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第五夜:常民の欲望/第一話:鬱憤ハラシ
今の若者は知らない、景気のよかった時代があった。商店街の元気がよかった時代を若者達は知らない。「二〇年前は駅前にたくさん人がいましたよ」と語ってくれたのは高岡に住む五〇代の男性だ。青森の駅前は一〇年前にはなかった建物が建ったけれども、商店街のお客さんは少なくなった。地方の巨大ショッピングセンターという劇場が人々を魅了している。私もコーヒーを飲みに行く。そう考えると、日常の世界を超えたいというオモイは人間の本能だとおもえる。私の家にはテレビがないが、ふとテレビの中のアイドル達を思い出す。彼らも彼女らももう何百年も舞台の上で踊り続けている。人々は飽きもせずに歓声を送っている。
現代の若者も、娯楽が多すぎて飽きてきたころだろうか。欲望は満たされ続ける便利な世界でも人は不満を感じる。経済も科学も変わったが、人間は相も変わらず飽き足りない。その点、動物と対して変わらない。思考とは人間の病であって、動物からは「不器用に生きているなぁ」と思われているかもしれない。とすれば、もっと動物のように本能のままに生きるのが正しいのだろうか。本能には悪も正義もない。ただ、遺伝子がそうさせるように、踊り狂うだけである。俳優は「ありのままの自分」を教えてくれる鏡なのだろうか。世界は今日も、あまりにも正常に、あるがままに廻りつづけている。
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カルトというのは外道ということで、よそ者が別の集団を批判するのに使う言葉である。堀一郎は『日本のシャーマニズム』で人が宗教組織に取り入れられる仕組みを次のように説明している。
宗教は個人、集団が価値体系にもとづく人間関係、社会制度のもつ平衡関係の破綻によって脅威にさらされ、それが現実の政治、経済、倫理などの規制によっては処理できないような緊張や不安の場に置かれているとき、儀礼、食材、懺悔、隠遁、瞑想といぅたいろいろの宗教的メカニズムによって、これを処理しようとする役割を担っている緊張と不安は個人を一揆や革命運動にはしらせ、また自殺をふくむ逃避に駆り立てるが、社会はそれ自身逃避することはできないから、社会全体が崩壊するか、新しい適応を通して、大きく揺れ動きながら生き延びようとする。
このユレをつくり出す最初の一手間は唯一人の人間によってなされる。その周辺の人々が言葉に寄って、振る舞いによって、その人を信じれば、集団になって社会に表舞台に現れる。例えば中国ではそれが革命運動として現れた。天理教の乱(一八一三)、太平天国の乱(一八五一ー六五)、義和拳団匪(一八九九)などがそれである。カリスマ的人物が、やはり存在するのである。
奈良時代の右大臣吉備真備に『私教類聚』(『政治要略』所収)という日本最古かといわれる家訓がある。残念なことにその全文が残っているわけではないが、残存した部分に次のような記述が見られる。それは「詐巫を用いるなかれ」という巫覡にかかわるものである。
右詐巫の徒は里人の用ゐる所のみ也。真の不撃破、官の知るところにして、神験分明、あへて謂ふ所にあらざるもの也。但し子孫汝等好みて詐巫を用ゐる。具に巫言を聞く、何ぞ費此れにしかんや。又生老病死は、理の然らしむる所、天下の含生、何者か死なざる。詐巫の邪道にしてあに更に生を得んや。何となれば巫の子孫、何ぞ夭折せんや、巫の家道、何ぞ貧窮に至らんや。いまだ我が身を得ずして、何ぞ他の願を与えんや。よろしく此の意を知り詐巫を用ゐることなかれ 。
民衆を従えるカリスマ性をもつ人物は、国家にとっては甚だ迷惑である。そこで考え出されたのが僧尼令である。国が仏教の僧尼を統制するための法令で、養老四年(七五七)に施行された、養老律令の編目の一つである。僧尼令は、僧尼が国家や社会を混乱させ、あるいは仏教の戒律を犯した場合に、国家としてこれをいかに罰するかを定めた法律である。僧尼令にいう、「凡僧尼、有禅行修道、意楽寂静、不交於俗、欲求山居服餌者、綱連署。……山居所隷国郡、毎知在山。不得別向他処」と。つまり山林修行は三綱(僧正・僧都・律師)の管理下におかれてり、山を自由に移動することも許されていなかった。それは里で乞食することが同じように監視されていたのと一対をなす。
