第五夜:常民の欲望/第二話:艶ク舞台

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第五夜:常民の欲望/第二話:艶ク舞台

市場の歌垣

世界の始まりは男と女、光と闇、有と無、相反するものであるからこの世に生まれたからには見ず知らずの互いと付き合わなければならない。今井通郎の『日本歌謡の音楽と歌詞の研究』によれば、古事記の始めに伊邪那美命と伊邪那岐命が柱を回って出逢った時に互いに「あなにやしえをとこを」「あなにやしえをとめを」といったのが歌垣の始まりであり、応答歌の日本最初の記録であるという。

 

声を掛ける

杵島郡の南、二里のところに一つの山がある。西南から東北の方向に向かって三つの峰が連なり、これを名付けて杵島という(略)村の男女は酒を提げ、琴を抱いて、毎年の春と秋に相たづさえて山に登り、酒を飲み、歌い舞って、歌がつきたところで帰る。

霰ふる 杵島の岳を さがしみと 草取りがねて 妹が手を取る(杵島の山はけわしいので、登る時には草をつかまず、いっしょに登る愛しい人の手を取る)

『風土記逸文・肥前国』には、杵島山(佐賀県杵島郡白石町)で行われた歌垣という風俗である。簡単にいえば男女が集まって響宴する野遊び、山遊び、磯遊びである。合コンで居酒屋からカラオケやらクラブに行くのは千年の時を越えても続けられてきたようである。『万葉集』にはかがいという字に註して「東俗の語に賀我比かがひといふ」とあってこれは奈良朝の頃、東の国で行われていた風俗であろう。「かがひ」というのは「かがふ」という動詞から出た言葉で、男女互いに呼び交わすことらしい。と考えれば、万葉集は相聞歌という名の嬥歌集である。歌常陸風土記に、「かがひ之会」に註して「俗に宇太我岐うたがきといひ、又加我毘かがひといふ」とある。これはかがひは近畿地方で歌垣と呼ばれるものが東国の「かがひ」と言われていると理解できる。

『風土記』に書かれた男女の宴は、日本の国全体に風流さ・優雅さ・大陸風の風俗を求めていた大和朝廷がつくり出した偽作であるかもわからないけれども、人は心のなかで歌垣の如き風景を望んでいたことは事実であろう。こうした野遊び、磯遊びという風習は現実に存在している。

鹿児島には「おでばり」という言葉がある。おでばりというのは、野遊びのことである。どこの家にも、おでばり用の道具がある。弁当箱も、お皿も、さかずきも、酒器も、一つのはこの中に、きちんと詰められている。(椋鳩十『日本の民謡九 ふるさとの歌 九州』)

富山県高岡市の古城公園や富山市の呉羽山での桜見物は、古くから盛んであった。呉羽山山麓の射水郡下村の村人たちは、大正末期(一九二六年代)まで、同村加茂地区・賀茂神社の五月四日のハル祭りのころ呉羽山に登り、談笑に興じたという。(略)高岡市伏木町でも、四月十八日の気多(けた)神社の祭礼のとき、神輿が神社内をまわったあと、「山行き」といって、町民が神社の裏山へ登り、日本海を眼下にながめ、ツツジ、ツバキの花の中で弁当を食べて楽しんだ。(以下略)(伊藤曙覧『とやまの民俗芸能』)

諸国の風俗を調査して編纂された七二一年成立の『常陸国風土記・筑波郡』には筑波の山で行われた歌垣が描かれている。

夫れ筑波の岳は、高く山に秀で、最頂は西の峯崢さかしく嶸く、雄の神と謂ひて、登臨らしめず。但し、東の峯は、四方磐石にして、昇り降りは坱圠ならず(けわしくそばだてる)も、其の側に流泉ありて冬も夏も絶えず。坂より東の諸国の男女、春は花の開ける時、秋は葉の黄づる節、相携ひ騈闐り、飲食を齎賫し、騎にも歩にも登臨り、遊楽しみ栖遅ぶ。其の唱に曰はく、筑波嶺に会はむと云ひし子は誰が言聞けばかみ寝会はずけむ筑波嶺に廬りて妻無しに我が寝む夜ろは早も明けぬかも詠へる歌甚多くして、載車るに勝へず。俗の諺に云はく、筑波嶺の会に娉の財を得ざれば、児女とせずといへり。

「娉の財」つまり歌垣で男に勝って品物を貰って帰らなければいけなかった。男から勝ち取った財というのは、食糧や玉、土器などの工芸製品だったかもしれないし、男根形のようなシンボルだったかもしれない。生殖は増殖であり、食べ物も、器も、石も、命を燃やす道具である。それが穀物の稔の証にもなったのだろう。だから、歌垣はただの飲み食いどんちゃん騒ぎではない。クルト・ザックスは『世界舞踊史』で《樹木舞踊tree dance》にはよく性的なアクセントが加えられることがあると述べる。中国の有史以前の文化遺産の一つと言われる《春の祭り》には、これが明瞭に認められる。未婚の男女が一組となり互いに腰を抱きあって踊る。最後に、少女は青年に背負われて連れ去られる。アマゾン河流域のイトガプクとピロ・ヤプラのタサロア族の踊りも同様で、一組になって踊る男女は、やがて一組ずつ夜の暗闇の中に消えてゆく。性をかけた成人式が歌垣だ。『常陸国風土記・筑波郡』の久慈郡の条には以下の記述がある。

その川(久慈川)の淵を、石門という(略)夏の月の暑き日には、遠き里/近き郷より、暑さを避け涼しさを追って、膝を重ね手を携えてやって来て、筑波の嬥歌の歌を歌い、久慈の美酒を飲む。これ人の世の遊びなれども、ひたぶるに塵のごとき悩みを忘れる。

『万葉集』巻九に採録されている「筑波嶺に登りて女曜歌の会を為せし日に作りし歌一首」という歌もある。

鷲の住む 筑波の山の もはつきの その津の上に あどもいて 娘子壮士おとめおとこの 行き集い かがう嬥歌に 人妻に 我も交わらん 我妻に 人も言問へ この山を うしわく神の 昔より 禁めぬ行事ぞ 今日のみは めぐしもな見そ 言も咎むな

というもので、これに、

男神ひこかみに 雲立ち登り 時雨しぐれ降り 濡れ通るとも 我帰らめや

という反歌が付されている。下川耳火史『盆踊り 乱交の民俗学』によると、「もはつき」は原文では「裳羽服津」と記述されており、筑波山中の水辺で、女峰の凹んだ場所をさす。そういう場所を女陰にみたてて、嬥歌はその場所で行なわれたらしい。なんとも官能的である。「鷲の住む筑波山の女陰を思わせる水辺で行なわれた嬥歌に、乙女や男達が誘い合って参加した。私も人妻に交わろう、他の人も我妻を誘ってほしい。この山を支配する神もいさめぬ行事であり、今日だけは見苦しいといって咎め立てないでほしい」そして反歌では、「男の神の宿る山に、雲が立ちのぼり時雨が降って、体の中まで濡れても、私は決して帰らない」とうたわれている。ここで「男の神」というのは筑波山の神であると同時に、男としての存在を賭けて嬥歌に参加した男性を指している。

こうした歌垣の痕跡は、近代に入っても残されていたが、民謡研究家の町田嘉聲が「くだらん」といって歌詞を採集しなかった。その断片が今も民謡、盆踊りの中に伝えられている。

『とやまの民俗芸能』で紹介されている東砺波郡五箇山の平村上梨地区に伝わる五箇山舞舞は、男女交互に並んで輪をつくり、つぎのような問答形式の唄を歌い、踊りながら左の方へ回るものである。

〽娘どこに寝る 寝床はどこじゃ 東枕の窓の下
〽窓の下とは聞いてはおれど どこが西やら東やら
〽いろは文字に心がとけて この身をせこに任せつれ
〽かぞいろ知らで 独りの処女が いつかしなして岩田帯
〽︎壁に笠をば かけたよな乳よ しかと握らで今に惜し

『民謡 その発生と変遷』のなかで竹内勉は民謡を分類し、「他人用」のうち「2恋唄」は、若い男女が、想う異性に自分が着ていることを知らせるための連絡手段として、また心のうちを伝えるために「うた」を利用したのである。例えば「投げ節」や「夜這い唄」は、想う相手の家の近くまでくると、戸外で「うた」を歌う。相手はその聲を聞き分けて、裏戸をそっと明けて、入り口を作った。今日「稗搗き節」として広く知られている宮崎県東臼杵(うすき)郡椎葉村の歌がある。

