばれる女性によってしか行われていなかったこと、民間の神事でも神饌を聖なる役目を掌る女性が受け持つことは、女性の神聖が一般的だったことを表していると思う。最後には、台所を支配する「オカミ」となった。

私の想像によると、巫女が着ていた衣装は千早と呼ばれた。韓国のシャーマンも普遍的に羽織っている白い、袖のついた衣である。「神」の枕詞である「ちはやふる」とは、千早振るであって、これは巫女が神の前で振る舞う姿が神のイメージと殆ど一体となり枕詞として残ったのではないかと。千早は女性の衣である。天皇自身が千早を着て舞うのではなく、天皇という神に対面して巫女が舞を舞い、千早を振るのであると私は考えている。『古事記』ではイザナギとイザナミが声をかける順番が、新しい神を生み出すためには大切であった。つまり女から先にものを言うとうまくいかないので、男から先にものを言うことにしたと書いている。天皇を頂点として、男子を中心とした社会を象徴する場面である。

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時代をくだると、神子も禰宜も決められた振る舞いを演じ、決められた詞章を口にするだけの役者になる。『貞和五年春日若宮臨時祭記』では、春日若宮の神子と禰宜が専業の猿楽者・田楽者に指導を受けて四曲の演目を演じている。この時、かの有名な観阿弥は十七歳であった。

 

遊部

遊部は天皇の殯を司る氏族である。殯とは、死者と生者のイトマゴイの儀式である。養老令の注釈である「令釈」には「遊部」の説明として「遊部[ハ]隔[テ]二幽顕境[ヲ]一鎮[ムル]二凶癘魂〈ヲ〉一之氏也」と書いている。『古記』は次のように説明する。

遊部は大倭国高市郡にいる、生目(垂仁)天皇の子孫である。遊部という名をもつようになったのには、以下のような理由がある。生目天皇の庶子の円目王が、伊賀の比自支和気の娘を妻とした。天皇が崩御した時にはいつも、比自支和気らが殯所に行きその事に供奉していたが、その氏の中から二人を取り、名を禰義と余比と称した。禰義は刀を負い戈を持つ。余比は酒食を持ち刀を負い、二人して内に入って供奉した。ただし、禰義らの申す辞は他人には知らしめなかった。そののち長谷天皇(雄略)の崩御の時、比自支和気を追っ払っていたのにより、七日七夜御食を奉らなかった。その結果(亡き天皇の霊が)「あらび」なさった。そこで、諸国にその(比自支和気の)氏人を求めた。するとある人が、「円目王が比自支和気の女を娶って妻としている、この王(円目王)に問うのがよいと。円目王を召し出して尋ねてみると、その通りだと。次にその妻を召し問うたところ答えていうには、我が氏は死に絶えてしまった、自分一人がいるだけだとのこと。そこでその殯のことを指示したが、その女のいうには、女が武器を負って供奉するのはやはり不都合である。そこで夫の円目王に、ということで円目王が妻に代わってその事に供奉した。これによって天皇(の霊)は平らかに和んだ。で、その時詔りして、今日より以後、手足の毛、八束毛になるまで遊べといわれた。これによって遊部という名が附いたのである。但しこの条にいう遊部は野中の古市の人の歌垣の類の意味がこれである。

モガリを行う小屋は特別に作られた。遺族が死者を囲み、歌舞し哭き悲しむための小屋である。これを喪屋といった。『古事記』のアメノワカヒコの葬式の場面では、遊部の人たちが死者をあの世に送る動物である鳥に模されて描かれている。

故かれ、天若日子の妻、下照比売の哭く声、風の与むた響きて天に到りき。是ここに天在あめな)る天若日子の父、天津国玉神及其の妻子聞きて、降り来て哭き悲しみて、乃ちそこに喪屋を作りて、 河雁を岐佐理持とし、鷺を掃持とし、翠鳥を御食人と為、雀を碓女とし、雉を哭女とし、如此行ひ定めて、日八日夜八夜を遊びき。

この記事は、土師氏の遊部を伝えているという。ははきもちとは、帚持ちのことで、殯を行うために遺体を喪屋までの間、悪霊を帚で払う人物である。とすれば河雁の役目であるきさりもちは悪霊を威嚇し武器を以て遺体を守る役割だった。こうしてみると、モガリの登場人物は中国の宮廷儀式である「儺」を引いて脚色されているかもしれないと思われてしまう。韓国では今でも民間の伝統的な葬儀に際して墓穴の邪鬼を払う振る舞いが行われている。遊部がかつては武装していたというのも、呪具として戈を携えていたからかもしれない。アジアの東にある東亜三国の根の交わりは深い。倭人が日本人を指しているかはっきりしないが、三世紀の末に書かれた中国の歴史書『三国志』のなかで倭人の説明をした「『魏志』倭人伝」の項にも

その死するや棺有れども槨無く、土を封じて冢を作る。始めて死するや、停喪すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主哭泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中にいたりて澡浴し、以て練沐の如くす。

と書いてある。『日本書紀』でも、アメノワカヒコの喪屋につき、「八日八夜、啼哭悲歌」と記し、下四文字を「啼び哭き悲しび歌ぶ」と訓示ている。「婦人ハ哭踊ス」と中国の『礼記』(喪大記)にもあるが、実際に葬儀に際して女性が泣く民間の風俗が日本にも存在していたから、中国の方法を日本に取り込んだわけでもなさそうだ。西郷信綱は「天皇天武の葬礼―一つの政治的劇場」の中で、二年二ヶ月間行われた天皇天武の葬儀のとき、泣き、踊り、歌う遊部の姿が書かれている。この葬儀において、遊部は、天皇天武の葬儀を荘厳に演出する演技者だったという。泣いて、踊り、歌うというのは、どこか能の笛、舞、詞章を思い出させる。遊部の行う殯も、猿楽者の行う能も、死者追悼の儀式であり、死者の霊力を現世になお顕示させる物語である。物語を突き動かす感情は、どうやら泣くことにあるようだ。アイヌでも葬儀で泣くことはごくあったことらしい。

葬列が墓地に着くまで、女性達は泣きながら葬送の歌を唱え続けていますが、遺体の埋葬が行われている間もなおこの哀歌は唱えられています。サハリンに住むアイヌの人々は、そこに雪が積もっていようと、そこが泥地であろうと、此の時には墓の傍の大地に身を投げて大きな声を挙げて嘆き悲しむと聞いています。(N・G・マンロー『アイヌの信仰とその儀式』)

次は韓国にも日本にもいるという泣女の様子である。

福井県丹生郡越廼村蒲生津は日本海沿岸の漁村中でも大部落であるが、ここでは意までも泣女を雇う習俗がある。その女は殆ど専門的の老婆で、その報酬に米を与えるが、その米の多寡によってなく程度を異なにし、従って死者の貧富の度が知れる。米一升を与えれば一升泣と云い、二升ならば二升泣と云うている。そしてその泣き方は入念のものであって、霊柩が家を出るときから泣き始めて、死者の生前の家庭生活の内面を匠に亡き語り、特に若い漁師が結婚後間もなく遭難した場合や、また愛自を残して永眠した場合などには、泣き女の言々句々、悲痛を極めて遺族は言うまもなく、葬列の人々をして断腸の思いあらしむると云うことである。(中山太郎『タブーに挑む民俗学』)

沖縄の殯では遺族が集まり死者と飲食をしてアソブ例がある。沖縄諸島で古く躰を林野に投棄したことは、内地のそれと全く同じであるが、此の場合に遺族や親友は、その屍体を訪れて俗に『別れ遊び』と言うことをした。もちろん、このことは古く内地でも行われていた資料が残っているが、習俗としてははやく滅びてしまい、わずかに沖縄諸島に保存されたのである。此の事に月同値出身の伊波普猷の語ったことを中山太郎が書き取った。

「二十余寝ん前、沖縄島の中部の東海岸を、少し置きには慣れた津堅島で、しばらく教員をしていた知人が、彼が赴任する十数年前までは、同島で風霜が行われていたと云うことを、私に放した事があった。其処では人が死ぬと、蓆で包んで、後世山と称する薮の中に放ったが、その家族や親戚朋友たちは、屍が腐爛して臭気が出るまでは、毎日のように後世山に訪れて、死人の顔を覘いて帰るのであった。死人が若し若い者である場合には、生前の遊び仲間の青年男女が、毎晩のように酒肴や楽器を携えて、之を訪れ、一人々々死人の顔を覘いた後で、思う存分に踊り狂って、その霊を慰めたものである(民俗二ノ五)

東北では盆の時期になると家族そろって墓で弁当を食べる。これもモガリの名残りであろうかとも思う。

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殯の後は、葬儀であり、死体を墓地に葬る。家の主が死んだ場合などは、持ち物である奴隷や妻、馬を共に埋める風習があった。播磨風土記の飾麻郡貽和ノ里の条に、雄略天皇朝に尾治連の祖先である長日子と、その善婢と愛馬との墓が三つ並んでいるが、これは長日子の死に妾と馬との殉葬したものである。さらに孝徳紀の大化二年の条には、「人死亡る時に、若くは経きて自ら殉死ひ、或は絞きて殉はしめ、および強ちに亡し人の馬を殉へるが如き旧俗は、皆悉く断めよ」とある。まだこの時代に殉死が盛んに行われ、或は自発的に又は強制的に、風俗として残っていたことを物語る。三重県津の城主であった富士堂高虎が死んだ折に、十八名の家臣が追い腹を斬り、その墳墓が主人の營域を囲んで並んでいるのを見ると、誰か民俗の永遠性を想わぬ者はなかろうとさえ考えるのである。「垂仁紀」には、殉死者の代わりに弥生式の土偶を用い始めた縁起が書かれている。

