第三夜:祝・呪・咲/第四話:ハローワーク散所

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第三夜:祝・呪・咲/第四話:ハローワーク散所

聖徳太子の死と、百済の滅亡によって、日本は「韓国」から「中国」へと外交政策を変えた。ここから「伎楽」が「散楽」と呼ばれるようになる。そして百戯の俳優達に新しくつけられた名前は、声聞師、ホガイビト、大黒、エビス、猿楽師、曲舞、散所法師等々である。

ほがう声聞師

いつの時代からか、散楽百戯とよばれた多様な技芸を指して「猿楽」という言葉が使われ始める。猿楽は、散楽の内容と言葉が日本語化したものである。文献にでてくる初見は九三六年の相撲節会『舞楽要録』である。桓武天皇が七八二年に散楽戸制度廃止して以来、大陸から渡ってきた文化を日本流に名前をつけ直す心があったのだろうか。猿の楽とはうまい名前ではないか。宮中で祭祀を司る「猿女君」やヲカシ法師の「猿真似」、猿に芸をさせる「猿廻」といったイメージからでてきた「猿」なのかもしれない。言葉は人間の好き勝手に生み出され、使われて来た。私たちも「猿」という言葉から猿楽のそのままの姿を想像しさえすればいいだろう。

猿楽者は人々を笑わせることに芸の新しさがあった。また笑いを生み出す幸福感を与えることで人々の信頼を得る仕事であった。現代で言うエンターテイナーである。そして彼等の技は、何よりも目出度い言葉を使う事であった。新年の正月や修二会と関連して行われた「千秋万歳」「左義長」にもこの猿楽が登場する。大納言山科言継の日記『言継卿記』の天文二十三年一五五四年正月四日条に、「禁裏千秋万歳に参、御近所の声聞師也。五人有之」このときの舞の曲には常盤・鞍馬・烏帽子折・吉盛・秀平・腰越・木曽願書・敦盛・那須与一・箱根詣・和田酒盛・百合若・張良等があって、どうやら後代幸若の家に伝へた者と同系統であるらしい。『お湯殿の上の日記』では、判をおしたように「大こくかたう千しゅ万さい申」と書かれている。しかし、一四八八年正月四日には、「大こくかたう千しゅ万さい申。うたいまい色々申」とあり、祝言を述べるだけでなく、歌ったり舞ったりもしている。三日後の日記には、「北はたけかたう千しゅ万さい申。ちごつれてくせまいまふ」とあり、北畑は千秋万歳に加えて、稚児の曲舞をみせている。大黒舞は室町時代に酒宴などの間に行われていた一種の舞踊である。当時尼舞、小人舞、鷺舞、狸舞と同じ系列のものだったかもしれない。『花園院御記』にも「千秋万歳参入。猿楽三番了」、「千秋万歳参入、散如例」とみえ、猿楽の催しのなかで千秋万歳が行われたように書かれている。両者は同じで、吉慶事をおこなったのである。「北ばたけかたう」という芸人が伏見宮で年の初めの猿楽を行った。その内容が宝怍長久、国家安泰、五穀豊穣であったことは容易に察せられる。そこで、新年の猿楽は特に千秋万歳と呼ばれたものであろう。猿楽が延年の法と見られた理由もここにあった。猿楽はいろいろな芸が集まり一つの「猿楽」という雰囲気を醸し出す芸能です。そしてこの猿楽はその時々に行なわれる行事の趣向に合わせて芸を変えていきましたが、コトホギには手慣れた法師たちの手に依れば、褒めちぎることは容易いことである。平安以前の台本がないから、能狂言の『靭猿』及びそれを歌舞伎の世界に移した『花舞台霞の猿曳』(天保九年一八三八初演)に載っているものを引用する。

〽ハァ、猿が参りて、こなたの御知行、まっさる目出度い能仕る。おどる手本てもとたちみ馬や、牧おろしの春の駒が、鼻をそろへて参りたり(下略)

と冒頭にうたい、最後は

〽(前略)猶千秋や万歳と、俵を重ねてめんめんに、く、く、楽しう成こそ目出たけれ

と納めている。

禁裏三毬打の家元たる山科家言継卿の日記に依れば、正月十八日早旦の三毬打の時に限り、必ず唱門師が参上して之を囃す例であった。その「囃す」と云ふのは、日次記事には「首に赭熊を著け鬼の面を蒙り、羯鼓を撃ち横笛を吹いて舞ふ」のだとあるが、言継卿記には、単に例年の如く声聞師が烏帽子に襖にて参り、或は棒振、蔵大鼓などがあった、などとあるのみで、却って詳しい記事が無い。大黒と云ふたのは其楽隊の頭立つ者のことらしいから、多分は後世の大黒舞松囃などと同じ所作をした者であろうか。江戸時代中期に編纂された百科事典『和漢三才図会』では「止牟止」と題して次のように説いている。

正月十五日、清涼殿の庭に置いて、青竹を焼き、以て吉書を天に上げらるる。十八日、また竹を飾り、袷扇あふぎを清涼殿の庭に結びつけ、これを燃す。唱文師大黒松大夫その徒四人(二人翁形、二人嫗形)鬼面をかぶり、赤熊を髪をつける。二嫗は太鼓を携え、二翁が舞のに従って、これを打つ、童子二人、素面で赤熊髪つけ、腰鼓を打つ。傍に袂肩衣を着たるもの五人並び立ち、これを囃すに「止牟止也」という。袷袴を着た一人が和して「波阿」という。まだその由来を知らず(原漢文)

