Contents
結:ヒトとモノノケ/人と熊
獅子はカミだ。人の手に負えない悪さもすることもあるし、人間が利用することもできるカミだ。獅子は人も、蛇も、鳥も、鹿も、熊も、龍も、神をも喰らいながら血を混ぜて現代までたどりついた。モノに対して僕らはどれだけヒトであろうか。ヒトもケモノも弱肉強食の世の中で、動物園の檻の中で暮らしているかもわからないほど慌ただしく働いている。口にしているのが仲間の肉なのか、自分の肉なのか、敵の肉なのかもわからない。みな一様にして獅子であるけれども、よくみれば格好が違う。君はどこの獅子だい?どんなものを食べて入るんだい?どこに棲んでいるんだい?差し出された手に噛み付く獅子もいれば、愛嬌よく尻尾をふる獅子もいる。俳優の姿を追いかけながら、私は熊に辿り着いた。獅子は中国、韓国、沖縄、インドネシアにまで存在している。
シシとは、ヒトの心の片隅の陰りの部分に住み着いた魍魎を食べるようにしてヒトの心に巣くうモノノケにつけられた名前だ。歴代の俳優達、演出家たちは、名もないモノノケに名前を与えて形も与えて演じ続け、語り継いできた。ヒトの心は、モノノケの棲家である。
私は富山に来てから、芝刈り機で草を刈る日雇労働者をしていた。ある日、草むらからカモがひょこひょこと出て来た。草刈り機が音を立てて回っている一メートル先である。驚いてみると巣の中に卵があった。この草むらを刈らなければ私は仕事ができず私たちはおまんまを食べられない。しかしたかが草刈りのために鴨の命を無視することはできない。いっそのこと、私はカモの卵を、命を食べてしまおうかと思ったのだ。
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棲む
竪穴式住居をつくるとき、まず土を掘る。窪みというのは人間が安心して眠れる場所だ。棲むとかけば、女になるが、住むと書けば、男であろう。元来、家の中にいるのは女であって、柱が立ってからは男もこれに混ざったのだろう。さておき、人は野原の真ん中で野宿をするにも、何か茂みのような隠れがを見付けて眠る。山と山の間、影のあるところ、窪みというのは、囲まれており、避難場所であり、安心させる場所だった。これを模して家ができる。「ほる・もる」は「ほら・もり」に通じる気がする。『古事記』上巻記載の神名のなかに「天之闇戸神、闇於加美神、闇御津羽神、闇山津見神」が出てくる。どの神も谷間、暗い所と関係がある。クラとは元より、闇の意味が含まれている。「古代人と夢」で西郷信綱は「『類聚名義抄』は「窟」をイハヤ、アナ、ムロ、スミカ、ホラ、イハムロ等と訓ませている。また日本書記は、室、房、窟、館などの字をムロと訓んでいる。本来ムロ(ムロヤ)は、石器時代の棲家としての岩窟や洞穴のことを云っていたのが、さらにひろく家屋形式の部屋のこともさすようになった語であるらしいことが、これでおよそ見当がつく。」と述べている。 僧房や庵室を主としてムロと呼ぶようになる、その語感ともそれは合致する。
マタギの風俗を調査した赤羽正春は、越後粟ヶ岳の狩人、小柳豊は熊が里に出てくるのは暗闇からであるという。モリの外れの一番くらい場所は、森の隈で、ここに熊が動く場所があるという。熊とは隈を動く動物なのであるという。(赤羽正春『熊』)こうなれば、熊、黒、隈、闇、蔵は不思議と同じ印象を与えてくる。山の狩人は、集団で行う巻き狩りの猟が行われる以前には、熊が冬眠している穴を伺う猟、アナミを主体に行っていた。狩人にとっては穴に潜んでいる熊を捕ることがもっとも危険性が低く、確率が高かったのである。例えば、イワナガタンの岩穴では銃猟普及以前のもっと古風な猟法が行われていた。猟者がバンドリ(蓑)を着てクマヤリ(熊槍)を携え、穴に潜入する。古老の伝えによれば、熊はバンドリを来た猟者を自己と同類の者と見なし、危害を加え無いどころか、かえって後退りするという。そこで、後退りした熊の心臓を槍で一突きし、よくえぐるようにして仕留めたと伝承する。きわめて古風な猟法である。(森俊『猟の記憶』)このような血みどろの戦いを繰り広げた後には、春がやって来る。熊は冬眠で穴に籠るが、雌熊はここで仔を産んで春先の雪解け時に出てくるのである。人間も雪解けの時期に祭を行う。恐らく自然歴を用いていたころは雪解けの日が正月だったのだろう。春先に集落全員が関わり参加する祭りで、熊を捕って食べる地域がある。北陸地方から飯豊山麓や朝日山麓を抱えた東日本である。このうち、新潟県山熊田や日出谷、千縄、富山県五箇山などでは春祭りに熊の肉を口に入れるのを、人が生命力を回復するためと位置づけていた。
クラは魑魅魍魎、熊の世界であって、また日本では異空間とされ、日常とは別の世界に通じている。古代人の間に伝わるもっとも普遍的な修行の範型は成人式をおいて他にない。これは、子供として死に大人として再生するためのいわゆる通過儀礼であって、其のとき若者は、一定期間村人から山中などに隔離され、そこで厳しい試練をうけ、それをくぐりぬけて始めて「大人」となる。次の引用は西郷信綱の「古代人と夢」からである。
いま私がとくに関心をよせるのは、アカマタ・クロマタが「ナビンドウ」と呼ばれる神秘な場所で生まれそこから村に来訪する点である。この語につき『八重山語彙』(宮良当壮)はいう、「鍋(ナビ)の底の如き凹所の義にして、根の国・底の国に通ずる所と信ぜり」と。「ナビンドウ」ーそこをこの夏、私は訪れたがーは比喩的には一種の洞窟なのである。この豊年祭りが数々の試練と懲らしめをふくむ成年式儀礼でもあり、男子の秘密結社によってとりおこなわれるものであることをも考慮に入れるならば、オホナムヂという神格の形成、その根の国訪問の話が、ほぼこれに似た祭式を下地として生長してきた道筋が見通せるのではないかと思う。