即ち使者を遣して出雲国の土部一百人を喚上げ、自ら土部等を領ひて埴を取り、以て人馬及び種々の物の形を造作りて、天皇に献りて曰く、今より以後、是の土物を以て生き足る人に更易へて陵墓に樹て、後葉の法則とせむ。(略)仍りて是の土物を號けて埴輪と謂ふ云々。

このころは既に大化葬令によって、モガリは失われていた。戦争で疲労したヤマト朝廷の経済事情がからんでいたことだろう。殯の廃止と同時に土師氏の遊部も役目を失い、葬の儀で埴輪をつくるという妙案を出して仕事を得ていたのである。

 

アマノウズメ

『古事記』では日本の歴史上最初の俳優と呼ばれる天鈿女命の舞台を次のように描く。神代、天照大神は弟神の素戔嗚尊の乱暴を避けて穴の中にこもった時に行われた宴会の風景である。

天照大御神はこれを見て怖れ、天の石屋戸を開いて入りお籠り になられた。すると、高天原はすっかり暗くなり、葦原の中つ國もことごとく闇になった。それで夜ばか続いた。そのために萬の神の声は五月の蠅のようになり、萬の災いがいたるところに起 った。そこで八百萬の神は、天の安の河原に集って、高御産巣日の神の子、思金の神に思慮を尽くさせると、不老不死の常世の長鳴鳥を集めて鳴かせ云々。天手力男の神は、戸の脇に、隱れて立ち、そして天宇受賣の命は、天の香山の蔓蘿の蔓を襷に繋けて綱とし、天の眞拆をして、「天の香山の小竹葉を手草に結ひて、天の石屋戸に槽伏せ踏み轟こし、神懸して、胸乳をかき出して裳緒を陰に押し垂れき。ここに高天の原動みて、八百萬の神共に咲ひき。ここに天照大御神、怪しと以為ほして、天の石屋戸を細めに開きて、内より告りたまひしく、「吾が隱りますによりて、天の原は自ら闇く、また、葦原中國も皆闇けむと以為ふを、何由にか天宇受賣は楽をし、また八百萬の神も諸咲へる」とのりたまひき。ここに天宇受売白ししく、「汝命にまして貴き神坐す。故歓喜び楽ぶぞ」とまをしき。

その瞬間、岩戸の脇に隠れていた天手力男神が、力一杯岩戸を開いて大神を外に連れ出した。このようにして魂を奮い起こさせる振る舞いを、現代人はタマフリと呼ぶことがある。フルというのは、震え、奮う、振えであるから、魂に触れることで玉に響きを起こす、振動させる、活力を与えることである。そのタマフリの様々な方法が考えられました。音、桶、踊、笑、現在の演劇の舞台にも通じる要素をこの文章から感じ取る事もできる。天宇受賣が覆槽をふみとどろかすありさまはタマフリの荒々しい呪法というのも、弱ったカミサマに力を与える方法であるらしい。このタマフリはカミに対してだけでなく、生きた人間にも力を与えることは想像に難くない。時代は飛ぶが、戦国の時代、安土城の天守に引き上げる巨石が動かなくなったのを、織田信長が木遣りを歌い采配をふるって引き上げたことも、人のタマシイを振りたてる呪法の力を伝える話である。アマノウズメノミコトが手にしていた道具は巫女が神と交わるために用いられ、採物といわれる。これで浮遊している魂を呼んだり祓ったりする。扇、葉、剣、棒、鈴など風を切ったり送ったり、音を出すものが使われた。また植物には神が宿っているという原始信仰があったため好んで使っているようだ。踊りには何かを手に持つという習慣は人間の本性であるようで、クルトザックスも『世界舞踊史』で次のように書いている。

踊り手―そしてこれは目的を持った踊りの第二のポイントであるがーは踊りの小道具に生き生きした緑の葉のついた絵枝を使いながら、それと同時に自分の整著湯の力の運び手とする訳である。この発想は、南アフリカの安吾に族の雨乞い舞踊でも同じである。これは木から枝を折り手に持つのである。マタガラは聖なる木を回るとき、腕に穀物と草とをかかえる。古代エジプトの女性の踊り手は、葡萄の蔓とゆらゆら揺れる木の枝で身体を飾った。日本の女性は《東遊び》で桜の枝を振っている。

『日本書紀』の記述によると、アメノウズメは、頭と体には蔓草をまといながら、手には茅でまいた矛をもって、たくみに「俳優をした」とある。ワザオキは、「招おきわざ」の転倒語で、神を招き迎える所作の意である。神霊の宿る植物を媒介として神を我が身に依り憑かせる意図があった。

アメノウズメが陰部をみせて踊り狂ったように描かれていることは現代の私たちには馴染まない。だが生殖器、もしくはその毛のもつ呪力を巫女が使っていた記録が一二八三年に成立した仏教説話集の『沙石集』にも残されている。説話だが、著者である無住国師の時代に読み手が理解できる話しの展開であるはずだから、ここに描かれた巫女の破廉恥さも事実であったとおもう。その内容は和泉式部が良人藤原保昌の愛を失い、再び得んことを洛北貴船神社の巫女に頼んだ所、巫女は愛敬の祭りといって行った儀式である。「年シタケタルミコ、赤キ幣ドモ立テメグラシテ、ヤウヤウニ作法シテ後、ツヾミヲウチ、マエ(ヘ)ヲカキアゲテ、タヽキテ三度メグリテ、「コレ体ニテセサセ給ヘ」ト云フニ、面ウチアカメテ返事モセズ。」 鼓を打ち、裾をまくり上げて陰部を出し、神に三度示しかくせよといふたので、式部は「千早ぶる神の見る眼も恥ずかしや 身を思ふとて身をや棄つべき」と詠歌してその所作を拒絶したという。この愛敬祭が天鈿女を祀るものであることを知るときは、この子孫の猿女の生活がいかなるものであったかも推測できる。今井通郎の『日本歌謡の音楽と歌詞の研究』にも、アマノウズメの一族である猿女君の行った儀式が次のように書かれている。

神武天皇が御即位されたときも、猿女君が皇妃姫蹈鞴五十鈴姫命と共に、天神の御魂を鎮める御魂鎮(みたましずめ)の祭をいとなみ、神楽を奏した。そのときの歌は「一ッ二ッ三ッ四ッ五ッ六ッ七ッ八ッ九ッ十」とうたわれ、「ふるへゆらゆらとふるへ」と唱えたという(『旧事本紀』)
この性器が呪力をもつことは古代における常識であった。アイヌに伝わる踊りにリムセというものがある。本来は悪魔ばらいの足踏であったものが踊りになったものであり、天塩国名寄に次のような踊歌では次のように歌ったという。

okkayo neike 男の人は
rimse kor 踊れば
o-rachin-rachin 物がぷらんぷらん
menko neike 女の人は
rimse kor 踊れば
o-hasa-hasa 物がぱくりぱくり

性器を見せることは悪霊払いの呪法であって、日高の沙流では、山中で不意に熊に出会ったときは、すばやく前をまくって性器を露出し、

e-nukan rusuy  お前が見たがった
pe ne kusu ものだから
a-e-ko- 私はおまえに尻をまくって
hopatara 裾をぱたぱたするのだよ

と唱えながら両裾を打ち合わせてぱたぱたすると、どんな荒熊でも辟易して逃げて行くという。この尻をまくって着物の裾をぱたぱたさせる行為は、「ホパラタ」(hoparata)と称して、悪魔祓いのために男女ともに行う呪術的な性器露出の儀礼であって、男なら前をまくって性器を露出して着物の裾をぱたぱたさせ、女ならば後向きになって上身をかがめ、前をまくってやはり性器を露出し、着物の裾をぱたぱたさせるものである。沖縄の首里の鬼の話にも、女性の性器がもつ呪術が伝えられている。昔、首里の金城というところに人を喰う鬼がいる、といううわさが立った。その妹がもしやと思って兄の留守に行ってみると、鍋に人肉が煮えていた。これは本当だと思い、普通の餅と、鉄でつくった餅をもって出かけてゆき、普通の餅を鬼の前で食べてみせると童子に、陰部を出してみせた。鬼がその下の口は何にする口か、ときくと妹は即座に、『上の口は餅を喰う口、下の口は鬼を喰う口』と答えた。これをきいて鬼は驚いて崖から下へころげ落ちて死んだ。」沖縄では冬十二月の行事として家ごとに蒲葵の葉や、月桃の葉でくるんだ「鬼餅」を拵えるが、この伝説はその行事の起源譚となっている。

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彼女達の踊りをみると、振り乱す、揺らすという振る舞いがはげしくなった動作が踊りであるように見えてくる。クルト・ザックスの『世界舞踊史』では人間の原初的な感情、恐怖やおののき、興奮を踊りの力の根源と捉えている。

ケラーがあるとき突然に姿を現すと、一匹の牝のチンパンジーが、はじめは片方の足で飛び、次のもう片方の足で飛んで非常に興奮した様子を示したと行っている。実際我々は研究者がときどき報告している、原住民が白人のやってくるのを見ると非常に臆した様子で片方の足で、次にもう片方の足で踊りを踊るという事実と、この報告とを関係有りと見てもよいかもしれない。それどころかそうしなければなるまい。この双方の場合に置いて、踊るということは緊張と恐怖に起因するからである。

『世界舞踊史』第一章の第一節でカナリア諸島の類人猿研究実験所から発表された記録を記している。それによればチンパンジーたちの興奮の表現は、人の踊りと変わりがないようだ。

偽闘をする際に、二等は一本の杭に近づくまで互いに引っ張り合う。彼等の大騒ぎやその飛んだり跳ねたりは、軸として杭を使い、其の周りを回り始めると穏やかになってくる。つぎつぎに残りのチンパンジが現れ輪に加わり、最後にはグループ減退が其の杭のまわりをきちんとした並び方で回っていく。そうなると彼等の動きは速くなり、もう歩いているのではなく駆足であった。片足を踏みならし、次にはもう一方の足を軽くつく。互いが他の者のステップに合わせ、はっきりとしたリズムに近い拍子を取って行く。ときおり彼等は口を明けたままステップに合わせて頭をゆらゆらさせたり、上下にヒョコヒョコ振ったりしている。(略)これらの踊りをする際に、チンパンジーたちはうごきにつれてぶらぶらしたり、ゆれたりする物、とくに紐とか蔦とか襤褸などを身体に飾るのを好むのである。

