Contents
第三話 神使いたい術師
プロアマ陰陽師
陰陽五行思想
「今は昔、天文博士安倍晴明と云ふ陰陽師有りけり」
『今昔物語集』という説話の一節である。天文博士というのは天体や気象の観測を主要な職裳とする陰陽寮官職つまり律令制度下の国家公務員である。陰陽寮は四つの部門に別れており、それぞれ卜占を行い、暦を造り、天文や気象を観測し、時刻を計測した。とりもなおさず、天の摂理に従って生じる自然現象を感知、予測、説明し、その禍を予防または除去までしてしまう呪術師であった。『安倍晴明物語』には陰陽師の使った魔法の数々書かれている。それは「播磨国印南郡からわざわざやってきた「道満」を名乗る術者が安倍晴明の名声を聞きつけて対決を申し込んだが、完敗する。その様子は「道満が小石を燕に変えて空を飛ばせると、晴明は扇を一つ打っただけで道満の燕を小石にもどしてしまう。が、晴明が巨大な龍を喚んで大雨を降らせても、道満には龍を消すことも雨をやませることもできない。また、自ら望んだ卜占の勝負でも、道満は晴明に軽くひねられてしまう」というものであった。この物語は安倍晴明を権威付けるために誇張されているだろうが、陰陽師が自然現象や人々の心の動きを敏感にキャッチする能力をもっていたと想像できる。
陰陽師は、現代ならば「科学」で説明される現象を、陰陽五行思想の世界観で説明する。その思想によれば、存在する万物に混ざり合った 陰と陽の二気が交感・交合して、天上には日月を始めとする五惑星そのほかの星が生まれ、地上には木火土金水の五元素が発生した。五元素は五気として運行し、色としては青赤黄白黒の五色となり、方位としては東南中南北、五時として春夏土用秋冬になる。陰陽師は陰と陽、五つの元素によって世界の中で起きる出来事を理解する。陰陽の存在する世界は混沌、太極と呼ばれる。太極は『易経』に「易に太極あり、これ両儀(天地、陰陽)を生じ、両儀は四象(陰陽の変化)を生ず」とあり、『漢書』には、「太極は中央の元気なり」とあるように、万物・宇宙を生む根本のエネルギーである。この太極を図に表現したものが太極図である。通常は、白と黒の巴が二つ組み合わされた図として描かれる。中国の道教系の祭祀では、巫師の衣装、祭壇、天井、広場などに、かならずといっていいほどにこの模様を眼にすることができる。太古の昔に中国をつくったという伏羲と女媧は、中国各地から出土している漢代の画像石では、互いに尾をからませた二匹の蛇体図として表現されている。多くの画像で、伏羲は烏の絵のある太陽を持ち、女媧はひき蛙の絵のある月を持ち、尾をからめた円として造形される。こうした男女の世界観も、陰陽である。白と黒の観念は、日本では能の白色尉と黒色尉という対比にも現われ、翁と三番叟は日本民族の祖先神という観念を超えて、宇宙・天地・世界の根源をも意味するようになった。また能を「神・鬼・男・女・狂」に分ける事も、陰陽五行思想に由来する。陰陽五行思想は古代中国の世界観である。もともと陰陽思想と五行思想は、発生の違う別の思想であったが、紀元前三世紀の戦国時代末以降、一つに融合したのである。
日本に陰陽五行思想が伝来したのは七、八世紀にまで遡る。そのころに作成された高松塚古墳の壁画には、東青竜・西白虎・北玄武・南朱雀の四神が描かれていたことはひろく知られている。また、『古事記』冒頭のイザナギとイザナミの国生み・神生み神話で誕生した神のなかには、水の神・木の神・土の神・火の神・金の神が存在した。八世紀始めに成立した『丹後国風土記』には五色の亀、『播磨国風土記』には五色の玉が登場する。また、桓武天皇の延暦二十三年(八〇四)に伊勢大神宮宮司から朝廷へ献上された『皇大神宮儀式帳』には、山口の神の祭りに用いる物として、「五色の薄絁五尺」が記されていた。陰陽五行思想は、火と水を駆使する山伏にも取り入れられ、四方固めなどの様々な呪法と融合していく。
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さて、陰陽師の仕事は、日記が大流行した平安貴族の手により多数記録されている。
⑴ト占
九八六年の二月十六日に、朝廷の中枢である太政官の庁舎に蛇が迷いこんだ。蛇の怪異によって暗示される凶事を詳しく知ろうとする平安貴族は、陰陽師の安倍晴明に卜占ぼくせんを行わせた。『本朝世紀』が伝えるところでは、右の怪異について占った安倍晴明は、それが「遠行」の予兆であることを指摘した。その怪異占によって凶事にあう可能性を指摘された人々はその今日時を避けるために、陰陽師が今日時の発生を予告したなんか日かを物忌をして過ごさねばならなかった。「物忌」とは平安時代中期の貴族社会において定式化された習俗の一つであり、かなり大雑把に言ってしまえば、凶事に遭うことを避けるために屋内に籠って行動を慎むというものである。そして、当時の貴族は物忌という習俗を実に頻繁に行っていた。そして、平安貴族が者位を行うことで回避しようとして凶事というのは、ほとんどの場合、陰陽師によって予告された。
『太神宮諸雑事記』神亀六年(七二九)正月一〇日に次のような事件があった。太神宮への御饌物をいつものように、豊受宮と調え、これを運ぼうとした。ところがその途中の道ばたで、男の死骸が放置されており、それをカラスや犬がついばんだりかじったりしたため、肉や骨が散乱している状態だった。御饌を運ぶものがそんな所に出くわしたのである。しかし避けて通る道とてないまま共進してしまった。ところが、同年二月十三日、天皇にわかに病となった。神祗官陰陽寮が卜占したところ、「巽の方向にある太神が死穢不浄を咎め祟り給うた」という結論だった。
⑵ 招魂祭
昨夜、風雨の間、陰陽師恒盛・右衛門尉惟孝の上に昇りて魂呼す。近代は聞かざる事也。
『伊呂波字類抄』という古辞書によると、当時の陰陽師が扱った呪術のほとんどは「祭」という名称を含んでいた。その中に招魂祭」と呼ばれる呪術がある。その治療は、「もののけ」をも含む様々な病気に対して試みられたのである。右は『小右記』万寿二年一〇二五年の八月の日記である。中原恒盛が「魂呼」と呼ばれる呪術を行った。そして次に引く『左経記』によれば、ここで恒盛が行った魂呼は、死者の横たわる家屋の屋根に登り、死者の衣装を振って「麻祢久まねく」という動作を繰り返しながら、「某姓某の魂、復礼もどれ」と呼びかけるというものであった。「某姓某」の部分にはし者の名前が入ったのであろうから、この呪術が死者の婚礼を呼び戻そうとする呪術であったことは明らかである。韓国でも、古くは死者の名前を家族の主が声を出して呼ぶ風俗があった。韓国では死者に対して行なう行為であったが、日本でも死ぬというのは、身体から霊魂が抜け出てしまうことであったから、この招魂祭という呪術は霊魂を呼び寄せる行いだったという点で共通している。陰陽師という部門が暦を作るほどの技術部門であるからして、この術は大陸で行っていたものを日本でも行ったもののようで、中国の『礼記』(喪大記第三)でも同じような儀式がみえる。中国での死者の家の東の軒から梯子を用いて屋根に登り、中央の棟の上に立って三たび魂を招び、死者の衣服に巻き込んで前方に投げ下ろすと、下にいる物がその衣服を受け取り、衣服を投げた者は西東の軒から降りる。
⑶ 鎮魂祭
平安の都に住む貴族は困るとすぐ陰陽師を呼ぶ。天下に疫病が流行り出した時にも、国家の対策は陰陽師に祭を頼むことだった。当時、疫病流行は「疫鬼」と呼ばれる鬼が疫病をもたらすと考えられていたために、陰陽師が鬼気祭を行なう。疫鬼たちの内裏への侵入を阻止するために「四角祭」を行い、藤原道長や藤原実資の時代の朝廷が旱魃の解消を目的として陰陽師に行わせた呪術は「五龍祭」もしくは「雨祭」と呼ばれるものであった。それは、雨を支配するとされる龍に働きかける呪術であり、雨を降らせることのみを目的としていた。『日本紀略』の本文には延喜二年九〇二年の六月十七日、平安京北郊の北山十二月谷において五龍祭が行われたことが知られる。別の事例もある。奈良朝の宝亀元年(七七〇)六月、同二年三月、同六月・八月の条(続日本紀)などに、疫神を京都は畿内で祀ったと見えるのは、『延喜式』その他に言う道宴祭とか宮城四隅疫神祭とかに相当する。それは根の国・底の国、つまり黄泉の国からやってくる鬼魅を凶の四隅の道上でもてなし追い返そうとする祭式であった。この類いの祭は民間で信仰されていた仏教と相まって念仏踊り、風流という芸能を生み出す場所にもなった。
