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第三夜:祝・呪・咲/第五話:呉楽師の血
式楽とは、国にみとめられた、国によって保護された楽をいう。近代に創作された「能楽」という言葉が表す能は元々が散楽百戯であり、猿楽であり、申楽とよばれ、能、狂言と呼ばれて来た。それは民間や寺院、朝廷の行事を尋ねては芸を披露して来た。散所から独立して田楽座、猿楽座が組織されるようになってから、彼等は権現に庇護してもらった。代わりに彼等の提供した世界は、彼等の望む世界をつくり出すことであった。そこには神社の由来を語るもの、仏法を語るもの、因果応報を語るもの、そして民衆に対して神の由来と、それに付随する社寺の特権の正当性をみとめさせるもの、などである。この動きの中で、能は当時もてはやされた貴族の文化、次の時代には武士の文化を取り入れた。みな存じているように、能の「すり足」も世阿弥の死の後、武士の社会で必要な身体動作を取り入れたものである。現代社会に置いては、「能楽」あるまじき曲は世の中にみせぬようにと、「日本」を背負う役割を果たしてくれている。
風流と仙人の楽
「風流」は万葉集では「みやび」と訓じられ、なさけ、すきごころの意味がふくまれた。「みやび」とは宮廷の貴族にふさわしい豪華さ、優雅さ、都会風ということである。雅楽、音楽や和歌のタシナミもみやびである。「都びた」からか、「宮びた」といった意味だろう。「容姿佳艶にして風流秀絶なり」と大伴旅人の弟である大伴田主はいわれた。「遊士」「風流士」と書いてみやびおと読む。『万葉集』に「遊士とわれは聞けるを屋戸貸さず、われを還せり おその風流士」という歌がある。「うわさの雅び男と聞いていたのに、たずねたわたしを屋戸も貸さずに老い帰すとは何と心利かぬ男か。雅男が聞いてあきれるわ」(巻二・一二六)という意味である。平安朝の貴族達の作り出した「みやび」の世界は、こうした人口の、まさしく箱庭とよんでよい小空間の中での自然官を基に育って行く。衣服等も、日常目の当たりにする四季の自然景観の色調や形を、配色にも文様にも取り入れ、また邸第の調度や器具、持ち物の装飾にも日頃親しむ花鳥風月の形やイメージを写し取って、これらの品々のひとつひとつをも「風流」と称して、その意匠や趣向の出来栄えを、たがいに誇り合ったことであろう。このほか『万葉集』から「みやびお」の語を拾って行くと、いっとき俗世を離れて蓬の仙境に心を遊ばせ、また、古舞・古曲をたしなみまことに優雅をたのしむ者を、「みやびお」称していたことが知られる。中国の後漢朝について書かれた歴史書『後漢書』には「流風余韻」と書いてあり、古俗の遺風、伝統という意味があった。世俗の規範にとらわれない自由放胆な振る舞いや心ぐみを、むしろ讃えて「風流」とよぶようになり、俗塵を離れて放縦風雅な趣味生活に生きる者を「風流名士」等と讃える風俗もでてきた。中国でもこの語は様々に使われるようになり、六朝時代も末期の六世紀になると、なまめいた美しさを風流と称するようになり、さらには唐代になると色を好んで女性と巧みに接する士を「風流才士」とよぶようになった。ときしも、唐の張鷟が作る伝奇小説『遊仙窟』なども伝来して、俗里を遠くは慣れた川上の、神仙の窟に迷い込んだ者が、神仙界の美女たちの歓待を受け、詩歌の応酬をしながら一夜の宴をたのしむ・・・といった話が流行し、こうした遊楽こそ「風流」があると聞かされると、たちまち宮廷の知識人はその風をまなんで、人里を少しく離れた山や野に出かけ、そこを神仙界に見立てて仲間同士酒宴をひらき、花をほめ月をたたえる詩歌をこもごもに詠じて歓を尽くした。
春日なる 三笠の山に月の舟出る 遊士の 飲む酒杯さかずきに 影に見えつつ (『万葉集』巻七・一二九)
「神武記」には神武天皇が大和の高佐士野へ行かれた時、野遊びしている七人の処女に出会い、伴の大久米命が天皇に問いかけた歌と、その反歌が載っている。
