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第三夜:祝・呪・咲
嘘でもおだてられたりお祝いされるとうれしいものだ。昔、励まされた記憶を思い出すと、頑張ってこの本を書き上げようという気にもなる。誰かと一緒に心から笑えば見知らぬ人でも親しくなれる。俳優は人々の心の柱になり、社会の柱でもあった。時には相手を戒め、崩し、縛るかもしれない。けれどもそれは俳優の心遣いというものであろう。心は使わなければ、どうも人間は人間らしくなりそうにない。だが心の御蔭で人は憎みもし、恨みもし、怒りもし、畏れもしてきた。笑えるときは笑っておいた方がいい。
俳優は舞台の上で笑うかもしれないが、俳優の実生活は全く笑えそうにない。俳優の歴史は政治の歴史であるし、俳優の歴史は経済の歴史であるということが、私の実感だ。あるものは時代に合わず零落した。あるものは金持ちに養われ栄え、衰えた。あるものは、恐らく道で生まれ道で死んだ。それでも俳優という職業は絶えなかった。俳優に生まれる運命というものが、あるのだろうか。
俳優は、人々の日常に欠けている劇的なものをつくり出す。彼らの人生がそれ自体、観客にとっては劇的だっただろう。いや、劇性は、日常に持ち込んではならないものだったからこそ、彼らは迎え入れられた。絶望には希望を、不安には期待を。失われた物語を、見えなくなった心の影を表舞台に出す。聖徳太子や蘇我馬子に編纂されたとされる『天皇記』・『国記』といった日本の歴史書も、失われた。失われたものを埋めあわせるかのように、『古事記』『日本書紀』が書かれた。人は演じざるを得ない。ないものねだりをしていられない。人間は、自分が演じていることも忘れて、今日も日常という舞台に上がる。
第一話 亡命する俳優
続日本紀に「山沢ニ亡命シ云々」という記述がある。辞書にあたれば分かるように、亡命の「命」は名籍のことで、戸籍を脱して本貫を去るのが亡命である。亡命の語義からすれば、故郷を逃散した浮浪者も亡命の民といえる。山上憶良の歌は国司としての「惑へる情を反さしむる歌一首、また序」を『万葉集』に載せられた。
或る人、父母敬はずして、侍養を忘れ、妻子を顧みざること脱履よりも軽し。自ら異俗先生と称る。意気青雲の上に揚がると雖も、身体は猶塵俗の中に在り。未だ修行得道の聖を験らず。蓋し是山沢に亡命する民なり。所以三綱を指示して、更に五教を開く。遣るに歌を以て、其の惑ひを反さしむ。(巻五・八〇〇)
信条や信仰に促されて亡命の道を選ぶものが奈良朝にいち早く出てきていたことを、はっきりとこの歌は示している。ひろくは、行基につき従った優婆塞・優婆夷らも亡命の民であったはずだ。やや時代は降るが空也につき「沙門空也ハ、父母ヲ言ハズ、亡命シテ世ニアリ」(『日本往生極楽記』)といわれているのも忘れがたい。『類聚三代格』(五、僧尼禁忌事)には、「私度僧ハ深ク仏法ニ乖キ、更ニ亡命ヲ作ス」とも見える。 戸籍は課税の台帳で、国家が人民を地域的に編成し支配するのに不可欠な制度である。日本最初の全国的な戸籍は庚牛年籍とよばれるもので、天智紀九年(六七〇)に「戸籍ヲ造リ、盗賊ト浮浪(ウカレビト)トヲ断ツ」とあるのがそれにあたる。そういう戸籍を脱し本貫を去るのがすなわち亡命である。それは反国家の行為であった。
『古代文学講座十一』で 守屋俊彦は次のように述べている。
彼等ははもちろん定住しようにも居所はなく、門に立って物乞いをしつつ見過ぎをするわけで、浮浪・逃亡を厳禁する当時の政策に正面から觝触する非合法的な私度僧であった。彼らが収奪厳しい土地政策と得度の門戸制度いう宗教政策の相互作用によって発生したことは、歴史学上の常識である。立場の弱い人々が逃走しても、結局は盗賊か乞食になるしかない。多くのものは、寺で耳にした陀羅尼だらにを口ずさみながら、物乞いをして流浪したことだろう。『続日本書紀』にいう「法律に背き違い恣に其の情に任せ髪を剪鬢を剃りて、たやすく道服を著す」「経を負ひ鉢を捧げて街区がいくの間に乞食し、或いは偽りて邪説を誦して村鄙の中に寄落し衆宿を常と為し、妖訛群を成す」と指弾する人物はまさしく亡命した常民のことであった。
縄文時代を離れ、大化の改新によって過去の風俗と離れざるを得なくなった人たちが直面したのは、水田という新しい生産システムを維持管理して稲を育て税を収めることだった。品種改良、化学肥料、天気予報のない時代に人々はどれほどの苦労をしたのか。当時の稲作の苦労を想像させる手長足長伝説が福島県大沼郡会津高田町に伝わる。
昔、会津に磐梯山と明神ヶ岳に両足をふまえて立つ「足長」と猪苗代湖の水をすくって会津にばらまくことのできたという「手長」の夫婦が住んでいた。この化物は、農民が一生懸命働いて作った稲や野菜をめちゃくちゃにするために、雲を集め、会津全体を暗黒の世界にしてしまった。足長・手長は天地に轟く声、稲妻を出す目を持っているので、誰も退治する事は出来ない。農民達は手長・足長によってもたらされた災厄におびえ、生きた心地もなく、ただ死を待つばかりであった。するとそこへぼろぼろの着物を着た旅僧がやってきて、村人の難儀を救うために磐梯山頂に登っていった。山頂で旅僧は、足長・手長に対して奇妙な問答によってわなを仕かけ、小さい壷の中に、まんまと二人を誘い込んでしまった。僧は足長・手長を壷の中に押し込むと法衣で栓をし、それを磐梯山の頂上に埋め、その上に大石をのせ呪文を唱え下山した。それ以後会津は明るい豊かな里となったという。村人たちは、旅僧の徳を讃える一方で埋められた足長・手長の供養をしてこれを神に祀ったという。今でも雪が降り出すころになると、山頂に行き稲穂を供えてくるといわれている。(野村純一編『日本伝説体系』第三巻)
この話は、会津盆地の開発に伴う伝説である。手長・足長はまだ会津が蘆のはえた谷地の常態であったころの土地神であり、天変地異を起こし、自然環境を支配する存在であった。そこで土地を開発し始めた農民達との間の対立は厳しいものがあり、農民は呪術師である旅僧に呪ないを依頼したわけである。対して昔の話でもない、昔話でもない記録ものこされている。飢饉といえば簡単であるが、食糧生産が安定していなかった時代を窺い知れる。
江戸時代の天明年間の大凶作は多数の餓死者を出した。当時は池田村も老谷村も引免を許されている。東北、北関東では農民の現象で田畑の荒廃が深刻と也、真宗の僧侶を通じての秘密の関東移民が会った。北陸の人口は反対に三倍にも増大して零細農家の困窮はひどかった。「関東へゆけば、いくらでも放棄田畑がある。働きさえすれば一町歩や二町歩の高持百姓になれる」という関東の情報が大きな魅力であった。加賀藩では百姓の無断離村を禁じていたが、加賀、越中から二万近いと思われる農民が江戸末期に東北、北関東へこっそりと逃亡した。久目地区での池田村を例にしてみると、文政十年から嘉永七年までの二十八年間で離村者数は大人二十六人、子供五人が記録で判明している。幕末から明治初期になると、信州、上州への移住と出稼ぎが相次ぎ、一方では江戸、京都への進出が会った。生きていくために他国へ鏡磨行商や出稼ぎしたのは若者の役目であった。(『久目村史』離村と移民 六二頁)