(4)儺祭
『延喜陰陽式』を見ると、陰陽師が儺祭料という 供え物を準備した後、儺祭詞という呪文を読み上げるものである。その後、疫病のケガレを祓う段階へと移る。追儺儀礼のクライマックス、陰陽師のは斎郎(祭りの供え物を差配する職掌)を率いて。「そなえる」「てん祭」(酒食を供えて祭ること)を行う。そしてこの時に陰陽師は「祭文」を誦みあげた。この追儺祭文は疫鬼を追い払うための呪文であり、『延喜式』巻八には次のような一節が載せられている。
今年今月今日今時 大宮内に神祇官宮主の祝ひまつり敬ひまつる
天地の諸御神たち平けくおたひにいまさふへしと申す
事別けて 詔りたまはく
穢く悪しき疫鬼の 所所村村に蔵り隠らふるをば
千里の外 四方の堺
東方陸奥 西方遠価嘉 南方土佐 北方佐渡より
おちの所を なむたち
疫鬼の住みかと定め賜ひ 行け賜ひて
五色の宝物 海山の種種味物を給ひて罷賜ひ 移し賜ふ
所所方方に 急に罷往ねと追給うと詔るに
奸心を挟んで 留りかくらば
大儺公 小儺公 五兵を持ちて追い走り
刑殺物ぞと 聞き食ふと詔りたまふ
鬼たちはあちこちの村に隠れているので、それを探し出して千里の外、東西南北の彼方へ引かせると宣言して行く。ただ興味深いのは、鬼たちを無条件で退去させるのではなく、ちゃんと鬼が住むべき場所を決めてやり、また食べ物なども用意してやる。五色の薄絹、飯、酒、干し魚、海藻、塩などの捧げものをするその食べ物をもらって、急いで引きなさいと陰陽師は言うわけだ。そして最後に、住処も食べ物も用意したのに、悪い心を持って逃げかくれるならば、五つの武器を持った「大儺の公、小儺の公」が追いかけて頃してしまうぞと脅迫する。「千里の外、四方の堺、東の方は陸奥、西の方は遠つ値賀ちか、南の方は土佐、北の方は佐渡より彼方のところを、汝たち疫鬼の住処と定めたまひ行おもむ)けたまひて、五色の宝物、海山の種種くさぐさの味物ためつものを給ひて」というのがその部分です。追儺で追われる疫鬼は、外から侵入してくるものではなく、陰陽のバランスの崩れた、その歳末の時期に発生してくる悪霊、鬼である。邪なるものは外部から侵入してくるものだが、又、地底に住むとも考えられていた。先に紹介した道饗祭は、邪鬼が都に入って来るのを道の入り口で阻止するまつりだったが、『延喜式』に載るこの祭りの祝詞は、八衢三神に「根津底国より疎び来む物」を追い返していただきたい、といのっている。またそのための地に潜む邪を抑える「地固め」「方固め」をおこなう。反閇ともいう。 同時に、どこから紛れ込むかも分からないこの得体の知れぬ疫鬼を追い立てるために「桃弓」で「葦矢」を射かける所作を行い、「桃杖」を振るった。『日本書紀』に「此は桃を用も)て鬼を避ふせ)く縁ことのもと)なり」と語られるのは、伊邪那岐命みこといざなぎのみことという神が桃の実を投げつけることで黄泉の国の悪鬼を撃退したという神話である。鬼と桃の物語は現代にも語り継がれて「桃太郎」になった。
⑸ 除災
国家的な事業ではなく、一般の貴族の家で行なわれる術もあった。そこで陰陽師は呪文を唱えながら特殊な足取りで地面を踏むという反閇を行なう事が多かった。平安貴族は居宅を移す度に悪い霊が地面から出て来ないように踏みつけておいて出て来れなくしてもらう寸法である。それは行くてに予見される危険を事前に取り除くための呪術であった。一〇一九年の十二月二十一日『小右記』では藤原実資が再築された自邸の際入居したおり、安倍吉平が之を行なっている。『権記』九九八八月十四日、病み上がりの身体で参内しようとする藤原行成は、懸奉平という陰陽師に反閇を行わせている。その他にもおなじみの魔除けの方法が平安の時代から行なわれている。九八五年五月七日、藤原実資が長く留守にしていた自邸に戻ろうとした折、同邸においては懸奉平の反閇だけではなく、「散供」と呼ばれる呪術が行なわれた。米や豆を撒くという単純な所作からなる散供は、誰にでも行える簡単な呪術であった。『今昔物語集』巻二七第三十の「幼児を護らむが為に、枕上に蒔きたる米よねに血付くこと」という話においては、普通の女性が行った「打蒔の米を多らかに掻き掴みて、打ち投げたり」という行動である。火災や災厄防止のための呪符を家の梁や柱に貼ることは勿論である。
平安時代中期の学者藤原明衡の書いた『新猿楽記』では、見物人の娘の夫として陰陽師が登場している。「十の君の夫は、陰陽の先生賀茂道世なり。金匱経・枢機経・神枢霊轄等不審するところなし。四課三伝明々多々なり。覆物占ふことは目に見るがごとし。物怪を推することは掌を指すがごとし。十二神将を進退し、三十六禽を前後す。式神を仕ひ、符法を造りて、鬼神の目を開閉し、男女の魂を出入す。凡そ都覧反閉に術を究め、祭祀解除に験を致す。地鎮・謝罪・呪術・厭法等の上手なり。吉備大臣七佐法王」の道を習ひ伝へたる者なり。しかのみならず、注略天文図・宿耀地判経、またもて了々分明なり。所以に形は人体を稟けたりといへども、心は鬼神に通達す。身は世間に住すといへども、魂は天地に経緯たり。」陰陽師は人間の姿をしているが、その能力は神や鬼に近く、この世にあるが、魂は天地のものであると評されている。
陰陽師の家来のように、日常の細々としたことに使役され、その姿は鬼神のごとき恐ろしげなものであった。晴明の妻が、家に出没する式神の姿を恐れたたまに、恐妻家の晴明は妻を気遣って、式神たちを一条戻り橋の袂に呪縛しておいた。だが、式神たちはその縛を解いて、宮中の女官を犯した、とは、江戸時代の随筆『出来斎京土産』にのる話である。その時生まれた子供達が河原ものとなって賎視されたと語られている。(『宇治拾遺物語』巻十五の六「極楽寺ノ僧仁王経ノ験ヲ施ス事」)
法師陰陽師
多くの貴族が陰陽師による呪術、祈禱を望んだ。しかし陰陽寮の人員に対して貴族の数は桁違いに多い。そこで登場するのが祈祷僧や、公に所属のない法師達だ。『陰陽師』の中で繁田信一は「法師陰陽師というのは、僧侶の姿をした陰陽師である」といっている。平安時代における正規の僧侶というのは、国家に承認された僧侶のことである。そして、国家の認可を受けて正規の僧侶となったものは、一切の税を免除される代わりに、国家のために仏道に励むことを期待された。その一方で、国家の認可を受けずに勝手に僧侶となることは、当時、法によって厳しく禁じられていた。国家の許しを得ずに出家することを「私度」といい、私度によって僧侶となったものを「私度僧」といった。だが、平安時代を通して、私度僧は増える一方であった。しかも、私度僧の多くは新に仏道を志して出家したのではなく、たんに納税の義務から逃れるために剃髪して方位をまとったに過ぎない。結局、私度僧の大半はいわゆる「もぐり」の僧侶であった。そして、こうした私度僧たちの一部には、陰陽師の技芸によって生計を立てるものも見られた。
清少納言は法師陰陽師に禊祓を行わせたことがあるらしい。繁田信一の『陰陽師』で彼等の様子をうかがい知れる。彼女の『枕草子』は、「見苦しきもの」の一つとして「法師陰陽師の紙冠して祓したる」を挙げる。また「左経記」一〇二八年四月五日平安時代前期から伝わるという由緒ある式盤が、「或法師」によって所持されていると記した。当代の官人陰陽師ではなかったのである。また、『小右記』一〇一四年二月二十一日。自邸に鹿が闖入するという騒動に見舞われた人が、その出来事が吉兆か凶兆であるかをしろうと、賀茂光栄・安倍吉平の二人の官人陰陽師の他、「皇延法師」にも卜占を行わせた。『三代実録』には、貞観一〇年(八六八)に吉野郡の深山に、少年の時以来籠って修行していた道珠という沙門を「修験の聞え有る」によって召し出したとしている。『紫式部日記』にも、中宮のお産が近づくにつれ、安産祈禱のために、「山々寺々を尋ねて験者という限りは、残りなく参集」してきたとあり、山の験者の動員ぶりがうかがわれる。こうした施術に、祈祷師たちは式神、護法童子といった神と人の媒介者を想定した。