倭の 高佐士野を 七行く 媛女ども 誰をし枕かむ
かつがつも いや前立てる 兄をし枕かむ
これも風流といえる。話では偶然の出会いという感じになっているが、事実は天皇が野遊びに出かけると、訪問先の方で既に饗応役を用意しておいて、宴遊が始まると、その者がまかり出て、天皇の御目通しを願うという形に成っていたのである。
貴族社会では、歌垣も風流と化して優美な鑑賞舞踊になった。歌垣とは男女が歌を掛け合う行事である。宮廷社会で行うほどであるから、大陸とも縁のある行事であろう。『続日本紀』聖武天皇天平六年六月二日の条に、天皇が朱雀門に御して歌垣をご覧になったことを叙して「男女が二百四十余人、五品己上風流ある者、皆其中に交雑す、正四位下長田王、従四位下栗栖王、門部王、従五位下野中王等頭と為り、本未を以て唱和し、難波曲、倭部曲、浅芽原曲、広瀬曲、八裳刺曲の音を為し、都中の士女をして従観せしめ、歓極りて而して罷む」。また、称徳天皇 元年三月の情に、河内の西之都由江義宮において、葛井氏ら六氏の男女二百三十人の歌垣に供奉したことを記して、「其の服並みに青摺の細布衣を著し、紅の長紐を垂れ、男女相並び、行を分ちて徐に進み、歌って」いくとかいてある。貴族達の社交パーティーのようだ。宮廷でも歌垣の行事は「男の踏歌」と「女の踏歌」があり、それぞれ正月の十五夜と、翌日の夜に行われいた。その様子を紫式部は『源氏物語』に書いている。
今年の正月には男踏歌があった。御所からすぐに朱雀院へ行ってその次に六条院へ舞い手は廻って来た。道のりが遠くてそれは夜の明け方になった。月が明るくさして薄雪の積んだ六条院の美しい庭で行なわれる踏歌がおもしろかった。舞や音楽の上手な若い役人の多いころで、笛なども巧みに吹かれた。(「初音」)
時代が移り変わっても金持ちの貴族豪族はこぞって風流な芸を鑑賞する。当時流行した風流は、煌びやかな衣装を着て優雅に舞う田楽であった。田楽の発展に寄与したのは他ならぬ振興勢力の武家、なかんずく将軍だった。その頃、洛中に田楽がはやり、貴族こぞってこれに興じた。遊興を目的とする田植の先縦は、藤原道長の命で企画されたという「田植御覧」に早くも見出せる。一〇二三年五月のこととされるその田植は、美々しく装った早乙女、それと対照的なしどけない出立の翁(田主)や姥、笛・腰鼓・ササラといった楽器を奏で囃す田楽衆、さらには昼飯を持ち運ぶ昼間持ちも出る、総勢一〇〇人にも及ぼうかという大規模なものであった。『栄華物語』はこれを生き生きと描写しており、田楽(鼓)で囃す集団田植えの様を忍ばせるのである。『栄花物語』によると「その田植えにでた」というもので、同じく足駄を履き大傘にさしかけられた怪しの女(姥とみられる)がそれに随ったという。あでやかな早乙女に対した衣装的な効果を意図したしたてといえようが、注意すべきはそれが足駄を履き、かつ翁・姥として現れたことである。『雲州消息』によると、「仮に夫婦の体をなし」て滑稽物真似を演じる翁・姥の散楽が行われている。やっていることは散楽と同じようであるが、名前は田楽となっている。というよりも二つは混ざっている。田植え行事が見物の対象とされ、ついに娯楽かして田楽興・田植興・耕作興などと記されるものである。記録では一一〇三年の『中右記』に「鳥羽殿において田楽の興あり」とあり、一一〇四年には「耕作の興あり。田楽遊興、誠に感情を動かす」。一一二七年五月十四日の「田植興」は「植女廿二人、その装束金銀錦織、皆風流あり。天下の過差記し尽くすべからず。牛二頭あり、また田楽あり」と記録されている。また『長秋記』によれば大治四年五月十日八条殿で行われた遊興の田植は「種田事」と書かれ次のように描写されている。この文献で田楽法師という文字が初めて使われた。
一、種女うえめ廿人、赤水干・紺帷・黄生絹裳・檜笠を着し、御前に向いて双ちてこれ(苗)を種る。 その後に田楽者あり、白張布・狩衣袴・浅黄目結帷を着し、懸鼓、佐々良を撹き、笛を吹く。振指(朳 さし)の類、双立ちて唱歌し、又苗軍(輩カ)相投ず。
