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第四夜:言葉の態/第四話:東海道
説教から浄曲へ
慶長八年(一六〇三年)に徳川家康が江戸の整備を始めるとともに、東海道は関西と関東を結ぶ街道として大きな発展を遂げた。宇田川広重の浮世絵シリーズ『東海道五十三次』のような賑わいをみせる。道を往来する人々の賑わいに乗じて新しい芸能が生まれる。この新しさの一つ目は東海道の道を舞台に書き改めた浄瑠璃姫の物語にあり、二つ目には三味線の音を交えて創作した「節」つまい語り方であった。語り部は昔から変わることなく、道の芸人である。 この語り部こそが江戸の二六五年間、そして現代に居たるまで姿を変えながら庶民の心を映し出す声となった。
元和三年(一六一七年)五月の奥書ある『徳永種久紀行』に、「いとまを乞うて立出て、今こそ渡れ今橋を、年々渡しかへけるや、新橋とやらんを打渡り、都の人のかけつらん、その名ばかりは京橋を、人諸共に打ち渡り、見れば何をも中橋の、狂言踊、浄瑠璃や、木にて作りしでこの坊、糸であやつる面白や」一六六五年の『京雀』には日暮小太夫が京の四条通で操り座を興行していた。大阪では、説教与七郎が操り芝居を興行していることが元禄五年刊行の『諸国遊里好色由来揃』にある。名古屋にも説教操り芝居が工業されていた記録がある。一六六五年京都の日暮小太夫が「コスイ天王、山椒太夫、愛護若、カルカヤ、小栗判官、俊徳丸、松浦長者、いけにえ、小ざらし物語」を出し物にした(『尾陽戯場事始』)。当時の流行作家・江島其磧が享保二年(一七一七)年に書いた浮世草子『世間娘気質』には、若い娘が「出羽座の阿波太夫の愁い節に打ち込み、台本を読んで涙を流し、ちり紙を一日に一束も使った」ということが書かれている。阿波太夫というのは正徳・寛延年刊(一七一一ー一七五〇)の頃流行した説教師、浄瑠璃師、語り部である。人形浄瑠璃がこのように民主の間で大流行した要因の一つに、当時既に出版されていた正本があげられる。抄本とは太夫自身が自分の語る曲調を記した台本のことで、これを忠実になぞる事によって太夫の語り口を自分で再現する事ができたのである。正本が最初に出版されたのは寛永十一年(一六三四)といわれるが万治四年(一六六一)には百五十九種類の浄瑠璃の本の出版が記録されている。
史料にのこされた「ジョウルリ」を遡れば、古いものは安土桃山の頃「しゃうるり」、室町末期「しゃうるり御前物語」、江戸初期「十二段草紙」、近世初頭「上瑠璃」などがあある。それぞれ長さが違えば段の名前も違うし。配列も内容も違う。それでいて浄瑠璃姫物語であることに変わりはない。だがこの時代に不思議と「浄瑠璃」が流行った。流行を引き起すのは、現代であればテレビに出てくる芸能人であるが、当時は道に出てくる芸人であった。
古い説経から新しい説経と新しい浄瑠璃が生まれてくるなんとも入り乱れた過程を小山正は『浄曲の新研究』で述べている。
説教というものは、元法師の中に、本説教しといふものありて、仏法の尊き事どもを詞に綴り、浮世の無情の哀に悲しき昔物語を演じ、善悪員がの報いあることどもを物語に作りて、これに節をつけて哀なるように語りしなり。鉦鼓をならして拍子取り、世の婦女に聞かせて、悪を戒め善を勧めて、菩提心を起さしめんとするなり・・・・三線ありてよりこのかたは三線に合はする故に、鉦鼓を打つよりも少しうき立つやうなれども・・・・」(『独語』)。説経とはやはり説教臭かったのだろう。一八四七年に刊行された『声曲類纂』では「按るに、仏説によるを説経と号し、歌念仏とも名つけて、鉦にも合し・・・」ともいっている。説経は歌うよりか、語ることに主眼があっただろう。一方で、一五二二年の 『宗長手記』には「浄瑠璃を歌わせた」とある。一八三〇年刊行の『嬉遊笑覧』巻六上には「寛政ごろ、本所四つ目の米屋通称米千が語る山伏が伝えた説経節を隣家の盲人が三味線にっ乗るよう工夫し、米千は若太夫を、盲人は京屋五鶴をそれぞれなのって新説経節を奏したと語る」と書かれている。語りが三味線と交わり、新しい説経となるか、新しい浄瑠璃となるか。それはやはり物語の内容と、語り手の使う節が道を分けた。