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民間の法師陰陽師や祈祷僧の場合、式神は「護法」だとか「童子」という名で呼ばれた。『宇治拾遺物語』巻二の八「清明蔵人の少将封ずる事」では依坐のような人物に「式神」を憑け、そのものの口を通じて吉凶・善悪を知った。人為を越えた「もののけ」を災の元凶とみていた。そこには憎しみや怒り、妬みが作用して自然と生まれる「もの」と、それを鎮めようとする心の動きがみてとれる。陰陽師が「式神」を使うのと同様に、来逃走も、ほぼ同じような属性を持つ使役霊=使い魔を用いていた。それは「護法」と呼ばれ、しばしば「童子」ともよばれる。山伏、修験者、行者、祈祷僧、験者は「魔」を操作する呪術師である。例えば、日光最大の修験道の聖地になっている古峯原金剛堂では、日光を開山したという勝道上人に仕えた従者の前鬼という天狗の子孫を祀っており、この前鬼を金剛童子と読んでいる。「これは天狗の起源が山神、山霊が行力ある山伏に征服されて帰服した従者にあることをしめし、仏教で従者を意味する童子とよばれ、これを密教的に金剛童子といったのである。密教から名を変えた修験者の場合は、山を開くに至った経緯を見ると狩猟者の場合には、熊、鹿、鳥などを負って山中に入り、それに矢を射かけたところ、それがホトケの姿を下山の女神、あるいはその眷属に姿を変えた。そこで畏れおののいて発心して、その神を祀って開山となっている。そして山の主尊の眷属が示現して、修行者を守るとの信仰が認められる。こうした神格は童子・王子と呼ばれる。動物を殺して山を手に入れるのは、『古事記』のヤマタノオロチから語り続けられる物語である。修験道の山ならばどこでも登山の掛け声や勤行の唱え言に、
懺悔懺悔 六根清浄 お注連に 八大金剛童子
を唱えている。是は修行者が首にかけた「お注連」に八大金剛童子が宿っていて、其の行者を守護するという事である。童子が登場する物語の一つを紹介する。
極楽寺は堀川の太政大臣藤原基経が造った寺である。その基経が重病にかかった。さまざまな祈禱をしたがいってこうになおらない。名ある験者で祈禱に参上せぬ者はないほどなのに、どうしたことか極楽寺の僧には参上せよとの命が与えられなかった。此の時、極楽寺のある僧が、「この寺の安らかなるは殿のお陰である。お呼びがなくとも自分から参上して祈禱して差し上げなくてはならない」と、仁王経を奉じて御殿に行った。そして、中門の北の廊下の隅にかがんで、誰も目にかける者もいないのに一心に読経していた。四時間ほど経ったとき、この僧は殿に呼ばれたので、殿のところにうかがうと、殿はこの上もなく元気そうであった。殿は、なぜ極楽寺の僧を読んだかを次のように語った。寝ていて夢を見た。その夢の中で、恐ろしい格好をした鬼たちが私の進退をいろいろと打ち責めていた。そのとき、みずらを結った童子が楉(細長い枝の杖)をもって、中門の方から入って来て、その枝で鬼たちを打ち払うと、鬼たちは皆逃げ散ってしまった。そこで、その童子に「お前は何者か」と聞くと、「極楽寺の僧某が、殿がこのようにおわずらいになっているのを嘆いて、長年読み奉る仁王経を、今朝から中門の脇に控え一心にお読みになっております。その聖の護法である私が、こうして殿をわずらわせておりました鬼たちを、追い払ったのでございます」と答えた。すると夢がさめ、気分がよくなったので、礼を言いたくて、この僧を呼んだのだ。
『枕草子』第二二段に、験者が護法を用いて「もののけ」のために病気になった者を治療する場面がある。しかし、此の場合は験力の効果なく、作者である清少納言に「すさまじきもの」と評されてしまうことになる。
ある高名な験者がもののけに疲れた病人を治すために、自信満々な様子で病人から悪霊を移す「憑坐」に独鈷や数珠などの法具をもたせ、声を絞り上げ適当を続けた。たが、「護法もつかねば」といっこうに効果も現れなかったので、集まっている男や女たちも不審そうに見守っている。験者は必死に祈祷を続けたが、結局「さらにつかず」といって、祈禱がうまくいかなかった。験者が護法童子を自由に駆使っできないので、病人の体からもののけを追い出すことができないという意味だろうとおもわれます。この祈禱の最後に、験者は『あな、いと験なしや』と、うち言ひて、額より上さまにさくり上げ、欠伸おのれうちして寄り臥しぬる。
当時は法師陰陽師も祈祷僧も験者も行者も、術師であり呪師であり、すべて霊界を媒介する能力に寄って人々を安心させることを生業としたのであった。
空を飛ぶ神仙人
修験道の教祖
法華経を誦し、山に籠り、不老不死を目指したり童子を使いたい欲求は、乃ち仙人を目指した道である。大峰の修験道でも「神仙屈宅、賢屈所居」(修験道教典)と書かれる通り道教の神仙思想が組み込まれている。彼等は山へ亡命した亡命した人たちであった。彼等が後に信仰する人物も、共同体との臍の緒が切れ、そこからはみ出し、それと対立しさえする彼等自身の心の中に生まれた神であった。山々の開山縁起に登場する山人も、草や木、動物達と会話のできる超人的な山岳原住民でした。その中で有名な開祖が、鎌倉後期以後崇拝された役行者または役小角である。 役小角は、『続日本紀』では役君小角、『日本霊異記』では「役行者」と改められる。『日本霊異記』上巻、二八によれば孔雀王咒法を修持し、異しき験力を得て、現に仙と作りて天に飛ぶ」という。続日本紀に「汲水採薪」とあるのは法華経の提婆達多品に書かれたものが借用されている。孔雀王咒法を修して験力を得たとある。これは密教の秘法の一つで、天変、怪異、祈雨、出産、病悩、疱瘡等のため修されるものだが、記録によるとやはり出産と病悩にかんする例が多い。看病禅師として宮廷に入った道鏡なども孔雀王咒法を学んでいる。
火や水を使った術、しかもそれを医療に用いる、更には『役行者本記』で書かれているように役行者が楽器を演奏する能力を持っている。彼の歩いて来た道の永さを想像できる。『アラブの風と音楽』で若林忠宏が現地で直接学んだことを述べたものは、則ちかつて役行者が学んだものではないか。
皮肉なことに、キリスト教徒が必死にアイデンティティイを持とうとすることで脱しようとしたアラブ音楽は、アジアの音楽の中でも最も西洋音楽に近い音楽である。というより、元は同じギリシア音楽に根ざしているのだ。それを明確に示してくれるのが、前述の弦楽器オウドと弦と太鼓ダラブカの音に現れる「万物の四元素」という概念である。もともと万物の四元素に楽器の音を関連させる観念は、古代ギリシャの科学・哲学者プラトン、アリストテレスなどが唱えた音楽と医学・心理学の関係を解いたエートス論に根ざしている。(略)例えばオウドの四コースの弦は、最高音の第一弦は、「火」を象徴し、いらだちと関係しており、演奏によって不快感を増したり、逆に情熱を奮い立たせることができる。イメージカラーは黄色。中高音の第二弦は「気(空気)」を象徴し、気力と関係しており、演奏によって気力を増したり、憂鬱から開放されることができる。イメージカラーは赤で、血液等の循環系と関係している。中低音の第三弦は「水」を象徴し、悲しみと関係しており、演奏に酔っては哀愁をさそい、逆に悲しみを和らげるとともに、消化器系を活発にする。イメージカラーは白。最低音の第四弦は「地」で神経系に作用するとともに躁と鬱のバランスと取ることができる。イメージカラーは黒。さらにこれに天文学や、方位学等も関係させていた。これは古代中国(紀元前後)の「五行説」にも似ているし、音楽療法も含む古代インドの「アーユルヴェーダ」にも通じるものがある。
著者は続けて「ちなみに太鼓ダラブカの音も、低音の「地(土)」、中音の「水」、高音の「火」と、鳴らさない(休符)の「気(空気)」の関係がなされていて、素焼き胴の太鼓なので、土(粘土)を水でこねて空気で乾かし、火で焼いて作るのも理にかなっていると言う。得意げに話すアラブ人の先生に「じゃあ皮はどうなるの?」とズィリヤーブのようなことを聴いたら、先生は突然不機嫌になってしまった」という。
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絵巻や像をみると、役行者は足下に前鬼と後鬼を従えている。七九七年に完成した『続日本紀』巻一、六九九年の条によると、「小角能く鬼神や役使して、水を汲み薪を採らしむ。若し命を用いずは、即ち呪を以て縛る」と書かれている。鬼に雑用をさせているようにも見えるが、室町時代に成立した『役君形生記』には役小角の修行が採菓・汲水・拾薪・設食の四つのものであったとしている。 修験者が求めた験というのも、水や火を生み出し、利用する技術である役行者の左右に控えている鬼は、陰陽師では式神といわれ、修験道では童子といわれるが、シャマンの世界では守護霊といわれる。