喰らう
『熊』赤羽正春を読めば、熊が人間に見えてしようがない。
本土の熊(ツキノワグマ)の食習は植物食傾向の強い雑食である。ブナの芽、タムシバやコブシの花、タケノコ、木イチゴ、クルミ、ブナの実、ヤマブドウ、サルナシ、蟻、沢蟹、魚、羚羊などをたべる。北海道以北の羆(グリズリー)も植物食を中心とするがエゾニュウなどのセリ科大型植物の他に動物質を好み、ザリガニ、鮭・鱒を獲って食べる。行動圏では特定の縄張りを作らないとされている。性成熟に達するのが雄で二から三歳、牝で二から四歳とされている。登記は冬眠をし、雌熊は仔熊を冬眠穴の中で産む。交尾期は夏である。熊は大自然の象徴であり、人に熊が授かるということは、熊に付随する多くの植物や動物そして環境を授かることであった。熊野食べる山菜は人も食べるようになっていく。熊野大好物である蜜は遥か昔、熊から教えられて里人が養蜜を始めた道筋が考えられる貴重な食べ物である。ヒメザゼンソウは熊が食べていることから人も食べる事を学んだ道筋が山形県金目の調査から明らかとなっている」また「熊が食べないキノコは人も食べられないという。漁業が始まるのも、魚を捕る獣をみて人がソレを真似たと考えるのが正しいだろう。一番原始的な魚鳥の方法は、川の岩場に手を突っ込んで握って獲る方法だろう。それから道具をつかって地形を作り、追い込む。それから道具を使って突き刺す。網を使う、それから餌を附けた釣り針をたらすという手順だと考えるのが、常識的である。沢筋の栗林がクリタマ蜂で全滅した時、池ノ平の原木の中に、クリタマは地にやられない種類のものがあることを見つけ、この実生苗を持ってきて植え替えた。大井沢にも海抜六〇〇メートルの場所に大井沢の栗の原木といわれる木が現存している。栗の伝承には奥山の原木の話がつきまとっている。かなり古い時代、人は奥山から栗を自身の集落の周りに植えたのであろう。栗苗は人の手が入ることで他の競合する植物から抜きん出て大きくなることができる。(略)植物の密集する山中で栗の原木の在処を人に示したのは熊であろう。狩人が熊を追っていると山の神様が「栗の木」の在処を教えてくれたという案配だろう。熊が食事をする作法というものも、誠に人間臭く描くことができる。木の実を食べる時、クリ、クルミ、ブナ、ナラ、ミズキなどの木の実を食べる時、熊は木に登って棚を架け、ここで木の実を食べるという。新潟県岩船郡旭村の奥三面の小池善茂によると、熊は早朝、一〇時頃、三時頃の三回食べるという。また夏には沢ガニなどを食べていてあまり木に登らないという。熊も涼しい場所で蛇や蟹などを食べて過ごすというのである。ミズナラのドングリも彼等の好物である。ミズナラの木には傷口からマイタケ(舞茸)の菌が浸入することから、熊が登った木にはマイタケが生えるとする奥只見の伝承がある。蜂蜜ほしさに大木に齧りつき、手の届かない蜂の巣を三年かけて幹をカジリ倒し食べたという話もある。自分を動物とは違う人間だと思う以前、熊は同類であって、毛物を着た同族であった。籠るということも、物忌という衣を着る以前は人間や熊にも共通する冬眠の期間であって、輝きを増した太陽と共に目覚める場所である。熊から教わり、熊に学び、熊を食べて生きた。
富山県と新潟県の境にある芦峅寺では熊野東部を煮込み、脳漿を食べた。皮を剥いだ熊の頭部を③時間ほど水炊きした後、人参・大根と味噌を加え、肉と骨が分離するまで煮込む。頃合いを見計らって汁をすすりつつ肉を食べる。肉を食べ終えると、頭骨を割脳漿を出して食べるのである。脳漿を食べると頭によいと解している。北海道の十勝アイヌも脳漿を食べる。雄熊の場合は頭骨の右側に、雌熊の場合は左側にマキリ(小刀)で小アナを穿って脳漿を出して食べる。そして、空洞化した頭骨内にイナウ(削り掛け)を詰め込み、戸外に晒す。食べることは葬ることである。富山県北部の朝日町蛭谷の猟師と競合関係にあった宇奈月町音沢の猟師の貴重な狩猟伝承も森俊の『猟の記憶』に書かれている。
ある時、政信氏は、音沢の両氏が捕獲した猿の手の平に真一文字に白い脂肪が出るほどに小刀で切れ目を入れているのを目撃した。その理由を問い質したところ、次のように語ったという。「或る時、猿を捕っていると、近辺でたまたま白髯の老翁が猿を解体しているのに遭遇した。其の老人は猟師に向かって「お前ら、殺してばかり居て後始末しないとは(解体しないとは)何事か」と一喝したという。其の様なことがあって以来、猿を捕獲する度に、形ばかり解体した印としてその場で手のひらに小刀で切れ目を入れるようになった…。」
葬る
青森県下北郡川内町字畑。獣を殺した後に引導をわたす儀式の中でつぶやく呪文を「オカベトナへ」といっている。オカベトナへの呪文を畑では「法」だとか「法言」といわれ、オカベトナへは野生鳥獣の死送りだけにかぎらず生活上のさまざまな場面でも使われるという。著者である根深誠が聞いたものには、「きよ水やきよ水や、音羽の滝にたずぬれば、失い針のいでししきかな(アビラウンケンソワカ三回)」これは裁縫針を失くしたときにかける法である。(根深 誠『山の人生 マタギの村から』)越後赤郷では、熊の解体時、熊野ムキミの上で剥いだ毛皮を「千匹万疋せんびきまんびき」と唱えながら三回振る儀礼があり、この儀礼自身も「千匹万疋」と呼んでいる。(略)捕獲した熊は、猟場で解体し、一部の臓器を摘出、山神への供物にするのが通例である。芦峅寺では、熊を解体すると、センビキマンビキと称する膵臓を摘出、それを切り刻んで四方位及び恵方に撒き、山神に豊猟を祈念した。