第三夜:祝・呪・咲/第三話:大企業と俳優 

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第三夜:祝・呪・咲/第三話:大企業と俳優

 

日本の歴史で取りざたにされない以上に、芸能史上の人種、民族の交替は大きい。いつからか陰陽師の手に酔って「ケガレ」の思想が日本の庶民層にまで入り込んだ理由に学問は答える事ができていない。俳優達も日本の社会が変化するのと同じく、様々に変化していった。一つには、宮廷での儀式や芸能を司る者達、他方では、隆盛する寺院で芸能を続ける者達である。

相撲節会 散楽 近衛府 角力戯

では結局、日本の「散楽」とは何であったか。儺戯も参軍戯も散楽百戯の一つであっただがそれらは百戯の一つの側面しか描いていない。「猿楽」が登場する以前の「散楽」は、中国の散楽百戯、聖徳太子の伎楽に根をもっている。その古態は、方相氏を追い払い、伎楽という言葉を消滅させた人々が担う事に成った。その俳優たちは近衛府に所属し、彼等の百戯の名前は「相撲」つまり「角力戯」である。近衛府の取り仕切る相撲節会では、陰陽師、楽師、角力師、そして曲芸師や舞師が天皇の前に召され、勝負を行い、楽を奏した。この相撲節会の中に、風流の工夫を施した伎楽、即ち「雅楽」がかつて「散楽」であったころの姿をみることができる。聖徳太子の死後、近衛府の台頭は著しかった。御霊祭にも、本来なら死霊追放を技とする方相氏がでるところを、代わって近衛府が鉾をもち参与した。追儺も近衛府の「雅楽」「舞楽」に同化された。同化されたのは方相氏だけではなかった。舞楽には近衛府の着る装束がそのまま舞の衣装となったものがあるが、そこには二匹の獅子が描かれている。これを「蕃絵」という。蕃絵は、ケモノの力を象徴して、陰陽師とともに方相氏を追いやった。『教訓抄』の師子の項に

吹古楽乱声 其時に左師子をきて舞台の上に登る。四の角を拝して正面を立ち二度拝し之後 (止乱声)

と書かれているように、獅子は角を制した。

近衛府は、雅楽寮をも制した。現在の舞楽が左方と右方にわかたのも近衛府の置き土産である。近衛府は令制において、最初は六衛府であった。天平神護元年(七六五年)授刀衛という役所が近衛府と改組し、大同二年(八〇七年)には、さらに中衛府と近衛府の改組により、近衛府は左近衛府となり、中衛府は右近衛府になった。この左右の組織が、それぞれ舞う事から現在の雅楽でも「番舞」が踏襲されている。「方相氏」は左右に従えた鬼に、逆に払いのけられてしまったわけである。元来、衛府は主として宮城や天皇近辺の警衛、宮廷儀礼に置ける儀仗、そして相撲や競馬などにたずさわっており、また軍楽として鼓吹を奏する技術ももっていた。衛府は次第に奏楽の機会を得て、雅楽料の楽人とともに、平安時代の雅楽の一端を担うようになって行ったと思われ、弘仁五年十月の宴飲における奏楽(『日本後紀』)は衛府によるもっとも早い例と考えられう。こうして新たに誕生した衛府の楽人が主として補任された新たな雅楽教習機関が楽所であった。雅楽寮という機関の実体は、近衛府の楽所にあったのである。

典薬寮の方相氏だけでなく、雅楽寮の楽師たちも近衛府にはじき出されていく。このような右肩下がりの雅楽寮に対し、近衛府は猛威を振るった。

平安初期の嘉祥元年(八四八)には、人員が大幅に減少している。例えば舞生の状況を見ると、倭舞は十六人から二人に、田舞生は二十五人から二人に。唐楽生は六〇人から三十六人に、百済楽生は二〇人から七人に削減されている。奈良末期に古来の歌舞の独立を目的に大歌所を成立させたことも考えられるが、奈良時代の楽人はみな渡来人であったことを考えれば、彼等を「公務員」として養うよりも「下請け」に頼んで必要な時に頼めばよい、という案配であるのか。時代を経て律令制による古代国家が解体して行く中で、楽舞の中心機関は雅楽寮から十世紀半には楽所に移行して行った。楽所は、大嘗祭などの儀式の奏楽にあたって代理に臨時の場所に置かれた「楽屋」を示す言葉であったのが、内裏の端にある雅楽寮とは別に、これが大内に常設されることによって大内楽所の成立をみる。とある文献によれば醍醐朝からであるという。そして、この楽所に補任された楽人は、平安時代後期の頃より特定の家に夜独占化が進み、専門の楽家が形成された。彼等は昇殿が認められない朝廷の位階としては、五位から四位の地下官人であるため地下楽家といわれる。そして、これらの楽人は、近衛府の家から成るという。平安時代末には、こうした家がいくつか集って通常活動する集団が京都、奈良(南都)、大阪(天王寺)に形成され、「楽所」と呼ばれた。特に前記の三つの集団を「三方楽所」と呼ぶ。

追儺は中国の「散楽百戯」が日本にもたらした鬼の楽であり、典薬寮が司る儺戯であった。一方で、相撲は中国においては散楽百戯の一つに数えられ、大陸では角力戯と呼ばれていた。角力は力をくらべる意、角觝の觝は抵で「両々相当たる」の意である。漢大からある角觝は角力のことであるが、広義には散楽百戯を指し、教義には相撲の意味に用いた。これは現代では相撲というスポーツになっているが、かつては悪魔払いの儀式であった。角力の伝統は唐代にもつづき「参軍戯」のような科白劇をも角觝としている(『唐戯弄』)が、普通は相撲の意味で「王卞は出て振武に鎮し、置宴し、楽戯既に畢り、乃ち角觝を命ず」(宋、王陣裕『玉堂閒話』)といっている。周貽白氏のいうように、中国演劇の原始の形態は闘争の形から出たという考えも出て来る。例えば前出の「東海黄公」という劇の見せ場は人と虎との格闘にあった。この劇と相撲との組合わさった系統のものが唐の鉢頭の類いになるという。なお角觝は劇、角抵は相撲とする節もある。『公事根事』相撲の条には「左右の相撲人、犢鼻の上に狩衣を着て、一々に相撲をとりて勝負あり」とある。左右軍にわけるというのは、『夢梁録』(一二七四年頃刊)角觝の条に、「角觝なる者は相撲の異名なり、又之を争交と謂う、(中略)、例として左右軍相撲を用う…設額百五十名」とある。これは全く、雅楽寮を左右に分けたものと同じ思考法による。『文献通考』角力戯の項には「壮士裸袒し相摶ちて、勝負を角う。群戯既に畢る毎に、左右軍は大鼓を雷ちて之を引く。豈に亦古 者の習武より変ぜるか。」とある。革衣をきて角をとるのであれば、方相氏の出で立ち、振る舞いと変わらない。そしてこの二者競合を旨とする儀式を司ったのが、近衛府であった。現在でいう防衛庁である。