〽庭のさんしゅうの木 なる鈴かけて
鈴の鳴る時や 出ましょよ

この歌詞が若者の廓通いにも利用されるようになり、格子の外で「投げ節」や「ひやかし節」を歌えば、馴染みの女がその声を聞きつけて、トンで出てくるようになった。また「歌垣」の場合は、異性を目の前にして、「うた」の作詞作りの競技を仕掛け、交互に即興で歌詞を作りあって、歌いあい、相手が歌っている間に歌詞を作れないと負けになった。負ければ、男の場合は品物を与え、女の場合なら肉体を与えたのである。秋田県下の「にかた節」のかけ唄、福島県下の「羽黒節」、宮城県下の「定義節」など、神社の祭礼に近郷の若い衆たちが集まり、夜を徹して歌い踊る「うた」の多くは、これら「歌垣」の「うた」である場合が多い。「掛け唄」として有名な福島県会津地方の「玄如(げんじょ)節」には、

〽滝沢乙女は 利発な者よ
石で巾着 縫うてけろ
〽石で巾着 縫うてもやるが
砂のかね糸 縒ってけろ
といった名文句が、今なお残っている。

歌垣は性の文化であって、本人の意志とは関係なく、種族の繁栄を助けるものだ。現代社会では晩婚化が進んで元気のよい赤ん坊が果たして生まれているかどうか。若くて生き生きした細胞を持った男女から元気な赤ん坊が生まれることは自然の理である。植物にも春には若葉が生えるし秋には落葉する。歌垣は若返りの行事でもあったわけだ。若返るための歌、踊り、そして性交である。アイヌの風俗を調査研究した知里真志保によると、天塩国名寄に次のような踊歌がある。(一〇六節)

okkayo neike 男の人は
rimse kor 踊れば
o-rachin-rachin 物がぷらんぷらん
menko neike 女の人は
rimse kor 踊れば
o-hasa-hasa 物がぱくりぱくり

これは性器が悪魔を追い払う呪術として使っていた日本の古い風俗が踊りとしてのこったのだと思われるが、性器をチラ見させる所作が性をかき立てることは人の性である。歌と踊りは一つである。踊りは性的な振る舞いを交えることで、人は動物的な力を増し、動物のように命をつなぐことができたのであり、歌うことによってこれが魂をもち、人間の知性の奥に押さえ込まれがちな動物的本能を揺さぶったのだろう。現代でも盆踊りにはがに股で踊ったり、うなじを強調したり、顔を隠して逆に色気を感じさせる工夫が認められる。男らしさ、女らしさを出し合うところに悪霊を払う呪力があり、人がたくましく暮らす方法であったようだ。生殖行為はすべからく見えざる先祖の目の前で行われていると考えることが出来る。つまり個人の名前を捨てて先祖に憑かれた状態で踊り、歌い、交わるのである。津軽では、ねぶた祭の月にカップルになる若者が多いという。命の巡り合わせというのは、不思議である。
歌垣とは、名を変えて盆踊りであり、現在は合コンである。現在ではみることのできない、かつての盆踊りの様子を伺う史料がある。

昔のまいまい(舞々)を今に例えれば、お盆の夜の若者のうたごえの祭典であった。上梨を中心に発達し、相倉でも祭や休み比に行われていたという。お宮の狭い拝殿内を男女側に成って、手をつなぎ「神楽舞」を歌いながら歩調を合わせてまわるだけのものであぅた。それが、早麦屋、オッチャラ節、おさよ節の曲を主軸に一人が歌い出しの一句を歌うと、あとはみんなで続け、あと歌はさらに繰り返される。すぐまた次の一人が歌い出し、くりかえしをみんなで合掌してまわるようになった。

独〽 盆じゃ盆じゃと待ったが盆じゃ
合〽 待ったせもない はやすんだ はやすんだ はやすんだ
独〽 わしが若い時ゃ
合〽 五尺の袖で 道の小草もなびかせた
合〽 なびかせた なびかせた

その歌声は休むことをしらず、ときには新作が生まれた。即興が飛び出して延々と朝迄続く。手のつなぎ方は、左手は自分の前で前方の人の右手と組、右手は自分の後ろで後方の人の左手と汲む。前の人にくっつき合うほどに並んで輪をつくるが、ときには女の間に男が割り込むこともあった。夜も更けて行く分つかれ儀身になると歌に切れ間が出来る。今まで森一ぱいに響いた歌声がポツリと消えて、床ゆか)ずれの足音だけがシズカナ森の中にしみる。まさに神秘的であるこの舞々は、春秋の祭、各種祝事、宴会の後にもよく行われた。この伝統的な舞々は、昭和二は行ってから流行歌がまじり、他の民謡踊りがこれに代わった。また、朝まで続くことも次第に少なくなって来た。(『越中五箇山 平村史』上巻)

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当初は歌い騒ぐ円舞、歌舞が歌垣であったものが、仏教行事とも融合し、現代では、更に江戸の風流も入り込みおしとやかに、風情ある制限されたゆっくりした動きをもつ盆踊りとなっている。明治政府が盆踊りを禁止してからは、全国津々浦々の歌垣も、ついには舞踊鑑賞会に仲間入りした。現代では、性はしかるべき場所で、しかるべき金をしかるべき人たちに払うことによって四六時中、年がら年中いつでも解放される風俗がうまれた。建物の中では男と女の歌と踊りが掛け合わされている。だが、命の実が結ばれることはない。かつて、歌垣はしかるべき場所で、しかるべき季節で行われなくてはならない、人の性を、人生を燃やす行事であった。

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シベリアでシャマの儀式の前に行われる、参加者たちの踊りの様子がおもしろいので書いておきたい。山本祐弘が『北方自然民族民話集成』で「オタスでお祭りの時など大勢の男女が一緒になって踊る尻振りダンスのうなものをシャーマンの踊と思はれたら、とんでもないことになる。あれは全くのインチキものである。シャマに附随したマウウリと云ふ舞ひもあるのであるけれども、一人づつで舞ひ決して大勢が一緒に舞ふことはない。それに巫術や屋内の行事で野天ですることはない。」と注意を即した上で、シャマを見に来た人達による、シャマの本番の踊りの前座の踊りを次のように描写する。

女の踊りは腰を左右に振り、身体も々ようにくねらせ、またがっくりと捻る。腕も一方を高く伸ばしたかと思うと、他方を逆に下に流し、後ろに廻す。今度は両手を前で交叉させたと見ると、広く両方に開いて下ろし、それを掬い上げるように高くたかく、天の神神へ届けよとばかり玉串を打ちふる。そのとき身体も伸びきる。また足下を葡わせるように両手を泳がせる。その際は腰を落とす、といった踊り、というより一種の律動的な運動である。いわゆるシャーマン踊である。腰は絶え間なく振らしているので、ヤッパの思い金具が互いにふれあって騒然たる音を立てる。踊は次第に店舗がはげしくなる。腰は盛に回転する。これが為に皮紐でつるされた金具は左に右にとび跳ね、上下に乱れ落ち、空間でからみ合っては混乱し、異様なひびきをたてる。チャカチャカ、キンキンといった風で、決して住んだ心地よい音でなく怪奇な音響をまきチラシ、異様な姿態を描き出す。太鼓は急調になってトトトンツウトットトットトトトンと追って行く。もはや正常な頭では考えられない。摩訶不思議な原始的な境地に引きずり込まれて行くのである。女は踊っている間、足の位置を絶対に変えないのである。だが足の関節は屈折させる。強敵な運動が速度を加えたとたんに、女は腰のヤッパをがちゃりとはずして踊を止め、面はゆそうにして人混の中へ返って行く。全くこれが数分間の出来事である。太鼓はなおも絶え間なく打ち鳴らされ、あたりは甘美な魔薬に酔ったような陶酔気分が漲みなぎ)る。(略)私はふとかつて見たハワイ土着民の女の裸に腰箕をつけて踊った尻振りダンスを思い出した。あの踊をもっと素朴に幾分固くし、エロティックなところを除けばこの踊りになる。(略)同じ単調な律動を繰り返すこの踊でも、人によって上手下手があるとみえ、みんなが「いまの彼女はうまいんだ」といっていた。なるほど幾分踊り方もちがい、踊の格好がついていた。しかし、優美とか軽妙とかいったものとは、凡そ縁の遠いものである。だが神へ奉納し、神への嘉納を乞うて踊る、ひたむきな熱情、神への神経の奉謝の気持ちが脈々と感じられる。また一面騒然として一生懸命な労働にもかかわらず、一種の間の抜けたものがあり、そこにのびやかさも見られるのである。

