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第二夜:身体の態 /第二話:神憑かれる巫女
日本では巫女を一般にシャーマンと呼ぶが、シャーマンという言葉はシベリアに起源がある。「巫術はShamanismで、それの執行者である巫人はShamanであろうけれども、土人はどちらも「シャマ」と呼ぶ。(先住民族オロッコ・ギリヤークの生活と風俗『北の民俗誌』川村秀弥)」ということである。シャーマン教即ち巫術教や、シャーマン自身、儀式を行う修法者の凡てをおなじ言葉で、ギリヤークは「チャム(cam)」といい、オロッコは「シャマ(sama)」といっている。オロッコ、ギリヤークも共にシャマのことを云い易く「サマ」とよび習わして「今日はサマをやる」と言えばシャーマンの修法を行う意であり、「サマを呼びにやる」と云えば修法者のことを云う。「サマは俺等の方の神様」といった云い方もよく出る。(山本祐弘『北方自然民族民話集成』)現在では当たり前のように使われているシャーマンという言葉も、様々に呼ばれる彼らの名前の、ひとつなのである。「シャマンという名称を用いているのはマンシュー・ツングース系民族だけなのだが、研究旅行家たちは、この語をもってシベリアの魔術師を一般的に呼ぶ名として、国際的に文献の中に定着させた(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)」らしい。シャーマンの語源を更に追うという研究もされていたようだ。それによるとサンスクリット語やパーリ語の「乞食僧」であるとか、トカラ語やソグド語、中国語の「沙門」であるとか「テュルク系諸族において、魔術師の最も一般的な呼び名はカムkamであったらしく、シベリアのタタールと「黄ウイグル」は今日もこれを用いているし、ロシアの民族誌文献に現れるところの、シャマンが儀式を執り行うことを指すカムラーニエという語はこれに発している。」などなど無邪気なものである。シャマンを意味するカムという語は、すでに、最古のウイグル語文献である、一〇六九年のクダトク・ビリクの中に見られるということである。ウノ・ハルヴァの『シャマニズム』に詳しい。
シャーマンの身体性
日本ではシャーマンは巫女であり、神子とも書く。巫女とかけば女だけであるが、巫覡とかけば男も入る。覡は男の巫女である。片仮名で書けば、巫覡はシャーマンを意味する。日本では、巫覡という言葉よりも巫女という言葉が普及している通り、日本のシャーマンには女が多い。女は神に懸かりやすい。柳田国男「山の人生」には「女人の山に入る者多きこと」という題の文がある。
天野信景翁の『塩尻』には、尾州小木村の百姓の妻の、産後に発狂して山に入り、十八年を経てのち一たび戻ってきた者があったことを伝えている。裸形にしてただ腰のまわりに、草の葉を纏うていたとある。山姥の話の通りであるが、しかも当時の事実譚であった。この女も或る猟人に逢って、身の上話をしたという。飢を感ずるままに始めは虫を捕って喰っていたが、それでは事足らぬように覚えて、のちには狐や狸、見るに随い引裂いて食とし、次第に力づいて、寒いとも物ほしいとも思わぬようになったと語る。一旦は昔の家に還ってみたが、身内の者までが元の自分であることを知らず、怖れて騒ぐのでせん方もなく、再び山中の生活に復ってしまったというのは哀れである。
地域が飛ぶが、女性と男性の精神状態の違いが音楽の最中に現れる例を関口義人の『アラブ・ミュージック』から引用する。サラーム海上が二〇〇四年にモロッコ大西洋岸の町エッサウィラで開催されたグナワ・フェスティバルを見たときの風景。
巨大スピーカーから鳴るカルカベの「チャカチャ・チャカチャ」という金属音とゲンブリの低音の反復はまさに音による催眠術だ。金属音とベースの引きずるような独特のグルーブが頭の中にギンギンに響き渡り、それが五分、十分と続くうちに頭が真っ白になり、詰め込んだ音を能が処理しきれなくなりあっぷあっぷになる。夜中を過ぎてメインステージが終了した後は、旧市街にある数カ所の市場で朝まで伝統的グナワの儀式「リラ」が行われる。こちらはよりローカルな味わいの濃いマーレムの演奏が聴ける。一曲三〇分以上のグナワをしばらく聞いていると、VIPエリアにいたキレイなお姉さんがブルブルと震え出し、そのまま四つんばいになりトランス状態に入ってしまった。この後、客席でトランス状態に入る女性を何名もみることになった。「リラ」とはアラビア語で「夜」を意味し、民間療法として今も頻繁に行われているグナワの儀式のことだ。