清涼殿とは、平安京の内裏にある建物である。三毱杖は「左義長」とも綴り、民間では「どんど焼き」ともいう。古くから宮廷で行われていた行事であるが、歌垣が万葉の時代から風俗として山の向こうやらあちこちで行われて居たように、この行事もおそらく「ドングリ時代」から民間で続けられてきた行事であろう。現在も旧正月に地方へ赴けば、大陸でも日本でも同じ光景をみることができる。『濫觴抄』は三毱杖を「天狗祭」とよぶ。山梨から長野にかけての地方では、サギチョウは同祖神の祭としている。もともとは宮中の正月行事で、正月の子供遊びである「毱杖」ポロにあたる毱打でつかうスティックを三本束ねて約ことから出たなだという。だが実際に燃やしているのは竹や藁である。江戸の儒者篠崎維章(一七三八年没)の『故実拾要』は、「爆竹」をサギチョウと訓ませ、ほぼ同様の説をあげる。『故事類苑』に「文政年中行事」三毱杖図というのが載っている。右の説明通りで、焼いているのはやはり青竹で、毱杖ではない。「爆竹」というから、太い妄想だけでも燃やして、跳ねる音で、邪鬼を払う算段かと考えていたら、思いの外細い葉竹である。しかも、青竹を焼くことが目的かと思っていたら、青竹は庭の隅におかれ、行事の主体は、庭の中央で繰り広げられる大黒一座の所作ごとである。

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猿楽師の俳優は民衆の田植の儀式、行事にも登場する。誤解を恐れずに簡単に申すと、曲芸をしながら田んぼ囃すことを「田楽」と言う。もしくは、田楽座という組織によって行われたものが、田楽であり、それを真似して地方に伝わった芸も田楽という。または、聖徳太子の伎楽のうち「雨乞い」を題目とする曲を特別に田楽といった。宮中や寺院といった当時のスポンサーについて、盛大に芸を行う集団であった。田楽座の俳優たちは田植を囃し、国一国を支える実りを、季節の折々に祈ることが仕事であった。「はやす」という言葉からは「生やす」だとか「せかす」であるとか、とにかく「元気づける」ことである。当時「田楽」というのは、村で行なわれたり宮中で行なわれたり、都で行なわれたり、貴族、農民、もしくは専業の猿楽法師によって行われ、豊作を祈り神を迎え入れるための楽であった。田楽の「ガク」とは、太鼓のことで、「デンガク」とは、田囃子のためつまり田植えを囃すために専用に作られた太鼓をさす。明治維新に絶えた伊勢の神楽の神楽役の家に伝えた詳しい儀式書「外宮大大御神楽儀式」の楽器の項に、「太鼓一面 ガクト称ス、壷二居エ桴二枚ヲ加フ」と見えている。田楽が描かれた巻物等をみると、簓という楽器を擦りながら楽を奏し舞っている。祭に娯楽性を添えるために、田楽は、ささら・鼓・笛で囃す他に、散楽で行なわれていた高足・方な球かたなだまなどの曲芸も吸収して演じた。「田楽」という語は九九九年の『日本紀略』に初めて出て来る。四月祭りに淀川の港津の山崎の人が田楽を演じたとある。「田楽」という言葉とともに田植え行事の具体的な描写を行なっているのは一〇九二年『栄華物語』巻十九の「田植御覧」が初見である。ただし、此所に出てくる田楽とは、実際に村で行なわれたものでなく、藤原道長が治安三年(一〇二三)に田植遊びを上東門院(一条天皇の皇后)に見せた際の模様である。

さて御覧ずれば、若うきたなげもなき女ども五六人ばかりに堂袴といふ物いと白く着せて、白き笠ども着せて歯ぐろめ黒らかに、赤う化粧せさせて続けたてり。田主たあるじ)といふ翁、いと怪しききは衣着せて破や)れたる大傘さ々せて紐解きて足駄はかせたり(中略)又田楽といひて、怪しきやうなる鼓腰に結いつけて笛吹き、さ々らといふ物突き、さまざまの舞いして、あやしの男ども歌うたひ、心地よげにほこりて十人ばかりゆく。そが中にもこの田鼓といふ物は例の鼓にも似ぬ音して、ごぼごぼとぞ鳴らしゆくめる。

また三島神社では、御田植を狂言風に仕組んだものがまた一脈をなしていて、登場人物から田楽の様子をうかがう事ができる。田主一、穂長一、福太郎一、早乙女二、汁持一、大平役二、鼓役二、太鼓一、牛役子供一などがでて、苗代打からはじめ、牛の田鋤、種蒔き、鳥追い、夕立雨などを、同じく寸劇風に演じている。『大衆芸能資料集成』によると、田楽には「田植舞」というものがあり、それは次のようである。

〽早苗をとりて田植給え
いや思い思いの 玉襷
水口おりも おりわたせ
鳥々も 代ならせ
池野はたも いかにおり
いつつには植えすせ
田唄を歌うて 田をばそんぼらえ
とこいまらじいな まだならかやしたそうらり
さいとまかした いやこんまり早稲から
いや細かに植えましょ やんや新田
これは九月の節句もの
おさざ餅の 粘ばいので
まずやねんごろに さァしょれやしょれ
早や植われば なかなか目出度い
目出度いところは

こうした田植の一連の動きを演じてみせる演出は田遊びといわれている。田楽がどこからか湧いて生まれ、広がるに従って、近江の若僧八人が田楽座を結成する。これを白河田楽座とよびました。田楽が遊びとして貴族の間にも流行し、生計がたてられるようになったからだろう。田楽法師のなかでは喜阿弥・一忠などがいた。田楽は元々、金持ちに頼まれて芸を披露していたのが、時代を経るとともに民間に下ることになる。

田楽は時代や場所とともに姿を変える。「安藝群吉良川村字濱の八幡宮にては三年に一度づつ御田祭の儀式あり。踊りの組の中には練と称する者六人あり。竹のミゴに紙を張りたる大笠にシデを附けたるを被りササラを持つ。太鼓を打つ者二人之に随ふ。其外に女猿楽、田打、エブリサン、田植、田刈、地堅めなど云ふ役あり。」とあり、今昔物語り巻二十八の田楽の条に、「ひた黒なる田楽を原に結び附けて袂より肱を取出して左右の手に桴を持ちたり。或ひは笛を吹き高拍子を突き□□を突き朳を差してさまざまの田楽を二つ物三つ物に儲けて打罵り吹き乙でつつ狂ふこと限無し」エブリは農具である。鍬のような頭をもった木の棒である。和訓栞には「酒屋にても之を用いると云へり」とある。道具を変え趣向をかえ、時代に合わせて田楽は豊作祈願の芸能として現代にも残され、たとえばエブリは青森県八戸の「えんぶり」という行事に今も残されている。