三味線の音色が、説経の語りを浄瑠璃の歌にしていった。
次郎兵衛が引田淡路掾と共に今日と四条河原町に操芝居を建てて『鎌田正清』『牛王姫』『阿弥陀胸割』などという浄瑠璃を語ったと『東海道名所記』萬治元年にみえている。三味線が語り物と慶長初期に書かれたと言われる『室町殿日記』には永禄天正の記事で「遊女二人を中に置き何心なく三味線を弾きて遊ぶ」とあり、近世民間怪談を集めた一五九六年の『義残後覚』には文禄五年、三味線太鼓に合わせて踊をなす。とかいてあるから、この頃には普及していた。文献状では『上井覚兼(うわいかくけん)日記』(天正三年・一五七五年オ三月二十九日条)に「しやひせん」という文字で登場するのが最も古い。島津義久邸における琉球人のえんそうのきろくである。其の後にhあ「しやみせん」「さみせん」「さひせん」などともかかれた。その後漢字で「須弥山」「沙弥山」「三美線」などの漢字を当てられるようになり、本土への伝来から百年程たった寛文(一六六一から七十三)ころに「三味線」に定着した。澤住検校(色道大鑑)というビワの名手が浄瑠璃の伴奏楽器として三味線をつかったとされている。『色道大鏡』では説経が新しく生まれ変わる様子を次のように書いている。勿論、真実ではなかろう。
瀧野勾当という者へ生けをやつして、是(浄瑠璃十二段)に節をつけたり。其比、五条に次郎兵衛という者ありて、瀧野に是をならひかたりけるに、おなじく洛人熊村小太郎という者、是を聞き習ひ、これをたのしみて、夜毎に洛中をかたりありきけるを、京わらんべ聞て、これよりじやうるりといふ事をしれり。
浄瑠璃の節の新しさが、説経を超えて新しい時代に受け入れられた。一六八〇年生まれの儒学者太宰春台は『独語』で浄瑠璃を淫声や淫楽であるとして、痛烈に避難しているが、そのことが逆に享保期を境にして(説教が退潮する時期に当たる)江戸において、浄瑠璃が熱病のように民衆の間に浸透して行った事情を示している。浄瑠璃に比べて説教については、その曲節がゆるやかで、華やかなところがなく、また題材も善悪因果を語るということから、かなり好意的である。善悪因果の断りだけで説教の性格を律することはできないし、いかにも儒者らしい評価ではあるが、中には傾聴すべき言葉もある。とくに「幸若の舞の詞のごとく、昔より定れる数ありて、いつも古きことのみを語りて今の世の新しきことを作らず」という箇所や、説教の本質を「哀れみて傷るという声なり」と指摘しているのは注目したい。
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浄瑠璃を産み落とし消えて行った説経は、遡れば曲舞の一派である幸若の舞曲にいきつく。説教浄るり「かるかや」の板本の刊本には、表題に「せつきやうかるかや」とあり、奥書に「寛永八年卯月吉日、じやうるりや喜右衛門」とある。 説経、唱導、教化、といった語りを表す言葉に新しく浄瑠璃が加わったのだ。今日現存競る正本黙視は正本と見るべき浄瑠璃の最も古いものに寛永二年正月刊の『たかたち』がある。これらの浄瑠璃が舞曲及び御伽草子から如何に御絵を被っていること多いかは大体用意に想像のできることであるが、先ず舞曲から題材を取り若しくは詞章其の儘をかりたものが「高館」「和泉が城」「村松」「八島」「小袖曽我」「侍賢門平氏合戦」「清重」「夜討曾我」「かまだ」の九種である。