物を賭ける

男女の宴であった地方の歌垣の場所は、季節の食べ物、特産品を交易する場でもあった。市場の祭りは、市の護り神である市姫を祭ってなされるのであるが、こうした市姫の祭主になるのは、市子といわれた巫女である。市子のイチは、神を斎くというときのイツと同じ源の言葉であって、だいたい市場そのものが、斎場としての祭場から発達してきたものであることは、まちがいない。と和歌森太郎は述べている(『山伏』)。そういう祭の場に、近郷の人々が物々交換に集まったところから、商取引としての市が経営されるようになったのであるけれども、そのように変わっても、なお儀礼的に市姫の祭は市子によって行うものであった。市では物だけではなく、性も交易の対象であった。

内田るり子は掛合の様子を戦いに見立てて「搶歌」「闘歌」といい、それを次のように説明する。歌掛けの途中で他の男性グループが相思の男女のグループに対し別の脚韻で「搶歌」を歌いかける。女性グループが若しその方に心を動かされると、その脚韻を踏むように自分たちの歌を変えてしまい、この新しいグループと歌掛けを行なうすると歯医者はまた新しい客員でこの女性グループをうばいかえす。このようにして何時間も搶歌・闘歌が続き、歌合合戦は白熱化する。(「照葉樹林文化圏における歌垣と歌掛け」『文学』五十二巻十二号一九八四年)戦いの最中、心の分かれ目が歌で伝えられる。歌と踊りによる官能的で動物的な交わりである。我が国古代の文献中、最大の歌垣の記録が「闘」を主題と摺る者であったのと、其の掛け合いの方法が同語句を取り込んで切り返すという様式をもっている事はなおざりにはできない。万葉集』巻十二 「武烈天皇即位前紀」武烈天皇が太子であったとき、鮪(平群大臣真鳥の子)なるものと影媛を争い「海柘榴市の巷」で「歌場の衆に」立ち歌をかけあったとあり、両社の歌七首をのせる(武烈紀)『古事記』にはそれが袁祁命(顕宗)のこととなっておりツバキ市の名も見えぬが、両人が「闘ひ明し」たとある。

海石榴市の 八十の衢に 立ちならし 結びし紐を 解かまく惜しも(二九五一)
紫は 灰さすものぞ 海石榴市の 八十の衢に 逢へる児や誰(三一〇一)
たらちねの 母を呼ぶ名を 申さめど 道行く人を 誰と知りてか(三一〇二)

男はいつでも女をめぐって競い合う。 競い合い、争い、女の欲情を買うために、歴史を動かして来た。男の性である。どこか「あの子がほしい」といい合う子供の遊戯「はないちもんめ」と似ていて意味深だ。

金をカケル

新井孝重『悪党の世紀』には『太平記』巻三十九「諸大名讒道朝事付道誉大原野花会事」というのが解説されている。この物語の舞台となった加賀の国は、婆娑羅大名として有名な佐々木道誉とその後裔前田利家の領地である。この大名の遊びぶりには、古から現代に至る誰も及ばない想像力、発想力に満ちあふれている。彼の演出した響宴の豪華さは「道誉兼ては可参由領状したりけるが、態と引違へて、京中の道々の物の上手共、独も不残皆引具して、大原野の花の本に宴を設け席を妝て、世に無類遊をぞしたりける。」と書き始められている。

踏に足冷く歩むに履香し。遥に風磴を登れば、竹筧に甘泉を分て、石鼎に茶の湯を立置たり。松籟声を譲て芳甘春濃なれば、一椀の中に天仙をも得つべし。紫藤の屈曲せる枝毎に高く平江帯を掛て、池頭の香炉に鶏舌の沈水を薫じたれば、春風香暖にして不覚栴檀林に入かと怪まる。(略)一歩(三嘆して遥に躋ば、本堂の庭に十囲の花木四本あり。此下に一丈余りの鍮石の花瓶を鋳懸て、一双の華に作り成し、其交に両囲の香炉を両机に並べて、一斤の名香を一度に焚上たれば、香風四方に散じて、人皆浮香世界の中に在が如し。其陰に幔を引曲彔を立双て、百味の珍膳を調へ百服の本非飲て、懸物如山積上たり。

宴会場に入る所から風景が異世界へと移り変わって行く。胴まわり二人がかえもある香炉を机上において、一斤の名香を一度に焚き上げ、人は皆仏の世界にいるような気分であった。本堂に入ると、爛漫と咲き乱れる桜木を、そのまま花瓶に差した「立花」にみたてている。五感を振るわせる演出である。その響宴ではもちろん芸人達が晴れやかに舞い、歌い、踊った。

猿楽優士一たび回て鸞の翅を翻し、白拍子倡家濃に春鴬の舌を暢れば、坐中の人人大口・小袖を解て抛与ふ。

『太平記』(巻三十三)は当時の大名たちが茶の会をはじめ、日々に寄り合いを催した際の様子を伝えている。そこでは唐物・本朝の重宝をあつめて多くの座席を飾りたて、みな椅子の上には豹・虎の河がしかれている。そこに座るものどもは緞子金襴の衣装を着飾っている。一丈四方の書庫羽前にはあらゆる珍物のごちそうが並べられている。最初の闘茶の世話人は奥染物(奥州産の染物か)、二番目の世話人は色々小袖十重、三番目のものは南国産香木百両ずつと麝香三つずつ、四番目のものは金糸の盆にいれた砂金を百両ずつ、五番目のものは造りたての鎧と鮫皮をつかった銀かざりの太刀と柄鞘黄金づくりの刀、それに虎の皮の火打袋のさげたのを、それぞれ引き出物とした。それらのあとにつづく世話人も、「われ人にすぐれんと、様をかへ数を尽くして、山野ごとく積み重ぬ」というありさまであったという。かれらのつんだ膨大な財物は、遊びに疲れた後、ともの都政者や見物の田楽猿楽・傾城・白拍子になげすれたれたという。

このような豪華絢爛さは風流といわれてきたが、時代が変わると「婆娑羅」といわれるようになる。一三三六年の『建武式目』では「近日婆娑羅と号して、専ら過差を好み、綾羅錦繍、精好銀剣、風流服飾、目を驚かさざるはなし、頗る物狂といふべきか、富者はいよいよこれを誇り、貧者は及ばざるを恥づ、俗の凋弊これより甚しきはなし、もっとも厳制あるべきか」と書かれている。婆娑羅とは仏教用語で、煩悩を打ち砕く力をもつ象徴として使われる言葉である。 平安時代の『仁和寺御室御物実録』(一二七〇年)に、「婆娑羅錫杖」とみえているのが、おそらく、その原義に近いものであろう。それ転じて、『続教訓抄』に「下郎の笛ともなく、ばさらありて仕るものかな」とあるのが例となるように、音楽・舞楽の調子外れを言ったりもし、更に転じて遠慮会釈なくふるまうことを「ばさら」あるいは単に「ばさ」というにいたったのであった。永観堂文庫所蔵『東寺御修法記』の保延七年(一一四一)正月十三日の条に、「白昼、講房より田楽妙舞の者数人輩ら入り来り、狂乱婆佐し、見るもの、頤おとがいを説く」とあるのが、つとに指摘されている。「ばさ」が「狂乱」という業限を伴っていることであろう。もともと芸人の煌びやかな姿を表すだけでなく、ばさらというのははめのはずれたことをいい、奔放な絵をばさら絵、調子の外れたまともでない歌を「ばさら歌」という。あるいは、だて男のことを「ばさら男」「ばさら者」と呼び、乱れ髪を「ばさら髪」と称するなど、様々な用例を、中世から金星にかけて、見出すことができる。それはともかく、『北条九代記』巻八の「相模守時頼入道政務」に「上に婆娑羅の費えを省き、下に恨むる庶民なし(略)総じて大酒・遊宴に長じ、分に過ぎたる婆娑羅を好み、傾城・白拍子に親しみ」とあるのなどによっても、「ばさら」といわれる風潮の概要は、大方察しがつくであろう。『建武式目』の記述には、はからずも、当時の「ばさら」が倹約の対極に立つ「過差」にほかならず、その「かさ」は「綾羅錦繍」「精好銀剣」「風流服飾」つまり華美な衣裳と高価な刀剣と趣向を凝らした装身具によって象徴されるものであったことが示されることになった。しかもそれらは、余人の目からは「物狂」なのであって、ものに憑かれたような、常軌を逸したいような行動とみなされるものだった。(中世芸能の幻像 守屋 「ばさら」)「ばさら」は、鎌倉幕府の崩壊、兼務政権の成立とその崩壊、室町幕府の創設、そして南北朝の構想という時期に、にわかに衆目を集めた風俗であり、台頭する「力」の象徴であった。

