第四夜:言葉の態/第一話:絹之道

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第四夜:言葉の態

歴史とは物語(ストーリー)のことだ。語る者の口が違えば、歴史も変わる。歴史と語ることと、歴史を学ぶことは違う。私はこの本を描きながら語っているつもりだ。しかも、嘘をついてでも本当であるかのようにユウベンに語ろうと思う。人は都合さえよければ金を払ってでも物語を買いのだとひらきなおったほうがいい。『古事記』も『日本書紀』も都合良く引用したらいい。しかし一方で、本の行間や余白には人間の都合に合わせて沈黙させられた物語が少なからずあるはずだ。表があれば、裏がある。私は俳優の影を追っていきたい。

文字は言葉を伝える手段として、人間に利用されて来た。文字の御蔭で世界の物語が日本にもやってきた。言葉だけでなく文字も舞台装置だ。日本語はどこからきたのか。語り手はどこから来て何を語ったのか。そして今、何を沈黙しているのか。
私が青森県に棲んでいる時、一緒に船に乗ってホタテの養殖をするばっちゃが浜小屋で小包を受け取った。箱の中身は一瓶一万円する栄養剤だった。「家にとどいたらとっちゃにおこられるはんで宅配屋さ頼んでここさもってこさせた」という。本当に効くのかもしれない。だけど効かないのかもしれない。私も中学生の時、駅で売っていたガラス玉をキレイだなぁといって、五千円で買ったものだ。何が偽りになるだろうか。何が本当のことだろうか。誰が時代を物語るのだろうか。いつの間にか人は時代の中で己が役を演じている。演じさせられているのだとしたら、気に障る。ならばこちらから演じてやろう、と、私は思う。

 

第一話 絹之道

人は言葉を声に使って表すと共に、言葉にならぬ心を、もしくは口にしてはならない言葉を身振り手振りで他者に伝えようとした。それが言葉以前の身体の言語だ。『文字の世界史』で述べられている「狩人達の狩猟コード」と解釈されている手の形などはそれであろうし、月の満ち欠けを表すマヤ文字は、変わりゆく月の変化を人間の「手」が動かしていたかのような神話を思わせる。また顔は口程にもモノを言う。文字は声の顔としても利用されただろう。姿のない声を見えるように形を与える一方で、人は記憶の手助けをする道具として記号、絵文字を用いてきた。それは現在私たちが文字と呼ぶものとは少し違った、しるしであった。アイヌでは熊祭の順序を刻んだ「棒」を使い、アメリカ・インディアンは模様を用いたが、これらは記憶の補助であり、真にその意味を知る人が意味を語り継がねばならなかった。

 フランスの探検家カディヤック大佐の一七〇三年の報告によれば、一人のインディアン酋長が、自分の部族はイオクオア族からもらった貝がら玉のカラーをもっているが、「長老たちがそれに書いてある意味を忘れてしまった」と彼にはなしたという。通例、此の種の不幸は若干の予防策によって未然意防がれた。たとえば、部族の記録帯は一種の《記録局》のような所に、記憶力の強い「貝がら玉管理人」ともいうべき人の管理の元に、ひとまとめにして保存された。決まった季節に部族民が集まり、それからこの帯を順繰りに手渡ししては、全員と気を々うして、帯の一つ一つに記録してある事件の公式の訳文を、声をだして繰り返し読むならわしであった。(『文字の歴史』A.C.ムーアハウス)

他にも、骨や木片に刻まれた「線」や紐の「結び目」は数を記録するのに役立った。骨に刻まれた線は、擦り合わせれば音を出す。文字はこうして実際にモノをいうこともできたのである。原始的な記憶の補助装置であったものが「文字」として生まれ変わるきっかけは、部族社会にはなく、見知らぬ人が互いに約束事をするとき、「時の証人」が必要であったからだろう。文字が発展し、長々と複雑に様々な考えを書き残せるようになってからも、補助として使われていた。

聖アウグスティヌスが師である聖アンブロシウスが黙って本を読むのを見て、どうして不思議に思ったかというと、西欧では起源数世紀まで、声に出して本を読むのが普通だったのである。文書は主に記憶の補い、つまり前にどこかで聞いた事を思い出すためのものだった。文章はほとんどの場合、歌うように抑揚をつけて読まれるか、少なくとも瞑想や暗記を助けるために嘆くように読まれた。黙読は事実上、それまで存在しなかった行為だったのである。(スティーブン・ロジャー・フィッシャー『文字の歴史』)

いつの間にか、文字は人に変わって口をきくようになったようだ。

 

「文」の発生

文字は、文字を知らぬ人が読めばただの記号であり、意味有りげに刻まれている「模様」であり「装飾」である。元々は数を数えるための結び目、数え木のごとき「結び目」や「刻み目」であったし、別の形をとれば洞窟画やインディアン、エスキモーにみられる「絵文字」である。土器や織物に施される装飾の「パターン」も、人間の言語能力から発している。未知の文字を解読して来た人達も文字か模様か決めかねることがあったようだ。

