第四夜:言葉の態/第二話:西海道

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第四夜:言葉の態/第二話:西海道

ホトケを伝えた文字

文字か仏か

文字と仏が日本に入って来た。説経という語りの芸能の源流として仏の話を避けられない。六世紀の仏教の公伝以来、半世紀の栟田は、仏教の需要を巡って豪族官に対立があったが、やがて蘇我氏が仏法興隆の主導権を握り、皇室も「仏法を信けたまひ、神道を尊びたまひ」(『日本書紀』用明天皇紀)というように受け入れたようだ。仏教が公に日本にやってきたのは『日本書紀』の壬申の年(五五二)『上宮聖徳法王帝世説』によれば戊午の年(五三八)に百済の聖明王から欽明天皇に仏像、経薪、仏具などが送られた時だが、延暦寺の僧禅岑の記文に引かれている、奈良時代以前に大寺であった酒田寺の古縁起によれば、継体天皇十六年(五二二)に渡来した案部村主司馬達等が大和国武市郡田原に草堂を構え、仏像を安置して帰依礼拝し、世人はこの仏像を「大唐神」と称した、という。仏のことを『扶桑略記』では「大韓神」、『元興寺』では「他国神」『日本書紀』が「蕃神」(欽明天皇一三年五五二・一〇月条)「仏神」(敏達天皇一四年(五八五)二月条)、『霊異記』が「客神」(上巻第五話)と表現しているが、これらはみな神観念で受け止めていたことの現れである。六式の大和朝廷は、対外的には朝鮮問題に行き詰まり、対内的には諸氏族観の抗争を激化させていた。物部氏や大伴死のような軍事的な業像の体調が目立ち、そがしのような官僚的な豪族の躍進が著しかった。」だとすれば、蘇我氏は新しい時代に合わせた新しい神を望んでいたかもしれない。もしくは、仏教を断るというのは韓国との不和も興しかねない、という考えがあったかもしれない。ここで日本は小国から大国へと動いていた。崇仏と排仏に象徴される曽我氏と物部氏の抗争器は、社会制度の面から捉えると、姿勢国家体制から律令国家体制への過渡期に当たっている。氏姓国家の宗教的制度は、各氏族がそれぞれの神を奉祭し、大王としての天皇が「天地の社謖の百八十神」を常に祀るという規範に支えられていた。物部氏が神剣フツノミタマを石上神功に祀ったように、そがしも『延喜式』に記載されているように宗宮古比古神を氏神として祀っていたのであろう。渡来の仏教を曽我氏の私的な祭祀としてのみ許し、「余人を断めよ」と他氏族への波及を禁止したのは、氏姓国家の宗教的規範に基づいての事であった。換言すると、異氏族がそろって同一のおかみを奉祭することになれば、社会単位としての氏族の結合が弱められるだけでなく、必然的に超氏族的な宗教規範が国家にもと求められるからである。祀る神を統一することは、国家の権力を一つにまとめるきっかけをつくった。