彼等が権威をものともしない態度は、権威が崩れ掛かった時代の土壌に適合し、育ってゆき、『太平記』という文学をも生み出した。足利家の執事・高師直(こうのもろなお)の言葉もこれに載っている。

都に王というものがいて、多くの所領を独り占めしている。内裏・院の御所というところがあって、そこでは馬から下りねばならず煩わしいことよ。もし王がなくてはならないなら、木をもって造るか金をもって鋳るかして、生きている院・国王はどこかへ皆流してしまいたいものだ。

また家来がおのれの所領の小さい事を訴えると、師直は「なにをそんなに嘆くことがあろうか。近辺の神社・本所の荘園を切り取って知行すればよいではないか」といった。常識破りのひと言である。また『太平記』では天皇に矢をかけるツワモノが描かれている。美濃の大名である土岐頼遠(ときよりとお)である。彼は下馬を命じられたにもかかわらず、「院」を「犬」と聞き違えたふりをして、院の車を取り囲み、まるで犬追物でもするように、矢を射かけたというのである。しかも彼は、馬から降りることを命じられた時、「此此、洛中にて頼遠などを下すべき者は覚えぬ者を、云ふは如何なる馬鹿者ぞ」と悪態をついたともいう。この種の悪口は、彼らの最も得意とするところで有ったらしいのである。いうまでもなく、頼遠は六条河原で切られる。

こうした武士、野党、武装集団は既存の文化からは生まれてこない、新しい力を秘めていた。若い頃は「うつけ者」「たはけ」といわれた信長は、父親信秀の葬儀の際に長柄の太刀と脇差を荒縄で巻き、髪も整えず、袴もつけずに姿を現し、抹香を掴んで仏前に投げつけた振舞はまさに「物狂」の沙汰そのものであった。また武田の騎馬隊を打ち破った方法も、南蛮人を通じて新しく手に入れた鉄砲隊を組織する事だった。旧社会に馴染んだ人からみれば、このような破天荒と見られる行動は世間の常識から著しく逸脱している。しかしこの逸脱した感性、価値観が人々の心を動かして来たことも事実である。

舌と目の芸

女の俳優は、昔から存在した。奈良・平安時代には内教坊という女楽を司る機関があり、女性も舞妓・倡女として朝廷の儀式の奏楽に従事することが有った。なんと興福寺の舞人狛近真が鎌倉時代に著した『教訓抄』には「舞姿法」として、文舞、武舞、童舞、走物にならんで「女舞」が挙げられている。だが、歴史の中で女性芸能がとりあげられるのは、中世からである。天下のお金も活発に動き始め、これまでは寺や神社、はたまた貴族たちに呼ばれては赴き、金をもらっていた舞台は、観客をつのり金をあつめるという勧進興行を始めた。その背景には都では平民が貨幣を使って居たことがある。『看聞御記』によれば、永享四年(一四三二)十月、姓国から上洛した女申楽が勧進能を興行している。五、七人の美女が拓海に歌舞を演じ、表紙や狂言は男がつとめたが、主役は女で、遊君のような音声でみごとであったようだ。観世などにも劣らぬ猿楽芸で、六十三間の桟敷には無数の見物が群がった。後日、将軍義教も見物したという。この年、世阿弥は七十歳で、佐渡に流される二年前のことである。永享八年五月には桂の里で女猿楽があった。応仁の乱の前の都市、文正元年(一四六六)院が津には八条堀河で女猿楽の勧進があった。

女子の男取り

「ややこ踊」は女猿楽流行の中で作られた。天正九年一五八一年九月に宮中に招かれたややこ踊の記録が、現在のところ最も早い。「ややこ」とは赤子・幼児を意味する地方語だが、狂言の『お茶の水』などでは愛らしい十七、八歳の娘ーあちやーを指して「やや」といった例もあるから、年齢はそのあたりまで広げられる。富山では「たーた」という。ややこ踊とは、「愛らしい小娘の踊り」であった。翌天正十年五月、奈良における記録は、かつて慶長期の出雲お国の幼年時のものであるとの仮説さえ出されるほど、後の歌舞伎に繋がる芸能であった。「於若宮拝屋、加賀国八歳十一歳の女、ヤヤ子をとりと云法楽在之、カカヲトリトモ云、一段イタイケニ面白」とある。この一団は加賀国から上がってきたと称して、加賀踊とも呼ばれたらしい。数々の名前で呼ばれた少女の芸能の実態を諸資料の記事を頼りに想像すると、幾つもの流行小唄を続けて、演者自身がうたいながら踊るつまり諸国の人々がうたに合わせて踊る風俗そのままで、演者の最低単位は二人だったらしい。この芸能の中には、歌詞によって「小原木踊」「飛騨踊」などといった、いろいろの曲目が含まれていた。「小原木踊」はきっと「小原節」で踊る芸なのだろう。いままで宴や祭の余興でやっていた芸だから、最初は「イタイケニ面白」として好評であっただろうが、観客の関心は長く続かない。そこで一工夫をいれてみる。観客が飽きたところで、道化役の猿若が現れてモノマネをして人々を笑い興じさせる。あるいは狂言師が出て、滑稽な一人狂言や小舞を演ずる。これを変化として再び少女の美しいうた踊りになる。これがやや小踊りという芸能の実際の姿だったと想像される。 こうした趨勢の中で、この少女たちを宮中やら偉い人の前につれていって踊らせるのでなく、女曲舞、女猿楽にならって舞台芸能に移し替えてみようと思いつくものがいたとしても不思議ではなかった。しかし、日本の芸能誌の上に「オドリ」の「舞台芸能」はかつて存在しなかった。これは大いなる独創と言うべきである。(「邦楽邦舞の歴史」服部幸雄)

ややこ踊りの次の演目として講演されたものが、いまでいう「おくにおどり」と呼ばれている。真偽はさておき、「伊勢音頭踊之図」にはおくにおどりの成り立ちが説明されているが、もっともらしく、真偽は甚だ疑わしい。

上世に都も鄙も歌垣とて 春秋に若き男女立ちまじりて 音頭をあげ歌舞を行ひけることありき 後にはその風俗すたれたれど 秋のふみ月にのみ月にうかれて歌ひ踊る事ひなの国にぞ残りける この国にても伊勢踊と唱へて 其の遺風を行ひ来りしを 寛延の頃備前屋の主人感ずる所ありて 今の如くに仕組みたりとぞ こは住古弥生望みの日毎に この国なる小倭郷より齢六十に余る夫婦の者等の来て 外宮に鶴の舞と云う者を奏せし古例ありしを思ひ出てゝ 一にはその絶えたるを続ぎ 二にはかの歌垣の□りにし花を桜花楼上の春色にうつし都の花の名勝を音頭にあげて かゝへの女子等にねり踊らせて 伊勢詣の人どもの見物に供せむとて始めたるものなりとぞ さるを観客の褒賞せしかば後にはせりあげの舞台さへしつらへて今のごとくはなしたるなりけり

次に引くのは尾州家本『歌舞伎之草紙』に記録された「しのびおどり」である。

〽いとまごひには きたけれども
ごはんおもてで 目がしげければ(御番表)
まずおまちあれ
しばのあみども おせばなる(網戸鳴)
あはれあられが はらほろとふれ(降)がな
そのまあらせじと たつなあらせじと(立つ名)
たつなや
そのびおどりは おもしろしやおもしろしや

〽こひをせばこひをせば
廿三夜の 月をまて
ていていていてい ていからこ
しゃつきしや かんこはらみつ いやひよ
ついやついや ついやに
ひやうらろに うつほつほ
しのびおどりは おもしろやおもしろや

〽恋をせばこひをせば
人になさけを かけておけ
情ならでは 身にしまぬ
ていていていてい ていからこ
しゃつきしや かんこはらみつ いやひよ
ついやついや ついやに
ひやうらろに うつほつほ
しのびおどりは おもしろやおもしろや