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風流とは、心の風通しを良くする楽舞である。山城宇治の離宮明神の祭礼之様子『中右記』一一三三年五月八日条「今日宇治鎮守離宮祭なり。宇治辺の下人之を祭る。・・・巫女・馬長・一物・田楽・散楽法の如し。雑芸一々。遊客勝て計うべからず。見物の下人数数千人。。。。田楽法師原其の興極りなし。。笛に定曲無く口に任せて吹き、鼓に定声無く手に任せて打つ。鼓笛喧嘩、人の耳目を驚かす。神輿の致す所礼あり。」宇治離宮祭にいちはやく成立した田楽を主たる神賑いとする祭礼はこうして各所に行われてくる。奈良の春日若宮祭は、田楽が大きな比重を閉めた祭であり、往時の形態を今日に伝えて名の高いものである。

一一三六年の興福寺で行われた若宮祭にも、猿楽者はしゃしゃり出る。流石に興福寺の祭礼であり、その勢威を示して当初から盛大を極めた。なかでも人目をお引いたのが渡物であるが、それは楽人・日使・巫女・細男・散楽・競馬・流鏑かぶら馬そして田楽という次第を持ち、翌年には十烈・東舞、ついで一物・相撲を加えて、大掛かりで華麗なパレードを繰り広げた。そこには芸能づくしと言った感があり、事実芸能最適な色彩を強く帯びたのだが、呼びのものとなったのは田楽である。田楽執行のために特に田楽がしらが制度化され、田楽法師のための装束賜という慣例が成立したことは、この祭礼がいかに田楽を重視したかを示すものであろう。若宮祭は、「そもそも崇徳天皇の御代に飢饉疫病相次ぎ、万民大いに苦しんだので、時の関白藤原忠通が、その災厄の鎮送と五穀豊穣、天下安泰の祈願を込めて行った」ものなので、田楽はその祭りの目的に叶った芸能だった。だから、「後世、田楽のみは、若宮祭を宰配管理する、春日神社の氏寺に当たる興福寺衆徒の直接の庇護を受けることに成り、例年興福寺に参っては、装束その他の贈り物をいただく特権を得た。疫病は冷害などの大規模な飢饉で起こり、食糧不足によって免疫力が低下した際に生じたものである。

さるがう咒師

猿楽と申すは、おかしき事をいひ続けて、人を咲はかし、侍るぞかし

『源平盛衰記』の「澄憲祈雨事」に描かれる猿楽の笑いは天戸の岩の前で天鈿女命八百神を咲わせた話を思い出させる。花の「咲く」 ことと人の「笑う」ことが同じ漢字で表記されていたことに重大な意義を感じる。本田安次氏の『日本の伝統芸能 第一〇巻』には、そんな笑いの重大さを見事に描きただしているので引用する。

笑の工夫は古くからあった。「古事記」によると、天の石屋之神事に於いて、高天原動りて八百万神が共に笑ったとある。これは天鈿女命が、胸乳を掻き出で、裳紐を陰上に押垂れ、神懸かりした様子が可笑しかったので思わず神々がわらったやうに受け取れる書き方がしてあるが、しかし、「日本書紀」には、ウズメノミコトが、巧みに俳優し、神懸かりもしたとあり、神懸かりとは別に、その俳優が笑のもとであったらしいことは、天照大神が「如何にぞ天鈿女命かく戯楽するや」とのたまふたとあることでも考えられる。即ち、アマノウズメが巧みに俳優して、神々を笑わせたのである。鎮魂の神事は、そこに集ふた人々の気持ちを一つにし、我を忘れしめ、心持ちの高揚をはからねばならなかった。神酒をいただくこと、芸能の雰囲気にひたること、笑などによって一座の気持ちを一つにすること等は神事には大切な要件であったように思われるのであります。

平安時代の猿楽の訓みはサルガウで、「さるがうごと」は滑稽なことを意味した。清少納言は『枕草子』一四〇段 「つれづれなぐさむるもの」の中に「さるがひ」をいれている。「男などのうちさるがひ、ものよくいふが来たるを、物忌なれど入れつかし」つまり、男性などで、冗談をいいよく喋るものが来たら、物忌の時でも歓迎だ、という意味です。物忌とは平安貴族の風習の一つで、貴族達は物忌の間、禍が降り掛らぬよう家から外に出ないようにした。また、法聖寺座主の手による『栗田口猿楽記』にも 「猿楽と申事、皆人狂言綺語の戯とのみおもへり」(猿楽というものは、凡て狂言綺語の戯れだ)、 『新猿楽記』にも猿楽の芸をみた藤原が「都て猿楽の態、嗚呼の詞は、腸を絶ち頤を解 かずといふことなきなり」(これは全部猿楽の技で、一言一言が腹をよじらせ顎が外れるほどおもしろい)という記録を残している。おもいつきの座興、ちょっと人の笑を誘うことをサルゴウといった。『宇治拾遺物語』「倍従家綱行綱互ひに謀りたる事」と題する話は「これも今は昔、倍従はさもこそはといひながら、これは世になき程の猿楽なりけり」との書き出しで始まる。堀川院の時代、内侍所で御神楽が行なわれる夜に、面白いことをやってくれと頼まれた家綱とその弟行綱の行なった猿楽の様子が描かれている。

殿上人らは仰せを承っていたので 「今夜はどんなことをするのだろう」と目を輝かせて待っていると、雅楽の舞人の長が 「家綱召す」と召すと、家綱が出て、たいしたこともせずに引っ込んだところ、帝をはじめ、皆特に言うこともなげであったので、人長は再び進み出 「行綱召す」と召し、行綱が、実に寒そうな様子で膝を股までかき上げ、細脛を出してわななき、寒そうな声で 「よりによりに夜の更けて、さりにさりに寒きと、ふりちうふぐりをありちうあぶらん」と言って庭火の周りを十辺ほど駆け回ると、帝から下々の者らまで笑いどよめいた。

昔の記録は貴族の日記が多いので、このように貴族の男が日常の中でさるがうを行った記録がある。一方、さるがうを生業とする猿楽の芸人が書かれた文献もある。次は菅江真澄之記録『霞む駒形』に描かれた「延年」と呼ばれる寺院主宰の行事で行なわれた猿楽の様子である。陸中平泉毛越寺の延年に、雑曲といって、曲(演目)の間々に出て演じられた即興的な戯れがさるごうのこと、猿楽と呼ばれた。菅江真澄が奥州、陸奥で「やをら神祭」をみた。『かすむこまかた』に彼等のワザが記録されている。