五九三年推古天皇が即位した。推古女帝の治世は六二八年まで続き、摂政の聖徳太子と大臣の蘇我馬子が政治をとった。推古朝は、六世紀から形成されて来た臣連・伴造・国造・部・民の氏姓制度を整備する一方、冠位十二階を制定して官僚制を加味し、憲法十七条に基づく儒教的な国政を志向した。それに伴い天皇の地位も、族長の首長である「大王」から、諸氏族に君臨する君主としての「天皇になった。六〇八年、遣隋使に託した国書に「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す」とあるのは、対等国としての意識を表明した物に他ならない。推古十五年(六〇七)国書をたずさえて、遣隋使小野妹子が随に向けて出発したのは、この年の秋七月のことであった。天皇・国家・公民の歴史も、推古朝に編纂が企てられた。聖徳太子の市の前年(六二〇)、太子と蘇我馬子によって、『天皇記』『国記』『本記』が編まれたが、これらはいずれも現存しない。『古事記』や『日本書紀』ならびに『新撰姓氏録』などの先駆である。氏族的利害を超えた価値基準・倫理規範として、儒教や仏教の導入が積極的に計られた。つぎに、そのような国家権力の頂点に立つ天皇の権威を向上させるために、皇祖の祭祀と皇系の神話が改めて見直された事である。そして氏姓国家から律令国家への以降に際しては、中国に置ける統一王朝(随)の出現が最大の外的脅威としてのしかかっていた。推古朝は成立当初からこの問題を抱え、中国を中心とする東アジア世界で国家としての独立性を保とうとすれば、対外的・対内的な国政の整備が急がれた。百済救援に向かった日本は、六六三年、唐・新羅の水軍と百済沖の白村江で戦って大敗を喫し、百済は滅び、日本も朝鮮半島から手を引いた。五年後の六六八年に唐は高句麗を滅ぼした。他方新羅は百済滅亡の後、ついに唐を朝鮮半島から駆逐し、唐にその領有権を認めさせた。蘇我入鹿は中大兄皇子・中臣鎌足によって宮廷内で暗殺され、父蝦夷も自害した。この後、平安時代の藤原道長までの間に、藤原の月は満ちて行く。そうして国の歴史を改めて書き直した『古事記』『日本書紀』が作られ、現在まで神話は語り継がれている。

仏教が伝わってから、人々の暮らしはどれだけ変わったか。六七五年、「所部の百姓の能く歌ふ男女、及び侏儒、伎人を選び貢上れ」という詔を出したことで有名な天武天皇は、同じ年、鳥獣の摂政を禁断する勅令を出している。

今より以後、諸の漁猟する者を制めて、檻穽を造り、及機槍等の類を施くこと莫。亦四月の朔より以後、九月三十日より以前に、比弥沙伎理・梁を置くこと莫。且、牛・馬・犬・猿・鶏の宍を食ふこと莫。以外は禁の例に在らず。若し犯すこと有らば罪せむ(『日本書紀』天武天皇四年(六七五)四月一七日条)

四月から九月一杯までという期間限定の禁止である理由は、この時期が農耕にいそしむべきだからであろうか。また、鹿とイノシシが禁令から除外されている。仏教の殺生禁止がどれだけ意図されていたかはわからないが、この天武の詔勅の背景にある、人々の仏教享受の状況が次の歌から想像される。篠原正浩の『河原者ノススメ』から引用する。

鵜飼は可憐しや
万劫年経る亀殺し 又鵜の頸を結ひ
現世は斯くてもありぬべし 後生我が身を如何にせん

 

東亜三国文字三体

 

文字は国家を支える道具である。役割は地理的に遠い国へも指示を出す、報告する文章を送ること、そして約束をすること、歴史を作り、書き残すことができる。日本では「ヲシテ」という独自の文字があったという話もあるが、現実には中国や観光から文字を使える人が来て現実に主流をなす漢字を使用した。筆と紙のない時代、文字の読み書きは特別な能力である。万葉集の防人の歌は、東国十ヶ国に土着した韓国の人々の末裔が基本であったといえはしまいか。『万葉集』は六六〇年に唐による侵略で百済王朝の滅亡に伴い倭国に亡命した百済の政府高官たちが、百済の文化を引き継ぎながらつくりだした歌集である。万葉集を作った人は漢字の読み書きができる大陸の、当然文字の読み書きできるエリート階級だということになる。日本では「万葉集」から始まるが「短歌」の記録は韓国では향가郷歌から、他方で中国では『詩経』から始まります。その構成は、各地の民謡を集めた「風」、貴族や朝廷の公事・宴席などで奏した音楽の歌詞である「雅」、朝廷の祭祀に用いた廟歌の歌詞である「頌」である。一方で『古今和歌集』の真名序序文でも「和歌に六義あり。一に曰く風、二に曰く賦、三に曰く比、四に曰く興、五に曰く雅
、六に曰く頌。」とかかれています。それまでは口で唄われてきた言葉が文字を使って歌にするというのは、文字を使うエリートだから考えられる突拍子もないことなのかもしれません。万葉仮名も、大陸の血を引く者がいなければつくられなかっただろう。権又根の『古代日本文化と朝鮮渡来人』から引用すると、東亜三国の歴史の深さを感じる。