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『類聚三代格』宝亀一一年(七八〇)「このごろ無知な百姓が巫覡にたよりやたらに淫祠を崇めている」大同二年(八〇七)九月二八の太政官符「まさに両京の巫覡の活動を禁止すること」にあるように、「好んで禍福を託宣すると愚民たちがそれを信じるので淫祠が増える、又呪ないも多くなり、それが積もって民俗と化している」というような状況が生じていた。『続日本紀』養老元年(七一七)四月二十三日条。街衢に零畳りて妄りに罪福を説き、朋党を合せ構へ、指臂を焚き剥ぎ、歴門に仮説きて強ひて余物を乞い、許りて聖道と称し百姓を妖惑す」と記録されている。
古代の流行神として有名なのは常世神の信仰である。大化の改新の前年にあたる皇極三年(六四四)、藤川沿岸地域で、幸福を将来する虫が常世神として大いにもてはやされたこのことを『日本書紀』は次のように伝えている。
秋七月に、東国の不尽河の辺の人大生部多」、虫祭ることを村里の人に勧めて曰はく、「此は常世の神なり。此の神を祭る者は、富と寿とを致す」という。覡等、遂に許きて、神語に託せて曰はく、「常世の神を祀らば、貧しき人は富を致し、置いたる人は還りて少ゆ」といふ。是に由りて、加勧めて、民の家の財宝を捨てしめ、酒を陳ね、菜・六獣を路の側に陳ねて、呼はしめてはく、「新富入来れり」といふ。宮古雛の人、常世の虫をとりて、清座に沖て、歌ひ舞ひて、福を求めて珍財を棄捨つ。都て益す所なくして、損り費ゆること極て甚だし。
かくして秦造河勝が大生部多を退治し、巫覡等も弾圧を恐れ祭祀をやめたので、ようやく常世神の熱狂的なカルト(流行神信仰)は止んだ。「民の惑はさるるを悪みて」と討伐の理由が書かれているが、その真の理由は日常的生産活動の中断にあったと見るべきであろう。支配者に取っての脅威は、地方・中央を問わず、財を捨て、歌舞に明け暮れる、人々の鬱積したエネルギーであった。
『外記日記』天慶八年(九四五)二十八日の条にも、次のような「石清水護国寺三綱等の言上」が収録されている。すなわち
近日京洛の間に訛言ありて東西の国より諸神、京に入るといいののしるものあり、あるいは志多羅神は神輿三基、二十五日に河辺郡の方から、数百人が三輿をかつぎ、幣を振り鼓を打って歌舞羅列して当郡に到着した。道俗男女、貴賤老少、会集して市をなし、歌舞すること山を動かす、とあり、翌二十六日、歌舞捧幣して島下郡に向かって進発し、二十八日には再び河辺郡児屋寺に担送してきた。そして八月一日には三基だった神輿は六基に増え、三基の神輿の一基に文江自在天神とあったのが、いつしか宇佐宮八幡大菩薩の社となり、山崎郷から石清水へと移座してきた。幣帛を捧げて歌遊して前後を囲繞するもの数千万人、石清水八幡の三綱たちが驚いてそのなかの首領や刀禰らに問うに、七月二十九日ににわかに摂津島上郡から移ってきて、ある女性に託宣があって、「我にはやく石清水宮へ参らん」とあったので、郷々の上下貴賤、催さずして集まり、ここに移座せしめ奉った。
現代でも人々のエネルギーのはけ口として宗教は利用されている。しかも黒住教、天理教、金光教、大本、ひとのみち、霊友会、世界救世教、立正佼成会、璽宇教、天昭皇大神宮教(踊る宗教)の教祖的人格の形成過程は、巫女が神に取り憑かれて口寄せする如く、シャーマニスティックなものであることは認めざるを得ない。(『日本のシャーマニズム』堀一郎)
荒野の念仏
空也は手に鉦鼓と鹿の角、口には念仏を唱えている。諸国を歩き続けた遊行の聖である。『空也上人絵詞伝』には、上人が僧正寺に帰る途で一人の平定盛が鹿の角皮を手にしたので問いかけると、空也が山の中で声を聞いていたその鹿だったそうである。空也は定盛の殺生を誡め、涙ながらに回向して、その角皮を乞い取ったとあり、定盛は深く悔恨して、出家入道を願ったが、上人は「妻子を捨るれば慈悲の殺生なり、妻子ありながら有髪して衣を著し、教にまかせ身をすてて念仏修行せよ」とて十念を授け、一瓢を与えて、和讃称名・念仏修行を行わせた、とある。『日本往生極楽記』では「沙門空也は(略)口に常に阿弥陀仏を唱ふ。故に世に阿弥陀聖と号ずく。或いは市中に住しで仏事を作し、また市聖と号ずく。険しき路に遇いては即ちこれを釣り、橋なき当りてまたこれを造り、井なきを見るときはこれを掘る。号づけて阿弥陀の井と言う。」また、念仏に節をつけて歌う念仏三昧をとなえたとある。空也は少壮のころ、優婆塞として「五畿七道を歴めぐり、名山霊窟に遊」んだらしい。優婆塞とは厳密には出家前の修行者で僧とは言えないが、その浄行者は呪験力があると見られ、持呪救疾に民衆から期待がよせられていた。空也は市中教化の時代でも、井戸を掘って市民に利便を与え「阿弥陀井」とよばれる井戸が所々にあることから、彼は優婆塞時代から土木技術を習得していたと見られる。 源為憲の『空也誄』によると、彼の旅は当時の飢餓と戦で荒れ果てた人々の怨霊と共にあった。