唐拍子の兎跳ねが終わって後、「黒き仮面かけて、うら若き衆徒出でてあらぬ振りして打戯れて入りぬ」其さま能の狂言の如く、あはひあはひにかかる戯れをのみ為す。祝詞の後、「又例の小法師あまた出でて鈴打振りて戯れ唄うたひさわめかして馳せ入りぬ」老姫舞い入れば、「又若法師産める真似して戯れる」坂東舞(若女)終え、稚児舞に移るときには、法師の頭に付け髪結びて、「我がどちは者知らぬ者なれど、数多の人を笑わせ来べしと楽屋より頼まれて出でたり、人の笑へば我が役はすむ也、いざ笑ひてよと言えば、人皆大声を挙げて笑ひどよめければ、さらばよしや世の中とて入りぬ」とある。

(訳)唐拍子の兎跳ねという演目が終わった後、黒い仮面をつけたまだ若い法師が出て来て様になっていない身振りをしてふざけ遊んでまたひっこんでいった。その様子は能(サルガウ)の狂言(ワザオギマイ)に似て”あはひあはひにかかる”戯れをしただけだった。祝いの言葉の後、再び例の芸人がたくさんでてきて鈴を打つように振り、戯れながら歌い囃すとまた走って戻って行った。老人と若い娘が舞いながら登場すると、再び若い法師が子供を産む真似をして演じた。坂東舞が終わり、稚児舞が始まる時には、法師は頭に付け髪を結んで「よくわからないのだけれど、人をたくさん笑わせてこいと楽屋より頼まれて出て来た。人が笑えば私の役は終わるから、さぁ笑ってください」というと、みんな大声を出して笑った。すると「こうならば世の中も安泰だ」といって楽屋へ戻った。

散楽が猿楽と名前を変えた理由は「散楽」という言葉を使っていた人が社会から消え去り、新しい人達がこれを自分たちの言葉で表し始めたところに原因があると私は思う。大陸由来の「散楽」は、猿のように滑稽であると同時に、猿のように神聖なものと誰かが宣伝したのかもしれない。猿は古来、比叡山山麓に鎮座する日吉大社の祭神の使者として崇敬されてきた。その霊験によって、中世の猿は厩の中で飼われており、外部から浸入する疫病や災厄から駿馬の無事を守護すると信じられて来た。『太平記』(巻二十七)に書かれた勧進興行の田楽の舞台も、猿がひっくり返した。猿面を付けた八、九歳の少年が御幣を差し上げ、拍子に会わせて高欄に跳び上がり、左右に身を躍らせ跳ね返る、その有様を目撃した観客は日吉山王の威光が乗り移ったのではと総立ちになった。その瞬間、大桟敷さじき)が崩れたのであった。これに関して篠田正浩は『河原者ノススメ』で「古事記と神、この二重構造がもたらす霊異こそ芸能の力の源泉ではないか。現代のヒューマニズムと一線を画する古層のアニミズムが、伝統芸能の命であることを、猿は体現する。」と結んでいる。「散楽」が「猿楽」と名を変えたのも、猿の霊力によるのだろう。猿は俳優であり、俳優は戯れ言をいう。その語り口が人の心を開くと同時に、天地が揺れるのである。実際に天地がざわめかせ歴史を動かしたのも俳優の口の技によるものだった。

皇極天皇四年(六四五)六月、雨の降りしきる板葺宮に三韓の使節を迎えるが、その儀式に出席を求められて、蘇我入鹿は宮門をくぐった。中臣鎌子は中大兄王子と共謀して蘇我入鹿暗殺を決行しようとしていた。

中臣鎌子連、蘇我入鹿臣の、人と為り疑い多くして、昼夜剣持けることを知りて、俳優に教えて、方便て解かしむ。入鹿臣、咲ひて剣を解く。

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笑いの芸人は「をかし法師」とも呼ばれていた。彼らはいつも物語の中で滑稽な動きや言葉を遣って観客を笑わせた。『新猿楽記』のなかには徳の高いと評判の尼が、あろうことが、我が子のおしめをもらいに歩く「妙高尼之オシメ襁褓乞」やら「東人之初京上り」 東国の人が始めての状況でドギマギする様子をえんじた。その他「京童之虚左礼」「福広聖之袈裟求」があり、『玉葉』一一七八年十一月二日の条によれば「盗人を許す事」という猿楽をやったそうだ。『新猿楽記』に出て来る演目ではないが、『新撰楽譜』や『教訓抄』に書かれた猿楽師の手による伎楽が記録されている。次の如くであったようであるが、これは聖徳太子の頃に行われていた伎楽ではなく、厳格さ、神格を「さるがう化」した伎楽のパロディーであって、優美な仙境を俗世間に降ろし、笑いの渦中に投込む猿楽師の技である。

一行が治道に連れられ行進しながら、しつらえられた会場に到着すると、師子児に連れられた獅子が舞いはじまる。これは演技の場を踏み鎮める役割をはたす。次に呉公、金剛、迦楼羅、呉女、崑崙、力士、波羅門、大孤、酔胡という登場人物によって劇的展開をもつ演技がはじまる。この演技はすべて仮面をつけておこなわれ、無言のパントマイムと舞で構成される。また管楽器や打楽器による伴奏がつく。最初に扇をもった呉公が笛吹きの所作をする。この後金剛による登場の舞に続いて、金翅鳥とも呼ばれる霊鳥である迦楼羅が蛇を食べるテンポの速い舞を行う。この行為は「ケハラミ」と呼ばれ、舞人は走り、手で羽ばたくような身振りをしたらしい。虫けらを食む様を舞踏化したのだ。次に波羅門が「ムツキアラヒ」という仕草を行う。「襁褓」とは十七世紀の『日葡辞書』によれば「幼児をくるむ布、または、幼児の排泄物を取るのに使う布、文書語」とでている。つまりオムツを洗う所作である。それから崑崙と呉女が登場する。崑崙はマラカタとよばれる男性器を「終には扇をつかひ、マカケを指して」呉女に言い寄る。そこで、金剛が舞台上の門を開くと力士が手を叩きながら登場し「マラフリ舞」を行う。則ち「外道崑崙のかう伏するまね也、マラカタに縄を付て引っ張ったり、たたいたりする振る舞いであった。続いて「老女姿」の大孤が「継子」と思われる大狐子二人を左右にともなって仏に礼拝する。最後に酔胡(酒に酔った胡の王)とその従者(酔胡従)による滑稽な演技がおこなわれた。