本稿では、其の朝鮮渡来万葉歌人の出自についてのみ考察をすることにした。それは、ここから『万葉集』を眺めると、其の全容が明らかになる。調べているうちに『万葉種』に名をとどめる約四六〇人の歌人の中で、朝鮮渡来系の外にある歌人は、むしろ僅少にしか過ぎないと思うに至った。代表歌人である柿本人麻呂、山上憶良、額田王についてさえ、朝鮮渡来歌人と説かれてもいるのが現状である。山上憶良の由縁はこうである。中西進によると「百済から天智期に渡来し近江朝(天智)に仕え、天武の侍臣にもなった医師憶仁が憶良の父であったとする。臆良は百済の首都扶余で六六〇年に生まれ、百済王朝滅亡により四歳のときに父に連れられ、日本に亡命し、琵琶湖のはずれ、現在の滋賀県甲賀郡水口町あたりにすんだとしている」桓武天皇も最澄も、百済渡来人の血を引く事を公表している。

行基の出自も百済系渡来人の末裔であり、西文氏である。それ以前の五世紀の応神王朝でもすでに『古事記』には秦氏や漢氏が、『日本書紀』には弓月君や阿知使主ら多くの 半島人が百済からの植民として記録されている。(篠原正浩『河原者ノススメ』)権又根は韓国の情景を思い描き読まれた和歌を紹介する。

和歌の読み手は『続日本紀』などの文献から朝鮮の百済系氏族とはっきり分かっている物達や、防人のものです。「倭」を「和」とし、「歌」を「和歌」という言葉にする以前の、日本と韓国の情景が色濃く残っていると思うのです。

辛人の衣染むという紫の情に染みて念ほゆるかも 麻田連陽春
韓衣裾に取りつき泣く子らを置きてぞ来のや母なしにして 他田舎人大島

日本語のルーツを大陸に求めることと同じように、日本人のルーツを北方系の民族に求める事で、太古の昔に存在していた私でもなく、あなたでもない世界が見えて来る。

文章を読み書きする専門職は「史」といった。書人のつまった言い方である。続日本紀によると、五七〇年の夏に、高句麗の国使の船が越の国に漂着した。日本海を横断しようと下が風浪にみまわれ今の石川県辺りの海岸にたどり着いたのである。此の後彼らのもっていた「上表文」を読まねばならぬのだが、其の時に文を受け取った蘇我馬子は、多くの「史」たちを召集して、これを読み解かせた。ところが此の国書を三日の間に読み解いた者がなかった中に、船史の祖の王辰爾という者だけが読み解く事ができた。「史」というのは、代々文筆の仕事を世襲の職務として朝廷に仕えていた氏の人々で、殆ど全部が来歌人の子孫だった。(上田正昭『帰化人』)日本には固有の文字というものがなかったから、始めは中国の文字、乃ち漢字を拝借して使う他はなかった。いち早く漢字を発明して育て上げられた中国の歴史から離れるように、日本は自分たちの文字をつくっていく。同じように韓国でも、一四四六年に世宗大王세종대왕が「訓民正音」훈민정음の名で交付し今に至るのが、ハングルである。

このようにして天孫族は文字と共に日本を支配した。中国から仕入れた経典を読み解くために五十音表がつくられるなど寺院で研究され、そこで簡略体としてまずカタカナが生まれた。漢字の音を略記で表したのが片仮名である。他方、貴族の女性の手により「ひらがな」が生まれ、史料としての日記が残されるようになる。それから民間でも語られて居た物語も記録されるまでに一般化され、世界的にも識字率の高い日本が誕生する。室町時代から江戸時代の初めにかけて、数多くの短編の物語そうしが作られている。それらは写本で残っており、絵巻物・奈良絵巻のものが多いが、おそらく三百編いじょうにのぼるだろう。江戸時代に入って、それらの中のあるものは絵入板本として板行され流布したが、江戸時代の中期ごろまでの間に、書つが二十三編を選んで、同じ体裁で、おとぎ文庫または御伽草子と名付けて板行したものがある。この業書の御伽草子は、奈良絵本を模した絵入横板本であって、その古雅な体裁と内容とがよく釣り合っていて子女の読み物としてふさわしいと考えられたために、多くの人々に歓迎され、何版かを重ねたようである。御伽草子を一体どんな人が書き、誰がこれを読んだかということについては、多少資料があるけれども、大部分の作品については、ほとんど明らかでない。