荒れ野に遺棄された死骸を見れば、一箇所に集めて油を濯いで火葬にし、「波阿弥陀仏」の名号を唱えながら死者を弔った。名もなき優婆塞時代の宗教実践で、見落とせないのは火葬を行ったとの所伝である。『誄』は「広野、古原に、委骸のあるごとに、これを一処に堆くし、油を灌ぎて焼き、阿弥陀仏の名を唱ふ」」火葬と優婆塞・沙弥との関係は、空也以前に遡り、行基とそのとにたどりいつく。古く広野、墓原には遺棄された死骸があった。『六道絵』『餓鬼草紙』さながらに、鳥獣の飼となり、腐臭が鼻を突く、おぞましい光景が見られた。庶民の遺体の扱いは粗略であった。(略)このような時代に、空也は巡遊の途上、山野古原にうちすてられたままの屍体をみるたびに、これを集めて火葬に付し、阿弥陀仏の名を唱え死者を回向えこうした。そのときに阿弥陀仏の名が唱えられ、この葬法に死霊を沈める宗教儀礼が付与されたのである。先頭殺戮が盛んで人が亡霊の祟を恐れていた時代には、鉦を打ち念仏をする者に其始末を依頼するのは便法であったから、従って聖が村里に歓迎せられた理由の一つは此れであったに違いないが、それがしたさに放浪したのではあるまい。近世の記録には「此輩定まれる資縁無ければ笈を負ひて諸国に托鉢し、無縁の死骨を広ひ当山奥院に(巳)向す」とある(祠曹雑識四十五)、此方が正確であろう。
火葬するというのは当時の風俗ではなく、人々は空也が悪霊を送る様子が不思議に映った。また一方で、空也は念仏はを唱えていた。だが現在のような静的な念仏ではなく、どうやら呪的な狂躁状態で唱えられたのではないかと井上光貞は述べている。空也伝にみえる、金人が経論の難義を教えたという伝説や、湯島における断食・焼身、念仏によって盗賊を退けたこと、神泉苑の老狐との出会い、蛙っを飲んだ蛇を折伏しゃくぶくしたことなどの奇瑞霊験譚と、空也が金鼓・錫杖を持ち、法螺を吹いて念仏勧進をしたという伝記と、後に空也念仏として展開した踊り念仏とから推測されるものである。彼が持ち歩いたか、広めたと思われる呪具の一つに瓢簞がある。瓢簞は「古くは『和名抄』に「比佐古」とあり、本来は清音で「ひさこ」といわれ、杓子や柄杓はひさごがなまった言葉とされる。瓢簞は縦に切れば水汲み用の杓子や柄杓となり、横に切れば碗となったので、縄文時代前期の福井県鳥浜遺跡からすでに出土しており、原始の頃から重要な生活用具であった。『日本書紀』の仁徳紀にんとくきには、瓢は水神を鎮める呪具として登場しており、この水神を鎮める瓢簞の霊力は水神の化身とされる蛇や河童を瓢簞と針で退治する異類婚姻譚として伝承された。 瓢箪は霊魂の容器。叩く行為は鎮魂の呪術。水神や火の神を鎮める呪具。空也は「水の流れから生まれた化現の人」であり、水神を鎮める験力をもつ行人。空也の瓢箪は後世まで語り継がれ狂言「鉢叩」「瓢の神勤人」にも登場している。
時代は新しくなり、法華経ではなく念仏ではあるが、呪文を唱える意義を理解するために『鈴木大拙全集第八巻』「日本的霊性」の一文を引用したい。ここには念仏が身体の力を引き出す呪文となることを述べている。鈴木の引いている『ねぐさり』という本は、伊勢の一身田の村田静照和上という近代の大念仏者の言行の一部を記したものであるという。
『ねぐさり』の記者は、村田静照和上の「盛んな頃は中々厳格で、恰も禅宗の修道的であったらしく、其の冬至に御縁に遇うた方は、今も尚其の気分が窺はれます」(『ねぐさり』七九頁)と云って居る。また和上は「念仏するときは下腹に力を入れて姿勢を正して……」(道場 一四一頁)と教へられたこともあったやうである。固よりこれで村田和上の念仏の全貌を窺ふわけにはいかないが、その一角がほの見えるやうにも感じられる。或る茶の宗匠が「お茶も矢張りの胴座り」と云って居ると云ふことをきいて、村田和上は左の如く云った。
「南無阿弥陀仏。御法義も弘まる事は不思議でも何でもない。御阿弥陀様の不思議の法ぢから―。御法義の弘まる事よりも胴の坐りの御念仏……南無阿弥陀仏」(道場、頁四〇二)
越中から出て来た十九歳の少女の話であるが、その少女が内宮(ないぐう)の裏山の森の中で、暴風雨の一夜をすごしたとき、野獣の群に襲はれた。少女は怖さのあまりに声の限り念仏を唱へた。その声がよわると獣共が寄りつかんとする気合が見えるので、一生懸命、念仏をつづけて一夜をあかし、遂に彼等の襲撃を脱れたと云ふのである(頁一一)
これは言葉の不思議又はその忌みの神秘性によるよりも、其の人のそのときの態度全面から溢れ出る一種の霊気なるものに、相手が打たれるのであらう。動物などはそんな気分を本能的に読み取るのである。剣術者などのよく云ふ、相手にすきがないと云ふことになるのであらう。
念仏が日常的な身体と結びつく時に現れる仏への道が、聖によって民衆に開かれたのであった。
情念の念仏
一人は一切人なり 一切人は一人なり
一行は一切行なり 一切行は一行なり