シャマン儀礼を行っている時、ツングースはさまざまな動物を補佐役として用いる。トゥルハンスクで聞いた話だが、魔術師はシャマンするにあたって特別の天幕を設け、そのまわりに、像をとりつけた八本の杭を打ち込む。木に刻んだ此れ等の像は儀礼が住んだ後も捨てずに保存するが、太陽・月・雷の鳥のほか、いろいろな鳥を表している。太陽・雷の鳥・白鳥・郭公は天幕の東側に、西側には月・鶴・海がらす・あびが来る。さらにこのようなさまざまな動物の像は、シャマンが天幕の正面の竃の後の土間に坐る場合、自分の傍らに置く。(略)ドルガンとヤクートのシャマンも狼とか狐とかの動物の助手の像を作り、用を命じて送り出す。ブリヤートのシャマンも股、ある特定の動物に、次のように歌って助けを求める。「灰色兎は我らの走者、灰色狼は我らの使者、ホン鳥(白鳥)は我らのホビルガン、鷲は我らの使者」(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』四二八頁)
仙人とシャーマン
水を汲み、焚き木をとることは修行者に課せられる苦行のひとつとして、法華経等の仏典にもあらわれる詞である。「汲水採薪」は提婆品の文(『開結』三四四・三四五頁)であり、これにより苦行奉仕の法としています。(村山修一『本地垂迹』)
「法華経」「寿量品」の説は仏教以前のインドで菩提樹を神霊の宿る所とするリグーヴェーダの思想、火・風邪・太陽・梵天・シヴァ・ヴィシュヌなどの神々を無始無終、常往不変の梵(ブラフマン)の顕現とするウパニシャッドの思想に淵源をもつものとしている。火と水は世界中に有るが、火と水の物語は各国で固有に存在する。日本では主に真言・天台系の寺で行われる修正会で火や水が使われる。「お水とり」や「水垢離」のように彼等が火や水を使うにはこのような理由があった。法華経の教えが骨の髄に食い込んでいる。だが葛城山上での役小角の修行の様をみれば、それが大陸伝来の形式であることはほぼ確かであろう。霊異記は「晩レニシ年三十余歳ヲ以テ、更ニ巌窟ニ居リ、葛ヲ被、松ヲ餌ミ、清水ノ泉ヲ沐ミ、俗界ノ垢ヲ濯キ、云々」とかたっている。大峰に埋葬した役行者の棺に遺骸はなかった。摂州にて姿を見たという伝説は、不死の境地に達成したことを物語っている。役行者は仙人として語られ、追従した修験者も、仙人になりたかった。ちなみに、死体が亡くなる事は中国で尸解仙といわれる。棺のなかの肉体がなくなり、衣服や沓がすっぽり脱げたそのままの形でのこされる現象である。また遺体が蟬や蛇のぬけがらのようになるものもある。そのため、仙人になることを「蟬蛻(蛻は、ぬけがら、もぬく)」、「蟬脱」、「羽化」ともいう。『列仙伝』の「尸解仙」とは、一度死んでから仙人になることである。
谷春というのは櫟陽の人である。漢の成帝(在位、紀元前三三~七年)のとき、侍従となった。病気で死んだが、屍は冷たくならなかった。家ではかれの死を世間に知らせ喪に服したがそれでもあえて棺に釘をうたなかった。三年たって、衣服をかえた谷春が頭巾をかぶり、県の城門の上に座っていた。村の者が驚いて知らせ、家族がむかえにきたが、ついて帰ろうとはしなかった。棺をあけてみると衣服はあるが屍はなかった。門上にとどまること三晩、さって長安にゆき、西の城門である横門のうえにとどまった。それを知って人びとが追いかけ、迎えにいったが、またたちさり太白山にいった。そこで人びとが祠を山上にたてると、谷春は四季おりおりにやってきてその祠に泊まっていた。(『列仙伝』「谷春」)
山の仏教の女人禁制は山の民の古くからのタブー観と共に神仙思想がからんでいるようにも思われる。仙人が空を飛んでいる時に川で洗い物をしている娘の太ももをみて飛行能力を失った話、仙人のいる山に行こうと誘われたが妻子に挨拶してからにと答えると、その心構えでは仙人になれないといって姿をくらました。その人も仙人だったという『本朝仙記』の話からもひねり出される。海の彼方に浄土があるという考え方も海の彼方にあるといわれた三仙山であり、『魏志』東夷伝に「倭人、在帯方東南大海之中依山島為国邑」とあるとおり、中国からみればここが仙人の住む国だったかもしれない。
仙人は空を飛ぶが、北方狩猟民族のシャマンも空を飛ぶ。ただ飛ぶだけでなく、人々の役に立とうとして飛ぶのである。次に引用するのは彼らの行う儀式の一つである。「シャマンが天に行くのは、病気の人間の魂を癒すため」だという解釈がされていると、著者のウノ・ハルヴァは述べている。
シャマンが犠牲動物を天へ連れて行くときは、樹は一列に並べなければならないと書いている。樹の列の一番はじには、犠牲動物をつなぐためのただの柱が立っている。それに三本の棒が連なって、その一本一本には木の鳥像がとりつけてある。最初のは伝説的な双頭の鳥、二番目は海がらす、あるいはからす、三番目には郭公が載せてある。鳥のくちばしは木の列と同様、南に向けてある。鳥を付けた棒から一ひろほどの間隔をおいて、梢の尖にだけ緑を残してあとは枝を払った九本のもみがもう一列並んでいる最初の鳥の載った棒から始まって、樹から樹へと馬の毛でよった縄が渡してあり、それには白い馬の毛の総が下げてある。この樹から樹へだんだんと高くなっている縄は、セロシャフスキーによれば、シャマンが鳥の後について、犠牲動物を追いながら天界に昇って行く道すじを意味している。ここに掲げるセロシャフシキーの著作からとったスケッチには、樹冠をつけた樹が七本だけ見えている。(『シャマニズム』)
この木の並びをみれば、現在、能無頼におかれている松の木を思い出せる。山をまたいで旅をする発想を世阿弥はどうして思いついたのか。「幽玄」という言葉で脚色された世界に観客を坐らせる以前に、幽玄の世界を本当に知っていなければ、世阿弥は台本など書けなかったはずである。ここで河原者の背景を改めて書き直す必要もでてくる。彼の生きていた世界は中国語では「天」、韓国語では空の意味で「하늘(ハヌル)」というが、北方の彼らは天を何と呼んだのだろう。
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役行者の隣りにいる鬼や、修験道の童子は、シャマの憑神であり、シャマンが世界や宇宙を旅するのを助ける守護霊でもある。手品のような数々の奇跡も「霊」の世界と関わる人にしかできない技であったはずだ。
諸霊がシャマンに不可思議な能力を与えるという観念は、ツングースに限られない。ゴルドもまた、憑かれたシャマンは火にも焼かれず、厳寒にも凍えず、水にも溺れないと語っている。シャマンの肉体は、憑かれた時は乱暴に叩いても、突き刺しても、切ってもこたえないということも広く信じられている。ペトリはブリヤードのシャマンとその驚くべき行為を叙して、シャマンが火の上で踊り、はだしで灼熱の鉄板の上を歩き、あるいは真赤に焼けた烙印を舐め、燃えている炭火を飲み込み、煮えたぎる湯を一瞬にして水にしてしまう等々、と述べている。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』四一七頁)
シャマンの力を人々にみせるのは、殆ど手品であることを観察したのはウノ・ハルヴァである。
老練なシャマンは、はたの者がもっと不思議な者を見たと思い込むように暗示をかけることもできる。この天で、レヒティサロがオブドルスクのサモエドについて述べている次の描写は特に面白い。「シャマンは受けとった二十八本のナイフをあらため、汚れているものがあればそれをきれいにした。最も大きなのは最後に舞わした。かれはシャツを脱ぐと、ナイフをはだかのからだに突き刺し、見物人によく見えるように、手に握りしめて差し込んだ。同じようにして、からだのさまざまな部分にナイフを突き刺していった。一番大きいナイフは脳天に指した。大一撃は半分迄、次は完全に見えなくなる所まで突き刺した。助手はシャマンのしていることを見てはならない。そうしようとすれば、シャマンはナイフで嚇かすのだ。それからシャマンの顔色は黒ずんで、物も言えなくなる。かれは助手に、太鼓をくれるように手だけで合図する。かれは太鼓を叩きながら異様な舞踏を始めると、ナイフは一つ一つ、まず切っ先が、次には全体が現れて地面に落ちる。最後にシャマンは足を振って片方の長靴を脱ぎ捨てる。さらに足を振ると、足の裏からまずナイフの尖が、次いでもっと上の方まで現れて、やがてナイフは地面に落ちる。シャマンは、それが最後に脳天に突き刺したのと同じナイフであると、見物人に信じ込ませる。」こうした例は、狡猾なシャマンが、人の信じやすさをうまく利用して、一種の「手品師」に転落し始めた事を示しているが、実はそれがシャマンの本来の姿でないことはもちろんである。(『シャマニズム』四一八頁)