 バビロニア語がまだほとんどわかっていない頃から、ヨゼフ・ハーゲルは「新発見尾バビロニア語刻文」についての小著を公刊し、そのなかで彼はいくつかの、基本的には正しい観察を行った。即ち①「釘状」の文字記号はそれまでの学者達が考えていたような装飾ではなく、まさしく文字である。②これらの文字はペルシアのみならず、ペルシア文明より以前の文明を持っていたバビロンにおいても使用されていた。③それらの文字は左から右へ横に読まれた、というものだった(アルベルティーン・ガウワー『文字の歴史』一九五頁)

エジプトのヒエログリフ、アルファベットの祖系であるフェにキュア商人の文字は絵文字から始まっており、彼らが写し取った「絵」が形を変えて現在のアルファベットに至る。一方で、絵ではなく記号から始まる文字の歴史もある。即ち、自然と生まれでた記号、何かの形にそのまま恣意的に意味を与えることをした。偶然のように思われる形の中に人は意味を見いだすイキモノである。

「ゲルマン人の占いは単純である。果実のなる木の枝一本を切って細かく割り、これに記号を書いて白い布の上にばらまく。部族の運を占う時は司祭が、個人の運を占うときは家長が祈祷をした後、下を見ないように顔を上げたまま木片を三回拾い上げる。そこに書いてある記号を卜占とする」(『ゲルマニア』一〇)(『文字の世界史』ルイ=ジャン・カルヴァン)

文字は読むものではなく呪文として一人口ずさんだり、身につけるだけでも人の役に立った。エジプトの「死者の書」といわれるヒエログリフで書かれた本は読まれる事を意図されていない。それを所持することが、死後のお守りになるのである。

文字に内在する永続性と、理解が修行期間(特定の文字を習得するのに要する時間)に依存するという事実のために、かかれた言葉は護符の力を帯びることができる。アンフ(生命)を表すエジプトの聖刻文字は、本来の意味が忘れ去られてずっとのちになると、永遠の生命および幸福のシンボルとみなされた。敬虔なユダヤ人が祈りの際に身につけている聖句入れの小箱(フイラクチーリ)や、不幸から住民を守ると考えられているユダヤ人家屋の門柱の刻文がある。イスラム教徒でさえ、《コーラン》の章句を含む護符を身につけている。キリスト教徒は聖書に同様の非からがあると考え、死者の遺体上にそれをおき、聖書の紙葉で病人をあおいだり、〈主〉の的である悪魔から発せられるすべての厄悪に対する究極の保護手段としてこれを使用する。(アルベルティーン・ガウワー『文字の歴史』二五八頁)

日本では、卒塔婆に刺さっている板の文字も一般人にとっては意味不明の記号であるし、正月になると店先に出てくる「謹賀新年」などは、「商売繁昌」の護符であろう。単なる模様に意味を与えて「読み取る」姿勢は、数学者や科学者が数字や計算式から何かを読み取ろうとする姿勢に似ている。不意にあらわれた模様が歴史を重ねて意味を与えられたものの一つに、甲骨文字がある。山本祐弘は『北の民俗誌』のなかで、「骨を焼いて行う占いは中国の甲骨文字を生んだというそれである。火の神に聞く文化が北の国の特徴だとすれば、甲骨文字を生んだ人間もかれら北方民族である。」として、シベリアの民族、オロッコの占いの様子を次のように書き残している。

吹雪の晩、ツンドラに張るテントの中で聞いた占の話一つ。先ず馴鹿の肩骨をとって附着した肉を去り清浄にする。これをストーブ又は薪火で焼いて、その骨面に現れる亀裂の具合によって両濃霧、天気の良否、遠く離れて住む同族の生死、又近々に人の来訪があるといった風なことを占ふのである。(五八頁)

甲骨文字は最古の中国文字で、紀元前一四〇〇年頃の、立証されている中国最古の文明、殷王朝の形成期頃のものだが、結局は「表意文字」とされる漢字に多くの想像力を与えていく。

白川静の『漢字』に書かれている甲骨文の文例は「雨ふらざるか」「其れ雨ふらんと。之の夕、允に」「今夕、雨ふらんか」「象を獲んか」という天気に関するものである。日本の『津島国卜部亀卜之次第』には、亀裂の図とともに、その意味が説明されている。なお日本では鹿の骨を使う卜占が多いが、対馬では亀(ウミガメ)を使用している。(『白川静の世界Ⅰ』)