二、散楽弘延、大鳥帽を着し、田畋に立ちて行事す。破唐傘を持者一人相従う。
三、又、田楽法師十余人、当色を著し、御前に進出し一廻し了ぬ。
この響宴を耳にした北条高時は、田楽者を召し出して見物、やみつきになって、本座、新座の田楽法師を招いて、日ごと、朝な夕なに田楽にうつつをぬかしたと『太平記』では描かれている。巻五「相模入道、田楽をもてあそぶこと、並びに闘犬事」に、闘犬と同じレベルで田楽は楽しまれていた。また、『太平記』巻三十三の「公家、武家、栄枯の地を易るの事」は、荘園を失い、困窮する公家と対象的に、佐々木道誉を筆頭とする在京の成り上がりの大名が贅沢三昧の生活を過ごしたことを記述し、放蕩ぶりの例として、田楽、猿楽、傾城、白拍子の遊びをあげている。道誉の遊びぶりは「バサラ」の名で評される。バサラも風流の一種だが、荒武者の風流とあって、豪放、放埓。目に余る、と『建武式目』では弾劾されている。だがその批判も、当時の貴族が昔に自分たちが見を浸していた「風流」を思い出してのひと言であると私は思っている。
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この雅、風流という言葉の背景には仙境があり、現世を越えた夢の世界へ憧れる心が風流を育てた。日本で使われたこの言葉が中国の神仙思想からとられたように、中国の故事や、神が飛行する振る舞いも日本の物語に取り入れられて行く。当時日本に伝わった仙人の話の一つに浦島太郎がある。
丹後の国の風土記に曰はく、与謝の郡、日置の里。此の里に筒川村あり。此の人夫、日下部首等が先祖の名を筒川の嶼子と云ひき。人と為、姿容秀美しく、風流なること類なかりき。(略)女娘の父母、共に相迎へ、揖みて坐定りき。ここに、人間と仙都との別を称説き、人と神と偶かに会へる嘉びを談議る。乃ち、百品の芳しき味を薦め、兄弟姉妹等は杯を挙げて献酬し、隣の里の幼女等も紅の顔して戯れ接る。仙の哥は寥亮に、神の儛は逶迤にして、其の歓宴を為すこと、人間に万倍れりき。茲に、日の暮るることを知らず、但、黄昏の時、群仙侶等、漸々に退り散け、即て女娘独り留まりき。肩を双べ、袖を接へ、夫婦之理を成しき。時に、島子、旧俗を遺れて仙都に遊ぶこと、既に三歳に逕りぬ。
最後には玉手箱を明けてお爺さんになる。仙人は女仙は若い美女のまま年をとらぬが、通常は白髪白ひげの老翁で、その姿のまま長生する。その姿を想像すれば乃ち「翁」になる。後漢の代表的字書である許慎の『設文解字』では、「仙」を「高木に升るなり。」と解釈する。また「僊」については、長生して僊壬去す。と理解する。清の段玉裁は『詩経』の用例から「僊僊」は「袖を舞わせて飛揚すること」としている。 後漢、劉熈の『釈妙』の解説では、「老いて死せざるを仙という。仙は遷である。遷って山に入る。だから字をつくるのに、人のよこに山とした。」『荘子』「天地」篇には、「千歳、世を厭えば、去りて上僊し、彼の白雲にのり、帝の郷にいたらん。」とみえる。唐代の用例となるが、『隆禅法師碑』に「神遷」という語がみえる。大足元年十月廿二日、神遷る。春秋六十有二。とあり、六十二歳でなくなった法師の死去のことを「神遷」と表現している。日本に神仙思想を伝えたきっかけはどうやら始皇帝にあるらしい。彼が天下を統一したのは、始皇の二六年(紀元前二二一年)である。それから二年後、始皇帝の心をまずとらえたのは斉の方士、徐市であった。かれは次のように始皇帝にといた。
海の中に三神山がございます。蓬萊・方丈・瀛州ともうしまして、僊比とがすんでおります。どうか身をきよめ、童男女とともに僊人をさがしにゆかせてくださるようお願いもうしあげます。(『史記』「始皇本紀」)
徐市は徐福ともよばれる。其の後のかれについて『三国志』「孫権伝」は、始皇の派遣した徐福と童男女数千人は亶洲にたどりつき、代々、ふえて数万家となり、ときどき会稽にやってきて交易していたという。童は僮におなじで、本来、奴隷のことである。『列仙伝』の「安期先生」の話の中にも始皇帝が登場する。