婆羅門とは天平勝宝四年(七五二)の東大寺大仏開眼供養会に開眼導師を勤め、のちに僧正となった天竺僧の菩提遷那である。『続日本紀』聖武天皇・天平八年十月の条に婆羅門僧正に関する記述がみ られ、婆羅門僧正は実在人物であるとみなされる。沙門仏哲に関する正史の記述は見られないが、鎌倉時代の説話集『元亨釈書』によれば、仏哲は婆羅門僧正とともに中国を経てから天平八年(七三六)に 来朝した林邑僧である。現行する雅楽の中に「林邑楽」というインド系楽舞はあるが、その伝来は 婆羅門僧正と仏哲によるとされている。(王媛「散楽から舞楽へ―芸能伝承の視点から―」)酔胡は「刀禰」とも「人丸」とも「ハラメキ」とも呼ばれた。武徳楽がこれに付帯している。新川登亀男が『古代仏教の荘厳』でいうように、高潔な浄行者たる婆羅門がなぜか幼児のムツキを洗わなければ成らなくなったという諧謔性をあらわしている。また酔胡の演技も酒に酔って権威をなくしてしまった王を描いており、おおらかな批判精神がみられる。しかしながら大孤の礼拝の所作は、仏教に対する敬虔さを表現しており、伎楽が喜劇的な要素をもちながら、寺院楽として用いられた理由がここにあるという説もある。この一連の仮面劇は、現在でも韓国の仮面劇として残されている。またマタギの成人式で男根に紐を懸け引っ張る所作を行うことも思い出されてしまう。(『女房と山の神』)

この仙人の行列の先頭にいる獅子舞のあり方は、それが治道と同様の祓い鎮めるという呪術的機能を帯びていた獅子の役割を受け継いでいる。(植木行宣『舞台芸能の伝流』)。奈良時代の八世紀には、中国大陸から散楽がつたえられた。「散」はまとまりのない雑多の、民間のという意味である。散楽は、百戯、雑伎ともいわれ、曲芸、歌、舞、奇術、目くらまし、物まねなどをひろくふくんだ雑芸能であった。散楽は支那において、正楽、雅楽に対して、俗楽、雑楽の総称であって、種々雑多のものが含まれている芸であり、もどきである。多様で雑多であるが故に「百戯」ともいった。散楽とは先ず品玉或いは刀玉のものがあり、籠抜く式のものがあり、また竿登り、綱渡り、人形遣いや自ら手足を断じ、胃腸を露出して見せるような幻術もあり、その他男子が女服をし、或いは獣面を被って舞馬鹿囃子風のものもある。猿回しや猛獣使いの類もまた散楽のなかに含まれて、独楽やデアボロの類の曲芸もまた百戯であった。いわば、大道芸人とサーカスが混ざった芸が、大陸からごそっと渡って来た。彼等が民衆に親しまれたことも理解できる。十一世紀頃の京の都の盛場で演じられていた演芸が描写されている『新猿楽記』で、藤原明衡は序文で「予二十余年よりこのかた、東西二京を歴観するに、今夜の見物ばかりのことは、古今におきて未だあらず」と言い、まず散楽・猿楽の次のような二十八曲目を数えあげている。このうち十三番から二十八番は寸劇の題目である。

一咒師 二侏儒舞 三田楽 四傀儡子 五幻術 六品玉 七輪鼓 八八つ玉、九 一人相撲、 一〇 一人雙六、一一 骨無し、十二 骨有り、十三 延動大領の腰支、十四 帳漉舎人が足仕い、十五 氷上専当が取り袴、十六 山城太御が指扇、十七 琵琶法師が物語、十八 千秋万歳の酒禱、十九 飽腹鼓の胸骨、二十 蟷蜋舞の頸筋、二十一 福広の聖が袈裟求め、二十二 妙高も尼が襁褓乞い、二十三 刑勾当が面現、二十四 早職事が皮笛、二十五 目舞の老翁体、二十六 巫遊の気装皃、二十七 京童の虚左礼、二十八 東人の初京上り

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 さるがうの芸には、「もどき」といわれる演出方法があった。また「もどく」芸人も「もどき」という。静岡県水窪町西浦の田楽と兵庫県加東郡上鴨川住吉神社の田楽。棒一本で竹馬のようにケンケンをして歩く「高足」という芸がある。この高足という演目に二人の芸人がでてきたのだが、はじめの高足は厳粛にしかしさっと乗って見せ、後の「もどき」が見物を笑に誘いつつたっぷりとふみまわるのである。この場面では高足の本芸ををかし法師がもどいているのである。『日本の古典芸能四 狂言』に道化役として次のように描かれる芸人も、をかし法師の面影だろう。それによると「三河北設楽群諸方の花祭りに、未熟な舞手の舞を邪魔するように、道化たなりをして舞処に跳び出るものが」あったという。邪魔な歌もうたい、揶揄をし、様々の悪態もつく。この道化役のおもしろい点は、登場人物からはその存在が無視されていることである。但し、同じオカの衆であり、ワキ衆である囃子方とは問答をし、相手になったり、相手にされたりする。別の芸能である風流のかぶき踊にも、オカ衆が道化の要素を持っている。もどきの芸は、初め本物が出て矛や長刀や剣を採り物として規則的な行法なり舞踏を演じた後に、別人がそれぞれの模造品の採り物をもって奔放自在な乱舞を摺る事になっている。つまり比擬のかたちで本物の伝統的な規則性を打ち破る所に面白さがあり、芸としての想像と発展もそこに則されるのである。「擬き」即ちまねる、まがへる、ということである。字面をみれば、「曲舞」も朝廷で厳かに行われる舞をモドイタものである。

