第三夜:祝・呪・咲/第二話:今昔、散楽百戯  

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第三夜:祝・呪・咲/第二話:今昔、散楽百戯

中国において散楽という言葉が使われるようになるのは、唐高宗の永徴二年(六五一)になる『隋書』である。その音楽志下では「始斉武平中、有魚龍爛漫、俳優朱儒、山車巨象、抜井種瓜、殺馬剥驢等、奇怪異端、百有余物、名為百戯」とあり、北斎の武平(五七〇ー五七五)年間にはすでに百戯と呼ばれる技芸が存在したことになる。これに続いて書かれる「煬帝欲誇之、総追四方散楽、大集東都」の意味は、煬帝の時代に夷族に国政を誇るために民間の散楽を東都に集めたということである。唐代からも民間の散楽は存在していた。『唐会要』の巻三十四雑録には「其年十月六日勅:散楽巡村・特宜禁断。如有犯者、並容止主人及村正、決三十、所由官附考奏。」これは開元二年(七一四)に出された勅であり、散楽が各村に出回って興行することを禁じている。反した者が在る場合には、散楽の主人と出回り先の村正とが三十回の棒刑に処せられ、これらの散楽人は本籍地に戻されて、重役を化せられるような処罰が規定されていた。この史料から散楽とは、明らかに民間の芸能を指す言葉であったことが知られる。(王珣「唐散楽に関する一考察」)こうした民間の芸能者は、生きていくために亡命する者もいただろう。日本という国が生まれ、国交が開かれた時にも、彼等は日本に渡ることを選択できた。

散楽は「安息(ペルシャ)人は黎軒の善く人を眩ますを以て漢に献ず…是の時、上は方に海上を巡守し乃ち悉く外国の客を従え…角觝を大にし、奇戯諸怪物を出だす」その眩人を「眩人は変化して人を惑わす也」(韋昭)といい、黎軒を「黎軒は奇幻多く、口中より火を吐き、自縛して自解す」(魏略)という。(『史記』宛列伝、第六十三)。これが中国の散楽百戯であり、日本の芸能史に名を残した「散楽」とは区別されねば理解しにくい。だが中国でも日本でも、「散楽」は国家に組織されない民間の俳優の戯芸であったことは共通している。「さらに、唐代初期の音楽制度は、およそ隋の制度を受け継ぎ、雅楽などの宮廷音楽の他に民間の音楽である散楽も宮廷に集め、演じさせているのである。」(王珣「唐散楽に関する一考察」)という事情も、日本と同じである。日本では彼等は声聞師、ホガイビトなどと言われた。中国から日本に伝えられた散楽の内容を、新井垣見易は『恍惚と笑の芸術(猿楽)』では次のように分類している。

⑴ 幻戯、くちからひをはく短刀を飲み込む。アラビア方面のもの。唐の皇帝はこれを嫌ったという。
⑵ 呪師戯、五七六年、百済から僧や仏師などと一緒に呪禁師が渡来した。『日本書紀』による
⑶ 曲戯、玉や刀をもてあそぶ「弄玉」「弄剣」日本の棒の先に日もをつけて小鼓をかける「輪鼓」竹馬のりながら芸をする。逆立ちする。空中の綱渡り、人の肩車の上で倒立する重立の技
⑷ 角力戯、すもう。競馬、闘犬、闘牛もこの類。
⑸ 侏儒戯、子供のような短身の人の技芸。
⑹ 傀儡戯、「木人くぐつ」ともかいた人たちの人形を使った芸
⑺ 猿猴戯、猿を用いた猿回しから、人がぬいぐるみの猿衣をきて猿の真似をする猿猴戯があった。
⑻ 参軍戯 問答体の表現形式で滑稽、風刺、科白を内容とし、管弦や歌謡も取り入れられたという。鎌倉時代の遊僧の当弁猿楽がでてくる。起源は漢代にしろ後趙にしろ唐代では変化を来たし、かつては罵られた参軍が、今度罵る側にかわって今日の相声(万歳)につづくという。参軍戯の中心は、滑稽、諷刺、科白である。
⑼ 田楽戯、中国の田植えにかかる散楽の伎芸。宋代になると散楽の中の歌舞音楽系統のものが、十三部すなわち、篳篥部、大鼓部 杖鼓部 拍板色 笛色 琵琶色 箏色 方響色 笙色 舞旋色 歌板色 雑劇色 参軍色 にわかれ、雑劇が十三部の筆頭になる。(『都城紀勝』瓦舎衆伎の条)つまり散楽とは、楽器 の演奏も含み、演劇も、萬歳も、歌唱も、マジックも含んでいたのである。

藤井知昭は『民族音楽の旅』で、実際に目にしたスペインのすぐ南にあるモロッコの南のマラケシュの町の市場の広場で行われる大道芸を記録している。

 タカ匠、サル廻しは、呼び子のような笛だけである。サル廻しの芸は荒っぽく、大小数匹のサルが高々と飛び上がり、宙返りをし、走り回る程度の芸だが、親方とサルが一体になり、サルができないと親方が其の芸をする等みていても楽しい。馬使いは道化と一緒に馬を扱い、日本の狂言の大名と太郎冠者に似て、馬が大名、太郎冠者に当たるのが道化役であり、見物人は笑いこけて楽しんでいる。(略)怪しげな小物をいっぱい並べた占師や呪術師はしきりに麻薬を飲んでいるが、なかなか神がかからない。漢方薬のように木の根や草、木の実を積み上げた医者も、鋭利なナイフで腕をさすジェスチャーは多いが、いっこうに始まらない。まさに、ガマの油を思い出す。しかし、彼等の口上は実に巧みで、それだけでも飽きがこない。イスラムの教えを解く説教師も多いが、これは地図に図を書き、コーランを絵解きのように解きほぐしてゆく。この説教師を囲む見物人だけはやや特別で、老若男女ともに、コーランの一節を唱和し、手を捧げて祈っている。(略)講釈師の話術は、さすがに抜群である。ベルベル族に伝えられる古い英雄伝だが、高く低く声の調子を使い分け、ときには話が自然に歌になってゆく。見物人も、目白着一つしないで聴きほれている。まるで日本の節談説教のように思われてくる。

古今東西に流れ歩いた「楽」は世界中の芸人の手で移動し、都市ではそれが集中し集る。中国における散楽とは、俳優の為すワザのすべてを指し示した。中国や呉国の「散楽百戯」の芸人達が、日本でどのように受け入れられ、変貌していったかを見てゆきたい。

 

服従という礼楽

 

かれ火照ほでりの命は、海佐知毘古一として、鰭はたの廣物鰭の狹さ物を取り、火遠理命は山佐知毘古として、毛の麤物毛の柔物を取りたまひき。
『古事記』海幸彦(火照命)と山幸彦(火遠理命)という兄弟が釣鉤と弓矢を取り替えてそれぞれ狩りをしていたが、海幸彦は釣鉤をなくしてしまい兄に怒られる。がっかりして行く所を助けられ海神の宮へ行く。戻る道筋で取り戻した本物の釣鉤を持って兄に返しに行くが、理不尽に怒られる。そこで海神の娘の豊玉毘売命から貰った玉の呪術を使って兄を懲らしめるという物語である。

 ここを以ちてつぶさに海わたの神の教へし言の如、その鉤を與へたまひき。かれそれより後、いよよ貧しくなりて、更に荒き心を起して迫め來く。攻めむとする時は、鹽盈つ珠を出して溺らし、それ愁へまをせば、鹽乾る珠を出して救ひ、かく惚苦たしなめたまひし時に、稽首のみ白さく、「僕あは今よ以後のち、汝が命の晝夜よるひるの守護人まもりびととなりて仕へまつらむ」とまをしき。かれ今に至るまで、その溺れし時の種種の態わざ、絶えず仕へまつるなり