富山県の五箇山にある平村の下梨では、肉を切り裂いたら諸々の臓器を摘出するが、最初は「タチ(膵臓)」を摘出して山神への供者とする。一人が「タチ」を取って「出すよ」と声を掛けると、周りの者は見ないようにする。そこで「やるぞ」といって、後方へ振り向かずに丸ごと投げる。飛んでいった方向を見ても、何も残っていないという。膵臓を供物にする伝承は北陸にあっという的に多く、愛知県から東北に懸けて広範囲に分布する。(森俊『猟の記憶』)東日本では、熊の耳元で諏訪明神の神文を唱え成仏させるとか、人の葬送における「サカサ衣」のように、剥いだ毛皮をムキミに裏返して前後逆に着せて成仏させるという儀礼があった。ちなみに北方シベリア狩猟民族は「ふつう仕留めたその場で熊の毛を剥ぎ、傍らで火を燃やす。トゥルハンスク地方のツングースには、この火の上を飛ぶ習慣がある。カラガスは熊を穴から引きずり出すとすぐに、杜松の木の枝と脂肪に火をつけて煙で燻す。そうして毛を逆撫でして「キク、キク、キク。Kik」と唱える。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)」毛を逆撫でするというのはどうも日本のマタギもしていたようであるが、だいぶ形は変わっている。
解体したクマを持ち帰る前に、「ケサキアゲ」という儀式を行う。まず「すぐ生る柴を切る」と唱えて、ナタで付近のシバを切り、「マッカ」(二股)になった二本の小枝に横棒をわたすように小枝を一本のせ、地面もしくは雪面にたてる。これは丁度キャンプなどで焚火に飯盒をかけるときのような枝の組み方だが、高さは「一寸」(約三〇センチ)もあればこと足りる。これは一種の鳥居であり、マタギは神聖視している。(根深 誠『山の人生 マタギの村から』)
秋田のマタギは、熊の体を沢ナリ(沢の流れの方向)にして頭を川下に向け、川を剥いでこれを体の肉にかぶせる。主催者のスカリが榊をもって唱えごとをするが、これをケボカイという。終わって皮の頭と尻とを持って上げ、手を離さずふり違えて頭と尻の方向を反対にして肉をかぶせる。ケボカイが終わるとくろもじの木から作った持ち串二本に、おのおの肉十二片ずつさし、火であぶってから山の神に供え、のちに各自がわけて食う。(ネリー・ナウマン『山の神』)
西日本では、熊の頭骨を二分して川の両岸に埋葬し、二分割された頭骨が合一したら祟ってもよいとか、頭骨の側に炒った豆を追いて、其の豆が芽吹いたら祟ってもよい旨の呪言を唱える。芦峅寺ではこのような儀礼は一切無かった。ただ、先のセンビキマンビキの供物儀礼の前に、熊を完全に仕留めたという意味と再生防止の意味合いをかね、心臓を二つに切る。翅前国小国郷の、熊の心臓の下端に十時の刻み目を入れたという伝承と通ずる。シベリアでは「熊を仕止めると、その歯を折り、鉤爪は引き離す。熊は奏してはじめて死んだものと考えられているので、狩人たちは安心してそのからだの上にのってタバコを吸うことができる」(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)この儀式が終わらぬうちは、熊は生きているのと同然であって、マタギはこの再生予防の儀が終わらぬうちに、現場にやってきたよそ者にも獲物を分けるという風習が残っていた。シベリアでも同様である。
ズリエンには、もと次のような習慣が有った。「もし局外者の狩人が、まだ仕止めた熊に歯や爪がついたままで置いてあるところへ来た場合、熊を仕止めた者たちと々だけ、獲物の分け前にあずかる権利をもつ」ロシア・カレリア地方では、まだ熊の「鼻面の環」をはずしていないところへやって来た者は、局外者でも獲物の分け前にあずかれるという規則がある。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)
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熊を送るという行為は北海道のアイヌにおいてもその作法が伝わっていた。祭主であるエカシ(長老)が捧げる祈りは次のようになる。
私の親愛な子グマよ。どうか、私の言うことを聞いてくれ。私は長い間おまえの面倒を見てきた。そして、今、イナウ、だんご、酒、およびその他の貴重な物を贈る。おまえは、おまえに贈られたイナウやその他のよい物の上に乗って、お前の父親と母親のところに行け。仲良くやり、両親を喜ばせよ。おまえが到着したときには、たくさんの神聖な客人をよび、大きな祝宴をしろ。おまえを養った私がおまえに再会できるように、この世界にもう一度戻ってこい。そうすれば、もう一度おおまえをいけにえにするために育てよう。私はお前にあいさつする。私の親愛な子グマよ。無事に出発しろ。(『アイヌの伝承と民族』)
日本語で「熊祭」と云っているが、アイヌは「熊送り」と云い、この響宴を珍客振舞(マラツトイベ)という。そのマラット(珍客)という語は、獲られた熊は訪れる神であると考えられるからの名である。(この考え方は古くは日本にもあって、その考えが、言葉とともに何時の代にかアイヌにはいってこうして今に保存されているのであろう。)供え物といえば、アイヌの熊送りがあります。「イオマンテ」と言われるこの儀式はアイヌ語では「それを送る」という意味であるそうです。熊祭は北海道のアイヌだけに伝えられているわけではない。山形県西置賜郡小国町で五月四日に「熊祭り」を行っている。東北のマタギのいたところは熊の信仰圏であり、アイヌ圏であった。ワッカ(酒とか水)・セッタ(犬)はアイヌ語と共通だという。金田一京助は、「山言葉はその地の古語を集成した古層に潜む伝承である事を私は確信している。」と述べる。里人が山に入るに際して、人の住む里(新しい囲い場)での言葉を拒否したのが本来の意味ではなかったか。山には重なる古層の魂(歴史)が意識されていたのである。里とは新しい概念であり、大和は相反する場所なのであった。とすれば、山の言葉を失うこと、つまり「マタギ」の不在は日本と山との決別であろうか。歴史に刻まねばならぬ。決して忘れてはいけない。頭では忘れられても魂が忘れられぬから、今でも人は休日になればふらりと山におもむき、神事といっては獅子を舞わせている。