この文句は、良忍という僧侶が始めた融通念仏と呼ばれる念仏の理念である。『声明源流記』によれば、名帳に自分の分に応じた日課念仏の遍数と名前を記入すると、どこでうたった一人の念仏も、 他人も含めた念仏の合唱とみなされて莫大な功徳をうけるという。これが融通念仏である。僧侶の修行の中で念仏には観想念仏と称名念仏の二つがあったが、良忍は心のうちで仏の姿を想像しながら名を呼ぶ「観想念仏」でなく、現実に信者の一人一人が自分の体と声を使って行なう「称名念仏」を心のよりどころにしようというものであった。仏道の門徒たちが「南無阿弥陀仏」の六字に、うつくしい抑揚・高低の曲譜をつけて、繰り返し繰り返し詠唱される声の響きや感動の中で、自分の念仏は他人の念仏となり、他人の念仏は自分の念仏となってゆく「体験」をすることが、声明念仏の肝心な目的だった。念仏を通じて宗教的な快楽の境地に達することを意味していた。その象徴ともいうべき事件が一二〇七年(承元元年)に勃発した。この事件に際して念仏を唱えたのは、称名念仏を専ら唱えるという専修念仏を始めた法然の弟子だった。下川耳火史の『盆踊り 乱交の民俗学』から引用する。
一二〇六年(建永元年)、後鳥羽上皇の留守中に、上皇の寵愛を受けていた松虫と鈴虫という二人の側室が御所を抜け出し、法然の弟子の安楽坊と住蓮坊が開いていた念仏法会に参加するという事件が起こった。住蓮坊と安楽坊はすばらしい美声の持ち主で、彼らが声明を唱えると、その節回しや声の魅力に参加者はうっとりし、専修念仏の法門に帰依する者が後を絶たなかった。松虫と鈴虫もその場で出家を懇願したばかりか、安楽坊を上皇不在の御所に招き入れ、そのまま泊めたのである。
後鳥羽上皇は住蓮坊、安楽坊を処刑。この時に法然とその高弟である親鸞は流刑にされた。声が呪いのように人々を集め魅惑できるを持っていることを物語る。
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仏の境地に達しようとする声で唱える念仏の活動から、体も動かしながら念仏する念仏踊りが生まれる。一遍(一二三九―一二八九)が全国を遊行し賦算をもらいながら広めたといわれる踊りである。一遍は「阿弥陀仏の本願力は阿弥陀仏への信・不信を問わず一切の衆生を救済する」という名目を掲げて時宗を開いた人物である。念仏踊りとは至極陽気な踊りであって、則ち念仏を口中に唱えながら、鉦・太鼓のけたたましいリズムに合わせて、飛んだり跳ねることだった、らしい。一二九六年(永仁四年)に成立した『天狗草紙』という絵巻物に描かれた念仏踊りの様子は異様にさえみえる。
念仏するときは、頭を振り肩をゆりて踊ること、野馬のごとし、騒がしきこと、山猿にことならず、男女の根(陰部)を隠すことなく、食物をつかみ喰ひ、不当を好むありさま、しかしながら畜生道の果因とみる。
人間の心に鬱屈する煩悩や罪の意識を、踊り跳ね飛ばす算段だ。しかし男女の性器を隠すことなくとは、何事か。二十人から四十人が一遍にお伴していた。しかもほぼ半数が尼だったらしい。なぜ尼なのか。女性なのか。そもそもお坊さんが踊るなど聞いた事がない。俗世間からは遠く離れた大寺院で学問修業に専心するエリート僧侶から見れば、一遍などは巷を徘徊する乞食坊主にすぎなかった。だからこそ一遍は得体の知れぬ魍魎であり、いつ荒れ狂うかもわからぬ鬼であり、退治せねばならなかった。もしくは旅に明け暮れる遊行の聖ごときは、学もなく、ただ呪術でもって民衆を惑わし、仏法を安売りする邪教の徒と看做されたのである。だとしてもやはり邪道であり、懲らしめなければならない。一七八二に成立した『一遍上人絵詞伝』の中にはエリート僧と一遍の問答が描かれている。 比叡山延暦寺の学問僧重豪(しげとし)が「踊り念仏申さるること、けしからず」と問責した。そこで一遍上人智真は次のように詠んだ。
はねばはねよ をどらばをどれ はるこまの のりのみちをば しるひとぞしる
跳ねたければ、いくらでも跳ね、躍りたければ、いくらでも躍ることだ。春駒に乗るではないが、仏陀の法の道を、会得することができる」このように人々を没我熱狂の踊躍に誘った。一遍にいわしむれば、人間の苦の原因と成るのは、煩悩であり、その煩悩は、無知と怒り、そして、物欲・色欲などさまざまの我欲への執着心に起因する。その煩悩を滅却するには、すでに遠い昔に、煩悩を解脱して悟りを得、西方極楽浄土から、待っているぞ、おいでなさいと手を差し伸べて下さっている阿弥陀如来を想うことだという。そして阿弥陀の御名を唱えつつ、跳んだりはねたりすれば、生命が燃え、心がはずみ、欲や怨みつらみ、不安などふっとんで、仏さまと一体と成ることができる、というのである。『一遍聖絵』によれば、熊野での出来事からこうした情念の踊りを考案したようである。