人間離れした技をみせる一方で、人間じみた芸を見せるのが「もどき」の役割であり、技であった。この演出方法はどうやら日本の根の深いところにあるようで、地方で行われる神楽にはもどく人物がでてきます。信州新野の雪祭の田楽舞は本座と新座の二組があり、それぞれに昼田楽と夜田楽とがあるが、その夜田楽の折、本座には、はじめ田楽衆を導き出す「さいほう」と呼ばれる道化がつく。つづいて舞われる新座の田楽には、「さいほう」の代わりに「もどき」がつく。この「もどき」も、「さいほう」のする事を真似るのでその名がある。即ち、両者とも手に「ほつちょう」と呼ばれる妙な棒を持って、田楽衆が待っている間、参拝者の群を分け入って、これを婦女子の鼻の先に突きつけてまはる。このほつちようをすりつけられた婦人は必ず妊娠すると言われている。イタズラ好きの精霊のようだ。

津々浦々の民間神楽でも「おきな」が登場する。「おきな」は登場してから舞を舞ったり、歩き回ったりするが一向に正体がわからない。そこで検め役即ち「もどき」が出て、軽く扇で形を打ち、「おきな」と問答即ち御礼の事から引き続いて生い立ちから婿入りの長い長い身の上話をする。古戸の花祭りを例にすると次のようである。「もどき」は平服に「ゆはぎ」をはふり。手に扇を持ち「おきな」の肩を打って問いに入る。 早川孝太郎『花祭』より引かせてもらう。

もどき やれ爺様毎年よくお出で下されありがたくござります。相も変わらずお達者で御目出度う。
おきな いやどうもはや誠に老禄してのうそれに今年は特別寒いで。まあ止めいかと思ったが。毎年来つけて居る道だし。花も好きだしせるわけだで。又出て来たい。
もどき それはお爺さまご苦労だ。
おきな さあ夜も開けるし。かうして居つちや花屋へ遅くなるで。ちつとも早く行かにやならんで。      なあ。
もどき そりゃあお爺。花屋へも忙しいずらが、かうして多勢の人が(見物を指差して)「おきな」が出て来ると いって。迎えひに出て居る所だで。この衆に一々礼を言はにやあ。此所が通って行けぬぞえ。それにお 爺がかうして来たのも。一人で来たと思ふと大きな間違ひだぞえ。
おきな なあになあに。俺は一人で来ただ。
もどき いやさうぢゃねえだ。これには「ひのねぎ」という大切なものがあつて。そのおかげでお爺は出てきた だぞえ。
おきな そりゃあ困るが。花屋へも急がしで。それぢゃあ礼も言はずが。なんて言やあ好いだのう。
もどき そりゃ世話はねえだ。俺が教えてやるで。早速言って通らつせ。
おきな それぢゃあ何て言ふだ。

という具合に進んでいく。

青森県の猿賀神社では盆の時期に行われる獅子舞の奉納で「おかし」という人物が三匹の獅子の先導をする。おかしなことに、同じ青森でも地域によってはこのお面が本当に猿であったり、ひょっとこのお面であったりと様々だ。この獅子舞の物語は安住の地を求めて旅に出た獅子が集まって、猿に先導してもらってある山にたどり着き、そこで暮らす事になるが雌の獅子を巡って争いになり、結局は猿になだめられて仲良く一件落着するという。獅子舞が日本に来たのは文献をみれば大陸から着た「百戯」つまり散楽や猿楽といっしょにであった。果たしてこの「おかし」は誰なのか。興味はつきない。

をかし法師の寸劇、戯れ言は時代を経ると狂言といわれるようになる。狂言の語の初出は。一三五二年『周防国仁平寺本堂供養日記』に書かれた延年の記録にある。山伏に関する滑稽な説法をしたそうだ。また一四二四年には、「猿楽狂言」という語は『看聞御記』にでてくる宮中で、猿楽者が「公家人疲労事」を狂言にした。宮中で公家の生活を笑いにするのだから、とんだ場違いであったようだ。猿楽師の楽頭が呼び出されておとがめを受けたが、その時、罰に値する前例として出されたのが前期の、山門で猿楽者が神猿を狂言にして山法師に切られたことと、仁和寺で猿楽狂言が聖道法師を狂言にして寺から罰せられた。裁定者は、人を笑ものにするのは構わないが、当事者の前では慎むべし、と判決し、楽頭は、思慮不足だったと陳謝し、一件落着したようだ。何度言われても天性のヲカシ法師はついつい滑稽をしたくなるのだろう。笑いとユーモアと卑猥と無礼は紙一重だ。世阿弥『習道書』に「狂言の役人」の心得を記して「をかしなればとて、さのみ卑しきことば、風体ゆめゆめあるべからず」 当時三番猿楽(現在の三番兜)で役者が笑をとっていたことになる。同年成立の『申楽談義』にも三番猿楽(後の三番叟)にも「近年人を笑はする、有るまじきことなり」とある。また一四二四年『看聞日記』役者が即興で演じて揶揄をおこない怒られた。世阿弥が永享二年(一四三〇年)に書き上げた『習道書』には神事・勧進などの際に能三番・狂言二番演じるとあって、ほぼ現在同様の能狂言の閉園の形になっていたこと狂言役者は秀句とか昔話を中心に添えて演じ、能の中の一役(アイ。間狂言)を務める際は笑わせようとしてはならぬとか、狂言は卑俗さを避けて「笑みの内に楽しみを含む」のを理想とすべきだと説く。 逆に当時、間狂言や三番猿楽で匪賊な言葉・仕草によって笑を得ていた役者が多くいたことを意味している。貞和五年(一三四九年)二月十日の春日若宮臨時歳の記録は、劇形態の芸能を「能」と読んだ最古のものである。猿楽の指導を受けた巫女が翁猿楽と猿楽能二番を、田楽の指導を受けたネギが舞と田楽能二番を演じたことを伝えている。能と能の合間には乱拍子とか白拍子が舞われている。ただ、ヲカシ法師を春忠、その相手役の「アド」を久春が勤めたとあり、アドを伴っていることから滑稽なやりとりがあったことが知られる。これは田楽の行列の途中での芸で、「ヲカシホウシノ舞一番舞ウテ」ともあるので会話の他にも舞もしたのだろう。

 