原初的な形態を残している文字で、現在に記録されているものにルーン文字がある。絵文字を介さずに、線を使った記号のまま発展し、利用されて来たように思えて興味を引く。

ルーン文字は、ゲルマン民族のただ一つの土着文字で、ゴート文字と違い、これまで知られているどのアルファベットをも模倣していない。(略)ルーン文字は、世界の大部分の文字と違い、文芸書や実用に使われる事はなかった。ルーン文字は、その名が暗示するように、ー古ノルド語は「秘密または隠れた伝承」を意味するー社会的に限られた使われ方しかしなかぅった。ほとんどは祈念の石碑に刻まれたが、指輪、ブローチ、止め金、武器、象牙の容器、その他の貴重品にも彫られた。(略)ルーン文字が鵜刻まれた最初の材料は木の棒や骨で、そこにならナイフで縦線がもっとよく切り込めたにちがいなく、それがこの文字を独特の尖った形にしたのだろう。(略)スカンディナヴィアの若いフサルク・ルーン文字は、長い事、異質のものと見なされていたラテン・アルファベットよりも優位に立っていた。ところが十三世紀になると、豊かなハンザ同盟と協力なキリスト教会のラテン・アルファベットが、少なくとも長く仕えそうな代替文字になりはじめた。そのうち、利益や救済が考慮されるようになると、ルーン文字の言語学的利便性は評価されなくなった。その後の数世紀間に、ルーン文字はラテン文字の勢力にさらに屈することになった。(スティーブン・ロジャー・フィッシャー『文字の歴史』)

「文字、アルファベット」を表すドイツ語Bushstabeが文字通りには「ブナに書いた棒」を意味するところから、ルーン文字はたいていブナの木片に書かれていたのではないかと考えられる。英語のbook「本」も語源は「ブナ」で、write「書く」は「木を彫る」がもともとの意味であるという(『文字の世界史』ルイ=ジャン・カルヴェ)。

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漢字の文化と同様に絵文字から発生した文字のひとつにエジプトの文字がある。これらは神殿に刻まれる神聖な文字であり聖刻文字(ヒエログリフ)と後から呼ばれている文字である。エジプトの国力が衰え、ギリシア人、フェニキア人の商業活動が活発になるにつれてギリシア文字、フェニキア文字にとってかわられるようになるが、それらの文字もエジプトの文字を習って工夫され作られた文字である。

エジプト人は、すでに紀元前第三千年紀には、子音を表現する方法、すなわち古代エジプト「子音アルファベット」を作り上げていた。だが、何百年ものあいだ、これはヒエログリフや決定詞と組み合わせてしか使われなかった。また、重複と混合が多く、極めて複雑な記号体系となっていたため、訓練を積んだ専門家にしか理解できなかった。紀元前二二〇〇年前後までに、エジプトの書記達は、「必須でないもの」を排除すれば彼等の文字を格段に簡素化できることに気づいたらしい。そこで彼等は、文字体系全体の範囲をエジプト語の子音構成要素に限定した。言い換えると、他は一切使わず、子音字アルファベットだけで書き始めたのである。セム族の貿易相手や外国人労働者たちがこれを目にし、この仕組みと記号をカナンに持ち帰って、彼等の言語を書くのに使った。千年後にはギリシャ人が、同一の仕組みと記号を、カナン人の子孫であるフェニキア人から借用し、母音を追加し、完全なアルファベット、すなわち、現在世界中のほとんどで使われている文字体系を創り出した。(スティーブン・ロジャー・フィッシャー『文字の歴史』)

エジプト人も、絵文字を書く労力を省くために「記号」を使って記録しようとしたが、神聖なヒエログリフを離れることは王の権威を落とすことになる。こうしてエジプトの民族は結局新しい文字を体系化することなく衰退していく。エジプトでは石やパピルスに刻んで書かれていた文字であるが、アルファベットを生んだ民族は粘土に文字を刻んでいた。書かれている内容はエジプトのような神話ではなく、大量の計算書や契約書である。書記はこの記録の作業を簡略化するために粘土に「くさび」で跡を付ける方法を思いついたようだ。絵文字の簡略化が、楔文字と呼ばれている文字を作り上げた。

文字のある最古の粘土版はシュメールの神殿跡から発見された。刻み付けられた文字は神々を讃える聖なる呪文ではなくて、実は取引の勘定書であったという事実は何分にも興味深い。神殿には多くの僧達が折り、彼等は祭祀の司祭から、神殿領地の管理に当たった。これらは、かれらを富ませた。有力な領地はすべて農場だったからである。さらに僧達は神殿内にパン焼き工場、醸造場、紡績工場、鍛治工場を置き、奥の職人を雇い相当の収益を上げていた。さらに金融業を営んだことも記録に見える。始め神殿を中心に始まった経済行為は次第に”俗界”にも広まり文字は僧侶達の専有物では無くなった。このようにして古代都市は相対的安定の時期にあった。安定を持続するためには正当な産業活動を国家として保護し、奨励する必要があった。その範典となるものは法律であった。ハンムラビ王(前一七二四〜一六八二)は、その法律を正義の神から与えられたとしている。(日向数夫『古代文字』)

文字処理能力がある寺に最先端の技術が集り、製品をつくり、商いをしていた事情は日本と変わらない。文字とは経済をまわすために使われている。文学のため、思想のために使われるなどというのは、「おかどちがい」であろう。新しく文字が作り替えられ、生み出され、普及する力は、時代を動かす人々の力であり、文字を固定され支配されて来た民衆の暮らしが変わることでもある。逆に、文字が変わらなければ人々の暮らし、思想は変わらないかもしれない。自分たちの暮らしに便利となるように文字を工夫して利用したフェニキア人にも歴史がある。