これが隼人舞の起源であるという。今岡謙太郎の『日本古典芸能史』の序章に俳優の起源として上手く現代語訳されている。それによると山幸は手と顔に赤い土を塗って「初め潮、足に漬く時には、足占をす。膝に至るには足を挙げぐ。股に至る時には走り廻る。腰に至る時には腰を捫ふ。腋に至る時には手を胸に置く。頸に至る時には手を上げて飄掌す。」というものであった。国栖の歌舞も服従の舞である。『古事記』応神天皇のところに

又吉野の白檮上に横臼よくすを作りて、其の横臼に大御酒おおみきを醸かみて、其の大御酒を献りし時、口鼓くちつづみをうち、伎わざを為して歌曰ひけらく。(以下略)

楯節舞も本来は文字通り楯を伏せ、戦闘を止めて服従を誓う意味を持っていた。これを舞う土師宿禰と文忌寸はどちらも渡来系の氏族で、早くから服従した舞いを舞っていた。久米舞も、天平の頃に尾張浄足が説いたところに依ると、大伴氏が琴を弾き、土佐伯氏が刀を持って蜘蛛を斬る仕草を演じた者であったという。(『雅楽鑑賞』)

 もともと、中国生まれの「雅楽」という言葉は『論語』陽貨篇に「鄭声の雅楽を乱るを悪む(鄭の国の音楽が、正統的な雅楽を乱しているのが憎い)」と見えるのがその初見で、孔子の頃の「雅楽」は礼楽であった。古代中国の春秋時代(紀元前八〜五世紀)のころに、伝説上の聖王である舜の制定した「韶」のような古楽を理想とした。『論語』では斉せい)の国で韶を聞いた孔子が「三月、肉の味わいを知らず。図らざりき楽を為すことの斯ここ)に至らんとは」と感動を述べる。「雅楽」と称される楽舞は漢代以降の中国歴代の王朝で制定され、長く尊ばれ継承されて行く。「礼」は社会に秩序をもたらす規範、「楽」は人心を調和する音楽をさす。かくしてかつては楽人を伶人と書いたのである。この点、服従の舞である隼人の舞、楯節舞が日本の「雅楽」に取り入れられ、現在まで支配構造を芸能で残させたのは、日本を統一した天皇にとっては当然のことであった。これが、「雅楽」の原型を知る一つの手がかりになる。服従の舞から始まった「楽」は「儀」を失い、芸能化した。これが即ち、余興、風流、娯楽となり、「雅」となる。「枕草子」はもとより当代の事実に基づいたのであるが、なおよにめでたきもの(一四五段)の条に石清水臨時祭祀楽の東遊の感想を述べている。

 承香殿の前のほどに笛吹きたて拍子うちて遊ぶをとく出で来なんと待つに、有度浜うたひて竹のませのもとに歩み出でてみ琴うちたるほどなど、いかにせむとぞ覚うるや。一の舞いのいとうるはしく袖をあはせて二人走りいでて西に向ひて立ちぬ。つぎつぎ出づるに足踏みを拍子に合はせては半臂の緒つくろひかうぶりうへのきぬの領など繕ひて、あやもなき小松などうたひて舞ひ立ちたるは、すべていみじくめでたし。

ここでは礼楽ではなく娯楽として享受されていく「雅楽」の一端が見える。散楽、相撲節会で大きな役目を果たしていた雅楽ではあったが、時代を経るごとに儀式が形骸化し、衰退していく。大和の舞というものも実際は、服従させた奴隷を舞わせていたかもわからない。服従のしるしとして踊り手や楽人を貢ことは世界中で起こる事だ。第十八王朝(紀元前約一五〇〇年)のファラオが西南アジアを征服した時、服従した王たちは自分たちの貢ぎ物の一部として歌い女や踊り女をその楽器と一緒に贈ったのである。(クルト・ザックス『楽器の歴史(上)』七二頁)雅楽の中でも舞が残されている曲を舞楽という。本来、舞のない楽はなかったが、BGMとして利用されてくる、後継者がいないなどの事情によって、舞が無くなったにすぎない。清少納言は舞楽にも言及している。彼女はもはや歴史を知らない、もののあはれを感じる平和な日本人だ。

太平楽は、さまあしけれどいとをかし。太刀などうたてくあれどいとおもしろし、もろこしにかたきに具して遊びけむほど聞くに。鳥の舞。抜頭は、かしらの髪ふりかけたるまみなどは恐しけれど、楽もいとおもしろし。落蹲らくそんは、二人して膝踏みて舞いたる。こまほこ。

鳥の舞とは胡蝶を番舞とする迦陵頻の壱越調であり、落蹲とは納曽利と同じで、舞人の数が違う。女房たちが日記を書付ける時代、鉾をもった旧来の楽が風流化されると同時に、花を愛でたり扇を使うという風流な曲が作られたことであろう。彼等宮廷貴族の身体から多くの新技法、新曲が生まれたと想像してよい。現在雅楽で行われている舞いが舞われた記録で古いものは、『日本書紀』の記録、天智天皇十年(六七一)五月辛丑、すなわち、のちの五月五日の節の響宴におけるものである。それは次のようにみられる。「天皇御西小殿。皇太子。群臣侍宴。於是再奏田儛」同様にして「天平十五年(七四三)宴群臣於内裏。皇太子親儛五節」「宝亀八年(七七七)作田儛於儛台。蕃客亦奏本国之楽」という記述も見つかる。この当時から宮廷では、雅な舞が舞われていたことを想像させる。だが時を経て、服従の舞から雅の舞へと変貌を遂げた「雅楽」は貴族制とともに衰退の一途を辿る。一二三三年、興福寺楽人の狛近真によって書かれた息子への教訓の書『教訓抄』では近真が幼いこと炉から常に舞や管弦の奏されるなかで育ち、教習を受け、一年中稽古にあけくれ、二十六歳までにはすべて相伝を受け、ようやく一人前の楽人に仲間入りできたという自らの歩んで来た芸道を回顧し、それにひきかえ相伝するべき息子たちのふがいなさを嘆いている。同時に、これまで相伝されてきた雅楽の中絶することを畏れて、息子のためにも後代の楽人のためにも書き残したいと考えたのである。ここには、相伝も思うようにならない雅楽の道の弱体ぶりが窺われる。平安中期に現れた民間の芸能者たちが確実に支持者を増やし、当たらしい音楽芸能を成熟させて行った。雅楽は古典、宮中で行われるさびの世界へと追い込まれる。応仁・文明の乱(一四六七〜七七)で京都の楽人の多くが離散し、宮廷の雅楽は危機的な状態に陥った。十六世紀後半に戦乱が沈み京都の雅楽を復興するにあたって天王寺や南都の楽家がこれにあたることになる。中世の戦乱で失われた曲目、特に国風歌舞の多くは江戸時代に復元されたものである。やろうとおもえば、私たちは、まがりなりにも千年前の俳優を、蘇らせることもできるわけである。

聖徳太子の伎楽

 

聖徳太子は大陸からやってくる時に、中国の思想も携えてきた。もしくは日本で向こうの本を読み勉強したのかもしれないが、聖徳太子の政治の要は芸能であり、音楽であるように思える。音楽クルト・ザックス『楽器の歴史(上)』に書かれている中国の「礼楽」の思想である。

 「荘暴は孟子に会っていった『私が斉王に拝謁した際、王は私に自分は音楽を愛していると語ったが、私は何と答えていいのか分からなかった。あなたは音楽を愛しているということについて、何というか。」孟子は答えた。「もし斉王の音楽に対する愛が非常に近い者ならば、斉の国は良く治まることが近いであろう。」(一五八頁)