 

ホトケを伝えた人

日本に取り入れられた宗教の中で多くの人に受け入れられたのが仏教である。日本の正史では奈良時代に仏教を種火にして政権争いが起こったこと、聖徳太子が寺院を立てて国の宗教として仏教を定めたことからはじまり、日本という国の秩序を守るための教えとして使われてきた。日本で行われた説経が文献上で最初に現れるのは、推古天皇六年(五九八年)聖徳太子の勝鬘経講であるとされる。聖徳太子の説教が見事であったことについては「諸王公主及臣連公民信受して嘉せざるはなし」『法隆寺伽藍縁起井資財帳』にのこっている。説教と言っているが、説経、説法、唱導、勧化、講釈、講演、演説、教導、法話、布教などといい、語りのジャンルによって節談説教、説教祭文、乞食説教、唱導説教などといい、語り手は教化僧、説経僧というように呼び方は種々ある。しかし、其の内容はすべて語ることにある。仏の教えを理解するために、お寺のお坊さんが釈迦の口に変わって悟りを語ったことから語りの風俗は仏の名を借りて広まった。国が作られ秩序が乱れまた作られて行く中で、人々は他者を理解できず、共同体の規範も日々揺らめいていた。仏はその不安な心に取り憑いたのである。

インドや中国でもこの語る技術は体系として「山輪説法」「十二部経」の名前で存在していた。所謂雄弁術であった。口業説法論では説法に必要な能力として「四弁八音」を挙げる。四弁は仏・菩薩のもつ四種の自由自在な理解能力と表現能力を智慧の面から示した言葉です。教えに精通している法無礙智、教えの表す意味内容に精通している義無礙智、いろいろの言語に精通している辞無礙智、以上の三種をもって自在に説く楽説無礙智。理解力の面から四無礙解、表現力の面から四無礙弁ともいう。八音は極良音・柔軟音・和適男・尊慧音・不女音・不誤男・深遠音・不褐音の八つをいい、音楽的・芸能的な発音や発生を説明している。これを持って仏陀が甚深微妙の教法を説いたことを示している。また『維摩経』では六塵説法が解かれ、六根による感覚的要素が必要であることを示している。眼・耳・鼻・舌・身・意。五一九年に中国で成立した『高僧伝』巻十三では、説教の重点が「声・弁・才・博」におかれていることを記している。発音、発声、抑揚次に語り口、センス、学識と教養は説教の必須条件でした。このようにして、寺院が日本の言葉つまり日本語の研究も、釈迦の国のサンスクリット語もしくは経典を多く輸入した中国語を日本語に直す努力によって進展していった。言葉の発音の研究は古代インド語の『ウパニシャッド』にまとめられた経典の古い音を復元しようとして始まった。つまり中国語というアジアの方言を日本語というアジアの方言に置き換えることでした。漢訳された経典を日本語のどの音をあててよんだらよいのか。それが日本の音の調子の研究が始まった。私たちが目にしてきた「あいうえお」を並べて書いた五十音図がお坊さんにつくられたのだから、ありがたいものである。五十音図は、古いもので『孔雀経音義』に書かれた一一世紀のものとされる。其の半世紀後の『金光明最勝王経音義』には五十音図といろは歌も乗っている。このような音の研究とともに、多様な語り口の技術が日本の流儀で開発される。架蔵の東保流説教稽古本『譬喩因縁 三信章開導説教』には「白コ」「引」「フシ」「上」「下」「初」「二」「三」「ウキノリ」「カロク」「ユルリ」「小声」「スクウ」「ハル」「シボル」「ハネ」「拍子」「アゲ」「ハヤク」「ウレヒ」「セリ」「大声」「オクル」など行間におびただしい書き入れがあり、東保流における節談説教の厳しい稽古の後が見られる。「はじめシンミリ、なかオカシク、おわりトウトク」というのは、節談の技術を示唆する者で洗練された話法の構成であり、教化するための日本の雄弁術が発達した。