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沖縄県宮古には、一種の巫病であるカミダーリィに陥っている間に神々に連れられて天界を訪ね、竜宮に言ったという体験を持つユタが数名いる。彼等は夢の中で他界を訪問するのであるが、連れて行ってくれた神々は白装束の男性であったり、龍や白鳥であったりする。これらの神々は将来のユタたちにシャーマンかに必要な知識や技術を与えるために、カミダーリィの期間をよういしたのであり、他界訪問は知識や技術各渡航の奇怪であると考える事ができるという。日本民俗文化大系の『神と仏』には「憑依状態のウヤガン」と題した写真が載せられており、その説明として次の文が書かれている。
宮古本島の北部の大神島や狩俣、島尻では村の祖神を祭るウヤガン祭がある。女性の祭司集団が、神衣を着て、神草を被ったり、手に持って、神になり何日も山に籠る。山籠りから里へ下ると、神草や神衣を次々に脱ぎ捨てて、神から人に戻る。この時、神女たちは失神したり、疾走したりするが、親族のものが介抱して正常の状態にもどす。沖縄本島の久高島では、島の女性全員が参加してイザイホーという神祭が行われる。島の広場の祭場の入り口には七つ橋が作られ、神女たちは、この橋をエーファイのかけ声を七回あげて入る。その後、後ろのイザイ山に籠る。
巫女になる過程を聞き取ったものは記録され、例えば『神子と修験の宗教民俗学的研究』(神田より子著)にものっている。『日本のシャーマニズム』で堀一郎では、巫女の身体状態を分類し次のように説明する。
ここでいう真正巫とは、ツスや「ゆた」に見られるようなシベリア型のシャーマン系統と見られるものを指し、個人的かつ突発的な神霊による召命入巫者であり、擬制巫とはのちにのべるような真正シャーマンに特有な体質を持たず、従って神や霊による召命、そのあらわれとしての巫病(精神違和その他)的イニシエーションの体験をせずに、ある種の訓練または技術習得によって巫業をおこなうものを指す。その最も形式化したものは憑霊常態(posession)、恍惚常態(tranceトランス)や脱魂常態(ecstasy)には成り得ず、歌舞賽神の儀礼執行だけを主にするもの、すなわち神社ミコ、神楽ミコである。口寄せミコは東北地方のイタコなどに見られるように、一定の訓練期間を経て、詞章から伝授のしるしを受け、その際に失神、死者と復活のモチーフをもつイニシエーションの儀礼を通過しなければ成らないし、その巫業は外形上トランスに入るのである。トランスに入るプロセスや、トランスから脱出するプロセスには、地方ごとにかなりの形式上、動作上の差異はあるが、一般意あまり際立った変化が見られないようである。出雲の「刀自放」というミコなどは、憑霊と童子に突然神前であおむけにひっくり返るが、トランスからの脱出はいとも感嘆にむくむくと起き上がるだけだし、東北のイタコにいたっては、それぞれ詞章ゆずりの招霊の呪文につづいて死者のくどきがあり、それが終わるとやや調子を変えた送霊の呪詞をのべるだけである。 一般意シャーマンの機能は「病気なおし」と「うらない」であり、また時に部属や部落祭の司祭的役割も演ずるが、この際、その呪力を超自然界との密接な関連の元に後嗣する。彼らは自身で病気を克服したのであり、他人の病気をいやす術を習得し、なかんずく、その病気のメカニズムや理論を心得ている。エリアーデは真正シャーマンがいかにその社会の他の一般成員とは異なる強靭な神経組織をもち、てんかん性トランスにおける自己制御力、精神集中力、またすぐれた記憶力、空想値から、詩的能力を有しているかについて、多くの例をあげている。
『日本巫女史』の「巫女の有せる憑き神の源流」という節で中山太郎は「我国の巫女は、各自とも呪術の原動力ともいうべき憑き神を有していた。しかしその神のことを、古くは何といっていたかは、判然としない。後世の知識でいうと、仏教の守り本尊、またはアイヌのトレンカムイ(憑き神)と同じようなものである。」と述べる。神と関わるプロセスによって巫女も多様に分類されるのである。巫女と書くと女だけになるが、巫覡とかけば男も入る。懸(あがた)巫女、歩き巫女、大弓、ワカ、モリコ、市子、笹ハタキ、口寄せ、マンチ、里巫女、村巫女、おかみん、イタコなどの名をもった巫女、神楽を行う巫女を「神子」といい、口寄せする巫女を「ホトケミコ」卜占、祈祷、祓をする巫女を「カミミコ」という地域もあるらしい。