修験道には現在、儀式として残っている「験競べ」も同じであろう。火渡りをする修験者、憑りましに諸霊を自由に付け託宣させる福島県の葉山まつりや、岡山県の美作地方の護法とびの施術者としての修験者がいる。験競べの歴史は古く、すでに鎌倉時代初期の『金峰山創草記』に記録が乗っている。これらは大きく三種類に分けることができる。第一は修験者が初令の操作能力を顕示するもの。蛙とび、竹切、護法とび、火を統御する力を顕示する火渡り、湯立、御灯祭など。修験者の天界への旅行を示すもので、鳥とび、戸隠、柱松、刃渡りがある。
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天真爛漫な仙人も日本人の手にかかれば人間臭くなる。『続日本紀』五月二十四日の条に「役君小角流伊豆島、初小角住於葛木山以呪術称、外従五位下韓国連広足師焉、後害其能、讒以妖惑、故配遠処」と書かれているのがそれである。
ここには文武天皇三年(六九九)に、役小角が妖言を放って衆を惑わすという、韓国連広足(帰化人系の呪者)の讒言のよって罪を蒙り、伊豆に遠流されたとされる。広足の得意とした呪禁術は道教・陰陽道を基に医療を一つの効用とする。一方で小角は呪禁道の医療を通じて民衆の人気を博したのを、文武三年の記事にあるように、広足はこれを妖惑と称し小角を朝廷に譏ったのである。韓国連広足は祖先の盬児が韓国に使いしたことにより韓国の姓を賜ったといいますが、本来、朝鮮からの渡来民であるといいます。ですから、広足は呪禁道に精通しており、天平四(七三二)年に典薬頭のの呪禁師に任じられた実在する人物である。呪禁道は敏達天皇六(五七七)年に百済から渡来していた。
山に伏す修行者
法華経の信者
貴族社会のなかでは祈禱を行う術師たちは、もともと仏教者であった。平安末期の記録である『兵範記』久寿三年四月二十日の条には、「験者」のことを、「真言師也、予め語り示すなり」と説明している。つまり真言(呪言)を唱える事によって祈り、まじない、かつ未来を予言するようなことを行う私度の行者である。『日本霊異記』中巻二二六話の主人公の禅師広達は上総国の人であるが、西武天皇の時代に吉野の金の峯に入り、森林のなかを法華経を唱えながらひたすらあるいて仏道を求めており、たまに秋河(下市川の別名)をわたって里に出てくる事が会った。下巻一話も、漸次が峯を通って行道している説いている。『梁塵秘抄』にも、そこに法華信仰をもつ聖たちが集まっていたことが謳われている。大峰とは吉野の大峰山である。
大峰行う聖こそ
あわれに尊きものはあれ
法華経誦する声はして
確かの正体まだ見えず
『法華験記 』ではこうした修行者の体験を物語る。二つ目の説話は『日本霊異記』 下巻一・二話でも引かれている。
諸山を巡行し仏法を修行していた沙門・義睿は、熊野山より大峯を通り吉野の金峰山へと向かう。しかし深山幽谷で道に迷ってしまい、さまようこと十数日に及んだ。その間、本尊を祈念し三宝を頂礼して、ようやく平正という林に着く。そこには新造の浄潔なる僧房があり、禅室では二十歳位の聖人が法華経を誦し、童子が給仕をしていた。義睿の問いに、「元は比叡山東塔の三昧座主(康保元年(九六四)に第十七代天台座主となった喜慶)の弟子であったが、勘当されてしまい各地を流浪していたという。老境に入ってからはこの地に居を定めて八十余年、法華経を読み、死を期している」と聖人はいう。更に童子が給仕をしていることは「安楽行品第十四」の「天諸童子 以為給使」のとおりであり、若年のごとくは「薬王菩薩本事品第二十三」の「得聞是経。病即消滅。不老不死」が妄語ではなく真実であるからだという。その晩、僧房に泊まった義睿は、異類衆形の鬼神・禽獣が数千集会し、聖人が法華経を読むところを目撃する。翌朝、「奇異希有の異類の千形はいずこより来たのか」とたずねる義睿に、聖人は「法師品第十」の「若人在空閑 我遣天龍王 夜叉鬼神等 為作聴法衆」はかくの如しである、と告げる。その後、義睿は水瓶の導きで山頂に至り、里に出ることができた。義睿は深山の持経者・聖人の作法徳行を伝え語り、聞く人は随喜して涙を流し多くの者が発心したという。「巻上・第十一 吉野奥山の持経者某」)
長年にわたり法華経を受持してきた壱睿は、熊野へ向かう道中、宍背山(鹿ヶ背峠・和歌山県日高郡と有田郡の境)で一泊した。夜半、法華経読誦の声が聞えてきたが、自らも法華経を誦し三宝を礼拝、罪を懺悔した。朝になり周囲を見ると死骸の骨があり、舌だけが赤く鮮やかであった。感悦した壱睿はその晩も法華経を誦し、明け方、骸骨と語り合う。死骸は比叡山東塔の住僧・円善で、六万部の法華転読を志したが半分ほどで死んでしまい、生前の立願を果たすためにこの地で法華経を唱え続けてきた。今、願いは既に満ち、残りの経は幾ほどのものでもない。今年はここに住し、その後は都率の内院に生まれ弥勒菩薩に値遇して引摂を蒙りたい、という。聞き終わった壱睿は骸骨に礼拝し、熊野に参詣した。後年、骸骨をたずねたがどこにも見えず、壱睿は随喜の涙を流した。(「巻上・第十三 紀伊国宍背山に法華経を誦する死骸」)
悟りの体験
体験とは体に験が満ちた状態をいう。仏の法を口にして論議を空転させる身分の高い僧侶が権威を持っていた一方で、人を超えた能力を身体に得ようとするところに修行者のオモイがある。一般に、山の洞窟は修業者のこもる行場であった。一遍上人絵伝には、「予州浮穴郡に菅生の岩屋といふ所に参籠し給ふ。此所は観音権現の霊地也。千人練行の古跡なり」と伝えている。山の中、クラの中で修行をすることにも意味が有る。『古事記』ではオホナムヂが根の国を訪れたおりのことは死んで生まれ変わる様子が書かれている。根の国でオホナムヂはまず蛇の室に寝かされる。次にはムカデと蜂の室に入れられる。次には大野のなかに射入れた鳴鏑をとりに行かされる。次には八田間の大室に喚びこまれてスサノヲの頭の虱をとらされる。この四度の試練を彼は次々にうけるわけだが、ここで注目されるのは、四つのうち三つまでが「室」で懲らしめられていることだ。どうしてこのような次第になるかと云えば、それはこの話が、孤独な物忌屋、つまりムロヤにおける修行中に訪れた夢または幻想にもとづいているからであろう。若者が隔離される事に寄って、村方の日常生活のなかで通用している規範や秩序、習慣が一時的にではあるが白紙にもどされ、いわば文化の状態から自然の状態への移行がそこで直接的に経験されて、一皮むける。
『真言伝』では大僧正行尊が室の中で一皮むけ、幻覚をみる。
大僧正行尊……大峰葛城諸国ノ霊山霊地行ヒノコス所ナシ。苦修練行タグヒナキ人也。大峰ノ神仙宿ニシテ苦行スルコト五七日、同行伴侶ナクシテ、独リ菴室ニ居テ経ヲ呪誦ス。其時ニ夜ノ雨滂沱トシテ、室内河ノ流ガ如シ。身ヲ入ニ所ナシ。巌ノ上ニ蹲踞シテ寿巳ニキワマルヨシヲ存ジ、高声ニ我不愛二身命一、但惜二无上道一ノ、文ヲ誦ス。深更ニ及ビ夢ニ非ズ、ウツツニアラズ、容顔厳シキアゲマキノ幼童二人イデ来テ、僧正ノ左右ノ足ヲササグ。オドロキテ彼童ヲ求ルニ、夢ナル事ヲシル。イヨイヨ本尊ヲ念ズルニ、ネムレバ又前ノ夢ヲミル。……
『北野天神縁起』の一節には「日蔵上人、承平四月十六日から大和の金峯山の笙の岩屋にこもって行するほどに、同じ八月一日の牛の刻に頓死した。ところが彼十三日目によみがえった。その間、彼は三界・六道を経めぐり、たとえば、かつて天下に君臨し多くの臣下たちにかしずかれていた醍醐天皇が、無実の菅公を流罪に処したとがで今や獄卒どもにさいなまれ、燃え盛る火炎の其処で叫喚しているさまなどをみてきたのである。
『扶桑略記』では日蔵が「無言暖色、一心念仏。于レと来天慶四年八月二日牛時許、居レ壇作法之間、枯熱忽発、喉舌枯滲、気息不レ通。竊(せつ)自思惟、既言無レ言、何得レ呼レ人。泣唯作レ息。思惟之間、出息巳断也。即命過出立二崛外一、云々。」 神は、あの世は、肉体に属していない。それらと繋がる場所を求めれば、忌小屋、クラにいくことになる。 『御遺告』では空海自身が臨終を前にして「山に帰らん」と宣言した。韓国の葬儀では後ろに山がある。山の中に彼等の信仰を支える力があった。空海の最初の論文というべき『三教指帰』は、儒教、道鏡、仏教を比較評価したものだが、その序文を読む限り、空海自身がが深山幽谷で深い宗教体験を味わっていた事がうかがい知れる。