景戒

唱導は、雄弁に語ることで庶民に仏を信じさせる方便であった。奈良時代以前に、唱導を専門とする「教化僧」の存在が六八六年の『金剛場陀羅尼経』の奥書に見られ、また村里の庶民を「凡ねく導き、凡ねく教える」万福法師や花影禅師のような化主が、天平勝宝六年七五四年の紀州花園村大般若経の奥書に見えることは、すでに教化僧集団とその頭目ができるほど、民間に仏の教えは浸透した。話の題材は説経僧自身が釈迦の話を組み立てることもできただろうが、有名なテキストとして源信の『往生要集』が寛和元年(九八五年)に完成した。後世に至っては絵入本三巻がつくられ広く民間に受け入れられたようだ。唱導文芸のテキストはその他、昔風の表白体と、日常の口頭語に近い説法体があった。『法華修法百座聞書』『金沢文庫本仏教説話集』『草案集』『今昔物語』などの説話集は読み物として書かれており、話題または種本として、始めから書かれたのに対し、『百座法談聞書抄』の方は、語られた説教の聞き書きとして書かれたものである。年代は一一一〇年とはっきりしている。他には平安初期の 『日本霊異記』がある。日本古典文学全集の『日本霊異記』には、上中下巻それぞれに著者である景戒が書いた序文から当時の説経の状況が伺える。

昔、中国では、唐の時代に『冥報記』や『般若験記』が作られた。が、どうして他国の伝えばかりを恐れつつしんで、自国の不思議な出来事を神事恐ろしがらないということでよかろうか。ここに、たちあがってあたりをみるに、このまま放置してはおけない。座して思いをめぐらすに、沈黙しているわけにもいかない。そういうわけで少しばかり耳にしたことを書きつけ、「日本国現報善悪霊異記」と名付けた。これを上・中・下の三巻として、後世に伝えることにした。(上巻の序文)

『日本霊異記』では「俗」という言葉が使われる。「諾楽ならの京に一の大僧あり。名未だ詳ならず。僧常に方広経典を誦し、俗に即きて銭を貸して妻子を蓄養ふ。(下四)」といった具合で、人びとが買物をしに行く市場を舞台にした話、お堂での話が書かれており、百十六縁の説話のうち、二十三が「俗」が語りに含まれている。景戒は、下三八の中で、自らの生活状態についても「 俗家に居て、妻子を蓄へ、養ふ物無く、菜食無く、塩無く、衣無く、薪無し、万の物毎に無くして、思ひ愁へて、我が心安からず。」景戒自身の経験がこの『日本霊異記』の源泉になっている。この中には行基、役行者、聖徳太子、そして無名の沙弥・私度僧といった登場人物が登場し、善悪の行いとその因果を物語る。『日本霊異記』の下巻十四は次のような説話である。

越前国加賀郡に、浮浪人をとらえ雑役に使い調庸を徴収することを仕事にする浮浪人の長がいた。京の人小野庭麻呂は優婆塞となり、もっぱら千手の咒しゅを誦しながら修行を続け、加賀郡にやってきたところ、この鳥に捕まり、浮浪者として酷使された。庭まろはこれに抵抗し、千手陀羅尼の霊験で我が危機を救うよう祈った。長は馬に乗り、庭麻呂の持っていた千手経を縄でしばり、地面に引きずって我が家の門前まで来て馬から降りようとしたが、身体がこわばって降りることができない。(略)空に懸かりて、一日一夜経て、明くる日の牛の時に空より落ちて死につ。

俗へ、俗へと歩み寄り、困窮する民衆の目線から仏を眺めている。こうして仏の教えが日本の物語として書き直され、理解され、「物語」は寺の世界を越えて広く語られるようになる。景戒は下巻の序文を次のように書付ける。