第二話 建国時代

七〇一年の大宝律令制定により倭国は日本へと国号を変えた。六六三年に白村江の戦い(はくそんこうのたたかい)で唐と新羅の軍に破れてから急激に「日本化」していく中で大和朝廷の支配は強まっていった。万葉集、古事記、日本書紀など歴史を編集することで日本をつくっていく。ここで取り上げたいのは大和朝廷が極東の島、日本の原住民を支配するために何をしたかである。一つには古墳に代表される遺跡に関わる。アジア民族造形文化研究所が編纂した『アジアと土器の世界』八一頁で岩崎卓也は次のように書いている。

五世紀の後半ともなると直接支配を強化する上で、一番邪魔なのは同祖・同族関係にある各地の首長たちということになる。そこで大和の王権は、各地の同族的首長を追い落とそうとするようになった。その方法の一つは、それまでかかわりが薄かった、地方の中・小首長と直接政治関係を結んで、それに挺子入れすることであった。圧倒的な力の差があるから、中・小首長は、はっきりと大和王権配下の官僚的な立場につく。こうやって、在来の地方首長を宙に浮かしていこうとしたようである。そんなことなぜわかるのか、という疑問をもつであろう。そのために、かつての武蔵を例に説明しておく。この武蔵の地では四世紀から五世紀の大型前方後円墳が、とくに大田区のあたりから川崎の、つまり多摩川と鶴見川の下流に数多く築かれていた。ところが、五世紀の後半になると、この土地の前方後円墳が急激に築かれなくなり、円墳になってしまう。ということは、この地にいて、武蔵に君臨していた首長層が、滅びはしないけれども、力を失ったことを意味しよう。

釆女

もうひとつ、律令制の一つとして地方の巫女を都に集めて大和朝廷の管理下に置くための法令が、七五七年の養老令(後宮職員氏女・釆女条)「其れ釆女を貢ぐは、郡少領以上の姉妹及び女の形容端正なる者を、皆な中務省に申して奏聞せよ」という勅である。また天武天皇は執政の八年(六八〇年)「諸氏、女人を貢れ」と命じました。古代より、釆女は特定の地域の豪族から、特定の時期に貢がされ、内教坊妓女と女孺・豪族の次女及び巫女とともに、都の手振りに習って飲膳に給仕する女性たちとしてあった。容姿が良く歌舞も巧みな若い女性であるから芸者を集めたようであるが、地方の郡司層の娘となれば、氏族や部族の巫女である。諸国の豪族を骨抜きにする政策として勅令を出したのかもわからない。奈良時代には、唐の妓制にならって宮中に釆女部におかれ、万葉詩人としても有名な額田王天武天皇の妃(一説に采女)が、女官を率いて宴席を準備し賑わす職務を帯びていた。釆女は専ら内膳つまり食事の世話を職務としたが、海外の使臣が来朝したときにその接待にあたり、宴の酒と料理、歌舞を提供し、旅愁をなぐさむるためにおかれた。つまり、「あそび」を提供することが彼女達の仕事であった。本来、宮廷の社会では、宴は神事に付属して行われる宗教性の強いものであったが、七世紀以降、貴族制が成立すると、世俗的宴が宮廷を中心に広がって行くなかで賽客接待を任務とする専門女性歌人が必要とされてきたことが背景にある。葛城王かつらぎおうが陸奥国で、国司から歓迎の宴を受けた時の釆女の振舞が『万葉集』に載っている。

安積香山影さへ見ゆる山の井の浅き心をわが思はなくに(巻十六・三八九七番)(安積香山、者の影まで見える山の井のように、浅い心であなたのことを思ってはいないのに)

右の歌は伝えて曰く、葛城王が陸奥国に遣さえし時に、国司の祗承(もてなしの)緩怠なること異に甚し。時に王の意こころに悦びず、怒りの色面に顕る。飲食を設くと雖も、肯へて宴楽せず。ここに前の采女あり、風流の娘子おとめなり。左の手に盃(角傷)を捧げ、右の手に水を持ち、王の膝を打ちて、この歌を読みき。すなはち王の意こころ解け悦びて、楽飲すること終日ひねもすなりきといへり。

アマノウズメが天照大御神を元気づけたように、地方にいた女性が宮廷の男に仕えていました。彼女たちの態は、うたであり、この場の力に酔ってもてなす人、主人の機嫌をとるものであった。門脇禎二の『釆女ー献上された女性たち』には『古事記』雄略段を取り上げてその様子が次のように書かれている。

纏向の 日代の宮は
朝日の 日照る宮
夕日の 日影る宮
竹の根の 根足る宮
木の根の 根蔓ふ宮
八百士よし
(以下略)

この歌は、ひとりの釆女が首に刀の刃をおしあてられたまま、許しを乞うて必死に歌い上げた天皇賛歌である。時の雄略天皇が、南大和の初瀬で張った響宴の関でのこと。天皇は、槻の大樹の下に座をかまえさせた。酒もすすんで、座も和み始めた。そうした時、風にあおられたのか、天皇が手にした大盃のなかに槻の葉がひらひらと舞い落ちたのである。天皇の側に侍っていたのは三重釆女であった。彼女はそれに気づかなかった。たとえ気づいたとて、伊勢国三重の郷里もとからいきなり天皇の側近くに貢ぎ出され、おそれつつ酌をする若き釆女に、ことにもせずそと盃の葉をとり除く心のゆとりも才覚も浮かばなかったであろう。しかしそれが天皇の怒りを呼んだ。暴激で有名なこの天皇は、たちまちに怒りを発して「その釆女を打伏せ、刀をその顎に刺し充てて」まさに切り捨てようとした。その時、わずかに「吾が身をな斬りたまいそ。白すべき事有り」と願うた彼女は、白刃のもとで、天皇の宮殿を褒め、四方を覆う天皇の威徳を讃え、さらにはめでたい詞章をかきさがして、必死に歌い上げたのであった。それがこの歌なのである。このように天皇に召すことを仕事とした彼女たちの宮廷での生活を伝える記事が『日本書紀』雄略天皇元年春三月条に書かれている。

雄略天皇は、ある日この釆女と夜を共にしたのであるが、釆女は一夜だけで妊り、ついに女の子を産んだ。天皇は果たして自分の子かどうかと疑ってその後の養育をかえりみなかった。しかし女の子は次第に育って、時分で歩けるようになった。ある時、天皇と物部目大連らが大殿に出ていた時、庭をその女の子が渡って行った。是を見た物部目大連は群臣をかえりみて、「奇麗な顔をした女の子だ。昔の人が“ナヒトヤハハニ”(この古語の意味はよくわからない)とはよくいったものだ。しずかにこの清い庭を歩いて行くあの子はいったいだれの子だ」とわざと問うたのである。そして天皇と大臣の間に言葉のやりとりが起こった。「どうしてそんな事を聞くのか」「わたくしには、女の子の歩いて行くのをみていると、その容儀がまことによく天皇に似ているように思えるのです」「この子を見たものは皆んな同じようにいう。しかし朕がただ一夜を与えただけで妊ったのだぞ。それで子を産み落とすのは滅多にない事ではないか。だから疑っているのだ」「それでは、一夜にいくたび御喚びになったのですか」「七回喚した」「この子を産んだ釆女は、清い身と心を以て一夜をおつかえしたのですぞ。それなのにどうしてその清潔を容易く疑うのですか。わたくしが聞いておるのには、生まれつきによって孕みやすい女性はすぐ懐妊するというではありませんか。ましてや終夜にお喚しになっておいて、わけもなく疑われるのはよろしくないことです」

そこで雄略天皇は物部目大連に命じてその女の子を正式に皇女とし、母の釆女も正式に妃としたのである。こうして元の釆女は妃童女君となった。これら二つの物語が、事実なのか、はたまた天皇の偉大さをあらわそうとして書かれたのかはわからないが、それがウソに聞こえないようなイメージが釆女にはあったということらしいことは確かであろう。釆女が天皇に仕えるために地方の豪族から選ばれた娘であり、地方にとっては巫女であったために振る舞いにも素養があった筈である。万葉集が編纂される頃はまだ釆女が高嶺の花であったことは、万葉集の藤原鎌足の歌から読み取ることもできる。鎌足は長年の忠誠への褒賞として、天智天皇から安見児という釆女を贈られる。この時その喜びを歌った歌が、「われはもや安見児得たり皆人 得難にすとふ安見児得たり」。しかし時代が少し進むと、采女は宮廷の官人たちに食事を運ぶ雑用係になってしまう。養老令の内則である後宮職員令には采女の役職も描かれている。采女は後宮十二司のうち宮廷の膳部をととのえる水司膳司に属し、十五階層にものぼる女官たちの位の最下位に位置づけられた。『枕草子』には淑景舎春宮に御手水(てうづ)まゐる。」と書き出す物語に釆女が登場する。

かの御かたのは、宣耀殿、貞観殿をとほりて、童女二人、下仕へ四人して、もてまゐるめり。唐廂のこなたの廊にぞ、女房六人ばかりさぶらふ。せばしとて、かたへは御をくりして皆かへりにけり。桜の汗衫、萌黄、紅梅などいみじう、汗衫ながくひきてとりつぎまゐらする、いとなまめきをかし。織物の唐衣どもこぼれいでて、相尹の馬の頭のむすめ少将、北野宰相のむすめ、宰相の君などをちかうはある。をかしと見る程に、こなたの御手水は番の采女の、青裾濃の裳、唐衣、裙帯、領巾などして、おもていとしろくて、下などとりつぎまゐるほど、これはた、おほやけしう唐めきてをかし。