青銅器時代にカナン人だった人びとは、鉄器時代にはフェニキア人(「紫の商人」)になっていた。フェニキア人は突然民族として現れたのではなく、ビブロス、テュロス、シドン、ベイルート、アシュケロンなどの海岸都市に住んでいた、もとはセム系の住民たちだった。彼等は紀元前一〇五〇年頃までに「海の民」である異民族のギリシャ人の勢力が衰えると、代わって地中海沿岸の港を支配するようになった。この事がフェニキア人に突然自由をもたらし、彼等は隊商を送り出し、地中海東岸沿岸のあちこちに商業中心地を確立した。このような商業中心地には新しい、より適切な文字、すなわち簡略化された子音アルファベットが必要だった。(フィッシャー『文字の歴史』)

彼らは縄張りを拡大し、異民族の言葉をも使い、話をし、そして契約し計算しなければならなかった。その新しい暮らしを支えるために彼らが作った文字を、現在ではフェニキア文字と呼んでいる。商人の文字はギリシャにも通じ、ギリシャ人はエジプトでも彼らの文字を使った。文化が混ざり合い、新しい支配関係が生まれるとき、人も文字も変貌していく。

ヒエログリフは主として神殿・王宮の壁とかその他の記念碑に用いられた。それは太古から伝わるものであり、尊厳たぐいなきものであって、書体は厳格な約束が要求され、かりそめにもその形を変改することは許されなかった、とはいうもののエジプト文字は神秘の密室にのみありうるべき呪術のサインでは無かった文字は何より実用のためのものであり、ヒエログリフも本来の王達の尊厳な神々を奉賛する役割を離れて、日常の記録、単に伝達のために用いられる場面では複雑な象形の要素を少しずつ捨てていかねばならなかった。たとえば、古代日本の写経生が頻繁に現れる漢字を、その都度繰り返し書く煩を解決するために漢字の一部を書き示す習慣が片カナを誕生させたように、エジプトの書記生が長い間にヒエログリフの略体を発明したのかもしれない。(略)アレキサンドリア市がおこされ、ギリシア文化が流入し、王の権威はせいぜいアフリカの一角の地域勢力の主張に転落していく。しかし、エジプトの民衆は、衰えることなくすすんでギリシア文化を吸収し、ギリシア人と盛んな交流を行った。デモティック(民衆文字)はこうした中で生まれてたのである。(略)デモティックはヒエログリフの最後の名残であって、やがてギリシア語、ギリシア・アルファベットがエジプトに定着するようになると次第にすたれてしまった。(日向数夫『古代文字』)

文字を神聖化しなければ、文字も使い手によって、使われ方によって、人々の使いやすいように改良されていく。

政治と「文」

文字は多くの地域で時代や民族とともに「神の文字」から「商人の文字」に移り変わったが、歴史をたどれば文字は権威に結びつき、カミと結びつく。物語を記録するための文字ですら物語るというのは、人間らしい話である。

アステカ人においては、ケツァルコアトルという風神「翼ある蛇」が技術友次の発明者であり、マヤ人においては、時の神意ツァマが人間のため文字を発明したと言われている。エジプト人は学芸の神、写字生の守護神トトに文字の発明を負っており、中国では紀元一世紀に公刊されたかの有名な許慎の『設文解字』によれば、それは黄帝よりおくられてきた使者蒼(吉頁)であり、彼は紀元前二十六世紀に鳥獣の残した足跡などを見て、さまざまな者を表す記号として役立てる事を思いつき文字(いうまでもなく漢字)を発明した。以上何れの場合も、文字には長い発生の過程、つまり歴史があったのではなく、人間の手を経たものでなく神の贈り物であり、完成品として届けられたものとしている。繰り返そう。文字は神様の下さったもので歴史はなく、したがって幼児期の未決定の形はもたず、書写のために人間に(そしてその言語に)与えられた完璧な決定的な形でしかありえなかった。(『文字の世界史』ルイ=ジャン・カルヴァン)

多様で意識な世界をまとめあげ、共に生きる姿勢が政治であり、支配であり、階級社会である。人が石器をもち、槍を穿ち、矢を放つのと同様に自然と使われ育て上げられた文字の技術は時の権力者によって大いに利用された。広大な領地をもつ中国では統一などできそうにもないほど多くの民族とともに悩みも抱えていたはずである。

紀元前三世紀までには字体の多様化がすすみ、はやくも互いの文字が読めないという事態が生じてきた。統一中国の最初の皇帝である秦の始皇帝は、異種の人びとを統合するのに文字が役立つことに気づき、それを政治権力の道具として利用した。(略)紀元前二二一年の「文字の大改革」において、秦の宰相李斯は「大篆」を簡略化し、その「小篆」が新しい規範文字となった。これは、政治的・社会的中央集権化を目的とした、意識的な文字改革としては、古代世界で最大規模のものである。(スティーブン・ロジャー・フィッシャー『文字の歴史』)