沖縄では神子はノロやツカサとよばれ、女性司祭者たちの神事組織をつくっていた。ウタキ(御嶽)、ウガンジョ(拝所)等と呼ばれる聖地での神祭を行っている。一方で、霊的能力を発揮し、さまざまな呪術的な行為をするユタとかカンカカリやとか呼ばれる人が存在する。ユタという呼び名は、南島に共通しているが、また、モノシリ、カミサマ、ムヌスー、カンカカリヤ、モヌチーなどともよばれている。男性はトキ(覡げき)と呼ばれる。南島では美人のことをキヨムラン(清ら者)と呼んでいる。ノロの資格には寄与村んであることが重要であるとされていた。首里王府の役人が地方に出張すると、役人の接待に当たるのは、その土地のノロであったという話を私は聞いたことがある。ここではノロはホステスの役割を果たしているのだが、それは髪に使える女性としての性格からすれば、当然納得されることである。というのも、ノロは髪に飲み従属し、特定の男性に従属する義務はないからであった。ノロには独身の女性が多く、実際は結婚していても、表面上は独身ということにしている。つまりノロは結婚しても、髪だけを真正の「夫」とみなす生活を続けるのである。特定の男性を夫にもたないこと、それは裏を返せば、不特定多数の男に使える娼婦の障害と共通するところがあった。沖縄で神に奉仕するノロとなる資格として島袋源七は三つの条件を挙げている。
一、中のみやこ(部落の中心部での炉の住居地のある所)に生まれた未婚の女
二、神がかりのしやすい娘(神経質で、立ち居振舞いも常人とは違っていることを指す。)
三、容姿端麗であること
このような女性が巫女になるための過程を谷川健一は『賤民の異神と芸能 山人・浮浪人うかれびと・非人 』で次のように説明する。
まず、病気の治療には医療施設へ通うのが先決になっている。しかし、それでも回復に向かわず、ますます渋滞に鳴ったりする場合も在る。このような場合、ユタの家を訪れ、ユタの判断を受けるのである。それから新巫は自分の先祖を訪ね歩き、其の先祖の拝んで居た神を捜す旅をするのである。このような旅の中で、自らの悟りを開き、自分の拝むべき神を発見する事に鳴り、巫病の本復を見ることによって、成巫を判断し、また、このような経過において依頼者が訪問してくるようになり、職業的ユタが独立していくことになる。儀式の時、神は降りてくるのであり、こちらから出向いて行くのではなに。神に召される前の兆候を、南島では「神ダーリ」と呼んでいる。「神ダーリ」の最初の兆候はぐったり疲れたり、あくびを頻発したりする整理現象から始まる。(略)「神ダーリ」が進むと、食欲不振が昂じ、寝付けない日々が続き、半病人のような格好で、夜も昼もさまよい歩く。医者に見せても治癒しないとき、南島では一応巫病ふびょうにかかっているのではないか、と疑うのである。神ダーリ(巫病)から抜け出すには、自分の霊的な先祖と考えられうる神を発見し、その指導を受けねばならない。ツヅは頭のてっぺんを意味する。神ダーリにかかった女性はあちこちのウタキを拝んで歩き、あるウタキに来た時、頭のてっぺんに強く響く髪を感応する。それが自分お守護神となるのである。一番最初にやらねばならないのは、本人が拝む神を探しに行くことである。そのときは白い馬、もし白い馬がいない時には、馬に白い布をかぶせて、それに乗り、自分が拝むべき髪を拝んでいた人がいると予想される人の家を探しに行く。その時には馬に乗って、ある人の家に作る、そうすると、馬が足で蹴ったり、全く動かなくなる。するとここだというわけで、その家に入って、そこの家の人で髪を拝んでいた人はいないかと聞いたり、あるいは何か神祭に関する道具が残って癒しないかと聞いて、もらって来る。
シベリアの土人がシャマに目覚める時も事態はにている。
ラドルフによれば、この病気の発作は突発的におとずれる。突然の倦怠感に襲われ、手足がしびれ、震えが起こる。異常な欠伸がそれにつづき、胸に圧迫を観ずると、それがために病人に一種独特の叫びを発せしめる。震えながら目をぎょろつかせると突然起き上がり、憑かれたようにぐるぐるまわって、遂には口に一杯泡を吹いて地面に倒れ、てんかんのようにのたうちまわる。そのとき、手足は無感覚になり、何でも手当り次第につかみ取り、真赤に焼けているものや尖ったものを呑みこんでも並記だ。しばらくすると吐き戻す。当人が最後に太鼓をつかみ、シャマンし始めるまで、この苦悶と苦痛は続く。それからやっと、徐々に落ち着きがもどってくる。だが、祖先の呼び出しに応ぜず、シャマンになることを拒めば、精神病になるか早死にをする。