平常の年でも農民の生活は惨めであったが、その上、非常の災害が起これば、農民の窮状、惨状は筆舌に尽くし難い物があった。災害の中で狭窄・飢饉が尤も悲惨であった。鎖国のため外国から食糧輸入が出来ぬので、大飢饉の三条は目も当てられなかった。江戸時代の大飢饉というのは、享保十七年(一七三二)、天明三〜七年(一七八三〜八七)、天保四〜七年(一八三三〜三六)である。地元には享保・天明の飢饉の史料はないが、天保飢饉に着いては新保憶念寺の過去帳に次のような記録が付記してある。(『久目村史』)
天保七、八年両年は諸国大凶年にして、諸方とも餓死者多し。当村にても疫病にて死ぬる人と、餓死者とを合わせて四十四、五人となる。氷見町に米売る者なし。米の値段一升二百二十八文也。前代未聞の大飢饉なり。又同年は諸国ともに大悪作にて、稲に虫付、七月下旬より稲ことごとく俺、その色は真黒し。然るに此辺は中村より池田までの間は少々の虫付にて、御受場所となる和泉より下は一向に哀れなる事也。小豆一升二百四十文。大豆同百六十文。コヌカ同二十四文、稗同八十五文、米同二百三十文する事は五十日ばかり続くなり。尤も食物はフレカスを直ぐに食ふ。恰(あたか)も牛馬に似たり。かかる事を常に思って物を費すべからず。後代の為、書置くものなり。」四条顕著な大飢饉は大抵冷害によっておこる。干ばつによる被害は局部的な物で、水の豊富な所は大豊作となる。しかるに冷害はどこもかしこも皆やられてしまうのである。特に東北地方の冷害に夜飢饉は激甚であった。飢饉で栄養不良になると、弱身につけこんで疫病が流行しばたばたと人が死んでいった。飢饉年には特に疫病がひどく流行った。疫病・伝染病は飢饉年でなくても突然流行した。比美町の祇園祭は、元禄のころ大流行した疫病を防除するために、京都から擬音紙を勧請して始められたと伝承するが、古い時代のことはよく分からない。幕末には、安政二年と同五年の此れ等、安政六年と文久二年の天然痘、明治十二年の此れ等は、越中全土に及び、氷見地方も大きな被害を受けた。
中世以前の稲作はもっと厳しかったろう。困難な状況に直面した民衆にかけつけたヒーローが、大陸から土木技術を学んでいる僧侶たちだ。「行基大徳、難波の江を堀り開か令めて船津を造り、法を説き人を化す。道俗貴賤、集会りて法を聞く」『日本霊異記』(中巻・三〇)。例えば和泉国泉郡の大領某は妻子を離れて官位を捨て行基につき随い、「大徳と倶に死に、必ず当に同しく西方に往生すべし」(中巻・二)と誓っている。この行基も荒れ狂う神を鎮める力を持った聖(日知り)つまり術者であった。いかにしても浮浪人や逃亡者は続発した。彼等の多くが戸内で弱い立場にあり、租税貢納の負担をもろにかぶり、生活が完全に破壊されつつあったからである。」(『日本の説話二 古代』 原田行造) こうした社会的な身分の低い人たちを救うために朝廷もなにがしかの仏の心を見せた。平城京には皇后官職に付設という形で施薬院・悲田院が置かれていた(『光明皇后崩伝』)律令以来、平安京には東悲田院と西悲田院があって、孤児・病者の収養にあたった。こうした世にあって、行基は人々の信仰心をつかんだ。
行 基 と人形
行基(六六八—七四九)は諸国を歩き回る坊サマである。菩薩は一切の衆生の救済を目指すべきなのに、「何を以てのゆえに林澤に閑坐し、山間に静黙し、衆生を棄捨するや」と問い、寺を出た。山林における修行は、本来的に自己位一新の解脱をもってよしとする自利的小乗的性格を持っているのだそうだ。行基が慶雲元年に、、山林での苦修練行の生活・元興寺での三蔵学習の生活に終止符を売って和泉の平野部に降りてきたことは、「山林に拱黙するはすなわちこれ一途の独善なり」(『続高僧伝歓十三功迫伝』)とひと言で完結する。行基の事業は架橋、池の築造と井戸の建設、港の設営、堀の開削、、布施屋の設置である。布施屋は道路沿いに作られた、往来する人々をを宿泊・接待する施設である。行基の布教活動に随い、交通施設、灌漑施設などの土木事業や、貧窮者・病者などを救済活動を行った人々を、最近では総称して「行基集団」と呼んでいる。行基集団を支えた氏族の中でも、平城京の佐紀地域の土師氏は古くからこの地域の古墳築造をになってきたし俗であり、土木工事の技術者を配下に多く従えていたと考えられる。「集団」とするのは、行基に随った人々の人数の大阪、各地に置かれた多くの総員を拠点とした活動のあり方、そして彼らの結束の強さを意識したものであろう。鞭をもって使役するのではなく、汗を流して懸命に働く集団をみて、理解に苦しんだ人が先の「人形」の説話をつくったのかもしれない。実際に『続日本紀』にみえる行基伝の記事に「道俗、化を慕いて追従するもの、やもすれば千をもって数う」と記されている。行基が自らの集団お腹に取り込んで行った日農耕民として、瓦や土器を焼く窯業技術者や木工者の他に、漁撈民もあったのではないかといわれる。このような行基の土木行事や社会行事は、仏教に言う福田であることが指摘されている。福田は、布施供養する人にとって菩提の功徳を得る因となるところのものであっった。聖徳太子創建の四天王寺に、敬田(尊敬すべき仏法僧)院・悲田院(悲憫すべき貧窮孤独者)・施薬院・療病院の四院が設けられ、光明皇后もまた東大寺に設置した悲田院・施薬院も福田だった。行基の事業は大乗菩薩道の利他行にほかならない。行気集団では、交通、灌漑施設設備のための土木事業・老人・孤児や病人などの急剤施設の維持管理という、それぞれ実践的な活動を行うことが、読経、浄行と同党の価値がある修行と評価し、これを国家に得度条件の修行として認めさせていた。しかし『僧尼令』の第二条には「凡そ僧尼、吉凶を卜相し、及び小道、巫術して病を療せらば、皆還俗。其れ仏法に依りて、呪を持して疾を救はむは、禁ずる限りにあらず。」養老六年(七二二年)には行基は政府から禁圧を受けるのであるが、それは行基と彼に従う集団が僧尼令に違反して寺院の外に出て托鉢行為をしたからであった。だが結局は、東大寺の大仏建立のための勧進に成功し、己を貫いた行基であった。
行基だけでなく、橋を架け、修造するのは、古くから、必ずといってよいほど、聖の勧進によって行われた。例えば、保塩五年(一一三九)、京の清水橋が完成しているが、「洛中貴賤知識造之」といわれているように、これは勧進による架橋であり、祇園四条橋も、永治二年(一一四二)、「為勧進聖沙汰、直之」と伝えられている。(『中世の権力と民衆』中ノ堂一信)津泊の修築もその例は多い、さきにもふれたように、筑前の鐘ヶ崎に島を築いて船瀬とした往お弥陀物は、貞永元年(一二三二)、鎌倉の和賀江に島を築き、港をつくった勧進上人であった。忍性はそのあとをうけついで、この島の修造を行っているが、一方で魚住泊を修築したのは前述した通りであり、加古川の加工に福泊を築造した勧進上人行円についても、先述した。寺院やお堂を抜け出て行動によって民衆の心を摑んだ人たちが居ます。当時このような放浪するお坊さんは乞食と変わらぬ格好で物乞いをしながら諸国を放浪していたらしく、遊行を行っていた聖ということで遊行聖と呼ばれる。そのうちで中世で活躍した二人がいる。彼等は労働をすることで、地元の人たちの心をつかみ、信仰圏を広めて行った、といえる。