「阿波国大滝岳にのぼりよじ、土州(土佐国)室戸に勤念す。谷、響を惜しまず。明星来影す。」
これは空海が、山中で出会った無名の沙門から虚空菩薩求聞持法という記憶法を学び、それを実施している時に持った神秘体験を描いたものある。「真言を一百万遍誦す」うちに、谷が呼応して語り出したり、暁の明星が自分の口の中に飛び込んで来たというわけである。
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室、戸、鞍、闇などは、こうした現実を超越する体験にミチアフレタ場所で会った。コモルことは、忌むことであり、心と体を浄めながら魂の世界に近づく方法だった。室町末期に、日本にやって来た宣教師フランシスコ・ザビエルは、日本最初のキリシタンとなったヤジローから聞いた話を報告している。山伏は、「暖色し、百日間貞潔を守って、それから山腹にある大森林に入り、多くの偶像のある隠棲所に寄って行をするので、山から種々の叫びや音が聞こえ、火焰がみえる。懺悔者は、その森に七十五日間とどまり、毎日掌にのせうる以上の米を食べない。三度以上水も飲まない。七十五日の終わりに、さらに後方の荒山に集る」『元享釈書』に忍往篇に乗せてある彼らの修行や、謡曲谷往に現れた彼らの作法などは、私のような気の弱い者には全く卒読にも堪えぬほどである。絶食、断水、不眠、不臥、手灯、倒懸、刻骨、捨肉、火定というが如き、ありとあらゆる残酷をしのいだことか。「山臥」とか「山伏」としるされた語の宗教的原義も仙人の域である。「臥行者」や「伏見の翁」の物語がある。例えば『元亨釈書』(巻一五)の釈泰澄伝の話は次のようである。
大宝二年という年に一人の小沙弥が能登島から白山に来て泰澄に謁してその弟子となった。この小さ沙弥はいつも雪のなかに身を臥せているので泰澄は彼を臥行者と名づけていた。ある日一人の比丘が訪ねてきて、行者を見て、「勵勧進趣、是れを名づけて行となす、臥とは儀なり、何ぞ行者を称せんや」といったのに太子、沙弥は臥しながら首をあげて、「行に二種あり、一に身行、二に心行なり、予の修するところは心行なり、八苦の寒風に当たり、罪障の積雪に臥し、阿字の大空を仰いで大日の光照を見る、云々」と答えて客比丘を感嘆させたという伝説が在る。また、『日本高僧伝要文抄』にのせる、平城菅原寺の側の岡に臥して三年間起たず、物言わぬ翁が、行基が婆羅門僧正菩提僊那を伴って菅原寺に来たとき、「時なる哉、時なる哉、縁熟せるかな」と叫び寺に入り来たって三者歓をつくしたという説話も、その異常性が大地に身を臥すことによって会得されるという思想をふまえている。
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修行者の求める力は人為を越えた自然の中に有り、魑魅魍魎のさまよう野山に溶け込むことが肝心だった。その姿は異形である。『法華験記』巻上一六話の愛宕山の仁京は、深山に籠居する持戒の僧であったが、鹿皮を着ていた。「一遍上人絵伝」に出てくる山伏の姿は、「浄衣としての白衣を兜巾をつけ、脛衣に藁履をつけた、きわめてあっさりした姿である」『梁塵秘抄』にも修行者の暮らしぶりが「ものづくし」で歌われている。
聖の好むもの 木の節、鹿角、鹿の皮
蓑笠、錫杖、木櫺
火打ち笥、岩屋の苔衣(三〇六)
(訳) 修験者が好むのは 木の節 鹿角 鹿の皮 蓑笠 錫杖 木櫺 火打ち石の箱と 岩屋で着てるぼろ衣
上野国(群馬県)世良田の長楽寺の栄朝上人は山臥をさして「不可思議ノ異類異形ノ法師」(『沙石集』)といい、康永三年(一三四四)一二月、禅宗の破却を朝廷に訴えた叡山本院集会事書(「三千院文書」)は禅・念仏両宗を「路頭を徘徊」する「異類異形」と馬頭し、一休宗純の『自戒集』は、養叟を罵って「商人・唱門士」・坂者・強党・異類異形」という言葉を連ねる。よほど俗世を離れた格好をしていたのだろう。『梁塵秘抄』(四二五・四二七)は続けて歌う。
聖の好むもの 比良の山をこそ尋ぬなれ
弟子やりて 松茸、平茸、滑薄 さては池に宿る蓮のはい
根芹、根ぬ菜、牛蒡
河骨、独活、蕨、土筆
(訳) 修験者の好物なら 比良の山で探すといいよ 弟子をやって 松茸 平茸 榎茸 それから池底の蓮の根っこ 芹の根にじゅんさい ごぼう
凄き山伏の好むものは 味気な凍てたる山の芋
山葵、かし米、水雫 沢には根芹とか
(訳) 強面山伏の好物は つまんねえな 凍らせた山の芋 わさび 洗い米 水の雫 沢には根芹も植わってるってさ
***
「聖の住所はどこどこぞ、箕面よ勝尾よ、播磨なり書写の山、出雲の鰐淵や日の御崎、南は熊野の那智とかや」
一山に籠居して修行する験者と、やまやまをかけまわる験者とがあらわれる。『新猿楽記』の中の右衛門尉次郎君の修行は、「たびたび大峰葛城を通りて辺道を踏み、年々、熊の、金峰、越中立山、伊豆走湯、根元中堂、伯耆大山、富士御山、越前白山、河野、粉河、箕面、葛川等に(入る)の間、行を競い、験を挑え、山伏修行せざるはなし」ともしるされている。『枕草子』にも、「まして験者などのかたは、いとくるしげなり、御嶽、熊の、かからぬ山なくありくほどに、おそろしきめも見、しるしあるきこえ出できぬれば、ここかしこによばれ、ときめくにつけてやすげもなし(四段、ことどとなるもの)」
大宝二年(七〇二)二月に制定された『大宝律令』には、山岳で修行を志す官僧に所属寺院の三網(上座・寺主・都維那の連署の上で政府に届け出て許可を得るよう命じている。そしてこの手続きをへないで山で修行したり、山林修行者が巫術によって吉凶を論ずることを禁じている。ただ自己の管轄下において呪力を利用する事は許されたようである。 朝廷では怨霊の祟りを鎮めるための法会を、山岳で修行し霊験に秀でた密教僧(験者と呼ばれる)に依頼した。その最初の物は、疫病の流行を早良親王などの六人の怨霊の祟りとして、貞観五年(八六三)五月二〇日に京都の神泉苑で、比良山で修行した慧達(七九六ー八七八)に行わせた御霊会である。当時は官僧になるためには、まず優婆塞・優婆夷となって三厘陀羅尼を唱え、最勝王経、法華経を読誦して修行し、さらに沙弥・沙弥尼として数年に渡って沙弥行をした上で得度して政府から度牒(証明書)を受けねばならなかった。もっとも天平宝字三年(七五九)には、諸国の三厘で一〇年以上にわたって修行した清行逸士には得度を許している。 葛城山で修行し、多くの民衆の帰依をあつめて、東大寺大勧進となった行基、同じく葛城で修行して称徳天皇の寵を受けて法王となった道鏡、熊野で修行し、呪力で病気を治し、十禅師に選ばれた永興、吉野の金峰山で修行し、やはり十禅師になった広達などのように政府に重用された三厘修行者も現れた。讃岐出身の空海は上京して官吏妖精の大学に入ったが、仏道を志して退学し、私度僧として吉野の金峰山、伊予の石鎚、阿波の大滝岳、土佐の室戸岬などで修行した。金峰山の笙の岩屋で修行中の日蔵(九〇五?ー九八五)が、金剛蔵王の導きで金峰山に趣、そこで大政威徳天となった菅原道真から自己の怨念が災因となっていることを教えられ、さらに地獄で苦しむ醍醐天皇に会って蘇生した。これらの託宣や高いでの道真の怨霊の指示によって都に北野天満宮が祀られることになった。空海自身も、渡辺照宏の強調するように、またその『三教指帰』の冒頭に記されているように、その青年時代には見ん神尾呪術宗教者として、優婆塞として、四国の室戸崎や阿波大滝嶽において苦修練行の神秘体験を重ねて来た。
神秘体験をかさねようと諸国を歩きまわる修行者であるから、日暮れになっても泊まる場所がなくウロウロしていたこともある。『太平記』のうちには、武蔵国から下総にかかって歩いていた山伏が、立ち寄るべきところも求めきれずにいた差違、一人の出家が出てきて、このあたりに「接待所」があるから私についてこいと案内したので、山伏は大井に喜んでついていったと記されている(巻二十「結城入道堕地獄事」)『太平記』にはまた、「熊野参詣之山伏共之道ニ迷テ出タル由ヲ申ケレバ、在家之者共憐ヲ垂テ粟ノ飯橡ノ粥ナムト云物ヲ取出シテ其飢ヲ相助ク」(西源院本巻五「大塔宮十津川入事」)ともあり、山伏に対して在家のものが粥を施したさまも語られている。『多聞院日記』永禄十一年正月二十日の条のなかに、「或時、山伏客僧に宿をかしける時、礼におしゑると也、魔法なるべし」と述べている。