(略)ヤクートのあるシャマンは、魔術師の職に召された時のことをこう述べている。「二十歳の時、私は病気にかかり、他の物が見る事も聞くこともできないことがらを、自分の目で見、自分の耳で聞くようになりました。九年もの間、起こった事を誰にも打ち明けないで、《霊》と争いました、というのは、言っても信じてもらえず、ばかにされやしないかと怖れたからです。結局私は病気が重くなって、すんでのことで死ぬところでした。それからシャマンするようになると、すぐに病気もよくなりました。今でも、長い間シャマンせずにいると気分が悪くなって病気になります。」(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』四〇九頁)
「争い」とは何か。これに続いて『シャマニズム』の著者ウノ・ハルヴァはツングースにみられる「スヴェン」という観念を説明する。
シロコゴロフがスヴェン(霊の名)について説明しているところに寄ると、それはシャマンが死後自由になって、氏族の成員の中に適当なやどりの場所を求め、やがて新しいシャマンを得てそれをみずからの思いのままにするシャマン霊である。このようにして、諸霊はシャマンを自分の勢力下に置くことができる一方、シャマンの方でも、自分の霊の仲介によって他の霊にまで「はたらきかけ」て、シャマンの助けを必要とするすべての者に役立ててやる。(四一五頁)
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平安末期の藤原明衡による『新猿楽記』の中に、「四御許者覡女也、卜占・神遊・寄絃・口寄之上手也」とあり、一一二〇年の『今昔物語集』には「今は昔、打臥の巫女と云う巫、世に有りけり」とある。うち臥してのみものをいった霊能力者がいたらしい。『梁塵秘抄』には、巫女を謡った今様が多い。もっとも印象的なのは、『日本書紀』天宇受売命が舞い踊って神懸かりをしたことだろう。「顕神明るい之憑談」つまり「ついてだんずる」。踊り舞うことは、自分の魂を揺らし、体ごと揺さぶることでカミサマと共鳴できる状態になる方法だった。もしくは憑かれているから踊り回ったのかもしれない。神を寄せ付けるには、音も使われる。金峰山の巫女に占ってもらった話。鎌倉時代に源信が書いた『古事談』には
金の御獄にある巫女の。打つ。鼓、打ち上げ打ち下ろし面白や、我等も参らばや、ていとんとうとも響き鳴れ鳴れ。打つ鼓、如何に打てば此の音絶えざるらむ。( 『梁塵秘抄』巻第二・二六五)
太鼓がなかった頃は、太鼓の代わり舞臺板をたたいたようである。伊勢の神楽でも、古代の寄合神楽に限っては太鼓を用いず、楽人が上衣を打ちかけ、南西の済に座して板舗を打っていた。その打ち様に伝あり、これはアマノウズメの舞姫の足音に擬したものと云われていた。(霜月神楽の研究「伊勢の神楽」)歌舞伎の舞台で打ち鳴らすようになった音もこれを模したものであろう。井阪徳辰『庭燎雑纂』に、は「然るを後世、ものごとの花美なりて、板舗を撃ことを太鼓にかへて、其儀却て俗なりたり」とかいている。また次に出てくる神楽歌のように、「弓」も口寄せに使っていた。
陸奥の 梓の真弓 わが引かば やうやう寄り来 忍び忍びに忍びに
このような口寄せ巫女の歌は広くあったらしく『體源抄』(十ノ下)「風俗」では
伊予越の なごえの葛 我が引かば やうやう寄り来 やれ そよやなや 忍び忍びにや
とあり、『古今集』巻二十の「神あそびのうた」では
みちのくの 安達のまゆみ 我がひかば 末さへ より来 しのびしのびに
とある。これらの歌は梓巫女の霊寄せによくうたわれていたものであろう。
太鼓を使うことと信仰、神へ近づくこととは太古より人が叩いて万物の「音」を呼び覚ました経験から続いているように思える。シベリアのシャマでも太鼓はシャマに書かせない道具である。山本祐弘が丁寧に書き残してくれた『北方自然民族民話集成』から肉声を聞き取ってみよう。
さて、北の神楽の形式については、オロッコのシャーマン北川五郎は次のように語った。「俺の方のシャマは最初、女が代るがわる出てヨードープ(後述)というものをもって前踊、シャーマン踊をやり、そのあとで男が出て踊る。それからシャマが太鼓をたたいてマウリ(踊り)をやる。そして唄って祈ると神様が火に来て、火から太鼓に来て喋るんだ、火の紙葉大事な神で、憑神と火の神が話をする。だからシャマは太鼓を叩きながら火を廻るだ……。シャマの帽子や装束や太鼓などはみな、シャマが作るんだ。踊る時にはヤッパ(後述)を腰に付けて、踊りながら腰を振るとガラガラ音がする。そして唄っているうちに神様がやってくるのだ。」「毎年魚をとる前や、山へ貂罠をかけに行く時や、狐や熊狩に出る前に、たくさん獲れるように祈るが、さがしものや病気を治すのにやることが多い。病気のときは、よくどこの山のどの辺にこんな草があるなどと喋るので、実際行ってみると必ずある。この薬草をとって来て呑ませると直ぐ直る。神様が喋るんだから、やっている俺は何も知らない。」