琅琊、阜郷のひとである。東海の海辺で薬を売っていた。冬至の人びとはみな「千歳の翁」といったいた。秦の始皇帝が当方に行幸し、安期先生とあうことをのぞんだ。三日三晩かたりあかして、始皇帝は安期先生に黄金や壁玉を数千万たまわった。
このようにして、『史記』に書かれているだけでも徐福、韓終、盧生、候生の方士が東海の海に船出した。平安時代に、僧侶の寛輔が、「蓬莱山」とは富士山を指すと述べたり、『竹取物語』でも、「東の海に蓬莱という山あるなり」と記されるから、よほど仙人と仙境のイメージは知られていたようである。これは容易に仏と浄土にもなる。また不死の翁のイメージも、山々を飛び回る仙人のイメージも、修験道や能に組み込まれている。 植物性の仙薬として、代表的なものが「松」である。「松」は古来、長寿の樹木とされている。『列仙伝』にみえる毛女は、その松の葉をたべたとされているどうやら中国から来た長寿の翁は、日本に土着のご先祖サマと合体し、猿楽の中でも呪術的、儀式的な翁猿楽が創作されたようである。
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先祖は大抵、翁と媼の姿をしている。例えばアイヌでは凡そ神を拝するときに、必ずまず拝む神は火神(Ape kamui)であるが、通例それを、単に神なる祖母又は媼(Kamui Huchi)と呼び、語を換えて呼ぶ時には「国土の主なる媼」(Moshirkor Huchi)もしくは「我らを養育する媼」(Iresu Huchi)と呼ぶ。『家の神』は「家の主の神、神なる翁」、『幣の主の神』も「神なる翁」、山や森の神も。鯨は沖の翁、梟は村の主の翁。接骨木の木偶神は「接骨木(ソーコニ)の媼(フチ)」と呼ぶ。日本の芸能で度々現れる年寄りたちも、どうやらあの世からご足労いただいた吾々の先祖らしいことに、今更ながら気がつく。翁の仮面をつけた者が、舞や語りを演じる芸能は翁猿楽と呼ばれた。平安時代の末には成立していた可能性があり、確実な文献資料として弘安六年(一二八三)の「春日臨時祭記」をあげることができる。舞楽、田楽、細男などのほかの種類の芸能とともに、猿楽の連中が児ちご・翁面・三番猿楽・冠者・父允を一組とする翁猿楽を演じていた記録がのこされている。世阿弥は、春日神事の猿楽について「一年中の御神事始めなり。天下泰平の御祈祷也」という。また世阿弥の女婿であり、猿楽の本家ともいうべき金春流の大夫であった金春禅竹も、「一、翁の舞、是一大事。猿楽の本舞なれば、ことに観念・工夫をして舞ふべし」とし、翁の中でも中から稲経の翁(翁面)、代経の翁(三番猿楽)、父尉を選び、これが「式三番」であるという。。世阿弥は『申楽談義』において、「さて、申楽の舞とは、いづれを取り立て、申べきならば、此道の根本なるがゆへに、翁の舞と申すべきか。また謡の根本を申さば、翁の神楽歌と申すべきか」と述べている。翁の舞は、先祖代々受け継がれて来た幸を先祖がわざわざ現世にやって来て約束していく夢を再現する舞いである。かっては「翁」を演じる役者は、七日間は、精進潔斎し、家族とは別の火で調理した食べ物を摂る別火の習慣があった。現在においても、演者は侍烏帽子に長袴を着け、鏡の間で盃事をし、幕際で切り火を打たせてから舞台に進むという。これも、猿楽師が先祖と言葉と体を取り交わすシャーマンとして舞台に立っていることを感じさせる。