そして相撲節会で催された「楽」がすなわち、日本の「散楽」の原型である。ただし、相撲節会では既に方相氏が排除され、代わりに陰陽師が役を引き受けている。相撲節会は全国から選び集められた相撲人が左右に分かれて二日間に渡って天覧のもとに勝負を競いながら、占い、そして厄を払う儀式であった。楽舞が相撲の勝敗の結果に密接に関連して奏した。入場する力士を扇動するのは陰陽師で、陰陽師は入場すると「反閇」を行い、衛門庁の前庭で乱声を三回発する。反閇は地を踏みつける所作で邪気を払う呪法であることは既に述べた。乱声も邪気払いとされている。左右の舞についてはさらに詳しい説明がある。『江家次第』 には「必ず散手。還城楽。散更を舞い、大曲に至りては多く蘇合を奏す」とある。裏書には「散更猿楽也 」。その中には一足、高足、輪鼓、独楽、咒師 、侏儒舞等を含んだ。相撲が終わったあと、勝方による乱声と舞があり、日暮になるまで左右互いに奏舞がある(『内裏式』)。相撲は節日の神事であった。しかも、恒例の行事でなく、行うかどうかは年毎陰陽師が決めた。決まると、三月に力士を探しに、左右の近衛府から相撲使が全国に派遣される。『貞観儀式』をみると、当日寅刻に掃部寮によって設けられた座に史生以上が就座し、中務丞が内舎人を率いて相撲司に向かうと、陰陽師が相撲人を率いて反ペイし、続いて楽所の大夫が楽人を率いて乱声を奏して参入した。このときには、兵衛、近衛、衛門府の人びと並びに硯持、行司者、立ち会いなどの儀式の信仰を掌る人びとが参入する。(萩美津夫『古代中世音楽史の研究』)天永二年(一一一一)成立の『江家次第』巻第八には、相撲儀式の二〇番の取り組みが終わった翌日に行われる抜出・追相撲の終了後に奏される楽舞を次のように記している。

次左右乱声
振鉾、(左右各一節、次共又一節)
次左右各舞、随時 太極各一、(左蘇合 右新鳥蘇)自余依時、
左(必舞散手還城楽散更、 至大曲者多奏蘇合)
右(必舞帰徳狛犬吉干、 至大曲者多奏新鳥蘇)

乱声の後の振鉾とは、『小右記』の長和二年(一〇一三)八月一日条によれば「次散楽、相撲了。右大臣復本座、出居入、左右乱声、先例舞人振鉾、而不振、被仰事由、仍左出振了、還入之後右振、人々云、一度左右々振者也云々」とある。これは振鉾の初見である。乱声、鉾、相撲、散楽は一つであった。『歌儛品目』巻之九には振鉾について、「イツノコロヨリカ、ーノ字ヲ、エンブト唱フルヤウニナリタルニヤ。モトハ厭舞ト称セシトミヘテ」などとあり、厭舞は振鉾の前身であることを指摘している。「犬猿」「嫌厭」「嫌煙」「厭悪」などというように、嫌う、相容れないものを指す「厭」の音がそのまま残り、現在でも舞楽として残されている「振鉾」になった。またこの振る舞いが陰陽師の手に渡り、「反閇」となった。もしくは順番は、逆かも分からない。流行を真似るのは何時の時代も変わらない。

鉾と関連して『万葉集』の長意吉麻呂の万葉集 巻十六-三八三一に次のような歌がある

池神の 力士舞かも 白鷺の
桙啄ひ持ちて 飛び渡るらむ
(池神の力士舞のようにも見えましょう。白鷺が鉾をくわえて、飛び行く姿が。)

相撲は散楽であり、猿楽であり、散手であり、散更であり、剣気褌脱であった。時代が下っても、百戯は行われる。『兵範記』保元三年(一一五八)六月二十八日の条の相撲抜出御覧の雑芸の種類は「咒師、蟾舞、荒輪鼓、弄環、高足、二足」また『江家次第』七月相撲抜出の条の散更の種類は「一足、高足、輪鼓、独楽こま、咒師、侏儒舞等」となっている。「侏儒」とは、『和漢三才図会』に「俗云一寸法師」とかかれているように、先天的に背の低い人のことである。日本の「散楽」の由来は定かになりそうにないが、私は相撲節会の「散更」もしくは「散手」にこの由来をみとめたい。「散更」の訓みは「さんがう」で、「散楽」と同じ。「猿楽」をサルガウというように、古くは「楽」をガウと訓んだ。これが平安の貴族社会の中で、一瞬にして「さるごう」としてひろまった。筋立ては「散更」を「もどいた」者の振る舞いが、大いにウケた。物真似はすなわち「サルのワザ」である。これから「さるがう」という言葉が生み出されたのではないだろうか。

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後に「さるごう化」された戯曲のうち、「剣気褌脱」というものがある。篠原正浩は『河原者ノススメ』で簡潔に「褌脱とは動物の骨や内蔵を取り払った皮を人が着て、その獣の真似をする芸のことである」と述べている。この戯曲の名前自体が、「さるごう化」されているが、現代でも雅楽の曲名として残っている。これは『新猿楽記』においては「妙高も尼が襁褓乞い」として猿楽師達の手でさらにパロデー化されたと想像できる。「剣気褌脱」の説明として、平安中期に成立した源順の『倭名類聚抄』に、「褌脱、一云散楽」とある。他方、長承二年(一一三三)に大神基政の著わした舞楽の解説書『龍鳴抄』には、「これをさるがふと云」とも書いてある。(飯田道夫『田楽考』)剣気褌脱という一つの名前が、舞楽の曲名としても、「サルガウ」としても語られている。また「散楽」であるともいう。『教訓抄』の「猿楽」の説明には、「相撲節に之あり、剣気褌脱を奏するといき、猿楽出て舞う間、猿楽等ほをわざをす」とある。「ホヲワザ」は「方技」で、呪術的な所作をいう。『江家次第』の「相撲召合」の項には、左方、必ず散手、還城楽、散更を、右方、必ず貴徳、狛犬、吉干を舞う、と記されている。桔桿は吉干ともかかれ、相撲の節会に剣気褌脱と組んで舞われた。曲は催馬楽の「無力蛙」と同じであるといわれているが、いまは曲も舞いも絶えてしまったという。「無力蛙」という曲名だけをみれば、散楽百戯を思わせる。剣気褌脱は猿楽に用いたと『教訓抄』に記されている。これによれば褌脱は散楽の一つであるという。記録には「剣気褌脱」「輪鼓褌脱」と角調の「曹娘褌脱」の三曲が残されていたという。輪鼓褌脱は催馬楽の「安波戸」に曲があったというが、歌が絶えてしまったという。(『舞楽』)前田慎一の「散楽の舞楽化に関する一考察」によれば、 「劒気揮脱」の芸態は次のようになる。