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神を寄り付かせるためには、巫女が一人で行うこともあったが、もう一人の呪者の手伝いを以て家業を営んでいた事が、往々にしてあったらしい。第一夜で術に述べている「審神者」の新しい姿である。『枕草子』には「物のけにひどく悩むので、うつすべき人として、大柄なわらわの、髪なども美しいのが、すずしの単衣を着、色もあざやかな袴を長く着付けて、いざり出て、病人のよこさまに立てた几帳の前にすわらせたら、外ざまにひねりむいて、たいへん細くにおやかな独鈷を手にとり、をを、と眼をうちふさいで、読誦する陀羅尼の声もたいへん尊く思われる…そうこうするうちにふるえ出し、もとの心を失って、修験者の修法に応じて、ふるまって行く。見ると、仏の御心もたいそう尊く思われる」(一五六段)と書かれている。諏訪春雄のHPに載せられた「能の誕生」という文のなかで、諏訪春雄はこの分業体制の例として台湾のシャーマンを挙げている。
台湾にタンキー(童乩)とよばれる男性シャーマンが活躍していることはよく知られている。タンキーは通常法師とか法官とかよばれる祭司と一組になって巫術を行なう。その点では典型的な分業型である。法師は廟に所属してさまざまな法術を身につけるが、なかでもことに大切なのがタンキーに神を憑依させる技術である。タンキーはこの法師に訓練されてトランスに入る術を身につける。タンキーの巫術は大きく「公事」と「済世」に大別される。「公事」は廟の運営や年中行事についての神の指示を受けることであり、「済世」は人々の個人的な問題について相談を受け、解決することである。タンキーはこのように法師の助けを借りて神の憑依を受ける霊媒であるが、ときには脱魂して神のもとにおもむいたり、冥途の閻魔王のもとに出かけたりする。ポゼッション型とエクスタシー型の両者を兼ねている。この種の分業型巫は、香港、シンガポール、韓国でも活躍している。 大陸と周辺部で見られた巫覡のあり方はほぼそのまま日本にも存在する。
『日本書紀』の「神代下」に、天上から地上に派遣されながら報告にもどらず、怒った天上のタカミムスヒの投げ返した矢で胸をつらぬかれて死んだアメワカヒコの葬式の場面がある。種々の鳥たちが動員されて葬儀の役割を分担したなかで、異本の一種に、かわせみを「尸(ものまさ)」の役にしたとある書がある。「もの」は精霊、「まさ」は「ます(座)」の命令形である。精霊の依りつくところがもとの意味である。平安時代に用例の多い「よりまし」と同じ意味である。(略)『日本書紀』の注釈書の『神代口訣』には「尸は死衣を着して弔いを謁す」とあり、『日本紀私記』には「死人に代わりて物食らう人」と説明されている。つまり、葬儀で死者に代わって弔意を受ける者が尸ということになる。葬儀で、死霊の振舞いを具象化して見せる者であり、死霊の依りつく依代の意味である。ただ、この尸が神がかりしてトランス状態になったかどうかは文献上では明らかでないが、葬儀での冷静な応対からみて演技であろう。
日本でもヒメヒコ体制の時代から寄り憑かせる男と、寄り憑かれる女とがいた。『日本書紀』の「神功皇后摂政前記」にでてくる「審神者」が、その役目を負っている。九州の熊襲討伐を思い立った皇后は、吉日をえらんで、斎宮に入ってみずから祭主となり、武内宿祢に命じて琴を弾かせ、中臣烏賊津使主をよんで審神者にしたとある。このさにわは、『政事要略』に「神明の託宣を審察するの語なり」とあり、『釈日本紀』に「分明に祟る所の神を請うて知る人なり」とあるように、本人が神がかりになるのではなく、神がかりをした人物から神のお告げを訊き、その意味を解く人であった。この場面で神がかりをした人物は神功皇后自身であった。