国は国民の生活の組織的なわくであり、ミクロコスモス、すなわちマクロコスモスの切り離す事のできない部分ないしは肖像であったので、宇宙と調和する事が唯一の善なのであった。国の反映を保証するために、音楽はコスモスからその法則をとらなければならなかったのである。(一五七頁)

孔子によると「良い政治が国中にあまねく行われる時には、儀式、音楽及び討代軍は皇帝の手によって行われる。悪い政治が国に行われる時には、儀式、音楽及び討代軍は王子たちの手に寄って行われる」という。このような思想のもとに、聖徳太子は仏教と芸能を同時に輸入し、寺院に伝えた。聖徳太子は楽人たちを国家公務員として手厚く迎えたのである。初めは伎楽と呼ばれ、次に散楽と呼ばれ、最後には田楽やら猿楽といわれるようになる彼らの日本での生活は聖徳太子から始まる。天福元年(一二三三)に狛近真によって著された『教訓抄』は、楽舞の由来などについて記した重要な書物に、「妓楽」の始祖を百済の「味摩子」に求めている。(同書巻四)それに依れば、六一二年五月、百済人味摩子、帰化けり。曰はく、「呉に学びて、伎楽儛を得たり」という。則ち桜井に安置らしめて、少年を集へて、伎楽の舞を習わしむ(『日本書紀』推古天皇二十年是歳条)。伎楽の芸人が使った仮面は今も正倉院に伝え残されている。海外に学んで楽舞を発達させることと、日本が大陸から独立して政治をおこなうことは一体であった。一番最初にやってきた楽舞は伎楽である。これは「呉楽」「伎楽儛」ともいわれるように、中国南部の仏教文化圏であった呉国に由来する楽舞であった。伎楽のルーツについては中国南部、西域、ギリシャ、インド、インドシナなど諸説あるが、正倉院に残された仮面とインドネシアの仮面を見て比べれば、古代から今にまで続く芸人の、人間の普遍性を感じとることもできるのである。

鼓の楽

伎楽とは、呉国から伝わった仏教的な演出を施された散楽百戯である。伎は儀でもあり技でもあり、義でもあり、戯でもあり、鬼でもあろう。そして偽である。『日本演劇史』によれば鎌倉時代半ばに書かれたと推測されている『塵袋』は、卑近な諸事解説の特殊辞書であるらしいが、ここに「伎楽の伎」という綱目がある。

一、伎楽と云ふ伎は何の意ぞ
伎は衆の意也 一種ならすあまたの心なるへし 伎は岐也と釈せり 岐はまた也 またはわかれてあまたになる義歟 義とかよはして釈す 妓とかくことあり 伎楽と云ふ楽は八音をあやつりて衆音和合する故にあまたの心をあらはす 凡そ妓は芸の心也 手にあるをは伎と云ふ 身にあるをは芸と云ふと釈せり 打物引物吹物皆な手のあやつりをはなれぬ能なれは伎楽とも云ふ歟 両方何もたかはす妓の字は女の義也 (略)

当時の言葉の使い方を考えて現代人の私たちは謙虚に物語る必要がある。伎楽というものの、伎が何を指そうとしているのか。法華経の中に「香華伎楽。常以供養」と書かれた場所がある。聖徳太子が推古天皇十四年(六〇六)年に丘岡本宮で講じた『妙法蓮花経』の「方便品第二」に記されているような楽であった。

 「誰かに音楽を奏させ、鼓をうたせ、角笛や法螺貝を吹かせて、蕭、笛、琴、箜篌、琵琶、鐃銅鈸など、すべてのこのような多くの妙なる音をもって供養しても、あるいは歓喜の小衣を以て、仏の得を讃歎する唄を歌い、ほんのわずかな音で供養しても、みなそれらは既に仏堂を成就しているのである。」

伎というのはワザ、タクミという意味であり、現代の私たちがいうような歴史の文脈から言われた言葉ではない。味摩之が伝えて聖徳太子が奨励した伎楽を理解することと、単なる伎楽を理解することは違う。法華経で伎楽の替わりに呉楽という名前は使えない。。当時、海外からやってきた楽は呉楽しかなかった。それから大和朝廷の外交政策によって、「楽」も変貌していく。伎楽が我が国に伝えられる伝承以前に、朝鮮の楽舞は日本に招来されていた。すなわち、允恭天皇四十二年(四五三)天皇崩御に際し新羅から楽人八十人 を貢上し、雄略天皇十一年(四六七)秋には百済から呉人貴信という弾琴家が来朝している。、また欽明天皇十五年(五五四)には百済から、五経博士が来たほか、僧、易、歴、医の諸博士、採薬師、楽人がきている。これらはみな「依レ請代レ之」とあるからその前から来ていたのであろう。これらの楽にはまだ名前が冠せられていなかった。次に百済から日本に伝来した楽が、呉の楽と称された。記録のうえでは欽明十五(五五四) 年,百済から四人の音楽家が来朝。このとき伝わったのが、百済の楽、即ち呉楽である。平安時代中期に左右両部制が確立したときに高句麗楽,新羅楽などとともに,雅楽の一部門である右方楽の母体となった。母体となった、といっても、現在では主旋律を担う篳篥もまだこのころには伝来しておらず、現在とはまったくことなる「楽」であったことは想像に難くない。現在の「雅みやび」ということばから即ち「きれいな」ものだけを想像してはいられない。例えば、「令義解」や「正倉院文書」以下に呉楽の名が見え、また伎楽用の腰鼓を呉鼓ともい、職員令の腰鼓生もクレツヅミセイと読むことになっている。当時の雅楽は鼓が中心であり、要であった。七六八年頃に編纂された養老令の注解書である「令義解」には「伎楽謂二呉楽一、其腰鼓亦為二呉楽之器一也」とあり、また

伎楽師一人 掌教伎楽生 以楽戸為之
腰鼓准之
腰鼓師二人 掌腰鼓生

とかいている。また、「西大寺資財流記帳」(楽器衣服 第六)には伎楽の仮面以下とともにその楽器を載せて「呉楽器二具」としているほか、すでに渡来当初の記載は「伎楽儛」 と読ませてもいた。やはり、鼓が即ち伎楽の象徴であり、ワザであった。が、中世になると呉楽の使用例は急減しているという。(井浦芳信『日本演劇史』)

 仏教を奨励した聖徳太子は、三宝(仏、法、僧)を供養するのに、諸蕃楽を用いよ、と述べたという。(『聖徳太子伝暦』)諸蕃というのは、外国のことであり、それは呉国、中国は元より、林邑といわれたベトナムといった東南アジア地域をも指している。当時の日本が諸蕃と広い付き合いをしていたことがわかるのが、天平勝宝Ⅳねん(七五二)東大寺の大仏開眼供養で演じられた芸能である。久米舞、楯臥舞に四〇比と、伎楽の撃鼓六〇人、女漢躍歌一二〇人、跳子名一〇〇人、唐古楽一舞、唐散楽一舞、林邑楽三舞、高麗楽一舞、唐中楽一舞、唐女舞一舞、施袴二〇人、高麗楽三舞、高麗女楽となる。それは日本とは、東アジアの端にあって、潮の流れが行き着く先であった。林邑楽は八楽ともいわれている。そのうち「迦陵頻」「菩薩」「陪臚」「抜頭」「案摩・二舞」「蘭陵王」「胡飲酒」の七曲はみな古楽といわれている。この楽が、ベトナムでなくインドのものあった可能性も在るだろう。韓国の「加揶」では、王様がインドの女王様を娶ったという歴史があるから、あり得ることだ。インドネシアのバリ島の善なるものを象徴する聖獣バロンと邪悪なものを象徴する魔女ラ­ンダの果てしのない戦いを描いた舞踊劇が現在も行われている。これを観ると、海の道を思い出す。沖縄には獅子の四足を模した毛むくじゃらの、台湾も毛むくじゃらの獅子が残っている。世界的に観て、獅子は体どこからきたのか。人の心の中に居る獣を、削り取ってみせたのは、誰であったか。能登半島の鉦の響き方を聞いていると、ついついそんな想像にふけってしまう。バロンは、清く、遠くから仰ぎ見させるようにゆっくりとした動きの中に居る。輝かしい立ち振る舞いを観て、人々は「善」の存在を知るのである。一方で魔女ラ­ンダは、より人々に近づき、震え、声を上げ、人々の悪を一身に集める。ランダの所作は、怒り、憎しみ、戸惑い、悲しみすべてを含む。インドネシアにあるバリの「ランダの舞」をみれば、インドの影響を受けたバリの獅子と、中国の影響を多く受けた日本の獅子の血が、西から東へと流れて日本に辿り憑いたことを容易く想像させてくれる。現在は日本の民間芸能や、雅楽のごく一部の曲でしか使用されない、移動しながら叩く太鼓の形式もインドと共通している。