「劒気揮脱」の「揮脱」はまた「渾脱」とも記し「資治通鑑」(司馬光)などに見られる芸で動物の皮を被ったいわゆる「縫いぐるみ」での舞といわれている。「雑秘別録」には「劒気揮脱」について「劒気揮脱は。すまふのせちに散楽雑芸とて様様のものひきまひとて。かへるのかたをかづきて。桔簡などふきて。舞にこの楽をもす。それに。あるものにこのがくをさるがうといふとかきたる。いかがあるべからむ。」と見えている。上の記述から推せば、動物の皮ごろもを被って舞を舞う伎であるから「ぬいぐるみ」 であり、これが桔簡の曲で舞うのであるが、これも猿楽の一種とされていたのである。「劒気」についてはすでに那波利貞博士や羽田享博士)の説明が行なわれ最近では浜一衛氏の綿密な考証があって中国の綱舞の系統に属する芸であるとして一本の絹の長いきれの両端に彩尾をつけたものを「舞流星」のように振る。つまり二つ折りのまん中を振って剣のように見せる。軟いきれを剣のように見せるのが芸なのであろう。と述べている。要するに日本舞踊にしばしば用いられる手である「布さらし」を連想させるに十分な舞態であってただその布が二本の剣のように硬直した感じを与える点が見ものである芸のようである。

長い布を使った舞は、韓国の伝統舞踊に現在も残っている。儀式は簡略化され、神は降ろされ、一一七四年の記録が、相撲節会の最後の記録となる。

 

修二会 咒師猿楽 師走の方相氏

世阿弥の創設した申楽は、彼にとっては神楽であった。世阿弥は、実は猿楽は神楽なのだが、この語を用いるのが畏れ多いゆえに、「示」偏を除けて、「申楽」としているのだと述べている。同じく『風姿花伝』に書かれた申楽の由来も、神楽を意識している。つまり、「聖徳太子の時代、世情が乱れた折り、六十六の面をつくって、秦の始皇帝の再誕という秦河勝に「六十六番の物真似」をさせたところ、天下は静謐に治まった。」という。この物語はアマノウズメの神楽と世阿弥の申楽を類似するものとして語っている。なるほど、『風姿花伝』「物狂」では、「物狂の品々多ければ、この一道に得たらん達者は、十方へわたるべし。くりかへしくりかへし公案の入るべきたしなみなり。仮令、憑物の品々、神・仏、生霊・死霊の咎めなどは、その憑物の体を学べば、易く、便りあるべし」という記述があることも、巫女の身体を舞い手に求めていた事を想像させる。内田樹も、自身のHPである「内田樹の研究室」で「世阿弥の身体論」という文を載せている。

例えば、シテは舞い納めて橋懸かりから鏡の間に入るとき、自分で足を止めてはならない。後見に止められるまで歩き続ける。それはあたかもシテに取り憑いた神霊が、後見が身体を止めた瞬間に、そのまま惰性で身体から抜け出すのを支援するかのような動作である。あるいは演能中にシテが意識を失ったり、急な発作で倒れたりした場合も舞台は止めてはならない。後見はシテを切り戸口から引き出した後、シテに代わって最後まで舞い納めて、舞台におろした霊をふたたび「上げる」責任がある。

この記述を読めば、芸能以前の俳優の役割を想像できよう。世阿弥は申楽の意義を次のようにも説明する。

当代に於ひて、南都興福寺の維摩会に、行動にて法味を行ひ給ふ折節、食堂にて舞延年あり。外道を和らげ、魔縁を鎮む。その間に食堂前にて、彼御経を講じ給ふ。すなはち、祇園精舎の吉例なり。しかれば、大和国、春日興福寺神事行ひとは、二月二日、同五日、宮寺に於ひて、四座の申楽、一年中の御神事始めなり。天下太平の御祈祷也。(『風姿花伝』第「神儀云」)

彼の時代には既に伎楽という言葉は無くなっていたが、彼の「芸」は寺院で行われきたものであり、聖徳太子の時代から流れている「百戯」の俳優の血が流れているのである。彼の言葉にある維摩会とは、寺院で行われる儀式である。歴が日本に導入されてから、寺院が始めた行事である修正会、修二会もそうした儀式を指し示す。『続日本書紀』の神護景雲元年(七六七年)正月八日に「勅すらく。畿内七道の諸国一七日(七日間)の間、各国分金光明寺において、吉祥天悔過の方を行へ。この公徳によって、天下太平に、風雨時に順ひ、五穀成熟し、兆民快楽にして、十方の有情、同じく此の福に霑はんと」とある。つまり、勅令に寄って、各地の国分寺では、一月八日から十四日にかけて七日間、吉祥天に対して悔過の法要を悔い改め、罪障を消滅させるための法要)を行った。これが修正会であり、修二会は二月に行う行事である。

大化改新により呉楽とその俳優達が淘汰され、朝廷の外に庇護を求めた。彼等が身を寄せた場所が寺院であり、寺院で俳優達に与えられた名前は「咒師」であった。『教訓抄』巻第三、散手破陣楽の解説に書かれた記述をみると咒師の姿が想像できる。

宝冠の装束して舞せ給けるは けたかくびびしく侍けるか 竜甲めしたりける時は咒師にそ似たりける。

このころの咒師は舞楽の装束を着せられていたようである。では、「咒師」とはどこから生まれた言葉であるのか。『唐書』百官志に「太医署、其の属、四有り。一を医師と曰い、二を針師と曰い、三を按摩師と曰い、四を咒禁師と曰う。」『大唐六典』十四に、「咒禁博士は咒禁生を掌教し、禁咒を以て邪鬼の癘を為す者を抜除す。」とあり、更に注に、「道禁有り、山居方術の士に出づ、禁咒有り、釈土に出づ。五神を以て之を神にす、一を存思と曰い、二を兎歩と曰い、三を営目と曰い、四を掌決と曰い、五を手印と曰う。皆先ず葷血を禁食し、彊場に斎戒し、以て受く」つまり咒禁には山居方術の士に出た道禁と、釈土に出た禁咒があったという。五神については『中国中世科学技術士』は「存思は精神集中、兎歩は継ぎ足であり、営目は片目をつぶること、掌決は五指を一定の決まりに従って捻る法、手印は仏教用語にあり指で結ぶ印である」と説明している。これは役行者の世界であり、この言葉によって空海が中国から伝えた真言の教え、密教とも結びつけられた新しい「方相氏」が寺院に生み出されたわけである。「咒師」は散楽百戯の俳優であり、幻術も使えたこもしれない。曲芸などお手の物である。『梁塵秘抄』巻第二、雑歌の「咒師の小咒師のかたなとり」というように、咒師走りの他にも、咒師芸と呼ばれるものには刀取りがあった。平安時代には「剣手」などと呼ばれて上下に広く知られていたようである。此の刀は、散楽百戯の刀であるし、方相氏の戈でもある。咒師散楽の尤も古い記録は『三代実録』貞観三年(八六一)六月二十八日の童相撲の条の「種々雑伎、散楽、透橦・咒擲・弄玉等之戯、皆如相撲節儀」にある咒擲(擲剣、擲倒など)が咒師の芸かと思う。咒擲と弄玉を分けて書いたのは、恐らく同じ振るまいだが「曲芸」と「呪術」の意味が使い分けられているのだろう。