〽こひをせばこひをせば
月なうらみそ うらみそ

〽ならぬやつこそ 物うけれ
ていていていてい ていからこ
しゃつきしや かんこはらみつ いやひよ
ついやついや ついやに
ひやうらろに うつほつほ

〽しのびおどりは あふておきねのなやの
もどりやれしやなら しやんならと

これは今日の女歌舞伎、釆女の歌舞伎踊りの詞章とされる物であるが、恋歌としてはどこか哀愁をおびている。亡き霊への恋情と哀傷をうたう。それは現実の恋でなく、夢幻の恋である。踊り念仏や盆踊りの恋歌は、実は亡き霊を迎える、そしてこれを送るための暇乞いの歌だったのである。歌舞伎踊りの恋歌が「しのびおどり」と呼ばれたのは、亡き霊を「しのぶ」ことからでている。しかも後に述べるように、現存の踊り念仏や大念仏や盆踊りには「しのびおどり」がすくなくない。元禄十六年一七〇三年にあつめられた小唄集『松の葉』の「しのびくみ」には

〽いとまごひには 来たけれども
ぼばんおもてで 目がしげければ
まづお待ちあれ
柴の編戸も押せば鳴るあはれ (雨散)がはらほろと降れがな
その間に あ〻笑止や 立つ名や
笑止と 立つ名や
忍び踊はおもしろやおもしろや
(以下略)

とあり、『歌舞伎之草紙』の変化であることが分かり、お盆の組踊にもうたわれたとおもわれる。之に対して、これらより古様な小歌が、越後の綾子舞いの「恋の踊」に伝承されている。綾子舞は、いまは新潟県柏崎市に合併された黒姫山麓の山村、女谷に伝わる郷土芸能である。

〽千夜もかよへ 百夜ござれ
其かねごと(約束)の 違わんままに
そろりそろり そろそろそろと しのびきて
思わずしらず よりそえば(添)
置かるるものは ただ

〽さー

〽恋をせば恋をせば 峠のおやくし(薬師) 御参りやれ
嶺のやくしは 恋の神
さてからこ はいや
しやうぬしやうんきしや
そりや かんこはらみき ついやひよ
はいや ついやついやついや (はやし)

〽恋をせば恋をせば 二拾三夜の 月をまて
月の 御りしやうも(利生) あるものだへ
さてからこ はいや
しやうぬしやうんきしや
そりや かんこはらみき ついやひよ
はいや ついやついやついや (はやし)(略)

芸能史上有名な「おくにかぶき」は勧進興行つまり金儲けのために都民に合わせて演出された舞台である。だから都民の文化に合わせて演出された。念仏踊は広く諸国に分布しているが、京都が本場であり、洛中洛外に名高い念仏踊りが行われ、京都人がこれを愛している。そもそも昔の念仏踊りは質素なものであった。それを大小鼓、太鼓の表紙に合わせて金を鳴らして踊る。さらには仏号の単なる反復高唱以外に、ユーモラスな「鈎かぎにかけては」という歌を歌う。姿も常の念仏踊りに似合わず華やかである。奈良絵本系の『かふきのそうし』で勧進聖姿のおくにが「こひのうた」をうたう。または南無阿弥陀仏と歌い、ホトケをよぶ。亡霊は念仏の声にひかれて出現し、生前の身の上を語って執念を晴らし、出離得脱すると信じられていた。第二段では名古屋山三の亡霊が現れる。この亡霊と話をする。口寄せの巫女曲舞の地獄語りはもっと陰惨に地獄の責苦をかたるもので、中世説経の姿をよく残す古浄瑠璃『桂泉観世音之御本地』ではながながと苦しみを語る。奥に歌舞伎ではこれをさらりと語った後、「浄土へ往生とげしめたまへ。なむあみだぶつ。」といって曲舞の踊り念仏、大念仏会の踊念仏で救済されるが、おくにかぶきでは舞台の上で酒盛りを始めて連れ舞いをする。美女が男装で大刀、大脇差に金襴の大巾着や蒔絵印籠や金瓢箪を腰に下げ、首に角稜数珠をかけ編笠をかぶり派手に風流を演じ、茶屋の女と戯れるのがカブキ踊りである。茶のおかかが二人の酒盛りと連れ舞いの席に出てきて、大勢の女共を呼び出して惣舞となる。最後は踊り念仏の席に出てきて引き庭入り羽の手法で結んだ。女白拍子の舞に、称名念仏という新しい風俗、説経法師によって語られてきた名古屋という人物、そして流行の茶屋を取り入れたのが、おくにかぶきである。当時最新の巫女物語である。 そこでおくにはこの怨霊を慰めるために生前彼が日夜遊んだという茶屋へ行き、共々、伊達男の格好をして、茶屋の女とたわむれるさまをお、さまざまの小歌につれて演じて見せ、最後、「お帰りあるか、名古三さまは、送り申そよ木幡まで」などという魂送りたまおくりの歌を一同でうたい、かつ踊って山三の霊を送り返す。という筋立てになっていた。(三隅治雄『日本舞踊史の研究』)筋書きは幽玄能と同じであり、夢と現が混ざり合う中で名古屋山三の魂が送られる。臨機応変に劇を展開する猿楽の狂言師の手にかかれば、世阿弥の能の筋書きをいかほど迄にも「もどく」ことができるのである。

『日本舞踊史の研究』で三隅治雄がおくにおどりを解説しているので大いに参考にしながら説明していこう。はじめに出雲大社の社人が出て、巫女おくにを京にのぼらせるべき子細を語る。次いで、おくにの道行の詞章があって、舞台は京に一転。折柄、今日は花の盛り。奥にはし方の鼻毛式を絵出ながら北野天満宮に参詣し、「貴賤群衆の折柄なれば、かぶきおどりを始めばやと存じ候」といって、僧衣を着たまま念仏踊を始める。

〽光明遍照 十万世界
念仏衆生 摂取不捨
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏

と鉦を打ちながら踊るところへ、その念仏の声に惹かれて、罪障の里から出てくる態で名古屋山三の亡霊が、観客の中に忽然と現れる。彼はかつて今日楽で艶名をほしいままにした遊蕩児で、のち作州の津山で横死したと伝えられる人物です。「さては昔のかぶき人の名古屋殿にてましますか」と驚くおくにに、山三は、喧嘩のためみずから不慮の師を遂げた無念さを語り、しかし、「よし、なにごとも打ちすてて、ありし昔の一ふしを歌ひて、いざやかぶかんかぶかん」ということになって、舞台はありしむかしをしのぶ茶屋遊びの場に展開する。ここに登場するのは、買い手の男に扮した阿国と山三、茶屋のおかか、それに道化役の猿若の四人。これがからんで

〽あただ浮世は 生木に鉈ぢゃとなう おもひまはせば きの毒よなう
〽あただお国は 柚の木に猫ぢゃとなう おもひまわせば きの薬
〽淀の川瀬の水車 誰を待つやらくるくると
など小歌六首につれて踊り、さらに、珍しいかぶきを見ようということから
〽我が恋は月にむらくも、花に風とよ、細道の駒、かけてぞ苦しき
というような「浄瑠璃もどき」を連綿とうたい踊る。そのうち、時が経ち、群衆も帰り、山三もこれまでと帰ろうとするが、一同なごりの尽きぬままに、拍子を合わせてさらにひと踊りし
〽お帰りあるか名古屋三様は 送り申さうよ木幡まで
〽木幡山路に行き暮れて 月を伏見の草枕
〽八千代添ふとも名古屋三様に 名残惜しさは限りなし

という山三を送別する歌のうちに終わるーという構成になっている。いづれも右手に撞木を持って、左手に鉦を持ち歩いは首にかけてならして踊った。京中の人が度肝を抜かれて喝采したことが想像がつく。

をくにおどりにも描かれている茶屋は、当時の流行最前線を走っていた。茶の湯が民衆の身近なものになり、所持の門前や河原など、人の群衆するところに茶屋が登場してくる。ここには決まって美しい茶屋女(茶屋のかか)をおき、客を呼んだ。この茶屋女を目当てにして通ってくる男たちに、例のかぶき者がいた。「かぶき者」と呼ばれる放蕩者・無頼が民衆の支持を得るという自体はここに発している。「かぶき者」のことばを、あきらかに「乱暴者・狼藉者」の意味に使った例がたくさんあるのはこのためであるが、 茶屋女とかぶき者との組み合わせは、当時の民衆の身近にある最も享楽的風景であり、憧れの目を持って眺めれらるものだった。何よりも勧進興行は季節の節目に行われる里の祭りとは異なり、舞台さえあればどこでも行う都会の芸の一面をもっていた。そして金儲けの種にこの舞台は使われた。すでに「ややこ踊」と呼ばれた時代から、演じである女性スターは遊女兼帯で、座の興行は、遊里が移動してやってきたようなものだった。それが慶長も中ごとになるととしには固定遊里がつくられ、それが遊女の顔見せを目的としてかぶき踊をりようしたために、その流行はいよいよ大きく広がり、江戸にも佐渡や長崎といった商業地域にも波及した。遊女歌舞伎が全盛を極める。その代表的なものが都の佐渡島歌舞伎の座であったということになる。『邦楽邦舞の歴史』を書いた服部幸雄の言葉に頼ると次のようになる。