アマラバアティamaravatiのレリーフには、極東のあるドラムと関係があると思われるようなドラムが描かれている。この楽器は直径約二フィート(約六十一cm)の円板として表現されており、二人の男が肩に担いだ棒から取手でつるされていて、一方の男あるいは両方の男が曲がったバチで強く打ち鳴らしている。これは日本の荷太鼓に酷似している。(クルト・ザックス『楽器の歴史(上)』一五三頁)

伎楽を伝えたといわれる「味摩之」という人物も、古い梵語で「不死之人」という意味で芸術家を指す仏名詞とし、あるいは活仏の意味にも成り、高僧を示す語であるとチベット語学者で探検家でもあった河口慧海は述べているようである。(荻美津夫『古代音楽の世界』)このころはまた唐楽・高句麗楽は存在しておらず、我々が伎楽と呼んでいる「まだ名もなき楽」を用いたことだろう。此の時にはまだ、楽を担当する組織は曖昧で、『続教訓抄』巻第二の一説に「昔人王第二十(十九)代允恭天皇の御時、高麗舞人此朝にわたりしかども、もてなし伝ふる人なくてむなしくすぐして、第三十(三十三)代推古天皇の御時、即位二十年正月、百済国の聖明王舞師味摩子をわたされしかば、聖徳太子あまねく天下に勅をいだして、妓楽舞楽を始めとして鼓を打しめ自余の舞曲どもをならはしむ。舞楽此御時より始れり」天平時代になると「第四十五代奈良御門聖武の御時、此道さかりに興ぜられしかども、さして其氏とさだめおかれず。雅楽玄蕃等の寮に伝へて勅要をつとめき」となる。つまり現代の雅楽寮にも繋がる日本に特有の「家」の制度はまだ楽舞の部では定まっていなかったことになる。ちなみに聖武天皇は大宝元年(七〇一)、雅楽寮の定められた年である。この記述にある「玄蕃」の寮とは、雅楽寮と同じく治部省におかれた部署であり、僧尼の管理や仏事法会の監督、外国からの来客の接待を行っていた。和名を「ほうしまらひとのつかさ」とむ。伎楽とは、聖徳太子が呉国から取り入れた楽であるが、太鼓、野外での演奏に際して意味の在る楽器は太鼓であり、けたたましい鉦である。それは声明とは異なる流れを組んでいた。中国の道教音楽というものが残っている。仙人の道を述べた道教であるからには、聖徳太子の呉楽と通じるだろう。とにかく「現在の雅楽」とは異質の楽である。

伎楽という言葉は、仏の供養に演奏された音楽を意味していたが、当時仏教に体する信仰のあつかった聖徳太子が、この味摩子招来の楽舞を保護奨励し、主として仏寺において演奏させたので、その名称がいつか固有名詞かされるに至ったと思われている。当時行われていた日本の素樸な舞に比べ、これは人の目を驚かすほどの珍奇なものであったらしい。伎楽は呉の楽であって、中国の「礼楽」の血を継いだ「雅楽」とは別の音楽である。『東大寺要録』には六十人の鼓撃がいたこと、また「雷鼓振而響天」とさえ伝えられている。これが伎楽に関わる保証は無いが、『倭名類聚抄』や職員令雅楽寮で腰鼓と書かれる「くれつづみ」が呉楽こと伎楽の楽器として代表されていることから推測できることである。伎楽の基本的な楽器は宝亀十一年(七八〇)十二月二十五日付の『西大寺資財流記帳』によると、創建当初の西大寺の伎楽は、笛吹き二人、鼓撃二十人、鉦盤撃二人が想定されており、別に和装束の鼓撃四十人も設けられ、総じて「呉鼓六十具」と記録されている。くだって、天福元年(一二三三年)に狛近真こまのちかざねが記した『教訓抄』四の「妓楽」をみると、獅子舞以下の「踊物」に続いて笛吹、帽冠、打物があるという。最後の打物については「三鼓二人、銅拍子二人」と説明され、腰鼓が三鼓に代わっている。この「楽」を想像するのであれば、現在も韓国で行われている伝統芸能「サムルノリ」がある。雅楽鑑賞の太鼓の打ち方で特別に拍子が指定されている曲が、武舞、走舞に多い。太鼓や鉦を中心とした伎楽の芸人の記憶であろう。

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伎楽の象徴である「鼓」の名残を現在でも「雅楽」にみることができる。日本でいうところの伎楽とは、鉦と鼓の楽であり、道の楽であり、悪霊を追い払う楽であり、仏教と結びついた平和の楽であった。鎌倉時代に書かれたものではあるが、一二三三年に成立した興福寺の雅楽家狛近真である『教訓抄』巻第九(打物部、口伝物語)腰鼓の条は、腰鼓儛の行法として、打様と振舞を示している。

一、腰鼓儛行法 北登(小文字)
左右手打合二遍 (右手打伏見東拍子) 右足出屈拳
左右手打合二遍 (片手打伏見西拍子)足出屈拳
(略如是随曲進退也)

鶏婁鼓一曲を打ち通之の後即ち此の鼓之曲打儛乙通也。古老伝云。腰に付て撥はちをは不用して手を以て一鼓の如く之を打ち乙かなで儛う也。光時云。此の鼓者は興福寺常楽会の中門に新楽一部ありと。此楽器の内に在る(細長鼓也)他所に用ひず。此、鼓を於打つ様振儛う者の如く、此其相伝今の世に有ると雖も更に之を用いず。仍りて絶える如き也。