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大和の猿楽座は、所属する義務として本所である興福寺に年に二回参勤することとなっていた。一つは興福寺の二月の行事「修二会」、もう一つは興福寺の鎮守春日社の若宮御祭りである。金春禅竹によって著された金春流の伝書『円満井座法式』には、興福寺西金堂での薪申楽、春日大宮での大和四座による式三番、その後に現代と同様に南大門での興行がおこなわれたことを記している。そしてこの式三番が「咒師走」と呼ばれていた時代がある。興福寺の薪能における春日神前での翁を「咒師走り」と呼ぶのは古いこと、実は中世以来であった。奉納された興福寺側には、たとえば次のような記録がみられる。

一、薪申楽、これを初む。金春・金剛・法性(宝生)の三座、参り申すと云々(中略)。二月五日、大宮伝拝屋辺において、四座の長共、色三番の儀、これ有り。「咒師走」と号す也。今日六日、大門に参り申す。(『大乗院寺社雑事記』文明十六年(一四八四)二月六日条)

興福寺衆徒の記録である『衆徒記鑑古今一濫』には、「一説には、咒師法は外相として、毎年二月五日、西金堂の修二突行者等、これを行う事也。其の比より、この表示を猿楽に預け、行はしむるところ也。それ以来、修二月の行法の退転につきて、申楽の芸能者、これを捨て去り難きにより、咒師法は二月五日、春日の社頭において、今に至り、申楽らこれを勤むるもの也。」とあり、式三番の番組が「咒師」による「走り」で構成されていたことを窺わせる。『奈良名所八重桜』延宝六年(一六七八)によると、咒師は次のような格好をしていた。

「(中略)この行ひには、大導師〔神名帳をよむ〕・導師〔過去帳をよむ〕・和尚〔貝をふき〕・咒師〔真言宗なり〕右の四人あらざれば、この行ひつとまりがたし。この内、咒師にて内陣において、かたちを天狗のごとくにし、松明をふり、さまざまのわざをなす。」

ここに出て来る咒師は、興福寺の修二会(お水取り)の期間中、二月一日(現在は三月一日)の行法の開始に先立つ直前に「天狗寄せ」と呼ばれる作法を行う。天狗の格好をしていた。相当数の台本が残る中世の多武峰の延年風流についてみると、神仙や高僧等の出現にともなって、魚類・鳥類・流などの異類が走りものとして登場する例が多い。つまり、咒師は神の眷属・精霊として表れ、「走り」を演じたことになる。役行者が従えている鬼がその例である。興福寺延年における風流の走り物に接した季瓊真蘂は『蔭涼軒日録』の寛正六年(一四六五)九月二十三日条に、「鳥獣飛び走る。巧工、神妙、もっとも人を驚かす」と記している。人の動きではないところに俳優の態がみられる。近世期の興福寺の延年ではあるが、『大乗院新御門主隆遍維摩会音遂行仁付延年日記』(元文四年(一七三九))に「走り言(詞)」としてみえる。ここでは仏堂に障碍をなす外道と、これを重複するために現れる護法(善神や毘沙門)自らが闘諍し、その所作として「走り」を演じる。

僧 是は求法の沙門にて候。われ渡天び望有るによりて、旅行びぐなたぶ趣候。早早陽雲かたむき候ほどに、  此所に座を設け暫く休ふするて候。
鬼 是は山海に住候。魑魅なるが、過去の業報によりて求法の場に障をなす。如何に御僧。
僧 何事ぞ。
鬼 たとひ見解の人なりとも、障擬をなすべき思ひあり。只大教を打ち捨てて、吾大道へ入り玉へ。
僧 天魔外道、皆仏性と聞く時は、更に邪正はあるべからず、円実。
鬼 いや言句にては論ずまじ。
此所にて僧に対してかけり、僧、杖にてあしらい
善神 是は護法善神なるが、過去の誓ひによりて、降魔のために顕る。如何に外道慥に聞け。汝久業法をう   け、求法比とに障をなすたとひ、鬼神り通かなりとも、吾が神力には叶ふまじ。
善神・鬼、共にかけり、追込にて終

寺院においては密教の教えとして伝わった神の眷属の「走り」であるが、雅楽にもこの名残が残る。方相氏が鬼を追っているのをみて、「走り」と言ったのだろう。この時すでに方相氏が鬼を追っているとは誰も思っていなかったのだろう。雅楽の場合は風流化された神仙思想であるが、こちらも散楽百戯ゆずりの動物の「舞」である。渋河鳥は「鳥向楽」とともに行道に用いられた。胡蝶楽は、勧盃という主人公の一人は唐冠に蔵面をつけ、襲装束を着て笏を持ち、四人の舞人に酒をすすめ、その従者である瓶子取は「案摩二舞」の笑面をつけて酌をする。舞楽というよりは伎楽に近い。(略)番舞は太平楽である。童舞である「迦陵頻」は林邑乱声である。登場する迦楼羅は須弥山の北方にある大鉄樹に棲み、金色の翼の両端あいへだたること三百三十六万里、日々須弥山の四海を巡翅して竜を補色し頸に如意珠を持ち、常に口から迦楼羅炎という大火炎を吐く鳥である。胡蝶も乱声。胡蝶とは、老子が夢の中で空を飛んだ姿である。また、散手は、龍甲をかぶり毛ぶりの裲襠を着た舞人が襲装束を着た二人の従者、番子をしたがえてくる。採桑老も舞人は一人であるが、老人の面をつけ、帽子のうしろに笹の葉をはさみ、松明持ち二人を先導として、鳩杖をついて係者の肩にすがってやっと歩けるような振りの舞がある。(これは昭和になってから再興された)二人を従えてくるのは、神仙思想の表れである。

伎楽には神仙思想が組み込まれている。鎌倉時代半ばに書かれたといわれる『塵袋』には次のような記述がある。

呉楽の崑崙(付・八仙)
一、呉楽の中に崑崙あり これは八仙と同物歟
八仙と云ふは右の舞こま楽也 崑崙山にすむ八仙の姿を模してまふ 呉楽と云ふは十伎楽と云ふもの也 興福寺の仏生会に此の舞あり 仏の生れ給うを悦て異類の物とも参り集りて舞をろこふよし歟 其の中に崑崙は姿も八仙に異也 崑崙とは書きたれとくろむとよむ 天竺に崑崙国と云ふ国あり (以下略)

舞楽の右方の舞う高麗楽として奏される八仙と、興福寺で行われる呉楽の崑崙は、姿が異なるという。朝廷音楽になった雅楽の舞と、興福寺の衆徒たちの延年の舞は同じ崑崙を題材にしても、全く異なるのである。恐らく、興福寺の八仙は伎楽の面影を多く残し、朝廷の八仙はそれが雅化されたものであったのだろう。また寺院でも、同じ八仙が仏教化された演出で行われたのだろう。暦応三年(一三四〇)の「法隆寺祈雨旧記」によれば、「風流は崑崙山を尋て八仙にあうたる事」とある。伎楽は「風流」の思想を残し、人々を異界へと導く劇場を作り上げ、去っていったのである。伎楽が来なければ、誰も「思想」を享受できなかったかもわからない。