地方のたかだか郡領クラスの出身にすぎぬ采女は、高級女官である女房たちからは侮辱のまなざしをむけられた。また天皇の愛を受けても子を生めなければ、釆女の身分はそのままである。そして釆女に定年退職はないから、懐かしい故郷に帰ることもできない。天皇に飽きられ、また子も生まなければ、そのまま宮中で老いていくしか残された道はない。能に登場する釆女がその身を嘆いて自殺してしまったのは無理もなかった。女御・更衣制が成立する一方、内侍司をのぞく後宮十二司が次第に無実化し、内侍司をはじめ令外の御櫛笥殿や糸所等の機関を中心に、上臈・小上臈・中臈・下臈に別れた女房によって後宮が構成されるようになる。清少納言は『枕草子』一六〇段で「えせものの所得るをりの事」 として采女を数え上げている。

正月のおほね。 行幸のおりのひめまうち君。 御即位の御門司。 六月十二月のつごもりの、節折の蔵人。 季の御読経の威儀師。 赤袈裟きて僧の名どもよみあげたる、いときらきらし。  季の御読経、御仏名などの御装束の所の衆。 春日祭の近衛舎人ども。 元三の薬子。 卯杖の法師。 御前の試の夜の御髪上。 節会の御まかなひの采女。 大饗の日の史生。七月の相撲。雨降る日の市女笠。渡するをりのかん取。

 

遊行女婦

万葉の時代より「うかれめ」と呼ばれる 女性たちがいた。彼女達もまた寂しい男に仕える女性である。ただ彼女達は釆女と異なり、単身赴任で地方に飛ばされた役人など、都の外にいる男の魂を世話する役割をもっていた。日本最初の百科事典『和名抄』巻第一には「遊女〈夜発附〉、楊氏漢語抄に云く、遊行女婦、宇加礼女、一云う阿曾我比、今案ずるに、又夜発の名有り、俗に也保知と云う。本文未詳、但し或る説、白昼遊行、之を遊女と謂い、夜を待ちて其の淫淫奔を発するを夜発と謂うなり」と書かれています。「うかれめ」という言葉は「あそび」連想され、遊女、遊行女婦という漢字があてがわれたということである。 昼間から遊行するのは遊女であるが、夜になると道で男に媚を売る売春婦を夜発と呼ぶとも書いている。『和泉式部物語集』に登場する「うかれめ」は、多くの男性とつきあいをする女性として書かれている。

ある人が持っていた扇を和泉式部のものと知った藤原道長は、そこに「うかれ女の扇」と書きつけた。負けず嫌いの式部は、すかさずその横にいう他を読む。「逢坂の咳の関守でもあるまいに、男女の逢瀬を咎めっだてなさいますな」

説話の中ではあるが、和泉式部は藤原道長から「うかれめ」と呼ばれたという。和泉式部といえば、情熱的な恋の歌、奔放ほんぽうな愛情の吐露が持ち前の女性であった。九五一年頃に描かれた『大和物語』(百十六段)にも「うかれめ」が登場する。

宇多上皇が、鳥飼院にいらっしゃったとき、例のごとく御遊があった。「この辺りにうかれめども、多くいる中に声が美しく奥ゆかしいのはいるか」とお尋ねになった。うかれめたちは、「大江の玉淵が娘と申す者が、珍しく参っております」というのでご覧になると、姿や顔立ちも清げだったので、殿上の御側近くにお召しになった。

ここでは「うかれめ」は上皇に仕える女性として描かれている。 実際に彼女等は都と地方を行ったり来たりする役人と関係をもったらしく、『万葉集』巻六・九六五番にその歌がのっている。大伴旅人が任地を去って帰洛するとき、別離の歌を歌う 対馬娘子玉槻も遊行女婦といえる。

冬十二月、太宰師大伴卿が京都に行く時に、娘子の作る歌二首
凡ならばかもかも為せむを恐みと振り痛き袖を忍びてあるかも
倭道は雲隠りたり然れどもわが振る袖を無礼しと思ふな

一首目は「普通のお方ならば、ああもこうもしましょうに、恐れおおいので、いつもならばはげしく振る袖をこらえて、振らずにおります」二首目は「大和へ行く道は雲にかけれています。しかし、堪えきれずに降る袖を、どうぞ無礼だと思わないでください」となる。この女性は有名な遊行女婦であり、名前を児島という。あそびめ児島は、歌人として優れた才能と力量を持った女性とされている。遊行女婦も、諸国流浪ではなく、諸国に所用でやってきた貴族層との宴席に出て行くので、遊行するという。連れ添い、励まし、慰むことがその任務であった。釆女と遊行女婦のはっきりした区別は文献から読み取りにくいが、国から言い渡された義務として釆女が宮廷に仕えたのに対して、遊行女婦は自営業であったのかもわからない。しかしどちらの女性も「あそび」に携わり、男性を迎え入れ、饗宴に酒と笑を供え、枕を共にした。村での神をもてなす振る舞いを、そのまま生きた人間に対して振る舞ったのである。

彼女達は次の時代には遊女と呼ばれた。遊女は不特定多数人に色芸をひさいで生計の資となす職業娼人である。遊女は遊芸を以って宴席に侍すると共に、枕席にも侍する。一方で売笑婦はもっぱら枕席に侍いして男性をして性の欲求をはたさしめる。同じく歌を歌い、枕を共にすることを生業とする女性のなかで、江口・神崎で仕事をする人は特に「遊女」と呼ばれていた。江口・神崎は京都と太宰府とをつなぐ交通の要衝であり、そこで役人達が宿を取るために一夜を過ごさねばならぬ場所だった。平安・鎌倉の時代は娼家軒が並び絃歌の声が絶えなかったらしい。遊女の芸は大傘を翳してその下でおこなわれる。『更科日記』の傀儡女も夜であるのに唐傘をさして歌っている。そもそも大傘は貴人の持ち物だったから、彼女達はその傘を、お客を招き入れる標にしたのだろう。遊女たちは緋の袴を吐くことが多かったが、緋の袴は官女が宮廷に伺候するための礼服であった。貴族社会の礼儀を供えた彼女達のもてなす。当代の文豪大江匡房『遊女記』は文豪らしく達筆にこの情景を描いている。

門を並べ、戸を連ねて、人家が耐えるところがない繁華な地である。倡女が群れをなして扁舟に棹さして旅舶につけて枕席を薦める。声は素晴らしく、韻は水風に漂うようである。天下第一の楽しき所である。

さて宴席に付くと彼女達は歌で主人を褒め祝う。江戸時代の遊女、明治時代の芸女支も、客のお座敷へお初に招かれた時には、「お座つき」として、「めでためでたの若松さまよ、枝も栄えりゃ、葉も茂る」という歌を謡った。遊女も傀儡も謡って客席の興を添えることを以て本業としたのである。万葉の時代から「君が代」という句が歌の中に多いのかといえば、今様はクグツの女をはじめとして、白拍子女、遊女などの芸能者がお客の前で謡うものであるから、まず最初にお客、すなわち君の「君が世」の長久を言祝ぎました。言祝ぎは各地の民謡や祭文、万葉集にみられる。新選万葉集(九一三年)、古今和歌集(九一二年)にも君が代の歌がある。朗詠は雅楽に含まれる。節をつけて語ることは最初朗詠といわれ、『倭漢朗詠集』(一〇一八年)や神楽歌の写本である『神楽集』(一〇世紀)にその歌詞がのっている。(脇田晴子『女性芸能の源流』)彼女たちの詠んだ歌というのは、神崎の遊女宮木が『後拾遺和歌集』(一〇八六年)で詠んでいるもので

津の国の難波のことか法ならぬ 遊びたはぶれまでとこそ聞け(津の国の難波亘理に身すぎする私たちのアソビタハブレの仕業もどうして仏法に違うものでありましょう)
西行法師と江口の君、妙の交わした歌が『山家集』に載っている。宿を借りようとする西行と、出家の身が遊女屋に宿を求めることをからかった妙との諧謔的なう歌のやりとりである。
世の中を厭ふまでこそかたからめ仮のやどりををしむ君哉
返し
いへを出づる人とし聞けばかりの宿心とむなと思ふばかりぞ

『梁塵秘抄』には、遊女が願をかけて祈る百大夫なるものを「遊女の好きなもの」のなかに数え上げている。この歌には、女が百太夫に祈ったが験しるしなく、男は京へ帰ってしまったというエピソードもついている。

遊女の好むもの
雑芸 鼓 小端舟
大傘かざし とも取り女
男の愛祈る百大夫

ここに出てくる百大夫は、『遊女記』に「道祖神之一名也」とあって、陽物にちがいないとされている。木を刻んでつくつた陽物を、遊女たちはそれぞれ持っていた。この風習は、均整から近代へ色町の女たちにうけつがれていった。それは招福のものであり魔除けであった。篠原正浩は『河原者ノススメ』でこれに言及し、詳しく考察している。

百神、つまり百大夫信仰には渡来の道教の痕跡があり、古い時代はコケシ風の木像で、それを遊女や傀儡師がおのおの、その家なり天幕などに安置して、夜になると神像というよりは人形に等しい呪物を囲んで賑やかに福の到来を祈願したのではないか、とする朧皮の論証は刺激的である。(略)宇佐神宮の勅使道に沿って、八世紀の九州、大隅日向一円で大和朝廷に反逆して殺された隼人を葬ったと伝えられる「百体社」がある。隼人の首を持ち帰ると悪疫が流行し、その祟りを畏れて建立されたという。この「百体社」と傀儡子が祀った「百神」とは関係がないのか。大分県教育委員会による昭和三十七年(一九六二)の報告書『中津市古要神社の「くぐつ」』では、応永二十七年(一四二〇)当時は「百太夫殿社」と称せられていたという。