聖徳太子の死後、「雅化」される以前の伎楽の面影を残したものをいくつか挙げてみよう。還城楽は新楽乱声と案摩乱声、案摩は陰陽地鎮曲ともいう舞楽の一つであり、蕭と篳篥は用いずに竜笛と羯鼓、太鼓、鉦鼓だけで伴奏をする、舞楽の古態を思わせる曲である。この曲で行われる乱声は案摩乱声といわれる。楽器編成が古態をもつものには、振鉾という曲もある。伴奏は左方は竜笛と太古と鉦鼓、右肩は高麗笛と太鼓と鉦鼓だけで、左方は小乱声につづいて新楽乱声、右肩は高麗楽の小乱声につづいて高麗乱声で舞う。三節は左右の楽屋の管方は同時に演奏する。(『雅楽鑑賞』)また、舞楽のうち雑曲と分類されたものに「一曲」がある。左方と右方からそれぞれ一人づつ、舞い手が鶏婁鼓と壱鼓を首から下げて舞う。「これは舞楽というほどのものではなく、振りはなく道楽に用いたもので、荷太鼓と荷鉦鼓を使用する。」(『舞楽鑑賞』)この技をもった俳優達が亡命した後、東北の鹿踊りとなったとしても、戯れ言だとは思われない。鳥を模すものも咒師が鬼祓いのために使う仮面の一つた。雅楽という芸能の曲として、鶏婁鼓は現在も「一曲」という曲を舞う左方の舞人が首から吊り右手に持った桴で打ちながら舞う。要するに移動しながら叩ける道行の演奏法が残っているわけである。時代を超えても「道行」という形式は民衆の生活に根ざして残った。政権が移り変わる中で、寺院が養っていた楽師が民間に流れたときも、楽師は行道の要である獅子と治道を要とした。治道とは、天狗のことであり、衆徒の舞では鼻の王と呼ばれることとなった。そして村の家々を歩き回り厄を祓うという演出も、門付けではあるがそこに天狗が先導する場合、やはり伎楽の行道を習っているとみるのが自然である。『教訓抄』の妓楽は十三世紀前半の伎楽であって、聖徳太子の時代の伎楽の有様ではないことに注意しなければならない。百戯に混ざって演じられる寸劇は人々を笑いに誘う。既に日本に根を張り、猿楽化した呉の楽、「伎楽」である。三十七年後の撰述である『続教訓抄』には「妓楽(行道之時之調子号行道)」とあり、最早、道を行きながら奏する楽というなんとも形式ばった説明しかされなくなってしまう。この類いは四天王子に妓楽と称して行道の式法が形だけ残っている。伎楽の中心楽器たる呉鼓が早くから一般の楽にも用いられ、三鼓という名前に改められたこともあり、この時、楽は既に伎が行うものでも伎の如き楽でもなく、社会の中で別の誰かによる別の楽になり、別の名前で呼ばれることになる。

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飛鳥時代から平安時代初期にかけて、川原寺、橘寺、太秦寺などの寺院で教習されたものがたちまちひろく行われ、天武天皇朱鳥元年(六八七)四月には新羅の客を饗せんため、川原寺の伎楽を筑紫に運んだとさえある(「紀二十九」)。天平二、三年(七三〇、七三一)に伎楽面をはじめとするひとそろいを平城京の大安寺や薬師寺、筑前国観世音寺に勅施入した。特に先にも述べた天平勝實元年(七四九)・四年(七五二)の東大寺の両法会には、他の種々の楽舞とともに、この伎楽もいかにも華々と行われた。『教訓抄』によれば、南都の西大・法華・秋篠の各寺、平安京の東西二寺や広隆寺などでも催された。四天王寺や興福寺、法隆寺や中宮寺、上野国の法輪寺や弘輪寺、常陸国の国衙ないし国分寺など地方寺院へも及んでいった。という。(『本田安次著作集 日本の伝統芸能』)寺院に管理され、寺院とともに有り伎楽を教習した場所はそのまま散楽を奏する楽師が身を寄せる場所となり、散所と言われるようになる。そして、飢饉の際の法会に催された伎楽の雨乞い太鼓は「でんでん太鼓」であり、のちの「田楽」になった。

日本に「雅楽」という言葉が伝わる以前に、「伎楽」があり「呉楽」が先に享受され、いち早く寺院に伝えられ、広まっていた。聖徳太子の楽が、先に述べた散楽百戯の直系ともいえる「伎楽」である。呉国と唐国の二つの「楽」は、聖徳太子の死後、百済との縁を切った大和朝廷が、遣唐使、遣隋使のような中国との外交を強める動きの中で選択された。新しい「楽」を「中国の楽」とすることで「伎楽」は「雅楽」や、地方寺院の法会の中にその名残をとどめるだけになった。

神仙の楽

 

聖徳太子の時代に、呉国から伝わった伎楽は、寺院でおおいに奏でられた。そして、この行列は、百鬼が行脚する異形の神獣、仙人の列であった。道長の法成寺供養の有様を述べたものに『栄華物語』巻十七の音楽の条がある。

 舞台の上にてさまざまの菩薩ども数をつくし又童子わらわべの蝶鳥の舞いどもただ極楽もかくこそはと想ひやりよそへられてみる程ぞいと思ひやられてその故いとぞめでたき

云々と書かれている。ここに書かれている舞いは、「極楽」という名の通り、楽をともなう「舞楽」であった。古来、わが国の仏教諸宗派には様々な種類の法要がみられるが、大規模にして豪華絢爛な様相を呈する法要として「舞楽四箇法要」が挙げられる。この法要は、唄・散華・梵音・錫杖の、四種の声明と左方から成るいわゆる「四箇法要」を基盤として、これらの声明作法に密接な連繋を保って舞楽や奏楽が組み込まれた。『叡岳要記』には天元三年(九八〇)延暦寺行動供養に菩薩・迦陵頻・胡蝶が供養毎として行われたと見える。永仁四年(一二九六)頃の撰述と伝えられる「残夜抄」では師子・菩薩・迦陵頻・胡蝶を「供養舞」あるいは「法会舞」と称している。四箇法会で奏されるこれ以外の舞楽は一般に「法楽舞楽」とか「入調舞楽」と呼ばれている。これが将に伎楽のレパートリーであると定義をするしかない。供養舞楽とは、方相氏の態である。『教訓抄』によれば、往古は様々な乱声の組み合わせに四つて舞が行われていたようであるが、今日では「新楽乱声」「高麗欄声」「合鉾あわせぼこ」の三つの構成になった。現在でも行われている四天王寺聖霊会舞楽大法会では、法会に参仕する者のための集会しゅえ鐘が打たれたと、次のような列を整える。

右方列 先棒 師子 菩薩 胡蝶 右方楽頭 衆僧 掃部 八部衆 長者 鳳輦 二舎利
左方列 先棒 師子 菩薩 迦陵頻 左方楽頭 衆僧 掃部 八部衆 長者 玉輿 一舎利

鳳輦は聖徳太子の遺骨を納めた輿であり、玉輿は仏舎利を納めた輿である。五世紀中国の東魏の楊衒之が撰した、北魏の都・洛陽における仏寺の繁栄の様子を撰述した『洛陽伽藍記』長秋寺の項には次のような例年四月八日の仏生会に釈迦像の行像供養があり、その行列の様子を記述している。

 四月八日此像常出 辟邪師子導引其前 呑刀吐火騰驤一面綵幢 詭譎不常 奇伎異服 冠於都市 像停之処観者如堵送者相践躍 常有死人 …

いつものように釈迦の像が出る 辟邪獅子が前を行く 刀を飲み火を吐き煮え上がる 一面を旗が彩どる 常にあらずあやしく 奇妙な伎と異様な服で 都の市を冠す 釈迦の像が止まったところでは観ている者が垣根の如く送る者が皆跳躍し踊る。いつも死人が出る。

辟邪とは古来漢人の間で邪悪を避ける霊獣であり、獅子の姿をしている。また唐代に著された『大慈恩寺三蔵法師伝』には、中国陝西省の古都、西安市南東郊外にある大慈恩寺の法会にて貞観二十二年(六四八)、「九部楽」や「破陣楽」、その他の百戯が演じられたという。現在、「雅楽」の一曲である「破陣楽」も百戯の一つであり、中国の寺院で行われる儀式の一つであった。百戯のうち「ヒトワザ」でない曲芸師、軽業師は大道芸、サーカスの道を辿った。また獅子は、この時から野山を駆け巡っていったようである。四天王寺の四箇法会では獅子が「大輪小輪」という振る舞いを行うという。つまり舞台を大きな円と小さな円でぐるぐる回るのである。このほかに「菩薩」と「陪臚」の序にも行われるという。獅子は演目と演目の合間にも歩き回った。元徳二年(一三三〇)『日吉并叡山行幸記』には、「迦陵頻胡蝶の後師子の乱声ならしければ狛犬地に伏し師子舞台にのぼりて…」とあって、他の霊獣たちとは別の役割を担わされている。他の動物に比べて演戯がしやすく、また動き、格好を本物のように偽ることができたからかもしれないと私は思っている。