列強が世界中に植民地を勝手につくっていた時代でもおなじである。

一八八三年、フランスはヴェトナムを武力で併合し、続いてヴェトナムの「ヨーロッパ化」をすすめたが、それには文字表記も含まれていた。一九一〇年、フランスは政府の命令に酔って、ヴェトナム固有の二種類の文字を、宣教師たちが使う西洋のアルファベットに置き換えた。現在のクォツグー(国語)はこの西洋アルファベットにつけられた呼び名であるが、いまだにヴェトナムの公式文字となっている。これは補助記号を利用して母音の特質を示し、また(あるいは)標準語であるハノイ地方のヴェトナム語の、六つの声調を表示するものである。現在の所、伝統的なチュノムに戻る可能性は低い。(スティーブン・ロジャー・フィッシャー『文字の歴史』)

満州や朝鮮に真っ先につくった日本語学校でも、支配のために文字を変え、言葉を変えようとした。当の日本でも、実は国語が英語に変更されるところだったのが、何故か未だに漢字を使っている。ありがたいことであるか、ありがたくないことなのかわからないが、史実だ。

第二次世界大戦後、マッカーサー元帥舌で二十七人のアメリカ人教育者が日本御教育制度を根本的に見直すために選出された。彼等は特に〈中国文字〔漢字〕系イデオグラム〉の廃棄を要求したが、そうでないと日本は技術面で西欧と太刀打ちを達成する望みが無いと考えられたからである。今日では、日本はこの太刀打ちを達成したばかりでなく、心ならずも西欧を脅かすいきおいのようだが、 日本人は相変わらず〈中国文字〔漢字〕系イデオグラム〉を用い続けている。(アルベルティーン・ガウワー『文字の歴史』三十一頁)

文字は政治だけでなく、宗教を暮らしの糧にする人々にも利用された。

キリル文字は、すべてのロシア人、ウクライナ人、ブルガリア人、セルビア人に、彼等の信仰するギリシャ正教を伝える文字として採用された。従って、此れ等の人々のあいだではキリル文字がすべての学問の文字になった(西ヨーロッパにおいて、ラテン文字がたまたまそうであったように)。ロシアの国際的重要性が増すにつれて、キリル文字は最終的に「ロシア・アルファベット」としてみとめられた。キリル文字は、少なくとも公式には、旧ソヴィエト連邦の他のほとんどすべての文字に取って代わり、従って、適切性に多少の差はあるものの、六〇以上の異なった言語を伝えている。ソヴィエト連邦が崩壊して以来、自分たちはスラブ民族ではないという意識を持った人びとのあいだから、アラビア文字、ラテン文字、あるいはその他の文字で、自分たちの言語を表そうとする新しい動きが出て来た。これらの代替文字はそれ自体が少数民族のアイデンティティの象徴であることが多い。(スティーブン・ロジャー・フィッシャー『文字の歴史』)

文字の歴史は政治の歴史でもある。

 

 文字の変遷

文化はどのように伝播し、変わっていくのか。ヘロドトスが紀元前五世紀に記すように「カドモスとともにやってきたフェニキア人たちは……ギリシャに定住し、この地方にいろいろな知識をもたらした。なかでも最も重要な者は文字だ。私が思うに、それまでギリシャ人 は文字を書くことを知らなかった」(『歴史』V-58)のである。驚異的な人種の移動、伝播を想像するには、スティーブン・ロジャー・フィッシャーの『文字の歴史』から次の文を引用すれば事足りる。

初期のメソアメリカ文字には初期の中国文字にそっくりな文字がたくさんある。エピ・オルメカ文字とマヤ文字の解読成功後、ようやく両者を結びつける事ができたのだが、これらが無関係であると考える方が不自然だ。①中国とメソアメリカの文字は原則的にどちらも縦書きである。②縦の行は上から下へ読む。③両システムとも二つ以上の記号を合体させて「文字枡グリフブロック」を作る。これらの文字枡は、ほとんどの場合表語音節文字である。(略)アメリカ大陸の文字が他からの借用であることを暗示する、さらに広範な歴史的論点がある。まず、この地域には差し迫って文字の必要はなかった。だから文字が入ってきたときに、帳簿や授受記録などの基本的な用途には使われなかった。これらの昨日はすでに伝統的な手法(結縄など)によって担われていたからである。しかし、世界の他の場所で起きた借用と同様、外来ものはすぐに支配者や神と結びつけられ、それまで記録できなかった事柄を記録するために使われた。もし本当に借用であれば、メソアメリカ文字は、他ならぬ中国の文字を借用したと考えるのが自然だ。(二八四)

一見、遠く隔たる場所の人々が文字を作る発想をおなじくするだけにとどまらず、全く同じ発想で文字を使うのだ。世界的に見ると、英語圏の文字が異常な発達をしたとも考えられる。

文字が伝播する原因は人の移動にある。人が移動すると、支配者が代わり社会も変わり文字が移植、導入された国がある。文字の不思議な関連文字の歴史を追っていくと、文字に支配され同時に文字を使う社会が知らず知らずに拡大されたことに気がつくだろう。