咒師がかかわる鬼追いは、平安後期から鎌倉期、京洛にて院政と強く結びついた六勝寺の修二会では「追儺」としておこなわれていた。追儺の作法は龍天・毘沙門役が鬼を追うかたちがもっとも多い。

次龍天〔左右より参進す〕。予、これを催促す。次毘沙門。次追儺〔鬼三人、三匝。龍天、桙を持ち、これを追ふ。更に仏前に還り、餅を取りて退下す〕。(『勘仲記』正応二年(一二八九)正月十八日 蓮花王院修正会)

また咒師が毘沙門を追うかたちもあった。

龍天、左右より出逢ひ、相ひ帰る。替り入りて毘沙門出づ。追儺〔杵を持つ者、ならびに法咒師、次第にこれを追ふ〕。右に遶ること三匝の後、更に帰る。あらかじめ餅を後戸より出す。(仁和寺蔵『法勝寺金堂修正会次第』)

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近代に入って、龍天・毘沙門は獅子に食べられた。そして北陸地方では、現在、邪鬼を祓った獅子は天狗に手なずけられることになっている。今、再び悪霊は見えなくなった。だが、王の舞も富山県の獅子舞に登場する天狗も、鉾をもつ。ここに悪霊を威嚇し、遠ざける方相氏の面影をみることができるのではないだろうか。陰陽師に代表されている「反閇」も、元々方相氏の技であった。方相氏の技は陰陽師に受け継がれただけではない。クマなく探す、というのは、隅という意味である。中国古典劇の京劇にも臉譜と呼ばれる独特の隈取があり、背に戈を潴っている。俳優には方相氏の血が流れている。歌舞伎の荒事でも隈取りをし、刀をもつのも悪鬼を払う方相氏の出で立ちである。山の神と熊と魑魅魍魎、そして戈(槍)という舞台と演者と道具立ては乃ち悪霊をカルこと、狩猟であると思えるのは私だけだろうか。『舞台芸能の伝流』の中で、植木行宣は建保二年(一二一四)京堀川七条の歓喜寿院供養の法要後の法楽に舞われた「師子」の様子を『教訓抄』第五「師子」から引いている。ここでは方相氏ではなく、獅子が四隅を歩いている。

楽屋より庭中へ進み出て甲袍尻引を着て、中半あたりに行き立ち、甲をぬいで腰に付け、えぼしを引き立て、古楽乱声を吹す。其の時に、左師子をきて、舞台の上に登る。四の門を拝して、正面を立て二度拝した後乱声を止める。古くはここに詠が有った。次は楽を吹す。序、破、急の躰で三切り之を吹す。師子舞畢わって後に、甲を着て、楽屋に還入した。

越後奥三面の最も厳格な猟、スノヤマでは入山の最初に行う儀式が四方固めである。

これからおこなう猟の範囲の四方を固め、ここに獣を固定することから始まる。ところがこの四方固めがうまくいかず、獲ってはならないとされている獣が四方固めした範囲に入り込んでいしまうことがある。三種の熊(爪白、川流れ、仔を持つ母熊)である。このうち、もっとも気をつけなばならない熊が三妙シシ(サンゴジシ)と呼ばれる腹に仔の入っている熊である。三妙シシを誤って獲ってしまった場合、狩人はお詫びの儀礼を執り行う。この儀礼でフジカ(猟師の頭領)が唱える言葉は「桃の木の弓で八つ目の鏑矢を引いて放せば悪魔たまらず来ることができない。また、桃の木の弓で蓮の矢をとって話せば悪魔はたまらない」これを一日に三度ずつ七日七夜の間唱える。

こうした方固めの術が、咒師に受け継がれている。もしくは陰陽師の「反閇」を咒師が真似たのかもわからない。密教が原型にあるかもわからない。とにかく咒師も「反閇」を行った。咒師座であった伊勢申楽の活動をみると、遷宮にかかわって、社の建立の地を鎮めるための「方堅め」をおこなったことが知られる。『兵範記』仁安二年(一一六九)正月十一日遶に記される。

次導師昇る、先に是れ、神分導師行ひ了ぬ、法咒師鎮壇す。

また鎌倉後期の嘉元元年(一三〇三)『備前加茂川町日吉神社棟札』では禰宜(神職)が「備前吉備津宮、咒師に地鎮を請ず」という例がある。悔過の祭儀の一部を担う役僧としての咒師のほかに、散楽系の芸能者であった咒師もいる。芸能者であった咒師は、舞楽装束を模した美麗な出で立ちで、鼓と唱人の歌を伴奏とし、鈴を手にして芸能を演じた。鎌倉時代の『釈師往来』には「体は、飛ぶ鳥の軽きがごとし。態は、増犬の妙をさみす」と記されている。江戸初期の能の小鼓方幸流の口伝書『幸正能口伝書』「翁之悉曲口伝」には「其内に蓬萊之会の云ふ儀有り、四方堅め有り」という一節がある。岐阜県揖斐郡揖斐川町の北方神社ネソネソ祭文書「濃州大野郡北方村春日大明神御祭礼」では、詞章の中にきちんと申楽の役割が書かれている。

太夫 左候得は、昔村上天皇の氏を建立めされし御時、四方の出仕申楽参り集り、方を固めよとの宣旨がくだりて候
地  いいしゆ候
太夫 左候得は、方を固めし天中地中ほつふかいりやう、息災延命とこそ、方をば固められて候

方固めの行いは、散楽の時代からあったが、其の頃はまだ咒師と猿楽師は分業であった。『吉記』の一一七四年二月七日の条には「呪師十手、散楽等あり」一一八五年正月八日の条「呪師六手あり。散楽例の如し」とあり、散楽は呪師と合わせて行うことに意味があったようである。同じ人が二つの演目に登場したのかもわからない。世阿弥は聖徳太子がかいたとされる『申楽延年の記』から引用して世阿弥の創立した「申楽」の由縁を綴る。

村上天皇の御宇に、昔の上宮太子の御筆の申楽延年の記を叡覧あるに、先、神代・仏在所のはじまり、月氏〔インド〕・晨旦〔中国〕・日域〔日本〕に伝はる狂言綺語をもて、讃仏転法輪の因縁を守り、魔縁をしりぞけ、福祐を招く。申楽舞を奏すれば、国穏やかに、民静かに、寿命長遠なりと、太子の御筆あらたなるによて、村上天皇、申楽を以て天下の御祈祷たるべきとて、その頃、かの河勝〔秦河勝〕この申楽の藝を伝る子孫、秦氏安なり。六十六番申楽を紫宸殿にて仕る。

『太平記』巻二十三でも「申楽舞を奏すれば、国おだやかに、民静かに、寿命長遠なり」とかかれ、楠木正成を倒した後に彦七は祝賀会をもよおすことにし、「猿楽は是避歳延年の方なればとて」猿楽をおこなうことにする。このようにして、猿楽者は「長寿・除魔・鎮護国家」を目的とする行事にはいせ参じたのである。