聖徳太子の伎楽は呉の国経由で伝わった「散楽百戯」をもとにしており、その楽は大いに仙境を描き出し、仏の物語を描いた芝居であり、呉鼓という太鼓が主役を演じる楽であった。そこには火の玉を吹いたり、人間離れした散楽百戯のワザを惜しみなく出し、幻想の世界を見せる演劇の行道があったのである。声明を中心とする四箇法会に、伎楽が加わったとするべきかどうかわからない。元々伎楽だったか。大陸の法式を真似たならば、始めから聖徳太子が奨励した伎楽は仏とともにあった。猶、伎楽の本家である散楽百戯に関しては能勢の『散楽考』に詳しい。

伎楽は人々を仙境と繋げる芝居空間を作り、聖徳太子が死ぬとともに「呉の国」ごと歴史に埋もれた。そして今度は中国の「唐の楽」が道教文学、神仙文学、道教が輸入されると同時に、貴族達の手によって「風流」と化すのである。それが新たに名前をつけられた伎楽、田楽と猿楽であった。

儺戯

典薬寮に呪禁師、雅楽寮に舞楽師、近衛府に角力師であり、すべての源流は散楽百戯にある。聖徳太子が死に、政権が「和人」によって行われ、律令制が作られていく中で多くの俳優が役場に分散された。最初に中国で散楽百戯が行われていた様子を見ていこう。

中国の鬼

中国中国の散楽百戯には、鬼が出て来る。歌舞妓というのも中国の散楽の一つである歌舞戯の文字と同じであるところが泣ける。しかるに日本の芸能の多くは「散楽百戯」に網羅されていると言ってもよい。その中で「鬼」を演じ「鬼」を退治する俳優がいた。彼は方相氏と呼ばれ、『周礼』夏官司馬では次のように描かれている。

方相氏は熊皮を掌蒙し、黄金四目、玄衣朱裳にして、戈を執り楯を掲げ、百隷を師いて時の儺し、以て室に索めて疫を殴る。大喪には先ず柩に入る。墓に及び壙に入り、戈を以て四隅を撃ちて、方良(亡者の肝脳を食う悪魔)を殴る。

とある。『後漢書』礼儀志、大儺篇には後漢宮中の大儺の模様が記されている。

先臘の一日、大いに儺す。之を逐疫と謂う。其の儀、中黄門の子弟のとし十歳以上十二以下百二十人を選び侲子と為す。皆赤幘、皂製かわごろもにして大鼗を執る。

続いてこの大儺では「方相氏を説き更に、方相は中黄門の冗従僕射の扮する十二神獣(悪鬼の転向したもの)と共に悪鬼をたいまつを持って宮中に追い端門に出る。」と書いている。さらに後漢、張衡『東京賦』には「しかして乃ち卒歳大いに儺し、羣癘を駆り除く。方相は鉞を執り、巫覡は茢を操り、侲子万童、丹首玄裳にして、桃弧棘矢、発する所臬なく、飛礫雨散、剛彈(強き鬼)も必ず弊る。(ぐったりとする)」とえいう。なお、桃の樹に妖魔を払う力があったと考えられていて、『周礼』戎右、「牛耳桃茢を贊く」の注にも「桃は鬼の畏るる所なり」とある。追儺は宮中のみならず一般の間にも行われた。晩唐、羅隠の「市儺」と題されて書かれているのは、朝廷の儺でなく、地方で行われて来た儺である。

儺の名為る時令に著わる。宮禁よりして下俚に至迄、皆得て以て災邪を逐い疫癘を駆る。故に都会の悪少年は是の時を以て、鳥獣を其れ形容し、皮革を其れ面目にす。

方相氏は鳥獣の形の革製の面とか仮頭とかをつけたというのであろう。打野胡(打夜胡、打野狐)というのは、乞食の類いが歳末に神鬼に扮して追儺をすることで、もう宋代では神鬼以外のものにも扮して、観客を喜ばせていた。『東京夢華録』巻之十、十二月の条に、

此の月に入りてより、即ち貧者二教人、一夥となりて、婦人神鬼に憤死、鑼を敲き鼓を撃ち、門を巡りて銭を乞う。俗に呼んで打夜胡と為す。亦た駆崇の道なり。

また、宋、陳元靚『歳時広記』四十に「歳時雑記」を引いて、

除日、面具を旁、或は鬼神と旁、或は児女形と旁、或は門楣に施す。駆儺者は以て其の面を蔽い、或は小児は以て戯れをなす。

方相氏は鬼を追い払う鬼である。『文献通考』巻一四七、散楽百戯の項に「窟(石壘)子 また魁(石壘)子と曰う、偶人を旁、戯を以て善く歌舞す。本もと喪家の楽なり、漢末始めて是を喜会に用う。北斉の後主高緯、もっとも好む所なり。高麗の国も又之有り。今、閭市盛行す…。」また、『周礼』夏官司馬の註に「疱瘡は猶放像と言うがごとく、畏怖すべきの貌すがた」というように、方相の頭は大きく醜く恐るべきものであった。それを形容した語が傀儡である。傀儡は悪魔払いから、娯神のものとなり、更に変じて娯人のものとなった。神は鬼となり、妖怪となり、最後は木の人形になってしまった。傀儡はもと「喪家之楽」というのが漢字、応劭の『風俗通』の文でありその傀儡は明器の人間を象ったものではなく方相氏に出るとするのが孫氏である。崔世珍が嘉靖六年(一五二七年)に著した、朝鮮の漢字学習書である『訓蒙字会』では傀儡を「仮面戯、俗に鬼臉児(鬼の顔をした児)と呼ぶ」と孫氏を支持している。(能勢朝次『能楽源流考』)方相氏の成り果てた姿が、謎に満ちた傀儡師たちの正体かもわからない。

方相氏の本来の役目は、死者を墓まで運ぶ道すがら、四方の隅に潜んでいる悪い霊、鬼、魑魅魍魎を払いのけることであり、日本もかつては中国と同様、墓の穴を清めることを役割としていた。『続日本紀』に、聖武天皇(七五六年)と光仁天皇(七八一年)と桓武天皇(八〇六年)の葬儀に際しての葬司の一つに「作方相司」という官人を任命することが見えるのが一番古い方相氏の姿であろう。方相氏は埋葬地につくまで先駆けとなって凶邪を払った。その役は巫祝もおこなう。巫祝は先に述べたように、桃の木の柄の「茢(葦の穂のほうき)」で、道中に悪鬼を掃きはらう。そしていたいが無事につくと墓あなにはいり、ほこで四隅をうち、悪鬼である「方良」をはらうのである。鬼は隅の影ひっそりと生きている。この隅を支配できたのが方相氏のかぶる熊の力であった。四方というのは墓の四隅であり、追い払うべき鬼とは死体を喰らおうとする魍魎であり日本の火車(夜叉)である。火車となり『地獄草紙』に描かれている。火車は生前悪事を犯した罪人を載せて地獄に運ぶ。時代が下るが、天保四年(一八三三)には『茅窗漫録』に魍魎の記事が描かれる。

葬送のとき、俄に大風ありて、往来比とを倒す程の烈しき時、吹上吹飛す事あり、其時主語の僧数珠を投かくれば異事なし、若左なきときは、葬棺を吹飛し、其屍を失う事あり、是を火車に捉れたるとて大に恐れ恥じる事なり。……火車に捉れたるといふは、和漢とも多くある事にて、是は魍魎という獣の所為なり。