そしてかたちだけの社会制度にもれたほとんどの人たちは自分たちの手で生きるべく生業を探した。恒産のない人たちが増え続ける世の中で新しい法律が生まれた。延喜十四年三善清行の上った「意見封事」十二個条のうちに、
一 諸国の僧徒の濫悪、及び宿衛舎人の凶暴を禁ぜんと請ふ事。又諸国の百姓課役を逃れ、租調を逋るゝ者、私に自ら髪を落し、猥りに法服を著く。此の如きの輩年を積んで漸く多く、天下の人民三分の二は皆是れ禿首の者なり。此れ皆家に妻子を蓄へ、口に腥を啖ふ、形は沙門に似て、心は屠児の如し。況や其の尤も甚しきものは、聚つて群盗を為し、竊かに銭貨を鋳る。天刑を畏れず、仏律を顧みず。若し国司法に依て勘糺すれば、則ち霧合雲集し、競うて暴逆を為す。前年安芸守藤原時善を攻囲し、紀伊守橘公廉を劫糺する者、皆是れ濫悪の僧其の魁師たるなり。
天下にミチアフレタ沙門、乞食、異形の人、聖、放浪人は『日本霊異記』上二九や中十五にでてくる乞食が典型例である。中世において「非人」というのは、世の常の人ではない、といった意味の言葉であって、具体的には、出家した沙門からの芸能の徒、遊行の乞食まで、幅広い人々を対象に含んでいた。少なくとも中性にあって、彼らは世捨て人の群れであったと言って良い。その中には、自らの意思によって、進んで世を捨てたものもあろうし、あるいは社会的な強制によって、世から捨てられたも同然の人々もいたことは、十分に承知しておかねばならない。
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若尾五雄「河童の荒魂」で紹介された行基のでてくる説話が次である。
遠江国引久留女木村の話「古老曰く、昔行基菩薩、諸国を行化して古郷に変える。老婆に問うて曰う。汝応に衣を洗うべきや。答えて曰う。今まさに田の苗を植えんとす、故に衣を洗うの暇無しと。菩薩いえらく、我将に汝に代わりて田の苗を植えんと、藁の偶人を造って田毎に之を置く。偶人忽ちに田を植え去って水口より川に流れ、反転して此処に止まる。故に久留女木と謂ふなりと」(遠江国風土記)
柳田がこれらは空想のようだが、そうでもないとしたのは、同じ由来談が、ミヅチの古名と共に既に年久しくアイヌの間にも知られているからであると若尾五雄が「河童の荒魂」で述べている。彼は続けて言うには、
次は春日神社造営の話の方に関係がある話だが、もう一つの行基の話の方に似た話を自分は知っている。それは、自分の住む泉州岸和田市にある久米田池を掘った時の話である。「行基は久米田池を掘るにあたって、摂津の昆陽池から持って来た人形に、息をふっかけるとたちまち人間に鳴って、池を造ることに大働きをした。其の人形は土で作ってあった、と云われている。人形だから、肋骨が一本足りないと云われている。」
いずれも土木工事である。例えば、水車を使ってた上に協力したとか、あるいは、結の方法を教えて、田植を早くすませたのではないか。といいながら、「これらの伝説をつぶさに読んでみると、人形は、どうやら、人のことらしい」といっている。当時は、奴隷、労働者という言葉もなく、自分たちの知っている知識を使って説明をしたのだろうか。労働者という言葉のない時代、人形のように働く姿をみた人々は計らずとも人間を「人形」と呼んだのか。そうでなければこの物語がファンタジーになり、どうして人々の口を以て今まで伝えられただろうか。私の見解では、現代でも日本舞踊の舞台の現場では、舞台の背景をつくる板を支えるつっかえ棒を「ニンギョウ」ということから、やはり現代人の感覚で古代人の語彙を理解するのは大変だということだ。肝心な事は、行基や番匠といった土木技術者が、ヒーローだったことである。
乞食と河童
河童は、わが国の代表的な妖怪として津々浦々に縁起伝承が残されているが、其のイメージは地域によって微妙に違っている。其の中で、河童の属性として、広く語られている者に、其の腕を引っ張るとぬけるということがある。それは、たいてい河童が元来は藁人形だったという伝承と一体のものになっている。この人形と河童の関係は、「大工を助けた藁人形の話」、すなわち、いわゆる「河童起源譚」の説話として語られていて、九州から東北地方まで全国に渡って広く伝えられ、わたしがこれまでに集成した類例だけでも、三十例ほどに達している。これらの伝承では、左甚五郎や飛騨の工匠、武田の番匠といった神格化された大工の棟梁が主人公として登場し、有名な社寺や宮殿などを建設するのであるが、人手が足りないとか、工期が足りないとかいう困難に遭遇して、藁人形や鉋屑などの人形を作り、これに生きを吹きかけて命を与え使役し、無事に建物を完成させることができる。ところが仕事が終わった後、人形達を河に捨てたのが河童に鳴って人の尻をとらえるようになったという説話である。折口も「河童の話」の中に述べている壱岐国の話がある。番匠とあまんしゃぐめが約束した。入り江を横切って、対岸へ橋を架けるのに、若し一番鶏の鳴くまでにできたら、島人を皆喰うてもよい、と言うのである。三千体の藁人形をつくって、此れに呪法をかけて、人として、工事にかかった。鶏も鳴かぬ中に、出来上がりそうになったのをみた番匠は、鶏のときをつくる真似を、陰に居てした。あまんしゃぐめは、工事を泊めて「掻曲放擲け」と叫んだ。かつて若尾五雄氏は、河童のイメージの背景には、河原を活動基盤と下土木技術者のイメージがあったのではないかと指摘し、さらに、先の「河童起源譚」で河童が人形に由来すると言われるのは、土木関係の道具や彼等そのものを「人形」と観たためではないかということを示された(「河童の荒魂」『近畿民族』)極めつけは盛田嘉徳氏の『中世賤民と雑芸能の研究』で紹介された「小林新助芝居公事摑」という記録の中の次の一節がある。
阿部清明人形を作、終に一条戻橋河原に捨候処、変化して人間と契、子を産リ、又一説に、飛騨の工・竹田の番匠、名入り御造営之時、人形を作、働しむ、其時官女此人形に契、子を生り、御造営終、川原に右人形を捨候に、牛馬をはぎ喰ひ専楽とす、あはら骨一枚して、ひさの骨なし、非人とは是也
つまり、陰陽師として知られる阿部(安倍)清明が人形を作り、それを一条戻橋河原に捨てたところ、変化して人間と契って子を産んだという。非人を「人間ではないもの」として常民と差別するための物語が、当時から語られていたのである。また、一説には飛騨の工と竹田の番匠が、名入りを造営するときに、人形をつくって働かせた。其の時、官女がこの人形とちぎって子を産んだ。造営が終わって後、河原に其の人形を捨てたところ、牛馬をはぎ食うことを専業とするようになる。彼らは、あばら骨一枚にして(月漆)の骨がないという。陰陽師も風水を占い、土木に関わる。番匠はその通り、大工である。当時、こうした土木工事に使役されたのは非人である河原者だった。どうやら河童は、被差別民であり、下層民であり、乞食の河原者であるようだ。河原者を河童として語った人の心には、河原者に体する偏見、優越感、そして申し訳なさ、恐怖の心を河童に託して後世に伝えたのかもしれない。である。(『怪異の民俗学3 河童』の「建築儀礼と人形」神野善治)
