第四夜:言葉の態/第三話:七街道

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第四夜:言葉の態/第三話:七街道

大和朝廷が「日本」を建国してから、北陸新幹線が開通する今日まで、国家は隅々まで支配すべく、また中央に富を集めるべく、道を作った。陸路とは別に縄文時代から多用されていた海路も健在であった。遊行の聖や山伏、商人が往来していた道に数々の俳優たちが現れるのも、道が彼等放浪者を受け入れていた「境界」であった。網野喜彦が「無縁」の場と呼んでいる所である。
律令制下では全国を指す言葉に、「五畿七道」があった。五畿とは、五畿内のことで、七道は東海・東山・北陸・山陰・算用・南海・西海道のことで、本来都から各地へ繋がる動脈としての道のことでラウ。その後このことばは、その道を結ぶ諸国全体を指すようになった。

 

竃の琵琶法師

物語の語り手には居を構えて社寺に属している者もあったが、諸国を放浪して歩く者もいた。琵琶法師には覚一、定一、慶一などイチを名乗る者が多い。空也は市聖と呼ばれた神代記岩屋戸の団に「八十万の神を天高市に会へて問はしむ」という。市とは人が集まる場所であり、彼ら遍歴の民が活動する場所でもあった。京洛の官社や大寺に救済の名で収容され、集団生活を余儀なく送って居た盲人たちも、琵琶を手にするようになりと社寺を離れ、微かながらも独立生活を営むと同時に、琵琶を抱えて漂白するたび暮らしが開かれたのである。琵琶法師は、岩橋小弥太『芸能史叢説』に指摘されているように寛和元年(九八五)には記録に現れる。九九一年に没した平兼盛による『兼盛集』に琵琶法師と題して、

四つの緒に思ふ心をしらべつ々
弾きありけども知る人ぞなし

とあるのは、夙に平安朝時代の盲人が、生活苦に喘ぎながら、諸方を流れ歩いた有様を想わせるものがある。さらに一〇五七年生まれの藤原俊頼の『散木奇歌集』に、

芦屋といふ所にて、琵琶法師の琵琶を弾きけるをほのかに聞きて、昔を思ひでらる々事ありて
流れ来るほどのしづくに琵琶の音を
ひき合せても濡る々袖かな

と載せたのは、兼盛の詠歌に或るそれと同じく、七絃に細き一命を托した稼ぎ人を偲ばせる。そして、この序註に書かれた芦屋とは草深き筑前の村里であるから、すでに此の頃に田舎わたらいする盲人の在ったことが知れるのである。

藤原明衡の『新猿楽記』に「琵琶法師之物語」とあるごとく、猿楽の芸に匹敵する魅力を琵琶がもっていたのであろう。藤原定家の『明月記』に由れば、建仁元年十月に後白河法王が紀州熊のへ行幸の折に、二度まで琵琶法師を召されて旅愁を慰められたとあるが、その語り物は単なる小唄ばかりではなかったように想われる。その頃から歴代の聖上人が平家の物語である平曲を聴召された記事は『薩戒記』にも見えているが、特に一三七二年生まれの後崇高員による『看聞御記』が最も詳細でかつ正確である。明治最後の平曲大家であった館山漸之進翁の計算に由ると、応永二十三年より嘉吉三年に至二十四年間において「後亀山上皇二回、後小松上皇十四回、後崇高員八十四回、称光上皇六回、後花園上皇九回」を聴召され、此の他に「後小松上皇皇后皇妹、称光上皇皇后および親王各宮聴召され、波に月卿雲客貴僧高衲の之を聴く者、枚挙に遑あらずして、将軍足利義教および諸侯も屢々之を聴けり。而して此の二十四年間の検校勾当座かしらは三十二人の大木あり」と克明に記録している。金持ちの家を廻って平曲を奏するために、全国を歩き回る合間に、小銭を稼ぐために庶民にも曲を披露したのかもしれない。しかしその旅は盲人にとって危険極まりなかった。『勢陽五鈴遺響』には、「伊勢国鈴鹿郡平野村より国府村に至る道路の傍に、座頭塚また金かけ松とと云ふがある。元和四年五月十四日に陸奥国より京都へ官途に上る盲人四人、参宮を志し此処まで来て盗賊に殺され官金を奪はれたが、此の塚は四人を葬った地である。」と書かれている。

『徒然草』は、平家の成立について、天台座主慈鎮(慈円)のもとで、遁世(とんせい)した信濃前司行長が平家物語を作り、東国出身の生仏という盲人に語らせたと記す。平家の最古の演奏記録は『普通唱導集』(一二九四年自序)で、「勾当」が、平治保元平家の物語をいずれも暗記して滞りなく語ったと記す。 琵琶法師といえば平家物語を弾きが足る盲人の姿を思い浮かべるが、『中世説話文学論考』で春田宣が述べているように、現在の完成された平曲が固定される前は、合戦を耳にしてつくりあげた法師たちの創意工夫があったはずで、其の語りがある時代にある人間によって記録され、『平家物語』が現在のような本となるまでには、実に多くの人々の手入れと年月の経過があったのである。

十四世紀半ばには覚一という検校が京都の東の市を中心として「一方」が、同時に八坂神社を中心として「城方」「八坂方」という琵琶法師座を形成していたようである。この二座が勢力を伸ばし、江戸時代の全国的な盲人組織である当道座を形成したと考えられる。徳川幕府は、盲人の保護対策として平家を始め箏曲・地歌といった室内楽と鍼灸按摩業の独占権を当道座に認めました。座頭と呼ばれる下級の法師も当道座という全国的な組織に属し、惣検校を頂点とする支配を受けていた。一方で当道座に所属しない盲目の語り人は盲僧といわれ、古来各地の有力神社の保護をうけ、地方的な小集団である座・組合を組織していた。明治末期から大正にかけて編集された『旧柳川藩志』では俗楽の琵琶を弾くものと、盲僧検校とに区別されている。(渡辺村男『旧柳川藩志』中巻(福島県柳川・山門・三池教育会、昭和三十二年))当道座で教わる平家琵琶は表芸の一つであり、箏曲、三弦が加えられ表芸の三学という。裏芸は按摩、鍼、灸などの医療であることが多い。 史上有名な検校に平家琵琶の前田検校、波多野検校。地歌三弦の石村検校、柳川検校。箏曲の生田検校、鍼按の杉山検校。などがあげられる。検校とは、検校・別当・勾当・座頭という当道座の四つの官職の一つである。

一方で同じような活動をしながら当道座に属さない琵琶法師には、芸能活動を禁止する事になり、こうした座外の琵琶法師たちはやがて盲僧座を組織していく。

当地にては琵琶、箏、三味線、瑠璃、四つ竹、尺八等弾奏するものありき。琵琶は盲僧検校之を弾し正月の初め又は節分のときには厄払或は土用払などに各家に来れり。単にこうしん払をなす事あり。又俗楽に合奏する琵琶弾きあり。住時門弾に盲者の男女参れり。男子は必ず編笠を冠むれり。男子は琵琶、事、尺八、四つ竹、尺八を弄び女子は主に三味線と箏のみなり。これも家もとありて其支配を受く。祝儀等の席にも皆な男女の盲者を招き弾奏せしむ。(『福岡県史』民族資料編 ムラの生活(上)(福岡県、昭和五十七年)

この頃から習い事としてことや三味線が行われて居たのだろう。また芸者に必要な教養の一つとして御稽古ごとの先生もした。近世の文書では、盲人の宗教者は仏説と呼ばれる他、様々な呼称で登場する。例えば地神盲僧・仏説盲僧・仏説座頭・地神経読座頭・地神経盲目などである。彼らは村落に赴いては雨乞い等の共同祈願や、年中の行事に立ち会い芸を披露した。

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琵琶法師は時代をくだるとドマとカマドとカマとカメのカミを祭る。

日本の民家にはかつて土間があり、火と水を使って炊事をしていた。いろりと竃を併せ持って、共に炊事の用途に充てている場合には、いろりでは副菜の調理の為に、汁をつくったり者を焼いたりするのに対して、竃では主食の調理のために飯を焚いたり粥を煮たりすることが多かったようである。特にいろりは、炊事の他に暖房や照明の役割ももっていました。そして家の火所の神は地域毎にカマドガミ、カマガミ、カマジン、オカマサマ、コウジン、ドクジン、ドックサン、ロックサン、ドクジンなどというように、さまざまな詞が使い分けられているし、沖縄諸島だけにかぎると、ウカマガミ、ヒヌカン、ヒヌカンガナシなどというように、火の神の系列の詞がもっと多く用いられて来たとみられる。コウジンやコウジンサマというのは、修験道や日蓮宗などで重んじられている三宝荒神という神にあたるもので、享保十三(一七二八)年の『真俗仏事編』巻一に、「荒神は最不浄ヲ忌、然二火は其体清浄にテ而不浄ヲ除モノナレバ、在家竃ヲ浄処トス、故二荒神人ノ家二至テハ竃ヲ棲居トシ玉フ、俗二荒神ヲ竃神トス」ドクジンやドックサン、ロックサンなどは、陰陽道の諸説に現れる、土公神という神にあたるもので、もともと土を司る神として、春は竃、秋は井戸、冬は庭というように、屋敷の各所をめぐるように説かれているが、とくにいろりや竃にまつられるものとして知られています。オカマサマの祭り方には、田植えの終わりに三把の苗をあげたり、稲刈りの始めに稲の初穂をあげたりするように、農の神の性格を認める事ができる。すでに狂言の「栗焼」には、「われはこれ竃の神、三十四人の父母なり」と名乗っているが、一般にはそれが女の神であって、三十六人の子をもつように伝えられるのも、竃の神が「産む」ことに長けた神として祀られたとおもわれます。さてそのドマで琵琶を弾き語ります。粕屋郡篠栗町若杉出身の合屋武城の『筑前 若杉郷土史』には、荒神祭について次のような記述を載せている。

三宝荒神にして、俗に竃の神と称し、土用々々に田中村本覚法師来り琵琶を弾きて奏祭す。各家にては初をを献じ其の労を謝す。初穂は米麦なり。家に依りては、荒神奉祝の竃前土間に莚を敷き小豆飯を炊き、家族打集い其座に夕食を共にするもあり。又荒神さまには必ず藁すぼ製の箒備へつけあり。荒神掃除用に供す。

藁すぼとは、稲藁の穂先の茎を揃えてつくった神聖な荒神サマ用の帚である。長野県地方では三宝荒カミは火を護るカミ、いろりのカミ、カマドのカミで、多くはイロリに近い柱を荒神はしらと読んで祀ったり、神棚に祭る家もある。またイロリやカマドのあたりを掃くほうきを荒神ぼうきと読んで区別している。野外に祀られる場合もある。直江広浩井氏は屋内に祀られる荒神と区別して地荒神とっている。山陰の荒神についても朝山晧氏は、古い村法の記録、差出帳をみると、荒神にあたるものを「山神」としているところがある。だいたいは山中で、人里はなれて祀ってある。と述べられている。長崎県平戸市で民俗調査を行なっていた時「オコジンサン(荒神)は琵琶が好きなお方だ」後年山口県萩市で「ヂヂンサマ(地神)は琵琶の音が好きな神様だ」と話す老人に出会った。と書いている。現在でもお祭りの御礼の白米を琵琶弾きさんに差し出す事を「地神様に差し上げる」という。山口県の萩市では彼らの事を「ジジンド坊様(地神坊様)」とよんでいる。平戸市で竃神として祀られている三宝荒神の神格は、稲作を中心に五穀豊穣を祈願する作神を始め、家の守護神、火伏の神、こどもの神、漁業の神などと多岐に渡っている。世には荒神といわれるものはいわゆる荒ぶる神であって、火は火そのものの浄化思想の信仰とともに竃にあって煮炊きの効用をもつことから、竃神とされ、竃は作神の恵みによって収穫された五穀等を調理する事が作神と結びついたとも考えられる。(『巫覡・盲僧の伝承世界』 第二集「地神盲僧と荒神信仰」 高見寛孝)