浄瑠璃の曲目は舞曲からも御伽草子からもとられた。御伽草子を改作したもの「ゆみづき」「むらまつ」「梵天国」「秀衡入」「こあつもり」「ふせや物語」「清水物語」「梵天国」と多様である。以上のごとく、寛永正保ころの古浄瑠璃は、幸若舞曲と形式上の差別がほとんどない。(若月保治『古浄瑠璃の新研究』)慶長以前創始時代の浄曲で、最も多く文献に出てくるのは「浄るり姫物語」であるが、他の阿弥陀胸経、牛王姫、梵天国など、浄曲として語られたものの多くも幸若の舞の本から転じた。浄瑠璃という新しい曲のために書かれたのは「鎌田正清」であり、阿弥陀胸経、牛王姫、梵天国などの舞曲と共に新興の浄曲に転化される橋渡しとなった。「阿弥陀の胸経」は慶長の末に他の古曲とともに宮中や加賀の国前田候の城下金沢でも演じており、寛永の頃、淡路象次郎衛門が「鎌田正清」次いで、牛王姫やこの曲を「あやつり」に合わせたとあるから、創始期においては相当広く行われていたものである。牛王姫も前節と同じく、従来の舞の詞などをそのまま語っていたものと異なり、新作ものである。梵天国は創始期の浄るりにおいては阿弥陀の胸割や牛王姫よりも有名であったと思われる。種彦の「還魂紙料」に「昔の浄瑠璃に梵天国と題するあり。(略)元禄の頃までも、虎屋永閑、天満八太夫なんど浄瑠璃の祝言には必ず此梵天国を語りけるとぞ」ここにもかしこにも唱門師の影がゆらめく。
浄曲の大ヒット曲「十二段草子」が生まれて来た土壌も歴史に培われていた。「猿轡」という能の書に、浄瑠璃流行の物語が書かれている。大要はこうである。浄瑠璃は文安年中に宇田匂富という座頭が京の因播堂の薬師如来に祈祷して、その霊験により『平家物語』の十二巻に倣い、且つ又薬師如来の十二神将に因んで『やすだ物語』というものを十二段にしたてて語ったのが始めであると書かれている。『浄瑠璃姫物語』も『やすだ物語』も、共に東方浄瑠璃国土の教主たる薬師如来の進行に基づいた作品である。而して我が国においては、古くから行われた進行としては未来を救う阿弥陀仏、地蔵菩薩の信仰と相対して、現世に利益を示す薬師如来の信仰が並んであった。自然この薬師の縁起や利益奇跡を主題とした説教的文章が中世において色々と作られたものと思うが、浄瑠璃世界の教主の信仰にちなんでそれを浄瑠璃物語、略して浄瑠璃とも言ったのではなかろうか。 関山和夫は『仏教芸能』で「浄瑠璃というのは、もともと仏教語であり、浄瑠璃の「浄」は浄土の浄、「瑠璃」は瑠璃色の瑠璃で、仏教の七宝の一つで紫青い炉の宝玉をいう。また薬師如来のいる所という意味を持ちます。薬師信仰を語る唱導から芸能が発生」したというが、これが正直な話だろう。『十二段草子』は全くの創作ではない。その背景には綿々と語り継がれてきた舞曲『烏帽子折』が最も大きな関係をもっている『烏帽子折』 の中に収められた玉依の姫野伝説を借りて、姫を浄瑠璃姫となし、山路を義経に取り替えて、構想を改善すれば、直ちに『十二段草子』ができると見ることも無理ではないからである。 古い説経と新しい説経と浄曲は詞章の新しさと三味線の新しさ、節回しの新しさに加えて人形遣と共に口演のも新しかった。元禄五年(一六九二)刊の『諸国遊里好色由来揃』の「説経之出所」には次のような記事がある。
もとは門ぜつきやうとて、伊勢乞食ささらすりていひさまよひしを、大坂与七郎はじめてあやつりにしたりしより、世にひろまりてもてあそびぬ
浄瑠璃が操に結びついた記録は慶長十九年(一六一四)に初めて見る。このときの浄瑠璃は「阿弥陀胸割」で、「時慶卿記」九月二十一日の条では、「夷舁ノ類ノ者」が推参し、お庭に緞子幕等を引き回して、とあるから、従来のと違って規模が大きく、派手であったらしい。語り物の近世化といっても、要するに地方的なものの都市化ということであって、その中で東街道筋が最も有利にのびる事ができた。都に近いという事もあるが、その方面に永年の蓄積のあったせいであろう。宿駅と遊女のにぎわいが象徴的である。