先人の開かれた進路を通して極楽浄土を望み見、心を悟りの道に走らせる。遠く過去の非を恥じ、永久に後世の善を願う。こうして不思議な話を書きとめ、かたくなな人達に示すのである。手を差し伸べて善を進め、足を前に日さして悪に溺れているものを救い導こうと思う。願わくは地上のものすべての者と西方の極楽浄土に生まれよう。この世の家から飛び立って、同じく天上界の、宝をちりばめた宮殿に住もうという次第である。

説教師

「説教の講師は顔よき、講師の顔をつとまもらへたるこそ、その説くことのたゆとさもおぼゆれ、ひが目しつれば、ふとわするるに、にくげなるは、罪や得らんとおぼゆ」『枕草子』三三段

と書いたのは清少納言だった。説教とは、経典をもとにして仏の教えを人々に伝え広めるための話をする行為であり、唱導、教化とも言われる。僧侶にとっては仏様の話を伝える大事な話であるのだが、一方の聞き手である清少納言の日記には仏の功徳そっちのけで「美男の説教僧であって、初めて説法も身にしみて尊く、巧徳も間違いない」と書かれている。俗の世界に住む人々は話の内容ではなく、話し手の話し方に多くの関心をむけた。聖も俗も皆人が住む場所である。時代が変わり、唱導は説経と言われるようにもなった。『今昔物語』巻二八(第七話)には、叡山の座主教円を「物可笑しく云て、人咲はする説教、教化をなむしける」説教僧として描いている。「一声・二節・三男(いちこえにふしさんおとこ)」のとこで、説経師にとって容貌、品格は必須条件であった。(『枕草子』第三十段)貴族にとっての説経とはまさにそんなもので、ありがたい言葉はさておき、コンサートにいく装いだ。「集まる人々は「夏などのいと暑きにも帷子いとあざやかに、薄二藍」、青鈍の指貫など」のいでたちで美しい服装をしてやってくるのであった。「その人のせし八講、経供養などいひ比べ居たる」様は、あたかも構成の近世や近代の人々が役者や芸人の批評をするのによく似ている。「説経師は顔よき。つとまもらへたるこそ、その説く事のと尊さも覚ゆれ。ほか目しつれば、ふと忘れるるに、にくげなるは罪や得らむと覚ゆ。この詞はとどむべし」と本心を述べる宮廷女房。関山和夫の『説教の歴史』によれば、説経師という職業は、平安時代には完全に成立していた。つまり説教師達は喋る事を持って生業とし、弁舌によって収入を得て生活していた。説教には日頃の精進による学的根拠と卓越した表出や演出が必要であり、個性的な創意と工夫も加えられねばならない。この条件に反する不勉強な説教者は、厳しく批判されて脱落する。説教法師は中古において既にスターであり、人気商売であったようだ。

説教をする僧侶のなかで有名な人物が澄憲(一一二六−一二〇三)と息子の聖覚である。天台宗の僧であったが、比叡山からおりて京都の安居院に住んで結婚しするなど、自由奔放な生活を送ったために破戒僧として大寺院の僧侶から非難を浴びた人物である。しかし、肝心の唱導は 「まるで泉のようにしたのはしから湧き出る。ひとたび高座に登れば、大在の聴衆がいっせいに耳をすまし、しかも長拳の説教によって耳が清められてしまう」ほどである。澄憲の名声は説教により高められ、この安居院流は現在に続く日本の話芸の系譜になった。僧の伝記や仏教史を記す『元享釈書』一三二二年には澄憲の説経が「変態百出、揺身首腕音韻」「流為詐偽俳優之伎」 であるとかかれている。高座のうえから匠の語りかけ、身振り手振りよろしく、表現に感情を込め、声を鍛えて抑揚をつけ、時にはおかしく、ときには悲しく、あらゆる話法を駆使した。それを俳優の技と呼んだのだ。変化したのは話し方や身振りだけではかった。語りに用いる台本を経典の解釈よりも、民衆が身近に感じられる土地や神社の縁起物や神仏の霊験譚、譬喩因縁譚に力を注いで、勤めて聞きてに迎合するようになる。語りの流れから、後に祭文説教という説教のジャンルが生まれてくる。