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山々を巡り、行に行を重ねた結果は得られたのであろうか。人々の欲求は多様だ。胃腸病・眼病・神経症・月経痛などの数々の病気、火災除け、営利・栄達・富貴の希求、衣の新調、家屋の新築、戦争、人間関係の確執、盗賊よけ、その他ありとあらゆる庶民の希求に応えて、修験者は都から遠くは慣れた山里でこうした修法を知っており、実践できる貴重な存在だった。法師自身が、野山を駆け巡り、貴賤の人間社会を廻り巡り、人の欲望の処理の仕方、自然との付き合い方を知っていた。だから他人の病、欲求にも処方を与える事ができた。この点、神に憑かれた病気を克服した巫女と同様である。人の欲求を満たす振る舞いを次々に考え出し、実践していった。
霊界ツアーガイド
欲望渦巻く世間を渡る態の一つが、山伏による霊山参詣ツアーを行った。行者たちが実際に体を張って体験してきた霊の世界へと、一般人も連れて行こうというのが趣旨である。当時の貴族社会は権力の座につくためにも貴族同士で呪いを懸ける呪法を掛け合うという末恐ろしい末法の世界であったから、源信の『往生要集』で語られる極楽浄土やら地獄の語りに耳を傾け、極楽往生を願い熊野詣を望んだのである。院政時代に中御門宗忠(なかみかどむねただ)は、その日記『中右記』に、熊野に詣でたとき、自分は久しく熊野に行こう行こうとしていたけれども、ここに至ってついに参詣の大望をとげ、本殿の前で落涙押えがたいものがあると感激しながら、阿弥陀如来に接し得たしあわせを無上に喜んでいる。貴族の信者たちが山詣するときの護持者であり嚮導者である験者は、御嶽詣が盛んであった平安中期には、まだ先達といわれていなかったようであるが、熊野詣の関係の記録を見ると、必ずといってよいほどに先達の称号が見える。彼は旅立つ前の精進の際にも経を読む導師としてつとめ、あるいは神に御幣を奉るとか、祓をするとか、魔除の作法を営むとかいうこともしているし、旅程の途次、なにかと信仰上の疑問を出されれば、貴族のためにこれを解説するということも行っていた。室町時代に、山間、山麓に定着した山伏達は、それぞれの地域の権力に依存しながら、檀家から十分な収益をあげることを旨とするようになった。檀家を訪れる場合、峰入りの直後であることが効果をいっそう示すと感じられていたので、檀那の代行者として峰入りにつとめるという考え方であった。ことに護摩木を托されて大峰に登り、山上において大きな護摩を焚き、柴燈(採灯)を修法することが、師檀関係を尤も密に盛り上げる事であった。『多聞院日記』の天正十七年八月二十七日の条には、明後二十九日までに聖護院殿が峰入りするので、関白殿からは祈禱のために峰において採灯護摩をなすよう談じられ、金子二十枚をやることにきまったと記されている。サエは遮る、境いを意味したが、境いの地にあって大きな火を宅、いわゆるサイト焼きといわれる小正月の左義長のような行事を、密教の寺院内で行う護摩壇の護摩木と結びつけて、山伏たちが独特な野外行事として仕上げて行ったのである。民俗としては道祖新まつりでもあったサイト焼きが、修験道に取り入れられた、重要な山伏行事と化したのわけである。こうして煩悩を焼きつくし、仏陀の境地に入るための真言をとなえつつ山で焚いたあとの護摩の灰を檀那に配ることも、檀那たちを喜ばせたことである。
里神楽の演出
一方で、山伏は村々の年中行事に関わっていく。個々の家の依頼に応じて祈禱をつとめに出かけるだけでなしに、巳待ちなどの夜待・日待の類いや、講が村人どうしのグループで催された場合にも、招かれて列座に入る。この地方では、庚申講・三山講・山の神講などとよばれていた。そのさい、その寄合の信仰的意義に応じて、関連する祈禱や呪法を行う。異形の民であり、常民ではない彼等の手によってでてなければ、祈禱も呪術も効果がないものとされたのだろう。正月の春は祈祷からはじまって家祈祷・虫除け・風まつり・雨乞い・晴天祈願など行事と数々の祈願、安産祈願、幼児を本尊の子にして加護をねがう取子とりご・成人式・厄年はらい・葬式と人の一生に関わる数々の儀礼も行ったとおもわれる。災厄を祓うために陰陽道的な卜占や加持祈祷、調伏や憑き物落としの手法、符呪や呪いの類を行った。例えばネブタ流し、虫送りの類いである。安永二年(一七七三)から五年にかけて、時疫流行につき、大行院に疫病退散の祈禱を命じた。『平山日記』それによれば、「右に付古来先例有之由にて山伏頭大行院え御物入の御祈禱被仰付人形を作り御国中山伏の長老なる者を集メ一七日の祈禱行法甚新にして皆耳目を驚し候、六月十四日まて右祈禱満シ同十五日大行院は乗物にて山伏数百人附添青盛(森)へ行き同所の海江送り候処、云々」東北地方に多く伝わっているねぶた流しについて、『神と仏の間』で和歌森太郎は「これを大きな行列で、宗教的な修法とまじえてととのえたのが、修験者たちだったと考えられる。」と書いている。医術も担当していた巫女がいなくなった後、村には医者がいなかったのかもしれない。
山法師は年の節目に行われるマツリにも関与した。現在では神楽と呼ばれ、社寺に帰属させられた山伏が演出した神と人の演劇である。シシは法師の影を負っている。法師の神楽が成立した時代は、明らかになっていないが、原型は南北朝時代に形成されたものと考えられています。早池峰神楽に着目してみると、岳の早池峰神社に文禄四年(一五九五年)の記録がある獅子頭が残されており、大償の別当へ伝えられたという神楽伝授書の控えの巻物には、長亨二年(一四八八年)の銘があることから、この時代には、すでに神楽が伝承されていたことがわかる。山伏神楽の特徴としては、獅子頭自体に神の力が載り、堂々と現れるものと考え、権現様と呼び、奉じる。この獅子の信仰は「ドングリ時代」から住んで居た山の精霊に山伏たちが「獅子」という名前と姿を与えて人がそれを模して舞っているのである。獅子舞やそれに付随する多種多様な舞凡てを山伏が創作したのではないだろうが、山伏も延年の舞をする。鎌倉時代の記録には、たとえば『明月記』や『沙石集』に、彼等が大酒を喰らって乱舞したというようなことが見える。だとすれば、舞踊のような小ぎれいで複雑な舞ではなかったはずで、やはり明治時代を経る時に風流が混じったのだと思われる。元のシシは、正気を失ったように舞い狂っていたに違いないのだ。ただ、単に舞い狂う訳ではなかった。山伏の振る舞いは陰陽後五行思想抜きで考えられない。これが法師陰陽師たる修験者の長きに渡る歴史的な管掌のあとを物語るものである。舞の基本は五方(東西南北中央)、順逆順(天地人左右左)、反閇、契印、九字壺きり(角きり)、切り払い、射払い等で、要するに舞人が舞台を対角線に歩いは十時系に動き回るのは、陰陽道における北極星祭・太一神祭・九曜祭、五星祭、七十二星祭などからきたものであろうと西角井は論じている。現在各地に残る山伏神楽には、日本古来の神道的な部分より陰陽道的色彩の方が強く感じられるものがきわめて多いらしい。これは法師陰陽師であった修験者の長きに渡る活動の結果である。異形奇怪であり民衆の祭の司祭者、儀式の執行者であった山伏は天下太平の時代になると徹底的に管理されることになる。
江戸時代中期以降になると、本山派・当山派・羽黒・英彦山などに所属した修験者は地域社会に定住して、加持祈祷、配札、地域の霊山や身近な巡礼の先達(案内)、氏神や小祀の祭祀などに従事した。(略)アカヌケていき、地域社会の人々の宗教生活に密着した活動をする修験者は里修験と呼ばれている。彼等は村落のみならず江戸や大阪などの都市に、町屋を借りて、託宣や祈禱をしたり、町々を徘徊した。之に対して、幕府では天保一三年(一八四二)年に、出家、社人、山伏などが町家に居を定めて新規に神事や仏事を行うことを禁止している。江戸期には、宗教上の俗信を言い立てて、合力を乞うたものもらいの徒がすこぶる多かったらしい。今乏しい記憶から想い出す者を上げると、伊勢の鍬神鹿島の事触れ、御日和御祈祷、金比羅行人(こんぴらぎょうにん)、半田稲荷行人、高野聖、六十六部、西国巡礼、庚申代参、粟島勧進などを数える事が出来る。(略)そして、これらの俗信を売り物としたものもらいは、大体において三つの流れが在る。第一は神社に属する者として犬神人、神事舞太夫、およびその支配の御影売りなど。第二は寺院に属するものとして唱門師、鉦打、高野聖、鉢叩など。第三は祝人(ほぎひとに属するものとして千秋万歳、猿曳、獅子舞などを挙げる事が出来る。江戸期のそれらは要するにこれらの者が時勢に由って変化し、分化したに他ならぬのである。(中山太郎『タブーに挑む民俗学』)