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熊送りの儀式では、参加者全員が熊を余すこと無く平らげる。いずれも食べ尽くすことが礼儀とされ、一切残してはならなかった。供犠とはそういうものであった。供養するとは、食べた者が、生きることである。
マタギは仕留めた熊の血は、その場で飲む。熊の血を飲むとする伝承は、「かつての日本の熊狩り習俗には現前としてあった、北方文化にもつながる習俗である。全部食べるための作法も伝えられている。大腸を取出し、雪の上で中に入っている汚物を足でしごいて出し、空にする。この大腸に内蔵のまわりに溜まっている血を詰め、内蔵に取り憑いている脂肪などをともに詰める。これをナジといい、背負って宿に帰り、最初に調理して食べることとなる。腸詰めを鍋に入れて塩水で煮込み、時々箸を挿して腸が以上に膨張して爆発するのを避けながら煮込む。こうするとソーセージのように塊、美味しい食べ物になったという。食べる時はやはり輪切りにして食べるのである。持って帰った熊の料理は庭先で行ったり、熊料理専用の鍋、箸を用意するなどした。また調理をするのも男性である。これを著者は「女衆の場所(台所)を汚さない行為である。」という。山形県の五味沢では、還俗した山伏である法印を詠んで熊祭を熊宿で行い、湯立ての神事の後に熊料理を食べた。熊を女性の婦人病、精神病に使ったり、難産の時には熊の左手でおなかをさするとお産が軽いという。(根深 誠『山の人生 マタギの村から』)
湯立は宮廷でも行われていることから、中国から持ち込んだものであるかもしれないが、分布を見るとどうも熊と重なるように思える。都から地方の山へ赴いた行者達が、熊の風俗の下地があればこそ湯立という演出をしたと考えることができる。青森県の大川原の火流しも、いつのまにか神事となっているが、もともと神社は関与していなかったと、住民から直接聞いたことである。
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『古事記』上巻にイザナギが阿波岐原でみそぎされるに際して身につけていたもの、杖・帯・ふくろ・衣・褌・冠などを次々に投げ捨てる描写がある。身につけたものを身から外しとってゆくことが「みそぎ」だったことを示しているのではなかろうかミソギは裸になることであり、ハラウ、という行為は、死者に群がる虫をハラうことから始まる。新潟県朝日村薦川集落の狩人、小田甚太郎は熊狩りのヤマオヤカタである。甚太郎は春先の熊が冬眠から醒める伝承を次のように語る。「アオバエが出たら、田仕事が始まってどんなに忙しくても熊狩りに出た」。アオバエは山にいる大きなハエで、熊を獲ると一番最初に寄ってくるという。そして、皮を剥いで熊の魂を送るサカサガケを始めると、大量のアオバエが黒くなって、皮の裏側、肉の付いていた方に卵を産みつける。これを払うために、一人が近くの枝を切ってきて、ハエ追い棒にして振り回したという。剥ぎ身の解体を始めるともっと大量のアオバエが集まり、黒くなったという。もちろん、卵を産みつけられると困るので、ハエ払いが専門に払った。ミソギもハライも、元々熊に対しても行っていたものである。
葬るとは、命を込めることである。 身を削ぎ、払い、葬ることは、命を自分に込めることでもあったが、一方で、葬られた熊の命がなくなるわけでもなかった。それは頭蓋骨に魂として宿っている「もの」であろう。
イルカの頭骨を放射状に並べた前期の釧路市東釧路貝塚、小ピット中に加熱を受けた猪の下顎骨だけを一三〇個体分以上も並べた山梨県大泉村金生遺跡(後・晩期)、熊の頭骨を埋置した青森県むつ市最花貝塚、イノシシの頭骨を台石に載せた宮城県河南町宝ヶ峰貝塚がある。他のケモノと同様に、熊の頭骨を飾る事例が北陸から東北地方にかけて広く分布している。オホーツク文化と併存し、続縄文時代の後を担った北海道の擦文文化(一四世紀以前)ではどうか。熊送りの明確な証拠は擦文時代終末期まで遡ることができ、羅臼町のオタフク洞窟遺跡で熊の頭骨が並んで検出されている。十三体の頭骨のうおち計測可能な十体は三歳以上の成獣で雄七体、雌三体であったという。このことは山猟での熊送りの場であったことを示す。
頭蓋骨に秘められた力は、アイヌにとってカミの力であった。この〈カムイ〉は乳類の動物であったり、時には鳥や亀の頭骨でもつくられる。頭骨は、囲炉裏でいぶされた後、その汚れを落とされて〈イナウ キケ〉と呼ばれる〈イナウ〉の削り房で大まかにくるまれ、頭蓋骨の隙間や眼窩や口の仲にもこの〈イナウ キケ〉が詰められる。この〈イナウ キケ〉は、生命の根源である柳の生木の枝から削り取られたもので、その削り房の〈ラマッ〉に効力を持たせるためには、まず〈カムイ フチ〉に祈願しなくてはなりません。こうして出来上がった〈カムイ〉は〈シラッキ カムイ〉と呼ばれて、〈エプンキネ カムイ〉(守護神)としての役割を果たした。
神は人の為にあり、イナウは潜在的な木の生命が人為によって呼び覚まされた「もの」である。
北海道よりも北に暮らす人たちも熊を食べていた。しかし事情はさらに異なるらしい。ウスリー川・アムール皮流域に暮らしたウデヘ人の伝承だ。彼等も最後には、形見として、頭骨を残し、その命が常に失われぬように利用した。