遊女かぶきに行われていた踊歌を集めた『おどり』という写本がある(天理図書館蔵)その中には「小原木」「忍び踊」「して」など、三十余種の小歌が収められている。それによると、一曲の踊歌はいくつもの小歌を組み合わせたもので、ストーリーはないが、構成の仕方には各局に共通する法則があるのがわかる。すなわち、最初に「出端」の歌としてやや古風な歌謡があり、演者たちが舞台に揃うと、一転して当世風にくだけた、主として男女の恋心を歌う流行歌謡になる。それぞれ独立の小唄を四五首並べるが、一種一種の後には必ず囃子詞はやしことばを加える。最後は「入端」の歌になり、これはどの曲にも共通の二三種の歌に定まっていた。たとえば「戻ろやれ、しやならしやんならと」のような歌が歌われた。『おどり』に入っている曲は徳川漿明会蔵の『重美・歌舞伎図巻』(采女歌舞伎絵巻)の歌と共通のものが多い。阿国歌舞伎の時代からどんな変化があったのであろうか。一つは三味線が新しく登場することであり、いまひとつは何十人といったきらびやかな衣装の遊女軍が総踊りする演出が加えられたことである。この二点は遊女かぶきの性格を特徴付けている。『東海道名所記』が「その時は三味線はなかりき」とわざわざ断り書きをしていることによっても、また画によっても確言できる。ところが、いくらか時代がおりて遊女歌舞伎前世の頃になると三味線があらわれる。その登場の仕方は思いがけないものである。三味線は伴奏楽器の一つとして囃子形の座にあるのではなく、舞台の中央に、華やかに虎の皮を持って飾った床几に腰をかけた女性スター(おしょう)の手にだかれている。その「おしょう」を取り巻いた遊女たちが輪になって踊っている。三味線、このエキゾティックな魅力のある外来楽器は、はじめ伴奏楽器としてではなく、これを弄ぶ女性スターの魅力を強調する重要な小道具として使われたのであった。三味線と共に華やかに総踊が終わると、狂言師や猿若による滑稽な独芸が行われる。とりわけ猿若の物真似芸は見物を楽しませた。其の後再び遊女群が揃って出て、「風呂あがり」の真似と称して、より挑発的な踊りを披露した。これが、遊女かぶきの芸能のあらましである。女歌舞伎は動く遊郭として各地をまわり、慶長から元和年間(一五九六~一六二三)の頃には京都のみならず、佐渡の金山や南部白根銀山といった地域でも興行された。

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慶長八年は、おくには全盛時代であり、宮中にも召され、伏見城にも参上した。最もその時は異様なモノマネ狂言はやらずに、初期の念仏踊り、やや小躍りの類を演じたらしい。即ち京洛の上流下流を問わず、世は挙げておくにの魅力に酔った。カブキという名が、おくに、お呼びその模倣者の技芸に当てはめられたのは、この頃である。かぶきとは当時の俗語で、好色、放蕩無頼を意味し、悪さをして捕縛された各地の犯人は、「カブキ者」といわれ、今で言う不良少年だった。カブキという言葉自体は日本後紀桓武天皇延暦十八年秋七月にのっている。慶長八年、出雲のおくにの登場と同じ都市に、キリシタン版の日本語辞書『日葡辞書』が刊行されて、収録語数約三万二千余のなかに「かぶき」という語も収録されていた。『当代記』の慶長八年四月の嬢には「此此かふき躍と云事有、是は出雲国神子女(名は国、但非好女)仕出、京都え上る」とある。『徳川実紀』(天保十四年寛政)も「京より国という女くだり、歌舞伎という戯場を開く」とあるように漢字で記されている。、同年の『異本塔寺長帳』には「今年、出雲国ヨリ狂言歌舞伎始」とあって、早くも狂言と歌舞伎がつっついている。「かぶきをとり」という名称の初見は『慶長日件録』の慶長八年(一六〇三)五月六日の条である。

この舞台を成立させたのが道化である。『東海道名所記』万治二年(一六五九)には伝助という男が書かれている。

昔々、京に歌舞妓の始まりしは、出雲の神子にお国といへる物、五条の東の橋詰にて、やや子踊りという事を到せり。(中略)かくて三十郎といへる狂言師を夫にまうけ、伝助といふ物をかたらひて、三条縄手の東の方、祇園の町のうしろに舞台を立て、さまざまに舞踊る。三十郎が狂言、伝助が糸よりとて、京中これに浮かされて見物するほどに(以下略)

糸よりとは、延年風流で人気であった稚児舞の曲の名前である。伝助の記事は『扁額軌範』にも書かれている。

又是に伝助といふ。風戯者。於国が歌舞を助く。此者、性魯鈍にして人を笑はしむ。是を猿若とも伝助がさるがふとも云。是よりして狂言に猿若あり。是、皆仮に伝助がさるがふを似するものなり。

皆が見習うほどに猿若、伝助などと呼ばれる狂言師の舞台は人気を博していたが、能と共に式楽として息を繋いでいた狂言からすれば、勿論邪道であった。寛永 十二 (一六三五) 年に大蔵流の最初の台本である『虎明本』の書留を完成させた大蔵虎明が南都禰宜の狂言に対して「世間の狂言」として次のような非難を浴びせるところの風であったようである。

体もなく、あはただしう、らうがはしく、そぞろ事をいひ、くねくしくかほ々ゆがめ、目口をひろげ、あらぬふるまひをして笑はするは、下ざまの者よろこび心ある人はまばゆからん。是世上にはやるかぶきの中のだうけものと云也。(中略)能の狂言にあらず、狂言尾狂言ともいひがたし。たとへ当世はやるとも、此類は狂言の病といにしへよりも言ひ伝へ侍り。

福岡正太は『インドネシア芸能への招待』で、踊りと道化の組み合わせの絶妙さを書いている。西ジャワにあるチルボンという街で行われる芸能、トペン・チルボンという芸能は、基本的に居つつの仮面を付け替えながらソロで踊る舞踊である。

トペン・チルボンの上演においては、ボドールと呼ばれる道化が重要な役割を果たす。踊りと踊りの間には、ボドールが登場して滑稽な話や動作、時には踊りによって観客を笑わせる。トペン・チルボンには、踊り手がソロで踊る仮面とは別に、様々な滑稽な仮面があるが、これらの仮面を付けるのは、このボドールである。

 

  男子の女取り

 

おくにかぶきが興行される時代を同じくして稚児や若衆の芸能には、放下など、散楽譲りの軽業をするものがあり、これが武士や民衆に愛好されていた。たとえば蜘蛛舞は空中に綱を貼り渡した上に登って、いろいろな芸をしてみせる一種のサーカス芸である。その源流を遡れば、平安時代以前に外国から渡来して寺院で行われた呪師しゅし散楽あたりに行くものと思われるが、いずれにしても肉体的条件から行って、これが若衆の芸とされたのは当然である。天文十八年一五四九年というから慶長を遡ることおよそ五十年の頃に、京都の五本松で蜘蛛舞の勧進興行が五日間あり、毎日五、六千の人が集まったという記録がある。天正十六年には、ややこ踊といっしょに宮中に呼ばれたりしている。女かぶき全盛の背後にかくれて、これらの若衆の風流踊りやかるわざの芸能が迎えられていた事実を認識しておくべきだろう。浅井了意の『江戸名初記』には若衆の色気が書きつけられている。

かの若衆どもの髪うつくしく結ひ、うす化粧して、小袖の衣紋じんじゃうに着なし、ほそらかなる声にて小歌をうたひ、はしがかりに煉り出たるありさま、芝居の輩は前なるは桃尻になり、後ろなるはのびあがり桟敷にある方々は耳もとまで口をあき、よだれを流し、あまりの耐えがたさに声うちあげて、あれあれ御影向の御すがた、天道さまじやとよばはれば