更に続けて、この百太夫に祈る遊女たちの心まで読み取るのだから、篠原正浩のもつ語り手としての心は計り知れない。

西宮神社のエビス神は、誕生した時に未熟児の蛭子であったことから葦舟で流された。この伝承から私は遊女達の水子供養を想像する。遊女は豊富な性体験から避妊の術を学んで来た筈である。しかし、彼女等もしばしば妊娠し、胎児を捨てるはめに陥ったに違いない。傀儡子と傀儡女が共同して祀った百太夫信仰の背景には、未成熟なままこの世に現れた蛭子=ヒルコを流してしまった贖罪と供養があったのではないだろうか。

達筆な文豪、平安時代後期の大江匡房が書いた『新猿楽記』は、滑稽を交えて物づくしを織り込んだ往来ものの祖とよばれる散文であり、藤原秋明きひらが晩年書いたとされる。このなかで「職能」を活写するうちの最後に十六の女が登場する。

十六の女は、遊女夜発の長者、江口河尻の色好なり。慣へる所は、河上の遊蕩の業、伝ふる所は、坂下の面無しおっもなしの風なり。昼は笠を荷って、身を上下の倫たぐひに任す。夜は舟玄を叩いて心を往還の客に懸く。そもそも、淫奔、徴嬖が業(中略)しかのみならず、声は頻伽の如く、貌は天女のごとし。宮木、小鳥が歌、薬師、鳴戸の声と雖も、之に準ずれば敵ならず。(中略)ああ、年弱き間は、自ら身を売って過ごすと雖も、色衰ふる後は、何を持ってっ余命を送らんや。

平安中期の漢詩文集『本朝文粋』巻九、二三八にも遊女の未来が不安気に書かれている。

河陽(山崎津)は、山城・河内・摂津の三石に挟まって、天下における重要な渡し場である。東西南北、往来するものは、この道を必ず使う。天下の女色を売るものが集まる。船をつないで川の中で客を待つ。若い女性はくれないとしろ粉で化粧をし、歌ったり騒いだりして、人の心をとろかす。年をとってものは傘を持って竿を指して船を動かすのを任務としている。夫や婿は、淫らな行い位の実入りが少ないことを責め、父母は、客に呼ばれ幸が多いことを願っている。

公的・私的な船旅には集団でか曲を披露し、集団単位にまとまった米屋絹が与えられ、数人の貴族男性への遊びには、人数に応じ対応し、奥義や脱衣した衣装などが与えられたのだと思われる。長者に五日つして給与された米屋絹の纏頭を分けるにあたっては『遊女記』に描写されている。客から得た纏頭は「団手」と呼ばれる。等分に分けるときは、恥も外聞も忘れ、激しく怒りの顔をして、大小の争いは、まるで乱闘のようである。絹は寸まで平等に切り分け、米は升まで小さく分ける。漢の陳平が郷里の宴会で料理人になつて、肉を平等に客に分けた孤児のように公平に分配するルールを持っているという(服藤早苗『古代・中世の芸能と売買春 』)。

第三話 戦乱時代

鎌倉幕府がつくられた時代であって社会は大きく変化した。地方勢力と都との距離も近づき、こうした事から各種、各層の人々の行き来と移動が、物流が、京へ向かって頻繁になる。日本上嫁の交通網が急速に拓け、地方には津、泊、宿、市庭などが発達した。「流行り歌」は〈うた〉が人とともに交流しつつ、大都市へ運ばれ規模のネットワーク状を行き来しながら生まれた。ボッカ、牛追い、狩猟者、参詣者、狩猟民、またぎ、木地師、修験者の足によって現れた道である。『街道記』(貞応二年一二二三)は、足柄峠を下った市の関下(関本)の宿の情景を、「関下の宿をすぐれば、宅をならぶる住民は人をやどして主とし、窓にうたふ君女は客をとどめて夫とす…」此の段階で、既に多くの宿が成立している。建武二年(一三三五)に記された『実暁記』によれば、「京ヨリ鎌倉マデノ宿次ノ次第」は六十三宿で、これが江戸時代の東海道五十三次の諸宿場へと変貌する。

平地に住み田畑を耕して税を納める良民にかわって、野山を駆け回る人々が主役と成る時代であった。直良信夫は『峠と人生』で次のようににべて居る。
『梁塵秘抄』に「田」という語がでるのはわずかに二カ所(巻第二、三三二番、三三九番)にとどまり、しかも、「田をつくる歌ではなく、田をよそ目にみているものである」という木村の指摘がある。『梁塵秘抄』の今様を作り歌った人々、そこに姿を見せる人たちは、疑いもなく、山野河海を生活の舞台とする人々であり、「遁世流離」した「流民」であった。「神楽」「催馬楽」などにみられる「田をつくる歌」とは全く異質でる。室町以降の語り物、例えば「説経節」のような、賤視により屈折した暗さは、ここにはないといってよい。平地が常民の田んぼと化してしまったために、流民はすべからく野山をかけめぐった。そこで産まれた感性が『梁塵秘抄』にみてとれるのである。

『梁塵秘抄』とは、古代王朝社会が崩壊し、武士の世に変わろうと摺る第転機を迎えていた平安末期、あの源平の争乱のさなかをしぶとく乗り切った後白河院が、自ら編纂した今様集、日本最古の流行り歌の記録である。今様とは今様歌の略で、歌詞の内容や曲節が「今めかしい」歌のことである。わかりやすくいえば、当時既に歌われて来た催馬楽・風俗などの地方の伝承歌や漢詩を吟誦する朗詠に変わる、新しい歌詞と曲節をもった歌が今様であった。要は宮廷社会で流行したうたのジャンルである。梁塵秘抄という本の名前の由来について巻第一の末尾に一文がある。

梁塵秘抄と名づくる事。虞公韓娥といひけり。声よく妙にして、他人の声及ばざりけり。聴くもの賞で感じて涙おさへぬばかりなり。歌ひける声の響きに、梁の塵たちて三日ゐざりければ、梁の塵の秘抄とはいふなるべしと云々。

聴く者を思わず涙冴える程外に類を見ぬ美声の虞公とか韓娥という名手が歌うと、その声の響きに、梁につもった塵が三日も舞い立ったままであったという、中国の故事に依り名付けた、とある。声の響きとは、元来こういうことであった。また歌が人間以外の物の怪の心をも掴んでしまうというロマンがあった。火星人も歌に感心する。

用明天皇の御時、難波の宿館に土師の連といふものありき。声妙なる歌の上手にてありける。夜。家にて歌を歌ひけるに、屋の上、付けてうたふものありあやしみてうたひ止めば、音もせず。またうたへば、また付けてうたふに驚きて出でて見るん、逃ぐるものあり追ひて行きてみければ、住吉の浦に走り出でて、水に入りて失せにけり。これは蛍惑星の、此の歌を愛でて、化しておはしけるとなん。聖徳太子の伝に見えたり。今様と申す事のおこり。

 

クグツ女

平安時代中頃に書かれた『更級日記』の十月二十日、作者の菅原孝標女は父とともに任地の上総国から京都に上った時の思い出を書き残した。
足柄山は暗く、空のけしきは、はかばかしく見えず、えもいわず茂りわたっていて恐ろしげであった。麓に宿ったが、月もなく暗い夜に、闇にまどうように、あそびめが三人、どこからともなく出てきた。五十ばかりのもの、二十ばかり、十四か五の女であった。庵の前に、からかさをさし据えた。男どもが火を灯して見たところが、髪がたいへん長く、額にうまい具合にかかっていて、色が白く汚げがなく、相当に良い家の下仕えとしても勤まりそうだと人々が哀れがった。昔に名のあった「こはた」という遊女の孫であるという。声は似る者がないほど、空に澄み渡って、めでたく歌をうたった。人々がたいへん感動して、身近にこさせて持てはやして「西国の遊女はこうはいかない」などいっているのを聞いて「難波わたりにくらぶれば」とめでたく歌った。見た目にもきれいな上に、声も似るものがないほどよい声で歌ったものが、このように恐ろしげな山中へ帰っていくのを、人々はあくことなく見送った。わたしは幼い心に感動して、この宿りを立ち去るのさえ嫌だった。

この日記がどれほど脚色されてるかわからないが、男を酔いしれさせる彼女等の芸が感じられる。彼女達は歩き回りながら歌を謡い男と枕を共にして生活の糧とする、当時くぐつと呼ばれた女性である。ちなみに、傘は祭りの神事の天蓋と同じ意味を持つ、つまり「かさ」の下は異次元の空間と看做され、笠の下に立つ彼女たちはこの世ならぬ神と繋がる存在となって歌う。彼女達は遊女と同じように、歌を歌い、性を売った。『無名抄』には、歌の名手である源俊頼が鏡の宿を訪れた時にクグツに神楽歌を歌ってもらったことを書いている。

[俊頼歌傀儡云事]
富家の入道殿に、俊頼朝臣候ひける日、かがみの傀儡ども参りて歌つかまつりけるに、神歌になりて、
世の中は憂き身に添へる影なれや思ひ捨つれど離れざりけり
この歌を歌ひ出でたりければ、「俊頼、至り候ひにけりな」とて居たりけるなん、いみじかりける。

クグツは当時の流行をどこかから仕入れていて、俊頼の目の前で彼の歌を歌ったのである。なんとも気が利いている。漢字では傀儡と書くが、ここではクグツと表記する。『四条中納言定頼集』三九二番には藤原定頼がクグツにまつわる次のような話を書き残した。

京から石清水八幡宮に詣でるために、高瀬川を下って木の本にとまつて、こさん(小三)という「くぐつまはし」を呼びにやったところ、遅く参上したので、「高瀬舟を列ねてこさんが来るだろうと待つうちに」といわれると、定頼の子息弁の君経家が、「そのまま岸辺に隠れてしまいましたね」と下の句を詠んだ。