いくつかの先住民族の猟師は、熊を獲ることはほとんどしなかった。それは、熊の霊魂の憤りを受け、自分も家族も皆が迫害され、猟に出ても獲物はなく、不幸が死ぬまで続くと信じられていたからである。しかし、春の終わり頃になると住まいにはだんだんと食糧が亡くなり、飢餓が迫ってくる。猟師は一人で熊の冬眠している穴を探しに行く。穴を見付けると猟師は家に戻り、誰にも一言も言わずに熊を獲る準備を整える。これをみている隣りの友人も一言も言わずにこの猟師と共に出かける。穴の中にいる熊を起こして殺し、木の枝をかけて次の麻まで穴に残してその日は家に帰る。そして、家に帰ってもひと言もしゃべらない。それは、熊が密林の主人公だから、冗談を行ったりする事が許されないのだという。熊の霊魂が腹を立てるようなことがあると自分も家族も迫害を受けて大変な目に遭うからである。次の日には熊が家に運ばれ、儀式の第二部が始まる。最初の日に肉を食べるのは成人男性だけである、二日目には子供達にもゆるされる。そして、三日目になって初めて女性が肉を食べる。その後、頭蓋骨には樹皮で作った眼鏡をかける。これは熊の霊魂を買収するのである。頭蓋骨はトーテムとして柱にかけたり木の幹にかけたりする。(赤羽正春『熊』)
木に掛けるという風俗は北方の狩猟民族の特徴であろうか。ウノ・ハルヴァは『シャマニズム』の「狩猟儀礼」という章でケモノの葬式とでもいうべき儀礼を細心の注意を怠らず行っていたようだ。
ラムートは熊の骨を注意深く集め、もとの骨組みの配列どおりにつなぎ合わせて、人間の遺骸とまったく同じように、森の中に設けられた柱の台上に億とボゴラスは書いている。オロッコもまた熊の「全骨格」を、そのために特別に作られた柱の台上に集めて、背骨を一本の柳の枝にとおす。ゴルドは樹上高く熊の骨をかかげる。その他、いくつかのツングース系諸族も同じ習慣をもっていて、ただ一個の骨もなくさないように注意する。
もちろん、獣であれば熊だけではない「いくつかのアルタイ・タタール種族は、四本の柱で支えた台の上に黒てんを載せて、その上に柴を被せる。一方、カラガスは黒点の肉と骨を樹上に懸ける。(略)プリャヤンスクのツングースも同様に、殺した狐の肉と骨だけのむくろを樹に懸ける」また家畜動物も野生動物と同じように葬られた。「ヤクートは野生動物の骨だけでなく、トナカイ・馬・牛の頭蓋骨もまた樹に懸けた。キルギス人は屠殺した馬や羊の頭蓋骨を、どこか高い所か柱の尖に載せた。ブリヤートは家畜の骨は家畜小屋の屋根に載せた。同じような風習はヨーロッパの農耕民にも認められるところである。」(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)ただ熊は人々に特別な感情を抱かせるケモノであるのだろう。
交わる
棲むことも、送ることも、食べることも、人と熊が交わることの一部であり、究極的には結婚する物語が生まれる。
韓国の檀君神話でも熊と人は交わる。熊と虎が人間になることを願って忌み籠りの試練を受ける。虎は途中で投げ出した。熊はよく耐えて人間の女に変身して桓雄と結婚して古朝鮮の始祖・檀君王検を産んだ。熊は朝鮮半島、アムール・サハリン地方の大陸と、日本をつないで共通の思惟をもたらした動物である。アイヌの説話を記録した知里真志保は「雌熊の神に猟運を授かる」という話や「熊神人妻と駆落」のなかで熊との婚姻によって人間が熊にどうかすることでこの矛盾を解決する事例を提示してくれている。アイヌの人々にとって熊と人は、婚姻関係によって同化した。(『説話・神話Ⅱ』)例えば、狩り小屋に帰って来た男が、自分以外いないはずの小屋から煙の上がっているのを見る。中には女がいて食事を準備してくれていた。男は女とともに床を並べて寝た。次の朝、女は小屋を出ていくが体を揺すると雌熊に変わる。木弊をありったけ小屋に結びつけて雌熊を送る。それからこの男は猟に恵まれるようになる。男は神様に巡り会ったことに感謝する。熊と婚姻関係が結ばれた事例である。
交わったあとに、女が産む時、かつては特別につくられた小屋に籠った。「ところが日本各地の民俗を見てくると、それはケガレではなく、出産の神秘の問題である。すなわちかつて女性が出産や月経に伴って別小屋に籠ったのは、ケガレとして遠ざけるためではなく忌み籠もりのためである。神聖な神祭りには斎戒沐浴が要求されたが、それは出産に伴うものと共通した忌み籠もりにあったという。」(瀬川清子『女の民俗誌ーそのけがれと神秘』)
産み小屋の風俗は、冬になると一人クラに入り、春がくると冬の間に生んだ子どもとでてくる熊の振る舞いと同等であると考えられる。真似をしたともいえるし、もともと人間と「家」の関係が、現代人の感覚と違っているだけかもしれない。さらに生むことに関して、桜井徳太郎は、巫女は神に身を献げたものであり、東北の口寄せ巫女は、神憑けの再に巫神と結婚式を挙げるとしている。(『桜井徳太郎著作集五 日本シャマニズムの研究(上)』)
川村邦光の述べる所では、
盲目の巫女は成巫女儀礼の完成の時点では白い花嫁衣装に身をつけることで、神の嫁であることが身体かされる。神の嫁としての心意を持つことが自覚できるようになるのだ。(略)一方で、宮城県のカミサマと呼ばれる西岸の巫女は、突発的なカミの憑依を体験して巫女になる。彼女たちは憑依体験の中でカミの妻もしくは愛人としてセクシュアルな心身感覚を抱くこともあるという。(「巫女とカミー憑依霊のジェンダーと来歴をめぐって」『ジェンダーの日本史(上)』)