荒神様 コウジンサマ。カマドの上に棚をもうけて三方荒神を祀る。正・五・九月に座頭さん(盲僧)を呼んで祭りをする。神酒・米・塩・野菜を供える。座頭さんは戸畑から来て、村に止まって幾日か賭けて祭りをしてまわった。荒神祭りは、むかし十八日が多かったが、座頭さんのひどりの都合で、各戸で一定しなかった。一年に二度、座頭さんが来て琵琶を弾きながら荒神祓いをしてくれた。座頭さんへの御礼は、米一升か干魚、または小銭である。(遠賀郡芦屋町)

先に話した通りカマドの神様を荒神ともいいます。『和漢三才図会』の「竃」の項には「修験道者毎月晦日於竃前奉幣誦真言以為荒神禱」等と記されているこれがつまり地神経と呼ばれるものである。

帰命頂礼釈迦尊 地神教主簿伽梵
十二月将化身佛 五帝竜王諸眷属
土公土王子孫等 今日読経殊勝法
因我所修一念善 我等施主諸人等
除災与楽我所願 証知諸誠満所求

地神経が歴史上に登場するのは『看聞御記』の応永三十年(一四二三)八月五日の有名な一節、「夜召米一座頭令引。地心経未聴聞之間。祈禱旁令語之」が最も古い方ではなかろうか。この米一という座頭は当道座に属していたと思われる。当道派が芸能社として社会的地位を上昇させる事に専念したのに対し、一方の地神盲僧派は呪術=宗教者としての立場に固守し、その結果、両派は次第に袂を分かることになった。その呪術=宗教者として唱え続けてきた経典が地神経に他ならない。当道派は盲僧派のことを「西国筋取分九州二罷有候竈祓之盲目、是を地神経座頭とも申、又もミ座頭・土座頭とも申候、読申地神経とハ申候得共、ほきにふしを付、琵琶二のせ、かまを祓申候」(『久我家文書』第三巻 延宝二年)(一六七四)などと書いている。

地神経の起こりを説明する物語が、三つ存在すると高見寛孝はいう。それは「仏説盲僧元祖」「佛教地神陀羅尼経読誦盲僧天台宗因縁」「盲僧由来」であるが、由来というのはどれも現世では理解できぬ神秘に包まった狂言にも聞こえる。

筑前国御笠郡四王寺にいた盲僧の僧玄清の夢の中に老翁が現れて「琵琶ヲタンシ地神陀羅尼経を読誦スヘシ」と告げた。玄清は老翁の教えに従って比叡山に登り、地神陀羅尼経を読誦して毒蛇(地神)の障りを除き、一乗止観院すなわち延暦寺を建立する事ができたのである。帰国した玄清は一派をたてて、近国の盲僧達に地神陀羅尼経を伝えたという。延暦九年には天下に流行病が蔓延したが、玄清は伝教大師の命に従い、盲僧達を集めて地神陀羅尼経を読誦した。すると堅牢(地神)の力によって病脳を取り除くことができた。このことが縁となって、九州と中国では盲僧たちが四季の土用に家々を廻り、地神陀羅尼経を読誦するようになったという。天慶三年には大地震が起こり、天下は大いに混乱したそこで太宰府安楽寺において盲僧達が地神陀羅尼経を読誦したところ、神仏の力によって国家安寧となすことができた。この時以来太宰府天満宮他、筑後高良山玉垂宮、肥前神埼櫛田宮、豊前宇佐八幡宮などの大社において盲僧たちが国家安全の祈禱を勤めるようになったのだという。

こうして神に語りかけて家を平和や安全に導く琵琶法師は芸能者というよりも、宗教者でありシャーマンのようだ。多くの研究者が、盲僧の本来的役割は鎮魂であったと指摘している。例えば筑士鈴寛は「煽情に命は足した人々は数知らないが、彼ら盲僧の眼目は実は其の亡霊への慰めと、その祟りを防ぐことにあった。これがそもそも彼らの職能であった。」とのべる。(「佛教唱導文芸と琵琶法師の物語」)地神盲僧の本来的役割が亡霊の鎮魂であり、地神を介しての死者儀礼に合ったとしても、戦国時代が終わり、太平の世である江戸時代に置いてはもはやそのような役割を彼らが担う奇怪は減少したと思われる。それに対して彼らの地神盲僧の活躍の舞台と鳴った農村に置いては、近世を通じて農産物の生産増大、なかんずく米の豊作が社会目標とされたのであるから、生活の糧を得るためにも盲僧たちが農耕儀式に関わるようになってくる事は自然な事であったに違いない。そうであれば彼らが祭祀してきた地神の神格が作神の面を強調され、農耕儀式に置いて地神経を読誦するようになるのも当然と云えよう。

シャーマンの能力を持った琵琶法師の話が記録されている。添田町郷土史会・中村家御用日記編集委員会編『大庄屋中村家御用日記』(添田町教育委員会 昭和五十六年)

寛政年中のこと、真木村庄屋太郎兵衛に米上納についての不埒があったため、真木村と七か村が難渋する事件があった。村見糺役である森山為七は真木村へ出張し、太郎兵衛の家財を取り上げて香春の牢に入れたのち、追放した。その後太郎兵衛は上伊田村で「困難のうちに」死亡した。文政十二年八月、「亡魂鎮方」のため四人の盲僧を呼んで祈禱させたところ、太郎兵衛の亡魂の怨みが牛馬へ祟り、村中へ仇をなしたと託宣したそこで太郎兵衛の屋敷内や墓所に村中で守り本尊と位牌をおいたところ、祟らなくなった。だが戎馬の死失が続くので、太郎兵衛の亡魂が真木村へ帰りたいのだという盲僧の託宣に従い、郡方へその旨長い出たところ、帰村を許す書付が出された。庄屋健助が上伊田村の太郎兵衛の墓所へ出向いて書付を口達し、墓所の土を持ち帰り、盲僧を呼んで供養をした。

この場合のシャーマンとは、村人に資するために、すでに異界にある亡魂と意のままに直接対話し交渉を持つ事ができる仲介者である。村々を巡り歩き情報の伝達者でもあった盲僧は、村人の心象奥深くに潜む祟りの意識を呼び出したに過ぎない。

昔一人の座頭此峠の頂上に宿して、深山の寂莫に堪へず、一人琵琶を弾じて心を慰めて居る折柄、忽然として美しい女性現はれ来って、しきりに感嘆しかつ曰く御坊(林鹿)の里に下るとも必ず長居するなかれ、我は此山に年久しく住む大蛇なるが、時至って近々に海に入るので、行きがけに此下の一谷を淵にする。今宵一曲のよしみに由ってそなたにのみは告げるが、人に之を言ふならば即座に命を取るぞと言った。座頭は之を聞いて急いで村里に下り、身命をなきものにして村人に其の危険を教へ、術を構へて大蛇は退治したがかれも亦立ちどころに死んでしまった。それを神に祀ったのが大蔵権現、大蛇も大利大明神と称へ今に其祠が頂上に在る。或は神田からとして其折の琵琶が置いてあるといふ(越後野志巻九)

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盲僧が四季の土用に檀家を回り、琵琶を弾きながら地神経などを読誦して行なう家単位の儀礼を回壇法要と呼んでいる。この回壇法要のあとに、村人の所望に答え、余興の芸能として「くずれ」を語る等、芸能をもその職能の一つとしていた。熊本を中心に活躍していた肥後琵琶とは「琵琶を用いた浄瑠璃」である。近代まで日本には神話が作られ、語られていたのである。この語り物を現在迄継承して来た盲人の琵琶法師は、門付けをしながら芸能を披露する一方、ワタマシと呼ばれる新築儀礼や荒神祓いなどのお祓い、祈禱にも携わっていた。その次第を詳しく載せているのが、伊集院の小吹延寛氏(大正七年生まれ)が「地神経供養次第」にある。『盲僧の伝承』 成田守より引用する。

一、まず床の前に米を持った器と水を入れた器と笹を乗せた膳を置く。
二、盲僧は笹を右手に持ち、身売っと笹でに三度撒き、祓いをなす。
三、呪文を唱えながら弾指の法を行う。この方ではての親指・人差し指。 中指の三本を弾くようにパッパッパッと三べん開くのである。右手 さんべん、左手さんべん。
四、表白文をのべ、般若進行の読誦をなす。
五、地神経を誦する。
六、琵琶を弾奏しながら釈文をのべる。
七、観音経の読誦。
八、国家安泰・万民隆昌・一族和合・家内安全の願文をのべる。
九、終わりに呪文・弾指の法同然(これで悪魔を祓う)

村を訪れ家の玄関に入りビワを弾きながら歌う盲僧の男性に宿を無料で提供し、お返しに村人はその晩、ビワと声の芸を聴きに行ったのである。盲僧の男性をビワザッツともいったが、終戦後から次第に減少し、現在は全く見られない。坊野へよくきたザッツは、段ものをよく歌ってくれた。オチェ節や口説物も上手で三味をひきながらサンザ口説を一晩中歌ってくれたという。昭和四十五年八月に熊本県王名郡南関町小原で肥後琵琶を語る山鹿良之氏にであることができた。聞き覚えによると。入門したから二十二日ばかりしてから、師匠が出回りをする際の準備をしたが、それは道具の整理とか着物を着せたりすることであった。春五月の茶摘み・六月麦取り・十一月の殻取りの頃に紋付を各家々の玄関先で行い、それぞれ「お茶周り・麦周り・秋周り」と称する。こうして回る家々のことをダンカと呼ぶ。下参という一人前になるのには各人によってさはあるが、五年から七年かかり、師匠から歌舞という縄張りをでしが分けてもらうことはなかったので、縄張りはそれぞれ自分で性さん開ければならない。こうして晴れて一人前となった盲僧は琵琶弾きさんとして檀家周りに出ることになる。

盲僧が回壇法要のあとや「お日侍」「おこもり」の行事の余興として、段物・端唄・滑稽話などを披露した。それが「くずれ」であり、本業である荒神経の琵琶を「もどいた」ものである。『壱岐民間伝承採訪記』によると,彼らは「くずれ」と称して「経並びに本地を語る物以外の外の叙事脈の物語」を語った。そのうち「百合若は”語ると変が起るとて”なかなか語らぬ」 筑前で流行ったくずれには「大江山鬼退治」「小栗判官照手姫」「自雷也物語」「岩見重太郎」「とうしん丸」「米一丸」などがあった。「くずれ」という言葉は天和三年(一六八三)の「正房日記」にみえる「崩」が文献状初めての用例であるとされる。ここで「崩」とは、大阪城の落城にかかわるものだとされている。「くずれ」の語源は落城にまつわる戦記物を語る事にあった。こうした「くずれ」は口伝えに語られた物であったが、晴眼者により記録された台本が現存している。森田本と国武本である。ここには説教節や浄瑠璃、幸若舞曲にも題材を同じくした「出世影清」「源平両氏伝冑軍記」「小野小町」「石童丸」「山崎参三」「餅酒合戦」や、独自の地方伝承に基づいた「姫路合戦」「筑前名島伴(判)官鬼人退散」がある。最後の句を祝言で結ぶ。「出世景清」「二子隅田川」では「行くは千秋に本な万歳、万々世の世々までも、栄ゆる御代こそ目出度けり」。琵琶法師もホガイを真似ている。

明治四年(一八七一)四月、これまでの宗門人別帳を廃し、戸籍法が制定された。明治新政府は統一的な支配体制を推進する為に、残存する封建的諸制度を次々と改革、あるいは解体してゆくのだが、同年十一月、全国に布達された盲官廃止令が出された。この布告によって惣検校を頂点とした当道座の官職は廃止され、其れに伴って配当金を取り集めたり、持ち場を区分し他の営業を妨げる事が禁止された。当道座の組織と特権がすべて廃止された。福岡蕃では明治時代に「回国修行心得」として次のような行為が禁止されている。(西岡陽子『盲僧伝承の古層』『御影史学論集』)

一 漫リニ吉凶禍福ヲ説キ又ハ祈禱巫呪ヲナシ若クハ守札ヲ利用シテ人を 惑ハ シタルモノ
一 病者二対シ禁厭、祈禱、巫呪等ヲナシ又ハ神符神水等ヲ与へ医療ヲ防 クル モノ

 