前世紀末、南西中国の非中国系ミャオ(苗)族人のあいだで、彼等の固有文字を知らずに働いていたキリスト教の宣教師達は、はじめ中国語の口語や文語で福音書を説こうと試みたが、まもなくそれがひどく困難であることを知った。その結果、サミュエル・ポラードおよびバイブル・クリスチャン伝道会の他のメンバーはミャオ語の音節文字の政策に着手し、一九〇四年にこれを上手く達成した。新しい文字は単純な幾何学的記号でできており、宣教師達の云う所では、ポラードもじは、たちまち成功し、他の非中国系諸語に採用されたほどであった。その後、一九一五年にアメリカ・バプティスト電動界、一九三〇にはイギリスと海外聖書境界に酔って、違う方式で違う音価を与えられたラテン・アルファベット文字を用いた同類の音節文字が草案された。(アルベルティーン・ガウワー『文字の歴史』一八三頁)

文字は人々の思想と直感から発明される。正しい文字というものはなく、文字は人間の思惑そのものである。私たちは与えられる生活用品や食糧と同様に、上手く文字を使って暮らしていかねばならない。

中古代になると、朝鮮は新たな社会的な圧力により、自国がどのような文字を必要としているかの再評価を迫られた。ちょうど十三世紀のこの頃、中国で発明された活字を使う印刷技術の、史上初の本格的活用が朝鮮ではじまったのである。一四〇三年には、朝鮮の印刷工たちはすでに金属可動活字を使っていた(ドイツのグーテンベルクよりもまる一世代早い)。このような技術的進歩は、学者たちに、自国の表記システムと文字が不必要な煩雑さを生んでいる事、またそれらがあきらかに朝鮮語に適しておらず、当たらし技術を適用するには煩雑すぎることを痛感させたようだ。さらにそれらは、印刷技術活用の可能性をも阻害していた。明らかに「自己組織化臨界」に達していたのである。その結果、効率的な文字を目指す改革が起こり、「世界で最も科学的にデザインされた効率的な文字の一つ」が誕生した。(スティーブン・ロジャー・フィッシャー『文字の歴史』)

楔文字がそうであったように、文字は新しい技術の必要性によって作り替えられたり、全く新しく創造される。現在であればコンピューターの言語であるし、科学者のもつ数学という言語も、狭い意味でいえば新しく作られ体系化された言語である。まったく新しい文字が生まれる一方で、文字は使用者、民族の暮らしとともに破壊される場合もある。

マヤ古典期の終わりにかけて、おそらく何千もの樹皮や鹿皮の絵文書がマヤの蔵書を飾り、それらには歴史、系譜、天体周期表、儀式の決まり、その他様々なテクストが書き込まれていたと思われる。十六世紀、スペインの侵攻に続いてマヤの書物が大々的に破壊されたため、現在は奇跡的に焚書を逃れた四冊の絵文書しか残っていない。(略)アメリカのマヤ学の権威マイケル・コウ博士はこう嘆く。「エジプトのアレクサンドリア大図書館焼失でさえ、一つの文明の遺産をこれほど跡形なく消し去りはしなかった」。(スティーブン・ロジャー・フィッシャー『文字の歴史』)

破壊ではなく、消滅するケースもある。

ニヴフ人はかつて「ギリヤーク」とも呼ばれ、北海道の北に位置するサハリン島、およびその対岸のアムール川下流域に住む先住民族である。(略)人工はおよそ四千四百万人、長らく漁労と最終、狩猟を生業として来た。ロシア連邦の他の少数民族の例にもれず、その言語は消滅の危機に瀕している。正確な数字を述べるのはむずかしいが、高齢者を中心と舌話者がおそらく二百人から三百人存在しているに過ぎないと思われる。いくつかの小学校でニヴフ語の初等教育を施しているが、まだ流暢なニヴフ後を話す祖父母の世代とコミュニケーションをとれる語学力を身につける迄には至らない。家庭で話される言語はロシア語であり、子供達は学校で英語を学習する。英語を身につけなければ外資系企業への修飾の道も開ける。そのほうが親も喜ぶ。消えゆく自分たちの言語の行く故を案じて嘆くのは、ニヴフ後を話す最後の世代に属する一握りの人々であるように見える。(『北のことば・フィールドノート』八頁)

すでに母語として話す人がいないという点でアイヌ語も消滅した。アイヌは文字をもたなかったが、アイヌの言葉は文芸作品として録音され記録され残されている。津軽弁のネイティブスピーカーも十年後にはいなくなる。技術の御蔭で文字を中心とする社会が拡大し、若者達が親の使っていた言葉を使えなくなる事例は日本の地域社会でも同じである。テレビが普及してから、新聞が東京弁一色になってから、少しずつ弱まっていく言葉がある。嘆くことでもないのだが、私はどうしてか、失われていく言葉を使う人達の姿が人間らしくて愛おしいのだ。