翁の芸能も、呪師猿楽と同じように大寺院の修正会・修二会などで演じられていたものらしく、現在も、奈良興福寺の修二会では鎮守神である春日大社のまえで演じる翁猿楽を呪師走りとよんでいる。また延暦寺の修正会でも、鎮守の日吉神社で翁舞が演じられるなど、その例は多い(山路興造『翁の座 芸能民たちの中世』)。本州でも大事の時には必ず「翁」がでてくる。『宇治旧記』によると、宇治離宮明神の御田植え神事に行われたこの「翁式三番」は、香大夫がこれを勤めることを記し、田歌の「唱歌」をあげている。唱歌は、「此殿は〃、宜も富けり、富草の」にはじめ「時は五月の今日よりや、早苗取ちふ郷ぞ栄る」の五段からなり、「千歳楽や万歳楽」と謡いおさめる。その後で、別の狂言役者が登場し五穀豊穣を祈る舞を務める。これを三番叟という。猿楽のうちでも、翁が舞う番組で構成されたものは特別に翁猿楽という。
能の起源を解き明かした文章が公開されている。諏訪春雄のHPから引用して翁の舞いの源泉にある仙境、そこに棲む先祖の姿を描いてみたい。
能の冒頭に演じられる「翁」は「式三番」ともよばれる。能の翁の確実な最初の記録は、弘安六年(一二八三)の『春日若宮臨時祭礼記』に「児・翁面・三番猿楽・冠者・父の允」とあるものであり、ついで貞和五年(一三四九)の『春日若宮臨時祭礼次第』では、「ツイハライ(露払)・ヲキナオモテ(翁面)・サンバサルガク(三番猿楽)・クワジャノキミ(冠者公)」とあって、名称はすこし違っても、いずれも五番になっている。これが三番に整理されてくるのは、世阿弥のころであった。彼の著わした『風姿花伝』では「翁面・三番猿楽・父尉」の三者を「式三番」と称し、『申楽談儀』では「露払・翁・三番猿楽」の三者をあげている。世阿弥の著作には千歳の名は直接にはあげられていないが、父尉や露払に代わって千歳が登場し、現行の翁の形がととのってくるのは、いろいろな資料を総合して世阿弥のころであったとされている。児は幼児、冠者は元服して冠をつけ一人前になった若者、父允(尉)は老父を意味する。ここに登場してくる役柄は、翁と三番猿楽(のちに三番目の老人の意味で三番叟の名で統一される)を別格の祖先神として、父、若者、幼児という家族構成が想定される。のちに父尉や露払に代わる千歳は、少年の役であるが、この名称じたいは千年の寿命を持つ者の意味である。能の冒頭にこれらの長寿の役柄を登場させる意味を理解する鍵も中国にある。
古い祖先神来訪の祭りを保存している中国では、はじめに別格の祖先神にひきいられてその民族の祖先神たちが家族で登場する。貴州省のイ族のツォタイジ、雲南省イ族の跳虎節、湖南省土家族のマオグースー、広西チワン族自治区ミャオ族のマンコウなどなどである。これらの祭りは共通して正月または盆の時期に行なわれる。先祖の最高神がその部族の祖先の神々をひきいて現われ、彼らに、ことば、農耕、狩猟、結婚、学問などの文化をさずけた始原の時間を再現してみせたのち、集落の各家を祝福して廻る。最高神は、多くの場合に男女の夫婦神であり、ひきいられて登場する先祖の神々は家族の構成をとっている。しかも、その家族も千歳、千五百歳などの長寿者である。たとえば、貴州省イ族のツォタイジに登場する役柄は、白い髭をつけ面をかぶらない別格の山林の老人ルガアプ、白い髭の面をつけた千七百歳のアブモ、髭のない面をつけた千五百歳の女アダモ、黒い髭の面をつけた千二百歳のマホモ、髭のない面の千歳のフィプの五人で、ほかに幼い子のアアンが登場する。
能の翁に登場する千歳と同一の役柄がここにいる。中国の来訪神たちは、最高神から文化を伝授された始まりの時間を再現することによって、文化が子孫に正しく保存されていることを確認して、古い秩序を新しい秩序に改める。この来訪神の儀礼は、中世の初めまでには、日本の沖縄に伝来し、北上して、九州、日本海沿いの各地に酷似する盆・正月・小正月の訪問神の儀礼をのこし、最後は秋田に到達して、ナマハゲやナゴメハギなどの行事となっている(諏訪春雄「除災の信仰と来訪神の信仰」『中国秘境 青海 崑崙』勉誠出版、二〇〇二年)。
以上が引用である。この翁猿楽の翁は後に祖先以外の役割を負わされ、社寺の神となり、仏の因果を語る亡霊となり、その縁起、人生を語ることになる。悪霊払いの呪法や仮面劇をもとにして、家族、祖先に代わり、見る者の血をまだ見知らぬ神や仏に混ぜたのである。寺社の修正会、修ニ会で演じられた追儺の儀礼である翁猿楽は、中国の楽戸の血をひいている。観世は翁に更に新しい時代の血を混ぜたのであった。