しからばその人形劇の創立者は誰であったかというに、それは三味線を浄瑠璃に合わせたと澤住検校の門人目貫屋長三郎というものであった。長三郎は京都東洞院の住人であったというが、その名乗りによって水素奥するに、おそらくは元はかたなの目貫屋であったろうう。然るににこれがその家業をよそにして、浄瑠璃の発展のために尽くしたということは、やがて浄瑠璃がいよいよ従来の琵琶法師や座頭のてから新時代の新天才のてへ移ったことを示すもので、注目すべき現象である。長三郎は従来語られている『十二段草子』のほかに『都めぐり』という一編を新作して、西宮の傀儡し引田某を語らい、これらの浄瑠璃に合わせて人形を使うことを工夫して成功したと書いている。
新しく生まれて来た浄曲であるが、古い説経との境目は曖昧である。説経から浄曲へと人々の関心が移り変わる様子は何ともわかりにくい。説経や幸若の舞曲と浄瑠璃を分けることの意義が問われる。新しい浄瑠璃とそれ以前の説経、はたまた室町時代の御伽草子との関係はなかなか掴みにくい。「思ふに浄るりとはもと薬師仏の本地をかたり後に牛若の事は作り出たる物ならむ。説経より浄るり起こりたる事は疑なし。」(『説経節の世界 千秋万ざいのエレジー 』)『橘窓自語』にも「上るりと云ものは説経より出しものなるべしと云り。余思ふにさばかりにも非ず。浄るりは平家をも取しものなり。後の説経はまた浄るりをとれるか」と述べられているように、説経から浄曲が分化したことは間違いないようだ。道で語られ、ある者が都会をにぎわせてから説経、物語の名前が『浄瑠璃』になったに違いないが、その区別は難しいようだ。『古浄瑠璃正本集 第一巻』で編集者の横山重は次のように書いている。
始め私どもは、神道集に直接関係のある物語類を集め、ついで一般の本地物語類を集めた。そして絵巻・なら絵本・そうしの類を一冊に収め、説教・個浄瑠璃の類を一冊に収めたいと考えた。しかし、集めてみると、だんだんにその数が多くなって、到底所定の冊数に収めることができないほどの量に達した。のみならず「本地物語集」と限定して編集する時は、本地物と然らざるものとの限界を決定することが、思いの外に困難であることを知った。又、本地物語の中には、まだ見ることのできないものもあり、厳重な意味で行って、本地物語の題名の下にまとめることは当分は不可能であると思われた。それゆえ、やむを得ず私どもは、別案を立てた。そして、更に間口を広げて、これらを三つの行書に分けて編纂することにした。すなはち、一を室町時代物語集とし、一を説経節正本集とし、一を古浄瑠璃正本集として、順次に、まとめて行くような方針にしたのである。
その続きの第七巻を見ると、分類の作業が困難を極めた様子がわかる。語り物は語り手によって数限りない演出、編集を加えられている。
一、「古浄瑠璃正本集」第六の例言で、「これで本集は完結したものとする」と言ったのであるが、古浄瑠璃の海は広く、期間の六冊に翻刻しきれなかった作品、その後新たに発見された作品の数は相当のものである。その中からまだ判刻されていない、価値ある作品を選び、読者の便をも考えて、若干の索引を付することとし、第二期の刊行を計画した。すなわち第七から第十までの四冊である。
一、古浄瑠璃の中から狭義の金平物を分離し「金平浄瑠正本集」三冊を刊行したが、そのあと鳥居フミ子氏によって「土佐浄瑠璃正本集」三冊が刊行された。次は当然山本角太夫や宇治加賀掾らの分野にも及ばねばならぬ。