言語はどのようにして滅びるのだろうか。民族とは、どのようにして入れ替わるのだろうか。面白い例が著名な印欧語学者クラーエは地名研究の重要性を説きつつ、あらゆる固有名詞の中でも最も永続的で、部落の名称や山脈の名前より一層古いのは河川名であると強調した。シベリアの河川名をおなじ方法で調べると次のような見解に至ったとのことだ。
イルクーツクの地理学者ショスタコヴィッチはすでに一九二六年にシベリアのか鮮明にはOmj, Tomj:Kebesch, Seresch:Aba,, Kan: Mana, Ana, Onaといった多くの類似した名称があるのみならず、多くの河川名では、Basas, Unsas, Kasas, Kumsas, Arasのように同じ末音節をもっていることに着眼した。そして彼は、それら同一の末音節は「川、水」を意味するもので、ここに河川名に対する一定の銘々法があることを見破った。そしてシベリアで最大の川であるObj川のObjという名称も元来は「水」或は「川」の概念を意味するものと見なした。しかし、それらの河川名はどの言語にも属さず、すでに完全に消滅してしまったある種族の言語の痕跡であろうと述べている。(『韓国語の系統 』金芳漢)

文字の歴史は民族の歴史でもある。

 

日本語の「文」

 

日本は多民族国家であり、海と山で隔てられた僻地に暮らす人々が使う土地の言葉が沢山ある。もちろんそれは世界のどこの国でもあるが、日本の場合は言葉だけではなく人種も違う。津軽の言葉は琉球では通じない。東西に伸びた国土は北と南の文化に別々に接している。例えば、日本本土のマタギも北方シベリア民族もさがしものをする時にはカミ祈るが、この「マタギ」という言葉をつかう人が日本の北のはずれにもいた。中村チヨ口述、ロバート・アウステリッツ著『ギリヤークの昔話』からの引用である。「虎の娘をもらった男」と題されている。

「むかしは村一つあったんだそうだ、むかしのお話。たいしたなんでも自慢している男がいるんだそうだ。その男と自分の父親と小さいまご、十なんぼかのまご一人つれて、今度三人して、マタギに行ったんだな、山おくさ。山おくさマタギに行って小屋つくっていたんだ。その若者が毎日口つよいことばかり言って、じいさまが「なんだ、この山の真中さ来てあんまりつよいことばつかうな、神様がおこったら、わるくおもったらこまるから」と言ったら(以下略)

ギリヤーク人は黒竜江口および樺太の土着民族である。語り手の女性は、日本語を本土の人に習ったそうだ。言葉を習う、言葉を使うとは人がその土地で暮らすために必要であった。

言葉は多様であっても、文字は限られている。文字は多様な音声を正確に記録するものではなく、記憶と伝達の補助である。言葉は語られ続けなければ、心を忘れられてしまう。現代の若者達は図鑑では見て知っている蛇が本当にどんな動きをして、どれだけ奇妙で、どれだけくねくねしているのかを知らない。文字というものも知っているつもりで、使っているけれども案外知らないものである。日本語は漢字、平仮名、片仮名の三種類の文字を使う。大陸からやってきて大和朝廷をつくった民族が漢字を携えていたことでたまたま漢字が使われたのである。片仮名は写経生が「余白に書き残した音のメモ」である。しかし幾ら借り物でも、外部から文字を受け入れた人達は自分たちが本来持つ身体、言葉の音に対する身体感覚を反映している。インドから日本を越えて北アメリカまで使用されてきた、もしくは使用されている文字は常に自分たちの都合に合うように改良されてきた。人間の「真似る」という力には脱帽である。

ブラフミー文字の原義は最高の造物神ブラフマン(梵天)が想像した文字とされている。始めはインド固有の文字と信じられていたが、セム系文字が特にアラム文字の影響を強く受けている事が実証された。アラム文字がインドに流入したのは前七世紀の頃で、恐らくメソポタミアを越えて来たセム系商人のもたらしたものと推定されている。日本に伝わった悉曇文字はブラフミー文字が仏教とともに古代中国、ならび日本に入って、曲線質で構成されるようになり、また横書きから縦書きに変改されるが、ブラフミー文字の亜流である。中国や日本では仏教関係の聖なる文字として、今日でも、なお特殊な権威をもちつづけている。梵字の名でよぶようになった。梵とは造物神のブラフマンを意味する。(『古代文字』日向数夫編)

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語り継がれ書き継がれながら、文字と音声の闘ってきた言葉の歴史がある。話し言葉と書き言葉は別だ。重力の法則を仕事の道具にする人もいるが、法則を知らなくても人は歩ける。「らぬき言葉」が日本語として正しいか、などという問は役に立たない。言葉が変わっても文字は権威と結びついて変わりにくいだけだ。逆に、言葉は人々の心に染み付いて離れにくく、心と同様に移ろいやすい。書き言葉の作法と、話し言葉の作法は異なる。