若尾五雄が『怪異の民俗学 河童』で述べるには、天竜川流域にある三州市原の田辺家の話として次の話がある。
田原家では、屋敷のすぐ下が青淵になって居て、いつも川童が出て来て農作の手伝いをしたり、客来の折には必ず(鯇魚を二尾ずつ、川から捕って来て台所口に置いてくれたりした。此川童は平日は同家の竃の上に住まって居たと謂い、又は釜の蓋の上であったとも云うが、兎に角姿は人間の通りで、円座に座って御器で御飯を食ったそうで、其御器は欠けては居るが今も伝わり、円座も三十年前までは大事に保存してあった。
この事を同郡設楽街官だに居られる原田彦一先制にはがきを出してたずねてみたのであった。
お仰の三河国北設楽群と山村田辺家の出ん世鵜であります数年前までは河童の茶碗が保存されていたと云います(富山村熊谷伝記中にあり)之は河小僧です。川小僧は常に漁獲し之を常食として居た。五月農繁期には忙しいので猫の手でも手間を傭いたいときなので川小僧を雇い入れた事もあった筈、正人間並みには使用されず家内には入れなかった。依って炊事場で食物を与えた処から竃の蓋の上に座して居たことなど、この竃は馬の食料又は湯をわかす器である。川小僧の伝説の他にポンという漁獲して居る者が私らの子供の頃まで居りました。寝起は川辺の岩の穴などで住んだ。之を色々と変化させ伝説を生んだ者です。
ポンというのは三河では漁夫の意味だと東条氏の方言集にはある。河原は、こうした一定の百姓でない人々に開放されて居たものらしく、春日神宮の造営が終わった後に童達が川に話されたというのも、こうした一定の百姓の権利のないところへ住ませたという意味であろうし、川魚だけをたべているこれらの童が、人や家畜を害するとあるのは生活上当然あり得るべき事であっただろう。小野蘭山著『本草綱目啓蒙』の「水虎」の項でカッパの様子がかかれ、とともにカッパの地方名も上げている。それに依るt、ガワタロ・ガワタロウ・カワノトノ(九州)カワッパ(九州・越後・佐渡)ガワラ(越後・播州・讃州)カッパ(江戸・仙台)カワコ(雲州)カワコボシ(勢州山田)カワラコゾウ(勢州白子)カダロウ・グワタロウ(土佐)ガウゴ(備前)カウラワロウ(筑前)テガワラ(越中)エンコウ(周防・土佐・伊予)エンコ(予州松山)である。こうして見ると、やはり河童は人のように語られている気がする。
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源左大弁経頼の日記『左経記』(一〇一六年)に「河原人」という文字があり、皮革をあつかうことを生業としたと描かれている。一六〇三年に長野で出版された『日葡辞書』の「カワラ ノ モノ」の定義には「カワヤともいう。死んだけものの皮をはぎ、癩病人の取締りを任せられたもの」とある。死んだ獣の川を剥ぐ仕事をしていたというから、皮なめしのために流水と干場を河原に求めたのだろうか。元々、河原は普段は乾いているが、土にも恵まれず増水時には川が氾濫するため農地には適さない。河原という土地は安定して作物を作ることができなかったので、そこに住むものは税金(年貢)が免除された。この土地の上に仮居をつくり、法の圏外で生活を営んだ人々を河原者とよび、地理的にも象徴的にも日本の権威体系の枠外にあるアウトサイダーの存在だった。河原者は京都市内の河原に住む都市の乞食であった。今も尚、ホームレスと呼ばれる人が河原の橋の下に暮らしている。沖浦和光の『日本民衆文化の原郷 被差別部落の民俗と芸能』にはそんなアウトサイドのムラに住む方を取材した。広島県、島根県の間、中国山地の大河江川ごうのかわとなるあたりに。朝鮮半島から上手く海流に載ると、江川の河口にひらかれた港町、江津に漂着すると昔から言われていた。三次の二十二地区の被差別部落のうち落岩おちいわ。戦前の部落の生活状態は『三次市部落解放運動史』によれば次のようであった。
大正初年頃の部落での職業は、ほとんどが行商(ほうき、下駄、小魚等)、靴首里、川魚とり、馬車ひき、小車ひきなどであった。したがって経済状態はきわめて悪く、日稼の賃金は米二升位で、米を買うとタバコが据えない状態であった。衣服も大多数は和服のボロ着でたまたま洋服を着ているものがあってもそれは名ばかりの古着であった 。
貧しいながらも河原に棲家をたて暮らすする人が居る。 河原者はどこにも所属せず「収奪せんがための保護」さえ与えられない貧しい土地。課役の苦神社、京の町へ日雇い人夫が日々繰り出して行った。ある記事では彼等は夙者と言われています。『俚言集覧』の夙者の条に「夙者は穢多の手下にて、平生の産業は三味線鼓弓を弾き小歌を謡ひ、又は小芝居などをして近国をあるき、女子どもは草履草鞋を作り商ひ、吉凶の家に施しを受け渡世いたし」とある。鬼の役は身分の低い散所法師とか猿楽者のもの。猿楽師である観阿弥は都をはるか離れた富士山浅間神社の祭礼に招かれて援能先での客死であった。芸人とは呼ばれればそこに赴き芸をすることに文字通り命が掛かっている人々なのだ。だが彼等は乞食であり、賤民であった。関東の穢多頭として有名な弾左衛門配下の職人を記した所謂『河原巻物』のうち、石切と傾城屋、遊女と鷹匠並びに餌指が示されている。また一七一九年に弾左衛門が江戸町奉行所に提出したいわゆる「弾左衛門由緒書」には、「頼朝公御判物」なる文書があり、弾左衛門が支配する諸座として非人・舞々・猿楽・陰陽師・猿引き・傀儡師などとならんで傾城が書き上げられている。(『部落問題研究』第六十四号、一九八〇)。一七〇八年には弾左衛門は歌舞伎狂言座の支配を巡って、京都四条河原のからくり師小林新介と争論したが、町奉行所に「頼朝公御判物」の信義を疑われて敗訴している。彼らは被差別階級だった。河原者の名称は江戸時代に入ってから、皮革業に携わったものをエタといい、芸能に従事したものをカワラモノというようになったという(善田「エタ源流考」「民族と歴史」二巻一号)折口信夫の『よくわかる日本の歴史』によると、河原者の仕事は次のように描かれている。
① 死穢 死牛馬の葬送当。時は屍を葬送する場所も河原であった。
② 産穢 胎衣の処理、ケガレの地である散所には、女性が出産の為に訪れた。
③ 土木労働 井戸掘り、石組、屋根葺、かまど塗り、壁塗り。室町時代は造園に携わる専業者もでてきた。庭の者と呼ばれる。河原者の善阿弥が著名。南都大乗院の庭園も作る名手であったが、河原の住民の生活ではいささかの誉れにもならなかったそうだ。土木工事に示された石引きうあ木遣りの華麗の要素は風俗画にのこる。「石引図絵馬」「石引図屏風」石工が石を取るためには自然の大地に手をかけねばならない。三鬼清一郎氏は、大地=自然に対して人為的な変更を加えることを普請といい、それに際しては地の神の怒りを鎮めることが必要だったとした。平安時代に著された造園の秘伝書と行ったおもむきの『作庭記』に、立石のことが記されている。石を扱うについての注意というか、むしろ積極的にさけるべきこと十数ヶ条のうちに「一、もと立てる石をふせ、もと臥せる石を立てる也。かくのごとくしつれば、その石かならず霊石となりて、たたりをなすべし」という一条がある。もしこのタブーを侵すと、その庭園の主は病にかかり、或は命を失って遂にはその家も廃絶するという。