かぶく狂言師

「かぶく」ことは批判することであり、ウサを晴らすことであり、はっきりといいたい事をいい、やりたいことをやる態度のことを指した。もしそれを仮に悪態だと言っても、悪態は人間に必要な影である。支配者の望む人間的な平和な世の中で、支配されるものは人間として立場の逆転を希望する。日常生活に埋没された欲望を力強くほとばしる瞬間を魂の底では望んでいる。マツリは人のこの欲望に報えてきた。食べ物、酒、性交、多くの欲望を解放するマツリの中で喧嘩、悪態、競合は時代を超えて再現され続けて来た。それは事故や怪我、流血沙汰も許容し、死すらも包み込む劇的空間であった。

日本で行われた社会的制裁の手段には、時処により種々なるものがあった。そしてその第一は千葉笑いの故事である。昔は毎年定まれる夜に千葉市の人々が千葉寺に集まり、異装覆面して人物の誰なるかを知れぬようにした上に寺内の灯火を芥子、暗闇のうちにその年に置ける領主、妙手、組かしら、または町内で不徳を働いた者の詰み状を、忌憚なく批判し痛罵して反省を促し、それが終わると一同大笑いして退散するので、この名を負うようになったのである(『諸国俚人談』)第二は宮城県塩釜町に古く行われたザットナーと称する民俗である。これは旧正月十五日の夜に、町内の子供が十二三人ずつ一段となり、民家の前に立って、まず五六人の者がザットナー(雑に、ざっとしろ、簡単にせよの方言)ザットナーと唱えると、残りの子供達が異口同音に、その家の主人の非行、妻女の不埒、娘の不行跡などを無遠慮に言い罵り、かくて次々と町内の憎まれている家々をまわるのである。(『新撰陸奥風土記』)この民俗には子供が神の代理として、こうした所業に出るという、深い理由が存しているのであるが、それを書き始めると長文になるので今は省略する。と、中山太郎は述べている。(『タブーに挑む民俗学』)

西鶴は『世間胸算用』に「都の祇園殿に大年の夜、けづりかけの神事とて、諸人詣でける。神前のともし火くらふして、たがひに人貌の見えぬとき、参りの老若男女左右にたちわかれ、悪口のさまざま云がちに、それはそれは腹かかへる事なり」と当時の京祇園の悪口祭の状況を書いている。悪口が神事の一部に取り入れられている例。式典の祝詞の一つとしてこの悪態が行なわれたのだろう。悪口というか、ユーモアというか、人を馬鹿にしたような、もしくは卑猥な言葉を投げつける言葉は地方の祭りにも見られる。 富山県の獅子舞の囃子詞にも「シカラレター」という言葉があり、青森県のネブタにも「イッペラセー」という囃子詞を使っていたらしい。青森県の言葉で、陰部を出せという意味である。人々の欲望、人々の願いは言葉に表される時、卑猥であったり、乱暴であったりした。

をかし法師も批判とユーモアを本領とする芸人である。伏見宮貞成の『看聞日記』によれば、応永三十一年(一四二四)三月十一日に猿楽たちが伏見荘のお宮(御香宮)で「公家人疲労のこと」を種々狂言してみせたが、これを観た貞成は「故実を存ぜず尾籠のいたり」であると怒り、楽頭を呼び出して追放した。公家貴族の荘園が大きく動揺・解体した時代の背景をふまえ、日々の窮乞の暮らしぶりを滑稽に演じたのであろう。さらに仁和寺では、「聖道法師比興の事」などを狂言せしめた猿楽の徒が、御室から罪科に処せられた(『看聞日記』応永三十一年三月十一日)。「比興」とはある事を何かにたとえて興ずることであるから、自力で悟りを得ようとする聖道門の法師を何かにたとえて面白おかしく演じたのであろう。貞成はいう。猿楽というものは、演じる場所によって「斟酌」する(内容に手加減をくわえる)ものだ、そのような故実を知らぬとは奇怪なことだ、と。

この笑いと批判をユーモアで合一した芸が、「狂言」であり「歌舞妓」である。

 観阿弥のころ、狂言は「をかし」といわれていた。狂言は室町社会に取材した当代劇だ。『閑吟集』「何せうぞ、くすんで。一期は夢よ、ただ狂えへ」まじめなひとは、おかしくてみちゃいられない。この世は夢よ、ただ狂えという室町に行きた人の庶民の声を寸劇の中に吹き込んだ。今でも狂言の主役として位置付けられるのが「太郎冠者」という人物である。彼は地方の大名の召使であり、当時の支配関係をもどくことに狂言のおかしみがあり、新しさがあった。狂言では、出家、座頭、鬼、山伏、博打打ち、盗賊、詐欺師もでてくるが、どれも悪人としては登場しない。動乱の中で泣き、笑った人間像を平等に扱っている。狂言の笑にも、猿楽と童謡に祝言・滑稽・風刺がある。時期は少し遡るが、寛正五年(一四六四年)四月に京都糺河原で催された観世大夫の勧進猿楽の記録『糺河原勧進猿楽日記』に「さるひき」「八幡の前」といった、今も演じられる狂言の曲名がみられる。番組と番組の間に出て進行係的役目を受け持つ「殿と冠者」と称する演目がある。殿と称するものが、大編笠にはおり、腰に長太刀の六尺(約一八〇cm)ばかりのものを床に引きずるように差して出、「冠者」を大声で二、三度呼ばわる。冠者は打出鉢の冑を冠り、仮面をつけておどけて出て、即興的に殿と問答をして観客を笑にさそいこむ。最後に殿に言われて次の演目を触れて回る。これと同じ演出が韓国の芸能にもあり、ここでは冠者はPangjaパンジャと呼ばれる。

狂言には同じような曲が多い。例えば主従狂言果報者ものなどは、多くが同工異曲というべきものである。もちろん分類は後になされたものではあるが、それだけ似たものが多いということでもある。ほとんどが、主人に命じられた買い物を従者が取り違えて叱られるが囃子ものによって機嫌を治すという筋立てを持っており。買い物の品が変わり、それに応じて囃子ものの詞章が変わるだけなのである。をかし法師たちが手を変え品を買える態は台本からもみてとれる。『靭猿』うつぼざるの台本は一五七八の奥付きを持つ、いわゆる天正狂言本以上には遡れないのである。しかもそこに記された『靭猿』は次に掲げるような至って簡単なものにすぎない。