時代を経るごとに、説経の型もくずれてゆき、多くの庶民が理解し、仏を信仰するように工夫されていく。もちろん、説経にも表白体と演説体の二種類があり、表白体の方では、きまった形式に基づく文章が用意され、しかもそこには厳格な修辞法が要求され、流麗名文章が作られることをもって上等とされましたが、説経師たちはこれを巧みに利用し、アドリブを加え、みずから脚色もして口演した。法然が出現して浄土教が開かれると、法然の行動力、カリスマ性に説得力を得て説経は庶民層に浸透して著しい変化をみせた。小難しい教えを簡単に語り、実践する流派が現れたのである。今迄貴族や皇族を対象にして行なわれる事が多かった説教が、俄然庶民的なものになった。身振り手振り、譬喩因縁談に重点を置き、表情に感情を込め、時には可笑しく、ときには悲しく、あらゆる話法を屈しして話芸の型を作ったいわゆる節談説教である。これにともない、旧来の表白体説教では民衆は次第に満足しなくなっていった。良李撰『普通唱導集』がその過渡的立場をとる。頑固な天台宗の僧が山を下りて京都周辺に山を持ち、説教を始めねばならなくなった。このような状態の中で説教はますます芸能化し、琵琶法師などの道の芸能者もこの流れを共にしていく。

この頃の芸能化した説教者の姿が能の曲目『自然居士』に残っている。自然居士という説経師がいた。彼はもろもろの説経の合間に「いで聴衆の眠り覚さんと、高座の上にて一さし御舞」を舞うのである。その舞の巧みさは奥州まできこえたというから、完全な芸人である。雲居寺にあつまって自然居士の説経を聞く人々は、高徳のためというよりは、その芸を楽しむために、勧進札を買ったのだろう。しかもこの説経師の狂言綺語の舞は、簓すりとカッコ踊であるから、放下僧などと同じ念仏踊で、コキリコ踊やカンコ踊をおどったのである。従来の猿楽の踊りの要素、寸劇や祝言の要素などさまざまが混ざって「芸」が作られて行った。このかたりの語り口が最近までのこっているのが節談説教である。録音された資料では小沢昭一の『日本の放浪芸』や『また又「日本の放浪芸」』で現地録音したものがあるので是非聞いてみてほしい。丹波文雄の小説『青麦』に芸風節談説教の様子がよく描かれている。

高座の説経師は、善男善女を手だまにとっているようであった。浪曲に近い肉声の魅力が聴衆をうっとりとさせた。」「説経師は、これほど安易なありがたい教えが何故わからないかといった調子で、答えばかりをくりかえし、ありがたい節回しで押し付けた。・・・念仏を唱えずにはいられない雰囲気を、説経師は巧妙につくりだした。」説教が終わると一席終わるごとに賽銭方が柄笊や盆で賽銭を集める方式が真宗の説教では古くから行なわれた。説教者の技術が優れていると賽銭の額も自ずから増加した。大説教者と言われる人たちは持ちネタを実に三百から五百も持っていたという。近世から近代にかけてえ説教者が扱った材料は浄瑠璃・歌舞伎・人情噺・講釈・祭文・落語風のものが多く、庶民仏教の特色が高座によく示されていた。

一方で、いつの時代でも古き権威を守ろうと必死の者がいる。寺院の荘厳な説教を固辞する僧侶は、このような話芸を伴った説教は大寺院の僧侶にとってはあってはならぬものだと訴え、律令の僧尼令にも「仮説の言」を以て百姓を妖惑する僧尼や、道場を立てて「衆を集めて教化し、併せて妄りに罪福を説く」ものを禁止している。説教僧が庶民の心を連れて大寺院を離れることを防ぎたかったのです。しかし庶民がいかにこれらに魅力を感じたかは、七一七の詔に「小僧行基の衆徒が街頭に出て妄説したり、家の門に立って仮説したりすると、数千の人があつまって困る」といって禁令を出したことからも窺える。かれらは「自ら教化を作り、伝習して業を授ける」というように、説教の話やその語り方を専門として、伝習するまでに至っている。これもみな、仏の口を借りて生業とする新時代のシャーマンである。