沙弥線の瞽女

盲目の女旅芸人を瞽女という。彼女達は目明きの手引きに連れられて三味線を携えて僻地にある村々を歌をもって渡り歩いた。昭和五二年初夏、長岡瞽女岩田組中静ミサオ・金子セキ両女の盲老人ホーム胎内やすらぎへの入所をもって、旅稼業をする瞽女の流れは途絶えた。瞽女の歴史は古く、『七十一番職人歌合』で曽我物語を語る瞽女が室町末期書かれてから現在まで、瞽女は語り継いできた。文政八年の『兎園小説第十二集』には「近頃の事なり。武州忍(埼玉県行田市内)領の辺へ、冬時に至れば、越後より来る瞽婦の三絃を弾じて、村々を巡りつつ、米銭を乞ふありけり。」安永九年の『閭里歳時記』には「今日より(宝暦頃、上州高崎)城下の瞽女ども年始の賀とて家々にゆき唄をうたひ、三線をひく。また乞食どもそのさま思ひ思ひに出立て家々の門に立ち、祝詞に猥濫りなる事共をまじへうたひ舞ふいあり」瞽女の呼称については、文明本『節用集』に「御前 ゴゼ 女盲目」とあり、「御前」から来た者と考えられる。御前というのは仏性を供えた存在を著す。怨霊鎮魂を期して仇討ちや戦を語っていた盲御前が、やがて段者として説経浄瑠璃を取り入れ、さらに近世・近代の瞽女が心中口説を好んで語るに至っても、そこに亡霊供養の意味が付されていたからであろう。八代将軍徳川吉宗の時代、谷川節士清の編著になる『倭訓栞』には「瞽女の転訛せるにや、或説に御前也、常磐御前、静御前の称に比せり。瞽者の座頭をいひ、瞽女を御前といふは美号をもって憐むやといへり」と書いてある。なお、瞽女の「瞽」の文字は『漢書』『荘子』『釈文』『周礼』にも使われており、その差異には音楽を司るものと盲目のふたつの意味を使い分けていた。喜田村信節が文政十三年(一八三〇)にかいた『嬉遊笑覧』という江戸時代の書物に「三味線と申す物をば盲目の女より外にはひき不申事の様子にあて有之、(中略)大名衆の奥方には盲女と名付けたる瞽女を二人三人も抱置、御慰など有之助は三味線を鳴し、小歌やうのものをうたひ、座興を催申事に有之候」というように、大名のなかに入った者もいたらしい。中世の瞽女が、歌芸をもって公家の邸宅に参入し、披露していた事は、いくつかの文献によって確認できる。後崇光院の日記である『看聞日記』の応永二十五年(一四一八)八月十七日条には、「夜盲女両人愛寿・菊寿参、召前施芸能五六句申、聴衆済々候」という師弟の「盲女」が後祟光院のもとに参上し、「芸能」を施し、五、六句申したとする。鎌倉時代成立の『西行物語絵巻』にも、市女笹を被り袿に足駄を履き、杖をつく二人連れの瞽女が登場する。『鼠の草子絵巻』では、婚礼場面に三人連れの瞽女が描かれ、「いかにお光、奥へ参りめでたき歌、端唄少し歌ふて引き出物とり申べき候」とあり、祝言を歌っていたことがわかる。遊行の女性芸能者である盲御前たちの多くは神社の門前や本堂の脇にたむろして、鼓をうちながら、参詣の人々に語りと歌いを披露していた。『蔭涼軒日録』の文明十九年(一四八七)五月二十六日条には、健仁寺の蔵主が「胸敲之乞食」と「清水寺西門女瞽」をまねたろあり、清水寺西門で鼓を叩く女を女瞽と描いている。現在では三味線を引き語る瞽女が歌う音源が残されているが、三味線が普及する以前はみな鼓を使って居た。室町以降、瞽女は幕府公認の組織に所属していたというが、当道座との関わりなどまだよくわかっていない。しかしながら、瞽女も盲僧法師と同様に各家を周り、歌を歌い三味線を弾いて歩いた。また山の僻地だけでなく、東海道筋の宿場にも瞽女は群居した。

また新天地を求めて地方を流れ歩いた。越後から更に北上した青森では盲目の巫女をイタコという。彼女らのレパートリーである「お岩木様一代記」は、瞽女の「山椒大夫」の津軽バージョンである。それは口説に祭文を入れたものであるが、その詞章が寛文本の歌詞に基づいていることは、ほぼ確かである。近世、この越後ゴゼが北国廻船に乗り込み、遠く東北・北海道を巡りながら、津軽の地へ寛文本を基盤とする山椒大夫伝説を伝えた事は十分にに考えられる。大條和雄は聞き取り調査によって、津軽沙弥線の源流を辿った末に、津軽三味線の始祖である仁太坊は北前舟からやってきた瞽女から三味線を教わったのだと述べる。

瞽女の来演が歓迎された十九世紀の越後の村においてさえ魚沼郡谷内村(天保九年一八三八年)「瞽女・狩人・穢多・非人・乞食之類無御座候」「職人・大工・紺屋・瞽女・狩人・穢多・隠亡・乞食等無御座候」(明治元年一八六八)と書かれていた。瞽女の様子が川柳に詠まれている。「旅瞽盲の道も二上がり三下り」(『柳多留』一五〇篇)「瞽女が猫袋で諸国あるいてくる」(『柳多留』七十一篇)「おれもよい男とごぜをくどく也」(『柳多留』四篇)「ごぜの尻をたたけばむりな目を開く」(『柳多留』二篇)この類ノ句や江戸後期の滑稽本にある瞽女に関わる下ねたなどが面白いと感じられた事自体に、近世の大都会における瞽女に対する差別的意識の変化が映し出されている。何らかの仲間意識に組み込まれる事により門付が正当化され、毎年ほぼ同じ道を歩き特定の宿に泊まっていた地方の瞽女とは異なり、大都会において主に個人として活動した瞽女は、様々な階層の者を相手に、鍼治、按摩、箏曲、三味線唄など多種多様なサービスを提供しなくてはならなかったのだろう。衣食住に関わらない彼女等の余興は、乞食の生業であった。私が現代社会を乞食の社会と呼んでいる理由はそこにある。長岡瞽女の関根ヤスの話によれば、大正四年(一九一五)頃上京した瞽女がいたという「門付けすると銭になるというていたがんに。お前も行がんねぇけえ、なんというていたが、いやおら東京なんかもんも行ぐ気なんかねえというていたろも」(『瞽女ー信仰と芸能』鈴木昭栄 二四五頁)疲弊した越後の村を廻り続けるか、または一か八か不安定で変わりやし大倒壊の芸能市場にかけるかを決断する事は容易でなかったと想像される。越後瞽女がお多く訪れた群馬県の場合でも、瞽女は乞食の類として明治五年八月に管内の俳諧を禁じて散るが、重ねて命じ六年五月九日には「一 乞食・非人、二 梓巫・市子、三 瞽女、四 辻浄瑠璃・祭文読之類 右之者共立廻リ候ハバ駅村役人共二於テ厳重申達、順次管外へ追放可致。」という厳しい布達が出されている。こうした近代の波に呑まれて全国各地の瞽女が社会の下層に零落し消えて行ったのにたいして、越後では明治・大正期に足る迄瞽女の活動が衰える事はなかった。厭、幕末頃から次第に増加して近代に鳴ると隆盛を極めている。杉本キクイの回顧談によれば、盲目になった娘に対して、按摩になるか瞽女になるか布達の道しかないのだと母が諭したという。越後では瞽女がそれほど一般的な職業だった。

このような状況で瞽女は掟を作って暮らしていた。瞽女は生涯を独身で終ることが運命づけられていた。旅において、特に若い瞽女には誘惑はつきものであったので、これをしりぞけて操を守らなければならなかった。無謀の男に対して、髪のかんざしを引き抜いて、近寄ればこれでさすよとおどかして身を護ったこともありました。東松山市の今は亡き伊平タケさんこのような掟が定められていたのは、光を失った彼女達が、手さぐりで生活していくためにやむを得ない組織の防衛手段であった。掟を破って不犯の罪を犯した時に科せられる年落とし制度は、出世時期を一年ないし三年延長するもので、此の処分を受けると妹弟子を姉さんと呼ばねば鳴らない苦境に追い込まれる事も合った。また最悪の場合、男関係で瞽女集団から追放された瞽女は「瞽女くずれ」といわれて、瞽女集団の枠の外で生活せざるをえなかった。「はなれ瞽女」ともいわれ、手引きなしで一人寂しく、村祭の時は神社の参道の傍らに敷いた筵の上にちょこんと座って、倣い覚えた三味線を引いて、投げ銭の喜捨を乞うて露命をつないだが、この有様を瞽女は、乞食になり下がったといって軽蔑した。らしい。

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越後の諺に、大きな風呂敷に荷物を詰めたり出したりする事を「瞽女の荷造り」という。旅する彼女達ハ雨具、予備の草鞋・ベントウ入れ等をもち、宿に泊まった時のための枕や着替え、また小座布団まで背負って歩いていた。 『平家物語』を語る琵琶法師に対して、女性の瞽女は『曾我物語』を語ったというが、瞽女のレパートリーは多様だったようである。歌謡では、常磐津・清元・新内・長唄・端唄・義太夫のさわり・祝議唄・万歳・門付唄・民謡・流行歌である。長唄や常磐津など元来その道のプロが演奏する御曲まで習得している。瞽女の芸として特有なのは祭文松坂(現在では段物と呼ばれる)「山椒大夫」「葛の葉」など説経節類似の物語と、口説つまり長編の叙事詩を七七調の短い節を繰り返し歌うものだった。口説きは「「越後口説」「新保広大寺くずし」とも呼ばれる、男女の世話物・心中物・滑稽・時事風刺・唱導物があったという。現在も音源を聴くことができる。瞽女の歌っていた長編の歌詞などは、芸者や地方住民とは異なる「瞽女唄」として曲節が与えられ、人々に受け入れられた。こうした「瞽女唄」は、瞽女達にとって当道の男性にとっての平曲と同じ機能を果たしていたと思われる。限られた史料から推測するならば、既に中世後期の瞽女は、とうてい素人には暗記し難い『曽我物語』や『明徳記』を覚え、神社の本地譚や霊験譚なども謡い、演奏を通じて瞽女と素人との差異をはっきりと示していたのである。近世以降の越後瞽女は、他の芸人も歌わなかった「段物」(「祭文松坂」)や、春先に訪れた家を祝福する「瞽女万歳」、養蚕に関する民間信仰に結びつく「春駒」の唄も披露して、他の芸人との差別化を図った。また逆に地方地方でその土地の聴衆が共有する民謡、流行歌、あるいは滑稽な「口説」など、演奏上においては、瞽女が聞き手と同じ唄を好み、同じ歌を歌い、同じ価値観を持つ事が意図的に示され、彼女達は障碍者というよりは先ず民衆に娯楽と感動を与えてくれる職人として認められた。

各地で好まれる唄があったために、彼女達は段物の他にもさまざま唄を覚えておく必要が合ったのである。元禄三(一六九〇)年頃の成立とされる『絵合 好色四季咄』には浄瑠璃が素人を含めて大流行した状況を、京都の四条河原の景によって、「川中にならべたる床の上、若き男あればふりそでの女もあり、おやじあればおばばもあり、びくにあればぼうずもあり、ざとうもあればごぜもあり、かたはしから嘉太夫ぶしかたれば、角太夫ぶしかたるもあり」と記す。瞽女も浄瑠璃を語っていた。また、「小栗判官」にある「髪は何風が良かろやと お江戸で流行るいま流行る 長船とやらが良かろうか」といった文句が見られるように、トシの文化は地方の人々の憧れでもあったから、本来劇場音楽である浄瑠璃や長唄、あるいは華やかな遊郭の気分を醸し出す端唄などの演奏を瞽女に期待することもあったろう。(『瞽女 旅芸人の記録』五十嵐富夫)