ものまさにしてもさにわにしても、眼に見えず、音にもきこえぬ神霊の動きや意思を具体化しようとして立てられた媒介者であるという点で一致する。たとえていうなら、神霊界と人間界の通訳であった。そして、神霊の意図の通訳という性格は、平安時代になって病気の治療に際して、病人に祟る悪霊を依りつかせてその正体を見極めるための「よりまし」、祈祷師の駆使する神霊として祈祷や悪鬼払いに活躍する護法童子などにも共通する。ここには、神霊の意図を察知しようとする者と、神霊の意図を具体化する媒介者と、あきらかに分業が行なわれていた。神霊劇の能と現世劇の狂言の分業の源流がここにある。
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いつの日からか、巫女が神に憑かれて口寄せをおこなう儀式は神楽と呼ばれるようになった。「神楽」と描いた分献上の初見は大同二年(八〇七)の成立とみられる忌部広成の『古語拾遺』の中に、「是以中臣、斎部二氏、倶掌祠祀之職、猿女君氏供神楽之事」と書かれている事が知られている。しかしこれを「かぐら」と呼んだかどうか怪しい「かみあそび」がいつの時代からか「かぐら」になった。次は『三代実録』の仁和一年(八八五)十月二十三日の記事に、天王が紫辰殿に出られ、親王および大臣以下が参殿し、音楽種々と散楽が奏され、日暮れに及んで「於玉前、奏神楽」と書かれている。だがこれも場所によっては「しんがく」とよんだり、田楽だが神楽とよんだり、また宴遊の際に披露する歌舞音曲も「神楽」になりえた。カミはその時々変わる者で、目に見えぬカミを前にして踊る事もあれば、宴会の主人に対して踊ることもあったのだった。実際に神が取り憑いて舞い狂うことから、神に憑かれたときの振る舞いを模して踊るようになったのだ。これが今に神事、芸能として残っている神楽である。
よくよくめでたく舞ふものは、巫 小楢葉車の筒とかや、八千独楽、ひき舞手傀儡、花の園には蝶小鳥
という今様のように、巫女は舞い人だった。巫女が神社で行うと言えば舞の奉納がある。採物お祓いなどをするときに白いギザギザした紙や、木の枝を使う。また神社でカミサマのためにする踊りで杖、弓、杓、鳥の羽、鈴などを手に取って使う。そこらに彷徨っているカミサマを捕まえるためにも使えるし、風を起こしてカミサマを運ぶことにも使える。神社にいくとよくふわふわした糸の束があるが、それもカミサマを引っ掛けることができるのかもしれない。とにかく、カミサマはそういうモノに憑きやすい。花を供えるとあるが、カミサマは匂いにつられてやってくることもあるのだろうか。この採り物はカミサマの持ち物であり、巫女はそれを真似ているのだとする考えるひともいる。榊の木と笹の葉は、厳寒でも新芽をつける常緑樹である。
体ハル占い
巫女は朝廷で釆女や遊行女婦がしたように男に枕することが生活の一部であったのだろうが、同時に宴の席の芸をする能力をもっていた。今様、朗詠、風俗、催馬楽は宴会の余興で即興的に歌われた歌曲で、それを総称して郢曲えいきょくと言われている。厳島神社の優美な内侍がこのような郢曲をうたって客人をもてなした記録があります。実定卿は七日間の参籠を終えると、内侍十余人をひきいて、都に連れて帰った。本来神社での神事を司る巫女であれば、そのような自由は聞かなかったハズで、内侍じそれが許されたということは、彼女らが宴席で芸を披露する存在だったからである。
放生の功徳を施した人が、ある日他の召使いと一緒に山の中に入り薪を拾っているうち、枯れた松の木に登り、足を踏み外して死んだので、家の者が卜者を呼んでホトケオロシをした話が出ている。死者の魂が「卜者に託ひて曰はく『我が身を焼くこと莫かれ、七日置け』といふ。卜者の語に随ひ、山より荷ひ出して、外に沖、唯期りし日を待」った。すると七日目に、卜者の語った通り彼は生き返ったという。これは讃岐国(香川圏)の話である。
『日本霊異記』中巻一六の説話である。占う人間はかつて沢山いたようで、『近世蝦夷人物誌』にも不思議な力をもったアイヌと山靼人の話が出てくる。山靼人とはシベリア東部から樺太方面に住んでいたツングース系の諸民族のことであり、日本に渡って来た北方狩猟民族の一族である。