延年 答弁猿楽 遊僧 参軍戯

参軍戯とは、散楽百戯の一つであり、言葉を掛け合うことに技をみる「戯曲」である。民俗学用語で「答弁猿楽」ともいわれている。能勢朝次の『能楽源流考』に唐の時代の高彦休による『唐闕史』「李可及戯三教」に参軍戯が描写されているのでみてみよう。

咸通中(八六〇ー八七三年)優人李可及なるモノ、滑稽諧戯、独り輩流に出づ。……延慶節に釈道の講論畢り、次いで倡優の戯を為すに及ぶに因って、可及は即ち儒服険巾、褒衣博帯し、摂斉して以て講座に升り、自ら三教の論衡と称す。其の隅坐する者問うて曰く、
(隅で坐している者)「既に三教に博通すと言えば、釈迦如来は是れ何人ぞや?」と、対えて曰く、
(李可及)「是れ婦人なり」と、問うもの驚きて曰く、
(隅で坐している者)「何ぞや」と、対えて曰く、
(李可及)「金剛経に云う、敷座而して坐す、或は婦人に非ざれば、何ぞ夫坐して然る後、児座するを煩わ      さん」上、之が為に歯を啓く。又問いて曰く、…(以下略)

つまり、釈迦の講義の後で、俳優の李可及が再び仏の三教を論じ始めた。そこで相方の「釈迦はどういう人か」という問に対して「釈迦は婦人である」と答えた。この答えの面白みは、「敷坐」と「而坐」、「夫坐」と「児座」はそれぞれ音が通じており、御経を呼んだりありがたい講話を聞いているのであるが音が似ているので間違って覚えてしまったという滑稽話であり、人間味のある話である。参軍戯は科白を主としたが、『全唐詩』巻二十一、薛能、呉姫十首詩に「此の日楊花始めて雪に似、女児弦管参軍を弄す」とあるから、管弦があり、したがって「うた」もあったものと思われる。

このような「諷刺」の技が磨かれたのは寺院であり、寺院は楽師たちが駆け込んだハローワークであった。このなかで伎楽は延年という名前に帰られ、俳優達は「遊僧」と呼ばれた。彼等は寺院に伝播した伎楽を特別に習い、伎楽の血をススリ、伎楽の態を為す俳優である。もしくは、散楽百戯の俳優自身が遊僧として招かれたのかもしれぬ。とにかく寺院における伎楽の舞いは、時代を経て延年と呼ばれるようになる。延年では、寺院の答弁、開口という問答が散楽百戯の「参軍戯」にあたる。延年で散所法師を呼べるほど親しい間柄であるから、弁論術を散楽法師から習うことも一つのステータスになっていたかもしれない。もしくは、聖徳太子以後、財力の衰えた朝廷の庇護を受けられなくなった寺院では、財を民衆の信仰に、そして工業製品などの交易に求めた。物を売買する市場は「市庭」であって、人々の喧噪にすら覆い被さり、注目を集める笑いの力が必要とされたのである。仏法を語るにしても、言葉のプロフェッショナルが求められた。このような背景をみれば、散楽百戯の俳優の技が寺院において必要であった。

どれほどの俳優達が庇護者を失い、散り散りになったかわからない。だがその差別、淘汰の凄まじさは雅楽寮の人員をみると参考になる。大宝元年(七〇一)に設置された雅楽寮では、和楽が歌師・舞師・笛師が二五四人であり、大陸系唐楽に携わる楽師・楽生七十二人、大陸の影響かにある半島系の高麗・百済・新羅三楽もそれぞれ二十四人、合わせて七十二人であった。ここで伎楽が和楽・唐楽・三韓楽と並んで記述されているが、伎楽師一人、腰鼓師二人であり、伎楽生と腰鼓生の人数は記載されていない。これを解釈するには、和楽の二五四人のうち舞生一〇〇人がこれに携わっていた可能性も考えてよいが、兎に角専属の楽師の数がこれだけである。伎楽の印象は腰鼓のケタタマシさにあるために、記述の無い事実の解釈は慎重に行うべきであろう。鎌倉時代初頭には東大寺と興福寺のみが聖徳太子時代の伎楽を完全な形で残すだけになった。『教訓抄』に「東大興福寺ニ残留」とあるのがそれである。現在、面影が見られるのは興福寺・東大寺の四月八日を仏生会、七月十五日を妓楽会として、「伎楽」を奏している。その後使用された散楽という言葉も、後にこれらの楽を担ったタクミたちが散所と呼ばれる寺院の附属機関に身を寄せていたからである。政権交代後、聖徳太子の愛護を受け、全国の寺院に派遣されていた「楽」のタクミたちは、どこへ行ったのか。既に「大宝令職員令」(七〇二)年には、最初に日本に来ていた百済楽という言葉が使われなくなり、唐楽と高麗楽、新羅楽の中に消えていった。呉楽と伎楽と百済楽の関係が明らかにされるべきであるが、未だに誰も手をつけていない。時代とともに「呉楽師」は離散して「散所法師」と呼ばれるようになった。散所は、寺院に近接した「下請け会社」である。ここで働く楽人の地位は、奴婢である。『東大寺要録』の寺奴の職掌についてふれたところでは、施入された二〇〇人の奴婢の職掌について、「私云」として、「又、歌舞音楽の曲を伝え、供仏大会の儀式に備えり。それ子々孫々、相継ぎて寺奴婢の職掌として、今に寺役を勤仕し、諸会に供奉せり」と書かれている。神護景雲元年二月に興福寺で行われた奏楽においても、「山階寺に幸す。林邑及び呉楽を奏す。奴婢五人に爵を賜う事差有り」とあり、朝廷の保護を失った芸能者たちの後ろ姿をみることとなる。散所を「山所」と読むこともできる。山を伝えば北陸、東北に辿り着く。人知れず死んでいく俳優達の最後を看取るために、このように想像するのも間違いではない。

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参軍戯の技が使われるようになったのは、咒師として寺院の儀式に使えていた俳優が、余興の散楽をする中で「衆徒」との出会いがあったからだろう。以後彼等は、手を組むことになる。衆徒たちは寺院にいながらにして、高僧とは別に俳優を呼び、「延年」を行った。それは高僧達が法会で行う厳格な「法楽」とは異なる、「大衆」の「猿楽」であった。そして延年の義は文字通りに解せば五穀豊穣、国家安泰であるが、実際は高僧を中心とした寺院世界に対抗するための「参軍戯」そのものであり、「文武両道」の世界であった。例えば次の話が象徴的であろう。比叡山東塔の学生(修学僧)らは庚申待ちの夜の戯れに散楽に興じていた。それは苦住者(修行者)の真似を面白おかしく演じるという者であった。これに怒った苦住者は学生をとらえ、縛り上げてから顔に犬糞をかけ恥辱をくわえた。これをきっかけに、今度は東西両党の学生が群起して中堂の苦住者を襲い、山上は阿鼻叫喚の合戦の庭と化したのである。(『長秋記』長承二年(一一三三)七月二十一日)寺院で悪態をつき、武力を以て権威にたてついてきた大衆の歴史がある。