アラビア文字の地理的拡大に伴い、地域に夜変種も数多く生まれた。々時代に、ラテン・アルファベットも西ヨーロッパ全域に多数の変種を生んでいるが、アラビア文字はコーランとその註釈に密接な関係があったため、固有の保守性をもつようになった。つまり、アラビア文字を使って表す言葉は大きく変化したにも関わらず、文字のほうはほとんど変化しなかったのである。学校は宗教的保守性を固く守り、そのためにアラビア語の書きことばと話しことばのあいだの隔たりは大きくなった。今ではまるで別個のものだが、両者は一つの言語の異種だと見られている。(スティーブン・ロジャー・フィッシャー『文字の歴史』)

日本ではとかく「古典」や「文学」が引き合いに出されるが、今まさに生きている現代人の肉声の生々しさのほうが、私の好みである。日本文字の一つである平仮名は、どうしてだか平安貴族の女性が使い出して流行したことになっている。これはおもうに、女性社会の流行であったはずだし、漢字はオトコが使うもので、男の社会的な特権であった。だがどうして平仮名を発明したのだろうか?片仮名は漢字を書くスペースを嫌って、仏教僧たちが省略したものが今に至りカクカクしている印象があるが、平仮名には艶かしさが込められている。よくみれば、どこか悉曇文字や梵字のような異様さを感じる。私は平仮名の登場をくすぶったのは、日本と外国、山と里といった境界を生きる人々の自由さであり想像力であったとおもっている。ひとたび平仮名が発生すると、女性はこれを大いに利用した。平仮名は漢字が入れなかった異界に住着き、異界に暮らす人々に仕えたのである。

平安時代の女性が能筆ぶりから得た賞賛は、彼女達の性的魅力と大いに関係している。彼女等は女性として書いたのであって、書記あるいは学者としてではない。彼女らはもっぱら日本語で、そして仮仮名で書いた。彼女達が中国の言語でかき、その文字を用いることはきわめて不適切と考えられており、学者の家柄の出である紫式部のように、そのような知識を身につけた淑女たちは、このことを強調することは避けていた。しかし、平安時代の淑女達は直接的な政治上の影響力を持っていなかったとしても、家族にとっては重要であった。もし娘が天皇、皇太子、藤原一族のような有力家系の人と有利な結婚をするならば、彼女の実家の政治的影響力は大いに増大した。娘は多くの点で思う以上に役立った。息子の方は、もっとも有力な家族の生まれであっても天皇になることは望み得ないが、天皇家の長子と結婚した娘は将来の天皇を生むことになる。このような結婚を可能にさせるには、少女達はきめられた稽古事(音楽、詩作、香、管弦、和歌の心得など)に精通せねばならず、他の魅力があったとしても、平凡な筆跡は彼女をまっさきに不合格としたかもしれなかった。このように、文字の技術は社会を大もとで統御する人、つまり男性にとって、女性を魅力的にさせるように工夫された単なる稽古事に過ぎなかった。まったく同じ形で七〇〇年後になると、〈浮世〉の花魁たちが音楽、詩歌、書道、会話に熟達するように期待された。家父長制社会は、できるかぎり無教養のままに置かれた育児のための女性(家妻)と、いろいろな技芸や教養を身につけた慰めのための女性(遊女)、芸妓、踊り子、女役者)のあいだに厳格な区別を巧妙に導入している。時たまにのみ、平安時代におけるように、この二つの役割が結合した。そして平安時代の淑女達は、とこしえの誉れとして、この機会を十分に活用したのである。(アルベルティーン・ガウワー『文字の歴史』二三〇頁)

こうして発明された平仮名は日本の語りの芸に大きな流れを創り出した。室町時代には説話、昔話を記録した絵巻が誕生した。芸人達は台本を口で伝えるだけでなく、書き残しさえした。口承文芸として有名な『平家物語』さえ書き残されたのである。語られる者のなかで目を引くものは源義経である。篠原正浩の『河原者ノススメ』では義経の縦横無尽さが巧みに描かれている。これも人間業ではあるまい。

『義経記』『平家物語』をテキストとして、能、人形浄瑠璃、歌舞妓、舞踏、長唄にまでひろがる芸能の作品群の数は驚くばかりである。なかでも源義経の波乱の人生については『鞍馬天狗』『烏帽子折』『鬼一法眼三略巻きいちほうげんさんりゃくのまき』『義経千本桜』『船弁慶』『安宅』『勧進場』『橋弁慶』等々、日本の演劇史から描く事の出来ない演目がズラリと並ぶ。そのプロットの多様さを生んだ背景には、鞍馬山を機転として日本全土に及ぶ義経のはてしない彷徨の悲哀があった。この足取りを追跡する事で成立した、貴種流離譚は現代のロードムーヴィーの先駆といえよう。(篠原正浩『河原者ノススメ』)

一方で、笑いと滑稽を旨とする人達は『天正狂言本』や大蔵流の『狂言之本』、和泉流の『狂言六義』大蔵虎明の『わらんべ草』などの狂言の本も書かれたが、これは文字に書かれた台本の中でもごくごく最後の方になってからである。「文字に起こされる事が遅れた理由も、俳優達の気質によるものであろう」と今岡謙太郎は『日本古典芸能史』で述べている。

文字の歴史は芸術の歴史でもある。