日本海岸苫前領のフウレツベという所は、苫前から八里(約三十三キロメートル)あまり北にあった。もともと魚場ではないが、通行人の宿泊のための番屋が建てられ、夏から秋にかけては(和人の)番人が置かれていた。(冬にも)その番屋の守りと公用の御文書の中継役として、一組のアイヌの夫婦を置いてあった。その夫婦には子供はいなかった。その夫の方のアイヌ名はクウシュイといって六十二歳だった。近くの小川の魚を採ったり、山菜を採ったりしてなんとか生活していた。このクウシュイは、不思議な能力をもっていた。上の国や松前方面から来る船の到着の月日を問えば、その時期を神のごとく正確に答えた。また、今は川岸に停泊しているとか、海上を航行中である、など見えているかのようであった。また、病人を占わせると、その生死のほどをことごとく当てた。それだけではなく、いつごろには良くなるだろうとか、いつになると悪くなるだろうなどと言うことも正確に当てて外れることがなかった。公用の御文書を持って苫前、天塩などに行く際、海岸沿いには崩れた崖があって通行困難な所が数カ所あった。そこは風波の荒いときは回り道をして上道を行かねばならなかった。それについても、今日は上道を行くがよい、または下道がよいなどと言うのが少しも外れることがなかった。この人が暗い夜道を行くときは、その前に一つの燐火が燃えて行手を照らすというなど、まことに不思議なことが多かった。このような能力をアイヌたちは『シノチ』と呼び、昔から伝わってきたもので、楽しみのようにしてきたものだという。
人々が不安を感じるところに、つまり人の心の影がシャマの居場所である。同じくシベリアのオロッコの人々も不安になるとシャマを呼んだ。とある夜、今夜シャーマンをやるというのでその理由を聞いた山本祐弘は次のような答えを聞いたという。
俺達(上村)に去年の暮、不幸があった。上村コームスとチスカノ(仮名)とは双生児だった。弟のチスカノは十二月の末ー不慮の死にあった(どうして死んだのか明瞭にいってくれない)。コームす兄弟の親がやはり双生児アダオ)だった。その一人が若くして急逝している。その親ーコームすの祖父がまた双生児で、その一人も欠けたのだ。三代つづいて双生児が出来、その双生児のどちらかが必ずしに、残ったものも早死なんだ。俺達は心配している。それで神様に今夜伺って、コームスも、もって行かれる(神様にあの世へ連れて行かれる、即ち死ぬ事)のないようにするのだ。(以下略)」(『北方自然民族民話集成』)
占いを行うとは、未来の不安を持つものに今を生きる力をもつ言葉を与えることであった。中世では「家」が社会の組織単位となっていて、家族経営が多く、現在の会社や学校、果ては政治組織の役所まで「家政所」といわれる。子供の産育の祈願、夫婦和合、愛別離苦の祈願の要望に耳を傾け、その欲望にこたえるのが巫女の役割だった。
恵心僧都金峰山寺に正しき巫女有りと聞て。只一人令向給て。心中の所願うらなへとありければ。歌占に。
十万億の国々は。海山隔て遠けれど。心の道だになをければ。つとめていたるとこそきけ
と占たりけれは。泣泣くして返給云々。
平安朝文人として知られる文章博士三善清行に『善家異記』(『政治要略』所収)という著作があり、清行はそこで彼の父氏よしと彼自身の巫覡にまつわる体験談を記している。当時一流の知識人であった清行をして、その働きを認めさせた巫覡の活動である。
清行の父氏清は貞観二年(八六〇)に淡路守に任ぜられたが、同四年病にかかり奇特になった。この時、よく鬼を美、人の正史を知るという老媼が阿波国(徳島)から着たので、老媼を病人の傍に置いたところ、老媼は裸鬼が椎をもち病人のところに来るが、一人の男がこの鬼を追い払っていると一夜に五、六度もいい、さらにこの男は三善氏の氏神に似ているから、氏神によく祈るようにと告げた。その云う通りに氏神に祈ったところ、老媼は男(氏神)が鬼を追って粟野鳴渡の彼方に言ってしまったと言った。その日に氏吉の病は快方に向かった。
佐々木宏幹の「奄美におけるユタ文化複合に関する若干の問題」のなかで巫女が神に近づくときの様子を次のように書き取っている。
ある人の運命を見るときには、神棚の香炉に線香を立てて御願いする。すると選考の燃える具合に依って、または色に依ってその人の運命が示され、自然居コトバが出てくる。またどの家で何があるかが目に見えてくる。さらに夢枕に立った神が、どの家に病人が出るとか教えてくれる。最初は狭い範囲の事柄しかわからなかったが、年を取るにつれて“みせてくれる”範囲が広くなった。
また友寄隆静の『なぜユタを信じるかーその実証的研究ー』では、宜野市のJユタは霊界について「霊界というものはいつも見えるものではない。時期がある。私も以前は正午になると死者、聖者が区別なく現れていたのを覚えている。兎に角自分の希望で見るのではなく、神の意志に依ってみせられるのだ」ということらしい。佐々木宏幹は「長崎県五島の女性祈祷師について」という論文の中で、長崎県福江市の有名な法人(祈祷師)は「若い頃は依頼者に憑依している例が彼女に“憑って”きて、彼女は飛び上がったり暴れ真輪蔦裏し、例そのものに鳴って第一人称で語ることがしばしばあったが、年を取るに釣れて直接憑依する事が少なくなり、目に見え、耳に聞こえるようになった。」これらは巫女の特殊な身体経験を想像させる記録である。