魍魎は方良とも書く。中国唐代の本草学書である『酉陽雑俎』には「周礼方相氏殴罔象。好食べ亡者肝。而畏虎与栢。路口至石虎為此也」とある。「罔両」とは死体を喰らう化け物のことである。そして「罔両は虎や柏をこわがる。だから墓のかたらわに石でつくった虎をおき、柏をうえる」ことで魑魅魍魎を退治する。「此獣葬送の時、間々出て災をなす。故に漢土にては聖人の時より、方相氏といふものありて熊皮をかぶり、目四ッある形に作り、大喪のときは、柩に先立てて墓所に至り、壙に入りて戈を以て、四隅をうち、此獣を殴事あり。」とあるのが、方相氏の振る舞いであった。「柏」は柏餅の柏とは別の樹木である。檜に似た常緑樹、コノテガシワのことをいう。おなじく常緑樹である「松」とともに墓場に植えられる。また柏や松で棺もつくる。常緑のもつ生命力で遺体をまもり悪鬼を追いはらうのである。これは実際に防腐効果もあるだろう。「方良」とは「罔両」であり、魑魅魍魎の「魍魎」である。魑魅魍魎はふつう、山川の精と理解される。しかし、これだと『周礼』の「方良」の説明にはならない。『国語』は、「罔両」とは「木石の怪」であるとしるす。『周礼』の注釈者はそれを引用して説明したが、なぜか「土の怪」という。明の李時珍の『本草綱目』は、その意味を明瞭に説明する。『周礼』では方相氏が戈をとって墓穴にはいり方良を駆逐する。「罔両は亡者の肝臓を好んで食べる。だから追い払うのだ。」死体を守る鬼は日本にも例がある。新潟県蒲原平野では、集落で死者が出ると火葬にする事が多かった。推移の高い場所での土葬を嫌ったのである。集落で割り当てられたオニ(鬼)と呼ばれる男の人がハサ木を切って薪をこしらえ、遺体を載せて一晩かかって焼いた。このオニは、一晩中赤々と燃える火葬場の脇にいて、眠る事も許されず、きれいな骨になるまで付き添ってオニの役を果たした。遺体を夜叉から守るためにである。ここでのオニは方相氏により近い。日本において葬送に方相氏が加わった記録は清和天皇崩御(八八一年)が最後である。

 

典薬寮の鬼

日本で死者を葬送する方法は大陸の流儀を借りている。死者はケの枯れた状態になったヒトである。人は死してなお腐敗し、死の匂いを醸し続ける。そこで腐敗を進行させる妖怪、魍魎を退けるための術が編み出され、それを執行する術師の名を方相氏という。彼は元来、目に見えぬ魑魅魍魎を追い払う役であったものが、時代を経るごとに追われる役に廻されてしまう。ここに貴族社会、日本社会の時代の移り変わり、ひずみをみる事ができる。方相氏が最初に仕えたのは律令制の中の典薬寮という組織であったが、これは医療機関である。『新撰姓氏録』によると、内外典薬書、仏像一体とともに伎楽の調度品がもたらされたというから、これはもともと一つであったのかもしれない。

方相氏の作法は日本の祭に今も残っている。神泉苑で行われた怨霊を鎮める祭礼で現れたのが槍である。 御霊会を担当したのが近衛府だった。『拾遺都名所図会』に同社の「御霊神事」の図をみると、神幸の先頭を進むのは數十本の鉾で、武具の鉾は祭具となって辟邪の具となる。つまりこれで疫神を追い払おう、というのである。以後の御霊会の祭式はこれを踏襲している。近衛に任された以上、当然のことながら、行事に近衛色がでる。馳射、騎射、走馬など、いずれも近衛の武芸で、近衛府が御霊会にたずさわらなければ、おこなわれるはずのないものである。武器による威嚇と、武器を持つことの精神状態が、悪霊に効いたのである。(『田楽考』 飯田道夫)

魍魎をハライのけ屍を守る方相氏は、葬送の際だけでなく、都が大量の死者で溢れた際にも登場した。死者を喰らいながら増殖していく疫病、病の根源である魑魅魍魎を払いのけるためである。『続日本紀』(七九七年成立)に見える大儺の初見記録の中に、大儺が慶雲三(七〇六)年の疫病の流行にともなう措置であったことと共に、翌年二月には諸国に使を派遣して大祓を行っているということが記述されている。『内裏式』に見える方相氏は、目に見えない悪鬼を祓う(「悪鬼ヲ逐フ」)役割を果たしていたようだ。十二月大儺式の記事に大儺の記録がある。

十二月三十日の夜の九時頃、親王公家らが宮中の承明門の外に鬼を追う「儺人」が集まり、その立つのが「方相師」と呼ばれる術師がいる。四つの目をもつ異様な仮面を被り、黒い衣、朱裳を着し、巨大な盾と矛を手に持ちます。そしてその後ろには、紺布の衣、朱鉢巻をつけた「侲子」という童子たちの集団が続く。儀式が始まると、方相師が「儺声」をあげて、矛で盾を三度打つ。官人たちも「儺やらふ、儺やらふ」という声を唱和して、悪鬼を追い払って行く。

日本と同様に、韓国でも大儺の儀式の記録がある。記録伊藤好英氏の『折口学が読み解く韓国芸能』では、韓国で宮中儺礼を行なったことを示す最初の記録は『高麗史』である。しかし、五、六世紀の王族の墓からは方相氏とみられる木心漆面が出土していて、儺礼の需要は実際には新羅時代にさかのぼる。高麗時代の宮中儺礼に関する記録『高麗史』巻六四の「季冬大儺儀」の項目にある方相氏 黄金の目が四つ憑いている仮面をかぶり、黒色の衣裳に熊皮をかぶり、赤い袴(チマ)をはいて、右手に戈、左手には盾を持って出てくる。その役割は「唱師」と呼ばれ、仮面をかぶり、皮の服を来て棍棒を持つ。大儺のとき侲子たちの先頭に立って呪文を唱える。韓国も日本も中国の儺の儀礼をそのままに継承していたことがあきらかである。中国の儺戯の存在は、紀元前の十四、五世紀の商(殷)の時代にまでさかのぼる。考古学遺跡や甲骨文字などから判断すると、この時代の儺は打鬼とよばれおり、主宰者は兇悪な相の仮面をかぶって神々に扮し、これも人が仮面をかぶって扮した鬼怪を追いはらった。紀元前十二世紀からの周の時代には、儺戯が国家行事として形をととのえた。そしてこの時代に「儺」がこの種の打鬼の行事を現わすことばとして定着した。周代の儺戯で活躍する主神は方相氏であった。彼は、熊の皮を着て、黄金四つ目の仮面をかぶり、上着は黒、ズボンは朱色で、手に矛と楯をもち、侲子とよばれる、多くの神々の依代としての男女の子どもたちをひきいて悪鬼を追いはらった。

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『六国史』には、大儺儀の記録があるが、貞観年間(八五九~八七六年)まで は中国渡来の漢語である<大儺>という語が使用されていたようである。しかし、貞観以降になると、和製漢語である<追儺>という語に改訂される。すなわち、<追儺>という儀式名称が<大儺>と共に八七〇年から使われ始め、八七八年には<大儺>という儀式名称は使われなくなった。方相氏は呼ばれ方も変わって来る。『貞観儀式』(八七一年成立)では「大儺公」「儺長」と呼ばれており、悪鬼を追い払うという部分が見えない。また、『貞観儀式』と『延喜式』(九二七年成立)では、幣物(供え物)を奉った後、陰陽師が進んで祭文を読むという演出が追加された。鉾や足踏みで威嚇する大陸流の大儺に、食べ物を使ってお引き取り願う日本の振る舞いが加わったのである。渡来の大儺が日本風に演出されたのである。陰陽師が担当した日本流の儀式は『延喜式』大舎人寮には「儺祭」と記されている。追儺という名前に改められてから呪文にある「疫鬼」が「穢悪」と記された。この点は中国の大儺に見える疫鬼追放の呪文には見えない。そして、平安末から鎌倉時代初期の古写本で ある九条家本『延喜式』(九二七年成立)大舎人寮の「儺」に「ハラヒ」という古訓が振られていることも挙げられる。同書には、「侲子」に「コオニ」という振り仮名が見える。また、十二世紀中頃成立の『伊呂波字類抄』の中で「方相氏」 に「ハウサウシ 鬼名也」という記述があり、十五世紀前半成立の『公事根源』 にも「鬼といふは方相氏の事なり」という記述もある。以上の記述から、方相氏も侲子と同じく鬼のように見なされていたということが分かる。ここには、大陸の言葉を日本の言葉に翻訳し、貴族にも理解されることで仕事を得ようとする陰陽師の企てであると私は考えている。ハライもケガレもオニも陰陽師の言葉である。そして方相氏は、陰陽師が「追儺」に加わるようになってから次第に隅においやられ、とうとう追われる側になってしまった。