凡そ、近年の山門の為躰、経論を講ずるべき同舎は、悪党閉籠の線状なり、砲弾を専らとすべき学窓は、凶徒謀略の会所なり、甲冑のほかに身には法衣なく、弓箭のほか手に経をもつことなし(鎌倉文書三五・二七〇一二)

鎌倉時代の末期の比叡山の様子である。彼等は衆徒、堂衆とも呼ばれ、大勢集まれば大衆と呼ばれた。本来は身分の低い僧侶として仏の修行に励むべき彼等であるが、日課は刀や弓をつかった悪霊払いであったようだ。 中世の寺院社会では、みずからの主権のために、みずからの我執と驕慢のために、寺院には武力が必要であった。後の信長も奇襲し焼き払わなければ抑えられなかった脅威的な兵力である。建武三年(一三三六)に足利尊氏が入京し、その後「イクサ(戦)ハシマルアイタ、キヤウ(京)シラカワ(白河)ヤケウセ」たという(『祇園社記続録』建武三年十二月)京洛は武士の館の外は「在家の一宇もつづかず、離々たる原上の草、累々たる白骨、くさむらにまとはれ」つという風景は、合戦のたびに出現していた(『太平記』巻三十三)津々浦々にわたる勧進、国内外との交易、その他もろもろの特権によって懐を肥やしていた寺院にとって、身を護るために武装することは必然であった。このようにして俄然威勢と力をつけていった大衆は集団となって、刀と槍を以て寺院の権力、社会の秩序を揺さぶる力となった。その精神的な原動力は僉議の場でみられる。松尾恒一『儀礼から芸能へ 狂騒・憑依・道化』

僉議にも王の舞が舞われる。『源平盛衰記』巻四「山門神輿振り、附豪雲僉議、並頼政歌の事」に書かれている山門延暦寺の僉議の様子。山門の僧侶豪雲は、後白河法皇の御所において、法皇の質問に対して以下のように奏上している。

山門の僉議と申すことは、異なる様に侍り。歌ひ詠ずる声にもあらず。経論を説く声にもあらず。まさ差し向かひ言談する体をも離れたり。先づ王舞を舞ふなるに、面摸の下にて花をにがむる事に侍るなり。三塔の僉議と申す事は、大講堂の庭に三千人の衆徒会合して、破れたる袈裟に頭を裹み、入堂杖とて三尺ばかりなる杖を面々に突き、道芝の露打払ひ、小石一つづつ持ち、その石に尻懸け居並ぶるに、弟子にも同宿にも聞きしられぬ様にもてなし、鼻を押へ声を替へて『満山の大衆、立廻られよや』と申して、訟への趣を僉議仕るに、然るべきをば「尤も、尤も」と同ず。然るべからざるをは「この条謂れなし」と申す。

王の舞は、鉾をもって悪鬼を祓う振る舞いであり、方相氏の振る舞いを「王の舞」と名づけたのである。この場合は寺院の学僧や高僧たちを「悪鬼」とみなしての行動であろう。この抵抗力、集団力が寺院の権威を天狗のように揺り動かし、延年という場で多くの芸人の芸能を作り上げて行くきっかけになった。延年は理念を持つ響宴であり、衆徒の経済力、組織力を高僧たちに見せつけ、更に自分たちも一致団結する儀式であった。

高僧達が法会に際しておこなう「番論議」という仏法問答の場も、衆徒の批判精神を潤す延年の源泉である。元々は学侶の研学を目的とし、問者と答者が仏の教えを論議する場、現代ならばシンポジウムの時間であった。その番論義の主体が完全に衆徒へと移ったものが、延年である。延年は本来、盃事ののちに演じられ、賓客饗応を目的とした宴であり、推参した衆徒が賓客に対して奏していた。だから延年の中でも「当弁」という番組が組み込まれている。『円光大法師行状』比叡山における如法経の法事の後の延年では、「遊僧」による夫催・床払・剣議・披露・仮屋楽・中の倶舎・乱舞・糸縒・韓神・朗詠・白拍子・開口・当弁・伽陀・連事・児催・風流・大頭・相乱拍子・退出楽が行われている。衆徒は寺院に所属する僧侶のうちでも地位の低い者たちである。『寺門高僧記』講会は、学侶研究のための番論義を主な行事としたようであるが、まさに始まろうとした丁度そのときに、衆徒が大挙して推参、その数は講場をあふれでるほどであった。この衆徒に対し退去するように命じたのであるが、衆徒は会場に居座る。その後、高僧による論議が行われる最中「異形之類、大咲、去」と書かれているとおりである。衆徒たちは狼藉をたしなめられたのだが、何ら悪びる様子もなく大いに笑っている。この笑いは寺家の高僧にたいする揶揄・嘲罵、あるいは公の儀式に対する挑発である。もともと番論議にはこのような作法があり、問答にあやまりがあれば、聴衆一同、板敷を叩いて笑いあったり、あられを投げつけて答者をおいったてたり、あるいは優れた答えにたいしては、一同扇を仰いで賛嘆することになっている。ただし大衆はそれを極端に行い、秩序からはみ出していた。(『台記』一一四二巻三)(『 延年の芸能指摘研究』松尾恒一)

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亀は千年、鶴は万年、衆徒は延年である。

延年では人々を縛っている静かで抑制的な修行・修学の生活がたちどころにぶちこわされ、高声とどよめき、笑いと怒号、そして喧騒が空間をおおうことになっている。大衆は権威ある高僧に対して大衆の姿を映し出せる儀式空間、すなわち集会の場において延年を行った。彼等はだれもが裏頭をし、発言するときには王の舞(乱舞のひとつ)を演じるときのにがり声をだした。こうしたことは、個々の僧がもつ常の人格を無化し、ひとつのかたまりのなかに融合させていくためのシンボリックな仕掛けであると理解できる。芸が行われる庭の正面には、高僧が儀式を執り行う空間がある。大衆は延年をとして上層の貴族僧の権威を嗤い、蹂躙しようとした。大衆は此の場で「濫言を吐き」、諷刺的な物真似をもって、権威に裏打ちされた上層貴族僧の秩序感覚と心的安定感を壊していった。例えば、『三会定一記』という本に依れば、白河院の時代から興福寺では延年をしてはならないことになっていたが、歴仁元年(一二三八)の維摩会の際には、見物の大衆がときにのぞんでこれを催促し、結局は押し切るように催された。また寛元三年(一二四五)の維摩会では、十月十四日「延年これ無し」とあるものの、「十六日夜半にこれ有り、大衆の責めによるなり」という結果におわった。明らかに寺院の上層部は延年を忌避し、やらせまいとしているのに対し、大衆はこれを好み行うものとしていた。 衆徒は、儀式を中断させ、これに介入し、延年という名目で庭上よりへ奉じる。という。『残夜記』に次のような記述が有る。