こんな話が佐久間 惇一の『瞽女の民俗』に描かれている。

養殖が盛んな場所に行くと「来年は蚕があたるように、蚕種に唄を聞かせてくれ」といわれ、めでたい唄をうたったという。また、すじまき筋播がはじまるころに「米の種だからめでたく芽が生えるように歌ってもらいたい」と所望する農民があった。産気づくと、三味線の糸を結んでいると、おさんがかるくなるという。(昭和四八年に刊行された本より)季節の折に村々を尋ねて歩き、迎えられ、祝いの言葉と呪いを施していく姿が描かれている。

瞽女は行き詰まった人々の心に風穴を明ける旅人であり、仏の道、仏の加護に守られて暮らしているわけで、信仰心のある人々は彼女達に施しを行う事はすなわちホトケに報いることでもあったわけである。放浪芸人が旅を続けられる、人々から品々や金銭を貰いながら歩くには、芸能に対する対価が必要であった。では、観客は何故彼等に対価を払ったのだろうか。まず、金のかかる神ならばいらぬ、お前は乞食ではないか、といわれることもあろう。目の前の人間は人でありながら、私のためだけに来てくれた神様であると思うのなら、米でも銭でも払おう。私は俗世にまみれて、ホトケの名を念じるだけで精一杯。ホトケを背負って生きるあなたが、ホトケを信じる私の分身だと思って、米を渡す。もしくは、目出度い日だから、余興で「芸」をしてもらいたいから、お金を払うというドライな観客もいるだろう。篠田正浩の映画『はなれ瞽女おりん』はその両極端を描いている。瞽女が放浪の旅を続けられている、瞽女が存在している事自体が、奇跡であり、ホトケの業なのである。

絵解の比丘尼

比丘尼とは男性の出家者にたいして女性の出家者をさす言葉で梵語のビクシュニーbhiksuniの音を感じで真似てできた呼称である。 尼は、仏教本来の分類によれば、比丘尼・式叉摩那尼・沙弥尼の区分がなされ、その前段階として在家信者の優婆夷とよばれる。このうち得度受戒を行なった尼を比丘尼としている。(那智業書 第22巻(熊野那智大社発行 昭和四十九年)日本での比丘尼は、敏達6年に高麗の使節の中に加わって渡来した禅蔵尼、恵善尼の二人の比丘尼が最初という。(『日本書紀敏達記』)多くの熊野尼比丘尼は正式に受戒した尼僧ではなく、尼僧の姿をして世を渡り歩く女性芸人であった。彼女たちは地獄極楽の絵図を口で説明したり、熊野牛玉宝印という護符を配ったりして全国を徘徊していた。 社寺の境内、橋の上、路肩、あるいは屋敷の中に入り込み、床の間や座敷に絵図を掲げ、広げたりして絵解きをする。絵解きとは、絵で指し示しながら物語りをする説経の方法である。商売道具である曼荼羅は、必ずと言っていい程彼女達と一緒に描かれる「牛玉箱」の中にしまわれている。熊野比丘尼とは、紀州の熊野三山にそれぞれ組織された「本願所」を拠点として全国に熊野信仰を広めた僧形の女性たちだった。 熊野信仰を人々に広めるとともに、熊野三山の社殿堂塔を維持、管理する資金を集めることが彼女達の遊行の目的であった。熊野比丘尼とは、当初は熊野信仰を広める「熊野巫女」の別名だったが、その働きが旺盛なので、熊野系の修験教団が自分たちとの関係を強めるために「熊野比丘尼」の名を与えた、らしい。

絵を伴えば聴聞の数倍に達する感銘を与えたに違いない。絵解きの古い文献はまず、後醍醐天皇王子重明親王の日記『吏部王記』(承平元年 九三一年)九月三十日条には、貞観寺では、藤原良房の菩提を弔う堂があって、その太い柱に描いた八相成道の江について、その寺の座主が開設する事が行なわれていたことがわかり、これこそ今の所絵解きの文献上初例ではないかとされる。職人としての「絵解」は、中世末らしい「三十二番職人歌合」に出る。その一番に、「千秋万歳法師」と取り組ませて「絵解」の「見ところや絵よりもまさる花の紐 とかうとかしを我儘にして」の歌を挙げていると解く(説く)ことと紐を解くことに結びつけたのである。熊野の神社の由来を説くこの物語は、古来より伝承されたものでした。 遡れば『台記』(藤原頼長の日記)には大坂、四天王寺で「聖徳太子絵伝」の絵解きがなされた記事がある。室町の『三十二番職人歌合』第一章七には「絵解」が描かれている。比丘尼の使う絵図は地獄独楽や熊野権現の縁起を描いた絵巻物、そのほか、熊野の景観を描いた参詣曼荼羅を使うことが多かった。『神道集』の「熊野権現事」、〔寛永〕刊丹緑絵入本「くまのゝほんち」、蜷川第一氏蔵〔室町末〕奈良絵本(蜷川本)など、熊野を題材とする物語は繰り返し語られて来た。しかしいっそう盛んに行なわれるようになったのは、曼荼羅を広げての絵解きでした。日・月、人生の階段、閻魔大王とその鏡、秤も、火の車も地獄の業火も、血盆池とそこに生じた蓮台も、さらには修羅道としての合戦のさまも、事細かに書かれている。その中心オ円柱の「心」字を比丘尼の持つ棒の先端がしっかりと捉えている。彼女の口は半開きで、雄弁に語りつつあるのが眼に見えるようだ。

「血の池地獄」の思想が中世中期以前には語られず、室町末になって「目蓮尊者地獄めぐり」という物語が普及し始める、御伽草子・奈良絵本の類に属する者で、「熊野勧心十界曼荼羅」や「熊野本地絵巻」の普及とほぼ同時代である。その曼荼羅の右下には必ず血盆池経にとかれる女人救済の状況が描かれるのである。一定の時期に之等の者が互いに混じり合いながら、「女性による女性の為の」宗教文芸を展開させていった事情が理解されよう。血の為のケガレというものは、子供を生むのに散所へいった話や、生まれた子供をつつんだ布を散所ものに捨てさせにいく、若しくは血や皮の処理を河原者が行なっていたこと、遊女が法然に救いを求めた事など多くの例がある。「熊野本地」は、中世「蟻の熊野詣」といわれ、最も盛大をきわめた熊野散々の信仰の根本ともいうべき縁起譚であり、神の代受苦という思想を最も顕著な形において表しているといえよう。之が其のあらましである。

中天竺摩迦陀国のぜんざい王の妃ごすいでん(五衰殿)の女御は、日頃信仰する観世音菩薩の助けに依り、ひとり大王の寵を受け、大王の子を宿したため、他の妃たちの嫉妬に依って、宿した子が、不義密通の子であると大王に譏言され、山中に連れ出され、首を切られる事に鳴る。苦しい度の後、いよいよ首を切られようとするが、もののふどもの名刀をもっとしてもどうしても頸を斬ることができない。それは御衰殿の宿した子が真実大王の子であったためである。そこで御子の誕生を待つことに鳴る。やがて月満ちて玉のような皇子が生まれるが、母と子とはすぐに悲しい別れをする。御衰殿は日頃信仰していた観世音菩薩に皇子の無事な生長を祈りつつ頸を斬られる。その頸は槍につらぬかれ、大王の御殿に持ち帰られ、馬屋の板敷の下を堀、かいば桶に入れて埋められる。山中に残った妃の体は少しも腐ることなく、両の乳房より乳を出し、皇子を養うのである。皇子はその母の頸なき胴体とともに、山の動物たちに守られ、生長してゆく。やがてちけん上人という聖に助けられ、其の寺で学問を積み、七歳になった時、都に騰がって父大王に対面する。はじめて事の真実を聞き、御衰殿の無実を知った大王は深く悔い、即日皇子に位を譲った。皇子は母の頸を宮中の馬舎の下より掘り出し、長い祈禱の後、昔のまま御衰殿の女御としてよみがえらせる。其の後、其の後、大王・妃御衰殿・皇子/ちけん上人・眷族の人々は魔迦陀国をのがれ、日本の国にやってこられた。これがやがて、紀の国牟婁の郡音無の里に熊野三所権現(十二所・十三所権現ともいう)としてあらわれ給うた。

『東海道名所記』万治二年(一六五九年)には日本の古代にも比丘尼の本来の意義が保たれていた事を言おうとしたのである。しかし時代の降りるとともに、比丘尼が勧進のわざに携わることをつぎのように述べる。

いつのころか、比丘尼の伊勢・熊野にまうでゝ行をつとめしに、その弟子みな伊勢・熊野にまいる。此の故に熊野比丘尼と名づく。其中に声よく可可をうたひけるあまのありて、うたふて勧進をしけり。その弟子また歌をうたひけり。又熊野の絵と名つけて、地ごく極楽、すべて六道のあり様を絵にかきて、絵ときをいたし、おくふかくおはします女房達ハ寺まうで、談義なんどもきく事なけれハ、後世をしらぬ人のために、比丘尼はゆるされてぶつほうをもすゝめたりける也。

とある。特に最後に書かれているように、外出のしにくい後記の婦人の家に出入りして絵解きをしていたことがある。やはり女性への語りが得意だったかもしれない。一七世紀半ばからは語るよりか歌を歌う歌比丘尼となり、売色を行う売り比丘尼となって芸能化、世俗化した。

比丘尼、もとは清浄のものにして、熊野を信じて諸方を勧進しけるが、いつしか衣を略して、歯を研ぎ頭をしさいにつつみ、年なる、年を経たる者を「御寮」と号し、夫に山伏を持ち、女童の弟子をあまたとりてしたりつるなり。(『人倫訓蒙図彙』)

いつのほどにか、となへうしなうて、熊野、伊勢に参れども行をせず、絵解きも知らず、歌を肝要とす。みどりの眉をほそく、うすけしようして、歯は白く、手足に咽脂えんじをさし、紋をこそつけねど、たんから染、くろちうあ染に白ふらふかせ、黒きき帯にこしかけ、据えたれてなかなか黒きほうしにて、かしらあじにつつみたれば、その行状は御山風になり、もと絵解きは絵を指して見せ、其の物語を琵琶に合わせて語るは、専ら後世を勧るものにはあらず、比丘尼後には、はやり歌をうたい、手拍子を打ちなどしたり、江戸時代熊野比丘尼は「歌比丘尼」と名を代ゆ。(『嬉遊笑覧』)

唄比丘尼というものありて、勧進す、宝暦頃まで、所々繁華の宮社へ来り、参詣人の休息する茶屋へ入り、びんささら鳴らし、歌唄うて米銭を貰ひて世を渡るものなり。その歌に「めぐりあはせのうつり香も、むすびとめたり糸ざくら、おやりなんし」などがありし。(『享和雑記』)

世は江戸の時代となり、社会も経済も人も新しくなる世の中を、絵解きだけでは渡っていけなくなったのか、遍歴の遊女が売春の広告として比丘尼の姿をしたのかは、誰にもわからない。

茶と鹿の鉦叩

鉢叩きとは、鹿の皮を着た流浪の僧侶で、くいっぱぐれがなくなるために遊行に加わる者、非度僧も勿論混ざっている。七十一番組職人歌合』には「むじゃう声 人にきけとて瓢箪のしばしばめぐる 月の夜ねぶつ うらめしや誰が鹿角杖ぞ 昨日まで(略)はちたたきの祖師は 空也といへり」と書かれる彼等鉢叩きの縁起は次のように語られている。

かの空也が貴船に住んでいたとき夜ごとに庵屋近くに来て鳴き、その情を慰めていた鹿を、平定盛が射殺したのをあわれみ、その皮角を乞い、皮は裘としてこれを着、角は杖頭に挿して遺愛の物とした。定盛の子孫のち一八家にわかれ、空也の遺教をまもって、厳冬厳夜、毎夜洛外の墓所葬場を巡り、竹杖をもって瓢をたたき、高声に無常の公頁文をとなえるを修行とし、つねに茶筅を製し、妻帯世襲して鉢敲の祖となった(雍州府志巻四)