また、『万葉集』巻五・七五三にある「遊於松浦河序」では九州にある太宰師であった大伴旅人が歌を詠んでいる。

漁あさりする河人の児どもと 人は言えど 見るに知らえぬ うま人の児と
答 言哥曰
玉島の この川上に家はあれど 君をやさしみ あらはさずありき

この生活の様子は『傀儡子記』に書かれたような漂泊するくぐつの姿を連想させる。殊に太宰師を欺いて、のち、歌って「君をやさしみ、あらはさずありき」(恥ずかしいので言わなんだが、川上に家があるのよ)と、戯弄するところなど、日本人離れしている。ただ者ではない。機智に富んだ句である。それにしても彼女達は歌を上手く作る。著者の想像であるのかと思うほど、生命力が溢れている。ところで旅人から右記の詠歌を贈られた都の友人、吉田連宣は「君を待つ 松浦の浦の少女らは 常世の国の 海人少女かも」と歌を返している。奈良時代の常世の国の観念には、朝鮮が第一にあげられていた。クグツという名は場所によって異なったらしく、それが菅江真澄の日記『かたいぶくろ』の一節に書かれている。そこでは東日本の遊女の地域名称が拾われ「くぐつ、あそびうどのたぐひ、その名こと也。をなじみちのおくにても、南部にてたこといひ、おしやらくといふ。津軽にて(略)」といった具合だ。クグツが地方を中心に陰ながら活動していたからこそ、共通する名前をもたなかったともわれる。都を離れた場所では、性を売る女性にたいして地域毎に呼び名があった。菅江真澄の日記には東北地方で出会ったクグツの話を記録した。

「はまの温海にいたる。山のあつみという処にありける、いで湯に行とて、みちもさりあへず人のかよひぬ。このあたりの里なるとまる人も、まち人も、なべてむすめ持たらんかぎりは、あそびくぐつにやるをならはしにせり。こを、はまのおばとよぶとぞ」(山形県鶴岡温海)

秋になると、稲刈りを終えた村村からは、湯治の人々がいっせいに山のいで湯へとやってくる。「浜のあつみ」の娘たちがそれを目当てに、湯女に身を変えてアソビクグツにいそしんだ、ということだろうか。

はれたる窓に、ひきどをはじめ実元上人琴かいならしけると、地獄めぐるすぎやう者など、立ち止まり聞きつつ行にまじりて、閉郡みやこ島辺より来るとて、くぐつやうの女、湯あみしてありたるが、おかしとやおもいけん、唯此おもしろさにいざなはれて来るといへば、ひきどにやあらん。さ一手一手とせちにいへば、すべなうかいならしたるは興あり。(青森県むつ市)

後白河法皇がうたのうまい者を集め、教わったこと記録した『梁塵秘抄』に登場するクグツの本拠地は、西日本と東日本の境に位置する場所にあった。 その「うた」の道の拠点である青野は東西を分ける峠に位置する。美濃は畿内と東国の境界の地であり、京都とと東国をのぼり下りする人は、ここでしばし、感慨にふけったのに違いない。その地において、足柄などの東国風の歌を哀感を込めて歌い上げるクグツの女たちに、人々は旅情を慰めたのであり、多少、都風にアレンジされた東国風の歌、それが流行を作ったのだろう。ここにクグツが居をかまえたのも道理でり。今様の名手、監物源清経は、尾張の国へ下向した折に泊まった青墓宿で、目井と乙前に出会う。他の遊女のうたもいっぱい聴いていたであろう清経だが、目井の歌う〈うたのいみじさ〉素晴らしさに惚れ込み、乙前の声の美しさにその将来を期待してすぐさま京へ連れ帰ったという。

雅仁親王時代の後白河院は京の男女、所々の端者(召使いの女)、雑仕(貴族の家の雑用を仕事とする女)などとも今様を合わせ、一緒に歌ったという。その姿は万葉時代のうかれめと重なる姿である。『俊頼髄脳』の作者源の和歌集『散木奇歌集』にはナビキの子である傀儡三四が詠まれており、彼女らが京都と美濃を往復して巡業していたことがわかる。

うからめはうかれて宿も定めぬか
付く
傀儡廻しは廻り来てをり

傀儡の歌う歌は多用であって、大江匡房の『傀儡子記』に示されたものでも古川様・足柄・片下・黒鳥子・田植歌、麦打歌の男女の恋愛を主題にした俗歌、仏教に関連した神歌、『夫木和歌集』『土佐日記』では船子が棹さしながらうたうという棹歌、その他辻歌・漫固が歌われている。これだけのうたの素養があるからには、裏で貴族社会とつながる男がいたはずである。はたまた、歌に長けた彼女たちの素性は何者か。「さきくさ」という女は洗濯していて謡っている声があまりにもよかったので、進められて傀儡子になったという女であった(『体源抄』一五一二年)と書かれているが、他のクグツはどうしてクグツになったか。私には現代の風俗と同じものを想像させる。すなわち都に憧れて上京したがうまく行かず道ばたで勧誘されてこの世界に入るというなりゆきであろうか。この背後には当時の宮廷社会の力が弱まり、組織からはみ出た人がいたことも想像できる。天武天皇四年二月には「所部の百姓の能く歌う男女、及び朱儒・伎人を選びて貢れ」という勅命が美濃国ほか十二ヶ国に下され、十四年九月には其の子孫への伝習が、命じられている。また是より数年後の養老元年、元正天皇が美濃に行幸されて倒壊、東山、北陸道の国司たちを集め、美濃の西部に置いて風俗の雑伎を奏せしめられた故事がある。この時現在宮内庁に伝わる相模国の東遊が採録されたのだという。宮廷に新しい風を吹き込む東の民は、後白河法皇にとっても魅力的であったことだろう。ただ歌が好きだから歌を習ったと思えてしまう一方で、彼は、民の口ずさみに発した今様の「こゑわざ」に霊力をもたせ、神と繋がる回路として自らが司祭し、歌うという「新しい王の像)」を象徴として打ち出したのではないかと桃山晴衣は『梁塵秘抄 うたの旅』で述べている。地方の民謡、童謡は、古く宮廷に取り入れられて催馬楽となったが、そのあとに発生した地方の民謡。鄙歌は諸国から兵役や納税のためにくるものによって京都に運ばれた。京都で流行した歌は全国に流れて行った。歌は語り継がれて全国を巡り混ざっていったのである。

クグツ女が活躍した当時、物売りは主に女の仕事だったようで、『七十一番職人歌合』にも多くの女性が登場する。私の想像によれば、昼間、唄の稽古やら物売りをしていた彼女達は、夜になると姿を変え、夜の商売を始めたのではないだろうか。女性はいつの時代にも「看板娘」である。

白拍子 女

時代が変わると趣向がかわる。院政時代末期、戦の絶えない時代にはいり登場したあそびめを、白拍子と呼ぶ。衣装と振る舞いを変えた遊女・クグツである。彼女達は合戦に明け暮れる武家達の気風に合っていた。白拍子は男装して、歌を歌い、客人を楽しませることを仕事にした。ただ彼女達の場合は、足踏みを行なうなど舞の要素を取り入れた。白拍子とは元々男の芸人が行っていた舞の一つであって、これを誰かが女性に教えたのである。元来白拍子とは、声明の用語で「素声」でうたうこと、それから無伴奏の表紙で歌うといういみがある。これは立ち烏帽子、白木水管、白鞘巻の刀をさし、朗詠集の詩歌などを歌い、扇を持って舞う。なので女がこれを踊る時は「男舞」とも称した。江口・神崎の遊女は、『中右記』に「歌謡女」と示されているように歌うだけだったが、白拍子は白拍子舞を行なう呪師の容姿と芸能を自分の芸能に取り入れたのだった。拍子だけで舞うというのは、声聞師の仕事です。『七十一番職人歌合』の四十八番目は、白拍子と曲舞々である。両者は共に袴を付けた女が男姿をしているが、白拍子が太い作り眉であるのに対し、曲舞々の作り眉は補足直線的である。この時代は鳥羽帝の御宇(一一二〇年前後)に当り、男子は眉を剃り歯を染め、白粉を塗り臙脂をつくる流行が公家の間に興って、武士迄もが之に倣ふといふ風で、風俗は頗る華奢を極め、管弦伎楽の勃興と共に士民遊興に耽るを事とし、京洛の天地は歓楽の巷に変じていた。時代が白拍子をつくり、育てたのである。

『徒然草』には「多久助が申しけるは、通憲入道雲、舞の手の中に興ある事どもをえらびて、いその禅師といひける女に教へてまはせけり。白き水干に、鞘巻を差させ、烏帽子をひき入れたりけれど、男舞とぞいひける。禅師がむすめ、静と云いける、この芸をつげり。これ白拍子の根元なり。仏神の本縁を歌ふ。」と記されている。『源平盛衰記』巻十七(一一六二年から一一八三年の内容を示した本)にも記述があり「世に白拍子と云者あり。吾が朝には鳥羽院御宇に、島の千歳、若の前とて、二人の遊女舞妓けり」。管弦の妙手、京極大政大臣家輔の女、和歌の前(若御前)はその父の素性を受けて当時ならびなき琴の名匠であったのみならず、歌舞もまた堪能であって、島の千歳と共に「白拍子舞」を創始したという。これをみて猿楽者が真似たのか、声聞師がこれを作ったのかわからぬ。「仏神の本縁を歌う」とあるように、白拍子には「御前」といった仏の神に仕える巫女として、当時の新興仏教ブームにあやかったのだろう。