山伏たちの遺した獅子舞は現在でも全国津々浦々東西を駆け巡って息づいているが、明治五年(一八七二年)明治新政府の太政官布達によって修験道は廃止を命ぜられて遂にはいなくなった。明治政府が神仏混淆を忌避し、また修験道の持つ呪術性を迷信奇習のたぐいと判断した為である。そこで山伏は天台・真言の僧侶になるか、神職になるかの富者択一を迫られ、そうでなければ還俗することをすすめられた。
天狗になった山伏
一二九四年制作の『天狗草紙』は七つの巻物で構成されており、興福寺巻、東大寺巻、延暦寺巻、園城寺巻、東寺・醍醐・高野巻、伝三井寺巻、というようになっている。この序章というべき興福寺巻の詞章にはこの巻物の描く天狗達の姿が概要されている。則ち、インド・中国。日本の三国仏法の伝来を語り、日本では国家が仏法を擁護した結果、僧侶達に我執が深まった。こうした偏執の類いは天魔外道の伴侶であり、七つのグループがある。作者曰く、天狗の七種類とは、興福・東大・延暦・園城・東寺の五寺と山伏・遁世の僧徒であり、「これ皆我執に住し驕慢をいだき名聞をさきとす。利養を事をするがゆえにつねに魔界に堕す」という。例えば興福寺の僧達の主張はこうかかれる「この寺は代々藤原氏の氏寺として栄え、此処に住む走破国家の重要な法会維摩大会を営む。」こうした寺の優劣により僧は執念深く驕慢甚だしく天狗になるという。こうして見ると、大衆に悪態をつかれていた寺院の高僧こそが、大いなる悪態の持ち主であった。
天狗達の行動は、天狗の好む物とともに象徴的に書かれてきた。『天狗草子』では「はあたかみ(激しい雷)・いなずま・にわか焼亡・辻風・やぶれたる御願寺・人はなれのふるどう(古堂)」とかかれ、南北朝時代に書かれた『秋夜長物語』の下巻第一段にも「焼亡・辻風・小喧嘩・論ノ相撲二事出シ・白川ホコノ空印地・山門南都ノ御輿振・五山ノ僧ノ門徒立」がみえる。印地は山門の僧たちの抵抗の武器でもあったようで、藤原道長が騎乗で比叡山に登った時、それを非難する僧徒から印地を打たれている。(『小右記』寛弘九年〈一〇一二〉五月二十四日条)こうしてみると、天狗は衆徒の振る舞いである。寛政十一年正月の序を有する『聖城怪談録』は、加賀百万石の支藩である大聖寺藩主前だ利考が宿衛の諸士を集めて物語らせた妖怪団を悠々翁に偏執せしめたものであるが、其の一節に天狗つぶてがある。すなわち
何方ともなく夜中礫を打つ事あ り、俗に是を天狗礫といふ、敷地神主大江相模守、或夜咄に出で、夜半ばかりに帰り、藤の木へ行か々りしに、上の山より礫を打つ事しきり也、石、足もとへ落るゆゑ行止り、とくと観れば石一つもなし、川へ落つるを観るに、水波はうちけれども石はなしといへり、瓜生伝母も、或夜外馬場の辺にて足もとへ礫を打たれ、大きに難儀せしと也云々。
時代を経るにつれ奇怪な現象の元凶であった目に見えぬ魑魅魍魎は天狗や河童、鬼などの姿で人々の脳裏をかすむ。怪異の民俗学『天狗と山姥』には原田正俊『「天狗草紙」を読む 天狗跳梁の時代』として次のように書かれている。
まず、中国では一種の流れ星で、地に下って狗に類するとされており(『史記』二十七天官書第五)、地上では獣の一種、狸のようなものともみなされている(『山海経』)日本でも古くは『日本書紀』で僧(日文)が音を立てて流れる星を天狗だといっている(舒名天皇九年〈六三九〉春二月)。平安時代、『宇津保物語』(俊蔭)では山中で琴の調べを天狗の仕業とし、『源氏物語』の夢浮橋の巻では浮き舟を欺いて連れ去ったのは天狗・木霊のようなものであるとされている。この時期に見える天狗は、その増ははっきりしないものの、山中での怪異な現象、また人を惑わす存在である。中世になっても天狗のこうした性格をみる事ができ、平清盛が福原遷都を行った後、さまざまな「物怪之沙汰」が起こり、「しかるべき大木もなかりけるに、或夜おほ木(大木)のたふる〃(倒れる)音して、人ならば二三十人が声して、どと(どっと)わらふことありけり。是はいかさまにも天狗の所為という沙汰にて」(『平家物語』巻五)と言った出来事が記されている。
つまり、天狗という言葉は、山に棲む魑魅魍魎が人格化されて新たにつけられた名前である。その姿の異形さから、数々の物語に顔を出すことになったようだ。天狗が登場する物語のうち、天狗ばやしの伝説は一番多い。石川郡二塚村字野(現金沢市神野町)の須天八幡神社境内の天狗松は、夜三更、寂として声なきとき笛や太鼓野音の聞こえることがしばしばあったという(郡史)同郡白峰村大道谷では、天狗の住む断崖に太鼓野音が時折するところから太鼓壁とよばれる。(略)また 『江沼郡雑記』には「曾字村領に居たれば、高山の半腹に魚鷹巌とて奇岩見ゆ、是曾字村より二里半許奥セメミ谷にて、東ヶ谷にある大岩なり、天狗居て、此処には夜半に能囃子を聞きたる者もあ」るという。歌舞を行う芸人が延年などの行事に加わったために生まれた逸話であろう。それにしても、姿無くして音がするというのは不思議である。
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天狗は仙人でもあり、武術にも長けていた。能美郡川北町の草深の天狗松は、草深の甚助の墓じるしの松として知られて居た。甚助が、かつて天狗に捉えられて行方しれず、その間、剣術の奥義をきわめて帰り、深甚龍の祖となったと伝えられている。(明治四十一年に死んだ森田平次郡誌『加賀志徴』巻七等)天狗が子どもを攫うという山伏めいた物語も語られる。能美郡川北町上先出の伝承に、サクと呼ばれた少年が行方不明になった。このとき親が「鯖食うたサク」「鯖食うたサク」と二晩唱えてまわったところ、甚兵衛どんの倉に寝ていたのを発見、尋ねてみると、天狗にとらわれて欅(けやき)の梢に載せられたのをおろして貰ったのだという。明治末年の実話だとおもわれる。山伏の仕業か、天狗の仕業か、それとも天狗に漬かれたサク少年自身の仕業か、見分けはつかない。
天狗は山に住んでいるから、いろいろな知識を持っていた。薬をくれるとか、相撲をとるとか、河童と変わらない物語も存在するが、やはり河童も天狗も、人が「神懸かり」的出来事を説明するための、奇しくも言葉にならざるものを言葉にせざるを得ない状況で口から語られたのだろう。石川郡の松任には名物アンコロ餅の由来にまつわる天狗伝説がある。出城村の成(現松任市成町)の円八なるもの、一夜天狗にさらわれたが数年後に飄然と帰り、天狗の秘伝だというアンコロ餅を製して繁昌、子孫相伝えて現在に及ぶというのである。
説話、物語、昔話を現代の私たちが読むと、なんとも不思議な因果関係が働いているように思えるが、妖怪のシワザによって理解されるのが当時の人々である。現代ではそれが科学とか心霊現象とかいう名前に変わっただけで、不思議な現象を目の当たりにしたときのヒト簿心は変わらない。
貞享年間、金沢の大桑屋太郎兵衛なるものが河北郡谷内村の奥へ落葉かきに入ったところ、天候か急変して雷鳴電光しきりに起こって闇黒と化し、辛うじて峰にたどりついたところ、折から出会った数名の山人が「抑此谷は天狗谷とて、昔より所の者といへども入ることは能はず、此谷に入る者生きて帰ることを聞かず、狗賓の住家にして、木の葉一枚も取らば必ず災ありと云ふ」、と注意したという話が天明三年に死んだ堀麦水の『三州奇談』巻五に見える。ここでは人の俗社会と山の神聖な領域を越えた時の危険性を物語る説話に天狗がもぐりこんだのであろう。結論的に云えば、山神、山霊であり、その神霊官の原質をなす祖例であるところの天狗は、もともと形象のない霊魂であった。「もの」であった。あるいは「木魂」であり「すだま」であった。これに形象を与えたのは修験道儀礼や修験道芸能、あるいは是を描いた絵画であった。そして山神、山霊、それ居の働きを語る神話が天狗を語る唱導説話となり、やがて説話文学、御伽草子から民間説話へと下降し、その破片化が昔話を生んだ。(五来重「天狗と庶民信仰」)