布教を行う空也の目的は仏の心を実践することであった。遊行聖や勧進聖・念仏聖・山伏などといわれ、全国各地で死者供養を始め雨乞い・日乞い・五穀豊穣・疫病鎮送・火伏などを祈願した。その行いの一つに念仏がある。「則ち霜月十三日宗派を集め 法事を勧め 一瓢箪をたたき 和讃称名念仏を執行して、それより四十八夜の寒中の別行をこたらす 洛中洛外を昼夜ともに巡廻して 行者茶筌一瓢箪を叩 衆生の煩悩の眠りを覚し 無常念仏をすすめ 貴賎男女の心情を動し 法界有縁無縁 自他平等と廻向したてまつり侍るなり」(『空也上人絵詞伝』)「茶筌」と呼ばれる空也僧が鉦や瓢箪をたたきながら念仏に合わせ足踏みをして死霊の回向をしたという。鉢叩きは日本各国の芸能に花をそえていった芸人の一人である。

遊行上人の支配下に属する半俗半僧の念仏者を、俗には打鉦又昔は俗聖と云ふ者もあった。続々群書類従の第十六巻に、三州族聖起請十二箇条事と題する一編を採録して居る。天治二年に成ったと云ふのは真実であらう。其記する処は要するに在家の生活も信仰の妨にならぬことを説くので、其反面から常時耕作もすれば酒も飲むと云ふ自由な念仏業者のあったことを示して居る。沙弥とは近世の語で謂へば道心者に当たり、仏法に帰依するも未だ合法の得度をせざる者のことである。(柳田国男「聖という部落」)

鉢叩きと其杖。近江栗太郡下田上村大字黒津にはナツハイ堂の址と云ふ処があった。空也の流れを汲む鉢叩と云ふ者、毎年七月此処に来て瓢を叩き鉦を鳴らして踊念仏をしたと伝ふ。件の鉢叩の子孫は享保年間までは相続して居ったが、後は只此堂の跡と云ふ地に石仏二体があるのみ云々(栗太誌十九)(柳田国男「毛坊主考」)

筑後三潴郡江上村大字江上には、少なくとも二百年前迄、歌舞妓傀儡及び踊念仏を業とし続に鉢叩と呼ばるる者が十戸ばかり住んで居た。嘉祝弔祭の家に行き、吉事には舞童俳優を専らとし人をして頤を解かしめ、凶事には念仏諷経を専らとして人をして感を起こさしむ、其体凡俗にして或る時は衣冠を帯して郷士に形容し、或時は編綴を着け僧侶に準擬す。故に其居処を名づけて寺家と謂ひ、世俗呼びて鉢叩又は念仏坊と謂ふ。其先を問へば伝へ云ふ空也上人の流れを汲む者と云々とある(『筑後地鑑』上)

菅原道真の「寒草十首」(『菅家文章』)において、「浪れ来れる人」=浮浪人が「鹿の裘三尺の弊れ」を身につけて、行く行く乞与頻なり」と云われている。『万葉集』巻第一六の「鹿の為に痛を述べて作れり」(三八八五番)とされた長歌が、蟹のそれとともに「乞食者の詠」であり、鉢叩きもやはり浮浪の民であった。乞食者は食物繊維を編んだ衣を着ることができないほど文明に接していなかったのか、それとも山の文化と共に暮らし続けることを選んだのかはわからない。とにかく鉢叩きの記録は異形な姿として書き写されている。『今昔物語』(巻二九)に、「其の寺に阿弥陀の聖という事をして歩く法師有りけり、鹿の角を付けたる角を、尻には金を朳にしたるを突きて、金鼓を叩て万の処に阿弥陀仏を勧め行けるに」『栄華物語』や『金葉和歌集』からもうかがえる。『今昔物語集』をみても(巻第一三「東大寺僧仁鏡法花ヲ読誦セル語」第一五)には、愛宕護(愛宕)山の大鷲峰に澄んでいた東大寺の僧仁鏡が、「或は破れたる蓑をおほひ、或は鹿の皮を纏」って修行したとも伝える。『梁塵秘抄』巻二「聖の好む物、木の節、鹿角、鹿の皮、蓑笠、錫杖、木欒子」とあり、鹿の皮と角は自分が聖であることを宣伝するコスチュームであったことは間違いない。寛弘二年(一〇〇五)から同七ねにかけ、鹿皮をつけて「皮聖人」と呼ばれた行円が、行願寺を建立したことは、あまりにも有名である(『日本紀略』)

『滑稽雑談』で彼等は「今四条坊門空也堂十八家鉢たたき、毎年十一月十三日本堂に集まって、四十八夜の行入りとて踊り念仏を修し、今日より十二月晦日迄四十八夜、洛中洛外山野寒林をめぐりて、無常の和讚に高声念仏を唱ふ」とかかれ、『譯海』巻十四では「住持一人、伴僧二人、この三人は僧、このほか有髪の俗人四人、法衣を着て胸に鉦鼓しょうこをかけ、左右に立ち向かって、同音に文句を和し、鉦鼓をならす。住持は文句を唱えるばかり。伴僧二人は手で瓢箪を叩き、文句に和して互いにおどり出て前後入れ違い、勢いこして勤行をなす。これを歓喜踊躍念仏という」とある。『京羽二重織留』には「正月八日、空也堂鉢たたき出初式、十二月に十八日鉢たたき結賀願、極楽寺本堂に踊念仏あり」とある。彼等の詞章を読むと、先の俳句に見た静寂とした夜に響く鉦の音のイメージよりも、陽気に踊りを踊っている姿が思い浮かぶ。鉢叩きたちが詠ったといわれる「鉢叩和讃」という歌が『安斎随筆』巻二九に書き残されている。これをみると、鉢叩きにも様々な流派があったことがわかる。

諸法実相と聞くときは 峯の嵐も法のりの声
万法一如と観ずれば はまの蠟蟻ろうぎも仏なり
仏は三世さんぜにましませど かかるひぐわんはたのみなし
ひぐわんきようじゆの釈迦だにも ねはんの雲にかくれます

「右は南禅寺普明国師の作」とあるだけに格調をもっているが、他方『空也僧鉢敲考』にみえる「鉢叩歌」はいかにも稚拙で空也僧が歌ったらしい面影がしのばれる。

よき光ぞと、影たのむ々、たのむちやの、きよも仏のきよひよん、あひつのさときよに、むつのくにけりきよひよん、ひやうたんふくべにをを付けて、折々風のふく時は、ひよよらよんひよn、しほせの風のさむさ、さんやにてはどら打ちならし、三界をを家と走りめぐり、鉢叩がせいせいここにかけて後生を願はば、などか仏にならざらん、、、

というもので、「この歌のみはいとふるく伝へきにけるものと見ゆ、さいつ頃空也堂再建のよしにて、町々っを空也僧、茶筅う ちかたげ、徘徊せるあり、あるひといえるは、今の鉢叩きの歌ふ所の歌、大抵八百首もあるべしといへえり」と著者は注釈している。
江戸中期の京都の地誌『雍州府志』の「極楽院」の項に

空也上人の開基にして、則ち、自ら刻む所の肖像を安置す。この院内の一老を上人と称す。魚肉を食らわず、妻子を携えず髪を剃り、衣を著す。その余の十八家は、髪を剃らず、妻子を携え、常に茶筅を製し、市朝に売る。・・・およそ十八家の人、厳冬寒夜に至りて、毎夜洛外の墓所/葬場を巡り、各々竹枝を以て瓢を叩き、高声に無常の頌文じゅもんを唱う。これを修行となす。よりて鉢敲はちたたきと称す。

これによれば、一人の清僧を除いた十八家の鉢敲は、厳冬の毎夜に都の外にある墓を巡っており、そのとき胸に抱えた瓢ひさごをたたきながら、大きな声で「無常の頌文」を唱えたという。この「頌文」とは空也が与えた「諸法実相と聞ときは」で始まる法語のことで、此の中に「人は男女にかはれども赤白二つに分けられて 生ずるときもた々ひとり死するやみぢに友もなし 東岱とうたい前後の夕北嶺朝暮の草の露 おくれ先立世のならひ只何事も夢ぞかし となふれば仏も我もなかりけり 南むあみだ仏なむあみだぶつくうや上人の御法事」『嬉遊笑覧きゆうしょうらん』巻六上。東岱とは鳥辺野の墓所のことで、北嶺は船岡山の墓所のことを指す。

『栄華物語』「あみだのひじりの南無阿弥陀仏とくもくさうはるかにこえうちあげたれば…さらぬおりだにこのひじりの声は、いみじう心ぼそうあはれなるに…」とみえ、『金葉和歌集』には選子内親王の和歌詞書に「八月ばかりに月あかかりける夜、あみだの聖のとほりけるをよびよせさせて、里なる女房にいひつかはしける」ともあって、平安末期には鹿の角をもち、金鼓をたたいて念仏を進めて歩く、念仏雨聖と称せられる行者が多数存在したことが知られ、現六波羅蜜寺蔵、伝康勝作の「空也像」は、まさにかかる念仏聖の風俗をふまえたものである。

九〇三年に生まれた空也が全国津々浦々を歩きながら念仏を広め続けた。それが人に伝わりながら作られたのがこの鉢叩きの姿だった。京都では、凍てつく底冷えのする冬の寒の夜に空也僧が、鉢を叩きながら念仏を唱え、市中を巡ることが風物詩だったという。一六四四年生まれの松尾芭蕉がそれを詠んでいるのだから、なんとも息の長い芸であったと思われる。鉢叩きを詠んだ句は「長嘯ちょうしょうの 墓もめぐるか 鉢敲」をはじめ、同じく芭蕉の「納豆切る 音しばし俟て鉢敲」、支考には「鉢たたき 昼は浮き世の 茶筅売」、千夜女には「山彦を つけてありくや 鉢たたき」、蕪村には「夜泣きする 小家も過ぎぬ 鉢たたき」など、鉢叩きは人々が俳句によって知れるほど知られていた。『譯海』巻十四では町中を歩きながら鉦をチャンチャン言わせて念仏している姿を描いている。

空也聖は茶筅と別称され、師走になると京の市内で茶筅を販売した。(『花洛細見図』『都名所図会』一七〇四年)「空也堂鉢たたきは茶筅を売りて業とす。むかし村上天皇の御字、疫病大いにはやり死するもの数しらず。空也上人これを憐れみて観音の像を作り、茶筅にて茶湯を和し、観音に供し、その茶湯を諸人に与ふ。それより疫たちまち平癒して長寿をなせり。」茶筅は彼等の副業である。鎌倉時代の僧、栄西『喫茶養生記』によれば「茶は養生の仙薬なり。山谷之を生ずれば、その地神霊なり。人倫之を採れば、その人長命なり」人間は死すれば土に帰り、その霊魂は山頂に集まると信じられ、土地の神も山の神も祖霊である。茶葉はそれからの贈り物であり、長寿の薬でもあると、栄西は教化したのである。『阿波国高河原村風俗問状答』の七月の項には「此月十五日、中元、魂祭と申て、なき人の霊を祭るに、十四日の朝、(略)朝。昼・夜、茶湯・香花・そうめん・瓜・十八杯前へ供、念仏を唱え」亡き人の魂を祀るお盆には、かならず仏壇や盆棚にお茶を供えたと書いている。『肥後国天草郡風俗問状答』には「忌日、名日などに、茶のみという事はある也」とあり、『越後国長岡領風俗問状答』では死者の命日などの法事や、寺院にて行う法要の膳などを「茶振舞」と読んだ。お茶を飲む習慣が民間に定着して行ったのは室町時代公共と推定されており、『茶の湯の歴史』には茶木の植樹と男女の恋をテーマにしたふうりゅう小歌調の踊り歌がある。茶は盆に人間界を訪れる祖霊や新精霊いに手向ける供物であった。空也聖は、薬湯としてのお茶の紅葉と、茶筅の呪力を民衆に教化した。(『踊念仏の風流化と勧進聖』)

法螺貝の山伏

山の中で修行していた乞食法師たちも時代を経ながら様々な暮らしを体験したようだが、修行ばかりでなく話芸にも手を出したようだ。なにせ身寄りもなく、土地もなければ金もない。覚えているのは怪しい呪文のかずかずと山で鍛えた頑丈な身体だけである。修験道の道具である錫杖や法螺貝がそのまま語りの小道具になった。彼等の語りは声明の祭文をもとにしたために祭文説経といわれる。地方によって事情はまちまちだけれども、祭文説教は祭文を語りの台本にした説経である。『五来重著作集』の第七巻で説明されている。