一六九四年『増補江戸咄』の 巻六「匁かなたこなたを見れば、江戸大ざつま土佐の太夫、和泉太夫が上るり、天満八太夫、江戸孫四郎、江戸半太夫がせつきやう、鶴屋の源田郎が、なんきんあやつりと、口々によびたて、初段より御見物候へとて、袖をひき、たもとにすがりとどむれば、」とある。浄瑠璃と並んで説教操りが人気をえていたが、享保を境に姿を消して行った。『江戸節根元集』には、延享年中、説教操りは田舎祭礼に演じられるようになり、もはや「古風成物也」としてしか老人の記憶に残されていない事実をものがたっている。宝暦(一七五一年)の頃『風俗陀羅尼』「いたはしや浮世のすみに天満ぶし」とまでいわれるようになった。天満とは、操り師の天満八太夫のことである。 説教がにんきをなくしたりゆうは、題材、曲節がいかにも古めかしく、新しい時代の気運に即応できなかったからである。上方と江戸には、説教に変わって浄瑠璃が流行し、上方では、江戸では、などのゆうめいな太夫が相次いで活躍し、説教を圧倒してしまった。(『さんせう太夫考ー中世の説教語り』岩崎武夫)
新作を次々と持ち得た浄瑠璃に比して、説経節には限られた曲目しかなかった。民衆のエネルギーをなくした、学問的才能も低く、しかも打算的に世を渡ろうとする説教師にとって、新しい曲目を捜索しうる能力は望むべくもなかった。やがて元禄時代を迎え、近松が、西鶴が出現する。説教節の束の間の蜜月の時は終わる。享保三年、佐渡七太夫豊孝が、次のような序を持った六冊の正本を出版し、皮肉なことに、これら六冊の正本の出版が三都における新作正本の最後になってしまった。(説経節の世界 千秋万ざいのエレジー )
説経の一曲は、家の奥旨をうしたり、されは、世に流を競まなふ人、多しといへとも、其正せうとすべき無なきに依て、今文字章句を改め、書誌に伝て、梓あづさに寿ちりばめて、是を弘ひろむるものならし。
近松門左衛門と義太夫
近松門左衛門の作は浄瑠璃集や歌舞伎狂言集にまとめられている。古浄瑠璃のように「あわれなり」といわないで、理詰めで哀れを催させるという。「コトバ」「地」「地色」しかなかった節付けを登場人物の気持ち、正確、心理、環境を表現し出す。
浄瑠璃は名もなき道の芸人が独自の語り口で物語を聞かせる芸でした。だから語り手によってこの語り口は説教節とか、金平節とか、一中節、表具屋節、播磨屋節などといわれて、別々の流派であった。是を圧倒して人気を得たのが宇治加賀掾であったが、その後新しく起こった義太夫節に淘汰される。これ以降の浄瑠璃と区別してそれ以前の浄瑠璃を古浄瑠璃という。貞享二年、竹本義太夫が京都から大阪に下って竹本座主となって、いよいよ天下に旗揚げしようとした時に、承応二年(一六五三年)生まれの近松門左衛門はその演技を祝って「出世景清」を書いたが、この作も幸若舞の「景清」を素材にしている。初演は大阪竹本座による貞享二年(一六八五年)である。時代を経るにつれ、三味線も人形も語りも詞章も変化した。辰松八郎兵衛は、当時一人使いだった人形を、幕下で操作せずに見物の前で操作してみせた。ここに太夫、三味線、人形遣の芸が競い合い白熱する人形浄瑠璃が成立する。操り劇に慣れてくる観客にも新しいものをみせる工夫をしてきた。かの有名な人形遣吉田文三郎は『倒冠雑誌』宝暦九年で次のように書かれている。
昔よりは見物も上手になりて、なかなか常ていの事にては合点せず。目・口・眉・指先の動く人形までを揃え、当世の世話を心がけ、はやることを人形に移して、一事もるることなし。これ大方あらましは文三郎に始まりぬ。