④ 竹細工、藁細工、革細工、染織(藍染)「河原細工丸」(例えば「おちやない」という落ち髪を材料に毛髪を捻りつないで添髪を作り商いをする女性がいた。)
⑤ 罪穢 犯人の逮捕、死刑さらし刑の執行、囚人の監視 手近な河原の住人が使役され、いつからか義務化されてしまった。
⑥ 犬追物の犬の確保 犬追物とは、逃げる犬を馬で追いながら矢で射る武士のアソビである。犬を捕まえて来て、犬追が始まれば犬を放し、矢で打たれた犬の処分を行なった。
⑦ 雑兵 戦で命をかけて飯を食う。寿永二年(一一八三)十一月、木曽義仲が後白河法皇の居所法住寺殿を襲った時、法皇側の集めた官兵は「向へ礫、印地、云甲斐なき辻冠者原、乞食法師ども」であったと『平家物語』は語り、『源平盛衰記』にも「堀河商人、向ヒ飛礫ノ印地冠者原、乞食法師」であったと記す。堀河商人は京の堀川で材木を扱う商人であるが、乞食法師や非人とおもに検非違使の管轄下に置かれていた。そして白河の印地、河原印地などといわれた人々は飛礫を打つ「悪党」であり、ほぼ非人、河原者と重なっているとしてよい。
⑧ 川魚と細工物の行商 。諸国の行商人が河原で商売するようになると、商業活動の芽がでた。
⑨ 雑芸 慣習的に河原の特権と考えられる権益についてはこれを絶対に譲らなかった。散所がやらない浄瑠璃、三味線、雲枚、からくり、見世物、説経節、祭文なんでもやった。また、追儺などの鬼の役もやらされたといいます。
⑩ 売笑 鎌倉初期の『今物語』右京権大夫信実。月明のよる、参詣して美女をみそめ、ひそかにそのあとをつけて行くと、その女が一條河原で振り返り、「玉みくりうきにしもなとねをとめてひきあけ所なき身成らん」と歌ってきよめの家に入って行ったとある。「宵のまはえりあまさるる立君の五條わたりの月ひとりみる」「忍び妻ただずむよひの門の犬えたに別の人をとがむる」(『七十一番歌合』)
これをみると、狂言の「武悪」に登場する武芸に達者で魚採りが得意で、主人に逆らう「武悪」は非人であり、河原者であると考えるのが自然であるが、彼の素性は舞台上でも狂言の解説書にも詳しく言及されていない。
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人間は不平等に生まれ、不平等に暮らしている。平等なのは、不平等な現実世界の一瞬を誰もが生きているということくらいだと私は思う。河原者はつまり職人であって、専門家だった。彼等が居なければ世の中は動かない。だがしかし彼等は貧しかった。恐れられ、卑しめられ、そして差別を受けた。時代を経て、江戸時代に入ると歌舞伎という芝居の風俗が生まれるが、、芸を行うのはやはり芸に生きる彼等放浪の民だった。例えば彼ら芝居者は一般庶民と同所に居住することが許されぬばかりでなく、外出時には、頭巾編笠をもって、面貌を覆わねばならなかった。天保十三年(一八四二)九月四日の「三芝居歌舞伎役者共へ」という幕府の布告は、之等の定めがいつの間にか弛んでいたのに対しての再強化だった。
身分をも不顧不相応之著に長し候趣相聞不埒之至りに候、向後他と頃住居者不相成候間 一同猿若町より引移住致節者共寒暑編笠を相用統て素人と立交り候儀は難相成候
表立っては、一般庶民と共同の住居は勿論、夏冬に関わらず編笠にて面を多い、交際をすることをさえ拒否されていたのである。そしてその理由は、天保十二年十二月十八日の指令によれば、
一体、役者の儀は、身分の差別もこれあり候処、いつとなく、其の隔てもこれなきやうに成り候付、元来右役者共は、河原者と申す本意を忘れ、正業の町人共に相混り候より(『浮世の有様』の北組総年寄の触書)
東山文化に時めいた善阿弥も「某一心悲生于屠家」(『鹿苑日録』長享三年一四八九)六月五日の条と、屠殺業の家柄に生まれた宿命を呪う悲痛な叫びを挙げねばならない程河原者の身分という者は、絶望的な賤民であったのである。かれらがまさに『下学集』で書かれている。「穢多」であり「屠児」であった。『賤者考』によれば、「人ながら如是畜生は馬牛の かはらものゝ月見ても)」(『七十一番職人尽歌合』えたの歌)
日本文学研究大成『歌舞伎・浄瑠璃』による。『中古戯場説』のつたえる逸話によると、三味線の名手であった与力某を自宅に迎えたときの二台目市川団十郎の挨拶は
私風情の人非人の宅へ、御慰み様とは申しながら入らせられ下し置かれ候段、冥加至極、有難き仕合せ、申し上ぐべき様も之なし。先々御箸とらせられ下さるべし。尤も、火も別段に吟味仕り、相改め仕立て候へば、不浄に思し召しなされず、召し上られ下し置かれ候様に・・・。
というものであった別火にて食物をととのえ、麻上下に衣服を改め、敷居を隔てて平伏している彼の姿は、まさしく「非人」が、それ以外のものに対する態度そのもののようであったか。これを二代目の「演技」としてみることはできても、当時の河原ものに対する人々の差別がわかる。歌舞伎役者と同様に、猿楽師も河原者であり被差別民である。
前内大臣三条公忠の手記『後愚昧記』には「件の児童、去る頃より大樹之を寵愛し、席を同じくして器を伝う。かくのごとき散楽は乞食の所業なり」大樹とは二十一歳になった蘇油群義満のことである。将軍家は一目もはばからず世阿弥を同席させ、器、おそらく酒盃の応酬をして、賎しい芸能民とは水、火を別にする等不可触の禁忌を保守する公家の度肝を抜いたのだ。(篠原正浩『河原者ノススメ』)
説話でも書いてあるように、土木技術者は人形のように働き、仕事が完成すると駄賃をもらいまた別の仕事を探した。チマタを徘徊する怨霊になると、河童やら人形やら、人の違う生き物であるように語られて行く。次の説話にでてくる夢と現の物語も、河原者が実在した事を考えれば、どうも本当の事に聞こえてしまう。働いても働いても金持ちにはなれないアルバイターであり、日雇い労働者である。
楽師から散所へ