そもそも祭文とは、神や仏あるいは資料に向かって祈願祝寿賛嘆の心を奉る文章のことであり、古代以来神道・仏道・儒教・陰陽道など各方面で行われ、やがて平安時代には修験道の世界にも伝わり、法会・護摩供養などの際に盛んに読誦されたのであった。しかるに平安時代厳粛たるべき祭文に滑稽を交えたものが登場してきた。「宮咩尊(みやのめまつり)祭文」や、専心僧都作ともいわれる京都太秦広隆寺の「牛祭の祭文」などがそれで、たとえば後者は滑稽な詞章で災難・疫病の退散祈願の心を綴っているのである。祭文奏上の風への修験の参加は、中世時に手錫杖や法螺貝を伴奏とする滑稽な「もじり祭文」を生み、近世時には門付き芸として独立、寛永ごろ(一六二四ー)には上方において「歌祭文」が派生した。諏訪春雄の「歌祭文の研究」によれば、歌歳分の大部分は成立年代不明であるが、初期には「吉原太夫祭文」「野良祭文」のごときもじり祭文や「賽の河原祭文」「五輪砕五体の図」「懐胎十月胎内さがし」等の説経物が行われ」云々。近世になると、説経と祭文は、截然と区別することはむずかしい。しかし本来、祭文は法会修法にあたって祈祷願意を述べた物で、神道における祝詞・寿詞に相当するものであった。純粋な仏教だるならば、願文とか表白とか言うべきところを、山伏修験の徒は、神仏習合風に祭文と呼んだのである。

祭文といええども、心中物、恋愛物、犯罪物、追善物、説経物など、祭にはこだわらなかった。こうした祭文語りや説教を行なう人々は歩き回りながら人々の娯楽となった。全国各地を盲目の旅芸人瞽女が巡回していた事実は広く知られている。彼女らの活動範囲はそれのみではなく、たとえば中越を代表する長岡瞽女は、福島、山形、宮城、飽きた各地方の他関東全域、さらには甲信の一部にまでも足を伸ばしていたのである。実は我が西門がたりも彼女らと全くどうよ湯に巡業活動を展開していた。山形の西門語りは、農閑期には一人ないし数名で県内はもちろん宮城、岩手、新潟までも旅していた。巡業の際には警察署で遊技鑑札を受け、祭文道具や芸名を染め抜いた幕を持ち、毎年めぐる順序に従って回村したのである。各村には宿を提供し、世話をやく家があり、そこのに宿泊していく番か語り続けるのであつた。テレビが発達するまでは、辺鄙な農山村や漁村の正月なぞは、面白い祭文を聴くのが無情の楽しみであった。貝祭文こそ、庶民に娯楽と知識と強要とを提供し、かつ浪曲源流の一ともなった民間芸能なのである。娯楽として受け入れられたかたりの芸能の様子は太平洋戦争の頃まで毎年春三月におこなわれていた「山形県祭文演芸共和大会」に描かれている。『日本歌謡集成』巻八から引用する。

春三月、雪でおおわれた芝居小屋の周囲には、色とりどりの太夫芸名染め抜きの幟のぼりが立ち並び、舞台では紋服姿の太夫が約二十分間程度の持ち時間で次から次へと公演を行った。中には弟子をよ五人も両側に並ばせ顔を合わせ、金杖を振らせる師匠もあった。どの太夫たちも舞台いっぱいに大童になって熱演し、聴衆を泣かせ、或るいは笑わせ、そして酔わせたのであった。一方感激した徴収たちは舞台に向かって盛んに銭を投げ、あるいは祝議を差し出した。祝議提供者の名前や金額は藩士に墨書きされて張り出されたのである。

歌祭文の一曲は「敬つて申し奉る」ではじまり、事件の顛末を語り、最後に「敬つて申す」で語り収める形式が一般的で、これは山伏歳分本来の形式を踏襲したものと言われる。『貝祭文・説教祭文』で小山一成は書いている。

この頃の祭文語りの風俗は元禄三年(一六九〇年)刊『人倫訓蒙図彙』や一七〇五年『御前独狂言』によって推測しうる。前者は蓬髪、髭面、黒の法衣、輪袈裟、草履ばき、道中差、右手に錫杖といおう無骨な風体で門付きとしてあるいている。(略)一方後者は大阪店ん王子愛染堂境内の祭文語りを描いたもので、縁台二基を合わせた舞台の上で、菅笠を冠り、一人は女性らしく花模様の着物をつけことを奏している。もう一人は男であろうか紋付の衣装、左手に日の丸の奥義、右手に金環付きの手錫杖を持ってうち振りながら伴奏している。これこそ上方の祭文ー歌祭文語りの一般的な風俗らしい。貝祭文の母体なる江戸祭文ー俗山伏による門付き芸であったろうが、その江戸祭文は「白こえにして、力身を第一として、哥浄瑠璃」まで語ったという。村井市郎氏によれば「白声」とは密教と野手現車の専門用語であって、「平声」の対立語という。つまり、「平声」は通常の柔らかい声を言うが「白声」は喉を詰めた硬い声で調伏五壇法ー不動明王を中心に五大名を鵜と祀る壇の前で、御敵退散、悪魔降服を祈る際に、陀陀羅尼を唱える、そのときの声という。関山氏はまた前掲『仏教と民間芸能』の中で、「祭文の節まわしは、声明から出た日本芸能独特のもので、発声法は白声・力見声、へばり声といわれる、いわゆる「しゃがれ声」(嗄れ声)であり、これは日本の説教、謡曲、浄瑠璃、西門、浪曲などに共通している・マイクのない時代には、この発生方が有効だったからである。

中世には山伏が、いわば自由通行者として各地方に往来できたところから、偽山伏も出たことは前に述べたが、そんな関係で山伏同士が道ですれちがった場合に、問答を交換することが行われた。それぞれの立場と行動に関して、どのような教義をはっきり言う事が出来ることを確かめ合うのであった。山伏姿で落ちのびていった義経一行が、もし途中で本物の山伏に会って問いかけられたとき、各地の山の持つ仏教的な意味、あるいは山伏の礼儀などについて問われたら、このなかのだれがはっきり答えていけるだろうか、という心配が『義経記』には記されている。丁度『勧進帳』で弁慶が語るように、修験道の若干の教義を述べ立てるようになったのである。これを山伏説法といっていい、当時は一般的に知られていたようである。南北朝期の観応三年の『仁平寺本堂供養日記』は、長門の豊浦の山伏が出入りした寺の日記であるが、そこに「延年次第」というくだりがあり、「一番倶舎」として以下順番を挙げて、「十一番狂言 山臥説法人数別紙有之」としている。はじめに引いた謡曲『安宅』の「それ山伏といっぱ……」以下の詞づかいは、こういう際に山伏達が説法に語ったものであろう。この説法の印象がはなはだ特徴的であったところから、室町末期の狂言には、これをふざけた言い回しで、

それ山伏といっぱ貴い人なり
兜巾といっぱ一尺ばかりの布を黒く染めひだをもち額に当つるをもって兜巾といふ
数珠といっぱまことの数珠であればこそ数珠玉を百八つなげて数珠とする

などと、まるで偽山伏がにわかに思いついて行ったと思われるような言い回しを捕らえて、喜んでいた。
山伏祭文 聴衆の前で語る時、信者によく聞こえるように朗々と曲をつけてよんだ説法である。祭文は神道や陰陽道において、神霊に体する捧げ文であって、神祭仏会の宗教的意義がどういうものかを説いたのが本来であろうが、当時はこれを聴聞する信者たちによく聞こえるように朗々と誦するのがつねになっていた。京都太秦の広隆寺の牛祭祭文などは、その主の代表的な物である。『声曲類纂』の歌祭文の項には「祭文は山伏の態なりしを小唄を取り交へて作り、のち三味線に合わせて歌ひけるあり、昔は祭文を読むといふ。今は語るといふ也」と説明している。この芸能者の流れが浪花節語りになったことは前に行った鳥である。

佐々良の説教師

彼等の事を何と読んだらよいかもわからない。仏の教えを広める僧侶の唱導を発端にして、多くの人が語りの芸を行なった。連綿と繋がれた語りの歴史のなかで、語りを芸とする人たちは、盲僧法師、絵解法師、物語僧、熊野比丘尼、放下僧、声聞師、傀儡子、田楽法師、院内、アルキ巫女といったように様々な呼称をもっていたが、呼称の違いはすべて語りの仕方、服装、生まれ、そして語る物語の内容が生んだ違いであった。時代を繋いでいった説教師というのは、こういった語りの人たちの中でも、乞食の姿、流浪人、乞食である。彼らは平安の時代に貴族にもてはやされたアイドルの末裔にみえる。説経を語るもののなかには、蝉丸を祖神として信奉する乞食の集団に属した者も多いのも事実である。

室町時代後期に編纂されたといわれる『尺素往来』には彼等流浪の語り部が「戒律を持せず、剃髪せず、無量の雑具を執付し、数多の僧尼を引率して、その居る所を定むるなく、都邑に遊行す。或いはてんおくに入り、或いは辻堂を占め、妄りに狂語を説いて以て談義と号す」というように、彼ら唱導の徒は、集落から集落へとめぐり歩いて、行くさきざきで神社の縁起を語ったというのである。縁起を語る見返りに、社寺から駄賃をもらったのかもしれない。この時代では説経が乞食の話芸として描かれているようである。人通りがはげしい祭りの日など、神社の境内外や、辻堂などで語られていたことは間違いない。大條和雄は聞き取り調査に基づいて書き上げた『津軽三味線の誕生』の中で主人公であり津軽三味線の元祖となった仁太坊の生業に関してこう書いている。七道を歩く者も同じように人の集る場所へと移動したに違いない。

五日間の馬市に四〇県を越える小屋掛け飲食店が並び、何件かの遊女屋は五日間で平均三千円の売り上げが有る程であった。金廻りのいい馬喰衆は木造で大いに飲み、馬市が終わると弘前で豪遊し、弘前の芸者衆をつれて青森の花柳会へなだれ込み、そこでも派手に豪遊し、さらに弘前と青森の芸者を連れて函館へ乗り込んで遊ぶという、後世に残る話題を作った。この馬市に興行師たちは目をつけ、いろいろの興行を売った。そn先駆者となったのが仁多忙だった。木造の馬市には活気が有った。昨年の大凶作がまるで嘘のようであった。その影には師団景気があったのである。(大條和雄『津軽三味線の誕生』)

彼らは足で稼ぐ放浪者であり、漂泊者である。中には都市の劇場で成功したものもあるが、裏店住いの窮屈な生活で、それも泡沫のように消えて行った。仁太坊も其の一人である。田舎に住むものも安住せず、同じ説教をたよって、大阪のようなとしや遠い地方へ転移することもあった。

江戸時代に刊行された『筠庭雑考』は説経師の特技は「ささら説教」であるということが書かれている。ささらという鳴りものを使いながら語ったということらしい。また、元禄三年に刊行された『人倫訓蒙図彙七』に「門せつきやう」として描く絵は、三人連れで、一人はささら、一人は胡弓、一人は三味線をもつ。「小弓小こきう、伊勢会山より出る。此所の節一風あり。小弓はもとは琉球国よりわたすとかや。小弓に馬の尾を張りて、糸をならすゆへかくいう也。物もらひに程なきとはいへ共、小弓引編木ささら摺りはわきて下品げほんの一属也」と説明までついている。説教は権現堂や天王寺、あるいは都の清水寺でもよいのだが、そういう旅人と乞食の群集する場所で、簓をすりながら「さんせう太夫」などを語るのが本来の姿である。『筠庭雑考』の慶長年中の絵として、簓擦説経の営業の様子が『尾州家本歌舞伎図巻』に描かれている。むしろの上に大きな傘を立て、そのしたで、月代を剃り、羽織をきた男が、立姿で、簓を擦って説教を語っている。そのまわりに男女数人が、あるいは深く首をうなだれ、顔に手をあてて泣きながらききいっている。