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一体、ケモノとオンナとはただならぬ関係があるようだ。結婚させる話もあれば、オンナがケモノと関わることを忌み嫌う風俗もある。ウノ・ハルヴァは『シャマニズム』で「女と野獣」という章を設けて次のように書いている。
女と野獣との関係は、すべてのシベリアの民族を通じて、特にこまやかである。とりわけ月経や妊娠の期間は、男達の猟運はくずれやすい。女たちの無思慮によって、動物をよそに追いやってしまうこともある。トゥルハンスク地方のツングースの場合、女たちがそんな状態にある期間は、男連中は全く近寄らず、ときには特別の天幕を設けて別居することさえある。
こうした猟にまつわる「オトコ」の配慮には「オンナ」が「カミ」と同等の、「他者」つまり「オトコではない不思議なイキモノ」であるようだ。
「この他、狩猟、特に熊を狩るときの女が守らねばならないタブーがことこまかに書かれている。そしてそれらのタブーは「最初は女が男に比べて汚れているとか劣っているとかではなくて、女の保護がただ一つの目的であったことに気がつく。」と述べている。熊が子や絵運び入れられる時に歌うフィン系の熊歌は、あからさまにこううたっている。
かわいそうな女たちよ 気をつけろ
女たちよ お腹に気をつけろ
おまえの胎児をかばうんだ自然民族の観念によれば、諸霊は胎児の中に入り込み、女を利用して新たに生まれでるすきをつけねらっているから、女性が身を守るのは、同時に生まれ来る世代を守ることであると理解すべきである。そのことを教えているのはとりわけヤクートの観念であって、妊婦が熊の生皮に坐ると、ろくでなしのこどもが生まれるという。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)
日本のマタギにも同様の風習があった。
金子長吉に会った時、「九月二日、昼、猟犬セッターのいる自宅前の小屋のところで私を待っていてくれた。私を自宅に上げなかったのは家に居る山の神(奥さん)への配慮である。熊の話をするときは、男同士、奥さんと関係のない所で語る必要が会った。マタギというものは山の神に仕えるものであり、女のいないところで山とその奥義となっている熊の行動を語る必要があった。」(赤羽正春『熊』)
熊の手で腹を撫でるとお産が軽くなる、などというものは、熊を殺した後、熊が完全に危害を加えなくなってからの話であろう。何故女性は熊との接触を避けるべきだと考えられていたのか。立ち返れば、とても人間臭いドラマである。『シャマニズム』のなかでウノ・ハルヴァは「シベリアには、他の地方と同じように、熊が賢いのはもと人間であったからだと説明する民話が伝わっている。トゥルハンスク地方では、樹のまわりを三度這って熊の唸り声を真似れば、人間は熊に変ることができると言っている。ヤクートの場合には、倒れた木の幹の上を三度跳んで跨げばよい。熊の皮を剥いでみると、その毛皮の中は人間の体であったことがときどきあるとさえ語られている。ヤクートの話によれば、皮を剥いだ雌熊の体は女の体に似ていて、やはり女の乳房と足がある。」と書いている。思えば、獣の中でも二足で「歩く」のは、日本では熊くらいしかないのではなかろうか。
シュレンクが述べているように、ギリヤークは、熊祭の時、熊の模型にギリヤークの服を着せて、上座に据えるという習慣ももっていた。ギリヤークは熊祭がすんだ後、この像を特別の小さな建物の中に、あたかも守護霊を祀るようにして安置すると書いている。チュクチとコリャークの場合は、このお祭りの時、熊の毛皮を来た人間が熊になって現れる。コリャークもある地方では熊祭の時、熊の像をこしらえる。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』四〇二頁)
神を前にした演劇である。神とは、人の不安のことである。
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動物と人間が血を混ぜる物語は、人が動物を殺すことの名目となり、また動物の力を分けてもらっていることを部族に伝える繫ぎ手である。部族の不安を解決する、精神的な支柱であるシャマンの神威を高めもしただろう。シャマニズムの起源伝説として次のように鷲を描いている。
始めこの世には病気も死もなかったが、やがて悪霊が病気の資の鞭によって人間を苦しめるようになった。そこで神々は鷲を天から人間のもとに送って助けようとした。ところがせっかく救いの鷲が地に降りたのに、人間どもはそのことばも、その目的も理解しなかった。だから鷲はやむなく神々のもとに舞い戻って来た。そこで神々は、地上で最初に出会った人間にシャマンの才を授けるよう、鷲に命じた。鷲は再びやって来るとすぐに、一本の樹の下で眠っている女が目に入った。女は夫と別れて暮らしていたので、鳥はこの女と関係し、女は身ごもった。やがて女は夫のところにもどってから月満ちて男の児を産んだ。これが《最初のシャマン》となった。別の伝えによれば、この女自身、諸霊が見えるようになり女シャマンになった。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』四一九頁)
ブリヤード人には白鳥の出てくる伝説がある。語るというのは、過去の意味をとらえ直すことであって、人の「何故か」という疑問を解こうとする心が口をついて出てきたものである。