道の舞と幽玄
この翁の猿楽、先祖が我々を祝福しにやってくるという物語をサルガクの要として、その演出にこだわったのが観阿弥と世阿弥であった。先に引き続き、諏訪春雄の文章から引用させていただく。
京都の今熊野で猿楽が行われたのは、その義経の治世、応安七年(一三七四年)のことで、これを義満が見物した。世阿弥の子元能もとよしの『申楽談義』によれば、翁を演じた清次に義満は痛く感動、猿楽の保護を約束する。これから猿楽は隆盛をみることになる。清次とは観阿弥である。風流を取り入れた猿楽は、義満の愛顧で急成長した。今熊野での義満と観阿弥親子の出会いがなければ、今日の能楽はあり得ない。観世座の初代大夫は秦清次で、芸人名を観阿弥(彌)といった。その子、秦元次すなわち世阿彌である。さらに先祖を辿れば、聖徳太子の舎人で渡来人お末裔である秦河勝は、護国平安を願って朝鮮から渡って来た様々な技芸を四天王(持国天・増長手・広目天・多聞天)に奉斎していた。河勝には子供が八人有り、うち六人が四天王寺の楽人となり、残る二人は大和へ移り、猿楽のもとになる雑伎をおこなったという。どうやら観阿弥親子は秦氏の末裔らしい。肝心の今熊野で義満が見物したのは「白髭」という曲であった。現行「白髭」は次のように展開する。江州白髭明神に参詣の勅使(ワキ)が、老若二人の漁師に逢った。釣りをしていた老漁師(前シテ)は本地垂迹思想に基づく白髭明神の縁起を語って聞かせた。(中入り)深更、明神(後シテ)が出現して舞い、つづいて天女と竜神が現れ、相舞をくりひろげる。現行の能のクセにはシテが立って舞う「舞クセ」と座ったままの「居クセ」の演出があり、観阿弥作の「白髭の曲舞」は世阿弥が各種著述で繰り返し強調しているように「舞クセ」であった。
曲舞は立ちて謡うわざなり。風躰よりいづる音曲也。(音曲声出)
白髭ノ曲舞ヲ、亡父申楽ニ舞出シタリシ。(五音)
曲舞は立ちて舞うゆえに、拍子が本なり。(申楽談儀)
世阿弥は、ライバルの近江猿楽や田楽が衰退していったなかで、大和申楽だけが、観阿弥工夫の観世節を守り、世阿弥壮年期の応永のころから、当世を代表する遊曲になったと、『五音』の冒頭で当時の能楽史を総括している。世阿弥が自作にとりいれた曲舞は、それまでの大和申楽の能の欠落を補い、劇的に変化させた楽曲であった。曲舞の摂取が大和猿楽を大きく変えたことについて、世阿弥は『音曲声出』で次のようにのべていた。
曲舞は拍子が躰を持つゆえに舞という文字を曲に添えたり。さる程に曲舞というなり。立ちて謡うわざなり。風躰よりいずる音曲也。しかれば昔は格別の事にて、曲舞は曲舞の当道にて、あまねく謡う事はなかりしを、近代曲舞を和らげて、小歌節をまじえて謡えば、ことにことに面白きなり。面白く聞こゆるゆえに、当時は殊更、曲舞のかかり、第一のもてあそびとなれり。これは亡父猿楽の能に、曲舞を謡い出したりしによりて、この曲あまねくもてあそびしなり。白髭の曲舞の曲、最初なり。さる程に、曲舞がかりの曲をば、大和音曲と申したり。
能、曲舞、そして曲舞をとりいれた能の三者の芸態についてのべた重要な文である。ここでは、 次の四点が指摘され、曲舞が能楽に取り入れられ、能楽に大きな変化が生まれたことが強調されている。
世阿弥はいう。当道の音曲は大和節、近江節、田楽節の三者に限られている。大和節は亡父観阿弥の節を規範としている。近江は大王道阿、田楽では亀阿弥の節が行なわれていたが、この二つの節は今では昔の曲風として伝わるだけで、先人の没後は、達人が絶え、師となるべき人はいなくなり、近江猿楽や田楽は能を作書する人が絶えてしまった。ただ当流だけは、亡父観阿弥の流儀を正しく伝えているために、自然に世に広まって、応永年間以来、当世の遊曲となった、と。