義太夫の門下である竹本釆女が独立して豊竹座をつくったのが元禄十六年(一七〇三年)。一度潰れたが。竹本座の人形役者を引き抜き、座付きの作者として寛文三年(一六六三年)生まれの紀海音を迎えた。黄金期は竹本・豊竹と東西に別れて贔屓をなし、其の繁昌はなはだし、と『浄瑠璃譜』に記されている。およそ延享・寛延期(一七四四から一七五〇)のころ。『竹豊故事』「西か東か、一座ばかりにては、欺く繁昌せまじ」と指摘された通りである。東西を分けていたが、どちらも義太夫節であり、義太夫節の天下であった。明和・安永・天明期は、外記座の流れを汲む薩摩座と説教の流れを継ぐ結城座が興行して、一種の気勢が上がった時代だった。竹豊両座の退転の後には、幾多の群小の座の興亡があった。そのうちの一座に、今日の文楽座の源流の文楽軒の芝居もあった。しかし、明和二年には元禄十六以来来六〇余年続いた豊竹座が退転し、明和四年には貞享二年竹本義太夫が竹本座を創始してから八〇年あまりに年にして小屋を歌舞伎に譲った。それから先、語り手たちは芝居小屋の外に舞台をみつけることになる。
歌浄瑠璃は、人形に合わせて語られる操り芝居の舞台用のものでなくて、お座敷用であり、また酒宴の席に今日を添えるために演奏される目的で作られたものもあるゆえ、また肴浄瑠璃の名称さえもある。その詞章は短編で、叙情的、叙景的のものが多く、曲風は語るというよりは謡う方に傾いたもので、詞章の文学的価値よりは、演奏される御が首を重んじたものである。現在では、河東・一中・新内などの諸流派がその主要なものである。新内節は座敷浄瑠璃としての道を本旨としたために、拍子本位の常磐津節のように踊る事はできない。吉原をはじめ、宿場、岡場所の各方面で芸者になった。劇場出勤の道を塞がれた鶴賀若狭掾は、明和期にはいって、座敷浄瑠璃に専念せざるを得ず、 は宮古路・富士松時代の語り物を用いる他に、新たに当時世間のトピック、主として心中沙汰に材をとった。そしてそのほとんどに、遊所の暗い裏面を某ろ紙て、岩場錦の裏を描き、封券制度或は搾取階級に泣く人々に見方して、一種のレジスタンスをにおわせながら、恋に準じた若い恵まれない男女の物語を新作し、これを踊りの間拍子にとらわれることなく自由に語り、ことに主眼とするクドキ地では、旧来の豊後節のそれを、更に煽情的な曲折としたので、題材の興味と曲折の面で、大いに共感を覚えた庶民階級の指示を受けるようになった。これが今にも伝わる新内流しとなる。
浄瑠璃の語り部にとって、言葉の技能、物語を作る能力には専門であり、踊りと滑稽を旨とした歌舞伎役者は。そこで歌舞伎の芸人たちは語り物の台本を芝居に持ち込んだ。それだけでなく、寛延に続く宝暦年間は、 回り舞台、がんどう返し、迫せり上げ、迫セリ下げ等が、鬼才並木正三によって次々に工夫され、ここに舞台上の不自由さは一度に解決し、歌舞伎は操りの数々の名作をそのまま生きた俳優を舞台に上がらせて上演できたのである。「浄瑠璃譜」の「源平布引滝」についての記述を見ると、実盛を演じた吉田ふみ三郎の人形を、「人の如く見ゆる」と褒めた次に、吉田才次の演ずる義賢の人形に関して、こんなことが載っている。
二段目にて義賢の人形に、舞台にて鳥帽子・素襖を着せる趣向、これは昔沢村宗十郎が油斗の伊勢新九郎の仕打ちを写されたれど、歌舞伎にてはその人一人、操りにては大勢がかあり、黒きてを胃出す故、はなはだ見にくし。
これが当時としても、偽りのない批評であろう。生命がなく小さい人形の方が、生きた人間の場合よりもはるかに演出が自由であり、また彼んでもある。この点を活用して、操り芝居は歌舞伎を抑えていたのであったが、世話ってきな美容で切実な演技ということになると、どうしても人間の演ずる魅力にかなわない。『浄瑠璃史』では黒木勘蔵が次のように述べている。
けれども、あれだけ完成しており人気のあった操り劇が、俄かにきえさるようなことはなかった。津々浦々で人形劇は円座られていた。(略)蓋し人形芝居は、人形なるがゆえに飲み持っている演出の自由さや、太夫・三味線の音楽的効果を生かして、夢幻的浪漫的乃至は神秘的傾向に進むべきであって、徒らに現実的写実的方向に胃走るべきではなかったのであろう。