ある時三羽の白鳥が泳ごうとして湖水に降りて来た。白鳥は着ていた衣を脱ぐと、見事な女に変わった。そこで、岸辺に隠れていたホリドイという名の狩人が衣の一つを奪ってそれを隠した。白鳥の女たちはしばらく泳いでから、衣を着ようとして水から上がった。しかし衣を奪われた白鳥は、仲間が飛び去った後も、はだかのまま取り残された。そこで狩人は彼女を連れて行って妻とした。月日が経つうち、女は息子十一人、娘を六人産んだ。だいぶ経ったある日のこと、昔の衣のことを思い出して、夫に隠した場所を聞いた。男は妻が自分もこどもも置いて去るわけはないと信じて、女にあの不思議な衣を返してやった。女はちょっと試しに着てみるといった様子で衣を着た。するとたちまち、天幕の煙出しから舞い上がってしまった。家の上を跳びながら、女は残された者たちに呼びかけた。「あなた方は地上の物だから地上に残りなさい。だが私は天に産まれた身の上ゆえそこへかえります。」高く高く舞い上がりながら、「毎年は口調が北へ向かう春と、戻ってくる秋には必ず私のために特別の祭をするように。」と言い残した。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)
氏族の始祖として動物が語られている。
ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』で自身の経験を述べている。一九三〇年頃フィンランドに滞在中、それぞれ異なるヤクート氏族に属する三人の亡命者から、それぞれが特定の氏族動物をもっていることを聞いた。すなわち、一人は鷲を、もう一人はからすを、三番目の者は、足が白く、頭のてっぺんに白いはんてんのある茶色の牝牛をもっているということであった。また「アガピトフとハンガロフは始祖の父として、なおボハ・ノヨン(牛主)という名の存在や、大神や、たらめんたい(タラ科の淡水魚)を挙げる。ボハ・ノヨンについてはシャマンが見事な伝説を語り、ブリヤード人が供物を捧げているが、これは牝牛とも、あるいは人間とも言われ、ハンの娘に産ませた男の児がブラガト氏族の始祖になったとされる。《鷲王》などを兄弟にもつ《牛王》はすでにウイグル人の伝説の世界では、そこの王族の始祖として述べられている。」
自分が狼の子孫であると考えた氏族や部族はシベリアにはいくつもあった。例えばウイグルの起源伝説は、匈奴の王が自分の2人の美しい娘に土地の英雄達はふさわしくないと考えて《天》に捧げたところ、《天》はそれに対しておとめたちに一匹の狼を送り、狼はおとめたちをウイグル人の始祖の母にしたと伝えている。(略)東部アルタイに住むベルジト族もまた一匹の狼の子孫であるという。チンギス・ハーンの始祖がすでに灰色の狼だと言われている。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』四二四頁)
演じる
マタギは熊を獲ったという合図、鬨の声をあげる。ヨーホーを皆で発する。他にも「ダイリョウ、ダイリョウとか、ショウブ、ショウブ、タヨー」などという言葉を使う。朝日山麓金目では「熊を獲って降りてくると、村が一望できるマギノ平という場所に狩人が集結して、全員でオーイ・オーイ・オーイと三唱する。村人はこの声が鳴り響くと同時にどこの家からも全員が出て、オーイ・オーイ・オーイと返す。この際、お互いのオーイがマギノ平の狩人と里の村人が揃って唱和されないと、山から帰ってこれないものだといわれていた。(赤羽正春『熊』)」行為の意味、名目、理由などは後から変わるが、習慣は生活と共に固定されやすい。言葉も変わるだろうが、「境目」に至った時に何かしらを唱えることは、人が自分の心の不安を取り除く動作であった。
アムール渓谷の諸民族の場合、熊の食事に続いて、数々の「滑稽な」儀礼が行われるとマークは述べている。そのもっとも珍奇なのは、熊を迷い込ませようとするものである。ヤクートは熊の肉を食べ始める時、声を立てて熊を欺そうとすると、ポターニンは述べている。そのため、男達は宴会にやってくると「クーッ、クーッKuk!Kuk!」と言い、女たちは「タク、タク tak! tak!」と言う。こうしてからすの鳴声をまねて、人間ではなく、からすがその肉を食べに集っているのだと信じさせようとすつ。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)
アンガラ川上流のツングースも、同じようにしてく間の祝いを行う。獲物をもって森から出てくると、すぐに狩人たちは「クーッ、クーッ Kuk!Kuk!」と叫び、その朗報の先駆けを聞いた野営地の一同は、一斉に天幕から出て来て手を振り、「クーッ、クーッ Kuk!Kuk!」と叫ぶ。男達が熊の肉をばらしに取りかかった時もやはりまず「ウフー uhuu!」と叫び、続いて「クーッ Kuk!」と叫ぶ。ある地方のツングースには、熊の響宴に参加した物は鳥が羽原クのと全く同じように手を振り、空中に飛び回るようにしてからすの鳴声をまねるという風習がある。そのため、熊祭の参加者は《からす》と呼ばれる。(略)オスチャーク・サモエドは熊の毛皮と頭蓋を天幕の億に置いて、白樺樹皮でその目を多い、その眼をついばんだのは、そこへ飛んで行ったからすであるとごまかしていう。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)
この飛び回る振る舞いに対する人間の意味付けは「ごまかし」であるという。「私は人間じゃない、だから恨むな」といって熊の霊を目の前に演じている。儀式というのはカミを目の前にして演じることであって、演じている本人は、自分たちの不安の心を舞台に出しているのだ。同じ北方狩猟民族であったアイヌは既に多くの儀式を失っていたが、シベリアの北方民族は今でも熊祭が存続しているらしい。以下、ウノ・ハルヴァの『シャマニズム』から引用する。