ここに一人の僧あり、聖すすめての給はく、『一年の信をおこして南無阿弥陀仏ととなへて、このふだをうけ給べし』と。僧云く、『いま一念の信心おこり侍らず。うけば妄語なるべし』とてうけず。ひじりの給はく、『仏教を信ずる心おはしまさずや。などかうけ給はざるべき』。僧、『経教をうたがはずといえども信心のおこらざる事はちからをよばざる事なり』と。時にそこばくの道者あつまれり。此僧、もしうけずばみなうくまじきにて侍りければ、本意にあらずながら、『信心おこらずもうけ給へ』とて、僧に札をわたし給けり。これを見て道者みなことごとくうけ侍りぬ。僧はゆくかたをしらず。
信心がおこらない人とどう向き合うのか。突きつけられたそこで一遍の踏み出した方向「信不信を問わず」であった。その日の夜に夢に熊野権現が山伏で現れてこう告げました「あなたの勧めで衆生の往生が可能になる訳ではない。それはすでに阿弥陀仏によって決定しているのだから、信、不信を問わずその札を配りなさい」というのが其のこたえであった。信じる心が起こるより前に、体で信じさせる。これを実践するうちに組織されたのが一遍上人によって集められた「時衆」です。『一遍上人縁起絵』第十巻には、「弘安二年六月より嘉元元年十二月に至るまで首尾二十七カ年の間、臨終する時衆総じて二百六十九人也」と述べている。二十七年間に二百六十九人とは、毎年平均住人の往生者がでるということである。時衆達はいわばこの遊行の旅において、一遍の膝下にあって往生することを求めた集団であったと言える。この旅は、布教のためであり、生きるためであった。「南無阿弥陀仏」の名号札(算は札である)を人々に配り、念仏を唱えることを進めた。(庶民信仰の源流』時宗と遊行聖) 一遍の布教の様子を小ぎれいに教義つまり言葉で説明すればきれいであるが、念仏踊りの実体は下川耳火史は『盆踊り 乱交の民俗学』で次のように説明されている。
多くの者は、難しい教理によって念仏信仰に入ったのではない。南無阿弥陀仏と唱える妙なる声音に魅了されて、ありがたく感じ、念仏の道に引き込まれたのである。一遍の念仏集団は、庶民から見れば、歌声の集団という意味を十分に持っていた。きれいな声で念仏を歌うように唱える時衆の尼は、仏に近づくための重要な存在であった。(略)一遍とその一行は村人の見守る前で宗教的なエクスタシーの世界を現出してみせた。そして村人が時衆の名簿に記帳し、「念仏札」をもらえば「極楽往生間違いなし」と約束した。これを賦算ふさんといい、寄付金集めをかねていたが、一六年間で二五〇万人に達したという。当時の日本の人口は五〇〇万人から一〇〇〇万人と推定されているから、単純に言って二人に一人から四人に一人ということになる。民衆に受け入れられた一遍の布教に関して今井雅晴は『一遍―放浪する時衆の祖』において次のように述べている。 「専修念仏運動が世の人の目をひいたのは、添えが一種の歌声運動だったからである。“南無阿弥陀仏”とひたすら唱え、人にも勧める先頭に立ったのは、僧(男)であるとはいえ、きれいで魅力的な声の持ち主であった。〔・・・〕昼間は労働で忙しいから念仏の会は夜が多いとすれば、扇情的な念仏の声ともなろう。集まってくる女性と僧との間に“風紀問題が”起きがちである。そしてこれが評判をよんで念仏之会に集まる男女がさらにふえる。」
カルト集団である。向こうの世界に住まなければ、こちらの世界の常民には理解されがたい光景かもしれない。智真が踊り念仏を興行した同じ年、奇しくも日蓮は「新池殿御消息」のなかで、「愚なる人々、実と思いて物狂わしく金拍手をたたき、おどりはねて念仏をば申し」と記す。大町如道(孤山隠士、一二五三ー一三四〇)の『愚闇記』にも、女は綺羅錦繍で身をよそおい、面に白粉を塗り、眉を青くすり、ハを黒く染め、長髪を衣にかけ、焚物をくゆらし、偏えに傾城のような姿で男女雑居して通夜踊りくるっている、と指摘した。『元亨釈書』(一三二一)のなかにも民間の踊り念仏が、伎戯をてらって、宴会にまねかれ、盃のお流れをうけ、座頭や白拍子、遊女らとまじって、その芸を披露していたことを指弾している。これが一遍の時衆集団の実体であろう。諸大寺の天狗を書いた六巻目の一場面では一遍は天狗の長老とされ、一向宗の代表として批判的にかかれる。一向宗は、阿弥陀如来以外の仏に帰依する人を恨み、神明に参詣するものをそねむとされ、他宗を排する頑迷な選手念仏の一党として描かれる。これこそまさに偏執・驕慢のきわみなのである。彼等は衣の裳をつけず、馬衣を着、野馬のように踊念仏を修し、山猿のように騒がしい。絵には施行を受ける時衆たちの行儀の悪い様や踊り念仏、往生を約束する札配り、さらには一遍の股間に竹筒を差し入れ、句するとするため尿を乞う尼の姿が見え、スキャンダラスに描かれる。