観阿弥と彼に続く世阿弥は田楽の一忠や亀阿弥、或は近江猿楽の犬王などのすぐれた点を謙虚に学び取り、ことごとくを自分のものとしたばかりでなく、更には女曲舞師乙鶴について、当時世間で人気のあった曲舞までを、其の芸術の中に取り入れた。それまでの小謡節にこの曲舞節を加えたのは、メロディーの美しさに軽快なテンポ、リズムのおもしろさを導き入れた事で、能の音曲の核心でした。是が大いに流行し、今日の謡曲の基になりました。台本は「自然居士」「卒都婆小町」「四位少将」などは彼の作品である事がほぼ決まっています。世阿弥の幽玄を追求した演出と対象をなす小気味よい会話や振舞は、庶民の目をもってみせようとした観阿弥のセンスがつまっている。
世阿弥の発想は観阿弥の取り入れた曲舞の身体技法と、貴族の好みである衣装、また『伊勢物語』『平家物語』などの古典に取材したシナリオを含み、耳慣れた仏の物語を場所、時に応じて新たに語り直すことであった。世阿弥は、貴族にウケるように音曲に工夫を凝らしたらしいことが村戸弥生の『遊戯から芸道へ』 の中で言及されている。著者の村戸弥生によると、室町時代末期成立の能楽伝書『八帖花伝書』六巻「女躰」と『蹴鞠条々』「身躰の事」を対照すると、どうやら能の身体は蹴鞠の身体でもあるらしい。いや、其の様に説明することで「能」の効能を貴族に見せつけた。世阿弥は優れたプロデューサーである。
舞・白拍子には、物狂などのかかり、扇にてもあれ、挿頭にてもあれ、いかにも弱々と持ち定めずして持つべし。衣・袴などは長々と踏み含みて、腰膝直に、身はをやかになるべし。顔の持ちやう、仰げば、見目悪く見ゆ。俯けば、又、後姿悪く、さて、首持を強く持てば女に似ず。(『八帖花伝書』)
かほもちは、あふがず、うつぶかず、鞠にしたがひていづかたへもむかふべし。手持は、……たわ々とよき程に持べし、……腰仕は、すくみたるもわろし、あまりなへたるもみにくし、こしをすへて腰をかがめず……(『蹴鞠条々』)
『鞠』は、謡、和歌、連歌、朗詠、蹴鞠技術口伝といった文言敵なもののみならず、蹴鞠の基本フォーム、狂女物の能といった身体的な物も習得できる優れたハウツー曲であると、世阿弥は宣伝したのである。この曲は、玄人素人問わず酒宴堰での略式の能の舞や謡が盛んだった室町末期の要請に合い、武家の年中行事の場などでの必須の知識を詞章に詰め込んだ物である。小笠原氏といった武家故実家に享受され、また一方で、白拍子によって独立した曲舞として謡われたりした。なんとも手の行き届いた「色知り」である。世阿弥は優れたプロデューサーである。世阿弥は猿楽を風流にするための工夫をした。大陸風の舞楽の優美さをも日本の室町文化に蘇らせている気もする。更には義満将軍の「花の御所」の言葉に合わせるかのように芸を作り上げた優れた演出家であり、プロデューサーである。観阿弥は世阿弥に教育した「鞠・連歌などさへ堪能にはただ者にあらず」『二条良基消息』という言葉には、彼の風流へのこだわりが伺える。蹴鞠も連歌も当世の貴族のタシナミであった。このような教育観から世阿弥への教育は、おそらく南都興福寺の僧侶、知識人によってなされた。後年、世阿彌の次男元能の聞書き『世子六十以後申楽談義』のなかで、申楽芸能者は人々の気持ちを和やかにしなければならず、そのためには「色知り」でなければならないと語り、義満の愛妾高橋殿という東洞院の傾城を一例に挙げている。当時の評判では、高橋殿は万事の色知りで、義満の寵愛も深く、最後迄落ち目になることがなかった常に義満の機嫌を考えて行動し、酒等を進める場合も、強いたほうがよいときには強い、控えたほうがよいときには控え、さまざまな心遣いをして立身したという。現代でも彼の精神は起業のための「セミナー」のなかに生きている。彼が現在でも語り継がれている理由は、渡世の思想を現代人が彼と共有できるからであろう。