国家を支える様々な儀式を厳かに、慎ましく行うために音楽が奏でられなければならなかった。『続日本紀』天平勝宝四年(七五二)四月九日、行基の勧進によって民衆の支持により完成に至ることができた東大寺盧遮那大仏の開眼供養では、開眼師、講師、読師らが入場し、文武百官が威儀を但し、内外の僧侶合わせて一万余人が参列したという。ここでは五節舞、久米舞、楯伏舞のほか、唐や高麗などの楽舞が奏されて、荘厳華麗の斉会の儀が盛大に行われたという。大仏に奉納された伎楽の面は正倉院に残っている。カラの国から楽人がやってきた記録は允恭天皇が死んだ時に新羅が楽人八十人を送って、難波(大阪)の津から飛鳥(奈良)の殯宮まで演奏しながら行進したという。(『日本書紀』)。聖徳太子は摂津の四天王寺に楽所を置いて舞人楽人を養成せられたという。時代が下ると、大宝元年七〇一年の大宝律令で治部省に「雅楽寮」が設置され、楽所は雅楽寮に吸収される。この律令で使われた「雅楽」の語が、日本で公式に用いられた「雅楽」の初例である。唐制を規範とした率用国家体制整備の一環として内外の音楽・舞踊などの技芸を教習し、国家的な典礼の要求にこたえる楽団であった。日本にあった民謡に大陸の楽器の伴奏を加えた和楽では久米舞・楯伏舞・五節舞・筑紫舞・などの風俗歌舞、外来の洋楽では唐楽・高句麗楽・百済楽・新羅楽・伎楽・林邑楽・渡羅楽が演奏されたという。楽曲の多様さをみれば、当時の日本が中国・韓国・インドネシア・インドシナ・インド方面との交流があったことが推測される。こういった音楽のうち高句麗・百済・新羅は韓国の地名である。渡羅楽は後に伝を失くして行われないこととなり、呉楽(技楽)も諸寺の仏会に限られ、唐、韓(高句麗)、林邑、渤海の四部は長く行われている間に相互に融和し、これをひとまとめに取り扱って、単に舞楽と称するようになった。そして、唐、林邑の二楽はを左舞と称し、高句麗、渤海のに楽を右舞と称し、左舞と右舞とを組み合わせて舞うようになる。これを番舞という。
雅楽寮は大陸をまねた制度であったが、そこで養成される楽生の習得楽部は渡来芸能に限られず国風芸能にまで拡大されていた。日本諸国の歌舞が風流化、雅楽化したものを国風歌舞という。奈良県吉野の先住民国栖の国栖奏・九州日向の土着民の筑紫舞(諸県舞)・王権に従属した久米部の久米舞・中国や韓国との外交に従事した氏族の吉志舞・九州薩摩の先住民隼人の隼人舞・大阪河内の田舞・大和地方の和舞・東北の東遊などがある。(遠藤徹『雅楽を知る辞典』)また天平三年(七三一)に雅楽寮の定員を定めたときには、度羅(済州島)楽生六十二人、諸県(日向国諸県郡)舞八人、筑紫舞二十人は楽戸からあてるとされていた(続日本書紀)。朝廷は、官立の養成機関である散楽戸をおいて専門家をそだてていた。楽戸は中国の制度を真似て設置された組織だったが、何故か、桓武天皇の時代、七八二年七月に廃止される。国が変われば音楽も変わり、楽人は身を隠す。これは本場の中国でも同じであったようだ。「『論語』の微子篇に、王朝が崩壊して楽人たちが諸方に四散してゆく状況がしるされている。(略)たぶん西周が滅亡したとき、王宮にあった楽人たちが身を寄せる所を失って四散したことをいうものであろう。(白川静『詩経』二三五頁)」
楽戸の楽人はどこへ身を寄せたのだろうか。或る者は世の中を巡り巡り歩く浮浪者となった。一〇世紀初頭、太宰府に配流された菅原道真は、『菅家後集』の「少き男女を慰む」(四八三番)で、公卿の父を持ちながら、「身を裸にして博奕する南助、「徒跣にして琴を弾く」弁の御を見て、自らの子供達は、これに比べれば天の責をうけることなお寛大であると行っている。実際にこのような運命の下に、遍歴の楽人となった人もあったのであろう。霊山を飛び回る仙人である役行者も雅楽寮だったという。『役行者本記』には「其の父を大角と名付け、世々声韻の曲に長ぜり、故に大角と字す、此には腹笛を曰ふ、小角、此には、管笛と云ふ、常に只呼んで小角と曰ふ、此処家雅楽の君なり」と記されている。大角・小角という名は楽器の名から由来し、葛城山の祭祀を司る賀茂氏のために雅楽を奏でるのが、役親子の職業だったのである。
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大化の改新以後、戸籍がつくられ名前がつけられお前は俺たちに守られているんだからここを耕して食べ物をよこせと言われる人が生まれた。日本という国が形作られるなかで、年貢を納めて生活するはめになった人々と年貢を受け取って生活する人々がでてきます。疫病、飢饉、それにともなう東大寺や西大寺などの国家的な寺院の建立や都の造営、七七四年か八〇五年まで続いた蝦夷に対する武力鎮圧は、兵役と労役にかりたて生活を苦しめた。これまでにも国家の体制から外れたいわば「アウトロー」な生活をしていた人がいた。乞食、法師という言葉はありましたが、時代が変わるに連れて新しい呼び名が生まれる。正式の得度を受けない私度しどの沙弥や私度僧、税金を納めない代わりに金持ちの下で働いた散所者、そして税金を払うこともままならぬ土地に住む河原者と呼ばれた。悪党といわれるいわば盗賊になった人もいましたが、彼等の一部は傀儡と呼ばれた。年貢の取り立てや兵役に堪え兼ねて逃げ出した人々が河原者、散所法師として生活したのではない。律令制の下に朝廷に隷属して手工業そのたの技術労働に携わった官戸・官奴婢、さらには品部・雑戸といつた人々も、この中に加わったことは想像に容易い。彼らは、律令制の崩壊に伴う官司の廃絶の時に散った。今で言う、失業者となって方々を彷徨った。かの有名な観阿弥、世阿弥も失業者であった。『後愚昧記』の有名な一節には「永和四年(一三七八)六月七日条 大樹(義満)之を寵愛し、席を同じうし器を伝う。此如き散楽は乞食の所業なり。而るに賞翫近仕するの条、世以て之に傾奇の由」と、世阿弥の振る舞いは貴族の目にはにがにがしいものにうつっている。朝廷の正統な組織に所属しない者をみな乞食、法師と呼んでいた時代であった。
一方で舞人たちの一部は、盛大に行われていた式典から離れ、土地を廻りながら社寺の例祭などにかこつけて暮らしを立てていた。社寺は彼らを利用し、特に寺院に置いてはのちに衆徒の「延年」という行事が生まれるに至る。篠原正浩が『河原者ノススメ』で書いた次の指摘は戦国以前、散所の生まれた時代にまで遡ることができるだろう。
戦国の世を生き抜く困難は寺社も同様であった。巨大な荘園を維持して来た権力の盛衰に翻弄された寺社が生き残るために、芸能者に社頭を介抱して興行を催し、その賑わいを当てこんで門前や周辺には売春や度が生まれ、悪所が形成されることになった。北野天神も信仰と経営を維持するために、社頭での奥に歌舞妓の興行を許可し、善男善女を呼び込んだのである。壬生寺もそれに習って常設の狂言堂をつくり、瓦者である猿曳きの演目を招き入れたと思われる。見物客を目当てに、境内には一服一戦の茶屋が開設され、若い女たちが接待する光景も描かれている。