この念仏踊りを採用したのは『一遍聖絵』巻四によれば、遊行を始めて五年目の弘安二年一二七九年、歳末別時念仏のとき、信州の佐久郡伴野の市庭においてだったと伝えられているが実際はわからない。「同行共に声をととのへて(斎)念仏し、ひさげ(提)をたたきてをどり(踊)たまひけるを」とあって、鉄鉢やササラを伴奏に踊っている。自伝だから眉唾物である。しかしながら他に資料があるわけでもないので、これを頼りに一遍の生い立ちをみてみる。十歳で母を亡くしたのを機に比叡山には行かずに浄土宗の僧侶のもとで修行をする。それから出家する。二十五歳の時、父の死を機会に還俗する。領地争いや女性問題等世俗の生活を送った後、三十三で再度出家する。今度は超一、超二、念仏房という三人の女性を引き連れて「遊行」中心の生活に入る。超一は妻、超二は娘、念仏房は下女であったと言われている。『一遍聖絵』にはそれを見送る一組の母と子らしき人がいます。一遍には妾がいたのだろうか。旅に出た理由もなかなか男らしい。
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一遍の始めたといわれる念仏踊りの話は以上で終わりだが『三国遺事』巻四には、七世紀の新羅の僧侶である元暁ウォンヒョ(六一七―六八六)の広めた踊りが記述されている。
元暁はすでに破戒して聡を生んでからは、俗人の衣服に着かえて、自ら小姓居士と号した。たまたま俳優が舞いながら弄ぶ大きな瓠ひさおを手に入れたが、其の形状は塊奇であった。それをまねてその型通り道具を造り、華厳経の「一切無㝵人、一道出生死」という句からとって「無㝵」と命名していい、よって歌を作って世に流行させた。かつて此の道具を持参して、あちこちたくさんの村落を歌い舞って教化詠唱して帰って来た。田舎の無学文盲の輩をして、みな仏さまの名を知り南無阿弥陀仏を念ずるようにさせたのは、元暁の法化が大きかったのである。これを見る限り、一遍が日本で念仏踊りを始める一世紀前には既に大陸の新羅では「無得」という踊り流行し、文字も読めぬ田舎者すら「南無阿弥陀仏」を唱えていたという。また「無㝵」を行なった時のこと、「僧が無得戯を始めると、夫人達は布施だといって着物を脱いで与えもした。」此の三ヶ月後、此の法会の主催者・見物人・才僧たちは、風俗紊乱の罪で罰せられている。
『日本のシャーマニズム』で堀一郎はいう。オージー(orgie,orgy)とは、もと古代のギリシアのディオニューソス、ローマのバッカスの秘密祭(Bacchic revelry)から出たことばで、一般に、人格の転換、社会秩序や倫理的高速が一時的に破棄されるような異常な集団的恍惚と興奮の状態をさす。粗野な音楽と舞踏、暴飲暴食、喫煙飲酒その他の興奮性薬物の使用、肉体的暴力、血、エロティックな所作などが、この状態を集団的にかき立てる役割を演じる。(略)エリアーデは、これらの集団的オージーと伴う季節祭が、正月、発芽期、収穫期といった年の危機的時期に行われる点を注目して、これらの暴飲暴食、不節制などによってひきおこされるオージーは、聖の経済において決定的かつ有効な役割を果たしている。それによって人間、社会、自然および神々の間の関門が打ち破られ、万物の力、生命及び種子を一つの平面から他の平面へ、一つの実在領域から他の実在領域へと過渡することを助ける、として、オージーは生命の聖なるエネルギーをかき立て、みちあふれさせれるものと見ている。
日本の歴史をみても、熊野詣でや完納霊場巡礼、幕末のお陰参りや「ええじゃないか」の踊りのようなダンシング・オージーや大衆による一時的な社会離脱行為は大規模に流行し、今でも流行し続けている。ゴールデンウィークという期間限定で旅行と称した大判振る舞いは国家的にも認められ、人の情念は海を越えても果てないことを、私たちに教えてくれている。
都市の今心
正歴四年(九九四)の正歴の大疫について『本朝世紀』は五月七日の条に、「去る二月以後、疫癘に依りて病死の輩幾千なるを知らず、種々の祈禱ありといえどもその応なきに似たり、路頭、死人の伏体連々なり」同十日の条にも「疫癘巳に発し、府中静かならず、又以て官国人民皆夭亡せんと欲す、而してその災いよいよ倍し、病患未だ息まず、遠近の路辺、死人満塞す」と記されている。とくに疫病はその原因が科学的に解明されず、前兆と見るべきものもなく、衛生環境も予防施設も皆無であった当時の都市民にとっては、これを一般的に御霊の祟りという言葉でしかこれを理解できなかった。そしてこの不安は御霊鎮祭という歌舞や熱狂的な神送りという行為によってしか解消され得なかったであろう。