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世阿弥が年をとり、義満の寵愛を受けなくなってからは、能もまた時代と共に変化した。禅竹が継承した舞歌中心の複式夢幻能、そして人間の内面を深く照射する元雅の能とはかなり傾向の異なる作風の、いわゆる「風流能」とよばれる作品が作られた。室町中期、後期、特に応仁の乱以降、能役者の有力な支援者であった寺社勢力は没落し、その代わりに新興の商人らが能楽の享受者になる。現在の能の基本である構えや摺り足も世阿弥時代にはなかったもので、武芸の呼吸と振る舞いを取り入れながら、この時代にようやくその萌芽が見られた。中世と近世の過渡期にあって、能に劇的大衆性を与えた偉人に観世小次郎信光がいる。「安宅」「舟弁慶」「紅葉狩」「鐘巻(後の道成寺)」のごとき、後世の演劇にそのまま引き継がれ、現代でも大衆能や大きな催しになくてはならぬ人気曲をつくった。彼は世阿弥の歩んだ幽玄の道から、少し里に下り、観客の官能に直に訴えた。例えば、幽玄とは思えぬ人の数を舞台に上がらせる。「安宅」では十四人を舞台の上にのせます。歌舞伎十八番の「勧進帳」では山伏が四人しか出てこないが、能では十二人、脚本通り登場させる。前段では能のエッセンスとでも言うべき優雅な舞を舞わせ、後段では波瀾万丈の逃走をみせると言った演出も彼の創意による。こういった演出も貴族から武士の世の中に移りに合わせたのかもわからぬ。
観世信光が活躍し始めた十五世紀末は、将軍政治の矛盾が表面化し、一揆も年を追って甚だしく、応仁の乱がおきるなどして政争と戦乱の繰り返しが始まっている。世情に最も敏感なのが舞台芸術である明日の命もわからない日々を送っている人々を観客とする以上、ショウ化することが能の最も行きやすい道だったに違いない。世阿弥の最盛期の義満一代は、矛盾をはらみながらも足利家の勢威が確立し、能にとってはいい時代だった。だからこそ格調正しい祝言の能も、幽玄に徹した三番目物も生み出す事ができた。信光の時代はもうそうしてはいられなかったのである。混沌とした世情に加うるに、一座の太夫はまだ若い。世阿弥の幽玄能は、脚本自体が優れている事に間違いないが、あくまでシテ中心の独奏曲であり、しかもきめのこまかい演技を要求する能なのだから、なまなかな人では成立しない。太夫は若くて危うい。内外の事情が重なって、信光にショウ的な能を数多く造らせる事になったのではなかろうか。彼自身がワキ方として活躍したから、ワキの見せ場の多い能をつくったという見方も行なわれるが、そうした個人的な事情よりも、一座としてもっとも有益な作品を生み為の努力が、必然的にそうした能を作らせたのだと考えたい。(横道万里雄「日本の劇文学」)そして、金春禅竹の孫、金春禅鳳と観世小次郎信光の長男、弥次郎長俊の二人で能の創作の断絶がやってくる。戦国時代を経た次世代の能は、創作をやめてもっぱら磨きをかける方向へと転換した。
応仁の乱から戦国乱世にかけての政治的、経済的混乱は能楽界にも大きな影響を与えた。疲弊した社寺は神事猿楽を行うだけの費用がなく、幕府も保護者としての力を失った。織田信長によって戦国の世がひとまず統一され、能楽界も息を吹き返す。秀吉は山と去る楽四座の保護政策を打ち出し、役者に知行や扶持米を与えた。徳川幕府は秀吉の政策を踏襲して能を保護してから、狂言は能とともに幕府の儀式の際に演じられる式楽として、固定化の道を進む。明治維新によって、四座の頭として威勢を振るっていた観世太夫清孝でさえ、徳川慶喜に従って静岡へ都落ちをし、能装束の売り食いによって生活するという状態までなる。明治維新以後の能は、最大の庇護者だった徳川幕府を頂点とする武家社会の崩壊で、未曾有の苦難に直面したが、維新五十年ほどを経過して、ようやく復興の兆しが見えてきた。それを象徴する出来事が明治十四年の岩倉具視ともみら華族による「能楽社」の設立であるが、それまで用いられてきた「猿楽」は、能楽社、新たに生まれた「能楽」に取って代わられ、以後は全く用いられなくなって現在に至るのである。つまり、現在我々が使っている「能楽」は、明治十四年の能学社の設立とともに生まれた新造語だということである。