芸人たちは社寺で芸を披露し報酬をうけとるだけでは暮らしを立てられなかった。そこで彼等は季節の節々になっては金持ちの家を訪ねて「祝福」することにした。例えば北条氏の舞太夫になった足柄下郡荻窪村の大橋と称する舞々である。彼は荻窪村に二つの稲荷神社を所持したり、城主氏勝の領分弥冨で舞々勧進の許可を得たり、権力への接近が目立つ。声聞師は田楽が流行れば田楽を、猿楽が流行れば猿楽を、正月になれば松拍子の真似や万歳、大黒舞などを待って権門勢家の門を訪れたのである。懐古され亡命せざるを得なくなった楽人が新しい拠り所を探し求めるのも人情である。彼等は舞うべきときに舞い、金銭をもらうための仕組みを作ろうとした。彼らが利用したのは散所という特殊民のたむろする場所であった。「さんじょ」は散所、算所、山所、産所、三条など様々に書けるが、これは「さんじょ」のもつ意味を表して宛てがわれた漢字である。この場所はもともと豪族貴族寺院神社の「下請け」を仕事とし、領主に従属することで所課を逃れようとする民衆を、領主は集め、開墾、工作の労働者として雇い入れてつくられた組織である。従事者は、他の領主からの圧力をうけることなく所属する領主に勤仕する。彼等は寺院、神社、権門に所属して、その人夫・警備・掃除などの雑役に当たりながら、ある場合には門外に出て歌舞遊芸を行なって其の生活を維持する何でも屋である。例えば、『周防句仁平寺本堂供養記』「散楽禄物事」には、猿楽の禄物を与えられた猿楽太夫に混ざって散所長吏の名が挙げられていることから「当時周防においても、猿楽が散所の支配下にあり、且つ其の興業権は散所吏の手に掌握されていたものである」(伊藤好英『折口学が読み解く韓国芸能』)だと推測できる。権威付けがあってこそ、法師たちは金持ちの家々を廻り、銭を稼ぐことができた。三十二番職人歌合には「曲舞師」が描かれている。現在の里神楽でもおなじみの鳥の兜に似た帽子を被る。綿帽子に素襖のいでたち。お供のものには袋をもたせた。この袋にはもちろん米や銭を頂くためのものだと想像できる。曲舞は目出度い物語を朗吟しつつ立って扇をかざして舞うのであって、伴奏の楽器は鼓ばかりである。其の姿は現在も「万歳」として保存されているし、音は小沢昭一の『日本の放浪芸』にも記録されている。能のごとく役者が幾人かあって曲中の人物に扮するようなことはない。道の芸である。
舞々は久世舞・口宣舞とも記し、二人舞ともいったが、正式な表記は曲舞である。舞楽などの正舞に対して、正式ではない変化のある舞の意味であって、舞楽をもどいた小規模な楽舞とでもいおうか。平安末期以来流行した白拍子の芸系を引き、南北朝ごろに新風に転じていく。男白拍子の遍歴する姿は『沙石集』(一二八三年)に残されている。後鳥羽院に使えていた近臣が承久の乱で失脚して、白拍子の鼓打ちになって、田舎のあちこちを巡業して、白髪になって京都に帰ってきたので、昔はさるものであったのに、と、袖の涙をしぼったところ、すかさず
昔は京洛に花やかなる容ちなりき、今は江湖にをちぶれたる翁となるとやらむ(これは漢詩の朗詠)と云白拍子を云て、舞たる事ありけるに、皆人袖をしぼりたり、心の中、さこそこそ有けめ、身の事を思い出つ、こそ申しつらめ。
また室町時代の職業を題材として扱った『七十一番歌合』四十八番組に白拍子が登場する。
鼓うちみはやしけるもいちじるく月にかなづる白拍子哉
能勢朝次の研究によれば、白拍子は序破急の三段よりなり、序の段では長唄(短歌形式の今様歌謡)が歌われ、次の破の段では白拍子特有の歌(別物歌、白拍子のごとき)に合わせて舞があり、急の段では「せめ」即ち急調の舞となり、短い歌をうたって一曲を了るものであるという。『続古事談』「妙音院大相国禅問(藤原師長)曰く、舞を見歌を聴きて、国の治乱を知るは漢家の常の習なり。然るに世間に白拍子といふ舞あり。其の曲をきけば、五音の中にこれは商の音なり。此音は亡国の音なり。舞の姿をみれば、立ち回りて空を仰ぎて立てり。其姿甚だ物思ふ姿なり。詠曲身体共に不快の舞なりとぞ宣ひける」どうもこの時の白拍子の舞は、かつての舞とは異なる時代を象徴したようだ。
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曲舞は戦国の時代には幸若というスターを生んだ。幸若舞は民俗芸能として福岡県大江の天満宮に形だけ保存されている。桃井幸若丸によって始められたと伝えられている幸若舞は、戦国時代に多くの武将たちから愛護を受け、大変な流行を見たらしい。戦国に生き残りをかけた武士の気風は、世阿弥の幽玄能に固執しなかった、というよりも、前の時代の権威と結びついていた「猿楽」ではなく、「曲舞」という名前で呼ぶ猿楽を趣向することが武将のアイデンティティーになったといえよう。織田信長、豊臣秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、松平秀康の充行状、課役免状あるいは知行安堵状が桃井家に伝わっている。「人間五十年、下天の内をくらぶれば夢幻のごとくなり」という『敦盛』のくだりを謡った舞が、幸若舞である。一五八二年、五月十九日、織田信長が安土の惣見寺で幸若大夫に舞をまわせ、丹波猿楽の梅若大夫に能をやらせた。幸若の方はよくできたので信長は上機嫌だったが、梅若の方は不出来だったため非常に怒って、梅若の代わりに講話かに再び舞を回せてやっと機嫌を直した。そして両方に同じく黄金十枚を賜わったという。
権威に近づき、庇護されている間はめでたかったが、諸行無常で人生五十年である。彼等の出身地は京、大和、摂津、近江、河内、美濃、若狭、越前、加賀といった地方である。このうち越前から上京したものに幸若があった。その本拠は越前国丹生郡西田中村で、古くは印内村とも呼ばれた。「インナイ」とは称する場所はこれ以外にも各地にあって、サンジョ・シュクなどに似て、陰陽師・声聞師など卜筮祈祷を業とし、かたわら千秋万歳など祝言的芸能を行う人々の移住地であることが多い。『若狭郡県志』には次のように書いている。
若狭には舞舞太夫が村々に住んで居た。殊に遠敷郡遠敷村字舞々谷の御時は、十余戸の住民悉く舞々であった。舞の時に唱ふる音曲は凡て越前幸若の流儀である。貞享元年に土御門家が陰陽師の徒を定めた時、国中の舞舞にして彼家に属する者十余人、何れも舞舞の號を改めて陰陽師と焼死、泰山府組を祀り祈禱を業とした。舞々谷の舞々も亦大半は陰陽師になったと云ふ。
印内という土地のすべてを被差別部落とみるのは危険であるが、幸若小八郎虚白の次子五郎右衛門が、敦賀の印内村に移り住んで、やはり印内村を田島村を改めている。幸若は延宝五年(一六七七)から系図を熱心に作り始め、舞々を賤業とみる世間の目に抵抗した。若狭国遠敷の幸福舞は、舞々谷といわれる所に住んでいた。舞々谷は『若狭郡県史』によると、湯谷の東で、茅屋十余字、皆舞々の所居であったという。婚姻関係をみるとはっきりする。幸若系図は近世に入ってからできたものであるが、それによると、近親結婚が非常に多い。つまり他の部落との婚姻はされておらず、舞々は舞々同士という傾向があるのである。舞々の部落内での生活は「越前若狭古文書選」のなかの「杉本文書」をみると、若狭の高浜舞々(柳大夫・幸菊その他)が、奉納舞を舞った事を記録している。三河国宝飯郡小坂井村や宿村の院内、尾張国知多郡養父村の院内。諸国の舞々の徒も、院内・別所・舞々谷・舞村などと称される地域に移住することが多かった。(『くつわの音がざざめいて』 山本吉左右)
舞々も幸若も白拍子も万歳も声聞師であり唱門師の徒である。