殊に京都という消費社会は、飢餓、疫病、火災などに対してもっとも脆弱、かつ無力であった。貞観五年八六三年、おりしも疫病が蔓延。『三代実録』の同年正月二十七日の条に「去年の冬の末より是の月に至るまで、京城と畿内外と多く咳逆しはぶきを患ひ、死者甚だ衆おほ)かりき」と記されている。このような現実に対して都民は誰にいわれることもなく勝手に立ち上がった。(九九四年)六月二十七日には北野の船岡山で御霊会が行われ「会集の男女、幾千人かを知らず、幣帛を捧ぐ者、老少街衢に満つ・・・、此の事、公家の定めにあらず、都人蜂起して勤修するなり」(『本朝世紀』)とあるように、朝廷の指示で行われたのではなかった。都民は気を病んでいた。気を病むなよと、誰かが肩を叩いて、幣帛を持たせたのである。
賀茂祭は、現在は五月十五日に行われる下鴨神社と上賀茂神社の例祭である。九七五年の賀茂祭でも都民たちは手加減することなく過差、婆娑羅、風流にコダワった。「年来、ただその数の過差のみならず、兼ねてまた綾羅を着し光華を施す」と指摘したうえ、「神事」だからといって手加減などせず、「禁色を着する輩」は捕へよ、主人も処罰すると検非違使に命じている。過差が「人の貴賎」「位の高下」をわきまえず「尊卑を乱す」行為とされたことである。周知の通り、律令部の衣服規定は階ごとに装束の色を定め、上位の位色の使用を禁じだ。『洛陽田楽記』には、同じ頃の賀茂祭の風流は、「そもそも笠(竹登)車の風流、童僕の衣裳、空しく十家の産を費す」と書くように、風流の美麗は「過差」ととなりあわせである。禁を犯すことになりかねない。あまりの異例に『小右記』の筆者は「今日のこと、関白深く傾奇の気あり。一一世紀前半のころに書かれた『江談抄』は、賀茂祭のときに放免という者が繚乱錦繍の服を着用し検非違使の供人となることは如何なものかと聞かれた斉信は、放免が分不相応の衣服を着るのは「非人の故、禁忌を憚らざるなる」と、まず答えている。衣袴に文をつけて、家鳥・草木を染め出した摺衣は、五位已上の人に与えられる華美な衣服である。マツリの度に、非人であり常民の従うべき法の下にない差別民であり、神事にかかわる聖職であるためだとこたえたそうだ。市民のような扱いはされないけれども、祭で神輿を担ぐのはもともとが非人の仕事であり、祭を主宰する社寺に属する散所法師、下請けの河原乞食であった。
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祭礼としての賀茂祭りはあくまで王朝貴族のための朝廷の祭りだったのに対し、祭りを実際に行う人たち「従類」たちの成長を背景に登場したのが、京都の稲荷祭りや祇園御霊会である。それらの祭りは、神事その者が路頭に出て見物をも巻き込んで行くマツリでありパレードでありカーニバルであり、悪霊退散の名の下に気を晴らす市民の台風であった。祇園御霊会は、八六三年五月二十日の神泉苑の御霊会に始まる。そこでは僧が金剛明光経、般若心経を読誦、雅楽寮の伶人が奏する音楽に合わせて、天皇の近侍の童、良家の稚児が舞い、さらに唐人、高麗人が舞い、「雑伎散楽等競ひて其の能をつく」した。この日、神泉苑の門は開き放たれ、都人は祭典への参加をゆるされ、次々と繰り広げられる芸を堪能したのだった。これが恒例化した祇園社(八坂神社)の祭である。成立については諸説あるが『二十社註式』によると天禄元年(九七〇)六月十四日に「御霊会を始め、今年よりこれを行なう」と述べている。祇園御霊会は御旅所祭礼として成立したことである。神輿が本社から御旅所に移動し、一定期間留まって祭りをうけ、氏子地区を巡幸して本社に帰ってくるという形態の祀りである。御霊とは災厄として顕現するものである。顕現するや其れは直ちに祭られ返されたのである。たとえば、正歴五年(九九四)についてみると、前年六月依頼の「咳疫」がやまず、六月十六日には「疫神」「横行」との「妖言」で都人はあげて閉じ篭り、路上から人影が消える有様となった。二十七日に「都人蜂起」によって船岡山で盛大な「御霊会」が行われた年である。これに朝廷も動かされ、神輿二基を作り、僧侶・楽人をもって祭らせ、幣帛を捧げて都人士女が群参した。祭りは一日で終わったが、最後に御霊(神輿等)を「山境に遷し」、山境からさらに「難波の海に還し放つ」たとある(『本朝世紀』)疫神を幣帛に依らしめて集め、それを見越しに載せて海へと還したのである。牛頭天王以下の祇園車の祭神はそうした疫神を鎮める威力のあるその期待に応える神として祭られた。青森のネブタでは神輿ではなく人形に寄り付かせて、海へと送る。熱狂的な青森ねぶた祭も、誰かが始めたものを、近江の商人などの金持ちが支援し巨大化していったのだろう。