説経は、乞食の生業の一つであって、かれらは暮らしのために何でもした。『山椒太夫伝説の研究』酒向伸行で『駿國雑志』巻之七の記事が取り上げられている。

簓村

並説経者の事
簓村は、有渡郡、河の邊村馬淵村にあり。一名説経村と云へり、是両村の小地名なり。是両村に説経と云者あり、里人呼て簓者と云ふ、即説経者也。其始め久しうして詳ならず。中頃より其家業を転じ、操り芝居(略)の座元等をして渡世とす、其首長を玉川廣太夫某といふ。其操は、毎年府中寺町三町目法養山妙像寺(略)境内に於て正月中旬(略)より、三月下旬(略)まで、興業す。もし三春の内、故障あれば、秋に至て興業せり。其修士願書を捧げ、町奉行の免許を得て興業す、故に輿力同心(よ)、爰に来て非常を叫問するを例とせり。(略)今幸に其記録を得て、爰に載す、惜故、説経者の燈心、發燭、附子を売るの謂を詳にせある事を、疑らくは、戦國の時、渡世のために、此業をし始めけるが、遂に家業と成たるにやあらむ。是いはゆる外待仕事なるべし。爰に附木とあるは、何を云か、發火などの事にもや。凡此徒は、此徒同士、女を嫁し、男を遣りて、其黨を全し、數百歳の今に至て、連綿と相続し、説経簓の名を失はず、実に舊(旧)家と尊称して可也。然るを、土俗の芝居俳優を河原ものと云るが如く、簓者と落しめ賤しむるは、何ぞや。是牢舎の事を役とするを以、非人に等く思へるが故にこそ。元より蟬丸社の神人として祭事にもたづさはれば、太夫の號をも免されつらめ、唯神職の身として牢射のことにあづかれると、三絃に合わせて、説経を語ると、家譜に載たるは聞へず。今川家の頃は、未三絃を鳴らさざる時なれば也。(略)

以上の記事により、この駿河の説経村は簓村と称され、玉川広太夫を頭として操り芝居を興業していた。そして、日常や灯心、発燭、附子を売って生業としていたようであり、また、牢舎の役も勤仕していたようである。芸を売るのは生活のごく一部であったにすぎない。江戸時代、近世にはいってからは、伊勢の説教で太神楽や猿廻しをやっているものがある。他の説経でも、畑番のような番人の仕事はよくやり、賤しめられた。貧しかったし、身分上の規制が厳しかったから、好きな仕事を選ぶことが出来なかった。香具屋をやったものもかなりいたらしいが、それはいい方で、死人の取り扱いをしたものも少数ではないようである。(室木弥太郎氏『「せつきゃう」の周辺』)近世の説教には死人の取り扱いという賤業に従う者がいた。田畑や牢屋の番院をやる者もかなり至らし。これも専業と言われた。みな生活のためである。農村に住み永田土地を所有する事ができなかった説教であれば田畑の番人、すなわち鳥追は必然である。説教は「蓋鳥追は長者の田園の採りを追うふばかりの勤にて妻子を養う者ども」(『近代世事談』菊岡沾涼)と描かれている。説経の「さんせう太夫」や謡曲の「鳥追船」は説経法師自身の暮らしぶりを自分で語っているらしい。『三河国吉田領答書』は、説教とささらとをどうるいとしながらも一応区別し、「元来ササラは節季候・鳥追の類を職とし、又流行歌などうたひあるきて物もらひ渡世とし」と鳥追はささらの仕事になっている。節季候とは、季節の節々に祝いの言葉を述べて家々を回る風習であり、芸人のことをさす。江戸中期に書かれた『本朝文鑑』第三巻・鳥追辞の注では、両者の区別はせず、「此の章は正月の祝詞にて、鳥追と云ふ者の農民の門々を云ひありく唱歌なり、其の者は昔説経者と云ひて、逢坂に蝉丸の流れを汲みて、三井の近松院を本寺とせりと。今の佐々羅と云ふものならん」といつている。つまり鳥追は説教あるいはささらと深く結びつくものなのである。
説経の徒が語った物語がどのようなものだったか、後に語りの言葉を記録した正本が刊行される以前のことはよくわかっていない。が、江戸時代に刊行された段本には五説教と言われる有名な説教の語り物が収録されている。「せつきやうかるかや、さんせう太夫、おくり、しんとく丸、あいこの若」である。説教はその名のごとく仏教色が濃厚であり、一種の宗教文学であると思われがちであるが、代表作「かるかや」をみるとそうでもない。「さんせう太夫」の安寿、「しんとく丸」のかけ山長者の乙姫、「小栗判官」のてるての姫等、いずれも強固な石の持ち主で、個性の強烈な女性である。ここには東海道から流行した浄瑠璃物語のヒロインにあやかって物語を変えたのかもわからない。

現在知られている説教は古い者で寛永八年にやっと刊行された。浄瑠璃に比べてずっと遅れている。『東海道名所記』は慶長年間の京都の四条河原について、『三壷聞書』は慶長十九年の金沢について、その芝居の模様を記している。それでわかることは、「浄瑠璃姫の十二段」の他に、「鎌田」「牛王の姫」「阿弥陀の胸割」が盛んに行なわれた事である。(寛永八年版)説教「かるかや」の、母と子が父を訪ねて都から高野へ下るところ、

くろたにをうちたちて、さきをいつくとおといある、とうしのまへをゆきすきて、さきをいつくとおといある、やはたしやう八まんをふしおかみ、さきをいつくとおいそきある、てんわしにおつきある、かめいのみつにさしか々り、ほうかいしゆしやうとかきたむけ、さかひのはまをはやすきて、おうの々しはこれかとよ、なかのたにはやすきて、このみたうけをはやすきて、おいそきあれは程もなく、きのかはにひんせんこうて、むかひにこせはしみつのまち、おいそきあれはほともなく、ふとうさかをはやすきて、かうやさんにきこえつる、大たうのたんにおつきある

浄瑠璃の正本のうちでも最も古い者の一つ、寛永十一年の「はなや」(薩摩太夫正本)から、花や長者の道行をとろう。

ころはやよいのすへなるに、かも川わたれは、夜はほの々と白川や、妻や子共にあわたくち、けふきりはらのこまむかへ、あふさかの、せきのしみつにかけみへて、いまやひくらんもち月の、こまのあしをとき々なる々、大つうちてのはまよりも、しか々らさきをみわたせは、かすみにみゆる一つまつ・・・

掛詞・五七調のテンポはぐっと早くなり、道行が旅の実態から遠のいてくるのは、語りそのものの変貌である。話すように語ることから、歌うように語るような変化がおきた。都会に住みながら、都民に受け入れられる姿に変貌したのである。道行が旅の思いを抒情的に歌う者へと発展するのは、語り物が次第に劇的になって行く過程の一つである。説経は本来都会の芸ではない。説経には権力者にすがることもできないが、それでも都市に出た彼らは自力で直接町人大衆に立ち向かった。説経の語り口は、その内容に対応して独自の悲哀感を帯び、ある時期には大いに人気を得たが、次第に浄瑠璃にとってかわられてしまった。飽きられたのだ。

人形の傀儡師

ヒトガタが歴史を操った歴史は日本建国時代にまで遡る。七二〇年に此の部族を討伐しようと大群が押し寄せ、宇佐八幡神宮がこの戦いの中で重要な役割を演じた。宇佐八幡神宮の中心的な文献である宇佐八幡宮方生縁起が伝えているところによると、隼人は七つの城に籠城したが、城壁の上で宇佐神宮の儀礼呪術師が人形遣を使った人形戯を演じ、其の防御を破ったという。籠城していた隼人は其の縁起に心を奪われ、油断した所を首尾よく打ち取られた。其の文言にはこのように述べられている「神事呪師たちは細男くわしおの舞を演じた。その人形戯があまりに面白かったので、隼人は敵愾心を忘れ、劇を見ようと場外に出て来たのである。隼人はみ皆降伏し、服従を誓わされた」その後海人族は淡路島を忠臣に博多湾から名護屋辺り迄を生活圏とし、漁業や海運業に従事していった。そして一旦緊急の時には天王の水軍として用いられた。彼らの頭領は安曇氏であり,一族が祖神として崇拝していたのが蛭子命である。一方、安曇氏が率いる海人族は、石津浜に上陸したと言われる。石津太神社では、海からびっしょりと濡れて上陸した蛭子命を浦の人たちが百八束の篝火を焚いて乾かした、との伝承がある。この故事に倣って、同社では例年十二月十四日に氏子たちによって「ヤッサイサッサイ祭」の神事が取り行われている。

『古事記』にみられる応神の系譜。応神の母は、瀬戸内海伝説最大のヒロイン神功皇后だが、神功皇后の先祖は天日槍である。天日槍は「新羅の王子」で「帰化人第一号」などということにされている。淡路島には、別名を「朝鮮さま」とよんだ瑠璃姫宮があったということが文政年間の記録にある。応神天皇にしても巨大な応神陵の陪塚(附属古墳)から韓国渡来の有名な透かし堀鞍金具の馬具が出土しています。応神が九州から瀬戸内海を進んできたという応神九州渡来切になっても、淡路は重要なポイントをしめる。吉井貞俊『えびす信仰とその風土』によれば、漁村の和田崎(神戸市)の長者・百太夫がある日、海上を漂っている光るものをみつけ、近寄ってみると十二歳ぐらいの子供であった。その子は「私は古代の蛭児である(『古事記』によると、蛭児は日本を作ったとされる神イザナギ・イザナミの最初の子供で、三歳まで歩けなかったために親に捨てられた)。いまだ住む場所もなく海を漂っているので、海岸近くに仮宮殿を建ててほしい」と頼んだ。そこで建立されたのが西宮神社で、同神社には道薫坊という者がいて、蛭児に仕えて気に入られた。しかし、間もなく道薫坊が死に、海の神に祭り上げられた蛭児神を慰める事ができなくなると、海が荒れ、魚介類も採れなくなった。そこで、百太夫が道薫坊の人形を作って舞わすと豊漁になったため、それ以後、百太夫はこの人形を舞わして全国巡業するようになったという。この百太夫は死後、西宮神社境内の百太夫神社に人形遣いの元祖として祀られている。

こうした縁起は勿論、名も無き芸能の力を社寺が利用するためにでっち上げた物語であるが、自然と人々に寄って受け入れられた。信仰と芸能を結びつける心を生ませ、行事の中に取り込んでいった。吉井貞俊の『えびす信仰とその風土』によれば、江戸時代では京都、江戸、大阪が大量消費都市となり、商業が発達。芸能を鑑賞するという風俗が生まれる。中世的な荘園が崩壊する中で、荘園の領主だった神社の支配から開放された。西宮神社の夷かきの一部は、都市に出て専門の人形遣になったらしい。西宮神社のある淡路では、道薫坊廻百姓という身分を作った。「人形廻しを生業とする農民」の意味で、弘化三年(一八四六)念の棟付帳戸籍簿に出てくる。年貢を納める農民に、芸能者を示す身分名をつけた例はほかにない。道薫坊廻百姓は約四十の人形座を結成し、西日本を中心に全国を興行して回った。中でも有名なのは、百太夫の子孫といわれた上村源之丞一座である。『東海道名所記』には人形を操ったのは西宮の「淡路丞」が描かれている。西宮の傀儡師たちは西宮神社に所属し、同神社の祭神である蛭児えびす(蛭子、恵比寿とも各)をかたどった人形をまわし、蛭子神信仰の功徳を宣伝しながら神社札を売って回るという宗教活動に従事していた。それが夷かきの生活であった。

傀儡師は戎舁とも呼ばれた。当時の宮廷女性が描いた別の日記『御ゆとの々上の日記』にも、エビス廻しと呼ばれた芸能者が時々宮廷へ着たことが示されている。宮廷の日記に表れる戎かきは。、現実には摂津西宮神社(西宮えびす神社)に従属した産所村の神事職能者が徴集されたものだ。エビスは中国からやってきた七福神の一人で、所謂仙人である。脚が不自由で、聴覚障害を持ち、固めで両性具有と大変醜く描かれることがある。また、エビス像の多くがあごひげをつけ日に焼けた顔をしている。こうした外見は海事労働者もしくは異邦人をおもわせる。島根県では、魚や魚網の中から見つかった石は「エビスさん」と呼ばれ、魚師が自宅の神棚に祀る。新潟県の佐渡島では、地元神社の御神体は海から上がった仏像のような形の石であり、これを「エビス」と呼ぶという。日本北岸に沿って、海浜に表れたり海面に浮上した石が御神体だとする霊地の例は、いくらでもあげることができる。『えびす信仰とその風土』クグツが海から幸をもってやってくる恵比寿の信仰と結びついている。弥勒信仰が近代化したものだろう。加賀地方(石川県南部)の河北郡七塚町白尾の住吉神の縁起には