この史料は寛文二年(一六六二)還幸で、野郎歌舞伎時代の物であるが、このような観客の美少年に対する熱狂が合ったとすれば、若衆歌舞伎の劇場の様子が之に劣らない物であったことは察しがつく。「童男カブキ跳」これは安土桃山から江戸時代前期頃の公家である西洞院時慶の日記『時慶卿記』の慶長八年(一六〇三)九月十七日にみられる記録である。女達が肉体を売っていたのと同様に、若衆も肉体を売り物にしていた。女たちが「茶屋遊び」を中心に歌と踊りを演出したのに対し、若衆は枕返しや獅子舞、軽業などの芸で客をひきつけた。ここで関心をひいたであろうものは振りと舞いだ。「芝居のやから」は観劇料金の易い磧の客の事、前の方の安い見ている客は落ち着きなく尻を動かし、後ろの方に座っている客は伸び上がって見ている。料金の高い桟敷磧の見物はにんまりと口元をゆるめよだれをながしおもわず声をあげてしまう。菱川師宣の『若衆遊伽羅之縁』(一六七五年)は、若衆を主題に男色をあつかったものだ。そこにはかなりの数の女性が登場してくる。例えばその第四図では武家の小姓がその家の女中と交合している。詞書を読んでみよう。

ある者、若衆とねんごろして有りしに、ある時ふときたりて見るに、内に召使ふをものしを語らひ、今を最中のてい也。念者このよしを見てうとましくなりて、ねんごろを切りてけりとなり。

恋人の若衆が女の召使いと性交しているのを見て疎ましくなってしまい、別れた、という。この場合、念者の家に澄んでいる若衆が女を誘ったと考えるよりも、客が連れ込んだようです。第十図では、男三人、女二人の取組が描かれている。

ある人の方へさる屋敷方より見目よき女きたりける。かの者、日頃執心の若衆に合せける。若衆よろこび爰を先途とたたかひける。かのもの良き首尾と思ひて若衆に取りかかりしに、寔の若衆きたり、引のけんとしければ、女房の腰元また若衆に手をすりければ、若衆もよきことと思い其のまま取にかかりしとにや。寔によき為組也。

これは、さる屋敷の奥方が他家の若衆に執心して伴の腰元を連れておもむいたところ、若衆も喜んで其の奥方の相手となった。其の家の主人も男色好きで、奥方と交合中の若衆の背後からその肛門を狙う。ところがそこに主人の念友であるもうひとりの若衆がやって来て、其の主人を引き離そうとするが、それを見ていた伴の腰元が手をすりあわせて後から来た若衆に頼む。其の若衆も「よきことと思ひ其のまま取にかかりし」ということになったという。

民衆を愛しいほど狂わせるカブキの態は例によってお咎めをうける。寛永六年一六二九年に女かぶきが幕府の命令で禁止されるとともに、若衆の「おどり」が「狂言」にかわった。猿若の役割が大きくなったからであるようだ。それから「かぶきおどり」が「かぶき」となる。禁令がおりるたびに名前が代わり、ある時代では若衆歌舞伎と呼ばれる。『御触書寛保集成』の記録によると、承応元年一六五二の若衆歌舞伎禁止の条文には「此たび若衆歌舞伎御法度に仰せつけられ候に付き、町中にてかふき子のようなるせかれ抱え置き、金銀を取り、公界(くがい)致させ申すまじきこと」とあり、御法度の対象には「歌舞伎」の文字が記されている。 そこでも「狂言づくし」という名で観客は「かぶき」を享受し続けた。「狂言尽くし」という言葉は、古くは寛永十七年(一六四〇)の江戸町触にみて、上方では『隔冥記』に正保四年(一六四七)以後散見する。しかし我々に取って印象深いのは、江戸の芝居小屋を書いた図に、必ずと言っていい程記されている櫓幕の「きやうげんつくし」の文字だろう。櫓幕に「狂言尽くし」と大書する甲斐がは『声曲類纂』巻之四所収の「寛文古画堺町葦屋町芝居の図」あたりが古いものである。

ところで歌舞伎という語は紀州藩家老、延宝から元禄にかかれた三浦為隆の『年中日記』には「歌舞伎」の語は見当たらず「御慰物」「芝居」「狂言」「狂言尽」などと示されている。その他多くの日記にでてくる表現も「狂言芝居」「物真似芝居」などはありますが、「歌舞伎」はほとんどない。そう欲するのであれば、ここに、能と決別した狂言師のプライドを読み取ることもできる。

非人の狂言

狂言の表現

この節は全面的に郡司正勝の『かぶき 様式と伝承』によっている。殆ど引用である。心ある読者は直接読んでいただきたい。
狂言かぶきは、河原者といわれた底辺階級の俳優によって、遊里と並ぶ二大悪所である芝居小屋の中で育った。狂言カブキを指示した一般庶民階級は悪所で使われる言葉の自由さ、精神を好んだにちがいない。その結晶を劇場の中で感じて喜んだのである。そしてこの頃は京都という因縁に満ちた土地を離れて江戸を中心とした新しい秩序を作る徳川幕府の時代である。片田舎であった関東の鎌倉を過ぎてさらに東に江戸を作る。そこは江戸の新しい暮らしがあり、言葉があり、習俗があった。

『助六由縁江戸桜』「鼻の穴へ屋形船を蹴込むぞ」であるとか、「慮外働くうんざいめら、えり髪つかんで、片つぱし、あかん堂の家の棟から、築地の海へほふり込むと、ホヽ敬つて申す」(明和八年 森田座)といった言葉の使い方には日常を越えた力が込められている。「ホヽ敬つて申す」とは祭文にでてくる常套句です。五代目団十郎などは、花道のつらねと名乗ったほどの狂歌の名人であり、狂歌集も、二、三は公刊されたほどだが、狂歌は、若野伝統ながら、精神は俳諧であって、見立ての発想を最も生命と摺る物であった。

江戸ッ子の産声 おきやァがれと泣き(川柳)

江戸ッ子は生まれながらにして、遺伝的悪態精神をもっていたわけでない。生粋の江戸っ子と称する物は漁河岸、船頭、職人らの労働階級に属し、彼らが、命とし、理想とするところは「いき」であり「いなせ」であり、「きゃん」であり「てっか」であった。(郡司 正勝『かぶき 様式と伝承』)歌舞伎の言葉、精確に言えば江戸の庶民の言葉は貴族の作り出した和歌や公家の言葉、もしくは式楽とされた能にしてみれば「過差」であり「婆娑羅」にちがいなかった。しかしそれは民衆が都市を生き抜く暮らしの中で培われた力であった。京都の例祭で病の流行る時期になると悪霊を寄せ集めて川に流す例祭が行われたが、これも舞台の空間に写し取られた。風邪がはやる十一月には荒事を演じる等して除災をはかったのである。代々成田不動の信者の市川団十郎家(成田屋)の「不動」などはこの代表的な物である。悪態は、神事に付き物の「無礼講」であって、これが舞台の上で日常化するところに、江戸幕府が丁重に規制をし続けた理由があるように思える。

荒事を成立せしめている風俗の一つとして、荒人神の信仰がある。俗に「雨の五郎」といわれる長唄の所作事がある。天保十二年七月江戸の中村座に上演されて以来、五郎の所作事のうちでももっとも流行った曲であるが、その歌詞に、

〽孝勇無双の勲は荒人神と末の世も、恐れ崇めて今年また、花のお江戸の浅草に、開帳あるぞ賑わしき(『武江年表』)
〽裾野に類ひ荒人の神の奇瑞ぞ有難き」(嘉永四年正月 中村座『曽我の対面』)
「現人神か鳴神とかみなみな(く)怖れて見えにけり」(「源平雷伝記」元禄十一年「鳴神」)

柳田邦男は『妹の力』ので御霊信仰を説き、その「ごりょう」という言葉から「五郎」という英雄神を生み出し、鎌倉権五郎景政や、大人弥五郎などの人物を創り出したという。そのほか荒事の主人公たちが多く、この五郎の名をもっていることも篠塚五郎、鎌倉権五郎、大館左馬五郎とか竹抜五郎などの役名、またこれらの荒人神に扮して喝采を博していた元祖市川団十郎が敬神讃仏の情のすこぶる厚い人間であったばかりでなく、彼の祈請した神仏は、三宝荒神や不動や愛染明王などのいわゆる憤怒の形相をしている荒神が中心にあり、その日記に之等に扮する自分の演技を「これ人倫のはたらきならず」と記していたことを考えると、カブキ役者は舞台の上にあって荒神の依り代である。