『年中行事絵巻』巻九には、還幸列は、四騎の乗尻を先頭に、扇鉾二本、騎乗の巫女二人、王の舞、獅子舞二人組、幸鉾四本とつづき、その後に三基の神輿(牛頭天王、婆利釆女、八王子)と巫女二騎、駒形稚児、ついで騎馬の田楽衆、細男衆、最後に騎馬の神主五人が渡る構成で描かれている。神輿の還幸は祭式の格を表しており、供奉するものについても祇園社が当然それを管理した。ところがその列には供奉者が主体的に参加する行列も従っていた。馬長や風流田楽である。清少納言が「心地よげなるもの」の一つに「御霊会の馬の長」を数えたように(『枕草子』八〇段)馬長は祇園会の華であった。この馬をめぐっても一悶着あったようだ。寛弘三年(一〇〇六)の『小記目録』の記事で「稲荷祭の間、乱闘出来の事」と書かれたのが史料の始まりである稲荷祭。 『春記』長久元年(一〇四〇)四月十九日条二は、藤原資房が伯父二人と「七条堀川辺の小屋」で見物し、「やりすぎだ」と書いている。
今日稲荷祭なり。小舎人童二人馬長に乗る。件の事太だ由なし。然り而て在世の人また以て黙止すべからざるなり。久瀬ならびに仁静が馬を借り送るところなり。観寿丸、薬犬丸等なり。牛時許り資頼・資高来り、相乗りて七条堀川辺の小屋に至り、密々に見物。了って帰去す。御倉小舎人頼高を祭使となす。其の儀公使と異ならず。惣じて過差いうべからず。狂乱を儘すの代なり。また御倉小舎人が此の如きの役、なお以て軽々か。
此所に示されている非難は、小舎人童が馬長に乗る事と、御倉小舎人を祭使とし、しかもそれが公使そっくりだということである。公使に異ならずというのは、この祭使が朝廷からの正式の祭使でないことを意味する。公使の派遣されない祭りにそれに凝らした祭使をだし、しかもその役を預かる小舎人風情が勤めるとは何たる過差か、というのがその真意だろう。こうした「もどき」はたびたび本芸の人から非難される。雑芸者の無骨なるものが、京中の人に見物させようと柱を造って社頭へ渡そうとしたところ、その作法が大嘗会の標を引くに似ているというので、左大臣藤原道長はこれを停止させるとともに検非違使をして無骨を逮捕しようとした、しかるにこれが神の怒りを買い内裏ことごとく焼亡した(『本朝世紀』長保元年六月十四日)という物語もそれを語っている。
都市の人々にかかれば、日常はすぐさま祭の空間に変わってしまう。中御門宗忠の日記『中右記』一〇九六年五月六月十二日条。「此十余日の間、京都の雑人、田楽を作し、互ひに以て遊興す。」七月十三日条「去五月より近日に及び、天下貴賤、毎日田楽を作す。」彩どった衣服は「錦繊を以て衣となし、金銀を以て飾となす。富者産業を傾け、貧者(足支)してこれに及ぶ」と書いている。昼夜の別なく鼓笛の声が街衢に鳴り響き、田楽に加わった異形の群が平安京に満盈して往来を妨げ、何人も之を制しすることあたわなかった。時も祇園御霊会の前後とあって、人々はそれに事寄せ、都を縦横に練り歩いた。 当代の碩学、大江匡房は之に題材を得て『洛陽田楽記』なる一書を著し永長元年(一〇九六)の夏の騒ぎを次のように記した。
初め閭里(郷村の人々)よりして、公卿に及ぶ。高足・一足・腰鼓・銅子、編木・植女・春女の類い、日夜絶ゆることなし。喧嘩の甚だしき、よく人の耳を驚かす。諸坊・諸司・諸衛、おのおの一部をなし、あるいは諸寺に詣で、あるいは街懼に満つ。一城の人、みな狂へるが如し。けだし霊狐の為なり。
嘉保三年は、十二月に元号を改めて永長元年となる。よって後世、この年の「天下大田楽」の「奇異」を回顧して、永長の大田楽と言い伝えた。飯田道夫の『田楽考』によれば、実はこれは陰陽師のくわだてだことであり、政治的な動きに対応するようにしかけられた天狗の所業であったようだ。まったく、俳優は人を動かし歴史を動かす態をもっている。
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こうした民衆の祭りに神輿には必ずといっていいほど木や花が添えられている。神輿といっても、地方によっては「山車」「曳き山」等と言われる。富山県で現在も各町内で作られ、毎年行われる「曳き山」や「築山」の行事の起源を伊藤曙覧は『とやまの民俗芸能』で次のように述べている。
八尾町では寛保元年(一七四一)に行われた同町東町の町民が花を飾った屋台をくり出したのが曳山行事の起源だとされており、ここでは、ハルに山へ登り、神霊の宿る花を摘んで来る神霊迎えの形が、曳き山誕生の過程にあったことをよく示している。つまり、神の住む自然野山から築山へ、そして動かない築山から動く山車(曳き山)へと変遷して来たとみなければ成らない。だから築山には、曳き山の原型としての性格が有る訳で、貴重な習俗といえる。このことは、曳き山の鉾、かご、花がさ、人形などに、依代とか神座など、神霊を迎える形が残っていることでも、うなずける。