平安末期から鎌倉時代にもてはやされた遊君白拍子の仕事は、招かれた貴人、高家の前で神歌・法文歌を歌い、訪問先を寿福する舞を舞うのが、表向きだった。その場合、白拍子は訪問先の家の人を呪祷した。『法隆寺縁起白拍子詞』などの記録を見ると、白拍子本来の職掌は、大寺大社に所属する巫女が各地に出かけて、自社の縁起、仏身の高徳を述べ、祈祷の舞を舞というものであったが、やはり彼女達もうかれ女であった。家に招かれた白拍子が夫と不倫を目撃した妻が白拍子を血祭りに上げるなどという御伽草子がある。確かに彼女達は時代にときめいていた。平清盛の寵愛をうけたのも祇王という白拍子であったし、源義経の恋人も白拍子、静御前であった。『平家物語』の巻第一の「祇王」にかかれる白拍子をみると、当時どれほど人気だったか想像ができる。白拍子達は「おなじ遊び女とあらば、誰もみなあのやうでこそありたけれ」とうらやんだという。今日中の白拍子の中には祇王の幸運を妬んだり、うらやむ物があり、祇一、祇福、祇徳などと名乗る物が続出したという。祇王の記事が出て依り三年後、都に加賀の国出身で、仏御前という十六歳の白拍子が現れた。彼女は「あそびもののならひ、なにかくるしかるべき、推参してみむ」と清盛の別邸へ出かけた。あそび女の突然の訪問に清盛は仏御前を還そうとするが、祇王が「あそびものの推参は、常のならひでこそさぶらへ」と仏御前をとりなすので、清盛は今様を歌わせ舞を舞わせたところ、祇王を館から追い出し、仏御前を寵愛するようになる。祇女はその後二十一歳で尼になり、妹の祇女と母親と共に嵯峨野の奥の山里に庵を結んで念仏生活に入る。後日、仏御前も十七で出家して彼女達とともに庵の生活にはいったという。

鎌倉時代でも、白拍子はいかがわしく猥雑な者として受け取られる側面を持っていた。しかし神社祭祀には彼女達の芸能的才覚が必要であった。大和春日神社文書・年欠四月三日 大中臣祐賢書状案(『鎌倉遺文』一四二〇四)は拝殿沙汰人五郎左衛門の乱脈経理ぶりを責める文章で、「毎月の神楽銭」が巨多となり、不慮の借銭さえ必要になっているとした上で、白拍子の芸能は毎日の神楽を奉納するために不可欠であるから、堪忍分を支給しなければならないというものであった。この頃白拍子は招かなくても王国貴人の宴会にやってきて歌舞することが主なる営業であって、月々米百万、銭百貫位の収入があった。貴人たちもまた彼女等に対して相当の敬意を払っていたらしく見える。『中臣祐定記』嘉禎三年(一二三七)三月一日条には、若宮拝殿の若巫女を「衣カツキ」をさえて誘い出し、社司も神人も分け隔てなく楽しんだ、また弘安三年(一二八〇)正月十八日には、三方神人五人が若宮手水屋においてアリキ白拍子を招いて「酒宴」を催したとの記事が見える。しかし他方では白拍子には悪評がつきものだったようだ。一二六七年十二月二十六日には「次非御家人之輩女子亦傀儡子・白拍子及凡卑女等 誘取夫所領、令知行者同可被召之」(『鎌倉遺文』九八三七)といった記事や「内裏焼亡アリ 河原白骨アリ 安嘉門院白拍子アリ」(『鎌倉遺文』八四六二)正元二年(一二六〇)院御所落書)さらには「次非御家人之輩女子并傀儡子・白拍子及凡卑女等、誘取夫所領、令知行者同可被召之」(『鎌倉遺文』九八三七 文永四年(一二六七)十二月二十六日・関東評定事書)といって罵倒されている。室町期に編纂された小なる百科事典とも看るべき『下学集』には「白拍子 歌舞而衒賣色女者也」とあるのが、其の実際の生活であった。人はひとりの白拍子を舞わしめることによって、幽玄の感を味わい得るとともに、その性的愉悦をも満喫し得たである。

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「白」は「もと僧家声明道の語で(略)白声といえば曲節もすくなく、日常の語彙に近い物を云うが如、普通の拍子をさして、こう呼」んだもの(『日本歌謡史』)で、平曲の「白声」も素拍子を意味し、鼓の打ち方の乱拍子に対置するという。やがてその拍子を中心に奥新たな歌舞が白拍子と呼ばれ、更にそれを専門にする芸能社を燃そう呼称したと摺る物である。すなわち白拍子は、それ以前の韻を伸ばす「不拍子」の旋律をもった歌謡とは異なり、一拍一音節の舞をめぐる新興の芸能であった。永仁五年『普通唱導集』には「初に於て舞い出たる容儀厳して目を悦ばす 後に至りて 踏み旋まはる 音声妙にして耳を驚かす」(世間部)とあり、初めに「舞」を行い、其の後に「踏み旋まはる」のが白拍子の舞であったようだ。乱拍子とは片足を交互にだし、出した足のつま先をピンとあげて、それを左右にひねり、また元へ戻して、とんと下ろす特殊な足使いであるが、これももと、呪術したちの、祭りの場における動作から生まれたものと思われる。今、愛知県の奥三河地方に残存する花まつりと呼ぶ神事舞踊の中に、この乱拍子と同じ技法が伝承されているが、それを反閇と呼んでいる。アマノウズメが桶の上で、アイヌが踊の中でやってきた振る舞いを思い出させる。

頼朝が鎌倉に幕府を開いたため、京都と鎌倉を結ぶ東海道が交通の主流と鳴って、結果遊女たちは宿駅にでるか、入宋貿易で反映していた播州室の津へ移動した。しかし姿を変えて権威の懐に潜り込む彼女達を支える組織があったことが想像される。体を売ることは女の生きる道であって、彼女達の名前は時代と場所と共に変えて行った。室町時代の遊女は、明応九年(一五〇〇)に成立した『七十一番職人歌合』の三十番に登場する「たち君」と「つじ君」がゆうめいである。両者とも売色をもっぱらとする娼婦である。平安京内に居住していると推測される女性芸能者の資料が見えるようになるのは十一世紀後期の「歌女」である。一〇八一年三月一〇日、権中納言正二位六十六歳の源経信は、内裏から退出した後、次のように記している。『師記そらき』「晩頭ばんとう、万里小屋に寄る。次いで蜜々近江守宅に向う。歌女うため一両を喚びだし、深更に帰り来る」。以後『そらき』には、頻繁に「歌女」が登場する。「桂女」「加賀女」と名乗る遊女があらわれた。明応二年(一四九三)畠山政長が正覚寺城を責められて自害しようとするときに城の中から「桂の遊女の装束をさせ参らせ若君を桂に作り彼の遊女の中に入れ、云々」といって、桂遊女の振りをして城を抜け出す様子が描かれている。また加賀女は加賀国から出た遊女であろう。公方殿中などへ参って其の頃流行の加賀節など歌った。

持つものと持たざるものが生まれてから、彼女達は金持ちの男と関係を持ち、身を立てることもできた。『今昔物語集』巻第二十八第二十七の「伊豆守小野五友が目代の語クグツの目代の語」は、伊豆の役人に文字を書く能力を買われて仕事をしている時に、仲間のクグツがやってきて揶揄された話が載っている。後白河の子を産んだ江口遊女の一臈は、内膳司紀資の娘で丹波局といわれており、後鳥羽の寵姫で承久の乱の直接の原因を作ったとされる白拍子亀菊は、伊賀局とよばれる宮廷の女房となっていた。なんのためらいもなく、あそびめの血が日本の上流階級の血に混ざっている。逆に、宮廷生活を送る女房の中にも、和泉式部を代表とする情熱的な女性がいた。網野喜彦は『中世の非人と遊女』で次のように述べている。

『後拾遺和歌集』の遊女宮木、『千載和歌集』の遊女戸戸、『新古今和歌集』の遊女妙、『玉葉和歌集』の遊女初君など、勅撰和歌集に湯所の和歌が採られている。『とばすがり』の作者である後深草院二条も、夫である後深草だけでなく、亀山、西園寺実兼、法助法親王、鷹司兼平など、多くの男性と交渉を持っているのである。こうした二条の「愛の遍歴」を通じて知られる宮廷の状況を「乱倫」「乱脈」と評するが、これまでのふつうの見解であるが、むしろこれはこのころの女房の一般的なあり方と見てよいのではなかろうか。実際、周知の和泉式部をはじめ『とはずかたり』の後深草院二条など、こうした事例は数多く見いだす事が可能である。また宮廷を離れたのちの女房二条の東国・牲極への旅は、まさしく「遊女」的な遍歴といっても、決して言い過ぎではあるまい。

もっと積極的に言えば、 遍歴する遊女やクグツは長者に率いられた独立した組織であったが、朝廷に属していたともいわれている。つまり、当時金をもっている役人、貴族しか相手にしていなかったのだ。鎌倉時代のごく初めの『右記』という、仁和寺の御室の守覚法親王の記録にも、遊女・白拍子は、「公庭」ー朝廷に属するとはっきり書いてある。(『日本中世に何が起きたか』)内教坊あるいは雅楽料などの宮廷宮司に統轄され、とくに江口・神崎の遊女たちが「五節の舞」に当たって舞姫に仕える下仕として宮廷行事にも加わった事については、すでに後藤紀彦が「辻君と辻子君」で詳述しているらしい。(網野喜彦『中世の非人と遊女』)後の芸者、遊君につけられることになる太夫という言葉は、元来中国にならった官位の称号で五位相当の職であった。公家では殿上人であり、江戸時代でいえば大名に当たる地位で、遊芸人の敬称に用いられた。江戸時代には高級な遊女を太夫の名で呼ぶようになる。