『役者論語』に「立合あるひは太刀打の時。かげを打とて大きな拍子木にて、ぐわたぐわたぐわたとたたく。むかしはか様の事はなし。或は滝をつかふか。鬼神など出合ふ時には。たたきならせり。(「続耳塵集」)」ということが荒事とつけの関係を示唆する。古代、獅子舞の出現にはかならず「乱声」があったことは『栄華物語』に「楽所の乱声えも言はず、おどろおどろしきに、獅子の子ども引きつれて舞い出でて」とか『日吉社並叡山行幸記』に「獅子の乱声ならしければ。狛犬は地にふし。獅子は舞台にのぼりて」とあることによって知られる。日本の獅子舞と共に歌舞伎も、鬼や竜の混血児なのである。

怪力は怪奇であり、鬼の力でもあったが、それは荒事という言葉が生まれる以前から人々の語りの中にあった。

平家の残党悪七兵衛景清は、琵琶法師が弾き語る『平家物語』では強力勇壮の勇者として聴衆の耳に刻まれる。屋島に流れた平家を、義経は嵐をついて海を渡り急襲する。そして、那須与一の「扇の的」で有名な屋島の合戦で、悪七兵衛景清が登場する。それも十行にも満たぬ格闘シーンである。源氏方の美尾屋十朗の太刀が景清の長刀に折られ、組み討ちになる。互いに首を獲ろうとはげしく揉み合ううち、景清が美尾屋の兜の錣に手をかけ引っ張ると、釘付きの板からちぎれ、2人はどうと左右に分かれる。すごい腕力だと美尾屋が褒めれば、景清もお前の首の骨こそ強いぞと湛え、景清は引きちぎった後甲の錣を長刀で刺し貫いて大声を上げる。

遠からん者は音にも聞け。近くは目にも見給え。これこそ京童の呼ぶなる上総かずさ悪七兵衛あくしちびょうえ景清よ。
この物語は形を変えながら、近松門左衛門「出世景清」で再び語られることになる。

悪態や狂言は婆娑羅であり過差であり、批判であり、もどきであり、笑いである。『河竹黙阿弥』という本で今尾哲也は次のように書く。これをよむと、芸能になっても歌舞伎はいつでも「かぶく」精神をもつことで、または「かぶく」ことで歴史を生き抜いて来た人たちであったから生まれて来たのだろうと、私は思うのである。このことを今尾哲也は『河竹黙阿弥』で次のように述べている。

「木阿弥は、座付の狂言作者という立場で作品を書き、役者の名前を書き続けた。彼は、何よりも先ず、徳川時代の歌舞伎の作者であった。しかし、それと同時に、彼は維新による社会の変化を経験し、西洋文明の恩恵に浴した新時代の人、文明開化の人であった。彼の物語の根底にあるのは「もどき」であり「かぶき」であり、作品の構造の中に批判が含まれている。「わざと天地をさかさまに云なし、直なる物を無理にまがらかし、一句の妙体をたてじ、月日を下部の仕物にし、太神宮を紙屑買にたとへ、天満神を傾城になし、天の逆鉾を摺少木にし、天王に犬の馬痢をなめさせ。」(「破邪顕正」)ということになれば、さらに、神聖を犯す「をかし」としての領域に、一歩進めることになる。「もどき」には、もと、本意に逆らうの意味がある。かぶきの殿様が「予が意をもどくか」というとき、そこには一種の反逆精神を指定したことになる」

 

表現をねる

荒事の代表的劇術として知られている「六法」というものがある。神輿を担ぎ「神輿荒れ」をする六方衆の「ねり」の葦の踏み方振り方であるという。各地の荒舞・荒踊あるいは奴踊と称するものはみな荒神の振舞を模しており、その意志を承けた下級神人・六方衆・河原者・奴らの所作である。武蔵国橘樹郡鶴見村の杉山神社の田遊びの神寿謡には、次のごとき囃詞が唄われていた。

ねれく、ねれくや、我まへをねれよ、とうねれ、はかまのや、すあうかさ、ねれよ、世の中がよければ、ほながのぢやうも、まいりたりく(栗田寛『古謡集』)

東北に残る山伏神楽にも例がある。舞人が出れば、ここに一しきりの舞になる。おおくは胴取の神歌に合わせ、ねりと称する四方拝む、若しくは四方固めの舞を舞ふ。(本田安次『山伏神楽・番楽』)和事の丹前、荒事の六方といい、この国の中世以後の日本の芸術が、凡て腰の入れ方を基本に発達したのは、日本の神事に普く関わった非人の練りの影響である。神輿を振り回して喧嘩するのも、彼等の身体から飛び出る作法であろう。神輿をかつぐ掛け声と、土木作業で重い物を運ぶ時に使った木遣りは、彼等「練り衆」の体でひとつになる。

貞和五年の四条河原の勧進田楽の盛況を写した『太平記』には稚児が「煉り出し」をしたと伝えている。

「両方ノ楽屋ヨリ、中門ノ口ノ鼓ヲ鳴シ、音取ノ笛ヲ吹立タレバ、ニホヒ薫蘭ヲ凝シ、粧紅粉ヲ尽シタル美麗ノ童八人一様二金襴ノ水干ヲ着シテ、東ノ楽屋ヨリ煉リ出タレバ。」

故梅玉本『かぶき草子』に「名古屋もさすが名あるかぶきとて、劣らぬ様にて打連れ、楽屋のうちよりも、由江ある様にて、猿若を伴として、橋がかりを練りたるは」と書いてあるとおり、かぶきは能ではなく、猿楽の法によった。『猿楽伝記』によれば、能の道成寺の蘭拍子が公家の練足の足取りで踏んだのだと記す。金春が家伝の道成寺について

「尤極伝なり、元其謡は、金剛が方にて作り出したるを、金春が方にて能に仕立る。其蘭拍子は、大臣公家の束帯の時、練足といふ足取の法を写したる物也、練足は、堂上方高官の御衆にも伝受事にして、息合腰遣ひ、足の踏やう習ひ有と云、春日の直神楽の時、練足の仕形を以拍子を踏、猿楽にて是を見立て、乱拍子を踏出す、逍遥院殿(藤原実際)猿楽の乱拍子を踏を見て、我家の練足に似たりと被仰たるを、観世聞伝へ、夫より、毎度参り、御伝受を乞願ふを以、被仰聞たりといひ伝ふ。」

この乱拍子が、紀州の道成寺の石段の数を踏むものだと言われている通り、「練」は道行の所作であり、もとは道行で行なわれた反閇であった。『作法故実』(『群書類従』百巻)にも「練歩事」という箇条に宮廷の儀式に置ける練の作法が記録されている。「早練」「遅練」「荒練」「細練」「練始」「練留」といった練りの種類、方法が記されている。またその技術の基本を為す物は、腰に合った事が記されている。この事は『梁塵秘抄口伝』の巻十一に「松殿殿下基房公仰せには、ひき笏のねりの時は、こしに力を入れて両の手と足と腰とに、一所にてイキにしたがうおのなり。其いきに口伝あり。」とまで書かれている。

「ねり」を使う力者といわれる非人がいた。『天竜寺臨幸私記』「三百年来。仏法日衰。似沙門形。面非沙門者多矣田楽法師。力者法師等是也」とかかれているとおり、法師の姿をした乞食であった。『わくらはの御法』(明徳元年)では「力者は色々に足を文て輿を舁く」といわれる。力者一般は『三好筑前守義長朝臣亭江御成記』「群書類従」四〇九巻に「御小物。御厠者。御輿舁。御下部。御力者。牛飼。舎人」という職業と並列されている。彼らの仕事は『今川大双紙』(四〇二)「主人の御袋を持事。中間小者。りきしやにはかはるべし。小者は袋の頭を取べし、力者は緒を執て。下をかかへて可持也」主人のお供に、物を運搬する役目である。『神祇官年中行事』(八八巻)に「乗輿 力者十二人」とあるが、彼らは六人を一手といい、十二人を二手といった。『類聚名物考』の奴隷の項には「りきさ」とあり、「此輿に召し候へとて、児と童を掻のせて力者十二人、鳥の飛ぶがごとくに行けるが」と『秋夜物語』を引用している。腰の踏み方と足の入れ方が、「道行」の形において総合した技術が「練」であり、後世の「六方」であったとおもう力者の後身である「六尺」の輿の舁きようについて『嬉遊笑覧』は、次のごとき技術をあげている。

手づかひには、種蒔、およぎ、鴟口
足づかひには、きざむ足、戻り足、そり足、かよひ。
腰づかひには、ひねり腰、すえ腰、中腰、および腰。
彼等の身体から歌舞伎が生まれ、現代にも日本舞踊として、また武芸としても残されている。