往昔、白尾の漁夫が沖に光る者が見えたので鰯光だと勇躍して出漁、網を下ろしたが掛かるのは石塊のみなので、怒って蹴飛ばし小便を掛けたところ忽ち足腰たたず苦悶しはじめた。神罰に違いないという新家という者が海水で清めて非礼をわび、信託に従って現地に鎮祭した。石塊の大きさを計って神殿を設けたが、石が大きく生長して安置できない。狭い神殿では身がやけてたまらぬという夢告にょり、本殿後方に雨さらしのまま奉安してきたという。

エビスとは、漁民に幸を与える兆しであり、知らせであった。漁民の信仰を土壌として、社寺は恵比寿と恵比須舁を民衆の心に根付かせたのである。

傀儡はカイライシ、クグツマワシ、エビスカキ、クグツなどと呼ばれる。彼等の実際ははっきり言って謎である。クグツと言われる人々が人形を操る芸をしたからクグツと言われたのは間違いない。ただし人形と行っても、人間の形をした木であって、木の形をした人間ではなかっただろう。古くから伝わるとおもわれるクグツの芸能に新潟ののろま人形がある。

「のろま人形」は、のんびりした佐渡方言を使った台詞で、滑稽な内容の芝居を魅せてくれて人気がある。「のろま人形」あすべてのだしものが「木之助、下の長、お花、仏師」の四人の塔所人物で演じられる。このうち、とぼけた役柄で観客を笑わせる「木之助」(木之介、喜之介、喜之助とも書く)が主役で、人形としても、とりわけ際立った特徴を持っている。(略)「木之助」は特に木のコブを思わせるような頭をしていて、出びたいで(おでこが出て)、目と目の間が広く、上を向いた低い鼻と、ヒョットコのような口の持ち主であり、いかにも愚鈍な役柄を示した人形である。(略)面白いのは、終幕に股間から十センチほどの男根を出し、観客に向かって放尿する奇抜な趣向を持っていることである。(『怪異の民俗学3 河童』神野善治「木子としての傀儡子」)

郡司正勝氏は、近松の浄瑠璃「山姥」の登場人物の料理人「喜之介」が下女に「野良松」と呼びかけられていることに注目して、「野呂松人形」の「木之助」と何らかの関係がないかと述べられている。「木之助」とは「木の人形」ということではないか。現在使われている「のろま人形」の台詞の中で、「木之助」は「下の長」に「木の衆や、木の衆や」と呼びかけられていることもヒントになるという。「傀儡」ということばはもちろん漢語だが、それに「くくつ」という訓をあてた最初の例は十世紀始めに成立した漢和辞典の『和名類』である。傀儡の人物像を追いかけても名前の由来も理解しがたければ、生活も理解しがたい。魑魅魍魎のように曖昧模糊としている。滝川政次郎の『遊行女婦・遊女・傀儡』によれば、集団で遊所をつくったという。共同体は年齢順構成で、最もとしよりを長者という。親子、師弟、養女どがおり、擬制的な親子関係をつくっていた。(「宇津谷峠の傀儡」)一二五五年「伊予国神社仏閣等免田注記」には経師・織手・紙工・傀儡子・銅細工・轆轤師・白革造・木工などの人々 楽所のなかに、東舞・納曽利・陵王と並んで曲舞が免田と書かれており、ここで始めて文献に現れる。「傀儡」そのものは、『枕草子』の八十四段に登場する。

とりもたるもの、得意然としているものは、傀儡のこととり

「傀儡のこととり」とは、傀儡回しの長であり、『枕草子』の前後関係から詳細に分析すると、年の初めに貴顕富家を訪れて、人形を回しながら、めでたい寿言を唱え、言霊の幸を予祝する十数人で構成された傀儡集団が想定できる。こうしてみると猿楽師と変わらない。傀儡師の男達は、散所法師と同じように、社寺の警護をしたかもしれないし、貴族のガードマンとして雇われていたかも分からない。平安時代は山賊、海賊、群盗は都大路を横行した時代だった。「この頃都に流行るもの,わうたいかみかみえせかつら しほゆき近江女女冠者 長刀持たぬ尼ぞなき(『梁塵秘抄』)」と歌われた時代である。現代さながら、遊女傀儡の護衛をしたのではないかと想像できる。

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手で操作して舞わす「手クグツ」や「夷かき」の外に、「あやつり」もあった。『看聞御記』一四二一年(応永二八年)「石井念仏拍者今夜有風流。茶記を立。其屋二形 喝食 金打あやつりて金を打舞。」同じく一四三二年(永享四年)「八月七日、自内裏あやつり燈炉一被下。一谷会戦鴨越馬追下風情也。殊勝アヤツリ言語道断驚目畢。」これらは人形遣ではなく、機械仕掛けのからくりだったらしい。こうした操りの芸は現在も存在しており、神野善治は『怪異の民俗学 河童』のなかで「愛知県周辺には、すばらしい山車の祭りが多い。知多半島の半田市内には、三月から五月にかかけて十五の地区で行われる祭礼に、述べ三十一基もの山車が登場する。(略)とくに半田の出しには信州は諏訪の立川一門の作品が多いと聞いており、また、山車の上で演じられるという「傀儡師」のからくり人形を観ておきたかったのである。」と述べている。ここで見られる「船弁慶」「山猫いたち」は江戸時代に一斉を風靡した竹田のカラクリ屋の残した態である。彼等は峠を挟んだこの地域にのこる「木の人」であった。また、『舞台芸能の伝流』の中で植木行宣は熱田祭の大山に特徴的な人形戯について書いている。飛騨の番匠の手業がカラクリに、そして現代では自動車に活きているようである。

江戸時代の記録だが、津島天皇再の場合、三の山で笛・鉦・太鼓の囃しに合わせ「機関」をみせる人形が、鉄砲打・御湯花(湯立)・神子舞・戸隠・猩々など七種あり、それらは交代で出されたとある。そしてたとえば、鉄砲打は狩人姿の人形で鉄砲を打ち、打つたびに生きた鴨を一羽ずつ放す、戸隠は手力雄尊の人形で用意の岩戸を次々に投げ落とすといい、さらにニの山の正面の男女の人形、最上段の蛇についても記している。ちなみに、謡曲には猩々という曲がある。

カラクリの技術は中国にもある。懸傀儡は人形に糸を付けて上から操る。水傀儡は水によるからくりである。北宋時代の首都・開封の繁栄が『東京夢華録』(一一四七年)の巻五には盛り場で演じられた人形劇として杖頭傀儡、懸糸傀儡、薬発傀儡があり、巻七に水傀儡が挙げられている。

「小さな船が一隻あって、上に小さな飾り舞台を作り、其の下に三つの小さな門があって、人形芝居の舞台のような形になっている。其の真向かいの水上の音楽船で参軍色(総指揮者)が祝言を述べて、音楽が奏されると、その飾り舞台の中央のもんが開いて、小さな人形の乗った小舟が現れる。其の小舟には、一人の白衣の人形が釣り糸を垂れており、舳(へさき)には少年の人形がいて、棹をさして舟を漕ぎながら、ぐるぐると数回まわり、口上を述べて音楽が奏されると、活きた魚が一匹釣り上げられる。また音楽が奏されると、小舟は舞台の中に入る。」

果たしてクグツの正体は摑みにくいのであるが、『折口学が読み解く韓国芸能』で 伊藤好英は傀儡子族が朝鮮から渡来した白丁族であると推測している。

三韓には先立って律令制が樹立せられ、重い苦役を恐れ日本に逃避した徒が傀儡子族であるとされている。韓国において、日本の「くぐつ」と呼ばれる団体と同様に、きわめて古い時代から他の村人達とは分離した独自の生活を営み、芸能を持って生活の手段としている団体に「楊水尺・才人・禾尺」などと呼ばれる者がある。彼らは朝鮮時代かに入ってから「白丁」の名称で呼ばれるようになる。『高麗史』(一三八八年)によると、「禾尺と才人は、耕して種撒くことをせず、坐して民の租税を食らい、恒産がないので恒心もなく、谷間にあい集まって住み、倭賊を詐称している」「楊水尺は太祖が百済を攻撃した時に制圧できなかった民の後裔である。元来戸籍も租税の義務もなく、水草を追って移動することのをこととしていた。ただ狩猟と柳行李やなぎごうりを編んで売るのを生業としていた。およそ妓は元来この柳行李を造る工匠の家から出た者である」白丁という語は、本来は白い狩衣を来て宮廷の雑役を行なう男子を指す。一四五四年に編集された『世宗実録』によれば、世宗時代に政策上、才人や禾尺の名称を白丁に改め、彼らに戸籍と土地を与え、一般人と融和させようとしたのである。しかし史料によれば其の後この融和はなかなか進まず、結局白丁は、才人や禾尺たち則ち新白丁のみをさす言葉となった。その後歴史におけるこれらの語の変遷を見るに、才白丁の語は再び「才人」問いうい方に戻っている。ただし、この後世の「才人」単に楊水尺の後裔の芸能者をさすだけではなく、「広大」という語と並び称されて、下級芸能者を広く呼ぶ語に拡大している。之に対して、白丁の語は禾白丁の系統の者をさすのに多く使われて行った。『成宗実録』(一四七二年)刑曹に旨を伝えて言うことには、「諸道諸邑の才人・白丁その他、遊行乞食をする者が群れをなして回りながら演戯をなし、他人の家を窺い、盗みと劫奪きょどつをなし、ごろごろと遊び食らっているので、今後は群れをなして遊行乞食をする者はすべからくこれを禁止するように」と述べたという。(折口学が読み解く韓国芸能 伊藤好英)

事情は日本も同じである。

唱門師放下僧は今は無くなりたれど、前者は今の近畿諸国に多き「シュク」と云ふもの是なるべく、後者は当代に在りては「丸一の神楽」などに当たるべし。別に又「クグツ」と抄する部落あり。自ら踊らずして木偶を舞はすこと傀儡子以来の風邪なりき。此者の特色は一緒に定住せざる点に在り。埃嚢抄には「男は殺生を業とし女は偏に遊女の如し」とあり。散木奇謌集には「クグツ」を「サムカ」ととも云へり。現今はだんだん土着の傾向を示すと雖、関西地方に於て川の岸、堤の上等に小屋を掛け魚を捕りて市に売り、放縦なる生活を為す「サンカ」と云ふ特殊部落は自ら穢多よりは遥かに上等の階級なりと確信し、最早人形を舞はすことは止めたけれどもおそらくは昔の「クグツ」なるべし。(「踊りの今と昔」)

クグツの徒も他の芸能者と共に非人に属する被差別芸能民であった。小林新助が付録的に記録していた、もうひとつの記事に「弾左衛門手下之者」があり、先の分の位置づけをする上で注目される。それは「弾左衛門頼兼」が主張した支配下の者の一覧である。二十九の職種が示されている中に多くの芸能者集団とともに「傀儡師」が含まれ、さらに「人形やと浄瑠璃語りは傀儡師の下に属するもの」とも注記されている点である。(略)この「手下之者」の一覧は、弾左衛門家に秘蔵されていたという古文書を元にしていて、それには「治承四年庚子九月」の年号と頼朝の朱印があるといい、これを支配の何よりの根拠としていたものである。いわゆる「河原巻物」として知られる偽文書の代表的な者である。 「小林新助芝居公事摑」は、京都の市場河原の操り人形師小林信介が寛永五(一六二八)年、房州において人形芝居の興行を行ったのに対して、関八州の長、頭弾左衛門の配下の者が支配権を主張して、芝居をぶちこわしたので、小林新助側が江戸の奉行所に、いわば「興行権」を主張して訴えを興し、結局、勝訴した一見の顛末を細かく記録したものである。