晴れやかな面がある一方で、彼女達の辿ってきた道は暗い。白拍子も子を抱えて夫に捨てられた娘であり、売春をしながら暮らしていたのかもしれない。または奴隷として都にやってきた女子が解雇されたが、終わったら帰る事ができるのだが、その後遠い故郷に帰る事を好まず、刺激のある都会に留まったかもしれない。困っている彼女たちをスカウトして組織の仲間にした男の影がちらついている。『様々に品かはりたる恋もして、浮世の果ては皆小町なり』と後世の俳人が詠んだように、釆女として召された彼女達の行く末は、巫娼として夜咲く花の生活した者も少なくなかったのではないだろうか。そして彼女達が、宮廷の作法を持って貴族を迎える後の「遊女」や「クグツ女」となった。おもえば話相手になり機嫌を取り、気を使うことで宮廷生活をしてきた彼女たちだからこそできる役割である。

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神懸かり、神託を述べる役割が、アマノウズメの時には笑いを誘う呪術の踊りになり、時代をくだるとそれが風流となり、余興となる。神はおろされるものではなく、目の前に坐ってこちらを見ている存在となった。『日本舞踊史の研究』の中で、三隅治雄は振る舞いの段階にあった巫女たちの動作について次のように描いている。

こうした呪術師の動作は、もともと舞踊と名付けられるべきものではなかった。太鼓や弦を乱打するのは、呪術したちの神経を高ぶらせて、彼に、神の幻覚を得させようとするためのものだったし、呪術師が祭壇のまわりをぐるぐる旋回するのは、そうすることで興奮をかきたて、ついには神か人かの恍惚状態を得ようとする目的に出た行為であった。(略)ただ、こうした宗教儀礼も、毎度繰り返されるうちに、一定の様式を持つようになってくる。当初は無我夢中でしていたことも、何度か経験を重ねると、おこなうものにも見る側にも客観性が生まれてきて、次第にこれらの宗教儀式を客観的に”演技”として表現するようになる。(略)こうしてかつて髪迎えの呪法を意味した”ワザオギ”が、しだいに”演技”としての性格を持つようになり、また、呪術したちの行動も、しだいに、後世の言うところの舞踊に近いものになってきた。日本の芸能誌の上に常に見えている”舞”という語は、もともと、”まわる””もとほる”ということばからでたものであるが、これは、多分祭りの場における呪術したちの、祭壇の周りを旋回する態わざに由来するものと思われる。

稚児

『とやまの民俗芸能』で稚児舞について書かれている。中新川郡立山町岩峅寺地区では四月八日の雄山神社の春祭りに演じられる稚児舞がある。
三月十九日に稚児舞行事運営の各担当役がきめられ、同月二十日には、楽始めと鉾立ての行事が有る。この日から春祭りの運営を担当する宿坊では、それぞれ精進潔斎(物忌み)をはじめる。三月十九日に二十四の宿坊の中から稚児役の男児四人が選ばれる。稚児達は同月二十七日から練習を始め、四月四日には番創薬の舞楽短刀の人達と合同練習をする。

射水市下村・加茂神社の稚児舞では鉾の舞、林歌、小奈曽利、陪臚、天の舞、大奈曽利、蛭子舞、胡蝶舞、の九つから成っているという。神輿や山車に乗っている稚児も、踊る稚児も、歴史をみれば技芸者、奉公者として僧侶や山伏に仕えた子ども達であった。

延年とは藤原定家の『明月記』に「山門衆徒の乱遊遊宴を延年と称す」とあるように、大寺院の法会の跡で余興として行なわれる芸能を言う。延年が他の芸能と違っていたのは、高僧の性の相手であった稚児に歌や踊りを演じさせたり、白拍子と呼ばれる男装の遊女による芸が行なわれた点であった。とくに「糸縒」という曲は、緋の袴に色小袖という女装姿の稚児が、恋人を待ちわびる女性の、もの狂おしい気持ちを歌った物である。

糸をよるをも よるといふ 日の暮る をも よるといふ
よるよる人の くるまをまつぞ いとながき
児舞の内掛声、ヤサツサ ヤサツサ 小鼓口伝(『維摩会延年日記』)

これが美童に想いをよせる僧侶らにとっては、たまらないものとして人気をあつめた。女人禁制の寺院社会において、僧侶たちが稚児を特別なまなざしでみていたことは間違いない。『臨時祭記写』弘安六年五月二十九日、興福寺種とによる春日臨時祭では「福寿」と呼ばれる児が、「狂僧」と呼ばれる役の僧侶によって舞台へと招かれ舞楽を舞っている。

開口〔舜勝房〕。右一殿、狂僧の勧めにより舞ふ〔福寿殿、舞楽曲〕

白拍子のお伴として、稚児つまりは幼いこどもを連れた姿が書かれることがある。稚児の舞は、芸の中でも特別に記述されるほど人々の関心を引く演目であった。文正元年(一四六六)、京・千本桜の桟敷で「女曲舞」が十日間も続き、女は年十九、その美容と舞の妙で人気を煽ったが、そこには稚児の舞も当然交じっていた。

先男舞露払、次児舞、次女一番舞了、児興女立合舞之、舞拍子言語道断、奇妙之至也

と、後の歌舞伎踊りを彷彿とさせるような興行が、この頃から始まっていることを伺わせる。中世には武士や貴族の間に男色がごく一般的に広がっていた。武田信玄と高坂昌信こうさかまさのぶ織田信長と側近の森蘭丸がよく知られている。中世の寺院社会における、僧の男色相手と言えば、童子とか稚児と呼ばれた。『養老令』の「僧尼令」(七一八年)に「およそ僧というものは、近親郷里に信心ある童子を選んで供とすることを聴ゆる」と書いてる通り、童子とは本来、僧に仕える未成年者であった。すなわち、童子は、仏に香花を供え、仏教を学び、陪膳など僧侶に仕える役割を担う役割であったが、夜には師僧の男色の相手でもあった。童子どうじは、「長い髪を結い、化粧し、鉄漿おはぐろをつけ、水干すいかんを着ながら小袖をかずいて、さながら女人をよそおう女人ならざるもの。それは男でありながら同時に男ではない。童子の間にしか保たれぬ中性的な」(阿部秦朗一九九八)存在とされてきた。『秋の夜長物語』『稚児之草子』『醒睡笑』に稚児と僧侶の逸話が残されている。『秋の夜長物語は』僧侶と稚児との恋愛を描いた稚児物で、現代でいえばボーイズラブの小説だ。後堀河院の御世、比叡山の衆徒桂海律師は、花園の大臣の子息、梅若という美しい稚児と相思相愛になる。桂海を慕って比叡山へ向かう梅若は、途中天狗に連れ去られ幽閉される。三井寺の衆徒が桂海のしわざと誤解したことから寺門と山門との戦いに発展し、三井寺は灰燼に帰すという物語である。

ひえあがる我独ねのとことはにいち々ごならぬ人ぞ恋しき

この歌は、『七十一番職人歌合』の六八番左にある、山法師の歌である。山法師というのは、比叡山延暦寺の僧侶をさす。「寒々とした、独り寝の床では、いつも一児(十禅師神)ならぬ、あの稚児が恋しい」くらいの意味である。一児というのは、十禅師神の化身のことで童の姿をしている。延暦寺では、稚児を十禅師神の化身とし、聖なる存在と位置づけ、寺内で公認していた。もはや、男色が中世の官僧たちの文化であったことは疑いない。『古今著聞集』巻八によると、「紫金台寺御室に、千手という御寵童ありけり。みめよく心ざまゆふなりけり。笛をふき、今様などうたうたひければ、御いとをしみ甚しかりける」という。美しくも心優しく、笛も吹き、今様の名手である稚児がいたというのである。紫金台寺御室とは、仁和寺入道といわれた覚性法親王のことであり、この千手を寵愛していた。千手が今様を謡うと、「思あまれる心の色あらはれて、あはれなりければ、きく人みな涙をながしけり」というほどだった。法親王は「たへかねさせ給て、千手をいだかせ給て御寝所に入御ありけり」ということになる。かの有名な『徒然草』でも、兼好法師の手で稚児と山伏が登場する。「(仁和寺の)御室にいみじき児のありけるを、いかで誘ひ出いだして遊ばん」と企む法師が書かれている。(第五十四段)

『俊乗房参詣記』には次のごとく稚児の白拍子舞が描かれている。

一一八六年師月に十六日、東大寺肝心上人重源は、夢吉を受け止め、伊勢大神宮に参詣し経供養を行う。二十八日、聴聞に雲霞のごとき人々が集まったが、大雨が降ったので、相伴の稚児供と一緒に二見浦見物に出かけ、歌を詠むなど逍遥した後、夜管弦の遊びをする。(略)すなわち晩頭、宿房に帰る。逸興の余、宴遊なお甚だし。乱舞狂歌、絲竹管弦、種々雑芸、終夜休まず。その中に小童字は如意、白拍子を舞うの次いで、大仏消失の次第を囀る。音曲体骨還って哀傷を催す。衆人満座、叩舌攬涙。そこで稚児は「ふたみとはたれかいひけんよろづよにめかれせましきうらのけしきを」との歌を歌っている。

藤原定家は童が白拍子を舞うことを「世間の風か。哀れむべし」と嘆いている寺院での稚児白拍子が流行し始めた時期で、暮らしに苦しみ芸の道をゆく稚児の人生を嘆く貴族たちもいたのであろうか。彼等稚児がどのような道を辿ってきたのかは、現実の世界にまだ生きる稚児に聞けばよい。彼等は不用意に産み落とされ殺されもせずに捨てられた子供であり、山伏に拾われて育てられ、芸を教わったかもしれない。もしくは唱文人の手によって認められてこの世界に入ったかもしれない。中世にあっては、武士や僧侶が芸能の主要な享受者層であった関係から、衆道(男色)を背景とする稚児や若衆の芸能が盛んであったから、いい商売になっただろう。『土芥冦讎記』という書によって、当時の大名達二百四十三人のうち二十九人は「男色ヲ好ム」「美童ヲ愛ス」と言った評がみられる。また歌舞伎を好んだ大名として四名があげられ、これもその域にいれるべきである。