左右楽屋欄声してのち。又乱声して舞人ほこをふる。まず左。次右。次左右あはせふる。これをば莚舞とも云。又三切りの乱声ともいふ。其後獅子舞事もあり。菩薩そりこあり。又鳥蝶もまふ。所にしたがひてやうやうあり、法会の舞とてあり。又供養の舞とも云。

莚は「むしろ」であり、のびる、はびこるという意味がある。これが即ち、延年である。

雑芸人たちの特技は模倣にある。例祭において滑稽な動きをして笑わせ、驚かせ、人々を虜にするだけが仕事ではなかった。寺院における猿楽者の仕事は、年の初めの悔過法会と、その儀式の後に行われる延年の二つである。悔過法会は別名修正会、東大寺ではインドの正月に合わせて旧暦二月に行っていために修二会と呼ばれる。修正会も修二会も趣旨は同じで、疫病などの災いは身から出た錆とみる仏教の因果応報の思想の元に、過去の罪を悔い、罪報をのがれるための儀式である。修正会の始まりは、興福寺文書によると神亀五年(七二八年)になる。東大寺では、七五二年に二月堂で修二会が始められた。奈良地方の古寺で行なわれるものが著名で、特に東大寺二月堂の修二会は「お水取り」の通称で知られる。若狭の国の遠敷川から送られた水を須弥壇の下の香水壺に移し、信者にも配る儀礼が注目されてこの名がついた。また薬師寺の修二会は「花会式」の通称で知られる。この悔過法会で猿楽者は咒師として若しくは咒師によって追い払われる鬼やケモノとして舞台に上がった。猿楽師たちは密教的な悪魔ばらいの行法をつとめたため、法呪師とも呼ばれた。これを現代の学者は呪師猿楽と呼んでいる。

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この悔過の行事の後、鬼は仮面を脱いで次の出番の支度を始める。それは修法の完了と同時に、施主の殿や一山の大衆参加のもとに開催する集会であり、宴遊の法楽であり、後に延年と言われる宴会である。上代に神社に奉賽されていた東遊とか倭舞とかいうものは皆全く古典舞踊となってしまって、溌剌たる宗教的情緒と一致せず、一般民衆の満足を買うことができなくなっていた。そこで、型にはまった祭祀としての舞踊以外に、その活々とした信仰心を満足させるために、ここにをかし法師の演ずる田楽が新たに神社の祭礼に用いられた。田楽は、もともと「がく」という太鼓の名前であり、それを「でんでん」と鳴らした事から「でんがく」と呼ばれたかも分からない。それは国家泰平のために聖徳太子が庇護した伎楽俳優達の雨乞いの舞いである。「でんがく」とは「電楽」でもあることを、忘れてはならない。この太鼓の音が、百姓達の元気を養い、また豊饒を期待させ、日常生活を暮らしていく節目を新しく作ったのである。かくして年とともに田楽と祭礼とは密接な関係が生じ、祭礼には獅子舞と田楽とは欠くべからざるものとなった。そのために田楽法師の田楽の他に巫女の田楽もおこなわれたのである。荘厳な悔過の後に催される宴を延年という。藤原定家の『明月記』に「山門衆徒の乱遊遊宴を延年と称す」とあるように、大寺院の法会の跡で余興として行なわれる芸能を言う。延年が他の芸能と違っていたのは、高僧の性の相手であった稚児に歌や踊りを演じさせたり、白拍子と呼ばれる男装の遊女による芸が行なわれる点であった。とくに「糸縒」という曲は、緋の袴に色小袖という女装姿の稚児が、恋人を待ちわびる女性の、もの狂おしい気持ちを歌った物である。これが美童に思いをよせる僧侶らにとっては、たまらないものとして人気をあつめた。『常行三昧堂儀式』によれば、七日に渡る修正会のあいだに、多くの芸能が演じられている。これは「延年」とよばれているが、決して余興ではなく、この芸能の「ウケ」によってこそ、社寺が民衆の信仰を得られるかどうかがかかっていたに違いない。具体的には「催馬楽」「白拍子」「早歌」「田楽」など、平安時代以来、巷で演じられていた芸能と「倶舎舞」「袈裟脱」「切拍子」「居曲」「足上」などの芸能的な所作がそれである。(翁と観阿弥 能芸の発生 松岡心平)徳治三年(一三〇八)の八月二十二日、大和の法隆寺で行われた別当の拝堂の儀式の様子は次のようであった。

このとき聖霊院の前では、若音の稚児・猿楽衆による延年がもよおされた。翌二十三日には、別当棒のまえで延年・田楽・風流がみられた。田楽は一〇人の成業(学問を成し遂げた)寺僧が演じ、風流には猿楽衆と若音の稚児があたった。供奉の稚児は七人、みな管弦の奏者で鎧を来ていた(『嘉元記』)延慶三年(一三一〇)四月五日、照らそう下﨟文の弓風流という催しが西薗院の前でひらかれた。出演者の大衆のうち浄泉房は「コテ・ハラマキ・ヌキヨロヒ」の姿をしていた。稚児役の春力殿・春乙殿はともに赤糸威しの鎧、金剛殿・石松殿は萌黄威しの鎧で身を飾っていた。また、元応三年(一三二一)九月二十五日、聖霊院で雨悦(八月以来の祈雨による降雨を感謝する意味であろう)の番論議が行われると、その後に延年・風流が催された。風流に供奉する稚児四人は腹巻にて太平楽を舞った。次いでしたのは陵王とつづき、納蘇利でおわった。((天野文雄「延年風流」『日本芸能史2』第五章部分))

太平楽は当時、甲冑を着用する芸能演目であったらしく、貞和五年(一三四九)新庄堂の創建供養にも「ヨロヒ四両キテ」太平楽が舞われている。

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『教訓抄』より二十年前の建保元年(一二一三)興福寺結摩会に延年が有り、その後日の芸能として田楽・猿楽の催された記録がある。延年・田楽・猿楽の並行する三芸能の結合は以前からあったのである。すべてに共通するのは、曲芸、軽業といった百戯、そして物真似である。ここでも「散楽百戯」の俳優の血が流れ続けている。百戯が即ち、時代を越えて名を変えて「田楽」になる。田楽は風流化した散楽である。俳優は人間を演じない。そこでは、高足にのった役者は宙に浮いているようであるし、品玉で浮いた玉を背中にしているようにも見える。火を吹いてもいいし、猛獣を従えていてもいい。これも伎楽の本意とした仙境の生き物を魅せる技である。宝治元年(一二四七)興福寺維摩会に崑崙就修学者の風流が催された記録が、延年能の曲名が書かれた最初の例である。この時代までも、延年に崑崙が催され、最古の記録として発見された偶然は、伎楽の俳優達の怨念が為した技であるかもしれない。最後に、肝心の「開口・答弁」の様子を伺う史料に出会う事がなかった私であるが、代わりに統治の「開口・答弁」を想像できる材料が韓国にある。パンソリである。