「(前略)方相、先ニ儺声ヲ作ッテ、以ッテ矛ヲ楯ニ三箇度叩ク。群臣相承ニ和呼シテ之ヲ追フ。方相明義・仙華門ヲ経テ北廊戸カラ出ヅ。上卿以下、方相氏ノ後ニ随ヒテ御前ヲ度ル。瀧口戸ヨリ出テ、殿上人、長橋ノ内ニ於イテ方相ニ射ル。主上、南殿カラ密カニ覧テ、還御之時ニハ ごしょうのひと扈従人方相ニ行キ逢フサヘ忌ム。(後略)」

平安時代後期の政治家・学者である大江匡房の『江家次第』(一一〇〇年成立)に書かれている。十二世紀初期の方相氏は殿上人たちによって、長橋から射られる役割、すなわち疫病鬼の役割を演じるようになった。

陰陽師も、方相氏も、悪霊を退治するという点では同業者であり、競合する相手であった。実は陰陽師は大儺の時からこの儀式に関与していた。『続日本紀』の慶雲三年(七〇六)の記事では土の牛を造って盛大に「儺」を行なったとある。土の牛は、悪鬼追放のための援軍の神々を乗りうつらせる依代で、五種の色に塗りわけて、宮城の五つの方角にすえた。五つの方角は東西中南北の五方をさし、五方と五色をあわせて中国の五行説に由来する。こうして大儺を追儺という名に改めてハライの儀式を貴族社会に普及させた陰陽師は、家庭にも赴いて生業とした。

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現在、二月三日に行われる節分は旧暦では十二月の大晦日、新しい年を迎えるための行事で、遅くとも平安時代中期までには、平安貴族の私宅においても行われるようになった。当時この行事は追儺と呼ばれた。今のような豆まきのスタイルが始まったのは室町時代の頃である。次に引く『蜻蛉日記』中に見えるのは天禄二年(九七一年)の大晦日に藤原道綱母の自宅でついなが行われた折の模様である。

鬼やらひ来ぬるとあれば、あさましあさましと思ひ果つるもいみじきに、人は、童・大人ともいはず、「儺やらふ儺やらふ」と騒ぎののしるを、われのみのどかに見聞けば、ことしも、ここちよげならむところのかぎりせまほしげなるわざにぞ見えける。

子供も大人も大声をあげて「なやらふ」という掛け声で鬼を払ったようだ。右の記事からは、平安貴族が追儺を「鬼やらひ」とも読んでいたことも知られよう。「鬼やらひ」の「やらひ」はおそらく、「追い払う」という意味の「やらふ」という古語に由来する。こうした平安貴族の私宅における追儺は、少なくとも平安時代中期には、相当に広く行われていたらしい。というのも、『源氏物語』(紅葉賀)の短い記述より、当時の子供が着いなを真似た遊びをしたいたことがうかがわれるからである。すなわち、若紫が静かに日な遊びをしていたところに「犬君いぬき」と呼ばれる子供が「儺やらふ」と騒ぎながら乱入してきたというのである。

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現在では、「舞楽」をみても、方相氏の声や姿を忍ぶ事ができる。一つは乱声であり、一つは衣装の裲襠であり、またもう一つは、鉾である。

乱声という演奏場面が行われている。乱声とは、整った楽曲をもち、笛を拍子にとらわれずに奏するものである。『教訓抄』には、集会の乱声について「諸の神事仏事為事調、最前、奏新楽乱世。一返也」とあるように、乱声とは会場の、会場に集って来た人びとの、すなわち儀式の「事を整える」ものであった。更に、萩美津夫は『内裏式』によると、乱声は東西の正門の外にて奏されたが、隼人の吠声もまた応天門の内外で行われた。『延喜式』巻二十八によると、隼人の吠声は元日・即位や践祚大嘗祭において、あるいは行幸のとき、その駕が「国界及山川道路之曲」を経るさいに、つまり曲がり角、辻、峠にさしかかる時に今来隼人が吠声を発したという。『日本書紀』が伝える異説によれば「諸の隼人等、今に至る迄に天皇の宮墻の傍を離れずして、代に吠ゆる狗して奏事る者なり」と書かれている。方相氏とは、元来このような人物であり、無事に目的地まで辿り着かなければ、災難に合った時に殺され身削がれ捧げられる役割をになっていたのだと、私は想像している。遣唐使などが舟に「乞食」をのせて行ったこともこれと同じであろう。方相氏とは、そのような人物が儀式のために仮に、「偽って仕立てられた」贖いの役を追わされていたのかもしれない。何にせよ、隼人の吠声は悪魔払いである。舞楽における乱声の笛は、そして能における能管の音は、隼人の吠声を模したものであった。方相氏においては、これが「儺声」となる。雅楽ではこれを笛で模し、「乱声」と言葉が変わった。その他、散手、抜頭は乱声、納曽利は小乱、蘭陵王は小乱と安摩乱声、既徳は高麗乱声というように、「乱声」は「舞楽」に不可欠な「声」ともいえる。

裲襠というのは、衣装の縁に特別な装飾のあるものをいい、雅な金ベリのものと、毛べりのものがある。「走物」と呼ばれた曲では方相氏の衣がこの裲襠に「雅化」されて残っている。「蘭陵王」「納曽利」「散手」「還城楽」「抜頭」「貴徳」の六曲が「走物」と言われる。すべて面をつけ、毛べりの裲襠を来て、桴または鉾をもって舞うもので、舞人は一人であるが、「納曽利」だけは二人である。納曽利は、双竜舞ともいい、二匹の竜が遊び戯れるように舞う。現在では一人で舞うときは落蹲というが、清少納言が落蹲の舞人が二人であるというように、元々は二人で舞っていたようだ。太平楽と陪臚には乱声がないが、鎧を来て武装している金襴べりの裲襠を身につける。舞人一人の曲には蘇莫者があり、古楽乱声を行う。一人の舞には胡飲酒もある。これは舞い手は毛べりの裲襠を着る。番舞は新靺鞨か林歌で、林歌には小乱声と高麗乱声がある。更に林歌の番が甘州には「種まき」という特殊な舞の手がある。採桑老も一人で舞う。番である新靺鞨は四人であるが小乱と高麗乱声がある。

太刀をはき、鎧を被り、鉾や楯の武器をもって勇壮に舞う舞を「武舞」と呼んでいる。これらも元は方相氏の持ち物である。「皇帝破陣楽」「秦王破陣楽」「武昌破陣楽」「散手破陣楽」「陪臚破陣楽」であり合わせて五破陣楽という。今は「武昌破陣楽」は「太平楽」となり、「陪臚」と「散手」は破陣楽の名をとってしまった。「陪臚」はその古い歴史を残して、今でもこの曲では篳篥が演奏されない。「皇帝破陣楽」「秦王破陣楽」は絶えてしまった。(押田良久『雅楽鑑賞』)「武昌破陣楽」の別名は「太平楽」の他に「五方獅子舞」ということも、舞楽に流れる伎楽の血を物語る。