占いが外れることもあった。こういう時には、嘘も方便である。神田より子は「筆者が調査した岩手県陸中沿岸地方では、巫女などの宗教職能者が西院を出産や市のケガレと結びつけて説明する例が見られる。また、一般の人が視野出産を西院と結びつけることで、ことのほか「ケガレ」とみなす方向付けがげんざいでもみられる。巫女が関与する例としては、祭礼の場で託宣がうまく出なかったとき、葬式から帰って清めをしない者がいるのではないか、と問いただす。死のケガレが神事の場で託宣の邪魔をしているという説明である。」(『宗教研究』第七四巻 第二号「民俗宗教と妹の力」)ということを述べている。ケガレという言葉は、使う人間の都合に合わせて意味を変える。何かにつけケガレを持ち出す巫女は、民衆にケガレの観念を蒔いた。ケガレとは、ただの風習、タブーである。イミもケガレも、人が死んだり生まれたり、災難に合うなど非日常的な世界をくぐり抜けた時に突いてくるものの「ケ」を体で感じ取っていた。女性自身、そうした「ケ」はいを自分の体に感じたかもしれない。ただの現象である「ケ」の変化を社会的なタブーにしたのは人の心だ。
体ハル売る
『和訓栞』に「巫、神和の義なり(中略)。懸巫女は娼婦を兼ねたり」とある。『梁塵秘抄』「わが子は十余に成りぬらん、巫してこそ歩くなれ」とうたわれ、『沙石集』(巻二ノ上)に「アル〔キ〕御子ノ髪肩ニカカリテ、色白クタケ高キガ齢廿二、三斗ナルガ、臥タリケル外ハ人モナシ」 といって、旅から旅への歩き巫女の姿が母の口から歌われる。
我が子どもは十九余に成りぬらん、巫してこそ歩くなれ、田子の浦に汐踏むと、如何に海人集ふらん、正しとて、問ひはずみ(なぶる)らん、いとほしや
『梁塵秘抄』巻二には、男どもにからかわれた巫女の姿が述べられている。「住吉四所の御前には、顔よき女躰ぞおはします。男は誰ぞと尋ぬれば、松が崎なる好色男」とあるが、この「顔よき女体」が同社の巫女であることは、伊勢神歌に
いや、神客神のお前には、いや、顔よき巫女こそ舞ひ遊べ、
いや、宿所はいづくと問ふたれば、いや、松ヶ崎なる
とある。
「住吉四所のお社には美貌の女帝がいらっしゃる。それをお守りする男は誰かと尋ねてみたら、松ヶ崎にいる色好みの男よ」
滝川はこの歌と類似する伊勢神歌の中に「いや神客神まろうどの前には、いや顔よき巫女こそ舞ひ遊べ、いや宿所すくそはいづくと問ふたれば、いや松ヶ崎なる富男」があることを紹介している『江口・神崎』ここでは神に仕える巫女なのに風流みやび男の相手をする姿が描写されている。今まで見てきたように巫女は遊行女婦やうぬめと変わりないように思う。神聖なイメージの巫女、魂が取り付く巫女の姿はみられないものでしょうか。そこで谷川健一の『賤民の異神と芸能 山人・浮浪人うかれびと・非人』 から沖縄のズリ、ノロと呼ばれた女性たちの話を以下に引用する。
琉球では今に娼婦をズリの名で呼び、このズリが守護神の祭日ー乃ち尚王妃の命日である毎年正月二十日に行なう『ズリ馬』と称する祭典は、全く娼婦が中心となっている。然もこの採点を目撃された同値出身の友人金城朝永氏の談によると、ノロが祭祀に列する為の着用する神聖なる式服と、このズリ馬に出る娼婦の盛装とが全く同一であるということは、この間に深刻甚なる交渉のあったことを考えさせるのである。沖縄本島のズリ(鼻類)は娼婦の呼称である。尾類はもとより宛字で倫落の女を人間扱いにしていない差別語である。(略)奄美のゾレには「廻りゾレ」と「とりゾレ」の二種類があった。前者は村々を渡り歩くもので、うかれめに相当するう。後者は生まれたっと地に住み着いて、同じように時をしている者、つまり土娼のたぐいと考えられる。素朴な村人がアモレオナグ(天降り女)と見紛った「廻りゾレ」のまわってくる季節はきまっていて、どの辺りまで来たという近隣の村の噂がいち早く伝わって、村人から心待ちにされた。廻りゾレは携帯品を入れた白風呂敷を背負い、峠を越え、ムラムラを回って村人の酒宴にはべり、男たちに媚を売った。しかし、酒宴での「男さかし」のゾレも、もともとは歌舞をもって神をなぐさめた「神さかし」の巫女の流れを汲むものであった。(略)廻りゾレも素朴な村人の眼には「アモレオナグ」(天降り女)のように映りながら、村落の社会機構からはみ出したアマレオナグ(余り女)でしかなかった。