彼等の芸の一つに松囃子というものがあった。「松」のもつ力にあやかって呪文を唱えたり、振る舞いをして家を祝福する。その演出の一つとして、芸人たちは門前に松の枝をす。その家が新年に向けて邪悪な力を防ぎ、祝福され浄化されていることを示すのである。また松の枝を振ることで家についたケガレを持ち去った。此の儀式と引き換えに、松囃子たちは食べ物や金銭をもらった。そして集めたケガレが其の地に残らないように、彼等は立ち去った。彼等もケガレを背負う人というわけだ。興味深い事に、世阿弥が松囃子について述べた文章がある。『世子六十以後猿楽談義』一四三〇年(永享二年)正月の松囃子の際に、はやしの正調(ただしい詞)を確かめる必要が生じたが、既に其れを伝える家柄が不明で、困ったあげくに一門の長老世阿弥のもとへ聞きに来たというのである。「松は風収まりて、雲も稲荷山、栄さか行く御代の花衣はなごろも、春ぞめでたかりける」だと教えた。この他にも芸人は手を替え品を替えて生業を続けて行く。祝福芸能は様々に工夫された。「春駒」や「獅子舞」などは動物が福を与える芸であり、別の地域では蓑笠に象徴される祖先の格好をして家々を訪ねて福を置いていく芸もあった。芸というよりも、季節とともに巡ってくる「もの」として、人々は彼等を迎えていた。
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血を絶やさずに暮らし続けた声聞師が最後につけられた名前は「穢多」と「非人」であった。「山荘大夫考」貝原翁の筑前続風土記に、今の遠賀郡戸畑大字中原、「此村に卜者三人あり陰陽師と称す。其祖知れず系図無し。凡そ国中(筑前)所々に陰陽五十人ばかり有り。方言に卜者を博士とも云ふ。村々を廻り行き家々の禍福を卜ふを以て業とす。或者は売卜の外耕作をも営めり」とある。『淡海木間攫』の巻九には「産所村の民人は唱門師の血脉」なりと云ふ。和俗往古より此徒を賤しむこと甚し。或節に唱門師と云ふ號は、僧の人家門前に来り金鼓を叩きて米を乞ふ。既に京の傍にも唱門師村あり云々。按ずるに此邊にて唱門師と呼ぶ者は穢多の類なりと云ふ」とある。そして、『豊国大明神祭礼記』にいたっては、慶長九年(一六〇四)八月十六日、大仏の前での施行に発待った人々を「乞食、非人、鉢拱、唱門師、猿使、盲人、居去、腰引、物イハズ、穢多、皮剝、諸勧進之聖」と並記し、それらに「イルイ異形、有雑無雑」という言葉を付しているのである。『邦訳日葡辞典』に、「異類異形」を「動物のさまざまな種類」といっているのも、中世末・近世初頭のこの言葉の持つ差別的な性格の一面を示している。放浪する人たちの姿は魍魎や鬼と大して変わりなかったかもしれない。彼等は全国を繋ぐ七道に溢れ、芸を持ち歩く「七乞食」とよばれた。「猿楽、田楽、さ々ら説経、青屋、河原の者、革屋、鉢こくり」などである。
中山太郎は「多少とも室町期以降に賤視された人々が、坂者と々か、時により所によって異にしている多数の称呼のうちから、左の十余種だけは、かつて霊界の事業に直接官制に従事した人々であろうと思う。」といって次の人々を挙げている。私は彼等を総称して路頭の芸人である唱門師と呼びたいのである。
(一)院内。別所と同じ意味にて、普通人とは交際せざるもの、静岡辺にては陰陽師の居住する地を院内と称す、その職の者は郷継諸役を免ぜらるといふ(駿河志料巻三七)
(二)算所。産所と国音の通ずるところから、同一のものと思惟する者あれども、算所は陰陽師の居所にして、産所は他屋の民俗より来りし称呼である(伊勢参宮名所図絵)
(三)博士。算博士の意にして即ち陰陽師の別称である。我国の特殊部落の称呼としては、最も古いものの一つである(賤者考)
(四)太夫。神事舞太夫、説経太夫、託太夫、猿楽太夫等の総称にして、ともに賤業卑職の特殊部落民である(賤者考)
(五)モリコ。巫の俗称にして、此の他ワカ、ササハタキ、ユミ、イチコ、クチヨセ等の称呼がある。とにかく原始浸透の最も古木流れを汲めるものである(日本巫女史)
(六)イタカ。会津若松市にいたか町というがある。いたかの商業判明せざれども、職人唄合いに×多と番わせてある。今のこの町の者は他の商売と混ぜず常に飴を煉て商う。叉年々鍾馗、毘沙門等の画像を村里に配り、福吉と同じような事唱えて米銭を受く(会津風土記巻二四)。
(七)ササラ。妙法寺記(巻上)延徳元年の条に、除災招福の目的を以て、天下の老若ササラをすること限りなしとあり。新編常陸国誌風俗の条に、水戸向井町にササラあり、僅差田楽の種類にて恵比寿の部属なり(江戸にて角兵衛シシというが如し)、里人のために賎しめらるるを以て今は往々村を去ってその類い断たり、下野ササラも恵比寿の類いなるべし云々。博学南方熊楠先生の切に拠れば、俚俗ササラ三八と称するのは、古く三八の火にササラをすりし民俗の残りものなるべしということである。
(八)寺中。博多聖福寺の東北に歌舞を業とする倡優の住む町あり、こは栄西禅師帰朝のとき唐より下が意着たり下野に僧衣と数珠を授け、寺値を与えて斤末や魔西光寺と号し念仏三昧を修せしめられけりと云い伝う。今その遠孫念仏を廃しもっぱら淫靡の歌舞を業とし、また茶筅を作って売る事京都の鉢タタキの如し。聖福寺の中に居る故を以て国俗これを寺中と称す。志摩郡泊村の大日、遠賀郡芦屋の念仏等伝える倡優の類いである(筑前続風土記四)
(十)願人坊主。延享元年十月の書上に、願人坊主は天台宗の祈願、加持、札守を勤め、毘沙門天への願結、願解の代参、日踊法楽、御鬮八卦等を業としたものであるという(甲子夜話六四)「 以上を主なる者として此の他にも鉦打、妄想、釜払い、唱門師、千秋万歳、エビス、鉢叩き、猿引き、大黒舞など、また記すべき者が沢山あるが云々」
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舞をしながらも、数々の雑用、呪術をしながらほそぼそと生計をたてていた曲舞師、唱門師がいた一方で、同じ曲舞師であるけれども、解雇された後に楽戸の組織をそのまま引き継いで集団をつくり、生計をたてたものが田楽座、猿楽座をつくった。楽戸の所在地と、猿楽座の所在地とが重なるのが傍証になる。『延喜式』が規定する「雅楽寮式」の部の「伎楽」の「楽戸郷」の原注に、「在大和国城下郡杜屋」とある。また『雅楽寮式』では、「斎会の折の伎楽人を、杜屋にある楽戸郷から選びあてる」とある。現在の磯城郡の田原本町であり、杜屋はのちに村屋に変化し、村屋坐弥富都比売神社が古代楽戸郷跡と伝えられて現存する。さらに、『日本書記』推古天皇二十年(六一二)に「百済の人味摩之帰化せり。曰く呉に学びて伎楽の舞を得たり。即ち桜井におらしめて、少年を集めて伎楽舞を習わせた」とある記事を考慮すると、田原本町のほかに現在の桜井市など、奈良県の磯城郡を中心とした地に伎楽を始めとする楽舞教習所の楽戸があり楽生を養成していたことが分かる。この場所がそのまま、猿楽座の本拠地となった。『風姿花伝』「第四神儀」に「大和国春日の御神事に相随う申楽四座」として列記する「外山・結崎・坂戸・円満井」の四座が通説で大和猿楽四座とよばれる。四座の本拠地は楽戸郷のあった地かその周辺に存在する。四座のうちもっとも歴史の古い金春座(円満井)は田原本西竹田を本拠とし、観世は川西町、宝生は桜井市、金剛は斑鳩町を本拠としていた。
金春・観世・宝生は縁戚関係にあった(申楽談義)。四座ともに奈良の春日神社・興福寺に奉仕し、秦河勝を遠祖とする(『風姿花伝』)。四座ともに翁猿楽の家筋で鬼能を得意とした。乃ち大和猿楽座は、宮廷の楽戸から、社寺に奉仕する座に転職を成功させた人たちである。