熊の宴会に続いて、各地にはまだ重要な行事、すなわち熊の骨の保存というのがのこっている。そのとき、狩人たちはふつう、葬式から返って来たときと同じように身を清めるのである。もちろん、何れの場合にも意味は同じである。キヨメの最も普通の方法は杜松かシベリア唐松の煙で燻したり、火の上を跳んだりして行う。狩人達は自分に身を守るため、家へ返る時に熊の最後の休息所へ向かって射る。カラール人は、木に懸けた熊の頭蓋を射るということである。ツングースの熊の狩人は、年長者から順に、殺した熊に向かって弓を射る。このような弓射の風習は、フィン人の場合にも記録されている。たとえばカレリア人は、熊の胸部を切り開いて、その血で松の樹に十字を描いて、それを目がけて何度か射る。ところによっては、熊の脾臓を立てて標的にする。(略)こうした弓射の風習がすべてもっていた元来の意味は、おそらく単にみずからの保護につきるものであっただろう。
熊が殺されると直ぐ、猟人はまたまた自分が無罪であると言いはって赦しを乞いながら、熊をねぐらから引きずり出す。ラムートは「和解の儀」をおこなって、特別の宥めの歌をうたうとボゴラスは述べている。イェニセイ警告のツングース狩猟民は、熊を殺した後、しばらく穴を離れてから再びもどって来て、たまたまそこを通りがかって熊野死んでいるのを見つけたようなふりをする。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)
人は動物の霊を怖れた。怖れるが故に、客としてもてなそうと人類皆おなじように考えるようだ。そのとき、動物はもはや動物でなく、人間のようにもてなされ、振る舞われる。
イオーノフによれば、もしヤクートの狩人が、狐が罠にかかったのを見ると、家についてもすぐに中に入らず、外にとどまって、戸を叩きながら、「森の霊がくれたんだ」という。すると家にいる者は何のことかすぐにわかって、バターその他の食物を森の霊への供物として、かまどの火に投じ、帽子を一つ、家からもってでる。狩人達はこの帽子を捕まえた狐の頭にかぶせて、自分たちの衣服の裾で、それを被いながら、家に運び入れ、獲物の顔を火に向けないように注意する。小屋の奥の炉のうしろで狐の頭を切り離し、その毛皮は壁ぎわの長椅子に、まるで名誉ある賓客でも扱うように於き、翌日同じような儀式を行って納屋に運び入れる迄、そのままにしておく。別の報告によれば、ヤクート人は狐を窓から部屋へ運び入れる前に、前庭で銀の頸飾りをつけさせ、婦人用の毛皮外套と着せる。ブリヤード人は、特別の口から家の中へ黒てんを入れる時「客人の御到来だ」と言う。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)
素性のはっきりした熊は特別の御馳走を作って祝い、死んだ熊を宥め、とりなし、愉しませるが、もちろん畏れのために行う多くの儀式もまつわっている。(略)サガイ人ともまた、死者に対して行うのとまったく同じように、熊にも「葬式」をしてやるということである。かれらは意一晩中飲み食いし、かつ歌っている間、死んだ動物の《魂》もまた響宴に加わり、こうしたすべて見たり聞いたりしていると信じている。熊の性別によって「私のおじさん、年寄りは死んだ」とか「年寄ったおばあさんは死んだ」とか言って嘆く。(略)響宴にはもっぱら熊の肉が供され、それは翌日まで残してはならない。そのため、ラムートはすべての隣人を響宴に招く。ラップもまた同様の慣習に従っている。(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)
アイヌの熊祭にも持てなしの振る舞いはなされるが、どうも美化されている。ウノ・ハルヴァが『シャマニズム』で書き出す世界はまさに熊の一方的な力に対して人間がヘリクダリ、ナダメ、ユルシテモラウ世界である。そして願わくば、また殺されてはくれないか、私がこうして蘇らせたのだから、君の命をまたくれないかという打算である。
フィエルストレームは、ラップはすべての骨をその正しい位置に並べ終えると、熊に去って行くように言い、また他の熊にもどれほどもてなしをうけたかということを話して、他の熊が怖れて逆らうことなく、喜んで捕まるように教えてやってくれと頼むのであると述べている。熊の骨を樹に懸けながら、ゴルドは「怒らないでくれ、おまえにはちゃんとしてやったぞ。俺たちのところへもっと熊を連れて来て、捕まえさせてくれ」と言う習わしである。フィン系のある熊の歌の一節も同じ内容なものである。
言え、ここを去って
森へ帰った時には
あそこでは誰にもいじめられなかった
食べ物には蜂の巣を
飲み物には甘い蜜をくれたんだとさらに、骨を注意深く保存してやった熊は「またよみがえって、再びそれを射つことができる」とラップは信じていると伝えられている。同じような観念は、他の自然民族にもある。インディアンは射止めた野牛の骨を草原の上にもとの配列のままにしておき、こうすることによって翌年の猟期には再び生き返ることを望むと言うことである。
骨を元通りにするというのは、殺した熊が生き返ることを願う気持ちであり、行為である。勿論生き返る筈もないが、言葉を掛け、骨を並べることによってしか人は心を平和につなぎ止めることができなかった。ところで客としてもてなすのはいいが、熊は特別で、他のケモノとは異なり人を食べる。熊を殺すことは、熊に食べられた人の霊をどうするかという問題になる。その一つの答えが次の如くである。
「人間を食べたためにその《魂》が入り込んでいるかもしれないような熊は、シベリアの諸民族はまったく食べようとしないだけでなく、完全に滅ぼしてしまうのが普通である」(ウノ・ハルヴァ『シャマニズム』)