大名が出て太郎冠者を呼び出す。「今日は鹿狩に行く、仕度申せ」。さて狩に出る。「何生物いきものがな、門出祝わん」という。ここに猿引来る。「それ殺せ」と言う。猿の背を計って靭にくらぶる。猿引泣く。これをみて不憫と言うて殿も泣く。さて刀・小袖取らする。後、猿になりて太郎冠者に引かるる。

ただこの台本によって演じるとなると相当幅のある演出が可能になってくる。大名の残忍性や愚かさに重点を置く方法もあれば、それからのがれようとする猿引きの苦心を前面に押し出すこともできたはずである。演出の自由さは、場所や観客などに応じて自由に内容を膨らませるをかし法師たちの態をおもわせるし、それが可能になる天性の才能があったのかもしれない。

をかし法師たちは幽玄な猿楽能を整えていた世阿弥にとっては旧態であり、無秩序であり、時代錯誤であったのかもしれない。もとは同じ猿楽であったものが、一四三〇年の『習道書』では「真の能の申楽」という言い方でをかし法師の狂言と世阿弥の猿楽能は区別されている。『申楽談儀』でも、世阿弥は狂言の役者の名をあげて芸のあり方を解いているから、観阿弥の時代には、猿楽の中に狂言方が独立していたことは確からしい。近世に入って「幕藩体制」が確立するとともに、狂言は武家の式楽としての能に完全に組み込まれることになった。一六四七年六月九日、将軍徳川家光の発した能役者・囃子方・狂言方に対する戒告に「万事一座の大夫指揮を守り、もし訴訟の事あらば、大夫をもて有司のもとへこふべし」とあるのは、ワキ方・囃子方・狂言方をシテ方の宗家が完全に支配することを認めたものであった。これからいわゆる能の狂言としての性格が固まってゆく。

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狂言師は能から別れて行きながら、歌舞伎への道をたどるものもあった。女歌舞伎の時から猿若として舞台に上がったり、囃子方、裏方、幕間の余興などの役割を担っていた。歌舞伎が若衆歌舞伎、野郎歌舞伎から元禄に至るまで、彼等はユーモアと機知によって観客を飽きさせなかった。勧進興行のように櫓を組み即席で芝居をうつのとは異なり、劇場をつくり都市に根づくようになると、里山で暮らして居たような自然の節を取り入れるようになった。ここにはあらたしく芽生えた庶民の娯楽、俳諧の精神も含まれる。もともとエンターテイナーであるをかし法師たちが民衆の中に居場所をみつけられたのは幸運であった。かぶきの響宴性は、さらに四季の行楽や生活と結びついた年中行事として、其の興行法や狂言が規定されてくる。

今試みに、季を生命とする俳諧の歳時記を抜いてみると、そこには「初芝居」「夏芝居」「盆狂言」「顔見世」などという項目を、各季節に見いだすであろう。歌舞伎はまさしく四季折々の民俗の響宴の場を提供する。芝居の年中行事は、各座の役者の入れ替えを協定して、新メンバーによる新狂言を発表するのが十一月の顔見世で、霜枯の季節に、ここばかりは華やかな景色をみせたものである。またこの季節感の固定から、顔見世には雪の場、弥生興行には桜見の場、夏芝居には怪談や「本水」を用いる「水狂言」などと、戯曲内容までを定着せしめるに至った。同じ非人である河原者に工事を任せて舞台も縦横無尽に作られる。一年を通して季節を喜ぶ感情が「恒例」として行なわれた『三番叟』の祈祷演劇、顔見世で行なうパントマイムの『だんまり』や荒事の『暫』など、年歳変わらぬ庶民の儀式演劇を生むに至っている。しかし内容的には何ら人生の深奥に触れることはしなかった。かぶきはどこまでも庶民の「慰み」(賢外集)に奉仕すべく作られた。作劇法も「狂言を仕組には、絵をかく心にて作るがよし、文字のようにかたくつくりては、女子供によめずして、わかりかねる事あり」(『歌舞伎雑談』)というのが護られた。そこで全体の構成に置いて支離滅裂、事件・性格に矛盾を含ませる事を顧みなかったかわりに、「修羅場」「秋嘆場」「殺し場」「濡れ場」「縁切り場」「ゆすり場」「道行場」などの場が伝承された。舞台も新しくつくりかえられていった。「蛇の目」「奈落」「セリ上げ」「スッポン」「がんどう」「田楽返し」「しゃもじ」「押し出し」などという仕掛けが生まれ、見世物としての視覚の豊穣さをくわえた。また散楽の時代から遊女かぶきに至まで伴奏役であった楽師たちも新しい芸を作り出す。雨・風・雪・雷などの天候の光線の変化を音によって表現するに至る。音楽効果は「下座」もしくは「蔭囃子といわれ」「囃子方」の所属であった。((郡司 正勝『かぶき 様式と伝承』))

世間の流れ、世間話に敏感な狂言役者は、話題になりそうなニュースを耳にしては「切狂言」として、一日の興行の最後に添え物として上演したという。人々の好奇心をくすぐる事件があるたびに作品がつくられ「世話物」というジャンルが成り立つようになったのだろう。京、大阪の「和事」と江戸の「荒事」という二つの流れを生み、坂田藤十郎、市川団十郎、芳沢あやめなど名優といわれる俳優を生み出した。現在にもその形式が残るものの一つが「暫」で初世団十郎が元禄時代に演じ、二世団十郎に至り、演出も整い、歌舞伎十八番の一つとなって以来、市川団十郎及びその門弟によって演じられ今日に至っている。筋書は邪悪な公卿又は武将が善良な弱々しい民衆を故なく殺そうとする時、超人的な強さを持つ主役が花道から「暫く」と声をかけて登場、悪をこらしめて善人の人々を助けるという簡単なものであるが、権力に対応する超人を求める悲しい民衆の声とも思え、人々の声なき声を表現し続けてきたものといえる。と同時に、この姿は鬼の形相で、クマなく悪霊を追い払い、腰には格別に長い大太刀を帯びた方相氏であった。